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2025年9月27日土曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3

 


8849 312 PB _7

Ferrari 312 PB #0884
Clay Regazzoni
Sebring  1972

 話を少し変える。
 資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
 一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
 例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。

 少し整理しよう。

 まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?


 禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。

 ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
 資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。

 つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。

 だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。

 整理するとポイントはこうだ。

 アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。

 バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。

 アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
 アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。


 または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
 実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。

 海風が吹き抜ける小さな村には、決して法律や制度の圧迫を受けずに暮らす人々がいた。ハワイの太陽に照らされ、波の音が子守歌のように響く中で、彼らは「所有」という概念に縛られることなく、ただ必要なものだけを分け合い、働き、助け合っていた。そこでは誰もが生きる権利を平等に持ち、誰もが互いに貸し借りと返済の義務を負う、プルードンの言う「相互主義」が日々の生活に息づいているようだ。
 一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
 しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。  かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。


 そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?

 個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
 ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。

 「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ

 これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。

 個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。

 何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?

 何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
 社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。


 何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
 アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。

 大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
 大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
 「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
 要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。

 一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな

 其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
 中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
 つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。

 まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。


2025年9月8日月曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 2 KP61、ジョルジュ・バタイユ、哄笑

 


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 では、ジョルジュ。バタイユが、四輪のボロボロのスターレットKP61でダートラとかジムカーナ転戦するとか、どうだろう?

 バタイユの KP61スターレットでジムカーナ転戦。二輪のTZ250だと「骨折」一直線だけど、四輪のジムカーナなら「ボロいKPで限界まで突っ込んでスピンしまくる」感じで、また違った「浪費と供犠」が見えてくる。

 KP61スターレットとは、80年代当時の若者にとって「安い・軽い・FR・壊してナンボ」みたいな車だった。競技ベース車としては最強の入門車。ジムカーナやダートトライアルで、みんな転がして、部品を拾って、また直して走る。
 バタイユがもしその現場にいたら、間違いなく「安くて古いからこそ尊い」って言い張っただろう。「最新のシビックで勝つことに何の意味がある。崩れ落ちる寸前のスターレットで笑いながらスピンすることこそ供犠だ」とかなんとか、パドックの片隅で煙草ふかしながら言ってそう。

 地方のジムカーナ会場って、ほんとに田舎の広場だったりする。現に当地では、真夏で人が来ないスキー場の駐車場でやってたりする。他には、廃飛行場の跡地とか、河川敷の舗装路とか、観客なんてほとんどいなくて、参加者とその仲間と近所の子供が数人。
 そこにボロいKP61をトランポなしで自走して持ってきて、スペアタイヤ4本とジャッキだけで走る。エンジンはキャブが咳き込むし、LSDはチャタチャタ鳴くし、クラッチは半分焼けてる。

 んで、バタイユがコースインすると、もう全開。進入で荷重抜けてリアがスパーンと流れて、そのまま派手にスピン。パイロンなぎ倒して、審判の人に赤旗振られて戻される。でも、車から降りたバタイユは、目をぎらぎらさせてこう宣うわけだ。

 「これこそ破局だ。破局は祝祭なのだ!」
 KP61って、そもそも安いから「潰してもいい」って前提で乗られてた。だからジムカーナやダートでクラッシュして、フェンダーが凹んでも、ライトが割れても、誰も泣かない。直すのは仲間。適当に叩いて色塗って、また走る。
 それをバタイユは「供物」として扱うだろう。「KPは共同体の神に捧げる羊である」なんて言い出しかねない。

 そして彼は、地方シリーズを転戦する。長野の浅間台スポーツランド、新潟の胎内スピードパーク、関西の名阪スポーツランド、九州の恋の浦。どこに行っても、パドックで「首なし団」と称する仲間と焚き火を囲み、酒を飲み、昼間はスピン大会。「誰が一番多くパイロンを倒すか」が裏の勝負。優勝者には地元のリンゴ一箱。でもそれはすぐに食い尽くされて、跡形も残らない。
 浪費の美。

 バタイユは供犠を語るとき、必ず「笑い」をちらつかせる。犠牲は厳粛なものじゃなく、どこかで「祭り」のように騒がしく、無駄で、バカバカしい。つまり供犠は「遊び」でもある。
 だから、筑波のパドックで骨折した仲間を見ても、悲壮感じゃなくて「やっちまったな!」と笑い声が先に出る。それを「神聖」と呼んでしまうのが、彼のトリックだ。

 普通の破滅思考は、破滅を目標にして一直線に突っ走る。しかし、バタイユの場合は、「どうせいつか終わるんだから、だったらその途中で笑いながら盛大にぶち壊そうよ」という感じ。 全然、暗くない。 むしろ太陽に向かって舌を出してるような明るさすらある。
 地方ジムカーナの賞品がリンゴ一箱とか、地方サーキットの勝者に渡るのが米袋とか。そういう「しょっぱい景品」を仲間たちとむさぼり食って、跡形もなく浪費してしまう。それをバタイユは絶対に楽しんだはずだ。彼は「無駄になること」そのものを肯定していた。
 だからKP61を壁にぶつけてフェンダーをぐしゃっとさせても、それで落ち込むんじゃなく「これで供犠は済んだ」と笑う。

 破滅主義者だったら、車が壊れたら「これでもう走れない、終わりだ」と沈むはず。でもバタイユは逆だ。壊れるからこそ嬉しいし、無駄に終わるからこそ意味がある。そうやって、むしろ「生き延びる方向」に転がっていく。

 考えてみたら、これってすごく変な話で、「死」とか「破滅」とかを正面から扱うのに、どうしてかそこに「陽気さ」が宿ってしまう。バタイユは常に「闇を見よ」と言いながら、結果的に「光の中で踊る」方向へ連れて行ってしまう。
 それはたぶん、彼が破滅を「手段」として見ていたからだと思う。破滅そのものに住みつくんじゃなく、その瞬間に立ち会うことで「陶酔」に触れる。だから、暗黒のはずが、いつの間にか祭りになる。


 例えば、筑波サーキット。予選で転倒して骨折、予選落ち。でもパドックで缶ビールを飲みながら「俺は今日、供犠を果たした」と宣言する。仲間たちは爆笑しながら「いや、それはただのコケだろ」とツッコむ。そういうやりとりが、もう完全に「生の肯定」なんだよな。

 KP61スターレットでジムカーナに出て、全力で突っ込んでパイロンなぎ倒して、順位は最下位。でも本人は最高に笑っていて、「破局は美しい」と言いながらピースサイン。その姿って、「破滅」を選んでいるようでいて、実際には「生きることを選んでる」


 結局のところ、バタイユは破滅思考じゃないんだと思う。彼がやってるのは「過剰思考」。
 ちょっとだけやればいいのに、もっとやる。
勝つために走ればいいところを、転ぶまで攻める。
腹八分目に 食えばいいところを、全部平らげる。
程々に飲めばいいところを、吐くまで飲む。
 そういう「過剰」の中で、死や破局に触れてしまうことがある。

 でもそれはあくまで副作用であって、目的じゃない。だから彼は、いつも笑っている。「俺は死にたいんじゃない。ただ、もっと生きたいだけなんだ」。その裏返しがあの思想なんじゃないかと思う。

 もし彼が単なる破滅主義者だったら、たぶん我々、いやほとんどオレだけ?はこんなに惹かれなかったはずだ。「どうせ全部滅びる」って言葉だけなら、世界中にいくらでもある。でもバタイユの言葉には、どうしても「おかしさ」と「楽しさ」が混じる。死を語っているのに生が滲む。それが妙に人間的で、だから魅力的なんだと思う。

 いわば、ジョニー・ロットンであって、シド・ヴィシャスではない。 バタイユって「どう見ても破滅的なことばかり言ってるのに、なぜか死に急がない」タイプ。だからジョニー・ロットンであって、シド・ヴィシャスじゃない。

 シド・ヴィシャスは完全に「自己破壊=様式美」になっちゃった人で、破滅をそのまま生きて燃え尽きてしまった。でもロットンは「全部ぶっ壊す!」と叫びながらも、ちゃっかり長生きして、今でもロック・アイコンとして毒を吐き続けてる。つまり「破壊と反逆」をエネルギー源に変換する能力がある。

 バタイユも同じで、供犠や浪費、エロスや死の欲望を語りながら、実際の生活はどこか「ずる賢く延命」してる。しかもその延命が、決して妥協や日和りじゃなくて、「反逆精神を持ったまま老いる」っていう稀有な在り方だ。

 ジムカーナのスターレット転戦でもそう。
 確かにパイロン吹っ飛ばしてクラッシュばかりしてるんだけど、それは「死にたいから」やってるんじゃない。むしろ「限界の先で生き延びて、また次の会場に行く」ためにやってる。破滅を燃料にして、でも破滅は選ばない。

 だから彼は「供犠の哲学者」なのに、自分自身を最後の羊として屠ろうとはしない。むしろ「俺が屠られたら共同体は困るだろう?」とニヤリと笑って、またハンドルを握る。

 ここが、まさにジョニー・ロットン的。死を演じてしまったシドとは違って、死を「利用」して生きる。破滅に見せかけて実はとことん生のほうに執着している。

 そういえば、ジョルジュ・バタイユの哄笑する姿を想像すると、ジョニー・ロットンや植木等のそれと重なって見える。




2025年7月4日金曜日

2025年7月1日火曜日

2025年6月18日水曜日

存在と鋼鉄4:成長と完成の神話――近代とその亡霊たち

 


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成長と完成の神話――近代とその亡霊たち

 いつからだろう。「なぜ生きるのか」という問いが、「どう生きれば最も効率的か」に変わってしまったのは。
あるいは、「これでよいのか」という問いが、「まだ足りないのではないか」という焦燥にすり替わってしまったのは。
 成長・向上・改善――。
この一見ポジティブに響く言葉たちが、21世紀の人類を“数字”に閉じ込める檻になるとは、誰が予想しただろうか。

 ここでは、「成長信仰」および「完成への執着」がどのように形成され、どのような思想的系譜に依拠し、どのような転倒を招いているのかを、思想史の視点から描いていく。

 近代の誕生と「神のいない世界」

 ルネサンスから啓蒙主義へ――人間は神の庇護から自立し、世界を自らの手で説明しようとした。逆に言うと、それ以前の人間の思考野が信仰というもので、ロックがかかっていたところがあった、という事だろうか? 神様からのお仕着せの言葉で、自ら思考し既定することなく世界の枠組みを受け入れてきた。自らそれを考えだそうとした試みの始まりである。

 フランシス・ベーコンは「知は力なり」と述べ、知識を手段とした世界支配を掲げた。
 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と、外部から切り離された自己の確実性を主張した。

 この流れのなかで、「世界は測定可能であり、理性によって制御できる」という信仰が生まれた。当時の空気感は、一種の万能感に支配されていたのかもしれない。人間が世界を規定していくのだという、自負やら傲慢やらが入り乱れたような。
 このとき、人類は「永遠の問い」よりも、「無限の成長」という新しい神話を手に入れた。思えば、この選択が例えば今の行き詰まりを産んでいるとオレは思っているが、それは言っても詮無き事だ。問題は「永遠の問い」があることを忘却してしまったこと。


 資本主義と効率の論理

 マックス・ヴェーバーが喝破したように、プロテスタンティズム(とくにカルヴァン派)は、労働と勤勉、節制と貯蓄を通じて神の選民であることを証明するという倫理を育んだ。包括的に存在論的思考全体の話にはならなかったのは、時代の不明だろうか?

 神の不在が明確になるにつれ、この倫理は資本主義の歯車として独り歩きしはじめる。利潤は善であり、効率は美徳であり、生産性は道徳であった。

 「(経済的に)成長しているか?」という問いが、「存在していていいか?」という問いと合一するようになるという、オレから見ればある種の不幸を人類は背負い込むことになった。


 ニーチェとハイデガー――進歩への懐疑

 ニーチェは『ツァラトゥストラ』において、「人間は乗り越えられるべき橋である」と語った。
 しかしそれは、近代的な成長とは別の文脈にある。

 ニーチェにとって、成長とは個としての意志=力への意志(Wille zur Macht)に根ざした創造的行為であり、「他者から優れている」ことではなく、「自己を更新すること」にこそあった。
 そしてハイデガー。
  彼は『存在と時間』において、「現存在(ダス・ザイン)」が死に向かう存在であることを明らかにした。それゆえ人間は、完成に至る存在ではなく、常に不完全のまま、開かれている存在である、とした。

 だが現代は、そのような“開かれ”よりも、“完成されたプロダクト”としての自己を目指す。
 彼が批判した「技術による世界把握(ゲシュテル)」は、現代の成長主義そのものである。


 ナチズムの夢と破滅

 ナチス・ドイツが求めたのは、「完成された国家」であり「純化された共同体」であり「強化された人間」であった。ニーチェの思想を恐らくは恣意的に誤読し、超人思想を民族優越主義に置き換えた。技術を信仰し、「フォルクスワーゲン(人民の車)」で未来社会を夢想した。フェルディナンド・ポルシェのエンジニアリングは、戦争と機械の神話を支えた。

 だが、「完成」は常に排除と破壊を伴う。完成しないもの、不完全なもの、非効率なもの――それが「敵」とされる。
 そして、「完成」されようとした国家は、もっとも野蛮なかたちで崩壊する


 成長の終点と、ポスト成長の倫理

 いま、われわれは「成長し続けることが前提である社会」の限界を目撃している。気候危機、格差拡大、精神の空洞化――どれも「過剰な最適化」の帰結だ。
 では、脱成長は可能か? 「問いの復権」は可能か?

 バタイユが述べたように、「無駄」「非生産」「蕩尽」こそ、人間的な営みである。
 イヴァン・イリイチが描いたように、道具が人間に奉仕する社会から、人間が道具に奉仕する社会への転落に抗う必要がある。
 ハイデガーが言ったように われわれはただ、なおも問う者としてのみ、存在の真理に近づける。


 いま必要なのは、「完成すること」でも「成長しきること」でもなく、未完のまま、関わり続ける勇気でなないか。生きるとは、「なにかになること」ではなく、「問い続けること」「揺らぎつづけること」ではないだろうか?

 成長とは、人間を測る単位ではなく、人間が測りきれない何かに出会うための、偶発的な現象であると思う。


2025年6月17日火曜日

存在と鋼鉄3:完成という名の盲目

 

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完成という名の盲目

  「技術とは『問いを持たない完成物』である」という洞察は、現代社会を読み解く中核的な視座であり、マルティン・ハイデガーが『技術への問い』で提示した問題意識にも深く根ざしている。これは単に哲学の話にとどまらず、今日のAI、戦争、日常生活、芸術、政治といった多様な領域にまで貫通する主題である。

 たとえば現代のAI社会では、顔認識システムや信用スコア、自律兵器などが「なぜこの技術が必要なのか」「どのような価値判断に基づいているのか」という倫理的な問いを持たないまま稼働している。技術の内部では、効率化と最適化というロジックが全面化し、問いを発する主体としての人間が次第に無力化されていく。これはまさに「自己目的化された技術」の姿であり、手段が目的へとすり替わる構造である。

 戦争の文脈では、この構造はさらに顕著だ。ナチス・ドイツが開発したV2ロケットから、現代の無人ドローン兵器に至るまで、兵器とは究極の「問いを持たない完成物」である。技術者はその殺傷力や精度にのみ関心を持ち、それがどこで、誰に対して、どのように使用されるかを問うことはない。その結果、倫理的責任はシステムの中に分散し、誰も加害の全体像に直面しないまま、暴力が実行される。

 この「技術の無問い性」は日常生活にも浸透している。スマート冷蔵庫や音声アシスタントといった便利な道具は、私たちの生活を効率化する一方で、「便利とは何か」「便利さによって何が失われるのか」という問いを放棄させる。利便性が日常を覆うほどに、私たちは自分の欲望や行為の根拠を自問しなくなる。

 この構造に対し、芸術はある種の対抗を示す。「完成された作品」ではなく、「問いを残す作品」こそが、鑑賞者との対話を生む。未完成の詩や終わらない旋律、決定を拒む絵画は、技術的完成とは異なる価値――揺らぎ、余白、未決定性――を持っている。それは「完成を拒むことで、問いを開き続ける」営みであり、他者に対して開かれた空間を創出する。

 さらに政治や制度も、完成を目指すとき、同じ危険性を孕む。たとえば「テロ対策法」や「社会的信用制度」などは、正義や安全という名のもとに人間の揺らぎや逸脱を排除し、「問われない管理体制」を形成する。法や制度が完成されるとは、往々にしてそこに人間の多様性を受け入れない硬直性を伴う。

 「問いを忘れた答えは、暴力になる」。この警句は、技術が単なる道具であることを忘れたとき、手段が目的化し、人間の生を管理し定義しようとする危険性を鋭く突いている。問いとは運動であり、完成は停止である。だからこそ、私たちは常に問い続けなければならない。完成された技術の中に潜む「思考の空白」に、倫理と哲学の光を差し込むために。

 技術とは、私たちの暮らしを便利にし、効率を高め、誤差なき判断を代行してくれる「完成されたもの」の象徴として語られがちである。しかし、そこには決定的に欠けているものがある。すなわち「なぜそれを行うのか?」という根源的な問いだ。ハイデガーが喝破したように、技術は単なる中立的手段ではない。それは世界を「資源」として把握し、人間でさえ制御と管理の対象へと還元してしまう装置であり、そこに倫理の余地は乏しい。

 ナチス・ドイツによるホロコーストはその極限的帰結であった。ユダヤ人をガス室に送る列車を運行した駅員は「私はただ時刻表に従っただけだ」と語り、効率的な設計に従事した技術者もまた、問いを持たぬまま機能を最適化した。
この構図は、イスラエルがガザに投下するドローン兵器にも連なっている。精密で効率的な殺戮装置を前に、「誰が敵なのか?」という問いは意図的に排除され、ただ命令と手続きが作動する。かつて被害者だった者が、技術を「完成」させることで新たな加害を行うという倒錯は、現代技術倫理の断絶を示している。

 私たちは「技術は中立である」という幻想を捨てねばならない。顔認識AIは権力構造を映し、検索アルゴリズムは思考を方向づけ、医療AIは命の優先順位を決める。民主主義ですら、技術によって「制度」として自動化されるとき、本質的な問いよりも効率が支配する。だが、問いを持つこと、完成を拒むことこそが倫理の出発点だ。あらかじめ与えられた「完成形」に沈黙するのではなく、「なぜ?」と問う声こそが、私たちがなお人間であることの証なのである。




2025年4月4日金曜日

2025年3月8日土曜日

2025年2月1日土曜日

2024年12月22日日曜日

8648 Alessandoro Nannini

 

8648 Alessandoro Nannini

Alessandoro Nannini
Benetton B188 Ford DFR V8
Monaco 1988

 何をいまさらと言われそうだが、オレの絵というのはほとんど、ネットで見かけた「お!」という絵を基にしている。この絵は金子博氏の写真を基にしているが、絵にすれば絵になるものが、金子氏のものは、絵にしても、金子氏の世界から逃れることが出来ない。大家の凄みをひたすら感じてしまった。