2022年8月21日日曜日
2022年2月5日土曜日
7332 GPz400F & note「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-4
どうも政治的なことに、コリン・ウィルソン的「アウトサイダー」の定義を求めるのは、間違いのような気がしてきた。体制に寄り添おうとする動きというのは、言い換えれば、存在の、精神の根拠を、生身以外、思想とか政治体制とかに、過激に求めるというのは、では、ツクミやまゆり園の植松某などはどうなのだ? という話になる。体制から距離を置く、沿わないで外側に行くアウトサイダーではないが、あれを決してインサイダーとも言えない。
とはいえ、では、同じように考えていこう。easyriderのラスト、ビリーを、キャプテンアメリカを散弾銃で撃ったどこにでもいそうなアメリカの普通の農夫は? インサイダーか?アウトサイダーか? 植松某との違いは?
前者が、脆弱ながらそういうところにいる自分の存在そのものを主張しているのに対し、後者は領域の防衛という意識がそうさせたような気がする。
本人は限りなく体制側であると思っているようだが、植松某は、この著作的な意味を離れれば、現在の秩序というものから限りなくアウトサイダーであるが、意識が自分の領域第一というところでの行動という意味でeasyriderのおっさんたちはインサイダーのような気がする。
とはいえ、この辺の事をいくら考えても、益ないことであるような気がするので、ここではこの辺で切り上げる。
若いころのオレが、アウトサイダーという語感に惹かれたのは、どこか覚者のような意味合いを感じていたからであろうかと思う。この辺がいよいよこの本の内容にかかわってくるところである。
若い子が、いや、大多数がそう感じていないのは、それが妄想であると思っているから、と、平たく言ってしまえばそうなのだが、それは、こっちのある種の熱に侵されていた人間のだらしなさが余計に、そう思わせていたのだろう。
日本においてはそれは顕著だけど、多分世界的に人類社会というのは退潮局面にある。そこにおいて、そういう社会をどうするかという言及薄くして、「そんなこと」を言っていられる高みの見物的な呑気さというのはいかがなものか? ということにもまして、高じて、極端なものはすでにかなり昔にオウムなんていうものが日本にはあったけれど、どうしても、インサイダーと対置してしまうと、反体制の意味を帯び、やがては醜悪な何かに変化してしまう。インサイダーと対置してしまうということは、つまりはルサンチマンの発露であり、しかし、そこは普遍的にアウトサイダーのテーマではある。
まぁ、別に「アウトサイダー」の授業ノートを作るつもりはなく、脱線、他人様には意味不明の記述も多くなるだろうが、まぁ、本を開く前の駄言はこの辺にこの辺にしておく。
2022年1月30日日曜日
7324 Z400GP & note「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-2
多分、ある程度、神経内科的な治療法、処方は確立しているのかもしれない。知らんけど。
しかし、多分、良くは分からないがこのようなスタンダードな単車に絞りハンドルというのは、プレスライダーの単車としては’80年代前半には絶滅したスタイルだろう。250ccまでの小排気量でも十分な性能が出るようになったし、場合によってはオフロードバイクみたいなものの方が取り回しがよく小回りが利いただろうから。以降、族車にのみそのスタイルが受け継がれるようになる。おそらくやってるコ本人、何でそんな形なのかも知りはしないかもしれない。珍妙なスタイルだけ残って珍走団などと呼ばれるようになる始末である。
まさしく、アウトサイダー、インサイダーなんだが、しかし、如何にもイキった言い方で、今のコはそういうものをかなり極端に忌避する。非常にかっこ悪いと感じているようだ。
中二病というのは、伊集院光氏がラジオで言い出した言葉だと思うが、「珍走団」というのもその流れ。学生、子供の時にそういうイキったやつらにいやな思いをさせられた、代打数の「普通の」人々の心をとらえたものと思われるが、
2022年1月25日火曜日
7320 Z400FX_8 & ノート「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-1
ノート 「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-1
20代前半だ。京都にいたオレは、銀閣寺道の交差点近くの古本屋で、ボロボロの「アウトサイダー」という本を手に入れた。別にこの少し前、同じ題名のハリウッド青春映画に感化されたわけではない。が、言葉の響きになぜか惹かれるものがあったのだろう。
それからの一年、片時も手元から離さず、一言一句の意味をかみしめながら、実にゆっくりとその本を読んだ。そんな読み方をした本は、後にも先にも他に一冊もない。
大阪に行くときも、京阪電車の中でずっとそれを読んでいた。定食屋に入っても、店の少年ジャンプとかは読まずに、手に持った本の文字を追っていた。
メモ用紙がなくて、本の内容とは全く関係ない走り書きもあったりする。一度など、四条京阪の駅で入ったトイレに紙がないので、裏表紙の一つ内側の白紙をほぐしてトイレットペーパーの代わりにした時もあった。
結構状態の悪かった本は更にボロボロになり、自分で色画用紙を張って表紙を修理したりした。
ほんのさっきだ。それほどの付き合いだった本の事しばらく忘れていたけれど、ふと思い出し、そうだ、あれのノート、今更ながら書いてみよう、と思い立った。
生憎と、今、モノに埋もれてすぐには出せない。まぁ、10分ほど発掘すれば出てくるだろうが、次回にでも、如何にオレがその本をボロボロにしたか見ていただくことにして、
それにしても、多分、おれは「アウトサイダー」という言葉に惹かれたから、あんなボロボロの本を買ったのだと思うのだが、そんなことは今のコにはありえない事だろうな、と思うのだ。本の内容を何十年ぶりかで紐とく前に、そのことについてちょっと考え込んでしまった。
「アウトサイダー」と「アウトロー」は、一般的には類似語として考えられているようだが、この本の内容ではそうではないということになっていた。まぁ、それはそれとして、特にネットが一般のものになって以降、ネット弁慶が増えたせいもあって、随分とアウトローに対して手厳しい、だけの、社会になってしまった。だけ、と書いたのは、手厳しいことは言っても、その背景、アウトローを生み出してしまった社会の責任については触れようとしないというのが多数派であるということ。
もっとも以前から、宥和的というか、慈愛をもって、その原因に浮きあい原因を解消していくという動きはごく少数ではあったのだが、ネットで、オレを代表とした凡夫がゴミみたいな言い分を人様になんの推敲もなく晒せる時代になってから、口汚くアウトローを詰る言葉の音量が特に大きくなったような気がする。
この本では、アウトサイダーの社会から乖離する精神については書かれているが、反社会的行動については取り扱っていない。考えてみれば、ネットでも、社会の一般的な考え方から外れてしまっているかもしれないが、こんな私を認めてほしいという主張を目にすることは少なくないので、需要がないとは言わないが、しかし、「アウトサイダー」という言葉を今現在の社会肯定する素地というのはかなり少ないように思えるのだ。
本文を読んでいく前に、もうちょっと、その辺考えをまとめてみようなとも思う。