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2025年4月15日火曜日

8780 Freddie Spencer _57

 

8780 Freddie Spencer _57

Freddie Spencer
NSR500
Salzburg 1986

1986年のフレディ・スペンサー

 1983年のタイトルは、YZRにパワーで負けていて、それをハンドリングなどのNSの特性とシーズン通した戦略でもぎ取ったが、フレディ・スペンサー、マルク・マルケスが2013年に20歳266日で最年少タイトルを更新するまで、21歳258日で獲った最年少記録だった。
 それが1985年、無敵の完全勝利で、これからまだ若い彼の天下は続いていくものと思われた。

 が、どうだ、蓋を開ければ、そもそもレースに出走すらしない。ちょろちょろ予選を走ったりはする。何走り惜しみしてるんだ? と、段々と反感が高まっていく。
 ホンダの現場のエンジニアだったか、「世間知らずの天才様」と揶揄した。フレディ様の気紛れに振り回されてる気分だったのだろう。
 結局、この年、ろくにレースも走らず、その後、スポンサーのロスマンズが外れ、ヤマハに移籍し、フェイドアウトしていった。
 因みにNSR500だが、前年のマシンが傑作すぎたのか、見た目、小変更の熟成型に見えるのだが、よくわからん。

 さて、フレディ・スペンサーに何が起きていたのか? のちに聞いたのには、シーズンオフ、自分に死角があるとすれば、筋力不足のスタミナ不足だろうと考え、かなり入れ込んで筋トレをやったそうなのだが、肥大した筋肉が神経を圧迫し、激痛で何もできなくなっていたようだ。

 ネットの「クラブハウス」で知り合った、ある若い女性の話だ。青春前期、彼女は住んでいる地域では将来を嘱望された柔道選手だった。同じ年代の女子の中ではかなり強かったようだ。期待に応えようと頑張った。筋トレも相当したらしい。そしたら、だ、同じ筋肉が神経を圧迫する障害に罹り、選手生命を諦めざるをえなくなったそうな。知り合った時にはおじさんも舌を巻くモータースポーツヲタクになっていたが。
 
 ネットで調べてみた。恐らくはバーナ症候群と言われているのがそれであろう。1986年当時、それに対する知見はほぼなかったと思われる。誰もそれを指摘するものはいなかったようだ。それこそ、気分でレース出走をキャンセルしているように見えたのだろう。痛みと周囲の理解が得られない孤独に耐えなくてはならなかったのかもしれない。今でこそ治療法は確立しているようだ。

 良くも悪くも「世間知らずの天才様」というのはその通りだったのかもしれない。少年の頃から、レースを走り勝つこと以外何も考えていなかったようだ。誰も理解してくれない障害を抱え、ボロボロになり、GPから米国内のレースに追いやられ、それでも走らせてもらえるレースには出ようとしていたようだ。結果に繋がらなかったようだか。そうやってやがて消えていった。

 前にもこの話書いたな。アイルトン・セナと並べて。筋肉は裏切らない、なんて、この何年か、時々聞くが、フレディ・スペンサーは筋肉に裏切られたのだ。

 後もうひとつ書く。2010年代になって、ようやくサーキットに顔を見せるようになり、イベントでかつてのファンに囲まれて楽しそうに笑うフレディの写真を見て、なんとも言えない気分になった。
 これも前に書いた。キャリアのピークで、ふっと消えてしまったアイルトン・セナと、キャリアに裏切られ、それでも生き抜き、今笑っているフレディ・スペンサー、どちらが幸せなのだろう?
 


2025年4月13日日曜日

8778 NSR500 1985 _2

8778 NSR500 1985 _2

NSR500 1985
for Freddie Spencer

1985年の事

 果たして、燃料タンクと排気エキスパンジョンチャンバーの位置をオーソドックスな位置に修正した1985年のNSR500とフレディ・スぺンサーの組み合わせの快進撃ときたら他者には手が付けられなかった。勢い余ってこれのエンジンを半分に割ったRS250RW、実質初代のNSR250でスペンサーはシリーズダブルエントリー、ダブルウィン。あまりの圧勝具合に、以降一人のライダーが2つ以上のクラスを掛け持ちすることはできなくなった。これより前は、350㏄のクラスがまだあったときには、ジャコモ・アゴスチーニなんかも2クラスエントリーをやっていたみたいだが。

 他者に対し圧倒的なのに、それでも尖って前に向かっていく、この年からのロスマンズカラーのNSR。初期のNSR500といえば、84年型というよりはこの年のモデルを思い浮かべる人の方が圧倒的に多いだろう。

 坪内隆直氏が編集人をなさっていた「Grand Prix Illustrated」は、当時社会の事など全くわかっていなかった田舎から出てきた19歳にも、非常に手が込んでいるが商売の割には遭わないんだろうな、と想像させる、GP愛にあふれた月刊誌だった。
 第3号を板橋区蓮根の予備校の寮の近くの書店で手に入れて、何か非常に特別なものであるように思えた。世界が違う。
 間もなく、神田神保町に当時あった、今はどうなのかわからない、書泉グランデでバックナンバーが平積みされているのを観て、創刊号第2号をすぐに買い込んだ。この後1989年の月刊最終号まで買い続けることになった。

 そもそもが中学で部活をやっていたころから、テレビが必要ない人間になっていたこともある。ただでさえ2輪のレースの事などテレビでやらなかった時代に、今のように望めばほぼほぼリアルタイムでテレビ観戦などできるはずがない。情報はこうした雑誌から最速でも1か月が其処ら遅れで手に入れるしかなかった。

 であるから、すべては妄想だったのかもしれないけれど、もう他をぶっちぎってるのに、更に超然として先に向かっていく姿を幻視し、それが何か支えになっていた。その後この社会でわらわら湧いてきた似非宗教家たちの言葉より雄弁だったように思う。


 

2025年4月12日土曜日

8776 NSR500 1984 _3

 

8776 NSR500 1984 _3

NSR500 1984
for Freddie Spencer

1984年の事


 1984年、それまで3気筒だったものが4気筒になって、NSにRがついた。NS500の美点を生かしつつもそろそろ多少馬力で負けけてもハンドリングとピックアップの良さでそれまで何とかなっていたが、やはりパワーがないと苦しいだろう、という判断がなされたであろうことは想像に難くない。が、そこはかつてのホンダ、当たり前のことはやらない、というところで、燃料タンクとエキパイの位置を取り替えてみた。ら、大失敗だった。ライダーはエキパイの熱にずっと苛まれることになるし、距離を走るごとに、タンクが通常位置なら上が軽くなる=相対的に重心が下がり安定する、ところを軽くなるのが下部=重心が上がって不安定さが増す、ということなんだろう。これが大きくて現に翌年のNSRはオーソドックスな配置になっている。


 なんて、ある意味ホンダらしい試行錯誤があった1984年、オレは2輪のレースがこの世にあるのだと知ったなり(こういうのがこの世にあるのならもう少し生きていてもいいなと思ったりしたこともあった)のころで、ホンダ、ヤマハ、スズキの区別はついても、NSとNSRの区別はついていなかった。ファンというほどディープな所にはいっていなかった。

 18歳、このあたりでは一番の進学校の受験生、どちらかと言うと底辺で喘いでいてそれどころじゃなかったんだ。18歳の時の思い出なんていっても、特に何も思い出せない。気晴らしに何度か他にほとんど客がいない、今はもう影も形もない映画館で一人で映画を観たりとか、街の真ん中を流れる川にかかる橋の上で夕暮れの空を見上げて途方に暮れた気持ちになった思い出とか、そんなところ。


 空の上と言えば、夏休み、だ、その頃、街にある一番高いビルの最上階に無料の自習室があって、そこで勉強、一応勉強していた思い出とかもあるな。名も知らぬ司法浪人のお兄さんが「ヌシ」と陰で呼ばれていてそこにずっといるという。冷房が効いて快適な部屋だったけれど、勉強がはかどっている実感は全くなく、見晴らしのいい窓から、窓ガラスに隔てられた嘘のような夏の空。同じフロアにあるロビーのテレビではロサンゼルスオリンピックをやっている。お前ら勉強しに来たんじゃないのかよ?と同級生でずっとそこでテレビを視ている奴のいたのだが、オレは生まれてこの方、59になるまでオリンピックに、世間話で合わせられるよう、以上の興味はなく、誰だっけ? カール・ルイスだったかベン・ジョンソンだったかは、この頃の人だよね、くらいの思い入れしかない。



 そういや、4輪のレース、F1では、オリンピックイヤーに若手で頭角を表す、伸びてトップレーサーの仲間入りを果たすドライバーが出ることが多い、という話を、この何年か後に聞いた気がする。この年のアイルトン・セナとか、バルセロナオリンピックの年のミハエル・シューマッハとか。なんかそれっぽい理由を言ってた気がするが、こじつけだろう。


 奇天烈なマシンにフレディ・スペンサーが苦心していたころ、それとはまったくあずかり知らぬ日本の田舎町でオレはさえない日常の中、もがいていた。んで、なんかな、あの時の感じがオレの人生の基本モードになってしまっていることが辛い。


2024年4月13日土曜日

2021年10月9日土曜日

7130 Freddie Spencer_47  フレディ・スペンサーとアイルトン・セナ

 

7130 Freddie Spencer_47

Freddie Spencer
0WA8 1989

 フレディ・スペンサーとアイルトン・セナは時折並べて書かれることがあった。信仰の事で、モハメド・アリやカール・ルイスなんかも一緒に言及されていたこともあったし、二輪と四輪の違いはあれど、キャリアのピークにいるときホンダに乗っていて、しかもめちゃくちゃ速く走りが鮮烈だったから。

 しかし、フレディ・スペンサーは、まだ若くその後も彼の時代は続くと目されていながら、500㏄と250㏄の2クラスのチャンピオンとなった’85年の翌年、急激にしぼんでしまった。なんでも、オフシーズン、次の課題を克服するべく、筋トレを励みすぎて、筋肉が神経を圧迫する障害に襲われてしまう。
 clubhouseで知り合いになった、元柔道少女がまさにそれに罹ってしまったそうで、とにかく競技ができないくらいに強烈に痛いらしい。または、競技が続けられなくなるくらいに。そしてそれは何年も続くものらしい。
 何度もここに期するものを持って、再スタートを切ろうとしたみたいだ。ホンダのエースの座はワイン・ガードナーが持って行った。画像の’89年は、フレディと入れ替わりにホンダで走ったエディ・ローソンがチャンピオンを獲っている。しかし、フレディはそれでもバイクにしがみつくも、かつての走りは取り戻せず、そして柔道少女の言によるならば、ずっと痛みを抱えて走り、GPを離れ、米国内のシリーズを走り、やがて消えていった。

 モータースポーツと言わず、スポーツ全般と信仰だ。最近では、大坂ナオミもそれっぽい発言をしていたと思うが、多分、だ、競技の道を突き進むのが神の意志であり、いろいろな迷いがさいなむことがあっても、神の名のもと、時には強烈な使命感をもってわが身を競技に捧げることもある。
 アイルトン・セナは前日のローランド・ラッツェンバーガーの事故で、自身にその時が来ているのだと予感していたのではないか、という記事を見たことがある。しかし、走るのが神に与えられた彼の使命であるとし、悲壮な面持ちでウィリアムズに乗り込んだのだという。(とはいえ、まさか本当にタンブレロに突っ込むとは思ってはいなかったとは思うが)
 筋肉は裏切らないというが、フレディ・スペンサーは、筋肉に裏切られたのだ。しかし、それでも走ろうとしたのは、それが神の意志と信じていたから、なのかもしれない。

 それは、実はまったく別種の自分との戦いだったのかもしれない。レーサーとしてフェイドアウトしてからの彼の事は知らない。2010年代も半ばを過ぎてから、しかし、彼はファンイベントなんかに顔を見せるようになった。多分は一時はバイクなんて見たくもない心境だったと想像できるが、全盛の時のNSR500を駆り、GPの時は走る事のなかった、マン島のジャンプスポットを飛んだりもして見せた。そして、白髪が混じりかつては細面の甘いハンサム君だった老境に足を突っ込んだ男はファンに囲まれ、柔和な笑顔を浮かべながら写真に納まっていた。

 片や、神を信じピーク近くのところで突然天に召された男と、片やひょっとしたら神は裏切ったのではないかという疑念を抱いてしまうような試練を与えられ、今笑顔を浮かべる男。