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2026年4月29日水曜日

小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 3

 The Fast and the Furious X3 Tokyo Drift


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Veilside Fortine FD3S
Han (Sung Kang)
The Fast and the Furious X3 Tokyo Drift

 当地出身の柴田理恵氏はハリウッド女優と言えるのかどうか? と、chatGPTに尋ねてみたら、「いや、そりゃ、ムリっしょ」との事だった。あ、やぱし?

 サン・カン氏演じるハンの「Veilside Fortune FD3S」がカッコよかった、以外、かの映画、文字に起こすことがないんですよ。困った。だって、まず、あらすじで言えば、もう王道のハリウッド活劇を踏襲している。「トップ・ガン」の一作目とか「ベストキッズ」あたりとか、いやもっと適切な例がゴロゴロありそうじゃん。
 それとも、現実のものではない、異世界線の「トーキョー」について書くか? いろいろ突っ込みどころが多すぎて、早い内に、ああ、これはこれでこういう世界観ね、と、有無も言わせず観客を巻き込んでいく感じ。

 どっちもそれなりに文字数は行けそうだけど、そうじゃないんだよなぁ。最初の第一作からして、いい意味で雑なB級風味の娯楽に極振り映画で、一つには「サーキットの狼」と同じ、ミニカーぶちまけたような楽しさが魅力だった。
 でも、割と記憶の棚の目立つところに置かれている理由と言うのは、そこじゃないんだ。

 どこだろう。「Veilside Fortune FD3S」から辿っていくことにしようか。
 鮮烈なスカーレットだったドミニク・トレットのFD3Sとは対照的に、ハンのそれは夕焼けのようなオレンジと黒のツートン。Veilsideが本来リリースしたガンメタと黒に近いブルーから、さらに独自の色味に染め上げられたその姿は、シリーズ中に登場する数多の改造車の中でも、ひときわ「コンプリートカー」としての完成度と異物感を放っている。他のクルマが「速さ」や「派手さ」を競う中で、このFDだけは「自分であること」を主張しているように見えた。そして、常にアウェイであることが宿命づけられているようにも。

 ハン・ルーという男もまた、そうだった。 作品世界の時系列では『Tokyo Drift』より前のエピソードで既にドミニクの「family」に加わっていたはずなのに、彼はどこか一歩引いた位置にいた。嫌われてはいない。むしろ好かれている。だが、完全に溶け込んではいない。居心地の悪さを、薄い笑みで誤魔化しているような、そんな距離感。

 終盤で因縁をつけられ、後に味方になるデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)や、ドミニクの弟ジェイコブ(ジョン・シナ)も含め、俺がこのシリーズで特に好きなキャラクターたちは、皆どこか「屈託」を抱えている。完璧に「family」の一員になれない者たちだ。
 実はハン・ルーは、ジャスティン・リンとサン・カンが『Better Luck Tomorrow』で生み出したキャラクターだったという。優秀なアジア系アメリカ人の青年が、徐々に社会の枠組みからずれ落ちていく物語。そこで培われた「ずっとアウェイであること」の感覚が、そのまま『Fast & Furious』シリーズに横滑りしてきた。 ハンにとって東京は、二重の意味で異世界だった。
 アメリカ人にとっての異国であると同時に、彼自身にとっても「馴染めない場所」であり続けた。

 Veilside Fortune FD3Sが、東京の街を疾走しながらも、どこか浮いているように見えるのと同じように。 レベッカがハーレーに跨がった瞬間だけ「自分の時間」を生きていたように、ハンもまた、FD3Sのステアリングを握り、夜の東京をドリフトする短い時間の中でだけ、誰の「family」にも属さない、静かな居場所を見つけていたのかもしれない。 完璧に溶け込めない者、常に少しだけアウェイに立っている者——そういう人間の、ささやかな美学と居心地の悪さが、俺は妙に好きらしい。



9150 Jacques Cornu _1 retake

 

9150 Jacques Cornu _1 retake

Jacques Cornu
KR1000
Bol d'Or 24h 1983


9136 AI-generated beauty who couldn't quite become Emma Watson _4

 

9136 AI-generated beauty who couldn't quite become Emma Watson _4

2026年4月28日火曜日

小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 3

La Motocyclette


9145 FLH1200 Electra Glide 1968

FLH1200 Electra Glide 1968 ‘Dionysus’
Rebecca (Marianne Faithfull)
“La Motocyclette”


 「La Motocyclette」について、何か書こうと思ったが、人の書いたエロについて、特に思うことが浮かばないことに気がついた。ペドフィリアこそ唾棄するべきと考えているが、それ以外他人様の性嗜好について、特に思うことはない、の延長で、やるのは好きだが聞くのは、又は視るのはそれほど好きと言うわけではない。
 というところで、エロ小説と言う側面で「La Motocyclette」を語ろうとしても、無理だと気がついた。


 そこでそれは一旦置いておいて、「マリアンヌ・フェイスフルとナンシー・スパンゲン、おまけにヨーコ・オノも加えちゃおう、この中で一番たちが悪いのは誰だ?」問題。これにいく。


 なんでこの3人かと言うと、マリアンヌ・フェイスフルは恋人だったミック・ジャガー以外の、ローリング・ストーンズのメンバーに、ナンシー・スパンゲンはシド・ヴィシャス以外のピストルズのメンバーに、ヨーコ・オノはジョン・レノン以外の、特にポール・マッカートニーにひどく嫌われていた、と言う共通点を持つ。


 少しだけ詳しく振り返る。


 マリアンヌ・フェイスフルは、**「耽美的な堕落と、底知れぬ生命力」**がある。ミック・ジャガー以外に嫌われていた、と言いつつ、ブライアン・ジョーンズやキース・リチャーズとも関係あったと言われてる。ストーンズのメンバーに嫌われたというよりは、「彼女がいることでミックが変質していくこと」への恐怖や、ドラッグ文化を加速させた触媒としての危うさがあった。 清楚な修道女のようなルックスでありながら、ミック・ジャガーという時代の寵児をドラッグとスキャンダルの渦中に引きずり込んだ点。有名な「バーズ・アイ・チョコレート・ロール」の事件に象徴される、退廃的な遊びのセンスがあった。ミックが彼女との関係でボロボロになり、周囲がハラハラしているのを尻目に、彼女自身は「ストリートの浮浪者」まで落ちぶれてもなお、低音のしゃがれ声を手に入れて不死鳥のように復活した。男を狂わせ、自分だけがその毒を養分にして生き残る**「猛毒の華」**のような質の悪さがある。男のキャリアや精神をボロボロに削りながら、自分はそれを伝説のスパイスに変えてしまう「貴族的な悪」だ。


 ナンシー・スパンゲンは、シド・ヴィシャス以外、ジョン・ライドン(ロッテン)には振られたけど、他のメンバーとも絡もうとして距離を置かれたり、バンド全体に煙たがられた。彼女は「嫌われる」という次元を超えて、バンドを物理的・精神的に解体してしまった。ある種、最も純粋な「破滅のアイコン」としての質の悪さがあった。 シド・ヴィシャスという、まだ何も持たない純粋で空っぽな少年に、ヘロインと「パンクの記号」を注入して、あっという間に地獄へ連れて行ってしまった。ピストルズのメンバー全員から「最低の女」と毛嫌いされ、バンドを空中分解させる決定打となった。救いがなく、短期間で全てを焼き尽くす**「爆薬」**のような質の悪さ。共依存による純粋な破壊。
 ナンシー・スパンゲンは、オタサーの姫のラスボスって感じがする。もっとぶっちゃけるなら、サイコパス。まさに、パンクという当時の「過激なサブカルチャー・コミュニティ」に舞い降りて、すべてを壊滅させた究極のクラッシャーだ。「至近距離でコミュニティの急所を突いてくる全滅呪文」のような趣がある。
 「シドを理解しているのは私だけ、他のメンバーは全員敵」という構図を作り上げ、バンド(サークル)の絆を内側から腐らせていく手口。これはまさに、閉鎖的なコミュニティを壊滅させる「姫」のムーブそのものじゃないか。
 ドラッグによる依存、精神的な不安定さ、そして「私がいなきゃこの人はダメになる(逆も然り)」という共依存の檻。シドという「コミュニティの看板(アイコン)」を完全に私物化して、外部の声を遮断する力は圧倒的だった。
 ラスボスが倒されるのではなく、ヒーロー(シド)を道連れに自爆して物語を強制終了させてしまう。あの、二ューヨーク、チェルシーホテルの結末は、最悪の形での「サークル解散」だった。


 ヨーコ・オノは、ジョン・レノン以外、特にポール・マッカートニー(とジョージ・ハリスンも)に「スタジオにまでついてくる干渉者」として猛烈に嫌われた。良くも悪くも「愛と平和」とか「前衛芸術」という、彼女なりの強固なクリエイティブな大義名分があった。ジョンと一緒に何かを「創り出す」エネルギーもあった。


 この問題、判定基準で答えが180度変わるのが面白いところ。

 バンドへの破壊力で測るなら、ナンシー > ヨーコ > マリアンヌ。ナンシーはシドを道連れに心中未遂→殺人事件→ピストルズ空中分解。破壊完了まで半年。ヨーコは10年かけてジョンを吸い上げた。マリアンヌはミックを消耗させたがストーンズは死ななかった。

 自覚の無さで測るなら、ヨーコ > マリアンヌ > ナンシー。ヨーコは「芸術」で全部正当化した。マリアンヌは後年「あの頃の私はクズだった」と言える。ナンシーはそもそも病気と薬で自覚の埒外。
 世間のヘイトを一身に受けた量なら、ヨーコ > ナンシー > マリアンヌ。ヨーコは50年叩かれ続けてる。ナンシーは死んで伝説化。マリアンヌは『Broken English』で再評価された。

 だから「誰が一番?」って問い自体が、それぞれの倫理観を試す踏み絵になってる。


 wikipediaに、アラン・ドロンとマリアンヌ・フェイスフルとミック・ジャガーの3ショットの写真が載っていて、スゲエと思った。かの写真は、まさに**「1960年代のポップカルチャーの頂点」**を一枚に凝縮したような凄みがある。
 アラン・ドロンの彫刻のような美貌、ミック・ジャガーの野生的なカリスマ、そしてその間にいるマリアンヌ・フェイスフルの危うい透明感。あの時代の空気を知らなくても、視線だけで火花が散っているのが伝わってくる「密度の濃い」写真だ。
 フランスの至宝にして映画界の帝王(ドロン)と、英国ロック界の反逆児(ミック)。この異種格闘技戦のような顔合わせは、今では考えられないほど豪華なクロスオーバーである。
 ドロンがマリアンヌを口説きにかかっているようにも、ミックがそれをどこか冷めた(あるいは挑発的な)目で見ているようにも見える。あの張り詰めた関係性が、そのまま映画のワンシーンのようだ。

 二人の巨星を従えているようでもあり、二人の間で揺れているようでもある。彼女が「ただの可愛い女の子」ではなく、男たちを狂わせる**「質の悪いミューズ」**であることを雄弁に物語っている。

 ひっくり返して見てみると、マリアンヌ・フェイスフルは、むしろ「被害者寄り」のイメージが強い。ミックとの関係でドラッグにハマり、Redlandsの麻薬捜査で裸に毛皮一枚で有名になったり、ストーンズの曲(Sister Morphineとか)に影響を与えたりしたけど、バンドの他のメンバーを積極的に「食い散らかした」感じはない。ブライアンやキースとの一夜や短い関係はあったみたいだけど、全体として「ミックの恋人として巻き込まれた華やかな犠牲者」みたいな立ち位置。後年は歌手として独自のキャリアを築いてるし、たちが悪いというより「60年代ロックの犠牲者像」の象徴だと思う。

 もっと言うならば、結局、この三人を並べると「バンドの結束を乱す女」として語られがちだが、背景にあるのは男たちの弱さやバンドの内側にある脆さの方が多い。ナンシーは破壊の触媒、ヨーコは異文化・異芸術の衝突、マリアンヌは時代の犠牲。誰が一番悪いかで言うと、状況と毒の強さでナンシーがトップに来やすいけど、全部「ロックのロマンスの暗部」を体現してる点で甲乙つけがたい。


 ふと、思ったのだ。不倫相手に会いに行くのに、どうして、革つなぎでハーレーだったんだ? そんな派手な乗り物じゃなくて、もっとこう・・・。
 あいびきが主目的で、ハーレーは手段だと思い込んでいないか? そうじゃない、あいびきは口実で、ハーレーこそが主目的だったんじゃないか? と。そこに、どんな自由奔放な振舞いをしても、男在りき、男に振り回されることへのアンチテーゼがあったんじゃないか?

 60年代後半から80年台初めのロックカルチャーを眺めていると、女たちはどうしても「誰かの女」として語られがちだ。
 マリアンヌ・フェイスフルはミックの影、ナンシー・スパンゲンはシドの破滅の触媒、ヨーコ・オノはジョンという天才を引きずりながら、ビートルズの他の男たちを苛立たせる異物。彼女たちは常に男の物語の脇役か、ときには敵役として位置づけられ、男から独立した「自分の時間」は、なかなか表舞台に上がらない。

 そんな文脈で「La Motocyclette」のレベッカを改めて思い返すと、妙に鮮やかに浮かび上がってくるものがある。
 表層だけを見れば、これは紛れもないエロティック・エスケープの物語だ。新婚の夫レイモンド・ヌルのベッドを抜け出し、元恋人ダニエルから贈られたハーレー・ダビッドソンに跨がり、黒い革のスーツ(下は裸)を着て、恋人の待つ街へと疾走する。エンジンの低い振動が太ももから腰へ、腹へ、胸へと伝わり、速度が上がるにつれて彼女の肉体は熱を帯び、目的地での抱擁を予感させる昂ぶりへと導かれる——

 多くの読者や観客は、ここに「男に抱かれるための準備運動」を見て取るだろう。
 しかし、本当にそうだろうか。 レベッカにとって、真に「自分のもの」だった瞬間は、果たしてダニエルの腕の中や、夫の無機質なベッドの上だったのか。それとも、むしろハーレーに跨がり、風を切り裂き、誰の視線も、誰の所有権も届かない道を独りで疾走している、あの時間こそが、彼女のほんの一瞬の自律的な時間ではなかったか。

 夫の家では彼女は「ヌル夫人」——文字通り「無」の妻だ。ダニエルの元へ着けば、再び「男に抱かれる存在」として、ときにサドマゾ的な服従の役割すら演じる。だが、走っている間だけは違う。エンジンの振動は彼女自身の意志でコントロールされ(アクセルを捻るのは彼女自身だ)、その快楽は外部の男に依存しない。黒い革に包まれ、下は裸という倒錯的な装いは、男の視線を誘うように見えて、実は走っている限り「見られる対象」から「走る主体」へと彼女を変える鎧でもある。革の内側で彼女の肌が直接機械と触れ合い、速度と振動が彼女を満たす。その時間は、60年代のカウンターカルチャーが女性に与えがちだった「男の自由に寄り添う自由」とは、少し違う種類のものだ。

 マリアンヌ・フェイスフルがこの役を演じたことは、皮肉であり象徴的でもある。彼女自身がストーンズの男たちの中で「ミックの女」として消費され、傷つきながらも、後年は自分の声を取り戻していったように、レベッカもまた、ハーレーという「贈り物」を、男の意図を超えた自分の道具に変えているのかもしれない。少なくとも、走っている間だけは、彼女は誰のミューズでも、誰の敵でもなく、ただ疾走する一個の肉体と機械の融合体だ。
 思い浮かぶのは、15年前の1953年、マーロン・ブランドが演じた『乱暴者』のJohnnyだ。あの黒いレザーに身を包み、Triumphを駆って町を荒らす反逆者。Johnnyの自由は派手で集団的で、男らしい——社会への「何でもだ」という無差別な喧嘩だ。 レベッカのハーレーは、それとは違う。 彼女は一人で走る。エンジンの振動はギャングの咆哮ではなく、自分の太ももと腰を直接満たす。黒革の内側で肌が機械と触れ合い、速度が彼女を包む。目的地は恋人の腕かもしれないが、走っている「今」だけは、誰の所有物でもなく、誰の視線にも縛られない。
 Johnnyが仲間と共有する反逆なら、レベッカが味わうのは、ほとんど孤独で自己完結的な、危うい自律だ。

 60年代のロックカルチャーが女性に与えた「自由」は、往々にして男の影の中でしか成立しなかった。マリアンヌ、ナンシー、ヨーコがそうだったように。
 彼女たちが男たちの物語の中でしか自由を許されなかった時代に、レベッカはその物語の外側へ、ほんの数分だけ抜け出していたのかもしれない。 


 もちろん、その「自由」の行き着く先が、苛烈なクラッシュと死であるというのが、この小説(および映画)の冷たいユーモアであり、60年代的なロマンチシズムへの静かな嘲りでもある。レベッカの自律は、ほんの短い疾走の間だけ許された、危うい幻影だったのかもしれない。 それでも、エンジンを吹かして走り出すあの瞬間に、彼女は——少なくとも一瞬だけ——「自分の時間」を生きていたのではないか。



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2026年4月27日月曜日

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小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 2

 


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ZN6
Kanata Katagiri
in “MF Ghost”
&
Lotus Europe Special
Yuya Fubuki
in “The Wolf on Circuit”
Hakone

ZN6 (MFゴースト)

 「MFゴースト」の連載が始まった時、箱根界隈が火山性の有毒ガスで人が住めなくたった所を、クローズドコースとしてレースイベントに供されるなんて言う、何たる設定!と思ったが、同時に、今時そう言う事にでもしなければ、公道をクルマが飛ばすという表現なんてできないんだろうな、瞬時に理解できた。

 しげの秀一氏とヤングマガジンの編集者が企画をまとめるとき、下敷きに、「サーキットの狼」の「公道グランプリ」が念頭にあったとしても、即座にそんなの今の時代無理、となったに違いない。
 もう、あれは色々と今の時代ダメだ。

 暴走族、と言っても現在のそれと限りなく近似ではあるが、ニュアンスがどこか決定的に違うのだが、そういうグループが共同で主催していると言うレース。グループ間で諍いもあり、そこがどこか本宮ひろし的と言うか少年ジャンプ的と言うか、昭和40年代的と言うか。
 その中で、準主人公が率いるチームが「ナチス軍」ですよ。もうね、言葉を募る必要はなさそうだ。
 そういう連中が、昼の日中、一般人が生活しているような道路でレースしようと言うのだから、今考えれば、よくそんな漫画、天下の集英社の雑誌で連載できたものだ。

 「MFゴースト」の前作「イニシャルD」や、しげの秀一氏でいうなら「バリバリ伝説」だってそうだ。街中の一般人の間をすり抜けるようなものではない、夜の峠道でタイヤをアスファルトに擦り込むようなことも、もうコンプライアンス的にアウト。

 そんな中での苦肉の設定だったのだ、MFGというのは。


 正直な話をしよう。「MFゴースト」、既に連載は終了していて、同じ世界観の次の話に移行しているが、まぁ、それはそれとして楽しかった。でも、そうやって、コンプライアンスの問題を回避しても落とし穴があったのではないか?

 この3月の事だ。当地で、時速140~150キロ、ノーブレーキで赤信号の交差点に進入した馬鹿野郎の赤のシビックタイプRが親子ふたりを殺してしまったと言う事故があった。
 この馬鹿野郎が「MFゴースト」を読んでいたかどうかは分らない。まぁ、多分読んでたんだろうな。

 オレもフツーに男の子やってきたわけで、若いうちにイキった気持ちになることもわかる。オレの場合はかなりビビりだったので、そうそうアクセルを開けるということはほとんどなかったと思うのだが、そうであっても、若い時のそう言う感じは否定しきれない。

 否定しきれないが、そんな結果への想像力がなかったというのがやるせない。


 「イニシャルD」から「MFゴースト」までの作中で、尤もひどい事故は、池谷先輩のS13の事故だろうと思う。細かいクラッシュは他にもあったし、MFD中に高価格スーパーカーのクラッシュもあったが、池谷先輩以上に人身に関る事故と言うものはなかった。

 しげの作品で言えば「バリバリ伝説」で聖秀吉が事故死している。事故死はしているが、加害者になってしまう、という状況、しげの作品にも、池沢作品にも、他数多ある、クルマや単車がテーマの作品にも出てくることはない。エンターテイメントでは限界がある。そうなってしまうと、個々の車種とか、そう言ったことへの偏愛も全部吹っ飛んでしまうので、無理はない、と言ってしまっては無理はない。

 ただ、漫画、映画をみて、そう言うものに熱を持ったものに、誰かがそう言う事を言ってやらなければいけないのか?


 結果だ。当局や社会によってとりあげられてしまう、すっかり熱が死んでしまう、か、無責任、無知、無自覚にアクセルを開けるか、どちらかしかなくなり、中間、というか、自らを厳しく律しながらもそう言うものが止められないし止めない、という選択肢が見えなくなってしまう。

 作家や、出版社、映画外車などの権利者は商売だから、過度にそこに注力することもできないし、物語の作りを考えたら、クルマや単車への偏愛は真っ先にはじき出されて別の物語になってしまう。
 受け手は受け手で、気持ちいいもの盛り上がれるものしか選ばない。

 やがてこの分野、萎んでいく未来しか想像できない。だが、想像力が再び燃料になる可能性も、ゼロではない。 見たくないものもにも目が行く、想像力が働く社会になればいいんだがな。


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2026年4月26日日曜日

小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 1 Lotus Europe Special


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 箱根、小田原、真鶴、熱海界隈で、馬力に劣るクルマで主人公が、ハイパワーのクルマ追い回すなんていうのは、まるっきり「サーキットの狼」の「公道グランプリ」だよね、と、「MFゴースト」を観て思ったりする。そう思っている人は少なくはないとは思うのだが、それを指摘する声と言うのは、ネットでは確認する限りごく少数だ。関連付けて詳述するページとなると尚更。結構面白いネタだとは思うが、理屈っぽくなってダメなのかな。

 思い立ち、「公道グランプリ」と「MFG」全五戦、地図に落としてみた。態々GoogleMapじゃなくて、国土地理院の地図にね。自力で。地図をつないでまでして。



 AIで、こういうの、パッと作ってくれるもの探したんだが、見つからず。もっとよく探して課金すれば出来たのかもしれないが、自分でやった方が手っ取り早いと思った。あと、こんな感じの作図するときは、GoogleMapより地理院の地図の方が好きなのよ。

 閑話休題。

 しげの秀一氏が編集者と、「イニシャルD」後の連載の検討を行った時に、かつて70年代、集英社の少年ジャンプで連載されていたものを、21世紀に講談社のヤングマガジンでリブートしよう、と言う考えに至ったのかもしれぬ。

 コースを見ると、MFGでは芦ノ湖より西はカバーしていない。ひょっとしたら構想時にはあったかもしれないが、だらだら御殿場市内一直線に走ってもしょうがないしな、と言うことがあったのかもしれない。

9134 S2000 _1 retake

 

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9131 田中みな実 _15

 

9131 田中みな実 _15

2026年4月24日金曜日

日産の迷走

 

9130 N13 Pulsar 1.8GTi

1986年にモデルチェンジで登場したN13パルサー。かっちり整理されたエッジが効いたデザインが結構好きだった。GTi-Rが設定されたのは、これの一個後のモデルだ。 実際、ゴルフのGTi、プジョー204、カローラFX、ワンダー、グランド、スポーツシビック、ファミリアスポルトにタメ張って、何なら充分勝てそうな感じだったのに、売り方が中途半端で、埋もれてしまった。 これに妄想で、プジョー306maxiのエアロかましてみました、と言う画像です。 これやってたら、スカイラインやZ、シルビア並みに語り草のJDMになり得たのになぁ。なんで、それだけポテンシャルがあったものを、どぶに捨てるような扱いをやったんだ、日産は? という話題。 日産には、代々、変な挙動がある。割り切った潔いコンセプト、牙を研いだようなコンセプトで当たったと思ったら、次のモデルチェンジで牙を抜く。で、売れなくなる。すると慌てて牙をとってつける。その最たるものがスカイライン。 C110にラインナップされていたGT-R。高価なDOHCが搭載されていたが、これはまぁ、オイルショックなんかもあったら仕方ない。C210では、結局DOHC搭載モデルは現れず、他にいろいろ負け前だったので、しょうがないからターボ付けてみました。燃費が云々って何か頓珍漢な言い訳しつつ。でも、C210はまだいいのです。販売台数は、その後も含め一番売れたのだから。 トヨタに「DOHCついてないのにGTなんて言ってんじゃねぇよ」と煽られ出たのがR30のRS。結構伝説になりました。 で、その次が「都市工学」とか言って牙抜かれたR31の前期型。売れなかったようです。慌てて出した2ドアのGTS。何とか面目を保つが・・・。 R32で走りに振って、R33で狭いからと薄らデカくして評判落とし、R34で元に戻し・・・ V35以降迷走はさらにひどくなり、V37で400Rを出して、何とか面目を保ってて・・・。 傍目にはそう言う風に見えるのだが、内部的に市場調査などの資料ではどうなってたんだろうねぇ? シルビアもそうだったし、SUVではあるがX-trailも初代のなんと潔いコンセプト。ツール感がカッコよかったのに、なんか変に大型化高級化しちゃって。 傍目には、日産はコアなブランドファンを、まず最初に斬り落としに来るイメージがある。まぁ、ファンだからと言って、一人で10台買ってくれるわけでもないからねぇ。それは仕方ないのか。圧倒的に売れているわけでないのなら、そんな判断もしてしまうのか。 代々日産の経営陣は2派に分かれていて、現場のイケイケ派と、通産省→経産省への忖度派、とのことだ。 現在は資本的に何の関連はないが、かつて日産自動車は、国策企業グループ日産の一角だった。そのころから、お上の顔色をうかがうのが国内のメーカーで一番得意だったのだそうな。 若い奴が、速いクルマに乗ってドヤ顔しているのを、官僚はひどく嫌うようだ。それを忖度しての、こんな挙動。 まぁ、結局、首が回らなくなった大きな原因の一つになったのは間違いないと思うがね。 もう、ね、ネットでも、今後の日産に期待する声も聞かれなくなった。どうなるんかね?


9127 Jay Springsteen _2

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