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2025年6月18日水曜日

存在と鋼鉄4:成長と完成の神話――近代とその亡霊たち

 


8804 963  Daytona 2023

成長と完成の神話――近代とその亡霊たち

 いつからだろう。「なぜ生きるのか」という問いが、「どう生きれば最も効率的か」に変わってしまったのは。
あるいは、「これでよいのか」という問いが、「まだ足りないのではないか」という焦燥にすり替わってしまったのは。
 成長・向上・改善――。
この一見ポジティブに響く言葉たちが、21世紀の人類を“数字”に閉じ込める檻になるとは、誰が予想しただろうか。

 ここでは、「成長信仰」および「完成への執着」がどのように形成され、どのような思想的系譜に依拠し、どのような転倒を招いているのかを、思想史の視点から描いていく。

 近代の誕生と「神のいない世界」

 ルネサンスから啓蒙主義へ――人間は神の庇護から自立し、世界を自らの手で説明しようとした。逆に言うと、それ以前の人間の思考野が信仰というもので、ロックがかかっていたところがあった、という事だろうか? 神様からのお仕着せの言葉で、自ら思考し既定することなく世界の枠組みを受け入れてきた。自らそれを考えだそうとした試みの始まりである。

 フランシス・ベーコンは「知は力なり」と述べ、知識を手段とした世界支配を掲げた。
 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と、外部から切り離された自己の確実性を主張した。

 この流れのなかで、「世界は測定可能であり、理性によって制御できる」という信仰が生まれた。当時の空気感は、一種の万能感に支配されていたのかもしれない。人間が世界を規定していくのだという、自負やら傲慢やらが入り乱れたような。
 このとき、人類は「永遠の問い」よりも、「無限の成長」という新しい神話を手に入れた。思えば、この選択が例えば今の行き詰まりを産んでいるとオレは思っているが、それは言っても詮無き事だ。問題は「永遠の問い」があることを忘却してしまったこと。


 資本主義と効率の論理

 マックス・ヴェーバーが喝破したように、プロテスタンティズム(とくにカルヴァン派)は、労働と勤勉、節制と貯蓄を通じて神の選民であることを証明するという倫理を育んだ。包括的に存在論的思考全体の話にはならなかったのは、時代の不明だろうか?

 神の不在が明確になるにつれ、この倫理は資本主義の歯車として独り歩きしはじめる。利潤は善であり、効率は美徳であり、生産性は道徳であった。

 「(経済的に)成長しているか?」という問いが、「存在していていいか?」という問いと合一するようになるという、オレから見ればある種の不幸を人類は背負い込むことになった。


 ニーチェとハイデガー――進歩への懐疑

 ニーチェは『ツァラトゥストラ』において、「人間は乗り越えられるべき橋である」と語った。
 しかしそれは、近代的な成長とは別の文脈にある。

 ニーチェにとって、成長とは個としての意志=力への意志(Wille zur Macht)に根ざした創造的行為であり、「他者から優れている」ことではなく、「自己を更新すること」にこそあった。
 そしてハイデガー。
  彼は『存在と時間』において、「現存在(ダス・ザイン)」が死に向かう存在であることを明らかにした。それゆえ人間は、完成に至る存在ではなく、常に不完全のまま、開かれている存在である、とした。

 だが現代は、そのような“開かれ”よりも、“完成されたプロダクト”としての自己を目指す。
 彼が批判した「技術による世界把握(ゲシュテル)」は、現代の成長主義そのものである。


 ナチズムの夢と破滅

 ナチス・ドイツが求めたのは、「完成された国家」であり「純化された共同体」であり「強化された人間」であった。ニーチェの思想を恐らくは恣意的に誤読し、超人思想を民族優越主義に置き換えた。技術を信仰し、「フォルクスワーゲン(人民の車)」で未来社会を夢想した。フェルディナンド・ポルシェのエンジニアリングは、戦争と機械の神話を支えた。

 だが、「完成」は常に排除と破壊を伴う。完成しないもの、不完全なもの、非効率なもの――それが「敵」とされる。
 そして、「完成」されようとした国家は、もっとも野蛮なかたちで崩壊する


 成長の終点と、ポスト成長の倫理

 いま、われわれは「成長し続けることが前提である社会」の限界を目撃している。気候危機、格差拡大、精神の空洞化――どれも「過剰な最適化」の帰結だ。
 では、脱成長は可能か? 「問いの復権」は可能か?

 バタイユが述べたように、「無駄」「非生産」「蕩尽」こそ、人間的な営みである。
 イヴァン・イリイチが描いたように、道具が人間に奉仕する社会から、人間が道具に奉仕する社会への転落に抗う必要がある。
 ハイデガーが言ったように われわれはただ、なおも問う者としてのみ、存在の真理に近づける。


 いま必要なのは、「完成すること」でも「成長しきること」でもなく、未完のまま、関わり続ける勇気でなないか。生きるとは、「なにかになること」ではなく、「問い続けること」「揺らぎつづけること」ではないだろうか?

 成長とは、人間を測る単位ではなく、人間が測りきれない何かに出会うための、偶発的な現象であると思う。


2025年3月8日土曜日

2024年9月28日土曜日

2024年7月15日月曜日

8346 Carrera RSR _8

 

8346 Carrera RSR _8

911 Carrera RSR Turbo #911 460 9102 R13
Herbert Müller
Le Mans  La Sarthe  1974


2024年7月11日木曜日

8325 Matra Simca MS660

 

8325 Matra Simca MS660

Matra Simca MS660 #01
Jean-Pierre Beltoise
Le Mans, La Sarthe  1971


2024年7月8日月曜日

2024年6月22日土曜日

8284 DBR1 _3

8284 DBR1 _3

NT0069 キャロル・シェルビーの時代

 キャロル・シェルビーは歴史上最も幸せなカーガイだった、とオレがここで書いてもおそらくは反論は起きまい。F1の戦績は残せなかったが、若い時はルマンウィナー、カーデザイナーとしてはコブラを世に出し、ルマン優勝チームを率い、そりゃビッグネームとなれば相応の苦労もあったのかもしれないし、プライベートの人間関係までは知らないけれど、老いて亡くなるまで好きな車に概ね最高な形で関われたのだから、羨望が強い。

 が、「Ford vs Ferrari」の冒頭では、心臓疾患でレーシングドライバーからの引退を余儀なくされた、「まだやり残したことがある」「もっと遠くに行きたかった」おっちゃんにいちゃんとして登場する。映画の尺の都合もあるだろう、必要以上に過去に拘泥する描写はなく、ケン・マイルズと二人三脚で、GT40をルマンで勝たせるために奔走するのがこの映画の流れだ。
 どちらにしろ、彼の「やり残した」と言う思いは、レーシングチームやショップのマネージメントに上手く転化されていくわけである。
 苦味も芳醇な旨味も、どのような生き方をしようが味うことになる。苦味を感じぬようにしていれば旨味にも行き当たらず、見るところのない、まして映画の題材になるはずもない、そう言う人生になっていたはずだ。

 さて、前に書いた通り、この頃のクルマというのは随分原始的で野蛮なもので、タイヤの着脱ひとつとっても、名前知らない、ホイールのハブのあたりを大ハンマーで力任せに殴っていた、そういう時代。

 映画のGT40やP330、カレラ910は丁度オレが生まれたくらいの時の最新型スーパーマシン、DBR1やコブラはそれより1世代前のものになるが充分現役バリバリ。で、さ、オレが20代の頃だけど、その時の30代半ば以上のオジサンたちに、やたら特にこの頃のクルマ上げ、現在(’80年代)のクルマ下げ、なことを言う人たちがいたのよ。なんや、このオッサン等? と思っていたが、まさかね、今その心境が分かるようになるとは思っていなかった。
 ぶっちゃけ、今(2024年現在)のクルマの、「これじゃない」感。

 ふわっと、ざっくりと、それが何なのか言えなくはない。まぁ、今のクルマの開発者も可哀そうだ、というか。1方向に突き抜けられない、どの方向に向かっていいのかよくわからない、その実目指したい方向とは違うものに支配されている、そんな感じ。


 

2024年3月17日日曜日

8245 GT40 Mk.II _10

 

8245 GT40 Mk.II _10

 ネトフリに「Ford vs Ferrari」が上がってたので久しぶりに視た。いや、燃えるわ。基本、こういうのが好きなんだわ。他は割とどうでもよくて。

 Mk.IIがルマンを制したのは、オレが生まれた年だ。1966年。今の事を思うと随分と原始的で野蛮なクルマでレースをやっていたものだと思う。燃料の自然流下は当然として、ホイールの組付けの時なんて、電動トルクレンチなんて何それ?って感じで、大ハンマーで殴って閉めたり緩めたりしてたんだからびっくりだ。燃調から何から何まで電子部品なんてものはなく、コンピューターのテレメーターなんてものもない。ただただドライバーの感覚が頼りという。
 2輪も4輪も、70年代から80年代にかけて、ライダーやドライバーが主導してレギュレーションを安全側に大きく変えていった、との事。それだけならまだいいが、メーカーやらスポンサーやら興行者の思惑も絡んで、今や、レーサー達、随分と安全にレースをできるようになったが、彼らが、何か鳥かごか何かの中、ハムスターとかハツカネズミが、一所懸命回し車に乗って回してる様を幻視してしまう事があって、非常に寂しくなってしまう事がある。

 徒にレーサーを危険にさらさないため、と言われてしまえば何の反論もできないが、生身で機械と、その向こうの生死と対峙していたかつてのレーサー達は、そういう物が持つ何とも言いようがない、風格というか凄みを持っていて、素直に男の子として憧れることができた。かつてのように明日がレースだというのに深酒してなんてもっての外で、今の前夜はホテルの部屋でテレビゲームやって適当な時間に寝る、それが自己管理、という感じの今のレーサーのコにはちょっと持ちえないんじゃないだろうか? まぁ、かつてのレーサー達より早く走るスキルは断然あるとは思うが。そう思うと、オレはオールドファンであって、今のレーサーは今のファンに応援してもらえたらいいのではないか、とついつい思ってしまい、若い頃のようにリザルト追っかけなくなって久しい。

 とはいえ、ドラマの「不謹慎にもほどがある!」じゃないけれど、それより時代はずっと前になるけれど、一つ一つ映画の内容を書き出そうとすればするほど、今の時代じゃあり得ない事のオンパレードになってしまい、それは、とりもなおさず、この時代においては妥当性を失ってしまっていることに他ならない。
 ここは、かつての時代を知り、ファンであった自分がラッキーだったのだと、あまり喧伝せず、なるべくひそやかに思っているだけにとどめておくことなのかな、と思う。寂しいと言ってしまえば寂しいことなんだろうが、まぁ、そういう物だ。

 因みに画像は映画の主人公クリスチャン・ベイル演ずるケン・マイルズが駆ったMk.IIとは違うカラーリングである。

2024年3月8日金曜日

2023年8月5日土曜日

2023年8月1日火曜日

2023年7月22日土曜日

2023年7月17日月曜日

7983 917K _18

 

7983 917K _18

Gulf - Porsche 917 K
Richard Attwood
La Sarthe, Le Mans  1971


2023年7月2日日曜日

7973 T33/3 _5

 

7973 T33/3 _5

Autodelta - Alfa Romeo T33/TT/3
Nino Vaccarella
La Sarthe, Le Mans  1972

7971 Matra Simca MS670B _2

 

7971 Matra Simca MS670B _2

Matra Simca - MS670B #B-01
Jean-Pierre Jabouille
La Sarthe, Le Mans  1973


2023年6月22日木曜日

7969 Ligier JS2

 

7969 Ligier JS2

Ligier JS2
Jean-Louis Lafosse
La Sarthe, Le Mans  1975


2023年6月20日火曜日

7967 Lotus Elise GT1 _2

7967 Lotus Elise GT1 _2

Lotus Elise GT1 #115-07
Jan Lammers
La Sarthe, Le Mans  1997

2023年6月4日日曜日

7947 Carrera RSR _7

 

7947 Carrera RSR _7

911 Carrera RSR Turbo #911 460 9101 R12
Helmuth Koinigg
La Sarthe, Le Mans  1974