2014年7月20日日曜日

3584 Guy Martin_8


3584 Guy Martin_8

Guy Martin
on SC59
The TT 2010


モータースポーツと死生観 2

 実際のところ、You Tubeを観ていても、マン島TTレースなどの公道イベントの扱いはというと、イロモノ、といっちゃ失礼だけれど、飛んだり跳ねたりのX-ゲームと同じようなもの、らしい。まぁ、関係者にしたら冗談じゃない、という話にはなるだろう。1907年以来のものであるから一世紀以上の歴史があるのだ。その辺の、思いつきで始めたやんちゃ小僧の遊戯とは違うのだと。
 昔はそれでもよかったのだろう。自転車に原動機がついた程度の乗り物でスピードもそんなに出てはいなかった。しかし、時代も進み、ちょっと洒落にならないスピードが出るようになって、しかし、コースは昔ながら、石壁を掠めていくような、セーフティーマージンがまるでない公道コース。言ってみれば、この辺の農家の裏口の前を通る1.5車線ぐらいの、辛うじて舗装はしてあるような、そんな道を時速300キロで走り抜けるのである。

 文字にすればするほど、それが如何に馬鹿げたことであるか、という風に思えてくる。ひょっとしたら、文字、言語、論理というのは、それ自体、死を回避するような作用を持っているのかもしれない。感情として、それを肯定したくても、言葉にすればするほど、そこから離れていくような。

 それはともかく、クローズドのサーキットのようなグランドスタンドもあってないに等しく、裏ストレートあたりを映すような巨大モニターも、ないことはないのだろうが、あまり意味がない。それよりも、観客は思い思いのポイントで、間近に猛スピードで走り去るマシンとライダーたちを見る。いや、見る間もなく、それらは走り去っていくのであるが、少々驚いているようにも見えるが一様に笑顔の観客達は何を思っているのか?

 観客は何を求めているのか?

 一旦起きたら洒落にならない惨事になってしまう、そして、そんな起きてしまった悲劇を、ちょっと離れた場所から一定の嗜虐性を持って眺めているわけでは、多分、ない。しかし、起こりうる悲劇は確実に前提になっている。勿論、起きる必要はないし、起きてほしいと望んでいるわけは決してないが、自分達は、今、そのような可能性をも持った者を観戦しているのだ、ということは、きっとある。

 走るレーサー達は、なぜ走るのか? レーサーではないオレがコレについていくばくとも語ることは無益なような気はするが、ただ、時として、友人や同僚、場合によっては肉親の死を目の当たりにしても、だからこそ走ろうとする。よりアクセルを開けて前に進もうとするのは、もって生まれた、といっていいレベルの意志であり、そのような悲しみや、死そのものへの恐怖を乗り越えてまで、それを手放さない。

観客は、そういうものに何かを感じ、何かを得たいのだと思っているのだと思う。

(0017/7670)

0 件のコメント:

コメントを投稿