2025年11月26日水曜日
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2025年11月16日日曜日
8874 Integra typeS _2
2025年11月13日木曜日
2025年11月10日月曜日
8867 Daytona SP3
このままスポーツカーは眠りにつくのだろうか? それはそれで仕方ないとしても、かつてあこがれた思いを込めて描き残しておきたいと思っている。
2025年10月28日火曜日
8853 Biturbo _2
2025年9月27日土曜日
「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3
話を少し変える。
資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。
少し整理しよう。
まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?
禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。
ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。
つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。
だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。
整理するとポイントはこうだ。
アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。
バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。
アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。
または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。
一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。 かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。
そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?
個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。
「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ
これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。
個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。
何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?
何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。
何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。
大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。
一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな
其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。
まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。
2025年9月17日水曜日
「贈与」に至る / 糸口を探す 4 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 1
2025年9月8日月曜日
「贈与」に至る / 糸口を探す 2 KP61、ジョルジュ・バタイユ、哄笑
2025年7月13日日曜日
8835 Lexus LC
2025年7月4日金曜日
2025年7月1日火曜日
2025年6月30日月曜日
8819 GT40 X-1 Roadster
2025年6月28日土曜日
2025年6月27日金曜日
アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義10 雑記4 狼の皮をかぶった子羊の末路、その頃ガンダムは
ある年齢以上の、日本の”男の子”なら聞いたことがあるフレーズ「羊の皮をかぶった狼」というのは、実は画像のKPGC10ではなく、その一つ前の型、特にその中のホットモデル、S54Bスカイラインに与えられた二つ名だった。見た目、普通の乗用車で、何とかポルシェを凌駕してやろうと、4気筒エンジンが収まっていたところに、無理やり6気筒を押し込んで作った、なんかまぁ、無茶なクルマだったが、それのおかげで、長らく「スカイライン」と言う名前は日産と言う会社の財産にもなったし、ある意味呪いにもなった。
そこで終われば、この項での話は、かっこいいクルマの話で終わるのだが、狼になれなかった、でも羊にも戻れない、かつては幸せな子羊だったものの物語のアニメが本題である。原作はやなせたかし氏だった。
「チリンの鈴の音」。オレの下手な説明よりは、Wikiでも見ていただいた方が理解が早いし、動画も上がっている。30分ほどの短編アニメだ。
何の情緒も交えずに書くならば、母親に愛されて幸せだった子羊が狼に母親を殺されて、狼にかたき討ちをしようとするが、勿論敵うはずもなく、狼と一緒に行動することになった。成長し異形の生き物になったかつての子羊は、再び羊の群れを襲おうとしていた狼を倒すが、あまりの変わりように羊の群れには帰れず、ひとり、いや一匹、姿を消す、と言う話。
またもや!、子供向けのふりをしていて、到底子供には理解が難しいテーマの作品である。
その辺の、そしてオレの幼いころのような子供なら、どう思うだろう? 狼はワルモノか? かつての子羊、チリンを受け入れない羊の群れが悪いのか? そもそも、チリンが母親のかたき討ちをしようとしたことが間違っているのか?
争うこと、戦うことは、本当に悪なのだろうか? ここで、やなせ氏が本当に反戦を第一のテーマとしていたのか?と、いう疑問が出てくる。
狼は、羊を襲うものだ。生きるために。羊の群れがチリンを受け入れなかったのは、個々としては弱い羊の生存戦略だ。親を殺されて敵討ちを志すチリンを止められたか? 皆、それぞれの役目を全うしての、結果としての悲劇だ。
誰が悪い、と言う話ではないのかもしれない。存在を全うすると言うことに良い悪いもない。例えば、一つやなせ氏のテーマに、「正義はひっくり返る」というものがあった。みんな精一杯なのだ。
わからない。ただ考え続ける他にやり様がないように思える。ただ、チリンも敵を討たれた老狼も、羊の群れも、愛さなくてはいけないのかもしれないとは思った。
たとえば、爆弾が落とされた街の、焼け跡で泣き叫ぶ子どもに、「それでも人間には理性がある」などと語ってみても、たぶんその言葉は何の意味もなさない。爆発の音、焼け爛れた匂い、誰も助けてくれなかったという絶望の方が、ずっと雄弁だ。
「戦争は悪い」と言ってしまうことの簡単さと、その言葉が無力である場面の多さに、人は遂に諦観を手に入れる。だからなのだろう、「わかりやすい敵」を設定して、それを倒すことで終わる物語が、もうそれしかない、と言わんばかりに幅を利かせる。だが、本当はそんなに簡単ではないだろうと。
狼は悪くない。羊も悪くない。チリンも間違っていない。誰も責められない、という構造そのものが、最も苦しい。では、どうやっていさめるか? どうやって止めるか? それは「問い」を差し出すことしかできないのだと思う。
——お前は、どう生きたいのか?
——なぜ、怒りを抱えたのか?
——怒りを超えて、どこへ行こうとしているのか?
そうした問いを、静かに、鈴の音のように差し出すこと。それが、やなせたかし氏が『チリンの鈴』に託したものだったのではないかと思う。そして、それはきっと戦争だけでなく、日々の争いや断絶、誤解や怒りや悲しみにも、同じように響く。チリンは遠い山の中に消えたが、その鈴の音は、今日もどこかで、誰かの心に残っている。言葉にならないものがあると知った上で、それでも言葉にする。
思えば冨野由悠季氏はこういうことをやりたかったのではないかと思わないでもない。確かに『機動戦士ガンダム』でやろうとしたのは、「戦争を描くことで、戦争を否定する」ことだった。でも、やっぱりモビルスーツはかっこよすぎた。ザクもガンダムも、あまりに造形が魅力的で、MS戦の演出が緻密で、キャラクターたちもみんな強くて傷ついて美しかった。つまり、反戦メッセージの上に、強烈なエンタメが乗ってしまった。
これは、別に失敗ではなくて、むしろ「だから届いた」とも言える。が、結果的にあの世界へのあこがれは、弱きものへの視線を大きく削ったものとして現れた気がする。冨野氏自身もそのことをよくわかっていて、だからこそ後年の作品ではどんどん“わかりにくく”し、“気持ちよくなりすぎない”ようにしていったように思う。そのたびに「ついてこれない観客」と、逆にかじりついてくる妙に拗れたガノタの出現。もちろん、普通にファン、と言う人が多数ではあろうが。表現者としての冨野氏に葛藤があったのではあるまいか?
やなせたかし氏は、自身の作品の主人公たちに「かっこよさ」を一切与えなかった。チリンは強くなるけれど、美しくはならない。戦っても、英雄にはならない。ラストに至っては、もはや“物語”としてのカタルシスすら拒絶する。
そして、観客に何もご褒美を与えない、苦い寓話があるのみ。
『ガンダム』は、どこかで「少年の夢」を背負ってしまった。ロボットアニメの文法とスポンサーの都合と、なにより当時の視聴者の熱狂の中で、「チリンの鈴」のような冷徹な問いの純度を保つことは、難しかったのかもしれない。
それでも、冨野氏は、ずっと問い続けたのかもしれない。「人はなぜ争うのか?」「なぜ分かり合えないのか?」「正しさとは何か?」「ニュータイプとは何か?」
「チリンの鈴の音」と相似形じゃないかと、気がついた。『ガンダム』は**“チリンが人間だったら”の物語**なのかもしれぬ。戦争というシステムの中で、愛を失い、力を求め、正しさに迷い、どこにも帰れなくなる人々の群像劇。チリンの鈴が、ガンダム世界では無数のキャラクターたちの“心の声”として響いていたのかもしれぬ。
ガンダムは「かっこよすぎた」。でも、それによって多くの人に届いた。「本当は何を描きたかったんだろう?」と立ち止まる者も、今なお絶えない。だから、エンタメ、経済的要請に負けたようで、実は勝っているのかもしれない。冨野氏が撒いた問いの種は、まだ終わっていない。
「アンマンパンマーチ」の歌詞、
なんのために生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
こんな、異常なほどストレートな実存的問いかけを、毎週テレビのオープニングで投げかけてくるって、やなせたかし氏、正気じゃねぇ(褒めてます)。普通なら「がんばれアンパンマン!」とか「アンパンチでバイバイキン!」的な明るさを全面に出すはずなのに、真っ先に生の根源的意味を問う。この姿勢、やなせ氏の一貫したテーマ——「正義とは?」「愛とは?」「善悪とは?」——を、3〜5歳の子どもに全力でぶつけてる。
「こたえられないなんて/そんなのはいやだ!」
ここなど、完全に自分自身への宣言だろう。大人がよく言う「まあ、生きてればいろいろあるさ」とか「答えなんてなくていいんだよ」っていう“逃げ”を、幼い子どもが拒否してる。それも、歌詞として叫んでる。 大人の諦めを断固として拒否する、魂のスタートライン。
やなせ氏自身が何度も語っているのは、「本当に苦しんでいるのは子どもだ」「大人は、自分のことは自分で処理できるが、子どもはできない」という視点だった。だからこそ、子ども向け作品ほど**「本物の問い」を投げるべき**だと彼は考えていた。
絵はゆるいのに、断じて子供だましは作らなかった。
「アンパンマン」は、見た目はパンで、敵は菌で、戦い方もユルい。 でもその根底には、「どう生きるか?」「どうやって誰かを助けるか?」という、実はヒーロー論の最前線が通っている。
冗談でなく、これはもう戦後の精神史に刻まれるべき詩ではあるまいか?大人が疲れきった時代に、子どもたちにこう問いかける。 「生きる意味を探していいんだよ」「答えを持ちたいと思っていいんだよ」その姿勢は、戦争で希望を失った時代の先に立って、「それでも生きていく」ための哲学だった。
アンパンマンは、ただの顔を分け与えるヒーローじゃない。 問いを投げ続ける、希望の残響だ。 ゆるい絵柄で、逃げ場のない本質を描くという、ある種の詐欺的な、しかし誠実極まりない手法。 単純な線に柔らかい色彩、どこからどう見ても幼児向け」の絵柄だった。しかし、やってることはこうだ。
食べ物を与えるために自分の顔をちぎる。
空腹と孤独と寒さに泣く者のそばに現れ、無言で助ける。
戦うことよりも、立ち続けることに意味を見出す
アンパンマンって、「勝つ」ことより「支える」ことに重点を置いている存在だ。ヒーローなのに、戦闘よりもケアが本分。
つまり、見た目が子ども向けなのは、重いものを背負わせるための戦略だったのではあるまいか?
戦中派であり、弟を戦争で亡くし、戦後は飢えと屈辱と無名の中で生きてきたやなせ氏にとって、「生きる意味」は私たちが思う以上に重たいテーマだったのかもしれない。
そしてそれを、ただの道徳やお説教ではなく、わらべうたのように見せかけて叩き込んできた。 子ども向け作品で、「哲学」が入り込む余地があるという事実を、最もよく体現したのが『アンパンマン』なのだろう。 アンパンマンのあの「顔を与える」という行為は、単なるヒーロー行為ではなく、自己犠牲・再生・共同体の維持といった概念をまるごと内包している。それを、「パンが飛んできて助けてくれる」っていうシンプルな形で伝えてくる。すさまじい表現力だ。 だから逆説的に、「チリンの鈴」のようなストレートな痛みに比べて、 アンパンマンはもっと遅れて効いてくる。大人になってから「あれってそういう話だったのか」と気づいたとき、子どものころ受け取っていたものの深さに、ようやく追いつく。
などと、尤もらしく書いているが、子供の時は、遂にアンパンマンと言うものがこの世にあることを一切知らなかった。もし、子供の時に観ていたらどんな子供になってたやら。
現代の世界の行き詰まり。ずっと、人類の文明もあと2,3世代、その後は壊滅的に衰えていく、或いは、何億年に一度かの、生態系総入れ替えがそろそろ起こるのではないか、と、何となく感じている。オレが仕舞った、次の日にそれが起こっても一向に構わないが、オレ自身、全世界の人口分の1、それに加担していることを思えば、何かせねば、何か言わねば、何か考えねば、と思った時に、今の世界の問題を「過剰」と言う言葉で言い表すならば、それならば、と、ノーム、バタイユ、ジジェクなどの「贈与」について、読んだり何なりしていた。そこにアンパンマン、今田美桜ちゃんが、思いのほかかわいかったこともあり、意識に飛び込んできたわけだ。
しかしそれは、一見すると飛躍のようでいて、実は本質への最短距離だったのかもしれぬ。 アンパンマンは、顔をちぎって人に与える存在だ。「自己犠牲」でもなく、「見返りを求めない親切」でもない。むしろそれは、“与えずにはいられない存在”として描かれている。 ここで、ジジェクやバタイユが描いた「贈与の暴力性」や、「見返りなき贈与の構造」が思い出してしまったのも、無理からぬことであるとご理解ください。
バタイユ:消尽(蕩尽)としての贈与。社会秩序を逸脱する、祝祭的な非合理。
ジジェク:贈与とはしばしば暴力的で支配的ですらあり、「贈られた側」はその返礼の構造に巻き込まれる。
ノーム(グレーバーなどのアナーキズム的贈与論):交換の前に、まず無償の行為があったという認識。
「なんのために生まれて、なにをして生きるのか」ここには、経済合理性とは無関係な存在理由への問い、交換の論理では語れない、まさしく「贈与的存在論」の問いかけがこめられている。
なんのために生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
この一節は、役に立つ/立たないの問題を超えて、与える存在であることの必然を探る問いでもある。
子どもの時ににアンパンマンを見ていたら、たぶん「顔ちぎって与えてるヒーロー」という変な記憶で終わったかもしれない。しかし、贈与論――バタイユの蕩尽、ジジェクの「贈与の裏に潜む暴力」、ノームの「交換以前の贈与」――を通過したがために「与えることの絶対性」に反応することできた。
アンパンマンは、自己を維持することに意味がある存在ではなく、他者のために蕩尽されることで完成するヒーローだ。これは、資本主義の“自己保存型”ヒーロー像とは真逆だ。アメリカン・ヒーローが悪を倒して自己を完成させるならば、アンパンマンは他者に自己を与え尽くして消えていく存在だ。 この「贈与→蕩尽→再生」の構造が、やなせたかしの底にあった思想であり、まさに贈与論の実践形といってもいい。
やなせたかし氏の生涯を扱ったNHK朝ドラ『あんぱん』で描かれるのは、ヒーローを描きながら自己の貧しさ・無名・敗北・死の恐怖を抱え続けた男の人生。60を過ぎて初めて売れた、正義を疑い続けた、「アンパンマン」は戦争の痛みから生まれた、そんな男の描いたヒーローが、「顔を与える」存在であることは、偶然でも気まぐれでもないような気がする。
チリンが「復讐によって自我を保とうとした者」なら、アンパンマンは「与えることで自己を保とうとする者」だ。そしてどちらも孤独で、でも問いを放つ存在だ。仮面ライダーやガンダムにはたどり着けなかった境地の問いがある。
了



















