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法華宗系、特に創価学会、顕正会、何が気に入らないか整理しておく。
何が何でも折伏するという頑なさ。それぞれの心の問題に対して、何ともも物々しい。大きなお世話っすわ。そのために、言い負けることは死と同等と思っているのか、相手をいかに汚い言葉を使って罵倒することも厭わない。それって宗教家のすることか?
もともと相手を言い負かして、というところはあったが、日蓮が教義を弘通する過程で受けた酷い弾圧に対して、というところで身につけてしまった宗門としての体質、形質のように、只今の所色々調べている過程であるが、そう感じている。それが身内にも向かって、とにかく自分と意見が違う奴が気に入らない、日蓮入滅後、いきなり高弟同士で分裂しているというのだから、何をかいわんや、である。
宗教の態を取りながら、個々の心の機微よりも政治の方に力点を置こうとするのってどうなの? 戦前の軍国教育の如く、画一的に一方向に人々を教化するっていう考え方。そりゃぁ、立派な人間になるのも大切だが、それによって引き起こされた陥穽が随分見受けられるようになった今、悪いのは本当にブサヨ的なものの所為だけなのか? 個々の心を置き去りにしてきてはいないのか?
よりよき人になることを目指していく事も生きていく上でも社会でも必要であるが、ただ、宗教にはそういう事は求めていない。そんな宗教を名乗るなにかは要らないのである。
ただ、なぜ、他人のことは言い負かせて屈服させないと気が済まないという風になってしまったか、という点について、これは逆に今日的問題であるとも思う。ネット民に割とそういうのが多い。何しろうっぷんが溜まる現代社会だから、では済まない、そういう気質を獲得してしまうプロセスがあるはずで、そういえば、創価学会、顕正会らが嫌う共産党あたりとの類似性相似性について書いたが、それよりも、リアルに殺し合いにこそなっていないけれど、全学連→日本赤軍のセクト同士の内ゲバにも似ているかもしれない。本当に問題にしなきゃいけない相手よりも内輪の気に入らない奴に強烈な敵意が向いてしまう、宗教を名乗っているというのに、この救いようのなさ。そういうのは、今現在であっても、法華宗系内だけじゃなくても、そこかしこで見受けられる。これぞ問題にするべき、人間、人間社会の性質であると思うのだが、どうだろう?
妙法蓮華経=法華経、これがすべてで、後の教義めいた理論は要らない、法華宗としてはそれだけでいいと思うのだが、それにしても、日蓮は何をどうして、妙法蓮華経と他の経文との折衷を末法であるとしたのだろう? そして、他の経文を排斥しようとしたのだろう? まぁ、オレはお題目唱えて心地よいとは感じるものの、意味までは分からない。これ以外は必要ない、捨ててしまえとも思わない。まずは、そのあたりから調べて知ろうと思う。
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