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2025年11月3日月曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。1

8863 Liza Kovalenko

 

 最初に書いておく。この文章はChatGPTとのダイアログを基に、何かそれっぽく、”手作業で”文章化したものだ。


 これを書いている時点までも、この問題に限ったことではない、いろいろとChatGPT、Gemini、Grokあたりの大手LLMを使って、いろいろ考えをまとめて文章化の材料を貯えてきているのだが、興に乗ってそっちに注力するあまり、ちゃんと文章にして発信していない。中には新鮮味を失ったトピックもある。が、まぁ、ぼちのぼち、整えて発信していくことにしよう。


 さて、まず、この項に合わせられた絵の、Liza Kovalenko(ライザ・コバレンコ)氏という、えっと、ググったらウクライナ出身「という設定」のモデルさん。まぁ、なんていうの? まず美人すぎるんだわ。でも、それだけなら、他にもこれくらい美人の方はいるんだがね。Rachael Cook氏も、すんごい美人だよ。でもな、レイチェル・クック氏と比べても、何か嘘くさいのだ、このライザ・コバレンコ氏。AI生成を疑った。chatGPTに見立てを聞いてみたら、正面からの顔がほとんど、これは顔のデッサンの狂いを見せないための物、活動がInstagramだけというのが不自然。しかしながら背景に著しい破綻は見受けられない。おそらく、実物に相当の補正を加えたものではないか? 決して100パーセント存在しない全くのAI生成でもないだろう、との事だった。

 で、だ、おれは、そういう画像を更に、自分のタッチの「絵」に落とし込んでいくのである。まぁな、これでロマンス詐欺でも仕掛けられてるんだったら別だが、どのみち実物と会うことはない。嘘でもびじんならそれはそれで、そういう時代に生きてるんだと感慨にふけりながら絵にするのである。


 で、だ、本題。

 要するに、カクヨムのAI生成作品がランキング1位をとっちゃった、そしてその作者が1日で38本投稿した、ということで、web作家界隈が大騒ぎしているらしいのだが、まず、誰のなんという作品なのかよくわからない。検索してみた。chatGPTにもお願いして調べてもらった。

 なんか、それによると、『無能な俺がAI小説38作品爆撃でランキング1位に!? AI小説編集者として勝ち組人生満喫します!』という作品らしいんだが、いや違うだろ。詰まんねぇよ、と、最初の10行ほど読んではんだんしたが、どうなんだろうな?


 んー、まぁいいや。縁があれば読むこともあるだろう。ランキングとか何とか、そんなことは割とどうでもいいレベルの話のような気もするし。


 突き詰めると「AIがランキングを荒らした!」というよりも、ランキング制度そのものの脆弱さ(量産型に弱い)とか、「AI=脅威」という受け取り方への反応過多とか、“物語の価値とは何か”という根本問題に行きつく予感がした。これらが一斉に噴き出しただけってね。


 たとえば、商業出版や純文学の世界だと「AIで38作投稿しました」なんて話は単なるノイズだろう(ラノベ出版は除く)。でも投稿サイトでは、数字(アクセス・ブクマ・ポイント)が“作品の価値の代理”にされている。だからランキングが“聖域化”していて、侵入者が来ると「秩序が壊れた!」という反応になる。

 これってさ、趣味や創作の核心から見たら、これは本質じゃなくない? むしろ「物語を書くとは、何かを表現したい・伝えたいという動機から始まる」って立場からすると、AI量産で埋め尽くされた画面なんて、ただの背景ノイズでしかないんだが。


 この件、「AIが量産を可能にした結果、作品の“密度”をどう守るか」という方向から論じたほうが建設的じゃない?



 別の側面からいえば、カクヨムなり、なろうなり、プラットフォーム運営がどう対処するかってだけの話で、誰が書こうが何が書こうが、面白いと思えば読むだけのこと。 繰り返してるけど、web作家側からすれば、プラットフォームがダメになる、くらいの話なんだし、自分の作品が需要があるところに届けれたらそれでいいのだ、くらいに考えないと。PV本位主義に知らず毒されていたという気づきさえあればねぇ。


 結局のところ、作品が誰に届くか、どういう場で受け取られるか、読者が「これは面白い」と思えるか、という“関係性”こそが創作の本質で、AIだろうと人間だろうと、「届く」かどうかがすべてじゃなかろうか?

 AI作品がランキング上位を取るというのは、単に「ランキングという制度設計が量産型に最適化されていた」という話であって、作品そのものの価値や、創作の意義とはまったく別レイヤーの問題。

 むしろこの騒動は、作り手側が、“いつの間にか数字を目的化していた”という事実に気づく機会になればいいのだが。


 ランキングが壊れても、表現は壊れない。っていうか、そうだな、若い頃から、小説じゃない、音楽の方な、ランキングで効くものを選んだためしが一度としてない。まぁ、よっぽど売れてたら、歳忘れの頃やたら流れてきていて、聴いてみたら良かったということはあったかもね。個人的にはランキングなんてどうでもよくて、試しにカクヨムトップページに、永世ランキングみたいのがあるけどそれを読んでも、なんかピンとこない。どれもこれも、だ。

 プラットフォームが沈んでも、語るべきことがある人は語り続ける。そこに戻れる人だけが、結局は長く残るんじゃないかね、ちがうかね?


 言い換えてみよう。冷静に考えれば、それは「創作の危機」ではなく「プラットフォームの構造疲労」だ。ランキングは、本来“誰かが面白いと思った”という反応の集積だった。だが、いつしかそれが「順位を上げるために作品を書く」指標へと変わってしまった。AIはその“構造の隙”を突いただけの存在にすぎない。


 誰が書こうが、何で書こうが、面白いものは読まれるだろうさ。読まれないなら、そこに届かなかっただけだ。AI量産の波に埋もれたとしても、読む人が「これは違う」と感じる瞬間は必ずあるはずだ。あまり読者を軽く見ない方がいい。


 本来、創作とはマーケットインでもランキングインでもない。誰かに見せたい景色や、伝えたい痛みや、笑いの瞬間があるから生まれるものだ。それを形にする手段がAIであろうと、ペンであろうと、本質は変わらない。

 もしプラットフォームがダメになったとしても、それは市場の老朽化にすぎない。表現はもっと自由で、もっとしぶとい。読む人がいる場所へ、また届くべき言葉を連れていけばいい。

 ランキングの下位に沈むのが嫌なら、そこから距離を置くぐらい、さらっとやらないといけないんじゃないか?それが創作を長く続ける上での「呼吸の深さ」だろう。ランキングは“競技場”であって、“表現の居場所”ではない。そこに居続けると、知らないうちに自分の感性まで数字に合わせてしまう。本当に書きたいものがある人は、いったん離れてみるくらいでいい。数字が静まった場所のほうが、言葉はずっと遠くまで届く。



 確かに、そういう創作サイトや、Google検索なんて、呼び込むには太い筋なんだけど、そこで相手にされないなら、細いところで手数増やすとかなんとか、そういうの、小説には書くやつ結構いるのにな。リアルではできない?やらない?

 作品の中では、登場人物が臥薪嘗胆をいとわず、ちゃんとそれをやってるのに、現実の作者自身はやらないというのは、創作界隈の典型的な矛盾かもしれぬ。

 物語の中では、主人公が諦めずに、小さな手を伸ばし、細い道を探して進む。

 誰にも見向きされなくても、必ずどこかで誰かに届く。そういう“信念”を描くのが作家なのに、実際の作者たちは「ランキング圏外=存在しない」みたいな世界で戦っている。

 あぁ、これ、NTRざまぁかまされたら、実際警報犯罪を犯していたら別だだけど、10代や20代前半そこらで、再起不能人生\(^o^)/オワタが主流だが、文学も人生もそこからだろう、なぜそうならない?と思った時の感覚に似ているな。詳しくは稿を改めるが。


 本当は違う。「太い筋」=大通りが塞がれたら、路地裏を歩けばいいし、地図にない道を自分で描けばいい。SNSでも、個人ブログでも、地元のイベントでも、文芸同人でも、それこそZINEみたいな手作り冊子でも、細い線を何本も引いていけば、やがてそれが道になるんじゃないかねぇ?

 現実でそれを“やらない”のは、もしかしたら「やっても無駄」と刷り込まれてるからなのかねぁ?数字でしか評価されない世界に長くいると、 “見えない届き方”を信じる力が削がれていく。


 でも、本来の創作というのは、最初から誰かが待ってる場所に向かうものじゃない。まだ誰も知らないところに、灯を点けに行く行為なんじゃあるまいか?それをリアルにやれる人だけが、この“アルゴリズムの時代”を越えていけるような気がしている。

8859 Emily Ratajkowski _12

 

8859 Emily Ratajkowski _12

2025年11月2日日曜日

8858 青木裕子 _2

 

8858 青木裕子 _2

 2000年頃、グラビアさんとして活躍されていた。2010年に結婚引退、と言う事だったから、今は中高生ぐらいの子のお母さんかな? 知らない。幸せに暮らしておられますように。

2025年10月31日金曜日

8856 似鳥沙也加

8856 似鳥沙也加

 雑誌に氏のグラビアを見かけても、実はそれほど魅力的とは思えなかった。ところがネットに上がった氏の写真はそうではない。彼女に限ったことではなく、案外そんなパターンが最近多い。
 雑誌メディア、特に旧来然としたオヤジ雑誌系、ちょっと考えた方がいいかもよ。ネットがなかったころは、女の子の写真なんて、その世界が独占していたわけだけど、今やセルフプロデュースで、女のコたちの命脈はネットが主流だ。然るにオヤジ雑誌系、女の子のグラビアが大きな売りになっていて、まだ、ネットに明るくない爺さんを相手に商売できている今のうちは形になっていても、ねぇ、というところで。

 

2025年10月30日木曜日

8855 Jessica Alba _8

8855 Jessica Alba _8


 ジェシカ・アルバ氏が出演したムービーというと、一本しか記憶にない。ほら、ジェイソン・ステイサムが主演の、彼女はなんか護衛される女の子の役の、と、いうところで調べてみたら、「メカニック:ワールドミッション」、だって。それ以前から、氏の事を知っていて、「お、ジェシカ・アルバだ」とか思ってみたけれど、なんか、別に魅力的な役ではなかったような気がしている。ハリウッド映画のかわいこちゃん的役回り、それ以上の事は求められなかったのだろう。
 しかしながら、氏の絵を上げるのはこれで8枚目。なんだかんだ言って、ルックスというか造形的には好みなのである。インスタなどに上がる彼女の近影、40を過ぎておられるが、魅力は変わらない。

 

2025年10月29日水曜日

8854 Aimi _2

8854 Aimi _2

 この方を描いた絵を上げるのは2回目となる。滋賀あたりを中心に活動しておられる、フィットネスインストラクター兼インディーズ系のグラビアさん。

 オレが若い時に彼女がいなかったのはラッキーだった。結構好みだから、一方的に恋焦がれて、決してハッピーにはなれなかった。こうしてネットで彼女を拝見して、ほんのコンマ何秒かうっとりする程度で満足できるくらいに分別がついた今だから、心の中だけでご活躍をお祈りするだけにとどめることが出来る。

 あと、オレは、基本的に、誰かに入れ上げる形での推し活はしない主義。

 

2025年10月4日土曜日

8850 Emma Watson _33

 

8850 Emma Watson _33

 元になった画像は、恐らくはAIによる自動生成なんじゃないかと思っている。自動生成イコール、フェイクであり、肖像権は?とか何とか、面倒くさい問題が待っている。一方で、それはファンメイドの似顔絵みたいなものであると考えたらどうなるか? そういうのはネットやPCがこの世に生まれる前から、雑誌とか何とかの読者欄にあったものだ。それら、いちいち問題にしていたか?

 しかし、AIにそれを作ってもらうとなるとどうなのか? 写真に非常に似せて。エマ・ワトソン氏など、そういうのが世界中で最も多いのではないかという印象さえある。実際、オレも、以前かっぽう着を着た氏を、AIに作ってもらったうえで、世界中でオレしかやっていないようなやり方でイラスト、絵画化を手作業でやった奴、掲載した。他に、幕末の志士の格好をした氏も生成してもらったが、それはまだイラスト化していない。結構時間かかるんだよ、手作業だと。1時間ほどかな。
 AIで、どこの誰が作ったかわからない画像で、それをわかって上でかそれすら判別付けずにか、喜んでる奴はこの世には存外に多いようで。

 肖像権や著作権って、まぁ、大事、とされているよね。それは異論を挟もうとしても難しい。オレとしては、御覧のように、明らかに日本の片田舎のおっさんが、なんかしこしこ描いているところを想像してしまうと、少々げんなりしてしまうくらい、それが想像できるくらいには、写真じゃない、昔の雑誌の読者投稿欄的な絵にはなっているし、何よりも今まで1銭もお金になっていないので、まぁ、黙認されているか、マイナーすぎて相手にされていない、知られていない、という感じか。

 その辺の、中の人、撮影した人、オフィシャルにそれを広めた人、此処までが権利者ね。純粋な推し活としてのファンメイド、闇にお金を得ようとする人。そう言った事情や関係がどのように推移していくか、特にAI自動生成なんて言うものが世に出て以来、激しく流動化していて、これから必ずしも権利者絶対有利というわけにもいかなくなることもあるかもしれない。

 しっかし、まぁ、そういうAI自動生成に騙されて喜んでいるアホな男たちよ、な。

2025年9月17日水曜日

8847 安田美沙子 _1 retake

 


8847 安田美沙子 _1 retake

 安田美沙子氏、確か京都の南の方の出身だったはずで、歳の頃なら、1986年の年末、伏見大手筋の布団やの店頭で売り子のバイトしていたオレの目の前を幼い彼女が親に手を引かれ年末の買い物で通り過ぎることもあったかもな、と、念のためにwikipediaで確認したら、その可能性はないことが分かった。まぁ、どうでもいいけどね。10何年か前グラビアで活躍して、結婚して、亭主に浮気されたことなんか、カラッと愚痴を言ってたのを読んだ記憶がある。記憶違いかもしれぬ。今、時々instagramに投稿されていて、少なくとも伝え聞く分には家庭円満のご様子。御同慶の限り。
 浮気を・・・これ以上書くのならば確認せねば。・・・そう言う事だったらしいし、苦しい時期もあったみたいだ。でも、今は何とかなってる模様。

 女性が亭主の浮気を許すのってどういうことなのか? それでも亭主がいいのか、子供のためか? 佐々木希氏もそうだ。まぁ、家庭それぞれか。

 
残 念 な が ら、オレには全くの異世界のお話でござる。

2025年6月26日木曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義8 雑記2 ロールパンナ

 


8810 河合優実


 正直な話、子供の時はアンパンマンを知らず、アンパンマンが大好きだった時期を通り過ぎずに大人になった。「贈与」論についていろいろ考えている内に、さすがに、数話観ただけでも覚えている、空腹な人に自分の顔を分け与えるという異様さ、贈与論的にどう考えたらいいのか、と思って調べるうちに、目に付いたキャラクターが、ロールパンナだった。

 「あんぱん」で、ヒロイン朝田のぶは、嵩の幼馴染、ということになっているが、実際には、やなせたかし氏と、奥さんの暢氏は、大人になってから、ヒロインのモデル小松暢氏が最初の夫と死別した後、職場である高知新聞にて知り合っているそうだ。
 小松暢氏、父は高知の出身だが、暢氏自身は大阪生まれの大阪育ち、嫁いで高知に来た、とのことらしい。また、小松暢氏、結婚前は池田暢氏、プライベートについての記録はなく、妹が二人いたというのは、記録に基づくというよりは、朝ドラにする上での脚色上の創作だろう。「あんぱん」での創作キャラは、実在が確認される人物以外、ほとんどアンパンマンに登場するキャラクターをモデルにしている。後述するが、やなせたかし氏原作のアニメにもなった童話「チリンの鈴」の主人公チリンを基にしたキャラクターもいるらしい。

 ヒロイン、のぶの上の妹、蘭子のモデルは、ネットでは「こちょうらんさん」という見解もあった。それもそうなのだろうが、脚本の中園ミホ氏によれば、念頭にあったのはロールパンナなんだそうだ。

 ロールパンナは、メロンパンナの姉として誕生したが、誕生時「やさしさの心」と「バイキンの心」を同時に入れられてしまった。アンパンマン側(正義)とバイキンマン側(悪)の「はざま」で苦しむようになってしまったと。
 って、キカイダーかよ、と。どっちが先なんだろうな、1970年代前半。石ノ森作品も、なかなか原作は複雑な性格付けのキャラクター、子供向けとは思えない作品が多い。ロールパンナは自分の中にある「やさしさ」は、アンパンマンから感じている正義の在り方そのもの。でも「悪の心」が勝ると、アンパンマンに対して攻撃してしまう。そのたびに罪悪感と葛藤を抱えて、また旅に出る。
 一緒に戦いたいのに、自分を制御できない。アンパンマンに「会いたい」「助けてほしい」気持ちがありながら、それを表に出せない。

 子供の時は分からなかったに違いない。なぜアンパンマンは、ばいきんまんをきっちり殲滅しないのだろう、ということと、この何とも中途半端、どっちつかずのロールパンナを登場させる意味。

 この複雑な構図、子ども向けにしてはかなり深く、善悪の葛藤、心の分裂、一方的な慕情といった文学的テーマを背負っている。

 「あんぱん」の朝田蘭子は、10代にして戦争で想い人を亡くしている。ロールパンナの「心の二重性」「罪悪感からの離脱」は、戦場で傷つき、人を傷つけてしまった人が、正気と狂気の間で揺れる姿に近く、やなせたかし氏の戦争体験とも重なるとも言われることもあるそうな。前線と銃後のちがいはあるが、多くの部分で同じだと言っていいと思う。

 つまりロールパンナは、アンパンマンの「無償の贈与」に惹かれながら、その清らかさに自分が追いつけず、苦悩し、距離を取らざるを得ないキャラクターであると。

 そうなると、ロールパンナというキャラクターは、設定も内面描写も、もはや「子ども向け作品」の範疇を明らかに逸脱している。「やさしさの花のエキス」と「バイキン草のエキス」を同時に入れられるという設定は、純粋な善ではなく、どうしようもない悪の側面をも内包するということだ。しかもそれは自分で選んだのではなく、「他者に与えられた複雑なアイデンティティ」という点が重い。
 子どもは「いい子か悪い子か」でキャラを整理したがるけど、ロールパンナはその境界があいまいで、常に揺れ動いている。

 ロールパンナだけではない。アンパンマンに出てくるキャラクター、ひとつひとつ見て行っても、なんともすごい深みがあってびっくりだ。

 ロールパンナは悪の心に支配されると、本当にアンパンマンたちを攻撃する。戦いのあとに「なんてことを…」と自責の念に駆られ、ひとり姿を消す。周囲は許そうとするが、自分自身が自分を許せない。ここにあるのは、「贖罪」というテーマだ。やなせたかし氏は、戦争体験や死生観を持ち込むことで、アンパンマンワールドに「深い影」を落としていたようだ。
 ロールパンナの物語は、「人はなぜ闇を抱え、それでも希望を捨てないのか」 「人は変わり得るのか、赦され得るのか」 という問いを、子どものふりをして、大人に突きつけている気さえする。

2025年6月21日土曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義2 やなせたかしの戦争体験と「正義」の原点

 


8809 瀧内公美

 瀧内公美氏が、昨年の大河ドラマで藤原道長の側室の源明子役をするちょっと前に、中学の同級生の女性から、瀧内氏は彼女の息子と同い年の近所の子で、病院で生まれた時から知っているのだと聞いた。昨年の大河、今年の朝ドラ、ご活躍、喜ばしいことだ。
 朝ドラでは、女子師範学校の教師役を演じておられる。その頃の教師と言えば、女子師範学校とは言え、軍国日本の価値観の体現者だったはずで、実際そういう役回りのようだが、さて、当時の、言ってみれば学校の教師などは知識層、終戦で一夜にしてそう言った価値観がひっくり返ることを経験する場面を、これからテレビで目にすることになるのだろう。

 このことをテーマにした表現物は探せば多分いっぱいあるはずだ。瀧内氏演じる先生はどうなのだろうな?

 追記(2025/09/27)
 瀧内氏演じる女学校教師がそういった懊悩を抱える場面は描写されなかったが、ヒロインのぶのそういう場面が描かれ、物語の流れを作っていったようだ。


やなせたかしの戦争体験と「正義」の原点

 丁度これを書いている今週の朝ドラ「あんぱん」、嵩が戦地で地獄の飢えを体験する週になっている。氏の思想は、極限状態での個人的な体験に裏打ちされたものであり、アンパンマンの行動原理に直接的な影響を与えているとのことだ。

〇飢餓体験の衝撃と「食べること」の絶対的正義化

 やなせたかし氏は、1941年に徴兵され、日中戦争から太平洋戦争にかけての兵役を経験したとのこと。中国大陸での従軍中、彼は極度の飢餓に苦しんだと語っておられる。氏は「空腹というのは、我慢できない」「人間いちばんつらいのはおなかが減っていることなんだ」と述べ、水のようなおかゆやタンポポを食べて飢えをしのいだ経験から、って、今日、丁度のそのシーンやってたなぁ。で、その苦痛の深刻さを強調している。飢えが極限に達すると「人を裏切ってでも何とか食べようとする。考えもおかしくなってくる」という人間の本質を目の当たりにしたのだと。この飢餓体験、よほどに強烈だったんだろう。やなせ氏は「一番大事なのはまず食べられることだ」という確信に至ったようだ。そして、「飢えた子供に一切れのパンを与えること。少なくともそれは、ひっくり返ることのない正義であるはずだ」という、揺るぎない正義の概念を確立したと。この「一切れのパン」という具体的で素朴な行為が「絶対的正義」であるという思想は、やなせが戦争中に目にした抽象的なイデオロギーや国家的な「正義」とは対照的である。それは、権力や思想によって容易に「逆転」しうる正義ではなく、人間の最も根源的な生存欲求と、それに応える直接的な行為に根差した、普遍的で揺るぎない正義として位置づけられた。この考え方は、正義が抽象的な理想や壮大な物語ではなく、生理的欲求の充足という最も基本的なレベルで実現されるべきであるという、価値観の根本的な再構築を意味している。

〇弟の死と「正義」への懐疑、そして「逆転しない正義」の探求

 氏は、終戦直後に仲の良かった弟を戦争で失ったという個人的な悲劇を経験している。弟は海軍中尉としてフィリピンに向かう途中で乗船が沈没してしまい、そのまま。この早すぎる死は、「弟は何のために死んだのか?」「犬死にだったのか?」という、氏の心に深く残る根源的な問いを生み出したのだろう。
 さらに、戦時中には「正義」を振りかざしていた日本軍が、敗戦とともに中国から「悪魔の軍隊」と非難されるという現実を目の当たりにしたらしい。この点について、特に向かって右側におられる方々はいろいろ言いたいこともあるんだろう。事実に基づいた評価ではなかったとか。さぁ、どうなんかね? その時そう言う人たちは、どこにどういう立場でいて、そんなことが言えるんだろうねぇ?
 閑話休題。
 昨日までの「正義」が、一夜にして「悪」へと容易に「逆転」するこの経験は、やなせの心に「ヒーローとは何だ」「本当の正義とは一体何だ」という深い懐疑を抱かせた 3。そう言う人も結構多いと思うんだがね、実際は。

 この強烈な懐疑の中から、氏は「逆転しない正義」の探求へと向かった。彼が辿り着いた結論は、その正義が「愛と献身」(すなわち、自分を傷つけ、目の前の相手に差し出すこと)であるというものだった。この「逆転しない正義」という概念は、国家やイデオロギーによって恣意的に定義され、翻弄される「正義」への痛烈な批判である。氏にとって、真の正義とは、政治的・国家的な境界を超越し、人間の普遍的な脆弱性と共感に根差した、人間中心的な倫理に他ならなかった。この思想は、キリスト教の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という教えや、仏教の「捨身飼虎」の逸話にも通じる普遍的な概念として理解される。戦争のトラウマから生まれたこの倫理観は、アンパンマンの行動原理の核心をなしているに違いない。

〇初期アンパンマン(人間版)の構想と、その後の変遷

 アンパンマンが初めて世に登場したのは、1969年の月刊誌『PHP』に掲載されたメルヘン「アンパンマン」だったそうな。この初期設定では、アンパンマンは「スーパーマンみたいな格好した中年のおじさんでちょっとメタボ」な人間であり、顔はアンパンでできていなかったらしい。彼は「ほんとのアンパンを持っていて、お腹が減った人にあげるキャラクター」として描かれていたのだろう。
 しかし、この人間版アンパンマンは、子どもにアンパンを拒否され、「ソフト・クリームのほうがいい」と言われたり、「カッコワルイ!」と罵られたりする、報われないヒーローとして描かれた。オレもそんなこと言いそうだった。小さい頃、実は餡子が嫌いだったのよ。さらに物語の結末では、許可なく国境を越えたために高射砲に撃ち落とされ、生死不明となるという救いのない展開だったんだって。うわ・・、退くわ。なにそれ、マジ?
 氏は、この童話を絵本として出版する際に、人間という設定から「生命を持ったパン」という現在の設定へと変更し、救いのないストーリーを改めた。このキャラクターの変遷は、単なる表現上の工夫以上の意味を持っていたようだ。「正義を行おうとすれば、自分も深く傷つくものだ。でも、そういう捨て身、献身の心なくして、正義は決して行えない」という自身の思想を究極的に表現するため、「自らを食べさせる」という行為に到達したのかもしれない。

 人間が「パンを配る」という行為は、あくまで外部からの慈善行為であり、与える側と与えられる側が明確に分離している。しかし、「パンそのものであるアンパンマンが、自らの顔を差し出す」という行為は、自己が贈り物そのものとなる、存在論的な贈与へと深化する。この変化は、慈善行為が持つ限界(受け手の好みに左右される、外部からの脅威に脆弱であるなど)を乗り越え、自己の存在そのものを捧げるという、より根源的で揺るぎない正義の形を追求した結果だ。アンパンマンが「顔をちぎって与える」という行為は、この痛みを伴う献身の精神を象徴しており、真の正義は常に「格好いい」ものではなく、脆弱性と自己犠牲を伴うものであるというやなせ氏の思想を体現しているように思えて仕方ない。

2025年6月20日金曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義1 なぜこんなものを書き始めたか?

 


8808 今田美桜

なぜこんなものを書き始めたか?

 朝ドラとか基本観ない人です、ワタシ。NHKとか、ここ近年、同局の他の番組で、結構、朝ドラとか大河ドラマとかの番宣するようになって、今田美桜氏の事をよく見るようになった。前からグラビアとかではよみかけたが、正直ピンと来るところがなく、スルーしてたんだけど、動いている今田美桜ちゃん、いいじゃん。可愛いじゃんよ。というのもあるし、
 あと、自分の顔を分け与えるアンパンマン。贈与だ、と思った。今の資本主義社会の行き詰まりを何とかする鍵は、贈与、にあるのではないか、と、贈与論、バタイユ、ジジェク、ノームあたりから入って、そのあたりを最近考えている身として、一度、ちゃんと考察しておきたいと思ったわけだ。

 オレの子供の頃はまだアンパンマンは世に登場していなかった。と思っていたら、妹は覚えている、と言っていた。下で、ほんの少し詳しく書くが、そのプロトタイプの登場は、1969年なんだそうだ。
 プロトタイプから数えたらやがて60年。アンパンマンが自らの顔を飢えた人々に分け与える行為は、日本の文化において一つの普遍的なアイコンとして根付いている。この行為は、単なる物語のギミックに留まらず、自己犠牲と無償の愛の具現化として広く認識されて。多くの人々に感動を与え、特に子どもたちには食べ物の大切さや助け合いの精神を育む役割を果たしているんだそうだ。ごめん。オレ実感ない。アンパンマンの顔は、単なる食物以上の深い意味を持ち、汚れたり傷ついたりすると力を失うものの、新しい顔が作られることで「自己犠牲」と「助け合い」の象徴として描かれている。うん。これは分かる。ある時何話分か固めて観たことがある。大人になってから。

 だが、この自己犠牲的な行為は、物語の初期段階において「顔を食べさせるなんて残酷だ」「気持ち悪い」といった批判も存在したんだそうだ 。そりゃそうだろうな。正直、大人になって初めてアンパンマンを視聴した時、何気にいように思えたもんだ。このような批判は、アンパンマンの行為が持つ倫理的な深層、特にその「過剰性」を問う視点を示唆している。そう。「過剰」だ。「贈与」の理由になる「贈与前」にある「過剰」をよく考えていたが、ジジェク的に言えば、確かに贈与後の「過剰」だって有り得る。
 贈与後の過剰、飢えた人々を救うという純粋な善意に基づく行動が、なぜ不快感や残酷さという感情を呼び起こすのか。この問いは、アンパンマンの利他主義が、一般的な社会規範や自己保存の本能に照らして、ある種の極端さ、すなわち「過剰な贈与」として認識された可能性を示唆している。この初期の違和感は、アンパンマンの贈与が単なる慈善行為ではなく、自己の身体性を損なうほどの徹底した自己犠牲を伴うがゆえに、受け手や観察者に倫理的な問いを投げかけるものだったんじゃなかろうか?

 ここでは、この「アンパンマンは、過剰な贈与者なのか?」という問いの深掘りから展開してみる。最初のこの問いは、単にアンパンマンの行動の是非を問うだけでなく、贈与、自己犠牲、利他主義といった概念の倫理的限界、そしてそれらが社会システムや個人の幸福に与える影響について考えてみようかというものだ。ここでは、やなせたかし氏の戦争体験と、そこから彼が再定義した「正義」の概念を軸に、アンパンマンの贈与倫理を多角的に分析し、その普遍的意義と現代社会への示唆を書いていきたいと思っている。



グラビアさん

 

8807 月野モア

 有象無象、と言っちゃ失礼か。ピンからキリまで、いや、これも失礼だな。まぁ、なんだ、地下アイドルやらグラビアアイドルやら、そこそこ名が通ったコから”自称”まで、この世には何人いることやら。ここでは、あえて、彼女たちの事を「グラビアさん」と呼んでしまおう。  名前は知らなくてもどこかで見かけた顔。かつてはフェミニストの論争の的にもなったグラビアさんたちだけれど、近年はあまり目立って叩かれることもなくなったようにも思う。フェミの側も、彼女たちがその世界で生き残るために必死なのを知っているのかもしれないし、下手なことを言えば、手痛く逆襲に遭うからかもしれない。  そもそも、売り出し中の若手女優がまず水着グラビアから始めるなんてこともあるだろう。若手から中堅になりつつある、ある女優さんなど、事務所がとってきたグラビアの仕事を拒否したから干されたんじゃないか、と邪推している。  かと思えば、グラビアこそが自己表現と言わんばかりの、グラビア界の大ベテランもいたりして。  若い頃にはこちらも、いろいろとお世話になった。けれどこの歳になると、グラビアを見る視線が変わってくる。相変わらず体の曲線には楽しませていただいているが。しかし、今や体温や肌の質感や吐息を創造するよりも、彼女たちの背景や生活を想像してしまう。  別にグラビアさんたちの生活に入り込むことなんて考えていない。この撮影があった後、名の通った人なら送り迎えもあるだろうが、一般への認知度が低い駆け出しのコなどの、撮影現場から歩いて駅に行き、電車に乗り部屋に帰る途中でコンビニで何か買い、部屋で、もそもそ、それを食べるところとか。  どんなきっかけでこの道に入ったのか。クラスで一番か二番くらいに可愛くて、スカウトされて、自分のルックスに需要があると踏んだのか。あるいは五番目くらいだけれど、どうしても芸能界に入りたくて、自分を売り込んだのか。もしくは他にやりたいことがあって、その資金を得るために、まずはグラビアで、と決めたのか。たぶん、いろんな子がいるんだろう。  でも、グラビアさんの業界、トップランカーをはるのは、甲子園で優勝するより難しいかもしれないんじゃないか?知らんけど。夢を叶える人間の影で、名もなく消えていく子の方が圧倒的に多いような気がする。少なくとも、あ、このコいいな、と思っても、それっきり二度と拝見できなくなることも珍しくない。  いや、確かにクラスじゃ、どっちかと言えば可愛い方だったかもしれないだろうけど、グラビアでやっけるほどじゃないし、正直キツくね? というコや、確かにそれ位だったら場合のよっちゃクラスで一番かわいかったかもしれないが、残念ながら量産型。または、うわ、表情強張ってる、みたいな明らかに無理しているように見えるコもいて、痛々しい気持ちになる。でも、まぁ、な、世の中それでひるむぐらいなら、最初からやるべきじゃないし、覚悟の上の事だろうが。  大丈夫? 悪い大人に騙されてない? って。本人が「やる」と決めたなら、そのコの生き方だ。応援することにやぶさかではない。でも、う~ん、どうなんかねぇ?  自分の娘じゃなくてよかった、と正直思う。娘がこういう生き方を選んだら、親としては反対しちゃうような気がする。心配で、背中を押してあげるなんてできないんじゃないかな?  無責任な消費者としてなら「身体に気をつけてな。うまくいけばいいな」とか言ってあげられるが。



2025年4月17日木曜日

8781 紺野ミク _4

8781 紺野ミク _4


グラビアのお姉さん

 紺野ミク氏を絵にするのは8年ぶりだ。8年前、まとめて3枚。オールヌードだった。アダルトビデオまで突き詰めた人ではない、幾分ソフトなイメージビデオとグラビアが主戦場の人。2輪4輪のウェブメディア「Lawrence」でお見受けしたが、その後、あの人は今、なんてことを言う間もなく、instagramが今の主な活躍の場なのかな? 違ってたらごめんなさい。現在のところ、個人勢の撮影モデルのようだ。どこか事務所に所属している感じはない。


 美人なんだけど、流行りの顔じゃないから苦しいのかな? またはどこかに所属していたら自分の売り方とか決められない不自由を避けたのかもしれない。8年、息が長いというべきなのかどうなのか。


 しかし思うのだ。おそらく若い時よりも見せ方を研究しているということもあるのかもしれないが、今の方が魅力的であると思う。太らず、さりとて腹筋バキバキではない軟らかそうな体の輪郭、撮影に耐えられるだけ体形や肌のコンディションをキープされているのだから、この仕事って、ストイックじゃないとできない、氏はとてもきっちりした人である可能性が高い。


 若い時には、「そういう目的」で、写真やイメージビデオでお世話になったりするのだが、この年になってしまうと、そういうことを踏まえつつも、魅力を感じるならば絵にしたい、その為に拝見している感じ。無駄に歳を取ってしまうと、写真では「そういう目的」には物足りなくなるか、その辺のところ切実ではなくなってしまうか、なんだが、オレなんぞ、(いずれ)絵にするという名目で彼女の写真を「保存する」などして利用している。「そういう目的」に使うというよりは、なんて言うか恥ずかしい、場合によっては苦い、黒歴史的思い出の方が多いけれど、でも、結構切実に近い感じでそれらを必要としていた若い頃を、なぜか忘れたくない、と思っているようだ、我ながら。


 それにしても、こういう人たち、instagramなどネットで割とよく見るのだが、こうしてカメラの前で肌を晒した後、服を着て、撮影スタッフらに「おつかれさまでした~」なんて挨拶をして、現場を離れ、美人であってもテレビなんかに露出している人ほどには、一般の人には認知度は高くなく、だから、タクシーを使うのかもしれないが、電車で自分の住処に戻るために電車に乗り、駅のホームを出て、周りは「お、美人だなぁ」とは思っても、目で追うのも一瞬で、家の鍵を開け、明かりをつけ、大事な商売道具だから、自分の体形や肌のメンテナンスは優先するんだけど、なんて、言う日常で、彼女の傍で、どうか、彼女を支えてくれる人がいますように、と、そういうことをつい想像した時に限り思ったりはする。