2024年6月16日日曜日

8272 GSX1100S _38

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NT0061~0062 心に帯びたモーメントの何と面倒な

 同級生の女性の話だ。一度うちのブログにも登場している。かつての美少女、今や画喇叭地のおばさん。飲み会で2回ほど、そこにはいない別の同級生女性に対するコンプレックスを愚痴る事につきあった。いや、彼女だって、すらっとした美女で何人アンタに対しコンプレックスを感じていただろう、と、思ってはみたが、そんなのお構いなし、相当思春期には重いものだったらしい。

 彼女とそのコンプレックスを抱く対象の女性、決して仲が悪かったわけではない。いや、見た目、寧ろ良好なように見えた。実際、その場にいない女性を嫌いとか言う事ではないらしい。が、まぁ、なんというか、完璧超人な女の子ではあった。それはよく覚えてている。オレも。

 とはいえ、そんなことを聞かされたとて、気にすることはなかったんでない? なってつまらない事しか言えなく、そのつまらなさ加減にはオレ自身がうんざりしたりしたが、他に何言いようがある? とその時は思っていたのだが。


 同じ飲み会で、やはりその場にいない男性の話題になる。高校生当時、件の完璧超少女と付き合ってた奴の事だ。今は陽キャ陰キャとかスクールカーストとかなんて、結構まじめでつまらないおじさんおばさんが目くじら立てそうな言葉、中高生を中心に使われているそうで、オレたちの頃はそんな言葉はなかったけれど、そんな感じの今風の言葉で言えばスクールカーストのてっぺんにいる陽キャ、だったのだが、さて、そいつと完璧超少女、大学も此処とは離れた同じところに進み、しかし、分かれて何とかかんとか。そいつは別の同級生だった女のコと結婚し、完璧超少女の方は、大学の割と近所に実家がある男性と結婚して・・・、まぁ、時々そんな話を聞いていた。よくありすぎて今更な話なんだが。


 でさ、その男の方なんだけど、どうやら振られたのか、とにかく結構長い間それを引きずっていたんだと。んで、本調子でなかったせいなのかどうかは知らないが、結構トラブルにも巻き込まれたりして、かつての陽キャも大人の今となっちゃ、どうもパッとしないらしい。って、おい、もう、オレ達、孫もいるような年代だぜ? って。


 いや、さすがに未だに引き摺ってるなってこともあるまいよ。それは彼に失礼かも。ただ、それに囚われて本来もっと他の事に目を向けエネルギーをかけなくてはいけないタイミングでそれができず今に尾を引いている、ということはあるかもしれぬ。

 んで、そういう言葉全部オレにブーメラン。



 若い時に、少年の頃に、何となく抱く将来のビジョンだったりなりたい自分の理想像だったり。その為にそれぞれなりに努力はするんだ。しかし、客観的に見当違いだったり努力が足りなかったり、或いは単に運が悪かったりして、そのとおりにはいかなかったりするのが大多数で。異性ー伴侶の話になると、それは顕著でさ。その事じゃなくても。

 さっさと切り替えて、なんて、他人だから言えることで、それまでが上手くいってた奴なら尚の事、又はそいつなりにとてつもなくエネルギーをかけてきたというのであっても同様。なかなか、それまでの自分の心のモーメントにストップをかけたり方向を変えたりというのができないものだ。それをしないというのが如何に馬鹿げているかは重々承知の上で、だ。


 仏門の偉いお坊さんとか「執着を捨てよ」とかいうけど、それができれば世話がねぇ、ってね。まぁ、多くの人間は、それができないから、宗教なんて言う商売がこの世にあるんだが。いずれにしろ、如何に不親切な言葉であることか。


 執着、いろんな意味を含み得るが、この際は、若い頃、幼い頃に思い描いた理想の将来の自分像への撞着と乖離することの苦味だ。


 本当はもっと遠くに行けたはず、というところで慚愧に堪えないけれど、とりあえず今と今からが大事なのは、いくつになっても変わらない、というのはみんな思ってることで、冒頭の、昔美少女今画喇叭地おばさんは、何とか「今」に意味を見出そうとエネルギッシュだ。昔陽キャの男も、近況、よく知らないけれど、ずっとそう思ってやってることだろう。



 子供の時に好きだった女の子の話は置いといて、時々、ブログで取り扱う、ポルシェをぶっちぎりたいオジサンとか日本の旧車の話とか、って。考えてみりゃ、両方ポルシェなんだな。言葉で書き出してしまうと、ポルシェをぶっちぎることに何の意味があるのか? ということになってはしまうが、そういう馬鹿な事でも、悟りを開いたように、割り切ったように、そんな気持ちが収まってしまうと、実際人生の大部分が本当に終わってしまうような気がしている。



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