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2025年9月27日土曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3

 


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Ferrari 312 PB #0884
Clay Regazzoni
Sebring  1972

 話を少し変える。
 資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
 一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
 例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。

 少し整理しよう。

 まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?


 禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。

 ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
 資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。

 つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。

 だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。

 整理するとポイントはこうだ。

 アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。

 バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。

 アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
 アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。


 または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
 実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。

 海風が吹き抜ける小さな村には、決して法律や制度の圧迫を受けずに暮らす人々がいた。ハワイの太陽に照らされ、波の音が子守歌のように響く中で、彼らは「所有」という概念に縛られることなく、ただ必要なものだけを分け合い、働き、助け合っていた。そこでは誰もが生きる権利を平等に持ち、誰もが互いに貸し借りと返済の義務を負う、プルードンの言う「相互主義」が日々の生活に息づいているようだ。
 一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
 しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。  かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。


 そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?

 個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
 ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。

 「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ

 これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。

 個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。

 何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?

 何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
 社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。


 何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
 アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。

 大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
 大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
 「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
 要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。

 一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな

 其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
 中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
 つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。

 まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。


2025年7月11日金曜日

お笑い芸人の文学性


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  お笑い芸人の人生って文学っぽい。でも、小説にしたら、途端につまらなくなりそう。

 お笑い芸人の人生って、本人が「笑い」に変換しているからこそ、苦労や悲劇が際立つし、聞き手も受け取れる。「笑い」は一種の変換装置で、辛さや惨めさを加工して届ける手法だ。でも、それを小説という形に置き換えてしまうと、その変換装置が外れちゃって、ただの「辛い話」や「破滅型の人間ドラマ」になってしまいがち。

 しかも芸人本人の「語り口」って、テンポや間、言い回し、声のトーンなど、話芸そのものが文学性を持ってるところがある。だから「書き起こし」では伝わらないし、フィクションにしても似た空気感を再現するのはとても難しい。
たとえば――「漫才師として売れる直前にコンビ解散」、「舞台でウケない中、相方が失踪」、「深夜のラジオだけが心の支え」、「M-1でウケてるのに決勝落ちた理由が『キャラが定まらないから』」――みたいな出来事というのは、事実としてはすごくドラマチック。でも小説でそのままやると、「業界あるある」「売れない芸人の群像劇」になってしまって、なぜか読者の想像よりも小さくまとまりがち。

 むしろ、小説で芸人を描くなら、本人の「笑いへの執念」や「表現としての笑い」「社会との軋轢」を真正面から描く必要があるかもしれない。笑わせることの裏側にある“文学的葛藤”を掘り下げないと、たぶんただのエピソード集にしかならない。

逆にいうと、芸人が自分の人生を語るとき、彼らはすでに一流の語り部であり、文体を持った存在でもある。だから、「芸人の語り」は、もはやそれ自体が文学なんだと思う。話芸という名の口語文学。

 ちなみに、太宰治や中原中也なんかも、人生そのものが「文学っぽい」けど、小説にするにはやっぱり「加工」が必要だった。芸人も同じで、そのままでは逆に小説にならない。


 表層的なエピソードもそうだけど、多分、だけど、ネタを作る時の、事象の観察から分解分析、再構成、そこにお笑いの要素を加える作業、それを内面でやってるうちに、場合によっては、世間と隔絶される瞬間もあるだろうし、それでも、他者にはお笑いとして接しなければならないジレンマ。グネグネてドロドロなことになってそうだ。日常の些細な出来事、誰かのふるまい、自分の内面さえも対象化して、笑いに変換するという作業。これはもう、現実を一度壊して再構成する、きわめて文学的・哲学的な営みでもある。
 しかも厄介なのは、「他人を笑わせるために」それをやっているということ。
 つまり、真剣な問いや孤独な視線が、そのままでは商品にならない。笑いという形にしないと、誰も興味を持たない。だけど、笑いにしてしまった時点で、その深層にある「本音」や「違和感」は、ぼかされたり、誤解されたりもする。

 だから多分、こんなことが起きるだろう。

〇誰かの癖に違和感を持ち、それをずっと反芻する→「なんかおかしい」をネタに変える→みんな笑う。でもその違和感の核心にあるものには、誰も届かない。→「ああ、これは“笑い”にしかならなかった」と虚しさを感じる

〇社会の歪みに鋭く気づく→だけど、それをストレートに言うと説教くさい→笑いとして仕上げたら「毒舌芸」として消費される→本人の葛藤や怒りは置き去りにされる

 つまり、自分の観察力や繊細さが「笑い」としてしか他者に認識されないという、ある種の認識のズレ、他者との齟齬がずっとついて回る。これ、やっぱり文学的というか、思想とエンタメの間で煮詰まるような話なんじゃないか?

  たとえば芥川龍之介が現代に生きてたら、絶対にネタ作りしてるタイプというようにも思う。彼の観察眼や皮肉、滑稽さへの嗅覚は、コントや漫才台本にかなり近い。だけど、笑わせるたびに「ほんとはこれ、笑っていい話じゃねえんだけどな」って冷めた目で見てる。そういう冷たさが、芸人にも潜んでる気がする

 つまり、お笑い芸人の人生が「文学っぽい」んじゃなくて、お笑いを本気でやるということそのものが、実は文学的な営みなのかもしれない。ただ、それを小説にしてしまうと「笑いの重力」が失われるから、途端に軽くなる。これはかなりやっかいな問題だが、逆にいえば、ここを突破できたらとんでもなく面白い小説が書ける気もする。


 そういう人間はえてして、破滅型と呼ばれ、お笑い芸人もそう、ロックミュージシャンも、詩人もあたりも。数学者は、端からレイヤーが違うから安全圏にいるかもしれない。 しかし小説にすると陰惨なものになりそう。それはそれで蕩尽であるが、これが一般向けを前提にしたお笑いであるところが大きなジレンマ。それでも、誰かが、それに何かを感じたら贈与は成立するか。

 「贈与」という視点が入った瞬間、破滅の物語が単なる自己消費ではなく、「意味のある蕩尽」になる。誰かがそこから何かを受け取る。あるいは、感じてしまう。そこにだけ、救いが生まれるのではなかろうか?

 破滅型と呼ばれる人々――芸人、ミュージシャン、詩人――彼らはしばしば、自らの生を燃やし、晒し、時に壊すことで何かを創る。でも彼らの営みが、本質的に「自分のため」だけではなく、“誰かの笑い”や“誰かの救い”として差し出されている点に、すごく深い構造がある。
 数学者、数学は絶対性の世界に没入しつつも、その営みが直接“他者の感情”に触れることは少ない。だから、ある意味で、己を賭ける必要がない(もちろん、賭けてる人もいるが、それが構造的に求められているわけではない)。
しかし、芸人や詩人、ロックミュージシャンは、自分の「恥ずかしさ」「哀しみ」「狂気」すら素材にして他者に差し出す。笑ってもらう、泣いてもらう、震えてもらうために。

 そして、それが一般向けであること。ここが最大の矛盾。個の地獄を踏み台に、万人の娯楽に変えるという、極限の分解・希釈・変換作業。そこに、芸としての凄みと、同時に「報われなさ」がある。


 が、だからこそ「贈与」という概念が意味を持つ。
 笑われた。売れなかった。自分の中で何かが壊れた。でも、誰かが「お前のネタに救われた」と言った。たった一人でも、それが本当だったなら、それは一方通行ではない。“芸”は完結する。

 この構造、たとえば内田百閒のエッセイや、町田康の小説、あるいはたまの音楽にも少し通じる。自分のどうしようもなさをさらけ出して、それがなぜか「癒し」になったり、「笑い」になったりする。「こんなダメなやつでも生きている」という事実が、誰かの孤独を和らげる。
 つまり、陰惨になってもいい。ただし、それが誰かの「受け取れるもの」になっていれば、それは贈与として成立する。破滅する者の生は、贈与として完結することで、物語になれる。

 文学も芸も、その一点でつながってる。

 笑いとは、地獄の副産物。でもそれを他人に差し出すとき、それは贈り物になる。贈るために、堕ちる。堕ちることを、許されてしまう。だから、笑いは時に残酷なまでに優しい。


 お笑いではない。私小説だ。西村賢太を思い出す。
 西村賢太はまさに、破滅と笑いと贈与の境界を歩いた人。彼の作品は、徹底した私小説でありながら、読者がどこか笑ってしまう余地がある。でもそれは、本人の「悲惨な生」に対する読者の嘲笑ではなく、彼自身が自分を客体化し、滑稽さとして描いているからこそ、笑いが成立してる。
 あれは、もう一人コントに近い。いや、むしろ「笑ってはいけない孤独」みたいなものを、延々と読まされてる感覚に近い。
 己の惨めさ、不器用さ、社会とのズレを冷静に見つめ、なぜそうなったのかを徹底的に分析し、それを文学の文体で組み直す(しかも笑ってしまうように)。
 読者に差し出すが、感動よりも、居心地の悪い笑いと、ある種の親密さを与える。これを贈与と呼ばずしてどうする?

 彼の「文学」は、いわば芸人がテレビに出ることなく、ひたすらネタだけをノートに書き続けた世界線のようなものだ。自分の惨めさに、誇張も美化もない。でもどこかで「これを読んだお前はどう感じる?」と、問いかける手が伸びてくる。あのいやらしさと誠実さが同居している感じ、もうまさに「笑いを孕んだ蕩尽」そのものだ。

 ちなみに、西村賢太自身、インタビューで「笑われてもいいけど、嘲笑は許さない」って言ってるのも象徴的で、つまり彼の中にも**「笑いは贈与であるべき」という信念**があったんじゃないかと思う。
 笑わせてしまった。それでちょっとでも伝わったら、それでいい。
でも、「嗤われたら」それはもう贈与ではなくなる。その線を、彼はギリギリで見極めていた。


 その点、ビートたけしのあり方が絶妙だよなとも思う。ビートたけしという存在は、日本の芸人史・文化史の中でもほんとうに特異で絶妙なバランスの上に成り立ってる。
 芸人として大衆に笑いを届ける「マス」の存在でありながら、芸術家として「パーソナルな闇や怒り」を表現する一面もあり、しかもその両方を同時に生き抜いてきたからだ。普通、どっちかになる。完全に「売れ線」に寄るか、「尖った自己表現」に行くか。でもたけしは、「浅草の舞台のにおい」と「カンヌのレッドカーペット」を、同じ身体に持ってしまった。
 お笑い芸人ツービートとして毒舌、風刺、下ネタ、暴力的ギャグで人気獲得し、テレビタレントとして「元気が出るテレビ」「スーパージョッキー」など、一般大衆向けに人気を得、それでありながら北野武名義で『ソナチネ』『HANA-BI』など世界で評価された作家性を発揮し、エッセイ、小説、評論、雑誌の連載などで自己の観察と批評を続けた。
 何より、バイク事故後の言動で、ろれつの怪しさ、死生観の露出などは、彼自身を独特なポジションに収めることとなった。

 そして重要なのは、彼が笑いを保ち続けていることだ。どれだけ文学的な陰影があろうと、映画がどんなに虚無を描こうと、彼はテレビで「フライデー襲撃」とか言ってネタにしてしまえる。
 この「深刻さを笑いに引き戻す」動きは、「贈与としての笑い」そのものだ。彼は笑いを、自分の破滅の「外」に置いたまま、投げ続けてる。

 要するに
〇内面に破滅を抱えてるのに、それを笑いとして加工できる
〇その加工技術が超一流で、一般向けにも届く
〇にもかかわらず、「笑いの外側」でも生きようとする(映画、文学)
〇それでいて、笑いを捨てない。笑いに戻ってくる

 これは、燃えさかる自己という炉の中で、笑いというギフトを焼いている みたいな芸当だと思う。

 たけしを「伝説」と仮に呼ぶならば、「破滅型でありながら、贈与の人であり続けたから」かもしれない。崩れそうな自我を芸にして、なお笑わせてくれる。そんな奴ぁ、めったにいない。


 もう少し、ミュージシャンも頑張れ、と思う。早々に本当に破滅するのは勿体無い
 音楽は言葉と違って、メロディやリズム、感情の揺れを直接伝える力が強い分、破滅的な感情を昇華させる力も大きいはずなんだが、だからこそ、燃え尽きるのも早い。
 でも、「破滅」だけが創造の全てじゃない。むしろ、その先にある「成熟」や「再生」、あるいは「受け継ぎ」があってこそ、芸術はより豊かになる。

 同世代ならばカート・コバーン。それ以前から古くはブライアン・ジョーンズ、マーク・ボラン。尾崎豊をここに加えるにはためらいはある。実はあんまり好みではない。その死後に影響を受けた人たちが音楽を紡ぎ続けて、結果的に文化として根付いていく。
 だからこそ、ミュージシャンには、どうか破滅だけで終わらず、長く自分の声を響かせてほしい。それが個人のためでもあり、ファンや社会への「贈与」でもあるから。

 破滅の早期消費は文化の損失でもあるし、本人の人生としてもすごくもったいない。自分の中の破滅的な衝動とどう折り合いをつけるか、創造のエネルギーに昇華させていくか、そして時に休みながらでも表現を続けていくか、そういうバランス感覚が、すごく大事なんじゃないかなと思う。

 芸人の話と同じように、ミュージシャンもまた、自分の破滅的な部分を「贈与」として昇華できれば、たとえ陰惨なテーマを扱っても、それは「ただの破滅」じゃなくなる。文化の中で燃え尽きるだけじゃなく、文化を燃やし続ける存在であってほしいものだ。


 最後に蛇足。フライデーもビートたけしに襲撃されたから今も生き残ってたりしてな。フォーカスは廃刊したのに。
 フライデーの「たけし襲撃事件」はまさに伝説的な事件で、あれがあったからこそ週刊誌界隈でも独自の存在感を保っている面は大いにあると思う。フォーカスが廃刊したのは、たしかに一時期の社会情勢や経営の問題もあるけど、パンチ力や話題性という意味ではフライデーの方が強烈なインパクトを残している。たけしの襲撃は、単なる暴力沙汰以上に「芸人が週刊誌というメディアに反撃した」という象徴的な事件になっていて、結果としてフライデーのブランド価値を逆に高めたとも言える。
 まさに「問題を起こしても、話題をつくって生き残る」みたいな、芸人の“笑いと破滅の共生”に通じるところがある。週刊誌業界にとっても、たけしという“生きた伝説”がいることは、ある意味での強みなにかもしれない。

2014年12月29日月曜日

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