ラベル 追憶 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 追憶 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年6月17日月曜日

8276 GPz900R _30

8276 GPz900R _30


NT0065~0066 もっと遠くに行けたはずなのに

 さて、https://selgeykattvinsky.blogspot.com/2024/06/8272-gsx1100s-38.html
の冒頭においてご登場いただいた、昔美少女今画喇叭地おばさんの話である。人の内面をあれやこれや勘繰ることは失礼な話ではあるのだが、そこはまぁ。
 一つには書いた通り完璧超少女へのコンプレックスもあったのだろうが、一方で、そういうことを感じている自分自身へのいら立ちもあったのかもしれない。そして薄らぼんやりとだが、そういうことを感じずにいれたなら、そんなおもいに脚をとられてなかったならひょっとしたら今の自分とは違う自分がいたんじゃないかという思い。
 あわてて言い募るのは、決して現状、今のご主人とか家庭とかに不満があるわけではない、ということ。それも嘘ではないだろう。なかなか二枚目で聞く限りパートナーとして理想的な男性であるように思われる。しかし、他のあり様があったのではないかという思いが、極偶に去来するようだった。

 オレ等が出た高校というのは、結構な進学校で、で、大学を出て社会に出るころというのは、特に女性にとっては時代の境目で、ひょっとしたら結構な企業でそれなりのキャリアを積んだ人生があったかもしれない、と思っているのかもしれないし、そうなりゃパートナーだって、今の二枚目のご主人じゃなかったかもしれない。
 あるのは、コンプレックスに囚われて、ひょっとしたら何処かで選択を間違えたんじゃないかという恐れ。それが酔った勢いで顔を出す時がある、という事なのかもしれない。


 あの時、なぜ、アクセルをもうひと捻り、ひと踏み開けられなかった? あの時はそれで仕方なかったのさ、と言ってしまえばその通りなんだろうが、誰に知られているわけでもない、知られても構わないが知られたくない、あの時オレはほんの一瞬サボってしまったのかもしれない。それがなければ突き抜けられたんじゃないんだろうか? もっと遠くへ行けたんじゃないだろうか?

 オレなんてそういうことだらけで、若い内はどうしたらリカバーできるかなんて深刻に考えていたかもしれないが、さすがにそんなことも考えなくはなったけれど、オセロの一手で、ピースが全部ひっくり返るような、そういうことをつい考えて、ひとり恥じ入ることが偶にある。そう言う事が一切なくて若い時から意志したことを全て実現してきて人間は今頃一廉の人物になっているのだろうが、オレなんぞは遂にその辺いいる凡夫である。
 一廉であろうがなかろうが、凡夫であっても構わないが、突き詰めれば誰かに理解されなくてもいい、っていうか、誰かに理解される以前、或いは自分のコアを中心にすれば誰かよりもはるかに内側で、あのときなぜアクセルを開けられなかったんだろう? そういう思いが「若い時のやり残し」として、いつまでも自分の奥底にこびりついている。


 

2024年6月16日日曜日

8272 GSX1100S _38

8272 GSX1100S _38

NT0061~0062 心に帯びたモーメントの何と面倒な

 同級生の女性の話だ。一度うちのブログにも登場している。かつての美少女、今や画喇叭地のおばさん。飲み会で2回ほど、そこにはいない別の同級生女性に対するコンプレックスを愚痴る事につきあった。いや、彼女だって、すらっとした美女で何人アンタに対しコンプレックスを感じていただろう、と、思ってはみたが、そんなのお構いなし、相当思春期には重いものだったらしい。

 彼女とそのコンプレックスを抱く対象の女性、決して仲が悪かったわけではない。いや、見た目、寧ろ良好なように見えた。実際、その場にいない女性を嫌いとか言う事ではないらしい。が、まぁ、なんというか、完璧超人な女の子ではあった。それはよく覚えてている。オレも。

 とはいえ、そんなことを聞かされたとて、気にすることはなかったんでない? なってつまらない事しか言えなく、そのつまらなさ加減にはオレ自身がうんざりしたりしたが、他に何言いようがある? とその時は思っていたのだが。


 同じ飲み会で、やはりその場にいない男性の話題になる。高校生当時、件の完璧超少女と付き合ってた奴の事だ。今は陽キャ陰キャとかスクールカーストとかなんて、結構まじめでつまらないおじさんおばさんが目くじら立てそうな言葉、中高生を中心に使われているそうで、オレたちの頃はそんな言葉はなかったけれど、そんな感じの今風の言葉で言えばスクールカーストのてっぺんにいる陽キャ、だったのだが、さて、そいつと完璧超少女、大学も此処とは離れた同じところに進み、しかし、分かれて何とかかんとか。そいつは別の同級生だった女のコと結婚し、完璧超少女の方は、大学の割と近所に実家がある男性と結婚して・・・、まぁ、時々そんな話を聞いていた。よくありすぎて今更な話なんだが。


 でさ、その男の方なんだけど、どうやら振られたのか、とにかく結構長い間それを引きずっていたんだと。んで、本調子でなかったせいなのかどうかは知らないが、結構トラブルにも巻き込まれたりして、かつての陽キャも大人の今となっちゃ、どうもパッとしないらしい。って、おい、もう、オレ達、孫もいるような年代だぜ? って。


 いや、さすがに未だに引き摺ってるなってこともあるまいよ。それは彼に失礼かも。ただ、それに囚われて本来もっと他の事に目を向けエネルギーをかけなくてはいけないタイミングでそれができず今に尾を引いている、ということはあるかもしれぬ。

 んで、そういう言葉全部オレにブーメラン。



 若い時に、少年の頃に、何となく抱く将来のビジョンだったりなりたい自分の理想像だったり。その為にそれぞれなりに努力はするんだ。しかし、客観的に見当違いだったり努力が足りなかったり、或いは単に運が悪かったりして、そのとおりにはいかなかったりするのが大多数で。異性ー伴侶の話になると、それは顕著でさ。その事じゃなくても。

 さっさと切り替えて、なんて、他人だから言えることで、それまでが上手くいってた奴なら尚の事、又はそいつなりにとてつもなくエネルギーをかけてきたというのであっても同様。なかなか、それまでの自分の心のモーメントにストップをかけたり方向を変えたりというのができないものだ。それをしないというのが如何に馬鹿げているかは重々承知の上で、だ。


 仏門の偉いお坊さんとか「執着を捨てよ」とかいうけど、それができれば世話がねぇ、ってね。まぁ、多くの人間は、それができないから、宗教なんて言う商売がこの世にあるんだが。いずれにしろ、如何に不親切な言葉であることか。


 執着、いろんな意味を含み得るが、この際は、若い頃、幼い頃に思い描いた理想の将来の自分像への撞着と乖離することの苦味だ。


 本当はもっと遠くに行けたはず、というところで慚愧に堪えないけれど、とりあえず今と今からが大事なのは、いくつになっても変わらない、というのはみんな思ってることで、冒頭の、昔美少女今画喇叭地おばさんは、何とか「今」に意味を見出そうとエネルギッシュだ。昔陽キャの男も、近況、よく知らないけれど、ずっとそう思ってやってることだろう。



 子供の時に好きだった女の子の話は置いといて、時々、ブログで取り扱う、ポルシェをぶっちぎりたいオジサンとか日本の旧車の話とか、って。考えてみりゃ、両方ポルシェなんだな。言葉で書き出してしまうと、ポルシェをぶっちぎることに何の意味があるのか? ということになってはしまうが、そういう馬鹿な事でも、悟りを開いたように、割り切ったように、そんな気持ちが収まってしまうと、実際人生の大部分が本当に終わってしまうような気がしている。



8271 Ayrton Senna da Silva_27

8271 Ayrton Senna da Silva_27

Ayrton Senna da Silva
MP4/6
Phoenix 1991

NT0060 1994年5月1日のこと(正確には日本時間で2日のこと)

 本来京都の北山というと結構広い範囲を指すのだという話を聞いたことがある。岩倉から鞍馬、花脊、雲ケ畑もそうだ、と、誰かが言ってたような気がするが、まぁ、バブルの頃はそんな山奥まで行かない、植物園の北っ側の、京都にしてみれば割と新しめの区画整理がされたあたりを指していた。景気がよかったころだから、京都中心地の若旦那が金に物を言わせて、なんか変な建物建てたりスカしたブティック何かが結構立っている地域だった。今はどうなんだろ? 最初の成り立ちから言うとそうじゃない気もするし、案外そのまま今まで来ているような気もする。

 建築中の鉄骨3階建ての1階、半地下みたいになってるスペースにコンクリートブロックを何百個かオレと50手前のおっちゃん2人の人力でトラックから運び込むというのがその日の仕事で。


 初夏であったから、そこそこ暑かったはずだ。で、汗かきのオレであるから真夏のように汗をかき、その日の相棒のおっちゃんや元請けの監督に揶揄われていたはずだ。今もそんな感じだから多分そうだったのだろうという程度の記憶。晴れてはいた、快晴だった。それは間違いない。


 それにしても前夜、オレはテレビを持っていなかったが、隣室の男の部屋から聴こえる、F1中継の音である。いつもにもまして大騒ぎだったけど、何を言っているかわからなかったけど、イマミヤさん、泣き叫ぶような声だったのは聴こえた。何かあったらしい、尋常ならざること。コンクリートブロックを手で運びながら、ずっとそれが気になっていた。


 とはいえ、夕方になるまでそれが何だったか知るすべもなく、夕方帰りのコンビニで売れ残りのスポーツ新聞を買ったか何かして、漸く前の晩のイモラ、タンブレロでの大事故を知る。この時点では情報はまだ錯綜しており、希望的観測もなくはなかったが、しかし、レスキューが駆けつけた時には黄色の「彼」のヘルメットからは脳漿があふれ出しており即死であったらしい。2,3日の内にそれは明らかになる。


 彼のFW16は、流行りの吊り下げ式ウィングのハイノーズではなかった。そうであったならもっと象徴的だったかもしれないが、雄々しいファルスがへし折られたのだ、と、何が時代の大きな潮目を感じてしまった。

 彼の死について、間違いなくショックではあったけれど不思議と悲しいという感情は大きくなかった。ただ、大きな挫折も停滞すらも良しとせず、何よりも前進を第一とした意志の結末に出会ったような気がした。これから人類の何かは坂道を、場合によっては転がり落ちるようにして降りていくのだ、そのように感じた。オレにとってのその時の日付は1994年5月2日。現地時間では5月1日のことだ。