2025年8月17日日曜日

寝取られ幽霊 第4話 地獄巡り 下


 清彦は、かつての坂本家の玄関先で立ち尽くしていた。秋の午後の日差しが残酷なくらい穏やかに降り注いでいるが、どうやら、本当に残酷な事柄というのは、こういう穏やかさの中でこそ起こるのだと、蓮は今日の夢を見ているうちに予感するようになった。

 テレビのドラマのように、不穏なBGMなんてない。遠くで鳶の鳴く声が聞こえてくるのと、時折風が木の葉を微かに揺らす以外、いや、何やら家の奥で口論も聞こえるか。現代のように道を走る車の音があるわけではない、近所の子供が遊ぶ声が聞こえるわけでもない。そんな午後の風景を、映画か舞台演劇を観るように蓮は眺めていたが、場面は変わる。


 清彦より一年以上前に大沢辰造と共に復員した佐久間秀幸が現れる。時間もそれくらい巻き戻っているようだった。


 やや早回しに場面は展開する。


 佐久間が復員船で舞鶴に上陸したのは、1945年末から46年初頭のことだった。港からまず舞鶴線に乗り、綾部を経て山陰本線で京都に出る。

 そこからは東海道本線・山陽本線を伝って大阪、神戸、岡山、広島と、西日本の主要都市を経由して下関へ向かった。

 当時の復員輸送は急ごしらえの編成で、車内は兵士たちで溢れ、立ったままや通路に座り込んで移動するのが常だった。網棚の上にまで人が寝そべり、天井のつり革や手すりにしがみつきながらうとうとする者もいた。蒸し暑い空気と汗の匂いが充満し、窓を開ければ煤煙と寒気が吹き込む。立錐の余地もない車内では、一人が動けば列全体がぐらりと揺れ、互いの体温を感じながらじっと耐えるしかなかった。駅ごとに炊き出しや地元の人々からの握り飯の差し入れがあり、それに支えられながらの旅である。


 やがて列車は門司を過ぎ、鹿児島本線を南下して博多駅に滑り込んだ。薄曇りの冬の空の下、佐久間は荷を抱え、人波に押し出されるようにしてホームに降り立った。駅舎の壁には煤けた跡が残り、吹き込む風はどこか焦げた匂いを運んでいた。


——空襲か。

  春先の、あの噂は本当だったのか。

 ここから先は、もう自分の足で確かめるしかない――。佐久間は人々の流れを外れて駅前に立ち尽くし、胸に広がる不安を押し殺しながら、焼け跡の街へと歩み出していった。


  佐久間は背嚢を背負い直し、真っすぐ家の方角を目指す。

  足は自然に動いたが、道は記憶のままではなかった。広かった通りは瓦礫で狭まり、焼け落ちた材木の黒い骨組みが空に突き出している。

  ——ここは、本当にあの通りか?

  小学校の角を曲がると、さらに胸が締めつけられた。校舎は屋根を失い、校庭は灰色の土に変わっている。かつて子供たちの声が響いた場所に、今は風が唸って通り抜けるだけだった。

 家があったはずの界隈に近づくと、地図が頭の中から消えていく。あの薬屋の角も、八百屋の軒もなくなっていた。目印を失い、佐久間は瓦礫の海を漂うように歩き回る。

  「……違うか、こっちか……」

  独り言を繰り返しながら、焼け跡を踏み越えていく。足元で瓦が割れる音が、やけに大きく響く。

 やがて、立ち止まった。

  ここらが——そう、このあたりが、あの家のはずだ。土間があり、柱の奥に仏壇があって、夕餉の匂いがした。

  しかし、今そこにあるのは、煤に覆われた地面と、半分溶けた茶碗の破片だけだった。

 後ろから声がした。

  「お探しかね」

  振り向くと、腕に包帯を巻いた老人が立っていた。

  「この辺りの人で、生き残った者はいないよ」

  あまりに簡潔な言葉だった。だが、それで全てがわかった。

 佐久間の膝が、がくりと地面についた。掌が灰を掴み、指の隙間からざらざらとこぼれる。頭を抱えた。額に力が入りすぎて、こめかみが痛む。

  胸の奥で何かが煮えたぎるように熱くなるのに、涙は一滴も出なかった。

  代わりに、腹の底から声がせり上がってきた。

  「おおおおおおおおおっ——!」

  それは言葉ではなかった。

  怒りでも、悲しみでもない。

  全てを押し流す、どうしようもない虚しさが、声になって空へと突き抜けた。

 周囲の瓦礫が、その絶叫を吸い込み、反響させる。鳥が一斉に飛び立ち、遠くで犬が吠える。

  佐久間は、声が枯れるまで叫び続けた。

  灰と煤の匂いが喉を焼き、胸が裂けそうになる。

  それでも叫ばずにはいられなかった。


 清彦の、つまりは蓮の実家は熊本市内とはいえ、郊外にあり、空襲の被害は免れた。しかし、清彦と同じ大学学部を出て(若干佐久間が後輩にあたる)正式なものではないが、なんちゃって軍医をしていたのも同じ。

 清彦は脚を失い、復員も随分と遅れてしまったが、実家は無事だった。佐久間は五体無事に復員できたが空襲で一切合切を失ってしまった。

 何が幸運なのかわからない。


 否、幸運なんてあるものか! 理不尽が多少形を変えてふりかかっているだけじゃないか!



 再び、実家の玄関前にたたずむ清彦の場面に戻る。


 蓮にとっての祖父は、清彦の息子の清志郎であるし、生前の事は知らないが、長い間曾祖父と教えられていたのは、清彦の弟の清司だった。この際だから、蓮は清彦の事を”彦爺”と呼ぶことにした。見た目30歳くらいの幽霊ではあるのだが。



 ひとり。清彦の母、ツヤが玄関から出てきた。


 引き戸の外側まで出てきたところで立ち止まり、清彦をじっと見つめた。ただの一瞬のようでいて、その視線は永遠の長さを持っているかのようだった。

 そこに立つのは、まぎれもなく我が子であるはずなのに、戦地に送られて二度と戻らぬと覚悟したままの「清彦」でもあった。

 目の奥がかすかに潤む。けれども、それを涙として溢れさせてはならぬと、自らに言い聞かせている。唇が震え、今にも「おかえり」と言いそうになるのを、喉の奥で必死に押し殺す。その代わりに、やっとの思いで声を絞り出した。

「……清彦は、戦で亡くなったとば言い聞かされとる。皆、そう思うとるとよ。親戚も、近所も……」


 わずかに震える声。声の端が、泣き笑いのようにかすれていた。

 それでも彼女は涙をこぼさない。母は泣いてはいけない。泣けば、これまで必死に積み重ねてきた「生き残った者として、死者に対する日常」が崩れてしまうからだ。


 ツヤはそっと懐に手を差し入れた。取り出したのは、使い古された茶封筒。角はすり切れ、指に長く触れていたために光沢すら帯びている。そこに入っているのは、何やら一枚の書付と、わずかばかりの紙幣であった。紙幣は皺だらけで、幾度も数え直した跡がある。


「……お父さんの縁のあるお寺よ。……ここで世話になりなさい。うちには、もうあんたの居場所はなか」


 言葉は冷たいようでいて、その指先は小刻みに震えていた。母として拒まねばならぬ立場と、どうしようもなく息子を抱きしめたい思いとが、身体の中でせめぎ合っているのだろう。

 清彦の手に封筒を押しつけるとき、ツヤは一瞬だけ、その手の甲に触れた。だがすぐに視線を逸らし、踵を返して奥へと身を引く。

 背中はまっすぐを保とうとしているのに、肩のあたりが小刻みに揺れていた。

 けれど、彼女は決して振り向かない。振り向けば、堰が切れてしまうことを知っているからにちがいない。


 清彦は、無言で深く、しばしの時間首を垂れた。


 やがて顔を上げたとき、彼の目には涙も怒りも浮かんでいなかった。ただ、夢を歩いている者が、ふと空の模様に見とれるような、どこか現実から切り離された淡い表情だった。


 秋の陽射しが斜めに差し込み、杖の影が細く伸びる。清彦はその杖を頼りに、静かに実家を離れていった。一歩ごとに、土間の音が遠ざかり、家の匂いが薄れていく。

 後ろから慌ただしい足音が迫った。

  「兄さん!」

 振り返る間もなく、若い影が清彦の前に飛び出してきた。弟、清司だ。思えば、清彦は、出征前から清司の、春江に対する淡く若い恋慕に気がついていたような気がする。清彦が戦死したと知らされたのであれば、こうなることもごく自然な事のように思われた。


 彼は道に膝をつき、地面に額をこすりつけるようにして土下座した。

  「兄ちゃん……兄ちゃんに、なんと詫びればよかか……!」

  声は涙でつぶれ、言葉にならない。

 清彦は、じっと弟の背を見下ろしていた。片脚を失っては、視線を合わせるためにしゃがむこともままならぬ。かろうじて、肩に手を置き、穏やかに、ただ淡々と口を開いた。

 「……春江と、清志郎を頼む」

 命令でもなく、懇願でもなく、ただ一つの願いを託すように。


 清司の背中が震え、地面に落ちる涙が土を濡らした。


 清彦は、それ以上言葉を重ねず、土下座する清司をそこに置き再び歩き出す。



 なんてことだ! 蓮は自分の曽祖父の代に起きていたことに対し、どう考え思えばいいのか、夢の中なりに混乱した。あまりに、誰も救われなさすぎじゃないか! 自分の事ではなかったが、怒りであり、悲しみであり、寂寥でもあったし、どれでもなかった。

 そして、彦爺、どうしてこうも静かなんだ?



 夕刻の風は乾いて、耳の奥に虫の声だけを残す。途中の小さな社で足を止めると、拝殿の軒がちょうど雨風を避けるにほどよく、清彦はそこを借りた。賽銭箱の脇に背を預け、杖を横に置く。木の匂い。注連縄の藁に残る手触り。袖口から入り込む冷え。腹の虫が鳴り、遠くで犬が吠え、どこかの家の戸が一度だけ軋んだ。

 同じ野宿だというのに、あのビルマでの半分濡れた泥濘に漬かり、敵兵におびえながらのものを思えば、何と平和な事か! ひょっとしたら清彦は初めて日本に帰ってきたことを実感したのかもしれない。

  夜が降りきると、鳥の気配も消えた。星が軒の切れ間にいくつか見え、それを確かめるように目を閉じた。


 ここからは10倍速。

 朝もやを割るように歩き出す清彦。

 川筋を渡り、田の間を抜け、益城の町並みが近づく。

  「光照寺」と記された板標。山門の瓦。鐘楼の柱の節目。庫裏の土間に伸びる光。


 封筒の書付を見た住職が、何も多くは問わず、ただ一度頷く。


 箒を持つ清彦——落ち葉が掃き寄せられ、山になる。

 井戸の釣瓶を引く——桶の水面が陽を弾く。

 薪割り——鉈がまっすぐに降り、年輪がぱきりと割れる。

 庫裏の離れ——夜更けに体を横たえ、咳一つ飲み込む。


 昼下がり、子供たちが寺の縁側に腰を並べる。

 算盤の玉が小気味よく走り、かなの手本が紙の上に並ぶ。

 間違えると舌を出して笑い、合えば得意げに頷く。

 清彦は、板戸に背を預け、指で空に字の形をなぞってみせる。

 「ここで止める。ここは細く」

 子供の眉間の皺がほどけ、紙に新しい線が一本通る。


 物置の陰、擦り傷の少年に消毒液を含ませた布を当てる。顔をしかめる少年の手を言葉で外す。

 「数えるぞ。いち、にい、さん——はい終わり」

 奥から出てきた祖母が何度も頭を下げる。

 別の日。指を挟んだ青年の爪の際を整え、簡易の副木を添え、布で固定する。

 虫に腫らした腕には冷やした薬草をあてがい、熱を測るときの顔はどこまでも静かだ。

 夕刻の座敷、ほの暗さに線香の煙がまっすぐ伸びる。

 鐘が一度だけ鳴る。音は薄闇を渡って、畑の向こうでほどける。

 そして、夜。

  蝋燭の小さな火。

  清彦の鉛筆は、紙の上を止まりなく進む。

  細く立つ影が、行の端で揺れては戻る。

  何を書いているかは、知ることが出来ない。


 季節の断片が、ぱらぱらと継がれていく。

 柿の橙が庇の外で濃く、霜の白さが夜明けの土を薄く覆い、雨の粒が石段を斑に光らせる。

 袂に入った粉薬の紙包みが増え、子供の背がわずかに伸びる。

 笑い声、泣き声、釜の蓋の鳴る音——それらが一つの輪になって日々を回す。

 ——十倍速のような流れの中で、ただ一度だけ速度が落ちる瞬間を見た。

 夜半、蝋燭の火がふっと短くなり、清彦が筆を止め、宙に視線を置く。

 窓の外、遅い風。

 そのわずかな静止に、彼が何を見ているのかは、わからない。ただ、次の瞬間にはまた鉛筆が動き出し、紙の上に細い線が連なっていった。



 ある晩の事だ。


 厚さにムラがある質の悪い窓ガラス越しに月を見ながらいつものように何かを書いていた時に、窓の外から、息をひそめるように、しかし切羽詰まった声色で清彦に呼びかける声があった。


「坂本さん」


 ビルマで清彦の一年前に、先に復員するために別れた佐久間秀幸だった。傍に人影、女性のようだ。素直に戦友と再び会えたことを清彦は喜んだが、同時に、よりによってこの時間、ただならぬ雰囲気も感じた。

「よく来てくれたな。まぁ、とりあえず上がれ」

 つられて清彦も声を潜めてしまった。


 上がって部屋に入ってきていきなり、佐久間は清彦に土下座して見せた。

「面目ない!」

 清彦は訳が分からない。ひょっとして佐久間にとんでもない不利益を負わされたのだろうか?


 どうも違うようだ。復員して妻子身内一切を失った佐久間は、無気力で自暴自棄になり、気がつけば愚連隊に身を落としてしまったらしい。そういえば、佐久間が身につけているのは、どこかちぐはぐな堅気のものが身につけているものではないように思われた。そういう自分の不甲斐なさを、かつての戦友を目の前にしていたたまれなくなった、と言うのが土下座の一つの理由らしい。


 そして、隣に同じく深くお辞儀をしている女性だ。聞けば彼女は佐久間の愚連隊のボスの情婦だったらしいが、佐久間と同じく福岡の空襲で家族をすべて失い、ボスに心ならずも手籠めにされたのだが、境遇が似た佐久間と心を通わせ、絆され、駆け落ちしたとの事だった。名を澄江という。

 ボスは澄江への恋慕というよりは、メンツをつぶされたことに怒り心頭で、執拗に佐久間と澄江を追跡する。見つけ出して八つ裂きにすると言っているのだそうだ。

 

 不謹慎にも清彦は笑ってしまった。半ば隠遁者のような自分に比べ、この佐久間と澄江の二人、ついでに愚連隊のボスも、なんと、元気というか闘志があるというか、生臭いというか。本当は生きるってこういう事なのかしら、と一瞬考えてしまった。


 「疲れたろう。とりあえず布団は借りてきてやる。休もうじゃないか。明日、此処の住職に相談しよう。」


 笑ってしまいそうになったことをごまかすように、清彦は言った。


 翌朝、清彦は、佐久間、澄江を伴い、光照寺住職松原玄真に、佐久間の身の上を明かしたうえで、何とか佐久間を遠くに逃がすなど、できないか? と相談した。佐久間が自分が属していた愚連隊のボスの名前を言った時、玄真は「あのヤロウ、生きていやがったのか!」と、苦々しく言った。


 結局、佐久間と澄江は、玄真の手引きで日向に逃れることになり、三日後、光照寺を旅立っていった。その後、音信はプツリと途絶える。

 1959年の春先、日向の山中で、男女二人の白骨死体が発見される。ひどく暴行を受けたような痕跡が何とか見て取れたが、他に何の手掛かりもなく、未解決事件として処理された。


 

 寺男をしながら、近所の子供に勉強を教えたり、簡単な医療行為を行ったりして過ごしていた清彦だが、1950年の晩秋、風邪をこじららせて、あっけなく死んでしまった。ビルマでの無理がずっと体に残っていたのだろう。


 小学生になっていた、清彦の息子、清志郎には直接清彦の死が知らされたわけではない。しかし、両親や曾祖父の様子から清彦の不幸を推察してしまった。

 両親は、夜、子供(清志郎や妹たち)が寝静まる時間、座卓で差し向かいで二人して泣いていたし、祖母ツヤは曾祖父の部屋で、入り婿だった祖父寛治は座敷で、それぞれ一人で、うつむき方を震わせていた。清志郎自身は、清彦の事は極幼い頃の記憶しかない。何となく生きていることは知っていたが、養父清司に遠慮もあり、遂に光照寺に会いに行くことはなかった。以来、清志郎から見て、両親や曾祖父は心から笑うことがなくなったように思う。



 更に何年か経ち、光照寺の境内に高校生の少年が訪れた。清志郎である。墓銘も刻まれていない、隅っこの墓の前に立った。しばらくそうした後、しゃがんで手を合わせた。

 特に何をするわけでもない。その後清志郎は、本堂の階段に腰掛けて、何を考えるわけでもない、空を見上げていた。


 ここで、蓮は目が覚めた。寝付いたのが日が出てからだったので、夕方の中途半端な時間に目覚めてしまった。大学は・・・サボりだ。

 それにしても、随分と長い夢を見たような気がする。怖い、という感覚はないが、何とも寂寥感と救われなさが充満したような、ある種の悪夢のようにも思えた。


 そして、曾祖父の、自称守護霊、坂本清彦の幽霊と来た日にゃ、蓮の本棚から「バカとテストと召喚獣」を抜き出して、読んで居やがりましたよ。

 清彦がケタケタと笑いながらラノベをめくる姿を、蓮は呆れたように見ていた。ついさっきまで目にしていた光景――ビルマでの死の脱出劇、佐久間と澄江の末路、家族を泣かせた清彦の死、そして清志郎の墓前での沈黙――。鬱シリアスの主人公じゃなかったんですか、この人? それらと、この半透明の男の姿とが、どうしても結びつかない。

 「同一人物・・・・だよな?」

 思わず口をついて出た蓮の問いに、清彦は少しの間だけ笑いを止め、何とも言えない顔をした。懐かしさ、後悔、そして照れをごちゃ混ぜにしたような表情だった。

  「あぁ、蓮君も清志郎と同じ夢見たんだな。別に僕が演出したものじゃないよ。現に僕が知らない場面も見てるみたいだし。ビルマではいつくばった挙句、脚無くしたのも、蓮君の本見て笑ってるのも、僕なんだと、御承知願いたい。死んじまうと、重たいもんはみんな置いてきぼりにしてくるらしいよ。

 っていうか、本当のことを言うと、僕は若い頃、医者じゃなくて、劇作家になりたかったんだわ。柳屋金語楼って知ってる? 何かな金語楼の落語が進化したらこんな感じになるのか、と、ちょっと嬉しい。あぁいうのの台本を書く人になりたかったんだよ。」


 おや、これは意外な展開。じゃなくて、蓮は清彦に、どうして家の敷居を跨がせてもらえなかったときに、ああも穏やかでいられたのか確かめたかった。が、それを切り出すタイミングがつかめない。


 そうこうしている内に、このスチャラカ幽霊、またバカテスにのめり込み、腹を抱えて笑い出す。

 蓮は、なんとも釈然としない気持ちで溜め息をついた。けれど、その笑い声が不思議と、さっきまでまとわりついていた寂寥感を少しだけ吹き払ってくれるのも確かだった。


 その夜、布団に横になった蓮の耳には、まだ遠く、山中で聞いたような、誰かの泣き声の残響が残っていた。清彦の笑い声と入り交じり、現実と幻の境目が、妙に曖昧に揺れていた。

 それでも蓮は目を閉じた。眠りの中で、また誰かに呼ばれる気がしていた。

  けれど、その声が悲しみなのか、救いなのかは、まだわからなかった。



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