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2025年9月16日火曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 3 アンパンマンとアセファル

 

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 うっかりしていたが、アンパンマンはアセファルそのものなんじゃないか、と、ふと思い立った。等と書いたところで、バタイユ、誰それ?な方々には、ましてアセファルなどと言うものがなんであるかご存じないだろう。
 上手く伝わるかわからないが、ざっと説明すると、 バタイユが「アセファル」と名付けてつくった秘密結社は、実際に1936年から1939年ごろまで活動していた。結構史料も断片的で、想像力で補わなくてはいけない部分も多い気がするが、大事なのは、そう言う材料で今のオレが何を考えるか、と割り切ることにする。

 設立者は、書いてのとおり、ジョルジュ・バタイユ。活動時期は、936年頃〜第二次世界大戦直前ごろとされる。まぁ、かなり短い期間だったみたいだ。
 メンバーとしては、作家で思想家のピエール・クロソウスキー(作家・思想家)、社会学者のロジェ・カイヨワ(社会学者)、哲学者ジャン・ピエール・デュポワなどがいたそうな。すまん。この中では、不勉強故ジャン・ピエール・デュポワの名前しか聞いたことがない。ほかにもぼちぼちいたようだ。
 目的・理念みたいなものはなんだったか? ナチズムやスターリニズムといった全体主義が台頭する中、国家や理性中心主義に依存しない共同体を模索するというのが旨だったらしい。 「頭(理性・権威)を持たない人間=アセファル」を象徴とし、死・犠牲・聖性・生のエネルギーを直視できる共同体を目指した。バタイユは「人は神を殺した(ニーチェ)が、まだ国家や理性の偶像に囚われている」と考え、その外に出る実験をしていたようだ。
 実際の活動としては、定期的な集会を開くとかね。森などでの儀式的な集まりもあったとのこと。バタイユが描いた「アセファル像」(首を持たず、心臓に太陽を抱えた人間)のイメージをシンボルとして掲げた。文献的な研究というよりも、共同体的・儀式的な実践を重んじた。

 「人間は死と犠牲の中でしか本当に生を感じられない」という思想を共有。

 バタイユは本気で「人間の生贄の儀式」をやろうとしていた、と伝えられているから、物々しい。実際にメンバーから「自分が犠牲になってもよい」と申し出る者もいるような、変態さんたちの集まりだった。もっとも最終的には実行されなかったって、そりゃそうだよね。やってたら後世に猟奇カルトとして名をはせることになってただろう。現実的な限界と倫理的な抵抗があった。当然ながら。
 結社自体は短期間で消滅したが、その精神はバタイユの著作や思想的ネットワークに受け継がれたとされる。
 一言で言うなら、理性や国家を超えて、死と犠牲を真正面から受け止める共同体をつくろうとした、半ば実験的・儀式的な秘密結社だった。

 そもそもアセファルとは、ジョルジュ・バタイユが考えた「人間のあり方の象徴」だ。「頭がない人間」という字義どおりのイメージから出発している。繰り返すが、頭は、理性、秩序、権威、国家の象徴であり、従って「頭がない」とは、そういうものから自由になった存在であるとする。
 理性や秩序を超えた、人間の本能や生の力を表す。「考えるな、感じろ」って、ブルース・リーみたいなことをおっしゃる。計算ではなく、衝動や欲望や犠牲のエネルギーこそが大事なのだ。
 それは、死や犠牲と切り離せない存在だ。人は生きるために食べ、他者に与えるために自らを削る。その「生と死の混ざり合い」を直視する姿こそがこの活動の肝となる。

 つまりアセファルは、「理性や社会のルールの外側で、もっとむき出しの生と死を生きている人間像」とでも言えばいいか?怖さもあるけど、逆に人間の本当の力を示しているとも言える。


 んで、なんで、アンパンマンはアセファルなのか、だが、まぁ、何となくわかっていただけるか?

 アセファルは「頭をもたない人間」として、理性・秩序・国家的権威から切断された存在を意味した。アンパンマンもまた「顔(頭部)」が取り替え可能であり、頭は自己同一性の中心ではなく、むしろ欠落・交換・犠牲の場だ。
 アンパンマンは自分の顔(=パン)をちぎって飢えた人に与える。これはまさにバタイユ的な「贈与=浪費=犠牲」の論理そのもの。経済合理性に還元できない純粋な贈与であり、消費されることで彼自身は力を失っていく。
 子どもたちのヒーローとして秩序を守る一方、自分の頭が交換可能であることによって、人格やアイデンティティの一貫性を欠いている。つまり、秩序の守護者でありつつ、アセファル的な「首なし=逸脱性」も内包する。言い換えるならば共同体の中心でありながら、外部性を孕む。
 顔=食べ物=死と生の往還と捉えてみる。バタイユがアセファルを通じて「死と生の根源的な関係」を問題にしたのと同じく、アンパンマンは「自分の死=消耗」と「他者の生=栄養」を同時に体現する存在だ。
 要するに、アンパンマンは「秩序を守る子ども向けヒーロー」の皮をかぶった、かなりラディカルなアセファル的存在、とも言えるんじゃなかろうか?


 そう考えると、初期のアンパンマンが子供たちに受け入れられなかったこともなんとなく理解できる。やなせたかし氏の初期アンパンマンって、今みんなが知っている「正義の味方」像とはずいぶん違っていた。顔をちぎって人にあげることは、そのまま自己犠牲の象徴なんだがそれはどういうことか?ヒーローっぽい勧善懲悪ではなく、ただ「飢えた人を助ける」だけ。だから敵を倒すカタルシスよりも、むしろ「自分を削る痛々しさ」が前面に出ていた。
 これは、バタイユ的に言えば、消費や浪費の恐怖を直視させるものだ。子供が直感的にそこに「不気味さ」を感じてもおかしくない。アンパンマンは「与える=死ぬ」という無意識の構造を背負っているから、単純に「かっこいい!」「強い!」という安心感にはならないのだ、決して。まぁ、時代が進むにつれてアニメ化され、デザインが丸くなり、バイキンマンとの勧善懲悪の枠組みに乗せられた。すると、怖さやアセファル性が子どもに直接届かなくなり、むしろ「わかりやすい正義の味方」として受け入れられるようになったんだが。
 要するに、初期の拒否反応は、アンパンマンの「アセファル的な不気味さ」に対する自然な反応とも読める。

 しかし、後にどう変容しようと、初期のものがあるからアンパンマンだと思う。
 後期の「正義の味方・アンパンマン」って、もちろん大衆的な支持を得て国民的ヒーローになったけど、それだけだと単なる子ども向けキャラで終わっていたかもしれぬ。でも、初期のアンパンマンが持っていた「自己犠牲=食と死の循環」の不気味さがあるからこそ、作品全体に独特の深みが宿っている。
 言い換えるならば、初期のアンパンマンは「アセファル的な核」であり、後期のアンパンマンは「社会に受け入れられるための表層」だった。
 両者が重なっているからこそ、「ただのキャラ」じゃなくて「時代を超えて生き残る存在」になっているんじゃないか、と。
 つまり、いくら勧善懲悪に馴化されても、底には「自分を削って他者に与える」っていうラディカルな贈与の論理が流れている。だから、どの時代のアンパンマンを見ても、子どもたちは無意識にそこを感じ取ってるんだと思う。

 バタイユが「アセファル」に込めたのは、秩序や理性から切り離された、もっと原始的で、恐ろしくも人間らしい核だった。アンパンマンの初期像は、まさにその核が子供向けキャラクターの皮膚から透けてしまっていたもの、と読める。
 アンパンマンは実際に「自分をちぎって他者に与える」という“擬似的な生贄”を日常的にやっているわけで、バタイユが夢見た共同体的な儀式を、子ども向けアニメが無意識に実装している、という対比になる。
 もうね、やなせたかし氏、バタイユ読んでたんじゃないかと思うほど。もちろん史実的に「やなせたかしがバタイユを読んでいた」という証拠は見つかってないが、両者の発想には不気味なほどの共鳴点がある。
 共鳴するポイントとして、まず、言うまでもなく、自己犠牲=贈与がある。バタイユは、「生は浪費されることで聖性に触れる」とし、やなせ氏は「正義とは他人のために自分を犠牲にすること」とした。
 食べる/食べられるの循環は大事なポイントだ。バタイユの主張での犠牲祭儀における「食と死の共同体」は、アンパンマンの自分の顔(パン)を与えて他者が生き延びることにそのまま当てはまる。
 理性よりも“むき出しの生”というか、理性というものの二の次観、ぱねぇ。アセファルつまり、頭を欠いた人間なんて、理性のひとかけらも観られないが、アンパンマンは、顔(頭部)は常に交換され、同一性の中心ではない者としてそれを再現する。

 共同体はどうだろう?バタイユにおいては死と犠牲を共有する小さな結社だったが、アンパンマンではパンを与えることで共同体=仲間がつながる、という形になる。

 やなせ氏は戦中・戦後を通じて「飢え」を直に経験し、その経験がアンパンマンの原点になった、と自ら語っている。つまり彼は、理論としてではなく、生活の中で「食と死と贈与」の切実さを体感していた。だからこそ、バタイユが哲学・宗教・神話を通じて辿りついた「アセファル的直観」と、やなせの“生活から滲み出た直観”が、結果的に重なっているところが何とも面白い。
 ジョルジュ・バタイユは、1897年9月10日生まれ、1962年7月8日没。やなせたかし氏は、1919年2月6日生まれ、2013年10月13日没。まぁ、朝ドラを見ての事だけど、やなせ氏、多分バタイユは読んではいないだろう。しかし、ここまでの相似を見せるのは、経済社会の形、戦争の形というのものが、極限近くに来てしまった故の必然ではないかとふと思った。
 バタイユとやなせ氏、出自も立場も違うのに「自己犠牲」「死と生の循環」に同じように触れざるを得なかったのは、やはり 経済社会と戦争によって極限状況に押し出された必然とはいえはしないだろうか?
 バタイユの身に降りかかったのは、ヨーロッパの危機だった。第一次大戦後の荒廃、資本主義の限界、ナチズムの台頭、等々。経済合理性や国家権力では説明できない「人間の根源的な生と死」を直視せざるを得なかった。だから、アセファル結社で全体主義にも資本主義にも回収されない「死と犠牲の共同体」を模索のだろう。社会の極限が思想を押し出した形といえる。
 朝ドラを見ておられた方々には言うまでもない。やなせたかし氏の場合は、一も二もなく飢えと戦争体験がそれにあたる。一応書いておくが中国戦線に従軍、敗戦後は極度の食糧難を経験し、そのときの「一切れのパンが命を救う」という切実さがアンパンマンの発想に直結した。戦後の高度成長の中でも、「飢えや貧しさに苦しむ人がいる現実」を見続けた。だからこそ「正義=自己犠牲」という定義を揺るがさなかった。

 共通する点を考えてみよう。それは、極限状況に触れた人間は、与える/犠牲になるという次元でしか他者と繋がれないという直観だろう。「合理性・秩序・経済」が極限に来ると、必ずその外に「アセファル的なもの」「アンパンマン的なもの」が現れる。
 つまり両者の一致は、単なる偶然のシンクロではなく、20世紀という極限の時代が必然的に生み出した応答と見るのが自然じゃないか?


 まぁ、それでも、いざ実践しようとすると、アイデンティティというものが、途端に不安定に感じられるようになってしまいそうだ。人間が「与える=犠牲になる」「生と死を直接扱う」ことに踏み込むと、アイデンティティの安定感が一気に揺らいでしまう。
 いくつか、理由っぽいものを考えるならば、一つ目に、自己の境界が溶けることを挙げてみる。自分を削って他者に与えるという行為は、文字通り「自分の一部を失う」ことだ。その瞬間、自己同一性の中心が揺らぎ、頭で考える「自分らしさ」では補えなくなってしまう。
 理性、秩序に依存できないという事も有り得る。バタイユ的には、理性や社会の秩序は「頭=中心」を維持するための装置だが、アセファル的行為では、頭(理性)はあてにならない。従って、自分が誰であるか、何を基準に動くかが曖昧になる。
 だから共同体の規範との摩擦も起きる。周囲の期待や社会のルールは「安定したアイデンティティ」を前提にしている。無条件に与える行為や犠牲は、その枠組みを外れるため、孤独感や疎外感を伴いやすい。

 逆に言うならば、この不安定さを耐え抜いた人間こそ、バタイユがいう「アセファル的人間」であり、やなせの描いたアンパンマン的存在でもある。そして、不安定さそのものが、深い生の実感=自己を超えた与える力の証明になる。

 ねぇ、今度は人類補完計画?って展開にもなるのだが、エヴァの人類補完計画は、個々の人間の隔たりや孤独をなくし、全人類をひとつの存在にまとめようとする壮大な試みだった。結果として、個人のアイデンティティは溶けてしまう。
 アセファル的、アンパンマン的行為というのは、個々が与える或いは犠牲になることで、他者との関係や生の深みを実感する。確かにアイデンティティは揺らぐが、完全に消えるわけではない。与えることと失うことを体験しながら、なお自分として生き続けるわけだ。
 つまり、似ているのは個の境界が揺れる点ですが、決定的に違うのは「消えるかどうか」。アイデンティティが揺れる瞬間はあるけれど、完全な消失ではなく、むしろ生のリアルを知る体験となる。

2025年6月23日月曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義5 アンパンマンの贈与は「過剰」か?

 

アンパンマンの贈与は「過剰」か?──多角的視点からの分析

 アンパンマンの贈与が「過剰」であるか否か。どんな倫理的・社会的枠組みで評価するかによって多義的な解釈が可能となる。

〇肯定的側面(「過剰」ではない、あるいは必要不可欠な「過剰」)

 アンパンマンの贈与行為は、やなせたかし氏が戦争体験から導き出した「逆転しない正義」の具現化として理解されるべきだ。飢餓という人間の最も根源的で耐えがたい苦痛に対し、一切れのパンを与えるという行為は、いかなるイデオロギーや政治的状況によってもその価値が損なわれない「絶対的正義」である。アンパンマンの自己犠牲は、この揺るぎない正義を達成するための、必要不可欠な究極の手段として位置づけられる。
 さらに、アンパンマンの自己犠牲は、単なる消耗ではなく、再生可能性を内包している点に特徴がある。顔が欠けて力を失っても、ジャムおじさんやバタコさんによって新しい顔が作られ、彼は「元気百倍!」となって復活する。この再生のサイクルは、自己犠牲が一方的な自己消滅ではなく、共同体による支えと、目的意識によって持続可能であることを示している。アンパンマンは、彼が守る共同体によってもまた生かされており、「人を助けることによって自分も助かることがある」というやなせ氏の言葉を具現化している。この循環的なプロセスは、アンパンマンの贈与が、物理的には極端でありながらも、病的な意味での「過剰」ではなく、むしろ生命を肯定し、持続的な倫理的実践を可能にするメカニズムであることを示唆している。

 また、「弱弱ヒーロー」としてのアンパンマンの存在は、特別な力や能力がなくとも「愛と勇気」があれば誰でも正義を行えるという普遍的なメッセージを投げかける。彼の弱さは、正義が一部の選ばれた超人だけのものではなく、誰もが持ちうる共感と献身の心から生まれることを示唆している。これは、読者や視聴者に対し、「あなたも、今日からでも『アンパンマン』になれる!」という希望を与える。
 さらに、アンパンマンの自己犠牲は、一見すると「偽善」と解釈されうる側面も持つが、それが肯定的に捉えられているのではないか?見せられた何本かの中にあったんだよ。アンパンマンは「困ってる人を助けた時に心が暖かくなって、その時分かったんだ。ぼくが何のために生まれてきたのか、何をして生きていていくか、何がぼくの幸せなのかってことも」とみたいなことを告白していた。この告白は、彼の自己犠牲が究極的には自身の幸福にも繋がるという「偽善の心を持つ絶対的正義」の概念を示唆する。しかし、「偽善」とはいいながら、結果として多くの他者を救い、社会に肯定的な影響をもたらすため、悪とは区別されるべきじゃないか?。この視点は、自己犠牲が、純粋な利他性だけでなく、行為者自身の内的な充足感によっても駆動されうるという、人間行動の複雑な動機付けを肯定的に捉えるものだと思う。


〇批判的側面(「過剰」と見なしうる、あるいはその限界)

 アンパンマンの贈与は、その倫理的な深遠さにもかかわらず、現実社会の文脈に照らすと「過剰」と見なしうる側面や、その限界も存在する。

 「過剰な利他主義」は、倫理学や心理学の観点から問題点が指摘されている。過度な自己犠牲は、機能的境界線の設定困難、適切なレベルの自尊心の欠如、共依存といった病理的な状態を引き起こす可能性がある。アンパンマンの行為は、自己の身体を削り続けるという点で、このような病理的利他主義と類似する側面が確かにある。また、受け手側に、直接的な返礼を求められなくとも、心理的な「借り」や「負債」を生じさせる可能性もあるのではないか? これは、贈与が常に純粋な善意として受け取られるとは限らず、受け手側の自律性や尊厳に影響を与えうるという側面を示唆する。

 さらに、アンパンマンの贈与モデルは、市場経済や大規模な社会システムとの非親和性を持つ。利他心が強すぎる集団では、情報コストが増大し、分業や規模の経済、新技術の導入が困難になるという「オルソン効果」なんてものがあった。これにより、市場の発生が妨げられ、経済発展が阻害される可能性もある。アンパンマンの世界が、ジャムおじさんのパン工場を中心とした小規模な共同体で完結しているのは、このような「過剰な利他主義」が大規模な社会システムでは機能しにくいことの示唆とすら考えることもできる。彼の贈与モデルは、普遍的な倫理的理想を示す一方で、その実践が特定の共同体規模や関係性に限定される現実的な限界を内包している。
 最後に、アンパンマンが自らの「顔を食べる」ことを勧める描写は、一部の大人から「残酷だ」「気持ち悪い」と批判されたように、生理的な嫌悪感や、文化的にタブー視されるカニバリズムを連想させるという側面も持つ。この違和感は、アンパンマンの贈与が、一般的な倫理観や社会規範の境界線を越える「過剰性」を内包していることを示している。

2025年6月21日土曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義3 アンパンマンの「贈与」の様相と自己犠牲

 

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アンパンマンの「贈与」の様相と自己犠牲


 アンパンマンの贈与行為は、単なる慈善や助け合いの範疇を超え、深い象徴的意味と倫理的メッセージを内包しているように見える。その行為の具体的描写は、やなせたかし氏の思想がどのように物語に具現化されているかを明確に示しているかのようだ。

顔を与える行為の具体的描写と象徴的意味
 アンパンマンが自らの顔を与えるところというのは、毎度おなじみのシーンなんだと思うんだが。飢えに苦しむキャラクター、なんかいっぱいいて、よくわかんないけど。調べりゃ名前ぐらいは分かるが、ここで列挙することもあるまい。とにかくいっぱいだ。そう言うキャラクターたちに、アンパンマンの顔が分け与えられる。顔の一部を与えられたアンパンマンは、そのたびに力が失われ、ふらふらになったり、飛べなくなったりする。この弱体化は、自己犠牲が伴う痛みを視覚的に表現しているということだ。
 でも、アンパンマンの物語はここで終わらない。ジャムおじさんやバタコさん(これくらいは分かる)、時には他のキャラクターによって新しい顔が届けられ、交換されることで、アンパンマンは再び「元気百倍!」となり、力が回復する。この一連のプロセスは、単なる食べ物の提供ではなく、「自己犠牲」「助け合い」「無償の愛」の象徴として描かれている。自分の身を削ってでも他者を助けるという、揺るぎない正義の形を示しているというわけだ。
 この顔を与える行為と、それに続く再生のサイクルは、単なる慈善行為を、自己を空にし、共同体の力によって再び満たされるという、深く儀式的なプロセスへと昇華させている。アンパンマンが力を失い、共同体の助けによって回復するという描写は、真の自己犠牲が一方的な消耗ではなく、共同体による支えと、行為そのものが持つ内的な充足感によって持続可能であることを示唆している。アンパンマンは孤立した超人ではなく、彼が守る共同体によってもまた支えられているのである。この循環的な再生は、アンパンマンの贈与が、物理的には極端でありながらも、病的な意味での「過剰」ではなく、むしろ持続可能な倫理的実践であることを示唆する重要な要素だ。

「傷つくことなしに正義は行えない」という思想の具現化
 やなせたかし氏は、「本当の正義というものは、決して格好のいいもんじゃないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです」と述べている。アンパンマンが顔をちぎって与える行為は、まさにこの「捨身、献身の心なくしては正義は行えません」という思想を体現しているわけだ。アンパンマンは、スーパーマンのような華やかなヒーロー像とは一線を画し、「アンパンチ以外に必殺技は持たず、水に濡れたり、カビが生えるだけでも力が出なくなるヨワヨワヒーロー」として描かれている。
 この「ヨワヨワヒーロー」としての描写は、従来のヒーロー像が強調する無敵で圧倒的な力、華々しい外見とは対照的だ 。アンパンマンの弱さは、彼が自己犠牲的な存在であることと不可分に結びついており、脆弱性そのものを美徳へと昇華させている。真の正義は、支配や容易な勝利から生まれるのではなく、共感、困窮する人々と共に苦しむ意志、そして地味で目立たない献身から生まれるというメッセージを伝えている。やなせは、戦争を通じて、力によって振りかざされる「正義」がいかに恣意的で破壊的であるかを痛感したのだろう。アンパンマンの弱さは、そのような「力による正義」への批判であり、正義が物理的な力ではなく、「愛と勇気」という内的な道徳的資質から生まれることを示している 。この視点は、真の英雄性が、無敵であることや華やかであることではなく、他者のために自らを脆弱にすることにあるという、英雄像の根本的な再定義を提示している。アンパンマンの贈与は、その物理的な「過剰性」が、この再定義された、人間中心的な正義の必要かつ深遠な表現であることを示している。
 アンパンマンの顔を作り直すジャムおじさんは、命を補給する存在として神的役割を担う。ここに、一種の神話構造や、管理された循環系としての社会秩序が内包されているともいえる。



『フランケンシュタイン』や『青い鳥』など、創作の源泉に見る贈与の哲学

 やなせたかしは、童話版アンパンマンの着想源がメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』であることを明言している 。特にジェイムズ・ホエール監督の映画版に衝撃を受け、「パンが生命を持つ」というモチーフを得たらしい 。
 童話版アンパンマンは、『フランケンシュタイン』の怪物と多くの点で共通性を持つ。両者は「外見の親近性」(醜さや不格好さ)を持ち、子どもとの接触において罵倒され、外見への誹謗・中傷に晒される 。また、善意が報われず、最終的には結末の曖昧さも共通している 。でも、醜い外見ゆえに拒絶され、悪の道に進む怪物に対し、アンパンマンは外見を気にせず人々を助け、罵られても人類への愛を失わないのは対照的だ 。
 この『フランケンシュタイン』の影響は、アンパンマンの贈与の哲学に深みを与えている。アンパンマンは、フランケンシュタインの怪物と同様に、創造された存在だが、その生来の善意が、その異質な性質や外見のためにしばしば理解されず、拒絶される。それでも、彼はその拒絶にもかかわらず贈与を続ける。この行為は、無条件の愛と自己犠牲の力強い肯定であり、外見で判断し、真の善意を見過ごしがちな世界に対するメッセージとなる。
 さらに、メーテルリンクの『青い鳥』に登場する「パンの妖精」のイメージも、アンパンマンに付与されたらしい 13。『青い鳥』が幸福の探求と、身近なものの中に幸福を見出すというテーマを持つことを踏まえると、アンパンマンの「パン」という日常的な存在が、最も根源的な幸福(飢えの解消)をもたらすという構図は、この影響を強く受けていると考えられる。朝ドラが実話にどれだけ則しているか分らんが、パン、アンパンは、やなせ氏にとって少年の時から大事なものであったようだ。これらの文学的源泉は、アンパンマンの贈与行為が、単なる物語上の設定を超え、人間存在、社会との関係性、そして真の幸福とは何かという普遍的な問いと深く結びついていることを表している。

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義2 やなせたかしの戦争体験と「正義」の原点

 


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 瀧内公美氏が、昨年の大河ドラマで藤原道長の側室の源明子役をするちょっと前に、中学の同級生の女性から、瀧内氏は彼女の息子と同い年の近所の子で、病院で生まれた時から知っているのだと聞いた。昨年の大河、今年の朝ドラ、ご活躍、喜ばしいことだ。
 朝ドラでは、女子師範学校の教師役を演じておられる。その頃の教師と言えば、女子師範学校とは言え、軍国日本の価値観の体現者だったはずで、実際そういう役回りのようだが、さて、当時の、言ってみれば学校の教師などは知識層、終戦で一夜にしてそう言った価値観がひっくり返ることを経験する場面を、これからテレビで目にすることになるのだろう。

 このことをテーマにした表現物は探せば多分いっぱいあるはずだ。瀧内氏演じる先生はどうなのだろうな?

 追記(2025/09/27)
 瀧内氏演じる女学校教師がそういった懊悩を抱える場面は描写されなかったが、ヒロインのぶのそういう場面が描かれ、物語の流れを作っていったようだ。


やなせたかしの戦争体験と「正義」の原点

 丁度これを書いている今週の朝ドラ「あんぱん」、嵩が戦地で地獄の飢えを体験する週になっている。氏の思想は、極限状態での個人的な体験に裏打ちされたものであり、アンパンマンの行動原理に直接的な影響を与えているとのことだ。

〇飢餓体験の衝撃と「食べること」の絶対的正義化

 やなせたかし氏は、1941年に徴兵され、日中戦争から太平洋戦争にかけての兵役を経験したとのこと。中国大陸での従軍中、彼は極度の飢餓に苦しんだと語っておられる。氏は「空腹というのは、我慢できない」「人間いちばんつらいのはおなかが減っていることなんだ」と述べ、水のようなおかゆやタンポポを食べて飢えをしのいだ経験から、って、今日、丁度のそのシーンやってたなぁ。で、その苦痛の深刻さを強調している。飢えが極限に達すると「人を裏切ってでも何とか食べようとする。考えもおかしくなってくる」という人間の本質を目の当たりにしたのだと。この飢餓体験、よほどに強烈だったんだろう。やなせ氏は「一番大事なのはまず食べられることだ」という確信に至ったようだ。そして、「飢えた子供に一切れのパンを与えること。少なくともそれは、ひっくり返ることのない正義であるはずだ」という、揺るぎない正義の概念を確立したと。この「一切れのパン」という具体的で素朴な行為が「絶対的正義」であるという思想は、やなせが戦争中に目にした抽象的なイデオロギーや国家的な「正義」とは対照的である。それは、権力や思想によって容易に「逆転」しうる正義ではなく、人間の最も根源的な生存欲求と、それに応える直接的な行為に根差した、普遍的で揺るぎない正義として位置づけられた。この考え方は、正義が抽象的な理想や壮大な物語ではなく、生理的欲求の充足という最も基本的なレベルで実現されるべきであるという、価値観の根本的な再構築を意味している。

〇弟の死と「正義」への懐疑、そして「逆転しない正義」の探求

 氏は、終戦直後に仲の良かった弟を戦争で失ったという個人的な悲劇を経験している。弟は海軍中尉としてフィリピンに向かう途中で乗船が沈没してしまい、そのまま。この早すぎる死は、「弟は何のために死んだのか?」「犬死にだったのか?」という、氏の心に深く残る根源的な問いを生み出したのだろう。
 さらに、戦時中には「正義」を振りかざしていた日本軍が、敗戦とともに中国から「悪魔の軍隊」と非難されるという現実を目の当たりにしたらしい。この点について、特に向かって右側におられる方々はいろいろ言いたいこともあるんだろう。事実に基づいた評価ではなかったとか。さぁ、どうなんかね? その時そう言う人たちは、どこにどういう立場でいて、そんなことが言えるんだろうねぇ?
 閑話休題。
 昨日までの「正義」が、一夜にして「悪」へと容易に「逆転」するこの経験は、やなせの心に「ヒーローとは何だ」「本当の正義とは一体何だ」という深い懐疑を抱かせた 3。そう言う人も結構多いと思うんだがね、実際は。

 この強烈な懐疑の中から、氏は「逆転しない正義」の探求へと向かった。彼が辿り着いた結論は、その正義が「愛と献身」(すなわち、自分を傷つけ、目の前の相手に差し出すこと)であるというものだった。この「逆転しない正義」という概念は、国家やイデオロギーによって恣意的に定義され、翻弄される「正義」への痛烈な批判である。氏にとって、真の正義とは、政治的・国家的な境界を超越し、人間の普遍的な脆弱性と共感に根差した、人間中心的な倫理に他ならなかった。この思想は、キリスト教の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という教えや、仏教の「捨身飼虎」の逸話にも通じる普遍的な概念として理解される。戦争のトラウマから生まれたこの倫理観は、アンパンマンの行動原理の核心をなしているに違いない。

〇初期アンパンマン(人間版)の構想と、その後の変遷

 アンパンマンが初めて世に登場したのは、1969年の月刊誌『PHP』に掲載されたメルヘン「アンパンマン」だったそうな。この初期設定では、アンパンマンは「スーパーマンみたいな格好した中年のおじさんでちょっとメタボ」な人間であり、顔はアンパンでできていなかったらしい。彼は「ほんとのアンパンを持っていて、お腹が減った人にあげるキャラクター」として描かれていたのだろう。
 しかし、この人間版アンパンマンは、子どもにアンパンを拒否され、「ソフト・クリームのほうがいい」と言われたり、「カッコワルイ!」と罵られたりする、報われないヒーローとして描かれた。オレもそんなこと言いそうだった。小さい頃、実は餡子が嫌いだったのよ。さらに物語の結末では、許可なく国境を越えたために高射砲に撃ち落とされ、生死不明となるという救いのない展開だったんだって。うわ・・、退くわ。なにそれ、マジ?
 氏は、この童話を絵本として出版する際に、人間という設定から「生命を持ったパン」という現在の設定へと変更し、救いのないストーリーを改めた。このキャラクターの変遷は、単なる表現上の工夫以上の意味を持っていたようだ。「正義を行おうとすれば、自分も深く傷つくものだ。でも、そういう捨て身、献身の心なくして、正義は決して行えない」という自身の思想を究極的に表現するため、「自らを食べさせる」という行為に到達したのかもしれない。

 人間が「パンを配る」という行為は、あくまで外部からの慈善行為であり、与える側と与えられる側が明確に分離している。しかし、「パンそのものであるアンパンマンが、自らの顔を差し出す」という行為は、自己が贈り物そのものとなる、存在論的な贈与へと深化する。この変化は、慈善行為が持つ限界(受け手の好みに左右される、外部からの脅威に脆弱であるなど)を乗り越え、自己の存在そのものを捧げるという、より根源的で揺るぎない正義の形を追求した結果だ。アンパンマンが「顔をちぎって与える」という行為は、この痛みを伴う献身の精神を象徴しており、真の正義は常に「格好いい」ものではなく、脆弱性と自己犠牲を伴うものであるというやなせ氏の思想を体現しているように思えて仕方ない。