「責任ある積極財政」という言葉が覆い隠すもの
いま与党が掲げる「責任ある積極財政」という言葉には、決定的な曖昧さがある。
それはスローガンとしての曖昧さではなく、責任と積極性という概念そのものが、政策設計の中で空洞化しているという意味での曖昧さだ。
まず「責任」とは何か。
誰が、何について、どのような形で責任を負うのかが示されなければ、責任という言葉は成立しない。しかし現実には、政策が失敗した場合に内閣や政権がどのような不利益を引き受けるのかは明示されていない。一方で、物価上昇や社会保障の劣化、地域サービスの消失といった形で、調整コストは国民、とりわけ貧困層や移動困難な層に直接転嫁される構造になっている。
つまり「責任はある」が、「取る主体は政治ではない」という状態だ。
次に「積極」とは何か。
規模の大きさなのか、スピードなのか、対象分野なのか。どの指標で、どこまで達成すれば積極と評価されるのかが示されていない以上、この言葉は検証不能である。結果として「積極」という表現は、従来型の予算執行に「やっている感」を付与する修飾語に堕している。
ここで問題なのは、財政出動の是非ではない。
問題は設計思想が更新されていないことだ。
ケインズ的財政出動が想定していたのは、人口増加と高い消費性向、国内で完結する産業構造を前提とした社会である。しかし現在の日本は、人口減少・需要の回復不能・不安による消費抑制・グローバル化による漏出という、ほぼ正反対の条件に置かれている。同じ操作を繰り返して同じ結果を期待する方が非現実的だ。
その結果、財政出動は景気刺激ではなく、受注主体と制度を延命するための点滴として機能する。波及は元請から孫請け、給与支払いの段階で止まり、その先の生活圏には届かない。瀕死の層は平均値の中に埋没し、「回復」という言葉だけが残る。
では政府は何をすべきなのか。
もはや「成長させるための事業」ではなく、市場では不採算だが、社会の基礎代謝を維持するために不可欠な領域を引き受けることが政府事業の中心になるはずだ。地域インフラ、医療・教育の裾野、文化や技術の継承など、放置すれば不可逆に失われるものがそこに含まれる。
例えば、その延長として、市場で成立しない仕事を「みなし公務員」として直接雇用するという選択肢も論理的には成り立つ。しかし日本の制度では、ここに必ずブローカーや中間搾取が入り込み、目的が雇用や維持ではなく「配分」にすり替わる。政治が嫌うのは失敗ではなく制御不能であり、官僚制が耐えられないのは例外処理と現場判断だ。結果として、効かないと分かっているが管理しやすい財政出動が選ばれ続ける。
結局のところ、「責任ある積極財政」という言葉が示しているのは、責任を引き受ける主体を曖昧にしたまま、制度と組織を維持するという政治的選択である。
それは再生策ではない。管理された衰退を、見えにくく進めるための言語だ。
本当に問われるべきなのは、積極か否かではない。
誰が、どの形で、不可逆なコストを引き受けるのか。
その問いを正面から書かない限り、どんな財政論も現実から乖離し続ける。

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