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2025年9月16日火曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 3 アンパンマンとアセファル

 

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 うっかりしていたが、アンパンマンはアセファルそのものなんじゃないか、と、ふと思い立った。等と書いたところで、バタイユ、誰それ?な方々には、ましてアセファルなどと言うものがなんであるかご存じないだろう。
 上手く伝わるかわからないが、ざっと説明すると、 バタイユが「アセファル」と名付けてつくった秘密結社は、実際に1936年から1939年ごろまで活動していた。結構史料も断片的で、想像力で補わなくてはいけない部分も多い気がするが、大事なのは、そう言う材料で今のオレが何を考えるか、と割り切ることにする。

 設立者は、書いてのとおり、ジョルジュ・バタイユ。活動時期は、936年頃〜第二次世界大戦直前ごろとされる。まぁ、かなり短い期間だったみたいだ。
 メンバーとしては、作家で思想家のピエール・クロソウスキー(作家・思想家)、社会学者のロジェ・カイヨワ(社会学者)、哲学者ジャン・ピエール・デュポワなどがいたそうな。すまん。この中では、不勉強故ジャン・ピエール・デュポワの名前しか聞いたことがない。ほかにもぼちぼちいたようだ。
 目的・理念みたいなものはなんだったか? ナチズムやスターリニズムといった全体主義が台頭する中、国家や理性中心主義に依存しない共同体を模索するというのが旨だったらしい。 「頭(理性・権威)を持たない人間=アセファル」を象徴とし、死・犠牲・聖性・生のエネルギーを直視できる共同体を目指した。バタイユは「人は神を殺した(ニーチェ)が、まだ国家や理性の偶像に囚われている」と考え、その外に出る実験をしていたようだ。
 実際の活動としては、定期的な集会を開くとかね。森などでの儀式的な集まりもあったとのこと。バタイユが描いた「アセファル像」(首を持たず、心臓に太陽を抱えた人間)のイメージをシンボルとして掲げた。文献的な研究というよりも、共同体的・儀式的な実践を重んじた。

 「人間は死と犠牲の中でしか本当に生を感じられない」という思想を共有。

 バタイユは本気で「人間の生贄の儀式」をやろうとしていた、と伝えられているから、物々しい。実際にメンバーから「自分が犠牲になってもよい」と申し出る者もいるような、変態さんたちの集まりだった。もっとも最終的には実行されなかったって、そりゃそうだよね。やってたら後世に猟奇カルトとして名をはせることになってただろう。現実的な限界と倫理的な抵抗があった。当然ながら。
 結社自体は短期間で消滅したが、その精神はバタイユの著作や思想的ネットワークに受け継がれたとされる。
 一言で言うなら、理性や国家を超えて、死と犠牲を真正面から受け止める共同体をつくろうとした、半ば実験的・儀式的な秘密結社だった。

 そもそもアセファルとは、ジョルジュ・バタイユが考えた「人間のあり方の象徴」だ。「頭がない人間」という字義どおりのイメージから出発している。繰り返すが、頭は、理性、秩序、権威、国家の象徴であり、従って「頭がない」とは、そういうものから自由になった存在であるとする。
 理性や秩序を超えた、人間の本能や生の力を表す。「考えるな、感じろ」って、ブルース・リーみたいなことをおっしゃる。計算ではなく、衝動や欲望や犠牲のエネルギーこそが大事なのだ。
 それは、死や犠牲と切り離せない存在だ。人は生きるために食べ、他者に与えるために自らを削る。その「生と死の混ざり合い」を直視する姿こそがこの活動の肝となる。

 つまりアセファルは、「理性や社会のルールの外側で、もっとむき出しの生と死を生きている人間像」とでも言えばいいか?怖さもあるけど、逆に人間の本当の力を示しているとも言える。


 んで、なんで、アンパンマンはアセファルなのか、だが、まぁ、何となくわかっていただけるか?

 アセファルは「頭をもたない人間」として、理性・秩序・国家的権威から切断された存在を意味した。アンパンマンもまた「顔(頭部)」が取り替え可能であり、頭は自己同一性の中心ではなく、むしろ欠落・交換・犠牲の場だ。
 アンパンマンは自分の顔(=パン)をちぎって飢えた人に与える。これはまさにバタイユ的な「贈与=浪費=犠牲」の論理そのもの。経済合理性に還元できない純粋な贈与であり、消費されることで彼自身は力を失っていく。
 子どもたちのヒーローとして秩序を守る一方、自分の頭が交換可能であることによって、人格やアイデンティティの一貫性を欠いている。つまり、秩序の守護者でありつつ、アセファル的な「首なし=逸脱性」も内包する。言い換えるならば共同体の中心でありながら、外部性を孕む。
 顔=食べ物=死と生の往還と捉えてみる。バタイユがアセファルを通じて「死と生の根源的な関係」を問題にしたのと同じく、アンパンマンは「自分の死=消耗」と「他者の生=栄養」を同時に体現する存在だ。
 要するに、アンパンマンは「秩序を守る子ども向けヒーロー」の皮をかぶった、かなりラディカルなアセファル的存在、とも言えるんじゃなかろうか?


 そう考えると、初期のアンパンマンが子供たちに受け入れられなかったこともなんとなく理解できる。やなせたかし氏の初期アンパンマンって、今みんなが知っている「正義の味方」像とはずいぶん違っていた。顔をちぎって人にあげることは、そのまま自己犠牲の象徴なんだがそれはどういうことか?ヒーローっぽい勧善懲悪ではなく、ただ「飢えた人を助ける」だけ。だから敵を倒すカタルシスよりも、むしろ「自分を削る痛々しさ」が前面に出ていた。
 これは、バタイユ的に言えば、消費や浪費の恐怖を直視させるものだ。子供が直感的にそこに「不気味さ」を感じてもおかしくない。アンパンマンは「与える=死ぬ」という無意識の構造を背負っているから、単純に「かっこいい!」「強い!」という安心感にはならないのだ、決して。まぁ、時代が進むにつれてアニメ化され、デザインが丸くなり、バイキンマンとの勧善懲悪の枠組みに乗せられた。すると、怖さやアセファル性が子どもに直接届かなくなり、むしろ「わかりやすい正義の味方」として受け入れられるようになったんだが。
 要するに、初期の拒否反応は、アンパンマンの「アセファル的な不気味さ」に対する自然な反応とも読める。

 しかし、後にどう変容しようと、初期のものがあるからアンパンマンだと思う。
 後期の「正義の味方・アンパンマン」って、もちろん大衆的な支持を得て国民的ヒーローになったけど、それだけだと単なる子ども向けキャラで終わっていたかもしれぬ。でも、初期のアンパンマンが持っていた「自己犠牲=食と死の循環」の不気味さがあるからこそ、作品全体に独特の深みが宿っている。
 言い換えるならば、初期のアンパンマンは「アセファル的な核」であり、後期のアンパンマンは「社会に受け入れられるための表層」だった。
 両者が重なっているからこそ、「ただのキャラ」じゃなくて「時代を超えて生き残る存在」になっているんじゃないか、と。
 つまり、いくら勧善懲悪に馴化されても、底には「自分を削って他者に与える」っていうラディカルな贈与の論理が流れている。だから、どの時代のアンパンマンを見ても、子どもたちは無意識にそこを感じ取ってるんだと思う。

 バタイユが「アセファル」に込めたのは、秩序や理性から切り離された、もっと原始的で、恐ろしくも人間らしい核だった。アンパンマンの初期像は、まさにその核が子供向けキャラクターの皮膚から透けてしまっていたもの、と読める。
 アンパンマンは実際に「自分をちぎって他者に与える」という“擬似的な生贄”を日常的にやっているわけで、バタイユが夢見た共同体的な儀式を、子ども向けアニメが無意識に実装している、という対比になる。
 もうね、やなせたかし氏、バタイユ読んでたんじゃないかと思うほど。もちろん史実的に「やなせたかしがバタイユを読んでいた」という証拠は見つかってないが、両者の発想には不気味なほどの共鳴点がある。
 共鳴するポイントとして、まず、言うまでもなく、自己犠牲=贈与がある。バタイユは、「生は浪費されることで聖性に触れる」とし、やなせ氏は「正義とは他人のために自分を犠牲にすること」とした。
 食べる/食べられるの循環は大事なポイントだ。バタイユの主張での犠牲祭儀における「食と死の共同体」は、アンパンマンの自分の顔(パン)を与えて他者が生き延びることにそのまま当てはまる。
 理性よりも“むき出しの生”というか、理性というものの二の次観、ぱねぇ。アセファルつまり、頭を欠いた人間なんて、理性のひとかけらも観られないが、アンパンマンは、顔(頭部)は常に交換され、同一性の中心ではない者としてそれを再現する。

 共同体はどうだろう?バタイユにおいては死と犠牲を共有する小さな結社だったが、アンパンマンではパンを与えることで共同体=仲間がつながる、という形になる。

 やなせ氏は戦中・戦後を通じて「飢え」を直に経験し、その経験がアンパンマンの原点になった、と自ら語っている。つまり彼は、理論としてではなく、生活の中で「食と死と贈与」の切実さを体感していた。だからこそ、バタイユが哲学・宗教・神話を通じて辿りついた「アセファル的直観」と、やなせの“生活から滲み出た直観”が、結果的に重なっているところが何とも面白い。
 ジョルジュ・バタイユは、1897年9月10日生まれ、1962年7月8日没。やなせたかし氏は、1919年2月6日生まれ、2013年10月13日没。まぁ、朝ドラを見ての事だけど、やなせ氏、多分バタイユは読んではいないだろう。しかし、ここまでの相似を見せるのは、経済社会の形、戦争の形というのものが、極限近くに来てしまった故の必然ではないかとふと思った。
 バタイユとやなせ氏、出自も立場も違うのに「自己犠牲」「死と生の循環」に同じように触れざるを得なかったのは、やはり 経済社会と戦争によって極限状況に押し出された必然とはいえはしないだろうか?
 バタイユの身に降りかかったのは、ヨーロッパの危機だった。第一次大戦後の荒廃、資本主義の限界、ナチズムの台頭、等々。経済合理性や国家権力では説明できない「人間の根源的な生と死」を直視せざるを得なかった。だから、アセファル結社で全体主義にも資本主義にも回収されない「死と犠牲の共同体」を模索のだろう。社会の極限が思想を押し出した形といえる。
 朝ドラを見ておられた方々には言うまでもない。やなせたかし氏の場合は、一も二もなく飢えと戦争体験がそれにあたる。一応書いておくが中国戦線に従軍、敗戦後は極度の食糧難を経験し、そのときの「一切れのパンが命を救う」という切実さがアンパンマンの発想に直結した。戦後の高度成長の中でも、「飢えや貧しさに苦しむ人がいる現実」を見続けた。だからこそ「正義=自己犠牲」という定義を揺るがさなかった。

 共通する点を考えてみよう。それは、極限状況に触れた人間は、与える/犠牲になるという次元でしか他者と繋がれないという直観だろう。「合理性・秩序・経済」が極限に来ると、必ずその外に「アセファル的なもの」「アンパンマン的なもの」が現れる。
 つまり両者の一致は、単なる偶然のシンクロではなく、20世紀という極限の時代が必然的に生み出した応答と見るのが自然じゃないか?


 まぁ、それでも、いざ実践しようとすると、アイデンティティというものが、途端に不安定に感じられるようになってしまいそうだ。人間が「与える=犠牲になる」「生と死を直接扱う」ことに踏み込むと、アイデンティティの安定感が一気に揺らいでしまう。
 いくつか、理由っぽいものを考えるならば、一つ目に、自己の境界が溶けることを挙げてみる。自分を削って他者に与えるという行為は、文字通り「自分の一部を失う」ことだ。その瞬間、自己同一性の中心が揺らぎ、頭で考える「自分らしさ」では補えなくなってしまう。
 理性、秩序に依存できないという事も有り得る。バタイユ的には、理性や社会の秩序は「頭=中心」を維持するための装置だが、アセファル的行為では、頭(理性)はあてにならない。従って、自分が誰であるか、何を基準に動くかが曖昧になる。
 だから共同体の規範との摩擦も起きる。周囲の期待や社会のルールは「安定したアイデンティティ」を前提にしている。無条件に与える行為や犠牲は、その枠組みを外れるため、孤独感や疎外感を伴いやすい。

 逆に言うならば、この不安定さを耐え抜いた人間こそ、バタイユがいう「アセファル的人間」であり、やなせの描いたアンパンマン的存在でもある。そして、不安定さそのものが、深い生の実感=自己を超えた与える力の証明になる。

 ねぇ、今度は人類補完計画?って展開にもなるのだが、エヴァの人類補完計画は、個々の人間の隔たりや孤独をなくし、全人類をひとつの存在にまとめようとする壮大な試みだった。結果として、個人のアイデンティティは溶けてしまう。
 アセファル的、アンパンマン的行為というのは、個々が与える或いは犠牲になることで、他者との関係や生の深みを実感する。確かにアイデンティティは揺らぐが、完全に消えるわけではない。与えることと失うことを体験しながら、なお自分として生き続けるわけだ。
 つまり、似ているのは個の境界が揺れる点ですが、決定的に違うのは「消えるかどうか」。アイデンティティが揺れる瞬間はあるけれど、完全な消失ではなく、むしろ生のリアルを知る体験となる。

2025年9月7日日曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 1 ジョルジュ・バタイユ、TZ250

 

8839 TZ250 _9


 ジョルジュ・バタイユがもし1980年代あたりに元気に活動していたと仮定したら、彼はきっと「モータースポーツ」「単車」「スピード」みたいなものに惹かれたのではないかと思えて仕方ない。

 バタイユの思想には「極限体験」「逸脱」「共同体の陶酔」が根っこにある。したがって、1980年代に元気なら例えばこんな展開が考えられるかもしれぬ。


 F1ブームとの親和性はどうか? セナやプロストが全盛を迎える直前だ。寧ろマンセルとピケが同じチームで丁々発止やってたころ。スピードと死の接近、スポンサー資本の華美さと人間の肉体の限界が交差する場所として、バタイユ的には非常に「エロティック」な場であったことだろう。「消尽(dépense)」なんて、F1マシンの燃料やタイヤに重ねて語りそうだ。


 二輪文化については? 特にヨーロッパのカフェレーサー文化から日本の族車カルチャーまで、暴走や事故を「神聖な瞬間」として描きそうだ。単車の爆音を「共同体的祝祭」として読み替えるわけだ。


 バタイユはおそらく消費社会批判と結びつけることだろう。1980年代は消費資本主義の絶頂期。スポンサーだらけのマシンや、レーサーが広告塔になる姿を「神聖さの堕落」と批判しつつも、同時にそこに「崇高な笑い」を見出すにちがいない。


 絶頂にいた当時の日本との接点があったなら、ホンダNSRやカワサキGPZに夢中になりつつ、走り屋や峠文化を「神聖な浪費」として愛でたかもしれぬ。


 もっと妄想を膨らませると、1980年代のバタイユは「パリ・ダカール・ラリー」に強烈に惹かれた気もする。死のリスク、砂漠という空虚な空間、マシンと人の極限。これ、完全に彼のテーマと重なるように思える。


 バタイユがのめり込むのが単車なら、例えば、市販のTZ250で、サーキットでコケまくりながらも、アマチュアながらレースにのめり込んだりしてな、とか考える。

 市販レーサー、ヤマハTZ250、まさに80年代のプライベーターが血反吐を吐きながら走らせるマシン。いわゆるレーサーレプリカどころじゃない、特にパイプフレームの頃の、なんて、本当に「レースやりたい奴向け」のマシン。公道走行不可、ナンバーも付けられない。サーキット専用。2ストロークで、ピーキーで、パワーバンド外すと一気に失速して、逆に入ったら暴力みたいに吹け上がる。素人が乗れば確実にコケる。いや、上手くてもコケる。F1の華やかさよりずっと「肉体と機械がギリギリでぶつかる場所」って感じがする。


 バタイユがもしそこで生きてたら、こんな風景が浮かぶ。人類の文学史における変態とか、闇の哲学者とか、そういう評価はもう散々されているんだが、ただ机に向かって文字ばっかり打ってた御仁ではなかったようだ。

 転倒と破壊を肯定するだろう。「勝つ」よりも、転倒しながら肉体とマシンを削り取っていくことそのものを「至高の浪費」として捉えるのではないか? ガチ勢にはひょっとしたら迷惑な奴かもしれないが、「レースは死と交わる祝祭だ」とか言いそうだ。


 バタイユの運動神経がどうであったかはよく知らないし、ライダーとして大成したかどうかもわからないが、多分、アマチュアにこだわったに違いない。プロの華やかな舞台より、地方サーキットの埃っぽいパドック、ビール片手にオイル臭の中で仲間と語らう空気を「共同体」として愛したことだろう。その中で「コケる瞬間」を、破局に向かう笑いの爆発として解釈したような気がする。


 TZ250の特性としては、特にアルミフレームの公道用TZRとほぼほぼ同じになる前のものはイメージとして、ピーキーで、パワーバンド狭くて、乗り手を振り落とすような性格だったに違いない。バタイユなら「理性を裏切るマシン」として詩的に讃えそうだ。そして「TZは私を裏切る。だがその裏切りにこそ真実がある」とか書きそう


 そんなバタイユにとって、サーキットは則ち宗教的思想的聖域だったろう。彼にとってサーキットは教会や闘牛場の延長線だ。転倒や事故が供犠になり、消費されるガソリンやタイヤが「神聖な供物」として語られるわけだ。

 


 つまり80年代のバタイユは「プロにはなれないが、サーキットに自分を燃やすアマチュアレーサー」として、身体を削り、笑いながらコケて、その体験を思想の言葉で書き散らす…そんな姿が想像できてしまう。


 オレがこんなことを思ってしまうのも、生前結構ヤバめな秘密結社、「アセファル(首なし人)」なんてのをやってたのを読んだからだ。いや、それをやるなら絶対サーキットで目剥いて走ってただろって思ったわけだ。

 アセファルというのは、ただの読書会じゃなくて、実際に「人身供犠」をガチで検討してたという話まで残ってる、とんでもなものだった。

 で、それを1980年代に当てはめるならば、秘密結社で供犠をやるくらいなら、絶対サーキットで目剥いて走ってただろ」ってね。


 バタイユが言うところの「首なし」と「フルフェイス」なんて、ちょっと通じるものがありすぎだ。アセファルの象徴が「首なしの人間」だった。80年代のフルフェイスヘルメットって、外から顔が見えないし、レーサーのアイデンティティを消してしまう。つまり、ヘルメットとはアセファルの仮面というわけだ。


 今でこそ、がちがちに安全対策がとられているけれど、当時のサーキット(鈴鹿・筑波・SUGOとか)は、事故死が珍しくなかったように記憶している。まぁ、今より多かったとは思う。そして、「死とスピード」が常に背中合わせの空間、共同体的な祝祭場だった。秘密結社での供犠が「サーキットの転倒・死亡事故」に置き換わるわけだ。


 そしてその場で、タイヤを削り、ガソリンを燃やし、エンジンを焼き尽くし、挙げ句の果てにライダーが骨折しても走り続ける。これはまさに「バタイユ的な贈与の極致」だったに違いない。


 バタイユが仲間を集めてたならどうなったか?

 アセファルの仲間たちがもし80年代にいたら、全員でTZ250やNSR250を買って、秘密結社の集会は「筑波サーキットの走行会」になる。「転倒こそ神聖。骨折は通過儀礼」って感じでね。わ~、迷惑。


 想像すると、秘密結社「TZ首なし団」 みたいなのを作って、夜は酒と議論、昼はサーキットで目を剥きながら走る、っていう光景が浮かんだりするわけだ。彼らの議論は夜の酒場で続く。「供犠とは何か」「共同体の陶酔とは何か」――その答えを求めてね。でも昼間は、ツナギ着て、フルフェイスかぶって、TZでコーナー突っ込んでコケる。 転倒は供犠だ。骨折は通過儀礼だ。そうやって彼らは、「哲学」を現実に置き換えてしまう。

 バタイユが本当に求めていたのは、文字の世界に閉じこもることじゃなかったと思う。いつも「越境」とか「逸脱」とか「破局」とか言ってるけど、それって結局は、肉体が壊れる瞬間とか、共同体が笑いながら死に突っ込む瞬間とか、そういう体験のことだった。机上の理屈じゃなくて、実際に骨を折ること、血を見ること。

 だからこそ、もし80年代に生き延びていたら、あの時代の「サーキット文化」に夢中になってたに違いない。

 F1? いや、あれはちょっと違う気がしてくる。

 確かに80年代のF1はセナやプロストが台頭して、死と隣り合わせのスピードを見せてはいたけれど、バタイユにとっては少し「遠い」。華やかすぎるし、スポンサーにがんじがらめだし、そこに「地下」の匂いはない。

 寧ろ地方サーキットのほこりっぽいパドック、雨で濡れたアスファルトに倒れたマシン、それを仲間とガムテで直してまた走る。そういう場こそが「供犠の舞台」としたのではないか?


 夜は酒を飲みながら、転倒の話で笑う。

 「お前のハイサイドは美しかった」

 「ガソリンぶちまけて火が出た瞬間、俺は神を見た」

そうやって笑い合う共同体。それが「首なし人間たち」の1980年代版。


 バタイユはきっと、フルフェイスを「仮面」と呼んだろう。顔を隠すことによって、ライダーは「誰でもない者」になる。アセファルの首なし像がそのまま形を変えて、ここにある。ヘルメットの中で歯を食いしばり、目を剥いてスロットルを開ける。そこに「理性を越えた陶酔」がある。


 もちろん、死ぬ奴も出る。繰り返すが、80年代の二輪レースなんて、今みたいに安全設備が整ってなかった。それを悲劇として悼むんじゃなくて、「供犠が成就した」として讃える。まぁ、狂ってるわな。しかし、これこそ、完全にバタイユ的な共同体のあり方だったように思う。


 現代の目で見たら狂気以外の何物でもない。でも、あの時代のバイク乗りたち、特にレーサーや峠小僧たちは、世間知らずの甘ちゃんなりにも、どこかで「死ぬかも」というのを嗅ぎながら走っていたのではなかったか?その空気に、バタイユがフィットしないわけがない。


 筑波のパドックとかに、青い目のフランス人が混じっていて、ボロボロのツナギに身を包みながら、コーヒー片手に「今日はどこまで越境できるか」なんて呟いているんだ。笑うよな。走り出したら案の定コケて、仲間に引き起こされながら、「ああ、これだ。これこそ供犠だ」なんて呻いてるわけさ


 結局のところ、「秘密結社アセファル」なんて、20世紀前半の暗黒の時代にしか成立し得なかったものというようにも思う。

 でも80年代にその衝動が残っていたら、きっとそれは「サーキットで死ぬまで走る共同体」になっていたはずだ。血とオイルとガソリンと笑い。その中に「神聖さ」を見出して。

 そんなわけで、バタイユさん、もし生きてたら、きっとTZでハイサイドくらって、骨折して、でもニヤニヤしながら松葉杖でパドック歩いてたでしょ? で、その体験をまた「エロティシズム」とか「至高体験」とかに仕立てて、分厚い原稿を書き散らしてたはずだ。



 想像して、ニマニマしてしまうわけです。



 



2025年6月21日土曜日

8784 NSR500 1988 (再掲)

(誤って削除してしまったため 再掲する)


8784 NSR500 1988
for Wayne Gardner

1988年 NSR

 1988年のNSR500には、実のところこれと言った印象はない。前年チャンピオンを獲ったワイン・ガードナーはケガや何やで、エディ・ローソンにチャンピオンの座を奪われている。やはりというか、ワイン・ガードナーは目標を見上げてそこに向かっていくときにこそ力を発揮するが、一度それを獲ってしまうと、集中力をなくすタイプなのかもしれない、とも考えている。
 性能でこの年のNSR500がYZR500に負けていたのかどうなのかということまでは分からない。
 レプリカー模造、というより、同時進行で開発された公道モデル、NSR250R、MC18の話。っていうか、直接的にはレース用NSR250やRS250とほぼほぼ同時開発、ということらしいが。ミラーとか外せばそのままレースに出ることが出来た、公称自主規制45馬力でも、実際には70何馬力か出ていたのではないかという噂。時代だねぇ、イケイケ、ドンドンのバブル時代。景気のいい話だ。おかげで、カワサキのマッハIII500SS以来の「widow maker」なんていうありがたくない二つ名を頂戴したとかしなかったとか。
 この後のNSR250Rは、パワーは同等ながら、扱いやすさを身につけていったが、とにかくこのMC18は、TZR250には負けられね~、峠最速はオレのもんだ、とばかりに相当尖った物であったようだ。オレはついに、借りものであってもまたがることはなかったがな。

 あの頃の峠文化というものも不思議なものだった。まぁ、結構イキってるくせに下手糞な奴もいただろうし、最初はそもそもみんな下手糞だ。新車で峠に乗りつけて、いきなりコケてカウルバキバキにして涙目、なんてことはフツーにあったことだろう。

 あぁ、こんなことがあった。そいつの単車がNSRだったかTZRだったかは忘れた。見てないんで。当時学生でも普通に建設現場のバイトに行くことが出来た。今じゃ労働衛生法とか何とか縛りが厳しくてそういう訳にはいかないみたいだが。
 その日の仕事は滋賀のどこぞの小学校だったか中学校の体育館の墓断熱材のグラスウール張りのバイト。盛夏ではないにしてもそれなりに暑い季節だったと思う。そういう時にでもグラスウールを扱う時は合羽を着こんでゴムの手袋をし、完全防備で向かう。肌についたら、まして汗で広がった毛穴にグラスウールが入った日にゃあ、3日間は痒くて死ねる。
 そいつ、新しく入ってきたばかりで、聞いたところ単車のテールカウル新調したんだが、シートのウレタンゴムをケチっていて、その代わりにグラスウールの切れ端もっていっていいっすかね? って訊くもんだから、別に切れ端ぐらい惜しくはなかったけれど、そこにいたやつ全員「「「「「やめとけ!」」」」」といったものだ。

 エンジンとかブレーキとかって部分はそういう訳にもいかないが、バブルの時とは言え、如何に金を浮かすかに腐心する峠小僧。それが長じておかしな改造とかをし始めてそれが流行りになったりする。あと、あのころ流行ったヘルメットの角なのかアンテナなのか、あれ、何だったの? はたまた変なところにBOØWYの歌詞が貼ってあったりしてな。
 わらわらそういうのが峠に湧いて、んで、規制が始まるんだ。今思うとな、そういうのをガス抜きとしてお目こぼしもないから、今の若いコ、余計に変なところに入り込んでとんでもない犯罪に走るんじゃないかと思うことが偶にある。

 時は経ち、1年位前かな、MC18、88(ハチハチ)のロスマンズカラーのNSR250Rが近所のコンビニに停まっていた。どんな奴が乗ってんだろう?とみていたら、ほんのちょっと若いがほぼオレと同世代のおとっつぁんだった。当時、たくさん売ってたくさん廃車になったNSRだ。大事に乗ってくれたらいい。そう思った。


 

2025年4月18日金曜日

8782 Wayne Gardner _25

8782 Wayne Gardner _25

Wayne Gardner
NSR500  1987

1987年のワイン・ガードナー

 モリワキに乗ってヨーロッパでも走っていた、日本と縁があった、律儀なオーストラリア人というのが当時の印象。特に、チーム、というか、HRCの中では優先順位の上にはフレディ・スペンサーがいたけれど、貪欲に、呼ばれれば8耐だって何度でも出走し、勝って見せた。当時、ホンダにとっては彼こそが頼りになるライダーだったことだろう。
 すぽんとフレディ・スペンサーがいなくなった頃には、HRCとの信頼関係も深く、しかし、マシンは残念ながらフレディスペシャルという出来で、それでも若く貪欲な彼は、87年のチャンピオンになった。
 HRC所属になった85年から、87年にかけて、彼の運気も最高潮だったのだろう。この間は多くの事でうまくいったように見える。

 ライディングテクニックも当然あるのだろうが、マシンなど必ずしも彼に最適化されて設えたものではなかったにもかかわらず、であるからこそ余計燃えた部分もあるのかもしれない。ワークスマシンから2段落ちのRS500での初出走以来、それを克服するようなアグレッシブな走りというのが、結果彼を支え続けたわけだが、

 果たして、そこをピークに、この後、やや運にも見放された部分もあったのではないか? ケガを負い後輩に抜かれ、引退。

 まぁね、アンラッキーな部分はあったのかもしれないが、一般のモブからすれば充分、幸せな人生である事だろう。

 さて、彼の現役時代など、日本車しか勝てんという頃であり、必然日本に近づこうとする。親日家と思われたが、2016年、息子絡みの暴行事件で江戸所払いと相成っている。 (´・ω・`) ショボーン。まぁ、何より彼も人の親であったという事だ。


 

2025年4月15日火曜日

8780 Freddie Spencer _57

 

8780 Freddie Spencer _57

Freddie Spencer
NSR500
Salzburg 1986

1986年のフレディ・スペンサー

 1983年のタイトルは、YZRにパワーで負けていて、それをハンドリングなどのNSの特性とシーズン通した戦略でもぎ取ったが、フレディ・スペンサー、マルク・マルケスが2013年に20歳266日で最年少タイトルを更新するまで、21歳258日で獲った最年少記録だった。
 それが1985年、無敵の完全勝利で、これからまだ若い彼の天下は続いていくものと思われた。

 が、どうだ、蓋を開ければ、そもそもレースに出走すらしない。ちょろちょろ予選を走ったりはする。何走り惜しみしてるんだ? と、段々と反感が高まっていく。
 ホンダの現場のエンジニアだったか、「世間知らずの天才様」と揶揄した。フレディ様の気紛れに振り回されてる気分だったのだろう。
 結局、この年、ろくにレースも走らず、その後、スポンサーのロスマンズが外れ、ヤマハに移籍し、フェイドアウトしていった。
 因みにNSR500だが、前年のマシンが傑作すぎたのか、見た目、小変更の熟成型に見えるのだが、よくわからん。

 さて、フレディ・スペンサーに何が起きていたのか? のちに聞いたのには、シーズンオフ、自分に死角があるとすれば、筋力不足のスタミナ不足だろうと考え、かなり入れ込んで筋トレをやったそうなのだが、肥大した筋肉が神経を圧迫し、激痛で何もできなくなっていたようだ。

 ネットの「クラブハウス」で知り合った、ある若い女性の話だ。青春前期、彼女は住んでいる地域では将来を嘱望された柔道選手だった。同じ年代の女子の中ではかなり強かったようだ。期待に応えようと頑張った。筋トレも相当したらしい。そしたら、だ、同じ筋肉が神経を圧迫する障害に罹り、選手生命を諦めざるをえなくなったそうな。知り合った時にはおじさんも舌を巻くモータースポーツヲタクになっていたが。
 
 ネットで調べてみた。恐らくはバーナ症候群と言われているのがそれであろう。1986年当時、それに対する知見はほぼなかったと思われる。誰もそれを指摘するものはいなかったようだ。それこそ、気分でレース出走をキャンセルしているように見えたのだろう。痛みと周囲の理解が得られない孤独に耐えなくてはならなかったのかもしれない。今でこそ治療法は確立しているようだ。

 良くも悪くも「世間知らずの天才様」というのはその通りだったのかもしれない。少年の頃から、レースを走り勝つこと以外何も考えていなかったようだ。誰も理解してくれない障害を抱え、ボロボロになり、GPから米国内のレースに追いやられ、それでも走らせてもらえるレースには出ようとしていたようだ。結果に繋がらなかったようだか。そうやってやがて消えていった。

 前にもこの話書いたな。アイルトン・セナと並べて。筋肉は裏切らない、なんて、この何年か、時々聞くが、フレディ・スペンサーは筋肉に裏切られたのだ。

 後もうひとつ書く。2010年代になって、ようやくサーキットに顔を見せるようになり、イベントでかつてのファンに囲まれて楽しそうに笑うフレディの写真を見て、なんとも言えない気分になった。
 これも前に書いた。キャリアのピークで、ふっと消えてしまったアイルトン・セナと、キャリアに裏切られ、それでも生き抜き、今笑っているフレディ・スペンサー、どちらが幸せなのだろう?
 


2025年4月13日日曜日

8778 NSR500 1985 _2

8778 NSR500 1985 _2

NSR500 1985
for Freddie Spencer

1985年の事

 果たして、燃料タンクと排気エキスパンジョンチャンバーの位置をオーソドックスな位置に修正した1985年のNSR500とフレディ・スぺンサーの組み合わせの快進撃ときたら他者には手が付けられなかった。勢い余ってこれのエンジンを半分に割ったRS250RW、実質初代のNSR250でスペンサーはシリーズダブルエントリー、ダブルウィン。あまりの圧勝具合に、以降一人のライダーが2つ以上のクラスを掛け持ちすることはできなくなった。これより前は、350㏄のクラスがまだあったときには、ジャコモ・アゴスチーニなんかも2クラスエントリーをやっていたみたいだが。

 他者に対し圧倒的なのに、それでも尖って前に向かっていく、この年からのロスマンズカラーのNSR。初期のNSR500といえば、84年型というよりはこの年のモデルを思い浮かべる人の方が圧倒的に多いだろう。

 坪内隆直氏が編集人をなさっていた「Grand Prix Illustrated」は、当時社会の事など全くわかっていなかった田舎から出てきた19歳にも、非常に手が込んでいるが商売の割には遭わないんだろうな、と想像させる、GP愛にあふれた月刊誌だった。
 第3号を板橋区蓮根の予備校の寮の近くの書店で手に入れて、何か非常に特別なものであるように思えた。世界が違う。
 間もなく、神田神保町に当時あった、今はどうなのかわからない、書泉グランデでバックナンバーが平積みされているのを観て、創刊号第2号をすぐに買い込んだ。この後1989年の月刊最終号まで買い続けることになった。

 そもそもが中学で部活をやっていたころから、テレビが必要ない人間になっていたこともある。ただでさえ2輪のレースの事などテレビでやらなかった時代に、今のように望めばほぼほぼリアルタイムでテレビ観戦などできるはずがない。情報はこうした雑誌から最速でも1か月が其処ら遅れで手に入れるしかなかった。

 であるから、すべては妄想だったのかもしれないけれど、もう他をぶっちぎってるのに、更に超然として先に向かっていく姿を幻視し、それが何か支えになっていた。その後この社会でわらわら湧いてきた似非宗教家たちの言葉より雄弁だったように思う。


 

2025年4月12日土曜日

8777 SC82 SP _2

 

8777 SC82 SP _2

「過剰」について考える

 例えば、このCBR1000RR-R、SC82はカタログスペックでは、最高出力218馬力なんだそうだ。オレが普段使いしている1300㏄のサクシードなど80何馬力かどっかその辺だ。2輪だ。人が一人乗る以外積める荷物なんてほとんどない。
 回りくどい言い方をしているが、2020年代のこの現代において、つまりは合理性という言葉をどこかにぶん投げたような存在なのである。言うならば一種「社会の敵」と後ろ指を指されかねないわけなんだが、こんな時代においてであっても、一定のニーズがあるという事である。

 今現在の各社のトップモデルと言えば、一応はスーパーバイク出場用、という名目はあるが、興味のない門外漢にとってはこの時代にレースをすること自体が社会に対する敵対行為とまで考えている人もいるかもしれぬ。

 サーキットであればいざ知らず、公道で度胸一発時速300キロが簡単に出てしまうのだ。ここで表立って推奨はしない。しかし、そういうものを求める心持を有した人間は一定数、いつの時代も存在しており、実行してしまう奴もいるけれど、オレのようにほぼ憧れとしてそういうものが存在していて欲しいと思っている、そういう欲求を満たすことの社会的意義を問われると答えに窮するしかない。

 この世が徹頭徹尾、整然としたものであろうとするなら、それは何とつまらない世界だろう、という切り返しは陳腐すぎて無効。何の答えにもなりはしない。しかし、それとあまり違いはないのかもしれないが、危険であり、現在語られる経済的合理性から外れたもの、というのは、この資本主義世界の行き詰まりに何かヒントの一つを与えてくれはしないだろうか、と感じている。

 則ち、企業価値とそれに伴う株価を上げることで利益を得ることが至上の目的となっている今の経済ドライブで、それは、例えばモノづくりの喜びであるとか、その中の人の細やかな幸せ、楽しみよりも優先する。社会上位にいればそれでもいいが、中層以下はどんどんと下へと追いやられているようにも見える、そういう資本主義というものの行き詰まり。

 カール・マルクスから最近ではトマ・ピケティに至るまでひたすらそういう方向に流されていくことに対し竿を刺す仮説も数多あるにはあるが、こういう流れというのは止めるに至ってはいないように見受けられる。

 となれば、経済的合理性、それに適応するように成形された諸生命理論から外れた欲求とはなんなのか、そして、それを突き詰めていくことに、ひょっとしたら意味はあるのではないかとも思うのだ。

 ビジネスに関り、鉄道のようなインフラによるものではない、時速300キロなんて速度は、通常の社会には過剰であり不必要だが、そんなトップスピードとそこへ駆けあがっていくときの力感を欲するということ。これはいったい何なのか? なぜそんな「不必要な」過剰を求めるのか?


8776 NSR500 1984 _3

 

8776 NSR500 1984 _3

NSR500 1984
for Freddie Spencer

1984年の事


 1984年、それまで3気筒だったものが4気筒になって、NSにRがついた。NS500の美点を生かしつつもそろそろ多少馬力で負けけてもハンドリングとピックアップの良さでそれまで何とかなっていたが、やはりパワーがないと苦しいだろう、という判断がなされたであろうことは想像に難くない。が、そこはかつてのホンダ、当たり前のことはやらない、というところで、燃料タンクとエキパイの位置を取り替えてみた。ら、大失敗だった。ライダーはエキパイの熱にずっと苛まれることになるし、距離を走るごとに、タンクが通常位置なら上が軽くなる=相対的に重心が下がり安定する、ところを軽くなるのが下部=重心が上がって不安定さが増す、ということなんだろう。これが大きくて現に翌年のNSRはオーソドックスな配置になっている。


 なんて、ある意味ホンダらしい試行錯誤があった1984年、オレは2輪のレースがこの世にあるのだと知ったなり(こういうのがこの世にあるのならもう少し生きていてもいいなと思ったりしたこともあった)のころで、ホンダ、ヤマハ、スズキの区別はついても、NSとNSRの区別はついていなかった。ファンというほどディープな所にはいっていなかった。

 18歳、このあたりでは一番の進学校の受験生、どちらかと言うと底辺で喘いでいてそれどころじゃなかったんだ。18歳の時の思い出なんていっても、特に何も思い出せない。気晴らしに何度か他にほとんど客がいない、今はもう影も形もない映画館で一人で映画を観たりとか、街の真ん中を流れる川にかかる橋の上で夕暮れの空を見上げて途方に暮れた気持ちになった思い出とか、そんなところ。


 空の上と言えば、夏休み、だ、その頃、街にある一番高いビルの最上階に無料の自習室があって、そこで勉強、一応勉強していた思い出とかもあるな。名も知らぬ司法浪人のお兄さんが「ヌシ」と陰で呼ばれていてそこにずっといるという。冷房が効いて快適な部屋だったけれど、勉強がはかどっている実感は全くなく、見晴らしのいい窓から、窓ガラスに隔てられた嘘のような夏の空。同じフロアにあるロビーのテレビではロサンゼルスオリンピックをやっている。お前ら勉強しに来たんじゃないのかよ?と同級生でずっとそこでテレビを視ている奴のいたのだが、オレは生まれてこの方、59になるまでオリンピックに、世間話で合わせられるよう、以上の興味はなく、誰だっけ? カール・ルイスだったかベン・ジョンソンだったかは、この頃の人だよね、くらいの思い入れしかない。



 そういや、4輪のレース、F1では、オリンピックイヤーに若手で頭角を表す、伸びてトップレーサーの仲間入りを果たすドライバーが出ることが多い、という話を、この何年か後に聞いた気がする。この年のアイルトン・セナとか、バルセロナオリンピックの年のミハエル・シューマッハとか。なんかそれっぽい理由を言ってた気がするが、こじつけだろう。


 奇天烈なマシンにフレディ・スペンサーが苦心していたころ、それとはまったくあずかり知らぬ日本の田舎町でオレはさえない日常の中、もがいていた。んで、なんかな、あの時の感じがオレの人生の基本モードになってしまっていることが辛い。


2025年3月30日日曜日