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2025年6月26日木曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義8 雑記2 ロールパンナ

 


8810 河合優実


 正直な話、子供の時はアンパンマンを知らず、アンパンマンが大好きだった時期を通り過ぎずに大人になった。「贈与」論についていろいろ考えている内に、さすがに、数話観ただけでも覚えている、空腹な人に自分の顔を分け与えるという異様さ、贈与論的にどう考えたらいいのか、と思って調べるうちに、目に付いたキャラクターが、ロールパンナだった。

 「あんぱん」で、ヒロイン朝田のぶは、嵩の幼馴染、ということになっているが、実際には、やなせたかし氏と、奥さんの暢氏は、大人になってから、ヒロインのモデル小松暢氏が最初の夫と死別した後、職場である高知新聞にて知り合っているそうだ。
 小松暢氏、父は高知の出身だが、暢氏自身は大阪生まれの大阪育ち、嫁いで高知に来た、とのことらしい。また、小松暢氏、結婚前は池田暢氏、プライベートについての記録はなく、妹が二人いたというのは、記録に基づくというよりは、朝ドラにする上での脚色上の創作だろう。「あんぱん」での創作キャラは、実在が確認される人物以外、ほとんどアンパンマンに登場するキャラクターをモデルにしている。後述するが、やなせたかし氏原作のアニメにもなった童話「チリンの鈴」の主人公チリンを基にしたキャラクターもいるらしい。

 ヒロイン、のぶの上の妹、蘭子のモデルは、ネットでは「こちょうらんさん」という見解もあった。それもそうなのだろうが、脚本の中園ミホ氏によれば、念頭にあったのはロールパンナなんだそうだ。

 ロールパンナは、メロンパンナの姉として誕生したが、誕生時「やさしさの心」と「バイキンの心」を同時に入れられてしまった。アンパンマン側(正義)とバイキンマン側(悪)の「はざま」で苦しむようになってしまったと。
 って、キカイダーかよ、と。どっちが先なんだろうな、1970年代前半。石ノ森作品も、なかなか原作は複雑な性格付けのキャラクター、子供向けとは思えない作品が多い。ロールパンナは自分の中にある「やさしさ」は、アンパンマンから感じている正義の在り方そのもの。でも「悪の心」が勝ると、アンパンマンに対して攻撃してしまう。そのたびに罪悪感と葛藤を抱えて、また旅に出る。
 一緒に戦いたいのに、自分を制御できない。アンパンマンに「会いたい」「助けてほしい」気持ちがありながら、それを表に出せない。

 子供の時は分からなかったに違いない。なぜアンパンマンは、ばいきんまんをきっちり殲滅しないのだろう、ということと、この何とも中途半端、どっちつかずのロールパンナを登場させる意味。

 この複雑な構図、子ども向けにしてはかなり深く、善悪の葛藤、心の分裂、一方的な慕情といった文学的テーマを背負っている。

 「あんぱん」の朝田蘭子は、10代にして戦争で想い人を亡くしている。ロールパンナの「心の二重性」「罪悪感からの離脱」は、戦場で傷つき、人を傷つけてしまった人が、正気と狂気の間で揺れる姿に近く、やなせたかし氏の戦争体験とも重なるとも言われることもあるそうな。前線と銃後のちがいはあるが、多くの部分で同じだと言っていいと思う。

 つまりロールパンナは、アンパンマンの「無償の贈与」に惹かれながら、その清らかさに自分が追いつけず、苦悩し、距離を取らざるを得ないキャラクターであると。

 そうなると、ロールパンナというキャラクターは、設定も内面描写も、もはや「子ども向け作品」の範疇を明らかに逸脱している。「やさしさの花のエキス」と「バイキン草のエキス」を同時に入れられるという設定は、純粋な善ではなく、どうしようもない悪の側面をも内包するということだ。しかもそれは自分で選んだのではなく、「他者に与えられた複雑なアイデンティティ」という点が重い。
 子どもは「いい子か悪い子か」でキャラを整理したがるけど、ロールパンナはその境界があいまいで、常に揺れ動いている。

 ロールパンナだけではない。アンパンマンに出てくるキャラクター、ひとつひとつ見て行っても、なんともすごい深みがあってびっくりだ。

 ロールパンナは悪の心に支配されると、本当にアンパンマンたちを攻撃する。戦いのあとに「なんてことを…」と自責の念に駆られ、ひとり姿を消す。周囲は許そうとするが、自分自身が自分を許せない。ここにあるのは、「贖罪」というテーマだ。やなせたかし氏は、戦争体験や死生観を持ち込むことで、アンパンマンワールドに「深い影」を落としていたようだ。
 ロールパンナの物語は、「人はなぜ闇を抱え、それでも希望を捨てないのか」 「人は変わり得るのか、赦され得るのか」 という問いを、子どものふりをして、大人に突きつけている気さえする。