しかし、淡々と、それでいて力強く周回を重ね、結果的に、このころの何年かは、GP以上に耐久レースのロスマンズカラーは無敵だったと記憶している。
うん、関係なかったな。
東上線上福岡駅近くに宿をとり、所沢多門通り沿いの会社の敷地を借りての作業、2週間、終わって帰宅後の一発目。この歳になって、客地での解放感から夜遊び、まして池袋にでてまで、などと、事前に考えないでもなかったが、実際には、昼間の業務に神経持ってかれて、そんな余裕もなく、宿でごろごろしていたのだが、その時のためにと持って行った、法華経に関する本、パラパラめくってはみた。読み進めるときは読み進めもしたが、割とそのたびにすぐに倦んでしまい、思ってたほど読めたわけではない。
法華経についての本を読むようになって、っていうか、その方面のこと、いろいろ勉強するようになって、急に聞くようになったのが「最勝」という言葉。いわく、法華経は「最勝」の経文であると。
PCの予測変換の中には入っていたのだから、別にこの方面だけの専門用語的なものでもないのだろうが、「最良」「最強」「最高」又は「最優」、「究極」でもよい。それら辺りをなぜ使わないのか? いや、もっともかどうかはともかくも、優れた経文であることは、唱えてみたら直感的にではあるが理解できるのだが、あくまで「勝ち」にこだわりますか。何なんでしょうね、これって?
「最良」「最強」「最高」ではなく、「最勝」としたのは、いつ頃誰からで、何故敢えてこの言い方なのか? その辺もこの後のテーマ。
しかし、「勝ち」「負け」というのは、対象があっての物で、絶対的なものではない相対的なものだ。そんなこと言えば「最も」なんていうのも、数多ある中で一番なんたらということなんだから、きりがないけれど、輪郭をはっきりさせる代わりに、何か価値を薄っぺらいものにしないか? というのが第一印象。「良」や「強」、「高」なら、幾分柔らかくはなっても、絶対感は強く、「勝ち」は、或る一定のフィールドにおいてのみ、というニュアンスが紛れ込まないか?
いや、逆に経文なんて言うのはそういうものだ、という謙虚さのあらわれなのか? そんなものよりも大切なことがこの世にはたくさんあると。
いやいや、ちょっとまてよ。え?え~? 実は経文の価値なんてそんなもの、というのは、確かに、巷の凡夫の皮膚感には近いけれど、え?え~? そしたら、その程度の物に、歴史のある時点ではリアルに殺傷沙汰になるくらい、正偽について議論、対立してきたわけ? うそでしょ~?
勝ち負けこそが、人生の価値を最終的に決める最重要なファクターだ、という価値観によるものか? って、それだと、法華経も、現代の薄っぺらな二流の自己啓発本やビジネス本程度の物になってしまう気がする。それともそんなことを言ってしまうオレのような了見自体を問題にしているんだろうか? オレにしたところで「2番じゃダメなんですか?!」なんて言ってしまうつもりはないが、しかし、その辺を宗教には急かされたくはないものだ。
とはいえ、実際のところ、原始仏教、どうやら釈尊が述べたかったことは、つまりは心をどう整えるかということで、ある意味方便として宇宙観みたいのは説いているが、呪術的なものは極力排除したかった、っぽい。さっと斜め読みした現段階の印象によると。かなり形而下の感情も問題にしていたのではないか? ある意味自己啓発本っぽいかも。儒教、道教も神仙思想に力の根源を持つらしいが、あれも、生きていく作法の話っぽいし。
ついでにいうなら、法華宗だけじゃなかった。開祖、教祖が入滅した後、後継者をめぐってとか、教義をめぐって分裂するなんて言うのは、ほぼどの宗教でも見られる。キリスト教もイスラム教も、仏教他宗派も。あいつには勝たなきゃいけない、なんていうのは、もう、偉大なご教祖様でもどうにもできない、人間の業なんだろうか?
などと。
ホント、この「最勝」という言葉、法華経関係の書籍等には度々出てきて、そのたびに違和感を感じている。敢えてこの言葉を使っている真意も知りたい。
昔、一時、陸自の二佐と交友したことがある。防衛大出、米国留学経験ももつ。自信家の俗物だった。世間的な常識は狭い。その二佐、一佐になった直後、収賄で逮捕された。そんなものなのだ。 https://t.co/V4tfIq05cS
— 青木 俊 新作「逃げる女」(小学館)発売中 (@AokiTonko) May 4, 2022
と、秀島裕展という名前に行き当たる。何しやがった、この秀島某という男? と思って調べると直接の容疑は銃刀法違反なのだが、ここで顕正会の名前が出てくる。秀島某は会員だったそうで。
続けて掘ってみると、出てくるわ出てくるわ、顕正会の問題行為。しかしだ、それを扱うどのサイトも、日蓮正宗や創価学会会員によるサイトらしく、事実なんだろうが、それを問題にしているのは、法華宗系の内輪もめ、内ゲバっぽいのである。おそらく、逆に正宗や創価学会の問題行為を題材にしたサイトでは顕正会会員が運営したものも出てくることだろう。 多分事実でないことはないにしろ、どちらのあちらに対する批判的記事も殊更大げさに書いてあるに違いない。
顕正会会員が起こした事件としては、平成21年の1月新潟でのものが調べた中では最新のものとなっている。FBIからは、オウム系は当然としても、法華宗系の中で創価学会と並んで危険カルト認定であるとかないとか。
勧誘の手口というのも目にした。思い当たることも多く、姫はなぜにオレに声をかけたのか? いろいろ可能性は考えたが、まぁ、甘っちょろいおっさんと思われたから、という可能性が高まった。寂しいが。
主張としては、国立戒壇の建立というのもあるのだが、まぁ、この点だけ創価学会がマシと思える点だが、創価学会が主権在民を主張するのに対し、顕正会は戦前の天皇主権を主張するらしい。まぁ、その部分、当事者たちの主張を直接読んだわけではない。
繰り返すが、何を信じ、法律に触れない限りは何を言っても結構なんだが、オレは与することはできない。心苦しいが 姫への退会の申し入れ、早くせねばなるまい。
しかし、となると、結局顕正会、正宗、創価学会と主張の多少の違いをお互いディスっているが、その実やってることは大同小異で、これは法華宗の根源的教義あたりに問題があるような気がしてしまう。実際、まだ読んでいる最中だし、この前買ってきた本以外にもいろいろ目を通しながら、という作業をボチボチとやっているが、御聖人様、どうも、宗教人としてそれはどうよ? というのを多々お見掛けしてしまう。
文字だけの曼荼羅。法華宗系はご本尊が仏”像”ではないらしく。「龍口の法難」という神秘イベントのあと、流罪となった佐渡で日蓮が作ったものなんだそうだが、文字だけ。「南無妙法蓮華経」という文字列の直下に自身の名前、左右に関係する神仏などの名前を廃したものなんだそうで。・・・絵心、残念ながらなかったんかな? 御聖人様のお気持ちはわからないが、これが後世、法華宗→日蓮宗を、なんかガサツなものにしてしまったことはないか? 絵なんて、仏絵なんて余計なものはいらん! とかなって、延いては人の細やかな日常の機微みたいなものに無頓着な宗教になってしまったことはないか? たかが絵ではあるが、それをめでるちょっとした心って大事だよ。でも、それはここでは大したことじゃない。
神秘イベントの取り扱い。うまくいけば、私が正しいから起きた奇跡、という。世の中がうまくいかないのは、私の言葉を受け入れないから、というスタンス。これについて思うことは大体書いたが、勘違いか、特に顕正会には、御聖人様、自身を釈尊の生まれ変わりと自称したとか言ってなかったかな? 或いは妙法蓮華経そのものであるとか。大川隆法と同じこと言うとるやん。釈尊とかキリストとかの生まれ変わりと僭称する奴って多いのだが、他とは違う、これは真実であるという根拠が大体こういった神秘イベントなんだが、真実であるかどうか検証するすべもなく、一方で社会の不具合は、不信心という要素がなくても説明可能なものがほぼ100%であり、その不信心自体、それぞれが自分たちの教義以外をすべて不信心と括ってしまっているのだから、どれか一つを取って妥当、正当とする根拠はまるでない。
いや神秘イベントが真正のものであるならば、素直に処刑されるべきだっただろう。菅公のようにこの世に祟るか、キリストのように復活してもいい。「龍口の法難」のような、一方からは奇跡と言われるが、客観的には何が起きたかあいまいで検証不能な、如何にも中途半端な神秘イベントというのは、日蓮の大きな根拠となりはしても、法華宗→日蓮宗の広がりを”その程度”のものにしてしまっている。凡夫のオレはそんなものはあるわけがないと思っているが、本当にあることなのらば、もっとはっきりわかり後世信者ないものにも語り草になるものにするべきだったな。
また、現在のラノベよろしく、釈尊や経文の生まれ変わりであるというなら、上記の如くよほど強力で明らかな法力をいつでも示すことができるのではないのであれば、寧ろ自称はしないだろう、伝えられる通り叡智の集積であるというなら。別の、史実になかったより効果的なやり方で教義の拡大浸透、弘通を行ったはずだ。なんか御聖人様、オレ様がぁ!が強すぎたのか、そこら中にかみつきすぎだ。それこそ人の心の機微に疎かったのか、それではk教義は広まらない。
社会全体なんて大風呂敷広げすぎだが、個々の信心、信心が足りていないから不幸が起こるとか信心しなかったから地獄に堕ちるのだという脅迫めいたものというのは、どの宗教でもありがちだが、例えばニーチェの「神は死んだ」というのは、彼が無神論者だったことを示すものではなく、寧ろ熱心なキリスト者だったところに、何を指してそう判断するか、信仰の強弱で救われたり救われなかったり、というのが、ルサンチマンの増幅につながっていることへの批判をこめたものだったわけだが、画一的な何かを求めてくる宗教を自称するものを宗教と呼んでいいものかどうか?
三派はじめ、その辺法華宗系の人たちに訊いてみたいものだが、ダイバシティ、宗教や民族、人種などの多様性を受け入れるという、今日の流れについていかが思うか、というところ。それはそれ、というのであれば、どうか、オレを会員にするのは諦めて欲しいのだが、さて、御聖人が鎌倉期、それを言わなければいけない必然はあったのだろうが、それは今日的に妥当なんだろうか? 教義のアップデイトを簡単にできないのは、その時代、正に今現代、それぞれの教団、団体の上層部の地位保全とルサンチマンと他人に対してマウントとりたいという意志の拗れた形での充足以外に、意義が思いつかないが、まぁ、オレはあくまで門外漢で通すつもりなので、正確なことは知らない。
あ、あと、身延って、「ゆるキャン△」で名前知ったけど、日蓮宗の聖地なんだな。
FBIからカルト認定されようが、他の2派から批判されようが、実際のところ、そうそう問題活動が頻発しているわけではなく、会の体質として潜在的にそういうものがあることは否定できなくとも、個別の事象は会員の突出によるもののようであるし、表面上今現在、穏やかな団体と言ってもいいような気はする。オレはとても会員として活動することはできないが、信じることができる人はどうぞ。オウムのような差し迫った危険さがあるわけではなく、従って姫を力づくで連れ戻す、なんていうこともするつもりもない。これも繰り返す。姫は顕正会に救われた。そういうポジティブな部分もちゃんとある。信じるというのであればそれまで阻む理由も全くない。
ただ、会社で、姫に以降、やはり嫌われるような形になるんだろうなぁ。非常に残念。つか、少し悲しいかも。まぁ、すべてうまくいくことというのも、この世にはあまりない。会社の業務に支障が出るようではお互いに損するのだから、派手なことは仕掛けられないだろう。
会とは、「大人のケンカ」の準備はしておこうと思う。消費者センターには早い時期に相談しているし、知り合いの弁護士にも、宗教、消費者問題が得意な同業者(弁護士)はいないかと、今回の事は何となくほのめかしてはいる。
今回の折伏は残念でした。しかし、オレはこのように面倒くさい奴なんです。どうか、すんなりリリースしてくださいますよう。
オレが大学生の時、”インターナショナリズム”でも、のちによく使われるようになった”グローバリズム”でもない、”コスモポリタニズム”、”トランスナショナリズム”なんて言う言葉、特に後者は一瞬だが聞かれたことがあった。概念としては、個-国ではなく、個-世界という対峙の仕方であり、縦方向の構造を持ったそれぞれの国がつながるのがインターナショナル、国の縦割りではない、球的なとでも言おうか、縦横方向に広がりがあるものが幅を利かせる、グローバリズム、一つ一つの個、その集積がコスモポリタニズム、それら点が横方向につながりを持つのがトランスナショナリズム。同じような領域の似たようで、全く意味の違う言葉達だが、実際機能しているのは、インターナショナリズムとグローバリズム、それぞれの領域を主張する国という概念と多国籍企業や国際テロ集団、というのが現実のようだ。コスモポリタニズムやトランスナショナリズムは、儚い理想として消えつつある。
これら、1980年代後半のことであったが、その頃、書く?バブルの絶頂期だったっていう枕詞? まぁ、日本全体鷹揚になってはいたころで、その中で居住して納税もしている外国人に参政権を、という声が出始めたと記憶している。税の公平公正さからすれば尤もだとは思った。それによって不利益を被る、第二次世界大戦あたりで不当な利益をため込んだりなぁなと何となくその時しでかしたことに対しての相応のペナルティーを逃れてきて、そうなったら財産を没収されたり罰せられたりする可能性がある、今でいう上級国民とそれに準ずる立場の人物やその係累あたりが強硬に反対していたような印象がある。
その後、そういう層がアメリカにお目こぼしと口止め料をいただく代わりに、国の財貨がかの国に簒奪、流出するのに何の手を打たなくなるようになって(日米経済対話と呼ばれる明治初期の不平等条約の復活)、只今も日本は絶賛衰退中なのであり、
以上の事は、オレの憶測と印象だけで言っていることで、妥当とはされていないことなのだが、アメリカにのみならず近隣諸国によっても富の簒奪が現実的なものになってしまってからは、外国人参政権? とんでもない!!というのは尤もな話になってしまった。
しかし、例えばドナルド・トランプのアメリカ大統領当選あたりにはじまり、後任のジョセフ・バイデンもそうだし、その後の習近平やここに来てのウラジミール・プーチンの所業を見るに、かくも、我々の生活に影響し脅かす外国の首長に対し、制度として、われわれは何御意思表示もできないというのは、どういうことなのだろう? という理不尽を感じるに及び、外国人に選挙権を与える代わりに外国の政体に対しても、何らかの選挙権かそれに準じるものを要求するべきではないか、と、ふと考えた。
古代ギリシャに始まり、歴史が進むに従い、物理的に不可能ということで直接制が代表制に替わった民主主義とよばれるものだが、ここに来てのコンピュータ技術の発展によって、いっそ直接制に回帰することも可能なのではないか? とも思う。しかも世界中に起こる事象に対してだ。
まぁ、ならないだろうな。現在政治家と呼ばれる職業にいる人がその主義主張に関らずそれを脅かされるわけであるから、それを認めるはずもなく、実現に何百年かかるか、それとも全世界の人が何割という単位で死ぬような大きな災厄でもない限り実現はしないだろう。
しかし、誰か、酔狂にでも、コンピュータネットワークを使った、全世界を一つとする直接民主主義のというもののシミュレーション、やってみてくれないかな? そうすれば、逆に現状についても色々見えてないものが見えてくるような気がする。
けど、そこで問題になってくるのが、日本においては若年層を中心にした選挙投票率の低さ、その前提となる現状把握能力の低さ、限界だろう。如何に教育そして事象を周知させていくか、そもそもその事象をどのような形で把握するのか、問題になる。何しろ、捏造も簡単な今の世に何をもって真実とするかが、大問題なんだから。