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なまじ正しいもの、と言っても、この際は、人倫的に正しい、ということを指すよりは、最短距離を行く正解、という意味での正しい、を指すが、そう、なまじ正しいものを求めるから、解釈や考え方の違いを生み、時にはそれが深刻なものとなる。
いっそ、間違ったものを目指してはどうか? ある時点で、オレはそんなことを考えてしまったのだと思う。今でも、より多くの事を知りたいならば間違ってみるべきだと思っている。
そろそろランボゥの話に戻りたく、「地獄の季節」をほんの少しばかり音読してみた。気が付いた。こりゃぁ、宗教家には見せられないな。卒倒起こすぞって。宗教的には何一つ正しいものがない。権威にすがることも、権威を目指すことも、自分自身が権威になることも、最初から放棄している。今の時点で正しくはないし、正しいものを目指しているわけでもない。ただ、無防備に苦しみ、それを晒している。中原中也もそうだ。
オレが若いころの昔には、イケメンに限り、そういうポーズもモテていたが、今は全面的にアウトなんだろうな、きっと。いつだったか、この十年以内の事だ、こういう感じの稚拙な模倣のロックバンドの曲を、真矢みき氏が「バランスが酷い悪い心をしている」とかなんとかで、斬って捨てていた。まぁ、そりゃあそうなんですがね。
で、男の子は一本キリの価値観の線上に並べられ、ある所より下位は足切り、その後陽の目も視られなようなそんな感じになっていく。
これを自ら進んでいくというのは、かなりのリスクがある。まず失敗してひどい目に遭う。オレも結構そんな感じ。稀に成功する奴もいるけれど。
しかし、まぁ、一直線に並べられては、ずっと後ろの方に押し込められるぐらいなら、自分の思うところを目指して失敗したほうがマシという考え方はあるように思う。あとは自分の心臓が止まったのにも気が付かないぐらい集中して進んでいくだけだ。
というような生き方も、なかなかできない時代、社会になってしまった。ロールモデルはきれいさっぱり片づけられ、最初からそんなものはなかったかのようにふるまわれ、ひたすら立ちすくむしかない。
あとは、明らかに間違っている、模倣すれば苦しみしかないのが分かってしまっているような詩人の言葉しか残ってない。
読み解け。解釈はそれぞれの流儀でいい。何かヒントがあるはずだ。