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2025年8月17日日曜日

寝取られ幽霊 第4話 地獄巡り 下


 清彦は、かつての坂本家の玄関先で立ち尽くしていた。秋の午後の日差しが残酷なくらい穏やかに降り注いでいるが、どうやら、本当に残酷な事柄というのは、こういう穏やかさの中でこそ起こるのだと、蓮は今日の夢を見ているうちに予感するようになった。

 テレビのドラマのように、不穏なBGMなんてない。遠くで鳶の鳴く声が聞こえてくるのと、時折風が木の葉を微かに揺らす以外、いや、何やら家の奥で口論も聞こえるか。現代のように道を走る車の音があるわけではない、近所の子供が遊ぶ声が聞こえるわけでもない。そんな午後の風景を、映画か舞台演劇を観るように蓮は眺めていたが、場面は変わる。


 清彦より一年以上前に大沢辰造と共に復員した佐久間秀幸が現れる。時間もそれくらい巻き戻っているようだった。


 やや早回しに場面は展開する。


 佐久間が復員船で舞鶴に上陸したのは、1945年末から46年初頭のことだった。港からまず舞鶴線に乗り、綾部を経て山陰本線で京都に出る。

 そこからは東海道本線・山陽本線を伝って大阪、神戸、岡山、広島と、西日本の主要都市を経由して下関へ向かった。

 当時の復員輸送は急ごしらえの編成で、車内は兵士たちで溢れ、立ったままや通路に座り込んで移動するのが常だった。網棚の上にまで人が寝そべり、天井のつり革や手すりにしがみつきながらうとうとする者もいた。蒸し暑い空気と汗の匂いが充満し、窓を開ければ煤煙と寒気が吹き込む。立錐の余地もない車内では、一人が動けば列全体がぐらりと揺れ、互いの体温を感じながらじっと耐えるしかなかった。駅ごとに炊き出しや地元の人々からの握り飯の差し入れがあり、それに支えられながらの旅である。


 やがて列車は門司を過ぎ、鹿児島本線を南下して博多駅に滑り込んだ。薄曇りの冬の空の下、佐久間は荷を抱え、人波に押し出されるようにしてホームに降り立った。駅舎の壁には煤けた跡が残り、吹き込む風はどこか焦げた匂いを運んでいた。


——空襲か。

  春先の、あの噂は本当だったのか。

 ここから先は、もう自分の足で確かめるしかない――。佐久間は人々の流れを外れて駅前に立ち尽くし、胸に広がる不安を押し殺しながら、焼け跡の街へと歩み出していった。


  佐久間は背嚢を背負い直し、真っすぐ家の方角を目指す。

  足は自然に動いたが、道は記憶のままではなかった。広かった通りは瓦礫で狭まり、焼け落ちた材木の黒い骨組みが空に突き出している。

  ——ここは、本当にあの通りか?

  小学校の角を曲がると、さらに胸が締めつけられた。校舎は屋根を失い、校庭は灰色の土に変わっている。かつて子供たちの声が響いた場所に、今は風が唸って通り抜けるだけだった。

 家があったはずの界隈に近づくと、地図が頭の中から消えていく。あの薬屋の角も、八百屋の軒もなくなっていた。目印を失い、佐久間は瓦礫の海を漂うように歩き回る。

  「……違うか、こっちか……」

  独り言を繰り返しながら、焼け跡を踏み越えていく。足元で瓦が割れる音が、やけに大きく響く。

 やがて、立ち止まった。

  ここらが——そう、このあたりが、あの家のはずだ。土間があり、柱の奥に仏壇があって、夕餉の匂いがした。

  しかし、今そこにあるのは、煤に覆われた地面と、半分溶けた茶碗の破片だけだった。

 後ろから声がした。

  「お探しかね」

  振り向くと、腕に包帯を巻いた老人が立っていた。

  「この辺りの人で、生き残った者はいないよ」

  あまりに簡潔な言葉だった。だが、それで全てがわかった。

 佐久間の膝が、がくりと地面についた。掌が灰を掴み、指の隙間からざらざらとこぼれる。頭を抱えた。額に力が入りすぎて、こめかみが痛む。

  胸の奥で何かが煮えたぎるように熱くなるのに、涙は一滴も出なかった。

  代わりに、腹の底から声がせり上がってきた。

  「おおおおおおおおおっ——!」

  それは言葉ではなかった。

  怒りでも、悲しみでもない。

  全てを押し流す、どうしようもない虚しさが、声になって空へと突き抜けた。

 周囲の瓦礫が、その絶叫を吸い込み、反響させる。鳥が一斉に飛び立ち、遠くで犬が吠える。

  佐久間は、声が枯れるまで叫び続けた。

  灰と煤の匂いが喉を焼き、胸が裂けそうになる。

  それでも叫ばずにはいられなかった。


 清彦の、つまりは蓮の実家は熊本市内とはいえ、郊外にあり、空襲の被害は免れた。しかし、清彦と同じ大学学部を出て(若干佐久間が後輩にあたる)正式なものではないが、なんちゃって軍医をしていたのも同じ。

 清彦は脚を失い、復員も随分と遅れてしまったが、実家は無事だった。佐久間は五体無事に復員できたが空襲で一切合切を失ってしまった。

 何が幸運なのかわからない。


 否、幸運なんてあるものか! 理不尽が多少形を変えてふりかかっているだけじゃないか!



 再び、実家の玄関前にたたずむ清彦の場面に戻る。


 蓮にとっての祖父は、清彦の息子の清志郎であるし、生前の事は知らないが、長い間曾祖父と教えられていたのは、清彦の弟の清司だった。この際だから、蓮は清彦の事を”彦爺”と呼ぶことにした。見た目30歳くらいの幽霊ではあるのだが。



 ひとり。清彦の母、ツヤが玄関から出てきた。


 引き戸の外側まで出てきたところで立ち止まり、清彦をじっと見つめた。ただの一瞬のようでいて、その視線は永遠の長さを持っているかのようだった。

 そこに立つのは、まぎれもなく我が子であるはずなのに、戦地に送られて二度と戻らぬと覚悟したままの「清彦」でもあった。

 目の奥がかすかに潤む。けれども、それを涙として溢れさせてはならぬと、自らに言い聞かせている。唇が震え、今にも「おかえり」と言いそうになるのを、喉の奥で必死に押し殺す。その代わりに、やっとの思いで声を絞り出した。

「……清彦は、戦で亡くなったとば言い聞かされとる。皆、そう思うとるとよ。親戚も、近所も……」


 わずかに震える声。声の端が、泣き笑いのようにかすれていた。

 それでも彼女は涙をこぼさない。母は泣いてはいけない。泣けば、これまで必死に積み重ねてきた「生き残った者として、死者に対する日常」が崩れてしまうからだ。


 ツヤはそっと懐に手を差し入れた。取り出したのは、使い古された茶封筒。角はすり切れ、指に長く触れていたために光沢すら帯びている。そこに入っているのは、何やら一枚の書付と、わずかばかりの紙幣であった。紙幣は皺だらけで、幾度も数え直した跡がある。


「……お父さんの縁のあるお寺よ。……ここで世話になりなさい。うちには、もうあんたの居場所はなか」


 言葉は冷たいようでいて、その指先は小刻みに震えていた。母として拒まねばならぬ立場と、どうしようもなく息子を抱きしめたい思いとが、身体の中でせめぎ合っているのだろう。

 清彦の手に封筒を押しつけるとき、ツヤは一瞬だけ、その手の甲に触れた。だがすぐに視線を逸らし、踵を返して奥へと身を引く。

 背中はまっすぐを保とうとしているのに、肩のあたりが小刻みに揺れていた。

 けれど、彼女は決して振り向かない。振り向けば、堰が切れてしまうことを知っているからにちがいない。


 清彦は、無言で深く、しばしの時間首を垂れた。


 やがて顔を上げたとき、彼の目には涙も怒りも浮かんでいなかった。ただ、夢を歩いている者が、ふと空の模様に見とれるような、どこか現実から切り離された淡い表情だった。


 秋の陽射しが斜めに差し込み、杖の影が細く伸びる。清彦はその杖を頼りに、静かに実家を離れていった。一歩ごとに、土間の音が遠ざかり、家の匂いが薄れていく。

 後ろから慌ただしい足音が迫った。

  「兄さん!」

 振り返る間もなく、若い影が清彦の前に飛び出してきた。弟、清司だ。思えば、清彦は、出征前から清司の、春江に対する淡く若い恋慕に気がついていたような気がする。清彦が戦死したと知らされたのであれば、こうなることもごく自然な事のように思われた。


 彼は道に膝をつき、地面に額をこすりつけるようにして土下座した。

  「兄ちゃん……兄ちゃんに、なんと詫びればよかか……!」

  声は涙でつぶれ、言葉にならない。

 清彦は、じっと弟の背を見下ろしていた。片脚を失っては、視線を合わせるためにしゃがむこともままならぬ。かろうじて、肩に手を置き、穏やかに、ただ淡々と口を開いた。

 「……春江と、清志郎を頼む」

 命令でもなく、懇願でもなく、ただ一つの願いを託すように。


 清司の背中が震え、地面に落ちる涙が土を濡らした。


 清彦は、それ以上言葉を重ねず、土下座する清司をそこに置き再び歩き出す。



 なんてことだ! 蓮は自分の曽祖父の代に起きていたことに対し、どう考え思えばいいのか、夢の中なりに混乱した。あまりに、誰も救われなさすぎじゃないか! 自分の事ではなかったが、怒りであり、悲しみであり、寂寥でもあったし、どれでもなかった。

 そして、彦爺、どうしてこうも静かなんだ?



 夕刻の風は乾いて、耳の奥に虫の声だけを残す。途中の小さな社で足を止めると、拝殿の軒がちょうど雨風を避けるにほどよく、清彦はそこを借りた。賽銭箱の脇に背を預け、杖を横に置く。木の匂い。注連縄の藁に残る手触り。袖口から入り込む冷え。腹の虫が鳴り、遠くで犬が吠え、どこかの家の戸が一度だけ軋んだ。

 同じ野宿だというのに、あのビルマでの半分濡れた泥濘に漬かり、敵兵におびえながらのものを思えば、何と平和な事か! ひょっとしたら清彦は初めて日本に帰ってきたことを実感したのかもしれない。

  夜が降りきると、鳥の気配も消えた。星が軒の切れ間にいくつか見え、それを確かめるように目を閉じた。


 ここからは10倍速。

 朝もやを割るように歩き出す清彦。

 川筋を渡り、田の間を抜け、益城の町並みが近づく。

  「光照寺」と記された板標。山門の瓦。鐘楼の柱の節目。庫裏の土間に伸びる光。


 封筒の書付を見た住職が、何も多くは問わず、ただ一度頷く。


 箒を持つ清彦——落ち葉が掃き寄せられ、山になる。

 井戸の釣瓶を引く——桶の水面が陽を弾く。

 薪割り——鉈がまっすぐに降り、年輪がぱきりと割れる。

 庫裏の離れ——夜更けに体を横たえ、咳一つ飲み込む。


 昼下がり、子供たちが寺の縁側に腰を並べる。

 算盤の玉が小気味よく走り、かなの手本が紙の上に並ぶ。

 間違えると舌を出して笑い、合えば得意げに頷く。

 清彦は、板戸に背を預け、指で空に字の形をなぞってみせる。

 「ここで止める。ここは細く」

 子供の眉間の皺がほどけ、紙に新しい線が一本通る。


 物置の陰、擦り傷の少年に消毒液を含ませた布を当てる。顔をしかめる少年の手を言葉で外す。

 「数えるぞ。いち、にい、さん——はい終わり」

 奥から出てきた祖母が何度も頭を下げる。

 別の日。指を挟んだ青年の爪の際を整え、簡易の副木を添え、布で固定する。

 虫に腫らした腕には冷やした薬草をあてがい、熱を測るときの顔はどこまでも静かだ。

 夕刻の座敷、ほの暗さに線香の煙がまっすぐ伸びる。

 鐘が一度だけ鳴る。音は薄闇を渡って、畑の向こうでほどける。

 そして、夜。

  蝋燭の小さな火。

  清彦の鉛筆は、紙の上を止まりなく進む。

  細く立つ影が、行の端で揺れては戻る。

  何を書いているかは、知ることが出来ない。


 季節の断片が、ぱらぱらと継がれていく。

 柿の橙が庇の外で濃く、霜の白さが夜明けの土を薄く覆い、雨の粒が石段を斑に光らせる。

 袂に入った粉薬の紙包みが増え、子供の背がわずかに伸びる。

 笑い声、泣き声、釜の蓋の鳴る音——それらが一つの輪になって日々を回す。

 ——十倍速のような流れの中で、ただ一度だけ速度が落ちる瞬間を見た。

 夜半、蝋燭の火がふっと短くなり、清彦が筆を止め、宙に視線を置く。

 窓の外、遅い風。

 そのわずかな静止に、彼が何を見ているのかは、わからない。ただ、次の瞬間にはまた鉛筆が動き出し、紙の上に細い線が連なっていった。



 ある晩の事だ。


 厚さにムラがある質の悪い窓ガラス越しに月を見ながらいつものように何かを書いていた時に、窓の外から、息をひそめるように、しかし切羽詰まった声色で清彦に呼びかける声があった。


「坂本さん」


 ビルマで清彦の一年前に、先に復員するために別れた佐久間秀幸だった。傍に人影、女性のようだ。素直に戦友と再び会えたことを清彦は喜んだが、同時に、よりによってこの時間、ただならぬ雰囲気も感じた。

「よく来てくれたな。まぁ、とりあえず上がれ」

 つられて清彦も声を潜めてしまった。


 上がって部屋に入ってきていきなり、佐久間は清彦に土下座して見せた。

「面目ない!」

 清彦は訳が分からない。ひょっとして佐久間にとんでもない不利益を負わされたのだろうか?


 どうも違うようだ。復員して妻子身内一切を失った佐久間は、無気力で自暴自棄になり、気がつけば愚連隊に身を落としてしまったらしい。そういえば、佐久間が身につけているのは、どこかちぐはぐな堅気のものが身につけているものではないように思われた。そういう自分の不甲斐なさを、かつての戦友を目の前にしていたたまれなくなった、と言うのが土下座の一つの理由らしい。


 そして、隣に同じく深くお辞儀をしている女性だ。聞けば彼女は佐久間の愚連隊のボスの情婦だったらしいが、佐久間と同じく福岡の空襲で家族をすべて失い、ボスに心ならずも手籠めにされたのだが、境遇が似た佐久間と心を通わせ、絆され、駆け落ちしたとの事だった。名を澄江という。

 ボスは澄江への恋慕というよりは、メンツをつぶされたことに怒り心頭で、執拗に佐久間と澄江を追跡する。見つけ出して八つ裂きにすると言っているのだそうだ。

 

 不謹慎にも清彦は笑ってしまった。半ば隠遁者のような自分に比べ、この佐久間と澄江の二人、ついでに愚連隊のボスも、なんと、元気というか闘志があるというか、生臭いというか。本当は生きるってこういう事なのかしら、と一瞬考えてしまった。


 「疲れたろう。とりあえず布団は借りてきてやる。休もうじゃないか。明日、此処の住職に相談しよう。」


 笑ってしまいそうになったことをごまかすように、清彦は言った。


 翌朝、清彦は、佐久間、澄江を伴い、光照寺住職松原玄真に、佐久間の身の上を明かしたうえで、何とか佐久間を遠くに逃がすなど、できないか? と相談した。佐久間が自分が属していた愚連隊のボスの名前を言った時、玄真は「あのヤロウ、生きていやがったのか!」と、苦々しく言った。


 結局、佐久間と澄江は、玄真の手引きで日向に逃れることになり、三日後、光照寺を旅立っていった。その後、音信はプツリと途絶える。

 1959年の春先、日向の山中で、男女二人の白骨死体が発見される。ひどく暴行を受けたような痕跡が何とか見て取れたが、他に何の手掛かりもなく、未解決事件として処理された。


 

 寺男をしながら、近所の子供に勉強を教えたり、簡単な医療行為を行ったりして過ごしていた清彦だが、1950年の晩秋、風邪をこじららせて、あっけなく死んでしまった。ビルマでの無理がずっと体に残っていたのだろう。


 小学生になっていた、清彦の息子、清志郎には直接清彦の死が知らされたわけではない。しかし、両親や曾祖父の様子から清彦の不幸を推察してしまった。

 両親は、夜、子供(清志郎や妹たち)が寝静まる時間、座卓で差し向かいで二人して泣いていたし、祖母ツヤは曾祖父の部屋で、入り婿だった祖父寛治は座敷で、それぞれ一人で、うつむき方を震わせていた。清志郎自身は、清彦の事は極幼い頃の記憶しかない。何となく生きていることは知っていたが、養父清司に遠慮もあり、遂に光照寺に会いに行くことはなかった。以来、清志郎から見て、両親や曾祖父は心から笑うことがなくなったように思う。



 更に何年か経ち、光照寺の境内に高校生の少年が訪れた。清志郎である。墓銘も刻まれていない、隅っこの墓の前に立った。しばらくそうした後、しゃがんで手を合わせた。

 特に何をするわけでもない。その後清志郎は、本堂の階段に腰掛けて、何を考えるわけでもない、空を見上げていた。


 ここで、蓮は目が覚めた。寝付いたのが日が出てからだったので、夕方の中途半端な時間に目覚めてしまった。大学は・・・サボりだ。

 それにしても、随分と長い夢を見たような気がする。怖い、という感覚はないが、何とも寂寥感と救われなさが充満したような、ある種の悪夢のようにも思えた。


 そして、曾祖父の、自称守護霊、坂本清彦の幽霊と来た日にゃ、蓮の本棚から「バカとテストと召喚獣」を抜き出して、読んで居やがりましたよ。

 清彦がケタケタと笑いながらラノベをめくる姿を、蓮は呆れたように見ていた。ついさっきまで目にしていた光景――ビルマでの死の脱出劇、佐久間と澄江の末路、家族を泣かせた清彦の死、そして清志郎の墓前での沈黙――。鬱シリアスの主人公じゃなかったんですか、この人? それらと、この半透明の男の姿とが、どうしても結びつかない。

 「同一人物・・・・だよな?」

 思わず口をついて出た蓮の問いに、清彦は少しの間だけ笑いを止め、何とも言えない顔をした。懐かしさ、後悔、そして照れをごちゃ混ぜにしたような表情だった。

  「あぁ、蓮君も清志郎と同じ夢見たんだな。別に僕が演出したものじゃないよ。現に僕が知らない場面も見てるみたいだし。ビルマではいつくばった挙句、脚無くしたのも、蓮君の本見て笑ってるのも、僕なんだと、御承知願いたい。死んじまうと、重たいもんはみんな置いてきぼりにしてくるらしいよ。

 っていうか、本当のことを言うと、僕は若い頃、医者じゃなくて、劇作家になりたかったんだわ。柳屋金語楼って知ってる? 何かな金語楼の落語が進化したらこんな感じになるのか、と、ちょっと嬉しい。あぁいうのの台本を書く人になりたかったんだよ。」


 おや、これは意外な展開。じゃなくて、蓮は清彦に、どうして家の敷居を跨がせてもらえなかったときに、ああも穏やかでいられたのか確かめたかった。が、それを切り出すタイミングがつかめない。


 そうこうしている内に、このスチャラカ幽霊、またバカテスにのめり込み、腹を抱えて笑い出す。

 蓮は、なんとも釈然としない気持ちで溜め息をついた。けれど、その笑い声が不思議と、さっきまでまとわりついていた寂寥感を少しだけ吹き払ってくれるのも確かだった。


 その夜、布団に横になった蓮の耳には、まだ遠く、山中で聞いたような、誰かの泣き声の残響が残っていた。清彦の笑い声と入り交じり、現実と幻の境目が、妙に曖昧に揺れていた。

 それでも蓮は目を閉じた。眠りの中で、また誰かに呼ばれる気がしていた。

  けれど、その声が悲しみなのか、救いなのかは、まだわからなかった。



2025年8月14日木曜日

《創作》寝取られ幽霊 第3話 地獄巡り 中

 



 結果を言えば、清彦が膝下を撃たれ翌日、3人を取り囲んでいたのは、アブドゥル・カリム・ソーという名のムスリムをリーダーとしながら、それぞれの部族のコミュニティのやり方に与することを良しとしなかった。メンバーはムスリムのほか、カレン族など仏教系の山岳民族で構成され、かつて所属していた部族からも、英蘭中軍や日本軍からも逃れるように山中を転々としていた。
 日本軍は勿論、比較的に新しいビルマ政府も、英蘭中も信用していなかったが、それでも、リーダーのムスリム、アブドゥル・カリム・ソーは、英国に医学で留学経験があり、更には日本語にも通じている、なかなかのインテリだった。

 清彦などは膝を撃たれていたが、そうじゃなくとも3人とも相当衰弱していたので、このグループに保護され、終戦まで行動を共にすることになった。仮に清彦が撃たれていなかったとしても、彼らは結局、日本軍には辿り着けなかった。それ位、1944年夏以降のビルマでの日本軍は壊滅的だった。行軍路に、白骨から漂う甘ったるい匂い、ふらつく兵の荒い息、乾いた金属音が、その現実を物語っていた。

 その様を夢で見ていた蓮は、あぁ、ひい爺ちゃん此処で死んだんじゃなかったんだな、と、少し安心した。っていうか、もう清彦が自分の曽祖父であることを受け入れていることに、我ながら、ちょっと驚いた。

 一度、清彦がアブドゥルに訊いたことがある。なぜ自分たちを助けたのかと。アブドゥル・カリム・ソーはこう答えた。

「ここには日本軍に村を焼かれたものもいるが、イギリス軍や中国軍に焼かれたものもいる。もし、お前たちが、そうすることを決めた人間だったら、此処で八つ裂きにしているところだが、そうじゃないだろ? 誰かが決めたことで村を焼かれた人間が、誰かが決めたことで死にそうになっている人間を助けることは、間違っているとは思わない。」

 清彦は膝下を撃たれ、ジャングルの中で感染は避けられず、腐敗は進んでいた。通常なら、ただ死を待つだけだったろう。だが、アブドゥル・カリム・ソーには医術があった。混乱の中、彼は手術を決行し、膝下を切断した。山奥の家にこもり、妻のアミナ・ノーとともに、清彦の命を保ち続けた。3人とも、決して豊富とまでは言えなくとも、体力が緩やかに戻るくらいの食事にはありつけた。清彦は脚の事もあり敵わなかったが、佐久間や大沢はグループの人間に交じり狩りや簡単な農耕もこなした。

 
 昭和二十年、戦争はようやく終わった。
 だが、終わったと誰が決めるのか。前線にいた者たちは、玉音放送など聞いていない。弾が止まり、敵が姿を消し、食料が届かなくなり、やがて静けさが腹の痛みや傷のうずきに変わる。それが終戦だった。

 膝下を失った清彦はまだ動くわけにはいかなかったが、佐久間秀幸と大沢辰造は、アブドゥルの伝手で、一足先に復員することになる。二人が旅立つ日、ミイトキイナ脱出の日には出なかった涙だったか、一番若い大沢など大泣きする場面もあった。

 早回し、早回し。

 佐久間秀幸と大沢辰造は、ラングーンより復員船「白山丸」に乗せられた。聞けば同じ船に乗っていた日本兵は、部隊ごと、というわけではなく、佐久間、大沢に似た事情、敗走の末、なんとかラングーンにたどり着いた者が多かった。
 ラングーンと言えば、日本軍のビルマ方面司令部がおかれていたが、もはや見る影もなく、英軍が闊歩しているような状況であった。アブドゥル・カリム・ソー達といた時は、伝聞で日本は負けたのだとは聞いていたが、実感としてはなく、ラングーンの街並みを見て初めてそれを実感したような有様だった。何やら感慨らしきものが湧いてきそうにもなったが、疲れ切っていた佐久間、大沢以下、復員船に乗る日本兵は何ら騒ぐことなく、白山丸に押し込められた。

 佐久間達と偶々近くに居合わせた田島信一は、信州出身で、筑豊炭田で働いていたところを徴兵されたという境遇では大沢辰造に似ていた。1945年3月のメイクティーラ攻防戦に参戦していたが、白山丸に登場した時点で、マラリアでひどく消耗していた。佐久間、大沢はミイトキイナ脱出間際に、マラリアで埋葬した石塚恒夫軍曹を思い出した。二人はアブドゥル達といたおかげで、比較的健康状態は良い方だったが、それ以外の搭乗した日本兵の健康状態はかなり悪いようだった。

 田島は、熱にうなされながらも調子のいい時は饒舌に故郷の伊那谷の事をしゃべっていた。船上のある日のことだ、船倉の湿った空気に、消毒薬と海水の匂いが混ざっていた。田島の息は次第に浅くなり、やがて波の音にかき消された。次の瞬間、船倉の空気は、誰も言葉を発せぬ沈黙で満たされた。ミイトキイナの石塚軍曹の埋葬の時は泣かなかった大沢辰造だが、田島の水葬の時は清彦やアブドゥル達と別れるときのように大泣きした。翌日には本土の島影が見えた、その前日の事である。

 舞鶴に上陸した二人。佐久間は福岡に、大沢は働いていた筑紫ではなく故郷の秩父へと旅立っていった。


 それは良いんだが、ひい爺ちゃん、どうなったの?


 容態の安定が必要だった清彦が復員したのは、終戦から丸2年経った1947年秋の事である。この時はすでに日本政府による復員船はなく、アブドゥルの伝手でバンコクからの難民船「比婆丸」の片隅に乗っての復員となった。
 神戸に着いたとき、空の色はビルマの地のそれのような残酷な群青とは似ても似つかない穏やかな青だったが、岸壁には、古びた荷役クレーンが錆び色に光っているのみ。旗を振る人も出迎えの声もなく、ただ自分の影だけがそこに立っていた。
 清彦は帰国したという安堵や喜びよりも、糸の切れた凧のような所在のなさを強く感じていた。自動的に列車に乗せられ、故郷の熊本に戻ったのは、上陸した次の日のことである。

 帰国した次の日の夕方少し前、夢の冒頭、幼かった蓮の祖父、清志郎が清彦の膝の上で甘えていた、かつての蓮の実家の門の前に、片脚を失い杖をついた清彦は立っていた。
 わずかに逡巡した後、清彦は門をくぐる。妻の春江が玄関横の庭の掃除をしていたが、顔を上げ清彦の顔を見て、驚き、しかし、何やら悲しそうな複雑な表情をした。

 いや、そこは、喜ぶところじゃないのかよ?

 口元を押さえ春江は家の中に駆け込んでいく。何やら複数人の声が聞こえてくるが何をしゃべっているかはわからない。しかし、清彦は何となくこの後の自分の運命を予感していた。


2025年8月13日水曜日

《創作》寝取られ幽霊 第2話 地獄巡り 上

8836 Burma 1944


  明晰夢とはこういうものの事を言うのだろう。蓮はそう思いながら、眼前に展開される、物語、なんだろうか、ある男、って、ぶっちゃけさっき目の前に現れた、自称守護霊、曾祖父だという坂本清彦の生涯を早回しで見せられていた。何倍速?


 九州帝国大学の医学部を出て、地元熊本の古田病院に勤務。のちに、それはそのまま知らされた曾祖母となる山岸春江を娶り、一男をもうける。

 そのふたりの間に生まれた男の子、蓮にとっては祖父にあたる清志郎が建て替えたのが現在の蓮の実家で、その建て替え前の家の縁側で、まだ2歳か3歳の清志郎が、清彦の膝で「とうちゃ」と甘えていたのが酷く印象に残った。


 招集、というより従軍と言うべきか、清彦は56師団の軍医としてビルマ、ミイトキイナに赴任していた。秩父出身ながら筑紫炭鉱で炭鉱夫見習いをしていた18師団の若い上等兵、大沢辰造を弟のように気にかけていたのだが、18師団の居残りになるほどの負傷をしたため、内地に返すこともできず、ずっとミイトキイナに留め置きになっていた。面倒を見ていた清彦もまた、1944年の7月末まで、辰造の面倒を見るために、ミイトキイナに居残っていたわけである。



 穴は浅かった。濡れた土は重く、シャベルは半ば柄が折れていた。

  それでも清彦と佐久間は黙々と穴を掘り続けた。大沢辰造はまだまだ漸く傷が塞がったところで、この後のことを思えば、ここで体力を使わせるわけにもいかず、横に荷物を持って立たされていた。


 強い雨だった。葉を打つ音が重なり、音の境界が消える。

  穴のそばには、一枚の破れた毛布に包まれた遺体が横たえられていた。


 石塚軍曹。

  数日前からマラリアにうなされ、水も口にせず、今朝方、息を引き取った。


 遺書もなければ、家族のことも何も語らなかった。

  ただ、写真らしいものを一枚、濡れた包みの中に忍ばせていたのみだった。


 「……石塚軍曹、失礼します」


 坂本が目を閉じて一礼し、佐久間がそっと毛布の端をかぶせた。

  誰も泣きはしなかった。泣けるほどの体力も、涙も残っていない。



 土を戻す音だけが、雨音に混ざって、静かに続いた。


 土をかぶせ終えたあと、しばし誰も動かなかった。

  静寂のなか、清彦が両手を合わせて口を開く。


 「……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

  低く、短く、それだけ。

 佐久間がちらりと目を動かし、仕方なさそうに続けた。

  「……南無妙法蓮華経……なんまみょうほうれんげきょう……」

 少し間が空いて、大沢も慌てたように手を合わせる。

  「……南無大師遍照金剛……」

 妙な沈黙が落ちた。三人、それぞれ微妙に目を合わせかけ、そらした。

  誰も口にしなかったが、心のどこかで「ん?」という思いはあった。

 「……ま、気持ちだけでもな」

  と、誰かがぼそりと漏らし、他の二人はうなずきもしなかった。

 それ以上は何も言わず、再び雨の音に沈んだ。



 突然、甲高い声が響いた。


 「――整列ッ!」


 反射で数名の兵が体を起こした。何人かは顔をしかめた。

  声の主は、あの栗山曹長だった。一言で言えば、嫌われ物の上官。かつてはよく怒鳴り、下士官相手に威を張り、食料の配分をめぐって口論を繰り返した男。それでいて、上役には媚びへつらい、下士官たちにはうっすら軽蔑されていたのだが。


 その栗山曹長、その立ち姿にはいつもにはない、静けさと緊張感があった。


 「坂本伍長、佐久間軍曹、大沢一等兵、前へ!」


 三名が静かに前へ出る。栗山は一歩進み、鋭く叫んだ。


 「敬礼ッ!」


 全員の右手が、一瞬、揃って額へと上がる。

 背後から足音。栗山が振り返り、一歩下がって姿勢を正す。


 水上少将が現れた。軍帽の庇の奥から鋭く光る眼差し。泥と疲労にまみれた軍服の上に、なお将官の風格があった。


 「……石塚軍曹の埋葬は終わったか。…貴官らが殿となった。本陣地より移動を命ずる。」


 それだけを口にすると、少将は三名の顔を順に見た。

 「栗山曹長、準備は?」

 「はっ。包帯、モルヒネ、乾パン一日分、弾薬三装填分。すでに配備済みです」


 少将はうなずいた。


 「坂本伍長、貴官に命ず。佐久間軍曹、大沢一等兵とともに、南方突破を実行せよ。

  敵前線を避け、後方陣地との連絡を図れ。……我らの記録と意志を、生かして届けよ」


 沈黙が落ちる。

 やがて坂本が、少将に向かってゆっくりと敬礼を返す。それに倣って、佐久間と大沢も静かに腕を上げた。


 栗山が再び前に出る。


 「なおれ!」


 三人の手が下がる。


 「――右、向けェ、右ッ!」


 三名の身体が揃って、東方のジャングルへと向き直る。湿った風が、倒れかけた遮蔽物の布を揺らした。


 「行軍、始め!」


 張り上げた声で言った後、栗山は呟いた。声は、誰にも届かぬほど小さかった。


 「……命令は、俺が出した。もし帰れたら、そう伝えろ」


 坂本は振り返らなかった。

 ただその背だけが、過去を背負い、密林へと消えていく。



  誰も声をかけなかった。足音も、枝のきしむ音も、やがて風に紛れて消えた。全員が、しばらくその方角を見ていた。だが、やがて一人、また一人と視線を落とす。


 そして、その直後だった。


 ――乾いた銃声が、一発。

 それから少し間をおいて、もう一発。


 音は遠く、だが明瞭だった。風が一筋、遮蔽物の布を静かに揺らす。


 誰も何も言わなかった。ただ、そこにいた者たちの背筋が、いくらか正された。



 夜明けと共に、三つの影が音もなく木々の隙間を縫うように進んでいた。

  空は鉛色。雲は重く垂れ込め、密林の奥まで湿った光が差し込んでいる。土はすでにぬかるみ、足元には無数の棘を孕んだツルや、濡れ落ち葉の層が積もる。呼吸を抑えながら、一歩ごとに脚を運ぶ。それでも、湿った空気が喉を焼くようにまとわりついた。


 先頭を行くのは坂本清彦。伍長。軍医部所属、医師をしているときに徴兵されたが正式な軍医ではない。かろうじて衛生兵としての訓練を受けただけの、いわば“臨時”の命を背負う者だった。

  彼の後を追うのは佐久間秀幸。軍曹。坂本と同じくらいか幾分若くで、軍医補佐として中隊の後方に常駐していたが、ミートキーナの崩壊後は逃げ延びる仲間を選ぶ暇などなかった。かつての整然とした陣形は、もう存在しない。

  最後尾、大沢辰造。一等兵。19歳。初年兵として合流してからわずか4ヶ月、階級章もまだ洗い立てのように白く、負傷の予後ではあったが無言の背中に必死でついている。


 銃を構えることなく、だが常に二手先を警戒しながら、彼らは歩いた。坂本は手信号で前方の茂みを指し示し、佐久間が一歩踏み込み、枝をかき分けて進む。大沢は振り返ることもなく背を守る。言葉は交わさない。声は死を呼ぶ。


 水を含んだ蔦が脚に絡む。蒸した泥が靴に食いつく。全員の装備は最小限に削られ、銃と弾薬、乾パン少量、そして包帯とモルヒネ。食料も医薬品もすでに配給は絶えて久しい。


 坂本はこの方向を選んだ。南東へ。ジャングルの尾根筋を伝ってバモーへ向かう。生きている部隊がいるかもしれない。彼らは誰からも命じられていないが、自分たちが戻らなければこの敗走の記録さえ残らない。

  それが、脱出前に水上少将から託された唯一の言葉でもあった。


 空が完全に明るくなった頃、三人は小さな沢を越えた。川幅はわずか一間。だが深さはある。佐久間が先に膝まで浸かって渡り、対岸で待つ。大沢が続き、最後に坂本。木の枝を杖にして体を支える。苔が滑る。慎重に、音を立てないように。

 そのとき、微かに何かの気配がした。

  佐久間の指が止まった。すぐに右手を下げて地面に伏せる動作。坂本と大沢も即座に従う。


 静寂。密林の息づかいだけが周囲を包む。

 その中に、革靴が濡れ枝を踏む乾いた音が一つ。さらに、小さく囁くような声。中国語だ。

  斥候部隊か。向こうも慎重に動いている。銃声はない。接敵距離が近い。目視すれば終わりだ。

  三人は泥に沈むように地面へ身体を預けた。全身の筋肉が緊張で硬直する。鼻腔に泥の匂いが満ちる。目の前を、三人編成の中国兵がゆっくりと通り過ぎていった。

  顔を見ずとも、肩にかけた装備と銃の形状で分かる。軽装の偵察隊。だが機関銃を背負っていた。発見されたら、逃げ場はない。


 やり過ごすまで、呼吸を止めるほどの時間が流れた。ようやく音が遠のくと、佐久間が小さく頷いて再び立ち上がった。

 坂本も無言で頷く。斥候がこのエリアを使っている。ということは、このルートは補給路か、監視線上にある。別の尾根筋へ移動しなければならない。

 東へ数百メートル迂回し、再び南下する道を選び直す。


 午後に入り、雨が降り出した。最初は、密林の葉が微かに擦れる音だけだった。葉の上に溜まった雫が一つ、また一つと滴り落ち、それが地面の泥を打つ。匂いは、急に濃くなる。湿った土に、腐りかけた落ち葉の甘酸っぱい匂い、どこか遠くで咲いている花のむせ返るような香りが混ざる。雨粒が頬や首筋に触れるたび、ひやりとした感覚と、すぐにぬるくなる温度変化が肌を這った。


 三人は樹幹を縫いながら進む。足元の泥は、踏み込むたびに吸い付くように靴底を離さない。ぐっ、という重たい音とともに靴が引き抜かれるたび、泥が糸を引く。そこに細かい砂が混じり、指でこするとざらついた感触が残る。ときおり、足首にまとわりつくように細い蔦が巻きつき、それを手でほどくと、生温い水滴が掌を伝った。


 山の背をひとつ越えたあたりで、前方の竹藪から銃声が裂けた。乾いた破裂音が木霊し、すぐ近くの土がぱちりと跳ねた。反射的に三人は伏せた。耳の奥に、銃声の余韻がいつまでもこびりつく。雨音の層が、その上に薄く積もる。


 狙われている。胸の奥で心臓が一拍ごとに熱を持つ。姿は見えない。だが射手の位置は、葉の揺れ方と音の方向で分かった。坂本は右の潅木に滑り込もうとした瞬間、左脚膝に衝撃を感じた。石をぶつけられたような鈍い衝撃の直後、焼けるような痛みが遅れて押し寄せる。視界の端が赤く滲む錯覚があった。


 佐久間が無言で駆け寄り、坂本の腰の包帯を引きちぎって膝の上を縛る。指先は迷いなく動き、結び目が一瞬で締まる。その手は血と雨で滑っていたが、力強かった。大沢は背後を警戒し、反対側の斜面への退避を合図する。


 膝の痛みは脈打つたびに鋭くなり、坂本は歯を食いしばって立ち上がる。佐久間の肩を借りて斜面を下りる。泥と落ち葉が滑り台のように身体を押し出し、腕で幹を掴むたびに、樹皮の湿った匂いと、そこにこびりついた苔の匂いが鼻を満たした。


 銃声は追ってこない。奇襲ではなかったのか、それとも威嚇か。だが油断はできない。雨脚は強まり、視界の輪郭が白くにじむ。


 やがて三人は樹の陰に身を寄せ、坂本の脚を改めて確認した。弾は膝のすぐ下をかすめ、骨は砕かれていない。それでも歩行は難しい。雨水が包帯に染み込み、血と混ざって暗い色を帯びていく。


 今夜は移動できない。三人は、根元の開いたバナナの木の下に潜り込んだ。葉が幾重にも重なり、上から落ちる雨粒が葉を叩く音が、太鼓のように低く響く。下は湿った土で、手をつくと、指の間からぬるりとした冷たさが這い上がってくる。


 匂いは濃い。土、葉、雨、そして自分たちの汗と血の匂い。湿気が肺にまとわりつき、息を吸うたび、ぬるい空気が喉を擦る。遠くで何かが鳴いた。甲高い悲鳴のような声。鳥か猿か、あるいは人か、判別がつかない。すぐにまた別の音――葉がかすかにこすれる音。風か、それとも何かが移動しているのか。


 三人は声を出さずに耳を澄ました。時間が伸びる。音の一つ一つが、雨粒と同じくらい輪郭を持ち始める。水滴が落ちる音、葉の先から落ちる雫が泥に吸い込まれる音、湿った蔦が風で揺れるときの軋み。背後で大沢が息を呑む気配があったが、すぐに静まった。


 その夜は眠れなかった。まぶたを閉じても、音と匂いと湿気が、全ての感覚を塞いでくる。


 熟睡していたわけではない。三人とも、体は横たえていても意識は泥の底を漂うように重く、時折浮かび上がってはまた沈む。耳の奥で雨音が形を変える。遠雷のように響くかと思えば、次の瞬間には誰かの囁き声に聞こえた。その囁きの調子が、柳屋金語楼の軽口に似ていると一瞬思い、清彦は自分でも訳の分からない苦笑をこぼす。すぐにその笑みは引っ込み、今度は長谷川伸の浪曲の節回しが、湿った匂いと共に脳裏を過ぎった。夢と現実の境が曖昧になる。薄闇の中で、葉の影が人影に見え、幹の割れ目が眼のように光った気がした。胸の奥で不安が脈打ち、呼吸は浅く速くなる。ふとした気配にまぶたが開く。雨を背負って立ち並ぶ複数の影――囲まれていた。




2025年7月12日土曜日

《創作》寝取られ幽霊 第1話 守護霊登場

 


 「おい、坂本君。もう上がっていいぞ。時間だろ。」

 30代位だろうか、雇われ店長が、厨房の奥でひたすら丼ぶり、皿洗いをしていた蓮に声をかける。食洗器が壊れてしまったということで、修理が上がってくる2週間、臨時で雇われた終夜営業のうどん屋でのバイトのことだった。
 今日で蓮のバイトは終わる。

 「なぁ、バイト続けてくれること、考えてくれたか?」
 店長が問う。正直、いくら若いからと言って、ずっとほぼ徹夜のバイトをレギュラーで入れるのは、学生の身の蓮にはキツい。どうしても買いたいものがあったから、このバイトを入れたのだが、端から続ける気はなかった。
 「すみません。」


 分かってたよ、とでも言いたげに店長は右の掌をひらひら振った。他の店員が、店じまいや売り上げの計算を始めている。バイトの蓮にはそこまでは求められていない。午前5時まで。もう、5時10分だ。

 「給料は、明後日振り込まれるから。ご苦労さん」

 店長はそれでも気を悪くする風でもなく、蓮に言った。


 厨房着から私服に着替え、一言「お世話になりました~」と店内の誰に言うでもなく挨拶して店を出た。雨が降っていた

 厨房の熱気で毛穴がふさがったような感覚から雨がひんやりとした空気に触れる。決して厨房の中は快適ではなかったが、仕事が終わって外に出て外気に触れる、この解放されるような感覚が、結構気に入っていた。

 蓮がこのバイトに就いたのは、ガールフレンドの絢美に誕生日のプレゼントを買うためだった。とか言いながら、実はまだ何をプレゼントするか決めてはいなかったのだが。何を買うかは決めていなかったが、決めないまま渡しても絢美なら笑って受け取ってくれる。そう思っていた。
 バイト先の終夜営業のうどん屋から、下落合の蓮のアパートまで、自転車でもあればいいのだが、さしあたりそんなものは持っていない。JR等を使うのにも中途半端な位置関係だ。どうせ一駅。蓮は、何を買おうかな、と、小雨が降っているというのに傘もささず、少々浮かれ気味に、いつものようにラブホテル街を抜ける。

 角を曲がったところにあるラブホテルの出口から、一組カップルが出てきたところと鉢合わせしてしまった。いつもは気まずさがないようにせめて道路を挟んで反対側を歩く蓮だったが、その日に限ってそうしなかったために、カップルとはまさに、ばったり、だったわけで。

 カップルの女性の方が、蓮のガールフレンド、篠原絢美だった。蓮は、目の前で何が起きているのか理解できなかった。絢美は気まずそうに一瞥くれると、男と共に去っていく。
 何か言わないといけないのではないか? 何を言えばいいのだ? 言わない方がいいのか? それよりも膝から下、力が入らずにその場でへたり込みそうになる。
 状況を受け止めるまで何分、蓮はなんとかそこに立ち尽くしていたのだろう?

 小雨とは言え、もう、蓮はずぶぬれだ。帰らなきゃ、少し寝て大学に行かなきゃ、と、半ば機械的に思い、よろよろ歩き出す。


 帰り道、深夜から早朝にかけての時間、いくら交通量が少なかったとはいえ東京だ。よく事故に遭わなかったものだ、と言うくらいの夢遊病者のような足取りで、ようやく部屋に帰り、しばし呆然と入り口に立ち尽くしていたが、靴を蹴飛ばすように脱ぎ、部屋に上がり、Tシャツとジーンズを脱ぎ捨て、パンツ一枚で洗面所の前に立つ。
 鏡に映ったひどい顔。途端に吐き気が襲う。かといって、吐くようなものもそれほどない、唾液、いや胃液か、と鼻水と涙に塗れた、あぁ、なんてひどい顔だ。もう一度そう思った。

 ふと、横を見た。男が立っていた。蓮の目が慣れてくると、男の目だけが異様に光っているように見えた。
 蓮の、半ば朦朧としていた意識が一気に覚醒する。

 「どわ!」

 何と表記していいかわからぬ短い叫び声を蓮は上げ、反対側に横っ飛びするが、ユニットバスの縁に脚を引っかけ、倒れ込み頭をしこたま打つ。


 『おいおい、落ち着けよ、蓮君』

 人が発する声ではない、頭に直接響いてくる念のような声が聞こえる。痛みで頭を抑えながら男を見ると、果たして、向こう側が透けて見える。
 この年代の男の子、しかも、決して陽キャとは言えない青春を送っている蓮は、ラノベサイトを当然のようによく見ていて、NTRモノと言われるジャンルの中で語られる「脳破壊」と言う言葉を思い出してしまった。あぁ、これのことか、と、思ったが、

 『そんなんじゃないよ。君の目の前にいる僕は正真正銘、幽霊、っていうか、君の守護霊、実の曽祖父の清彦です。よろしく。』

 いや、ちょっと待て。熊本の実家に仏間に抱えられているひい爺さんの写真はこいつとは違うぞ?

 『あぁ、清司のことか。あれは僕の弟だ。まぁ、説明するから、まず服を着なよ』

 ??? もう何が何やら。それにしてもしこたま打ち付けた頭がじんじん痛い。


 『手間がかかるひ孫だな。これで治るだろ。』

 清彦と名乗る幽霊が手をかざすと、ぱたりと痛みが収まった。


 パンツ一枚だったが、とりあえず部屋着のスウェットを着込み、すでに座卓の向こう側に腰を下ろしている幽霊の差し向かいに座る。


 『初めまして。君の曾祖父の坂本清彦です。』
 幽霊はニコニコしながら名乗った。だから分らないって。ひい爺さんだとずっと思っていた、今も思っている清司じゃないのはどういうことだ? 今坂本姓を名乗ったよな、ってことは、婿養子に入った父方の曾祖父でもないという事だし。
 蓮は黙っている。何を言ったらいいのかわからない。

 『ガールフレンドに二股かけられていたことが分かっちゃった君に、何から言えばいいのか分らないが―――』

 いきなり核心ついてきやがりましたよ、この幽霊!

 『君の爺さんの清志郎の実の父は、紛れもなくこの僕だ。で、清志郎が女房に駆け落ちで逃げられた時も、僕はこんな感じで呼ばれてきた。』

 うん、爺ちゃんの名前は清志郎だ。確かに。って、衝撃の新事実! 若いうちに死んだと聞かされていた、ばあちゃん、他の男と駆け落ちしただってぇ!


 『坂本家の代々の嫡男は、どういう訳か女運が最悪でね。君はまだ、学生で結婚なんて程遠い所にいたから傷は全然浅いはずだ。』

 何、それ、ねぇ、ウチの家系呪われてんの? 嫌すぎるんですけど!

 『斯くいう僕は、ビルマ戦線で軍医として従軍したんだけど、戦闘員もやらなくちゃいけない場面があって、その時に右脚を失った。』

 そういって、蓮の目の前で、脚がある幽霊の右脚だけ、木の棒でできた義足に変わった。

 『撤退中、ロヒンギャ、ってわかるよな、大学生なんだし、そのロヒンギャに匿われていたんだが、そのせいで復員が特に僕だけ3年遅れてね。竹山道雄だっけ「ビルマの竪琴」みたいな、あんな感じ。いや、別に坊さんになって死者を弔うつもりはなかったんだけど、匿ってくれたロヒンギャの事情でね、帰ってくるのが遅くなってしまった。』

 蓮は、いつの間にか、清彦と名乗る幽霊の言葉に聞き入ってしまっていた。

 『まぁ、ね、人より復員が遅れたんだったら、戦死したと思われていたとしても仕方ない。僕の親父やお袋も坂本の家を繋げなくちゃいけない。僕の嫁だった春江と弟の清司が所帯を持つことになって、戦争に行く前、君の爺さんの清志郎は僕の実の子だけど、君にとっては大叔母にあたる3人は、春江と清司の子だ。』
 清司と春江、確かにひい爺ちゃんとひい婆ちゃんの名前だ。するってぇと、なんだ? 目の前のオレの実のひい爺ちゃんといってる清彦と名乗る幽霊は、戦争にいって、脚を亡くした挙句、帰る場所も弟に奪われて無くなったってことかっ!?
 強烈な怒りに似た気持ちで、思わす蓮は立ち上がってしまった。その割には、呟くような声で


 「なんなんだよ、それ?」

 落ち着いた感じで清彦は言う

 『別に、春江も清司も、親父やお袋も怨んじゃいないさ。彼らは悪くない。悪いのは・・・わかるだろ?』


 へなへな、と蓮は再び座り込む。

 途端に、急に眠気が襲ってきた。バイト明けでNTRかまされて、幽霊が出て来て、生まれてこの方一番のジェットコースターな日だった。NTRされた辛さとか、どこかに吹っ飛んでしまっていた。

 『もう寝なよ。少し寝て大学行くんだろ? ひい爺ちゃんが、君の仇を討ってきてやるから』

 「なん、だよ、そういうのやめて、くれよ。」
 蓮はもう限界だったが、一時期、ラノベのNTRものにハマったことはあったのだが、復讐がテンプレの展開に、裏切られたからと言って、ガラッと復讐に転じるなんて、尻軽に他の男に乗り換える女の子と同じレベルじゃないか、と、ある時思い至ってから、興味がなくなっていた。復讐って、なんか、みっともない、というか正直退く。

 って、本当にもうだめだ。おやすみなさい。布団もかけずに、蓮は座卓の横で沈没した。

 ―――雨の匂いが、まだ髪に残っていた。