ノート 「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-1
20代前半だ。京都にいたオレは、銀閣寺道の交差点近くの古本屋で、ボロボロの「アウトサイダー」という本を手に入れた。別にこの少し前、同じ題名のハリウッド青春映画に感化されたわけではない。が、言葉の響きになぜか惹かれるものがあったのだろう。
それからの一年、片時も手元から離さず、一言一句の意味をかみしめながら、実にゆっくりとその本を読んだ。そんな読み方をした本は、後にも先にも他に一冊もない。
大阪に行くときも、京阪電車の中でずっとそれを読んでいた。定食屋に入っても、店の少年ジャンプとかは読まずに、手に持った本の文字を追っていた。
メモ用紙がなくて、本の内容とは全く関係ない走り書きもあったりする。一度など、四条京阪の駅で入ったトイレに紙がないので、裏表紙の一つ内側の白紙をほぐしてトイレットペーパーの代わりにした時もあった。
結構状態の悪かった本は更にボロボロになり、自分で色画用紙を張って表紙を修理したりした。
ほんのさっきだ。それほどの付き合いだった本の事しばらく忘れていたけれど、ふと思い出し、そうだ、あれのノート、今更ながら書いてみよう、と思い立った。
生憎と、今、モノに埋もれてすぐには出せない。まぁ、10分ほど発掘すれば出てくるだろうが、次回にでも、如何にオレがその本をボロボロにしたか見ていただくことにして、
それにしても、多分、おれは「アウトサイダー」という言葉に惹かれたから、あんなボロボロの本を買ったのだと思うのだが、そんなことは今のコにはありえない事だろうな、と思うのだ。本の内容を何十年ぶりかで紐とく前に、そのことについてちょっと考え込んでしまった。
「アウトサイダー」と「アウトロー」は、一般的には類似語として考えられているようだが、この本の内容ではそうではないということになっていた。まぁ、それはそれとして、特にネットが一般のものになって以降、ネット弁慶が増えたせいもあって、随分とアウトローに対して手厳しい、だけの、社会になってしまった。だけ、と書いたのは、手厳しいことは言っても、その背景、アウトローを生み出してしまった社会の責任については触れようとしないというのが多数派であるということ。
もっとも以前から、宥和的というか、慈愛をもって、その原因に浮きあい原因を解消していくという動きはごく少数ではあったのだが、ネットで、オレを代表とした凡夫がゴミみたいな言い分を人様になんの推敲もなく晒せる時代になってから、口汚くアウトローを詰る言葉の音量が特に大きくなったような気がする。
この本では、アウトサイダーの社会から乖離する精神については書かれているが、反社会的行動については取り扱っていない。考えてみれば、ネットでも、社会の一般的な考え方から外れてしまっているかもしれないが、こんな私を認めてほしいという主張を目にすることは少なくないので、需要がないとは言わないが、しかし、「アウトサイダー」という言葉を今現在の社会肯定する素地というのはかなり少ないように思えるのだ。
本文を読んでいく前に、もうちょっと、その辺考えをまとめてみようなとも思う。
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