思えばR35が、「エンターテインメントとしてのクルマ」の最後だったのではないかとも思う。
この「エンターテインメントとしてのクルマ」というのは、言い換えれば「憧れとしてのクルマ」ぐらいになろうか? ガソリン車はまだもう少し続くし、スポーツカーもR35の後にも、かつてほどではないが発売されている。
しかし、走行性能―走るということに、数値のみならずそのコンセプト、思想まで突き抜けていて、我々をしてスゲーと思わせたのはR35が最後だったんじゃないだろうか? ということ。
クルマの動力性能については、すでに頭打ちだったというのはある。これ以上凄くしたって誰が操縦するのか。
そうなると、制御系の話になる。いっそ、すべてAIが制御してしまうオートパイロットで最速とか。でも、そういうの本当楽しいの?ってなると、その匙加減、ということになる。
価格。一部の石油王とか秒で何億稼ぐとか、そういう人間じゃない、正業についた月給取りにでも買える価格でこの性能。言い換えれば、工業力の問題。
最高速はともかく、加速ではEVの方が上。もう、ガソリンアホみたいに食ってスピード出すなんていうのは許されない。
つまり時代的に許されていた、何とか無理をすれば買えないこともないクルマを人が操り突き抜けるように走っていく、そういう夢としてのクルマ。買う、買わないの問題ではない。極上の美女とのセックスよりもひょっとしたら上なんじゃないだろうか? とさえ思わせる快楽の予感。その辺での憧れと妄想の対象としてのクルマ、である。
そもそも、今、我々は、ガツンと突き抜けるように走っていきたいのか? それを希望しているのか?
ちゃんと希望しているのであれば、自動車メーカーのブランドイメージのためにこういう車は必要となるが、そう希望することを忘れてしまったのではないか? または、そう希望する、そういう意思をうばわれてしまっているのではないか?
直接、強硬にそういうことを禁止するということはしないようだ。かえって逆効果だから。徐々にパイを奪っていく。愛好者を少しずつ削っていく。年をとり、そういう愛好者が死滅してしまえば完了、という感じで。
ブランドイメージに寄与するものがなければ、売れないものをカタログからは消去する、速攻で。株式会社は、顧客のものでも社員のものでもなく、株主のものであり、株価の根拠である複利配当に、しかも即時的に反映されないような企業活動は差し止められる。そんな製品の製造は停止させられるのだ。社員がどんなに希望していたとしても。
物言う株主とやらにちゃんと対抗しうるような結果を出している経営者でない限り、製造者、開発者の意志、顧客というかファンの希望なんていうのは三の次なのである。
逆に言うと、そういう経済の理屈の中にありながら、そういう夢を顧客にすらなれなかった、一ファンとして見られた時代を知っている俺たちは幸せだったのかもしれない、という言い方しかできないのかもしれない。
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