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新しめの賃貸住宅の、小ざっぱりとした一室に設けられた祭壇に向かい、彼女の友達が前に座り読経を始める。彼女はオレのすぐ横に座ってオレが渡された経本のどこか迷ってるとそのたびごとにどこを友達が読んでいるのか教えてくれる。自分の娘ぐらいの女性に高校生の坊やみたいにドキドキしちゃって笑われてみるテスト。
読経自体嫌いではない。そして、なるほど妙法蓮華経、心地よくいいお経だった。前に座って経を読む彼女の友達の声質が変わったようにも思えた。トランス状態に近づいているか。ある意味ヤバいな、これ、とも、ちらっと思ってみたり。
さてそんなこんなで、経本と数珠(彼女の団体ではどういう言い方をするかはわからない。こういうこまごまとしたものの用語、宗派によって違うのだから、ホント面倒くさいよな、お前ら)を渡され、勤行のフォーマットも教えられ、まずは素直にそれに従ってみることにした。反論、批評するにも材料が少なすぎることもあったし。
で、勤行自体は非常に良いものであるとは感じた。さすがは、挫折に打ちひしがれていたであろう彼女を救ったものの事だけはある。
しかし、だ、そういう美点を帳消しにするぐらい、彼女に渡された機関紙、ネットの上位者による講話がお粗末で閉口した。あ、オレはこの団体とは相いれない、と思ってしまうぐらいに。
何点か書きだす。
上位者の講話。信者獲得、引き留めのためもあるのだろう、まぁ、一般通念ではありえないような日蓮大聖人様の起こした奇跡の数々を検証不可能な形で並べて押し付けられても、オレはそこで扱いに困りフリーズしてしまう。正直、そういうのを信じられない以上に、そういう話の押し付け方に拒否感を強く覚える。前にも書いた。彼女を救った、このことだけで充分奇跡的なのだ。そういう心を大切にする感じがちっともしない。なんか妙法蓮華経の良さがなければどうしようもないすぐに吹っ飛んでしまうぐらいに不味い。
ここで、彼女の団体の名前を書かざるをえまい。以下を読めばわかる人にはわかるだろうから。富士大石寺顕正会という名前である。戦後の新宗教というものに分類されるらしい。彼らの目指すところというのは国立戒壇の建立なんだそうで。つまり、妙法蓮華経の国教化である。あ~、一応は法学部政治学科にいたやつに言うことじゃないよな、と、思ったり。
政教分離というが、さて、宗教人が宗教から得たインスピレーションのようなものを政治の場で主張するのはアリだろうが、実際に政治や制度に宗教のエッセンスが入り込むことはあってはならないと思っている。
どうも、法華宗系というのは政治的であろうことを隠そうとはしない。その極が創価学会であるが、一家して学会員のところの従弟に上のようなことを申し上げたら猛烈に反論されたことがある。何を言われてるのかちょっとわかんなかったけど。まぁ、彼が熱心な信者だということは分かった。
政治というのは、一面マウントの取り合いである。その為であろう。法華宗系というのは、他の宗派に比して、分派が非常に多い印象がある。宗派内で、あいつの言うことは間違っている、あいつの言うことが気に入らない、あいつが気に入らない、というのが多宗派より多いのだろう。浄土真宗なども戦国時代はそんな感じだったそうだし、宗派同士の物理的な争いも珍しくなかったが、しかし今や真宗の方はお互い見て見ぬふりなのかどうか、穏やかなものだ。
だから宗教は力をなくすのだ、と、法華経のひとはいうのだ。あ、従弟もそんなこと言ってかもしれない。だから宗教が世を救えないのだと。いや、政治的になる事だけが世を救う道じゃないだろ、と。精神医学、社会学その他の蓄積された知見も使い、それぞれの心について、どうしてもっと具体的な処方を示さない?
政治的であるあまり、地方にある組織を、「隊」などと称する。いやいやいや、宗教も軍隊もなすべきこと、意義がある事だけれど、受け持ちするところは全く違うところはずだろ、と強く思う。正直、気味が悪い。
さて、顕正会は最初妙信講と言っていたそうであるが、宗教施設に関し、当時は同じく日蓮正宗内にあった創価学会を激しく対立したそうであるが、そこからしてなんかもう。箱モノにこだわるところが如何にも政治的であろうとする法華宗的であるが、宗教とはそういうものじゃないだろうと。先に妙信講が正宗を破門になったそうであるが、創価学会も割とすぐ、あまりに金に汚いということで同じく破門になっている、そうだ。してみれば、妙信講側、即ち顕正会側が、自分たちが法華経自体により真摯に向かっているし、それが高じて、自分たちを唯一真の仏弟子と称するようになったのも想像できる。
破門されたときは、まじめに、一所懸命活動していた人たち、悲しかっただろう、悔しかっただろう、寂しかっただろう。
しかし、今となっては、本当のところ日蓮が何を思っていたか分からないし、更に仏陀、ゴーダマ・シッタルダが何を考えていたのか、日蓮が本当にそれに即していたかなどということを誰も検証はできない。検証できないことを押し付けられても、それが気になって、とても信心にはつながらない。
過剰に政治的であることを自身の組織の構造的問題と捉え、法華宗内で提起し活動しようとしても、またしても新しい分派ができるだけの事なのだろうな、と思う。本当に経文自体はいいのに、残念なことである。
で、そのような経緯もあるのだろうが、他宗派、他宗教を邪教と言ってはばからないし、池田大作に至っては蛇蝎認定である。宗教家にしては結構汚い言葉でののしっている。それが一番拒否感を感じてしまうことろ。まぁ、池田大作のあの淀んだ様がよくわからなくとも良からぬものであることは大いに同意できるところであるが。
ルサンチマンから自由になるというのも宗教にとって大きなテーマであり、そのルサンチマンの質もひとぞれぞれで、それに従いそれぞれの処方が必要となる。人をののしる事でオレのルサンチマンは晴れるのか? とてもそうは思えない。
というようなところで、オレが顕正会の会員として活動していくことはムリ、なのだ。あ~、彼女には恨まれるかもな~。ちょっと辛い。が、まぁ、まずは経本と数珠(繰り返すが会の中での正式な言い方を知らない)、返却、どうやってやろ?
ここで顕正会の名誉のため、というか、ネットで検索した限り、創価学会や他の怪しげな新興宗教と違い、金などが絡んだなどのトラブルは、ごくまれに突出した個々の会員を除き、ほとんどないようだ。そういう意味では、もし、彼らと考えが合うというというなら信者になってみるのもよかろう。オレはムリだがな。
何よりも、繰り返す、彼女を救ったのだ。これは大きい。