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2024年6月30日日曜日

8299 綾瀬はるか _8

 

8299 綾瀬はるか _8

8298 F40 _6

 

8298 F40 _6

8267 高山 20210630

 

8297 高山 20210630

8296 ZX-4 _2

 

8296 ZX-4 _2

8295 Alessandra Ambrosio _13

 

8295 Alessandra Ambrosio _13

8294 AE111 Corolla WRC _2

 

8294 AE111 Corolla WRC _2

AE111 Corolla WRC
Didier Auriol 1998


8293 Veilside Fortune FD3S _10

 

8293 Veilside Fortune FD3S _10

8283 Gilles Villeneuve _20

 

8283 Gilles Villeneuve _20

Gilles Villeneuve
Marlboro - McLaren M23 Ford-Cosworth
Silverstone  1977


8292 H2 750SS Mach IV H2R replica

 

8292 H2 750SS Mach IV  H2R replica

8291 志田音々

 

8291 志田音々

8290 P72

 

8290 P72

8289 CB1100RD _5

 

8289 CB1100RD _5

2024年6月23日日曜日

8288 Eclipse II _12

8288 Eclipse II _12

NT0071 「クール・ジャパン」とは則ち「お寒いニッポン」

 国主導の「クール・ジャパン」っていう奴が、どうやら「お寒いニッポン」にしかならなかったっぽい、なんていう話があるが、どういもね、役人頭で考える売りこみたい日本文化と乖離したところで、予測もつかない形で人気が出たりしちゃったりすものがあって、Yamanba-Styleなんて、その昔のロンドンのモッズやロッカーズの流れのようにとらえられている部分があったり、Bousou-Zoku-Styleを思いがけないところで見かけたり、な。アニメだって早々にそこから伝統文化に誘導したかったみたいだが、最近になって漸く、というところなんだが、それにしたって、戦国時代の妙に血なまぐさいものが人気があったりして。

 Mangaのおかげ、「頭文字D」のおかげ、もあってか、Hashiriya、Touge、なんていうのも一部に人気があったりするんだが、今の海外でのJDM人気、考えてみたらオレが若い頃、ちょっと上のおっさん、おにいさん達が、’60年代あたりの欧米のスポーツカーをもてはやしていたようなものかもしれない、と思っている。で、その時ですらすでに没落していたが、その前の往年の英国製ライトウェイトスポーツに対しての80年代当時イギリスという国の状態と、かつての黄金期のJDMに対しての今現在の日本の状態が相関していないか? と、それほど根拠がなさそうなことを思い立ったりもしている。
 それが本当なら、かつての黄金期を知るオレら位の世代は幸せだが、逆に言えば、もうリアルタイムの日本製のその方面のクルマが浮かび上がる可能性が低いということになるけれど、その可能性が結構あって辛い。

 それでも、80年代から90年代前半にかけての方向性を持った今のクルマ、日本メーカーは作っていないこともないらしいが、肝心の本国日本では売らないことにしているらしい。

 見向きもされない、ということはない、が、「クールジャパン」が「お寒いニッポン」になってしまった的な何かがあるのかもしれないし、とにもかくにも、日本メーカーが母国での商売を重視していないというのは、日本では物が売れないから、という、至極シンプルな理由があるのだろう。でも、それだけなんだろうか?

 「The Fast &Furious」シリーズの初期作品では特にJDMが主役級だったが、基本ハリウッド映画。「頭文字D」の実写版なんて、舞台は一応群馬県あたりのはずなのに、キャストが全て中国人、飛び交う言葉も中国語なんていうトンデモで、なんというかな、寂しい、とでも言っておこうか。愚痴やらなにやら、止めども無くなってしまいそうだ。

 まぁ、分からない人間には全て暴走族の一括り、それも仕方ない。誰の意図かはわからぬが、そういうものをこの国からそぎ落とそうという傾向は、大昔からあったけれど、21世紀になってから顕著になった。そういうものが好きだった者としてはそのこと自体、者を申したくもなるのだが、一歩引いたとしても、結構弊害が見えたりはしている。だからといって、この流れが元に戻る事も考えられない。弊害は大きくなっていくだろうが、手を打たれることはないだろう。

 どうも、まとまらないし、分かりにくい文章になってしまう。整理して次回以降。

 

2024年6月22日土曜日

8287 下田沙也加

 

8287 下田沙也加

Sayaka Shimoda
ZN6
Old-Usui Touge 2024

 切り抜きを見ての事ではあるが、今年のモントレーでの下田氏のドリフトの美しさが凄く印象に残った。競技ドリフトの時はS15だが、ラリーの時はZN6らしい。それも新鮮だった。


8286 Emily Feld

8286 Emily Feld

NT0070 ノート「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘玲  2

 マリノウスキーっていう人が書いてるそうだよ。

 異性がもたらす魅力とそれが産みだす情熱的なまたセンチメンタルなできごとは、人間の生存にとって、もっとも重要な意味を持つ。それはまた人間の内面的幸福や人生の妙味、意義などにもともと深く結びついている。それゆえ、特定の社会を研究する社会学者にとって、個人の性愛生活をめぐるもろもろの慣習、観念、制度の研究は、基本的な重要性をもつものである。(マリノウスキー『未開人の性生活』泉靖一・蒲生正男・島澄訳、新泉社、1971年、15頁)

 あ~、うん。誠にその通りだと思うよ。でもな、そうした性愛生活がまるっきり不全な男性が多いのも事実。橘氏のこの本の第一章はそこから始まっている。2021年8月に小田急線車内で男が刃物振り回した件とか10月に京王線車内で同様なことが起こったりしたこととかを例示している。この前のNRとNSXの売却代金を貢いだ挙句のめった刺し50男も同じようなもんだ。みんな性愛生活の不全。

 どうなんだろうな。愛のある生活、素晴らしいと思うよ。でも、持ち上げすぎじゃないか? 性が満たされない、それ自体結構来るのに、社会全体、とまで行かなくとも、大部分そういうモードだと(と感じてしまうと)、満たされないところに、さらに余計に疎外感にまで襲われてしまう事はないか?
 或いは、今日の朝、テレビでやってたよ。AIによる仮想人格と恋をして何となく満たされた気持ちになってしまう、という解決法。AIとまでいかなくても、「二次元サイコー!」とかいって、そういう感じのキャラクターに入れ上げて、っていうこと結構前からヲタクはやっていたけど、まぁ、気持ち悪い、という評価だったわな。ところがそういう感じのものが、一般に広がりだしている、と。まぁ、ぶっちゃけ一種のマスターベーションなんだが、その辺は文明の力でオブラート掛けてる感じ?

 その辺を論じていくと、例えば、歴史上、概ね人々は性愛は満たされていたが、ここに来てそれがうまくいかなくなった、のかどうか、詳しい論考が必要になってくるが、このまま人類は急速に衰えていくんだろうな、核戦争で劇的に滅ばなくても2,3世代のうちに酷いことになりそうな気がする、と、常々オレが感じている予感めいたものが強化されていくような気がする。

 まぁ、それは置いておこう。それでも、まだもがこうというガッツある若者の話だ。
 「愛」は二の次、とにかく「性」に問題が切実なのは歴史においていつの時代も変わらないのだが、とりあえず、それをナンパで解決しようという話。
 ナンパは英語でPickUpArtというんだそうだ。そしてその方法を更に和訳すると「恋愛工学」というんだそうだよ。なんだろうな、この「工学」というのを、結びつきそうにないものにつけちゃう感性。他には「金融工学」なんていうものもある。システマティックに解決まで導く、みたいなニュアンスなんだろうが。
 この本では。恋愛工学に関し、その落とし穴、みたいなことを第1章で書いていて、目次を見る限り「金融工学」はその次に書いてありそうなんだが、「工学」なんて言う言葉を安易につけたがる感性が寧ろ状況を悪化させているような気がする。

 疲れたので続きは次回。

8285 ZXR750 (ZX750H1) _32

 

8285 ZXR750 (ZX750H1) _32

8284 DBR1 _3

8284 DBR1 _3

NT0069 キャロル・シェルビーの時代

 キャロル・シェルビーは歴史上最も幸せなカーガイだった、とオレがここで書いてもおそらくは反論は起きまい。F1の戦績は残せなかったが、若い時はルマンウィナー、カーデザイナーとしてはコブラを世に出し、ルマン優勝チームを率い、そりゃビッグネームとなれば相応の苦労もあったのかもしれないし、プライベートの人間関係までは知らないけれど、老いて亡くなるまで好きな車に概ね最高な形で関われたのだから、羨望が強い。

 が、「Ford vs Ferrari」の冒頭では、心臓疾患でレーシングドライバーからの引退を余儀なくされた、「まだやり残したことがある」「もっと遠くに行きたかった」おっちゃんにいちゃんとして登場する。映画の尺の都合もあるだろう、必要以上に過去に拘泥する描写はなく、ケン・マイルズと二人三脚で、GT40をルマンで勝たせるために奔走するのがこの映画の流れだ。
 どちらにしろ、彼の「やり残した」と言う思いは、レーシングチームやショップのマネージメントに上手く転化されていくわけである。
 苦味も芳醇な旨味も、どのような生き方をしようが味うことになる。苦味を感じぬようにしていれば旨味にも行き当たらず、見るところのない、まして映画の題材になるはずもない、そう言う人生になっていたはずだ。

 さて、前に書いた通り、この頃のクルマというのは随分原始的で野蛮なもので、タイヤの着脱ひとつとっても、名前知らない、ホイールのハブのあたりを大ハンマーで力任せに殴っていた、そういう時代。

 映画のGT40やP330、カレラ910は丁度オレが生まれたくらいの時の最新型スーパーマシン、DBR1やコブラはそれより1世代前のものになるが充分現役バリバリ。で、さ、オレが20代の頃だけど、その時の30代半ば以上のオジサンたちに、やたら特にこの頃のクルマ上げ、現在(’80年代)のクルマ下げ、なことを言う人たちがいたのよ。なんや、このオッサン等? と思っていたが、まさかね、今その心境が分かるようになるとは思っていなかった。
 ぶっちゃけ、今(2024年現在)のクルマの、「これじゃない」感。

 ふわっと、ざっくりと、それが何なのか言えなくはない。まぁ、今のクルマの開発者も可哀そうだ、というか。1方向に突き抜けられない、どの方向に向かっていいのかよくわからない、その実目指したい方向とは違うものに支配されている、そんな感じ。


 

2024年6月18日火曜日

8282 Jiotto Caspita Mk.II

8282 Jiotto Caspita Mk.II

NT0067~0068 同級生S君と童夢

 高校の同級生のS君がまさか京都の北の方にあった童夢に勤めていたとは、オレ自身京都にいた当時は知らなかった。尤も童夢はその後米原に移ったのだが、移転前に、F1やると開発するも成就しなかったはずだ。そのプロジェクトの最後のあたり、服部尚貴氏のドライブで公開テストをやってるはずで、S君もそれに参加したとSNSに書いてなかったかな、どうだったかな。実のところ言うと、高校生の時、美術選択で同じ授業と取っていた以外接点はほとんどなく、寧ろ彼は中学の時オレの従兄弟のトシヒトと同じ柔道部で、トシヒトの方がS君とはよく話をしているだろう。で、童夢がF1をあきらめた時期にS君は日産に転職している、はずだ。子供も大きくなって孫もいるような歳になったので、割と気兼ねなく同窓会に参加できる年頃にはなったが、まだ、S君とは直接会っていない。顔を合わすことがあったら当時の話、聞いてみたいものではあるが

 しかしまぁ、S君、東大卒なんだが、同じ高校の他の東大卒の同級生では国交省の事務次官候補にまでなった奴がいて、そういうのが一般的な東大卒のイメージなんだけど、童夢、なんて、わが道を行っているようでかっこいい。前にKP61の絵をブログであげた時反応してくれたので、東大の自動車部か、そうじゃないところでKP61でダートラとかジムカーナとかやってたのかもしれない。


 それで、だ。童夢が造ったJIOTTO CASPITAだが、年代的にはS君が入る前。MkIがスバル・モトリモデルニ、画像のMKIIがジャッド製、ということになっている。ぶっちゃけ当時のF1のエンジンである。外側のデザインは現在でも十分通用する。というより、今のデザインはこれに精々スリット入れたりとかややこしいウィングつけたりとか意味意義不明の切り返しがあったりとか、その程度の違いしかない。今のデザイナーさんたちもアイディアが出きった所での仕事でご苦労様だ。
 しかしながら、無邪気だったあの時代でしかありえない代物であることは確かだ。今は日本資本はこういうものに絡めない。経済力も然ることながら、社会の流れの中で、という意味で。

 自動車というものへの考え方というか何かが、2010年前後に決定的に変わってしまった。いや、ひょっとしてら、S君が童夢にいたり、オレがクルマも嫌いじゃないけど圧倒的単車が好きだった頃から、何となくそういう未来は、無意識にも予測していたかもしれない。
 ほら、子供の時とかに見た、手塚治虫氏とかが1950年代60年代に描いてた、ちょうど今頃の未来には、クルマは昔のラブホテルの料金支払い時使ってたようなシュートチューブのような感じの透明なパイプの中を浮かぶように移動するようなそういうモビリティになるかもしれない、と思ってたから。そういう手塚治虫氏や石ノ森章太郎氏の流線型というより、もうほとんど卵型の少し浮かんだ、自動車に替わる何かは、一義的には明るく正しい都市の未来像としての描写だった。

 1997年にスカイネットとの核戦争は起きなかったし、2014年にサードインパクトも起きなかったし、今年の春先に「笑い男事件」も起きなかったが、現実の2024年の今は、そこはかとなくディストピアであると感じている。個人的にはこれからの2,3世代で人類というのは急速に衰亡していくのではないかと感じている。
 大人としてそれを軽々に言ってしまうのは無責任であると批難する向きもあるが、納税の義務を果たし選挙権を今のところ100%行使している身としては、それらを行ってもそう感じてしまうのであれば、それを表明する権利と義務があると感じているのでこの様に文章を打っている。
 「ディストピアっぽい」のは、何もクルマに関することだけじゃないけれど、クルマを起点に掘り下げて考えてみてもかなりの事が見えるのではないかと思う。