ロッシの1996年の姿を見てみる。まぁ、単車に乗ってるところ。ロッシの、というわけではないが、この年、WGPも四輪のF1も、日本企業のスポンサーステッカーが、さっと消えた年であったと記憶している。少しばかり感じた寂寥感も。
折からのバブル崩壊、金融システムショックがあったり、前年、1995年には、阪神淡路大震災、オウム事件。日本全体が委縮してしまった年で、思えばあの感覚は晴れることなくずっと続いている。
そんな馬鹿な、とも思わなくもないが、多分それより前のバブルの時の全能感を知っているからだろう。頭では、これが案外普通かもよ、とわかっていても、どこかで、もっとましなあり様があるのではないか、と、ずっと思っていたりする。それは間違いだとわかっているので、なんとかその辺折り合いをつけるなんていう、無駄な努力なんてしてみたりもする。
それはそれとして、努力をしないわけではない。オレが、というわけじゃない、日本が、というところで、寧ろ相当もがいたような気がする。しかし、掛けた労力のうち、ちゃんとした推進力になったものは少なかった、という感覚。
それまで、バブル前夜まで、確としたレールがちゃんとあり、それに乗っかって瑕疵なくやる事やっていれば、形になった。本流にそれがあったから、レールから多少外れていても、引っ張られるように何とかなった。せいぜいその範囲で精進するのが努力と呼ばれるものだった。
もがくけれど、本当にこの方向が正しいのか、常に疑念が頭をよぎり、何処か力が入りきらない、そしてそのことへの焦り。
バブルもバブル崩壊も、もう遠い昔の出来事のはずなんだが、そこに流れる何かをいつも総括しきれない。1995年の出来事も、2001年9月11日のニューヨークの事も、2013年3月11日の事も。
すんません。1996年のヴァレンティーノ・ロッシの印象が、オレにはなかったため、1996年自体の事が膨らんでしまった。
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