2021年12月31日金曜日

7280 Jean Alesi_3

 

7280 Jean Alesi_3

Jean Alesi
Tyrrell 018 Ford
Jerez 1989

「男はつらいよ」に関し 4

 劇中に出てくる単車はネタ切れで、クルマに関してもこれはというものがなく、及川泉ちゃんを演じる後藤久美子氏のリアルのパートナー、ジャン・アレジ氏を描いてみることにした。
 ジャン・アレジ氏というと、息子のレース資金の捻出のため、時価1億円ぐらいするんじゃないかと言われるF40を売却したりとか、最近では実弟のビジネス上のトラブルから起こした爆竹騒ぎでおとがめを受けたりとかというニュースを訊いたりする。ファミリー思いなのは良いが、爆竹騒ぎ、後藤久美子氏が、寅さんが問題を起こしたのを聞いたさくらさんのような表情をしていたのかもしれないと思うと、不謹慎だが笑ってしまった。

 さて、今、男をつらいよ、というタイトルで新作もなかなか作れないだろうと思う、理由の一つに、そのタイトル自体があったりする。矢野顕子氏の「ラーメン食べたい」の歌詞の中で
「男もつらいけれど、女もつらいのよ」
というのがあるが、言ってみても、寅さんシリーズの中の「つらさ」とは、せいぜい女性に振られるつらさであり、寅さん自身、その気になれば、リリーさんというたいそういい女といつでも所帯を持てる状態だった。今現在、男と女、どっちが辛い? 「つらい」じゃなくて「辛い」となり、呑気な惚れた腫れたの次元で語られる話でもなくなってきている。
 女性の社会的不利を辛いとする声が大きい一方で、男性の辛さも寅さんのつらさとは質を変えてしまっている。

 また一個前の投稿の、ウェイン・レイニーもそうだし、日本人なら青木琢磨氏がそうだ。今年亡くなったフランク・ウィリアム氏もそうだが、事故で負ってしまったハンディキャップを持つ方々、事故どころか生来のものもあったりとか。そういう人たちの辛さと比較して「つらい」とか言うのが妥当なのか?
 コロナなどの社会不安で、生き辛い人は?とかね。

 いや、パートナー、恋人を見つけられない辛さはあるさ。しかし、現実にはその辛さは複合的だし、思いつめれば簡単に殺人事件まで発展したりする。寅さん、性格上、もう少しでうまくいく時に限ってなんか逃げてしまうこともある。そんな奴が「つらい」なんて言うな、と言われないためには、これまでのシリーズと違う作りにしていくことも考えなくてはいけないのではないか?

 今までとは急速に姿、質を変えるか、そもそも消滅しつつある「男性」性というものをもう一度吟味してみる必要がある。敢えて「男はつらいよ」というならば、今広がりつつある声に抗していくだけの力がしかもないと。


7279 Wayne Rainey_7

 

7279 Wayne Rainey_7

Wayne Rainey
OWA8
Bugatti Circuit 1989

「男はつらいよ」に関し 3

 満男の愛車として劇中登場したのは、スパーダとGPz400Rの2台では、このウェイン・レイニーのYZRは何かというと、第46作目、「寅次郎の縁談」中、就職活動中、なかなか内定が取れなくてヤサグレてた満男の部屋に貼ってあったのが、ラッキーストライクカラーのYZRに乗って、この画像はコーナーの立ち上がりだが、右コーナーのコーナーアペックス付近、今のコみたいに肘擦りこそしていないものの、フルバンクの姿勢のウェイン・レイニーのポスターだった、というわけだ。
 単に、無造作な舞台背景ではなく、満男のある面へのキャラ付けの意味合いがあることが決定的なんだと思った。
 白時に黒のヘルメットでラッキーストライクというと1989年のことだが、この映画の撮影は早くても1991年、公開が1992年なのだから、こういう映画の性格上公開に割と近い時期まで撮影していた可能性もある。
 無造作に選ぶとすれば、GPでもドゥーハンとか、同じレイニーでもマルボロカラーであるとか、シュワンツでもいい。いや、GPにこだわらなくても、セナ様のポスターの方が調達しやすかったのではないか? わざわざ、でなければ、貼ってあったのが89年のレイニーであることはないようにも思う。あと「HRC」とか「TERRA」っていうステッカーも貼ってあったりする。

 あ、でも、89年頃撮影した時のセットがそのまま残ってるという可能性もあるな、確認はしていないけれど。どうでもいいか。


 2019年の「おかえり寅さん」、あ、ネタバレ注意、なんて、今の今までよりによってこのオレが書くとは思っていなかった言葉を書いてみる。まぁ、大したことは書かないんだけど。満男クンはオレよりはほんの少しだけ若いんだけど、シリーズを通じて、善人たちが幸せ等なのが辛い、というのとは別に、オレと同じ種類のバカで観ているのが辛かったりする。だから、誰もいない、娘も視ていないところで伯父さん思い出してめそめそするの、オレもおなじことやっちゃったりするんだろうか? と思ったりもするが、同じ音のミツオがいっているとおり、「いいじゃない、人間だもの」なのかもしれず。

 山田洋次氏ではなく、庵野秀明氏を連れてきて「シン・男はつらいよ」でも作らない限り、いよいよ、シリーズこれが最後なんだろう。山田洋次氏の作風でこれから映画を作るのも難しいし、敢えて作風を変えてまでそれをすることを、ファンが許さないかもしれない。
 底に流れる精神はそのままに、それでも、「男はつらいよ」のリメイクなり続編なりを作っていくとしたらどうなるだろうと、妄想してみた。

 まず、満男クン、単車乗りに復帰しろ、と。娘の高校受験もあるだろうが、次作がおそらく露天商、即ちテキ屋に関することらしいので、つまりは伯父寅次郎氏がモデルなのは明白で、となれば寅さんがした通り、日本中を放浪するように旅しながらノマド小説家となるしかない。まぁ、次作の時には娘の高校受験もひと段落してそうだが、しかしむすめをひとりにするわけにもいかず、というところで、池脇千鶴氏が演ずるところの担当編集者が名乗りを上げて、住み込みで娘の世話をするようになる。「おかえり寅さん」劇中、ほのかに、満男クンとの仲が進展するかもしれない、という描写があるのだが、
「君の事は信頼しているし、君もボクの事をよく理解してくれてると思ってる。ある意味きみがいるから、小説家としてやっていけるんだけど、でも、だからと言って、結婚とは結び付かないんだ。結婚って何だろう?」
的な若い子が言いそうなセリフを、50を過ぎても満男クンは平気で言いそうではある。まぁ、かの編集氏、さくらおばあちゃん、博おじいちゃんをはじめ周りの人には、そのように認知されていく中で、
 満男クンの日本準で体験したエピソードが映画として綴られていくわけである。寅さんがそうであったように、ちょくちょく葛飾柴又には帰ってきたりするんだけど。あと、寅さんのような艶話とはちょっと違うエピソードな。
 さあ、富山県、そうなったら積極的にロケ、誘致し給え。


 「う~ん、なんて言うかな、ほら、”ああ、生まれてきてよかったな”って思うことが、何遍かあるじゃない、ね? そのために人間生きてんじゃないのか?」

 どのエピソードで寅さんが満男クンに言ったセリフか、ちょっとわからないが、回想として「おかえり寅さん」に出てくる場面である。オレなんかね、生きる意味に結構拘泥しすぎてしくじったと思ったりしているクチだが、若い奴にそんなこと質問されたら、オレならどう答えるだろう? 

2021年12月30日木曜日

7278 GPz400R_5

 

7278 GPz400R_5

「男はつらいよ」に関し 2

 第44作「寅次郎の告白」の最後の方、ちらっと出てくる満男君の愛車、シレッとした顔して、スパーダからGPz400Rに替わっておりました。流すところですが、あの鹿児島まで行ったいわば相棒、さらっと買い替えてしまったか、山田洋次さん、小道具スタッフが替えてしまったことにも頓着しなかったか、それとも、まぁ、それなりに時間も経ち、映画で語られないところで買い替えのドラマとも言えない何かがあったことにしたのか。まぁ、ホントどうでもいいですね。
 いや、どうでもよくないか。公開当時、「寅さん」なんて見なかった、単車乗りを中心にした満男と同世代が、今更「男はつらいよ」シリーズ見ることもあると思うんだが、多分、山田洋次氏的には、その当時のよくいる若者のキャラ付けするための小道具以上の意味はなかったように思うんだが、スパーダからGPz、ホンダからカワサキへの買い替えって、ないわけではないが、それなりの事はあったと思うし、単車に乗っていたという事実自体、満男のキャラクターメイキングにそれなりのポジションを占める事実であったと思われる。当時としては確かに特別、というほどの事ではなかったとは思うが、伯父に影響を受けた、という部分では効果的な小道具ではなかったと思われる。思い付き、思い込みで鹿児島まで行っちゃうところとかね。満男クン、例え泉ちゃんが絡んでいなくても、いろいろ経験したのかな、GPzに乗って、とか、想像してしまう。

 さて、寅さん、車寅次郎氏のことである。シリーズ通じてである。繰り返すが、何度もじっくり見たわけではないので見落としがあるのかもしれないが、テキ屋をやっていて、商材の仕入れの場面ってあったんだろうか? と思ったりするが、ちょっと思いつかない。商売として、あれは成り立っていたんだろうか?と。
 売り口上はほぼ超が付くくらいの一流だったとしよう。しかし、旅姿は、空色のダボシャツ、辛子色のジャケットを腕を通さずにはおるだけ、ソフト帽を外すことはめったになく、あとは古ぼけた革のトランク一つ。商材を持ち歩いているようには思えないし、高額で利益率の高いものを売っているようにも思えない。行く先々で伝手で商材を仕入れ、その場で売っていたということなんだろうか? あの世界の事は全くわからないが、なんかちょっとな、今じゃ絶対あり得ないし、寅さんが活躍した高度経済成長期末期からバブル期、平成の何年間かの間であっても、それだけでやって行けたとはとても思えないのだが、そこは蛇の道は蛇なのかな?
 あと性格。一応振られはするけれどもてないわけではない、なぜか気になるチャーミングな人物ということになっているが、殊現在、リアルであんな人が身近にいたら、ちょっと困る。
 そういう人物も受け入れられたおおらかな時代、といえばいいのかしら? でも、やはりスクリーンの中だけにしていただきたいんじゃないかしら?

 まぁ、寅さんは極端にしても、みんな優しく、弱いけれど強く、聖人でもないが悪人でもない。一所懸命生きている。悲しい顔をすることはあるけれど、暗い目はしない、そういう人たちの時代。ノスタルジーに浸るだけなんだろうか? オレの場合はNETFLIXで確認がてらみてるけれど、やがて物悲しくなる。

 

7277 VT250 Spada

7277 VT250 Spada

「男はつらいよ」に関し 1

 当地富山と、四国のどこかだったかが、遂に「男はつらいよ」のロケ地にならずに、渥美清氏の死去によりシリーズ終了を迎えてしまったため、富山県民的にはちょっとしたトラウマになってしまい、山田洋二監督の次のシリーズ「釣りバカ日誌」ではいち早くロケ誘致に動いたのだが、これも三国連太郎氏の死去でシリーズ終了。そこそこ人気はあったものの「男はつらいよ」ほどではなかったのではないか、と思われる。
 富山市岩瀬など、そのロケ誘致に熱心だったのだと聞き、49作目の制作に際し、山田氏渥美氏などは前向きだったが、松竹映画との交渉が不調だった、らしい。また、一説では、そこまで当地が後回しになったのは、渥美氏が結核など大病を患っていた若いころ、不義理をした女性が当地の女性だったから、当地が後回しになった、なんて話も聞いたことがあるが、それについては確認が取れない。まぁ、若いころの苦い思い出が人生に陰影を与えることもあるわけで。

 さて、画像の赤のVTスパーダ、車寅次郎氏の甥、吉岡秀隆氏演じる諏訪満男クンの最初の愛車で、今はジャン・アレジの奥さんが若いころ演じていた満男君の後輩の及川泉ちゃんが鹿児島でへこたれてるのを聞いて、葛飾柴又から鹿児島まで満男君がこれに乗って駆け付けるなど、大活躍だった。それと同型のバイクである。

 満男君の親父の弘さんは、寅次郎氏に助けられたのか邪魔されたのかよくわからないうちにさくらさんとくっつくことができたが、寅次郎氏と満男君は揃いも揃って女性に対しては不器用で、というのがこのシリーズの肝なんだが、寅次郎さんの移動にはほとんど窓が開く各駅停車の国鉄→JRに対し、特に若いころの満男君はこんなバイクに乗ってたりするのだが、いずれにしろ、基本が気ままな旅をする自由人の乗り物で、窓がはめ殺しの新幹線とか、ましてや飛行機なんてものは使っていた記憶がない。まぁ、全部をじっくり見たわけではないのだけれど。

 さて、あらゆる場面で、この話、現実の、特に今現在の日本では成立しないファンタジーであるというのは、説明要る?
 何百キロも離れた女の子に会いに行くのに、今の子、バイク走らせたりするんだろうか? コスパを考えて、今の子は恋しない、というが、それはお金の話ではなく、それだけの熱量を見せてしまうと、持ってしまうと、却って退かれてしまうというリスクを考えて、ならばと、そこまで入れ込んだりはあらかじめしない、ということなんだと思う。惹かれるだけならまだしも、そこまでやると、半ば犯罪者か精神異常者のような目でみられてしまうから。
 満男、即ち、我々の若いころはどうだったか? 女性との距離感を誤るとこれもまた大事故になってしまうのは今と同じで、オレも懲りずに何度も失敗しているが、まぁ、アリと言っちゃアリだったかな?

 そもそも、今の子でこういう単車に乗るのは、我々の頃よりもはるかに少数派で、時間感覚と距離感覚がマヒしたような単車での自由な旅なんて、ないとは言えないまでも更にかなり少数派なのではないだろうか? 若い子はお金もないしね。大人として大変申し訳ない。

 

7276 青山博一2 retake

 

7276 青山博一2 retake

Hiroshi Aoyama
Avintia Blusens FTR Kawasaki
Valenciana 2012

  金があるチームは速いし、まして威信がかかったワークスチームは金と技術があるからいうまでもなく、という極単純な真理において、では、それを持ちえないチームはどうするか、というと、とにかく金を集めるんだけど、それが閾値に達しなければ、参戦できないし、参戦したとしても下位に沈んでしまえば、テレビ中継に移ることもなく、結局スポンサーが去り、参戦継続が難しくなり撤退する。
 レース、殊、GPぐらいになると年間経費も相当なもので、いろいろ諸経費も然ることながら、まず速いバイク、だ。そしてそれのメンテナンス費用。それが用意できて初めて、報酬額も高いが速いライダーを乗せることができる。

 ならばせめて、トップは走れなくても上位を狙えて、いくらか安いバイクはないものかとなる。昔はTZ500、RGB、RS500なんてあったし、年式落ちのワークスマシンという手もあった。そのような趣旨で’90年代後半NSR500Vなんていうのもあった。
 2ストロークは部品点数も少なく、比較的ローコストで、特に昔は現場のメカニックのアイディアでワークスも凌ぐようなハイパワーを出したりする椿事も無くはなかった。雑と言えば雑、おおらかと言えばおおらか、と、言えないこともなかった。

 4ストローク1000ccに移行して部品点数は格段に増え、精密な組み上げも求められ、現場では手出しができない電子部品も高性能なものが求められ、当然コストも上がる中で、メーカーワークス、準ワークスのサテライトしか残っていないのが現状であるように思われるが、かつては、それでもそうならないように、と、市販公道用のスポーツバイクのエンジンをチューニングしてスペシャルフレームに積んだエントラントの参戦を認めていたである、GPは。

 でも、やはりというか、ワークスには歯が立たなかった、と。

 考えてみれば、これって昔のTTF1であるようにも思われるが、こういうマシンでのレースもあって面白いのではないかと、ふと思った。が、どうなるかね? メーカーはレースの負けが市販車の売り上げを下げるリスクを避け、レースでのガチのバトルを避ける傾向にある。さてさて。


7275 Walter Villa_3

 

7275 Walter Villa_3

Walter Villa
Aermacchi-Harley Davidson 250RR
1975


2021年12月28日火曜日

7270 Kork Ballington_6

 

7270 Kork Ballington_6

Kork Ballington
KR500 1982

 まさにこの個体かどうかは分からない。でも、確かタンクは無塗装アルミのものだったと思うので、この年このタイプのKR500を軽井沢のペンションの玄関先で見た。
 '80年代前半までカワサキGPチームを率いておられたケン鈴木氏のペンションを訪れたのは晩秋の、大学が学園祭をやっている時期で、カワサキに乗っていたオレには憧れではあったけれど、考えてみれば、これが走っていた時期は、ケニーが全盛、82年はフレディ・スペンサーはまだNSを得ていない、NRなんていう馬力はあるけれど重い単車で苦労していたそんな時期。ルッキネリとかウンティーニとかバリー・シーンとかもいた時期で、カワサキがチャンピオン争いに絡むことはついになかったのではないかと思うのだが、しかし、そういう文脈とは別に伝説みたいに語られる。変なの。
 まぁ、言ってしまえば「参加することに意義がある」なんだけど、参加できてしまえば半分以上やる事は終わった、なんてことはなく、結果的に上位を走れなくても、それでも、なんとか少しでも上に行こうとする、参加賞なら間に合ってる、というか、ちょっとどう言えばいいのかわからないな、あと、1,2シーズンカワサキが続けていたなら、例えば85年のフレディのWタイトルはなかったかもしれないし、その後の勢力図も変わっていたのかもしれない、それぐらいの熱はあった。

 風呂が少し寒かったな。温泉ではなく、外国の大きなたらいに足がついたような湯船で、まだ20代だったのに、オレは随分おっさん臭かったのか、ちょっと風呂には不満だったのを覚えている。
 その時期、客はオレ以外におらず、それを見越して奥様のおばさんたち、を呼んでいたようだった。で、鈴木氏もオレみたいな単車でやってくる若い奴に幾度となく同じ話をしたであろう、トーハツからイタリアのピアジオに移籍し、それからカワサキGPチームの監督になった話、あと、奥さんのおばさんだったか、とにかく世界中から養子縁組をして、そのなかのマリオ宮川氏の話とか。ジャン・アレジのエージェントもやったという人である。
 バイク雑誌で読むような話が語られる。は~とかへ~とか相槌うつしかない。

 でも、結果的によく眠れたし、あの一泊は良かった。それは良い。

 翌日、鈴木氏の勧めもあったし、それがなくても鬼押出の浅間記念館に向かうつもりだった。三笠教会の横から坂道をのぼり左に曲がったところで、舗装が切れて、少し轍もあった。転倒た。ブレーキペダルが折れ、フロントフォークが見た目に曲がった。身体は大丈夫だったと思う。が、目の前が真っ暗になった。
 浅間記念館に行くのは諦め、のろのろ、フロントの調子を見ながら引き返す。佐久の街道沿いのバイク屋で、バイク屋の兄ちゃんと二人がかりで、パイプかませて、フロントを少しだけ見た目はまっすぐに修正したが、勿論そんなものはあてにならない。そこで車載のスパナを針金でブレーキペダルの代わりに括り付け、またのろのろ走り出す。諏訪に抜ける山道で、雪まで舞ってくる。幸いつもりはしなかったが、もうそのころは思考が停止していて、諏訪湖畔に降りたころは雨になっていた。
 下道でと思っていたが、帰らなきゃいけなかったのが京都だからそれでは間に合わない。どこかでもう一泊なんていう金銭的余裕なんてこれぽちもない。伊那で中央道に乗った頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。

 悴む手で高速道路を単車で、しかもフロントは曲がってるし、なんて、思考を停止していても、やはり恐怖で、それでも、時速80キロは最低限キープして、名神に合流してから、何にもない羽島PAのトイレの前のタイルの上に、ついつい倒れ込むように寝転がってしまった。山の中を縫う中央道よりは少しは寒さが緩んだような気がしていた。
 いや、さすがにトイレの前でこれはまずいだろうと、体を起こし手目にしたのは、側溝の縁を上り下りするドブネズミだった。なんか呆けてみてしまった。

 「行くか」。精神的には疲れていたが、身体はそれほどでもないことにこの時気が付く。ドブネズミさんのおかげだ。途中、米原を過ぎたあたりで、ビカビカの赤い900ニンジャに容赦なくばひゅんと抜かれたりしつつ、21時には銀閣寺前の自分のアパートに戻っていたのだから、案外早い時間だったんだな、と今になって思う。中央道とか高速を走っていたあたりは、永遠に地獄が続くような感覚だったけど。

 で、酒食らって、気が緩んだところで、その後結構な期間後を引く、ささやかな失敗をするんだが、それについては書かない。


2021年12月27日月曜日

7269 Mike Hailwood_14

 

7269 Mike Hailwood_14

Stanley Michael Bailey Hailwood, MBE
RC173
Fuji 1967

 単車というものに興味を持ったころに、ドゥカティのシグネチャーモデルで”マイク・ヘイルウッド・レプリカ”なんていうのがあって、それが彼の名前を知るきっかけになる。国産車に比べれば、「曲がらねぇわ、止まらねぇわ」っていう操縦性で、いや、乗ったことないんでよくわからんが、しっかり開けて、荷重をしっかりかけてやらねぇと、言うこと聞かないたんしゃだったんだろうな、とは思うが、まぁ、どこまで行ってもわからない。

 さて、2輪と4輪、どちらでもレジェンド級の成績を残したのは、ジョン・サーティスしかいない。マイク・ヘイルウッドは2輪ではレジェンドだったが、4輪のF1ではせいぜい中堅だったらしいし、'60年代2輪でのライバル、アゴスティーニは散々アピールし、英国内のF1で自分でチームを作って年式落ちの車にまで乗ったけど、所謂F1GPからは声がかからなかったらしい。ほかに、GPとF1、どっちも走った人っていたかな?

 日本国内なら、高橋国光氏とか? 

 ワイン・ガードナーはGPを引退した後、何年か、日本のGTでスープラ走らせてるし、エディ・ローソンもインディ・カーに乗ってたが、GPにいた時ほどの成績を残した印象はない。
 グレッグ・ハンスフォードはオーストラリアの国内ツーリングカーでそこそこ活躍したみたいだが、あくまでそこそこ。

 ロッシや、ケーシー・ストーナー。ロッシはオフ・シーズンに、余興でラリークロスに出てったみたいだが、2輪を引退した今、さすがにあの年齢ではF1は狙えないだろう。ケーシー・ストーナーはオーストラリアのV8スーパーカーシリーズに出場することもあるみたいだが、フルシーズン走るということはしないみたいだし。

 逆に4輪から2輪に転向した人は皆無。余興としてはミハエル・シューマッハ、シーズンオフには熱心に2輪に乗っていたみたいだが、これもあくまで余興として。

 ただ、このマイク・ヘイルウッドという人、4輪のF1引退してから、2輪に復帰してマン島で2回勝ってるんだよね。基本、単車の人だったんだな、と。


2021年12月17日金曜日

7257 ZL1000

 

7257 ZL1000

20211216分
エアロバイク 83分42秒 31.83㎞ 700.2kcal

BGM

Paranoimia (feat. Max Headroom) [Extended Version] [2017 Remastered Version]Art of Noise
宇宙戦艦ヤマト2009 with Symphonic OrchestraTHE ALFEE
Inner Universe菅野よう子
Beyond ReasonRyuichi Sakamoto
GloriaZIGGY
マグマ大使コール東京
Jumpin' Jack FlashAretha Franklin
Rude Boy(不良少年のうた)Blankey Jet City
旅姿三人男美空ひばり
The GrooverT.Rex
Zip Gun BoogieT.Rex
冒険者 _02矢萩 渉
Brand New LoverDead Or Alive
リンゴの唄 並木路子
ジェラシー井上陽水
Banstyle/Sappys CurryUnderworld
想い出のエア・ポート吉幾三


筋肉バイクというと、V-Maxを思い出すが、同じ時期の対抗馬としてエリミネーターがあったので。



2021年12月15日水曜日

7256 S14_13

 

7256 S14_13

 健康上、割とかなり切実に減量しなくてはいけないのだが、なかなか手を付けられずにいる。思い立ったら、というところで、エアロバイク。本日は0.1㎏の脂肪燃焼を目標とした。

 77分05秒、31.84㎞、700.3kcal。(20211215) 

BGM

Beethoven - Egmont, Op 84 ca1Claudio Abbado; Berlin Philharmonic Orchestra
夢の途中来生たかお
Moonlight SonataY.Cornefissen
The Heart Asks Pleasure FirstMichael Nyman
彼女は死んだBlankey Jet City
Call Me桃井はるこ
When Love Takes Over (feat. Kelly Rowland)デヴィッド・ゲッタ
The Sheltering SkyRyuichi Sakamoto
Bike Ride To The MoonBOOM BOOM SATELLITES
The JungleB.B. King
PropellerBOOM BOOM SATELLITES
帝国のマーチJohn Williams




The Pianoのメインテーマであるが、S14シルビアのTVCMに使われていたことがあったので、本日の画像はそれに因む。

2021年12月14日火曜日

7255 Veilside Combat JZA80

 

7255 Veilside Combat JZA80

 ヴァレンティーノ・ロッシのGPでの走りの画像見ながら、1996年からいろいろ思い出しているのだが、1997年のこれから書く話題というのは、ロッシから離れて、このヴェイルサイドコンバットスープラの画像の方がよいかと思い、上げてみた。

 1997年の個人的なハイライトというと、Tokyo Game Show 1997 Autumnに開発者として参加したことかなと思う。
 幕張メッセであった、その時のゲームショウだが、そこに、2台80スープラがディスプレーしてあったわけだ。どちらもつるしではなく、SEGAのブースにはカストロールカラーのJGTC仕様のスープラ。確か、ナムコだったと思うが、そちらに、ヴェイルサイドコンバットスープラ、というわけだ。スープラについてはそれだけなんだが。

 オレがかかわっていたゲームというのはRPGというやつで、元々の制作の中心は、PC98とか用のRPGでコアなファンをつかんでいた制作チームだった。最初の企画段階からあるところまで、2Dのグラフィックでいくということで、そこで多少絵が描けるということでオレが呼ばれたんだが、時期が悪く、大手スクェアのファイナルファンタジーVIIのビジュアルが大体的に流れ出した頃で、出資者の意向もあり、3DCGに変更されて、おかげで、なんかもうバタバタ、グダグダになってしまい、おまけに、PlayStation、最初はウチのような小さなソフト会社でもどんどん参入させる方針で、それに乗った形なんだが、配布されたライブラリがバグだらけで、その辺自前でシュートできる大手しか結局モノにならなかった。
 一応、それでも、発売はしたようで、近所のメディアストアで一度だけ商品を見たことがある。で、しかも、誰かが買っていったようなんだが、なんか、本当すんませんでした、と、買って行った人に謝りたくなるような出来だった。

 それはそうと、ゲームショウである。まだ、製作途中というか、あの後、一回全部データ作り直しもしているのだが、グラフィッカーとして、なんか、ブースでトークショーに出てきてしまいましたよ。何話したか、全然忘れたけど。

 ゲームショウで配布するいろいろとか、あと、声優雑誌とタイアップしてキャラの声を担当する新人の子のオーディションとか、出資者というか元請けの会社の部長さんがゲーム専業の広告代理店を通して手配してくれて、あ、その新人の子の事務所の先輩に、京都にいた時聞いていたラジオのパーソナリティ、小森まなみ氏がいて、ウチのブースに顔出しに来られて、少しお話させていただいたんだった。今思い出したよ。

 代理店が手配してくれたんだろう、うちのブースの進行をしてくれたフリーの司会とかナレーターしてるお姉さん、いや、どこかの事務所に所属してたのかもな、芸能人と違ってマネージャーがついてるわけでもない、現地に行くのも現地についてからの段取りも一人でやらなきゃいけない、といっても多分オレとほぼ同世代かほんのちょっと上、休憩時間にちょっと喫茶スペースでお話しした。これも、何話したかは忘れたが、ひとつだけ、こっちのふりに一回一回反応してくれるオタクは基本的に優しい人たちだ、という話だったと思う。
 そこに、元請けの部長さんだ。さすがどこからお金が出るか知ってる、声のトーンを半オクターブ上げて、お姉さん、そっちにいそいそ行っちゃったよ。なんか大変だな、頑張れよ、としみじみ思ったことだけは覚えている。

 別の合間、控室である。キャンギャルの皆さん、表で笑顔で客、カメコに手を振ってる同一人物の綺麗なお姉さんたち、大股開きでパンツ見せながら、タバコ、ぷかーっとふかしてるわけですわ。カメコのとっちゃん坊や達、これ見たらどう思うのか、ふと思ったりした。オレもオレでタバコふかしながら。

 そんなこんなで、まだ、北陸新幹線なんてなく、特急白山かなんかで帰ったんだよな。帰ってすぐ、家に帰らず、そのまま仕事でした。3日ほど幕張に行って、である。

 まぁ、なんというか、結果、クソみたいなものしか作れず、発売後、大きな赤字を出してチームは空中分解、元請けの部長さんもクビになっちゃって、今となっては、へらへら笑うしかない。

2021年12月8日水曜日

7248 Rickman H2 750SS retake

 

7248 Rickman H2 750SS retake

「たどり着く」

 まぁ、上げた画像とは関係ない事を書く。因みに、ナイトキャップというらしいが、寝酒、睡眠導入剤代わりに、安ウィスキーの炭酸割飲みながら、テキストを打っている。つまり、とりとめがない。

 時々頭の中をループするのが、「強く儚い者たち」だっけ、coccoという人が歌ってたやつ。

 トビウオのアーチをくぐって宝島に着いたころ、
 あなたのお姫様は誰かと腰を振ってるわ。

 あぁ、若いころ、げっぷが出るほど体験いたしました。いや、宝島なんかにたどり着けなかったし、歌の中みたいに、甘いお菓子を振舞ってくれる人もいなかった。お姫様が誰かと清潔なシーツにくるまっていたころ、それをその時は知らないオレは、今日ほど冷たい雨ではない、ほんの少し冷たい霧雨、休憩時間、フィルターを軽くかみしめながら煙草の煙を吐いていた。霧雨で煙る山を見ながらね。
 ただ、あの時は、今よりずっと健康で、しっかりと、薄っすら上る上り坂に立ち尽くすことができた。

 せめて、宝島なり何処かなり、たどり着くことはできるんだろうか? それすら怪しい。

 たどり着いた夢の国は
 どこか嘘で、悪いお菓子みたい。

 AJICOの「波動」。UAの曲か、元々は。よくわからない。
 たどり着いたところというのが、しかし、なんかやはり居心地が悪く、そんなことを予感している。まだたどり着いていないとは思うのだが。その前に野垂れ死んじゃうんじゃないか、と思っている。まぁ、それでもいいのかな、と。


 
さて、いい具合で酔いが回ってきたので寝ます。本当は肝臓に負担欠けるから熟睡出来ないらしいんだけどね。

2021年12月7日火曜日

7247 FXS 1979

7247 FXS 1979

 「ハーレー、空冷OHVやめるってよ」である。詳しいことは分からない。事実誤認かもしれないが、来年度のモデルを最後に空冷OHV、カタログから落とすらしい。まぁ、時代だしねぇ、としか言いようがない。別に「いつかはハーレー」とか思っていたわけでもないので、ハーレーファンほどさみしいとか悲しいとかはないけれど、なんか、釈然としないものが何処かにある。


 今では「主要地方道高岡青井谷線」というのだそうだが、何やら「れんげ通り」なんて聞いたことない看板が掛けられている近所のまぁ、この辺では幹線道路である。でも、ずっと「大野早川線」とよんでいたので、今でも「高岡青井谷線」とか「れんげ通り」とか呼ばず「早川線」と言っている。

 小学生の時、石でキャッチボールしてて、捕り損なって、額に2針ほど縫うけがを負った早川線沿いの空き地をつぶした後、スーパーと鉄骨2階建てのテナントビル? ビルと言っていいのかどうかわからないがそういう商業施設ができたのは、額にけがした2年ほど後だったと思うが、時期についてはよくは覚えていない。
 そこにあったスーパーマーケットだが、重宝したんだけど、閉店してしまい、今は居ぬきでリサイクルショップが入っている。これで10年ちょっと経つかな、もっとかな。

 母がちょっと思い立って買い物に行くのにも便利なスーパーだったのだが、最近できたスーパーは結構離れていて、そもそも母には歩いていくのにも遠すぎるし、クルマ通りの多い早川線と、新しくできた環状線を横断しなければ、となると、とても歩いてはいけない。
 まぁ、代わりに買い物などいくらでもするのだが、83になる父に車の運転で、時々買い物にも出ている。いろいろ不安ではあるが、そこは今時の田舎あるある。


 大学生の時か、帰省した時の事だと思う。朝早くそのスーパーの駐車場に、ショベルの黒のローライダーが停まっていたわけだ。
 ハーレーには、実はそれほど興味はなかった。「easy rider」は何度か繰り返して視たが、オレがチョッパーに乗ろうとは思わなかった。同じハーレーなら、スポーツスター系かソフテイルだろ、と薄っすら思っていた。ローライダーにはほぼ興味がなく。

 しかし、件の黒のローライダー、カッコよかったのだ。まるでネコ科の大型の猛獣が眠っているかのようだった。県内ナンバーだったか県外だったかも覚えていないが、このローライダーをみたのは、この時一度きりだった。

 恐る恐る近づいてみた。別に取って食われるはずもないが、そういう気分だった。少し離れて、タバコが一本灰になる時間だけ、それを眺めていた。
 いや、いいもの見せていただきました。ごちそうさまでした、とその場を離れたように思う。前傾姿勢のスポーツバイクとはまた違った走っていく意志が表現された造形だった。


 さて、「ハーレー、空冷OHVやめるってよ」である。そもそもガソリン燃やしてエンジン回す乗り物の社会的余命があとわずかな所に、「空冷」で「OHV」など、当世流、コンピュータ制御の細かな燃調制御などできるはずがなく、いわば走る生きた化石みたいなところはあった。そうじゃなくても、ガソリンエンジンが、ガソリンの持つエネルギーのせいぜい30%も推進力に利用できていない、という点が、ガソリンエンジン絶滅の根拠となっている。
 しかし、言われているほどEVに温暖化抑制の効果があるとは思えない。っていうか、まやかしがいっぱいだと思っている。クルマで言えば、同じ車格なら、ガソリン車の1.5倍ぐらい重い、EVは。それだけ余計エネルギーを食うのである。配電ロス、バッテリー製造時に出るCO2、等々。発電を化石燃料でやるならば、多分、ガソリンエンジンのクルマ走らせるのと排出量、そんなに変わらないのではないのだろうか?となると、EVへの転換以上に、発電インフラについての議論に力点置くべきだろう。

 それと、建設業従事者として、多くのディーゼルエンジンで動く重機などの機械、これらってどうなるんだろう? ある日突然、ディーゼルエンジンの使用、まかりなりません、と言われたら、もうどうしようもなくなるが、その辺を責めてくる話は聞こえてこない。それはそれでありがたいけれど、なんかその程度のもので、温暖化抑制じゃないもっと別の理由が働いてるんじゃないか、と思わせるに充分の状況である。まぁ、大体巷間言われているような理由なんだと考えているが。


 

2021年12月5日日曜日

7246 20211204 東福寺

 

7246 20211204 東福寺

7245 John Denver

 

7245 John Denver

John Denver
TR350


7244 Valentino Rossi 1997_4

 

7244 Valentino Rossi 1997_4

Valentino Rossi
Aprilia RS125R 1997

 ヴァレンティーノ・ロッシの事から離れて、1997年の事を少し。


 1996年には、三菱銀行あたりが立ちいかなくなって、公的資金を入れるも、責任者が相応のペナルティを受けたと印象がないまま公的資金を入れて立ち直りはしたけれど、それが後のこの国のモラル・ハザードにつながったのではないか、と書いたが、

 この年は、遂に支えきれず破綻した、銀行、証券会社、保険会社が続出したという印象。


 それほどまでに、不良債権、バブルの時の金融倫理のゆるみの問題は大きかったのか、ということと、国庫のキャパの問題は当然あるだろうけれど、潰れてしまうものは潰してしまえと舵を切ってしまった、三菱は助けてもらったのに、という、三菱が助けてもらえて他がそうじゃない、なんかいまいち根拠不明な所での不平等感が残る。当時の事を伝えるものはいっぱいあるようで、よみこんだわけではないが、なんか、相当ドロドロしていたんだろう。


 利害が細分化してしまい、国として社会として明確な方針が打ち出しきれない。ネット時代前夜でそれだったので、何につけ、そんな風になってしまい、誰の言っていることが正しいのか、政府首脳のものであっても、そんなことはないはずだと、反証もまた多く信じられない。何を根拠にしているのか明確ではないままだから。後には、それをいいことに、統計すらまともに取らなくなる官僚の仕事であるが、マスコミもまた、自分たちの妄想のストーリーの中に都合のいいファクトだけを当てはめて、なんてことをしたりして、そういうのを市井の人間が肌で感じているものだから、その内陰謀論的なものがばっこしだして、というのが ←今ここ、という感じなのだと思う。


 まず正確なデータ。それを政府が収集して包み隠さず公開することが大切なんだろう。データ取集に関しては官僚が集めて作成するものの他に別系統で収集したものも突き合わせてデータの妥当性を探っていく感じ。それの主体は政府、政治家と呼ばれるポジションの人たちの仕事であり、その過程も細かく公開していく。


 官僚の抵抗は大きいだろうな。しかし、まぁ、それにそぐわない役人はバンバン替えていった方がよい。


 下っ端はなんかそれらしいペナルティを受けたりもするが、最終的な意思決定をする責任者にはそれが及ばないという印象。それがいけない。


 保守というものが、仕組みの大きな枠組みを変えずに、というならそれでもいいが、その為にもへまをしたやつ、不正を働いた奴というのは、特に上の権力を持った奴ほど、ちゃんと更迭、追放していかないと、仕組みの保守は成り立たないと思うが、どうか?


 まぁ、失われた10年と呼ばれていたものが、やがて30年となろうとしているのは、このあたりの事が始まりだとおもっている。先行きの不透明感、不安感だけが残り、行き当たりばったりの対処療法だけが繰り返されて、それに対しての明確な処方も意志も示せていない感じ。 なんか同じこと書いてしまったな。



7243 R35_57

 

7243 R35_57

 思えばR35が、「エンターテインメントとしてのクルマ」の最後だったのではないかとも思う。


 この「エンターテインメントとしてのクルマ」というのは、言い換えれば「憧れとしてのクルマ」ぐらいになろうか? ガソリン車はまだもう少し続くし、スポーツカーもR35の後にも、かつてほどではないが発売されている。
 しかし、走行性能―走るということに、数値のみならずそのコンセプト、思想まで突き抜けていて、我々をしてスゲーと思わせたのはR35が最後だったんじゃないだろうか? ということ。


 クルマの動力性能については、すでに頭打ちだったというのはある。これ以上凄くしたって誰が操縦するのか。
 そうなると、制御系の話になる。いっそ、すべてAIが制御してしまうオートパイロットで最速とか。でも、そういうの本当楽しいの?ってなると、その匙加減、ということになる。

 価格。一部の石油王とか秒で何億稼ぐとか、そういう人間じゃない、正業についた月給取りにでも買える価格でこの性能。言い換えれば、工業力の問題。

 最高速はともかく、加速ではEVの方が上。もう、ガソリンアホみたいに食ってスピード出すなんていうのは許されない。


 つまり時代的に許されていた、何とか無理をすれば買えないこともないクルマを人が操り突き抜けるように走っていく、そういう夢としてのクルマ。買う、買わないの問題ではない。極上の美女とのセックスよりもひょっとしたら上なんじゃないだろうか? とさえ思わせる快楽の予感。その辺での憧れと妄想の対象としてのクルマ、である。



 そもそも、今、我々は、ガツンと突き抜けるように走っていきたいのか? それを希望しているのか? 


 ちゃんと希望しているのであれば、自動車メーカーのブランドイメージのためにこういう車は必要となるが、そう希望することを忘れてしまったのではないか? または、そう希望する、そういう意思をうばわれてしまっているのではないか?
 直接、強硬にそういうことを禁止するということはしないようだ。かえって逆効果だから。徐々にパイを奪っていく。愛好者を少しずつ削っていく。年をとり、そういう愛好者が死滅してしまえば完了、という感じで。


 ブランドイメージに寄与するものがなければ、売れないものをカタログからは消去する、速攻で。株式会社は、顧客のものでも社員のものでもなく、株主のものであり、株価の根拠である複利配当に、しかも即時的に反映されないような企業活動は差し止められる。そんな製品の製造は停止させられるのだ。社員がどんなに希望していたとしても。


 物言う株主とやらにちゃんと対抗しうるような結果を出している経営者でない限り、製造者、開発者の意志、顧客というかファンの希望なんていうのは三の次なのである。


 逆に言うと、そういう経済の理屈の中にありながら、そういう夢を顧客にすらなれなかった、一ファンとして見られた時代を知っている俺たちは幸せだったのかもしれない、という言い方しかできないのかもしれない。


2021年11月28日日曜日

7242 Jean-Louis Albera

 

7242 Jean-Louis Albera

Jean-Louis Albera
KR350
Paul Ricard 1980

 1983年、84年ごろ、ケニーとフレディのころからのGPファンである。そのわずか3年前の事であるが、ジャン・ルイス アルベラなるライダーの事は聞いたことがない。カワサキに乗り#1を付けるほどのライダー、いたのだろうか? わずかに「1980年、ル・カステレのGPにて」、ル・カステレ、つまりポール・リカールとあるが?
 他にジャン・ルイス・アルベラの名前、フランス語pdfで見かけたが、1980年はカワサキには乗っていないという、GPにフルに出ていたわけでもなければ、大した成績も上げていなさそうだ。

 多分、テストか何か。

 非常に胡散臭いし、どこかおおらか。それはこの当時のGPの魅力でもある。