結果を言えば、清彦が膝下を撃たれ翌日、3人を取り囲んでいたのは、アブドゥル・カリム・ソーという名のムスリムをリーダーとしながら、それぞれの部族のコミュニティのやり方に与することを良しとしなかった。メンバーはムスリムのほか、カレン族など仏教系の山岳民族で構成され、かつて所属していた部族からも、英蘭中軍や日本軍からも逃れるように山中を転々としていた。
日本軍は勿論、比較的に新しいビルマ政府も、英蘭中も信用していなかったが、それでも、リーダーのムスリム、アブドゥル・カリム・ソーは、英国に医学で留学経験があり、更には日本語にも通じている、なかなかのインテリだった。
清彦などは膝を撃たれていたが、そうじゃなくとも3人とも相当衰弱していたので、このグループに保護され、終戦まで行動を共にすることになった。仮に清彦が撃たれていなかったとしても、彼らは結局、日本軍には辿り着けなかった。それ位、1944年夏以降のビルマでの日本軍は壊滅的だった。行軍路に、白骨から漂う甘ったるい匂い、ふらつく兵の荒い息、乾いた金属音が、その現実を物語っていた。
その様を夢で見ていた蓮は、あぁ、ひい爺ちゃん此処で死んだんじゃなかったんだな、と、少し安心した。っていうか、もう清彦が自分の曽祖父であることを受け入れていることに、我ながら、ちょっと驚いた。
一度、清彦がアブドゥルに訊いたことがある。なぜ自分たちを助けたのかと。アブドゥル・カリム・ソーはこう答えた。
「ここには日本軍に村を焼かれたものもいるが、イギリス軍や中国軍に焼かれたものもいる。もし、お前たちが、そうすることを決めた人間だったら、此処で八つ裂きにしているところだが、そうじゃないだろ? 誰かが決めたことで村を焼かれた人間が、誰かが決めたことで死にそうになっている人間を助けることは、間違っているとは思わない。」
清彦は膝下を撃たれ、ジャングルの中で感染は避けられず、腐敗は進んでいた。通常なら、ただ死を待つだけだったろう。だが、アブドゥル・カリム・ソーには医術があった。混乱の中、彼は手術を決行し、膝下を切断した。山奥の家にこもり、妻のアミナ・ノーとともに、清彦の命を保ち続けた。3人とも、決して豊富とまでは言えなくとも、体力が緩やかに戻るくらいの食事にはありつけた。清彦は脚の事もあり敵わなかったが、佐久間や大沢はグループの人間に交じり狩りや簡単な農耕もこなした。
昭和二十年、戦争はようやく終わった。
だが、終わったと誰が決めるのか。前線にいた者たちは、玉音放送など聞いていない。弾が止まり、敵が姿を消し、食料が届かなくなり、やがて静けさが腹の痛みや傷のうずきに変わる。それが終戦だった。
膝下を失った清彦はまだ動くわけにはいかなかったが、佐久間秀幸と大沢辰造は、アブドゥルの伝手で、一足先に復員することになる。二人が旅立つ日、ミイトキイナ脱出の日には出なかった涙だったか、一番若い大沢など大泣きする場面もあった。
早回し、早回し。
佐久間秀幸と大沢辰造は、ラングーンより復員船「白山丸」に乗せられた。聞けば同じ船に乗っていた日本兵は、部隊ごと、というわけではなく、佐久間、大沢に似た事情、敗走の末、なんとかラングーンにたどり着いた者が多かった。
ラングーンと言えば、日本軍のビルマ方面司令部がおかれていたが、もはや見る影もなく、英軍が闊歩しているような状況であった。アブドゥル・カリム・ソー達といた時は、伝聞で日本は負けたのだとは聞いていたが、実感としてはなく、ラングーンの街並みを見て初めてそれを実感したような有様だった。何やら感慨らしきものが湧いてきそうにもなったが、疲れ切っていた佐久間、大沢以下、復員船に乗る日本兵は何ら騒ぐことなく、白山丸に押し込められた。
佐久間達と偶々近くに居合わせた田島信一は、信州出身で、筑豊炭田で働いていたところを徴兵されたという境遇では大沢辰造に似ていた。1945年3月のメイクティーラ攻防戦に参戦していたが、白山丸に登場した時点で、マラリアでひどく消耗していた。佐久間、大沢はミイトキイナ脱出間際に、マラリアで埋葬した石塚恒夫軍曹を思い出した。二人はアブドゥル達といたおかげで、比較的健康状態は良い方だったが、それ以外の搭乗した日本兵の健康状態はかなり悪いようだった。
田島は、熱にうなされながらも調子のいい時は饒舌に故郷の伊那谷の事をしゃべっていた。船上のある日のことだ、船倉の湿った空気に、消毒薬と海水の匂いが混ざっていた。田島の息は次第に浅くなり、やがて波の音にかき消された。次の瞬間、船倉の空気は、誰も言葉を発せぬ沈黙で満たされた。ミイトキイナの石塚軍曹の埋葬の時は泣かなかった大沢辰造だが、田島の水葬の時は清彦やアブドゥル達と別れるときのように大泣きした。翌日には本土の島影が見えた、その前日の事である。
舞鶴に上陸した二人。佐久間は福岡に、大沢は働いていた筑紫ではなく故郷の秩父へと旅立っていった。
それは良いんだが、ひい爺ちゃん、どうなったの?
容態の安定が必要だった清彦が復員したのは、終戦から丸2年経った1947年秋の事である。この時はすでに日本政府による復員船はなく、アブドゥルの伝手でバンコクからの難民船「比婆丸」の片隅に乗っての復員となった。
神戸に着いたとき、空の色はビルマの地のそれのような残酷な群青とは似ても似つかない穏やかな青だったが、岸壁には、古びた荷役クレーンが錆び色に光っているのみ。旗を振る人も出迎えの声もなく、ただ自分の影だけがそこに立っていた。
清彦は帰国したという安堵や喜びよりも、糸の切れた凧のような所在のなさを強く感じていた。自動的に列車に乗せられ、故郷の熊本に戻ったのは、上陸した次の日のことである。
帰国した次の日の夕方少し前、夢の冒頭、幼かった蓮の祖父、清志郎が清彦の膝の上で甘えていた、かつての蓮の実家の門の前に、片脚を失い杖をついた清彦は立っていた。
わずかに逡巡した後、清彦は門をくぐる。妻の春江が玄関横の庭の掃除をしていたが、顔を上げ清彦の顔を見て、驚き、しかし、何やら悲しそうな複雑な表情をした。
いや、そこは、喜ぶところじゃないのかよ?
口元を押さえ春江は家の中に駆け込んでいく。何やら複数人の声が聞こえてくるが何をしゃべっているかはわからない。しかし、清彦は何となくこの後の自分の運命を予感していた。
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