2022年5月5日木曜日

7488 Z1000MkII_12 & 困った相似性

 

7488 Z1000MkII_12


 一個前のエントリ書きあげて、推敲、ろくにせず上げて時間が時間だったのでそのまま寝てしまって。だから、変な言い回しの多いこと多いこと。ま、いつもの事なんだがな。
 で、寝る前のベッドでのことだ。折しも憲法記念日で、「改憲の機運が高まっている」という報道を見ながらベッドでツイッター。いや、安眠に良くないから、それ、と、自分で突っ込み、実際あまりよい睡眠とは言えなかったが、そんな脳みそがふにゃふにゃになってる状態で、それこそ、この期に及んで碌な論陣を張れない護憲勢力、特に共産党、社民党あたりと、昨日の晩、2時間ほどで書きあげたエントリの俎上に上がった法華宗系の諸派の相似性が、にょきにょきと頭の中で存在感を増してしまった、そういう話。

 護憲か改憲か? オレは40数年前、小学生の時から基本、改憲すべきと思ってきたが、しかしその時代その時代の政権に、それをなし得る資格資質はないと思っていた。何らかの形で公正さに欠ける政権ばかりだったからだ。ずっとだ。つまり、実質改憲反対(護憲ではない)だったようである。しかし、後生護り続けなければならないなどとも、一度たりとも思ったことがない。
 というようなところで、一番のトピックである9条周りのことであるが、護憲派の根源が感情的なもので終始する戦争反対論で、これでは、いつかなし崩しにこの人たちは負けていくのだろうな、という予感がずっとしていたし、いよいよそれが目に見えてきた感がある。では、なぜ改憲したがるのだろうと彼らが考えても、「戦争がしたいから」などと、非常に幼稚な見立てしか出てこない。そこにそこで日本から戦争を仕掛けることなど可能だろうか? 不可能なのは目に見えていて、それを敢えて仕掛けに行くことなんてあり得るのだろうか? そこまで考えが及んでいるところを見たことがない。
 今行われている「敵基地攻撃能力」の「反撃能力」への言い換えの件。時間の無駄やなぁ、と思うが、戦争反対が感情的なもので終始して、現代の戦争が如何に行われるのかということもあまりに不勉強で、やはり感情的な反対論しか出てこず、専門的なところでの「敵基地攻撃能力論」への反論はほぼ見られない。最新の知見、技術、多くの資源がコストを考えられること、あまりなく戦争に振り向けられるのだから、確かに、あまりに無駄だなあと思えるが、反戦を唱えるなら、そういう知識、その辺のミリオタに負けてはいけないはずである。実際は、そういうことはなく、化粧っ気脂気が落ちたメガネで小太りのその辺の知識が全くないおばちゃんがヒステリックな声を上げているだけ、というイメージしか持たれていない。実際はそういう人ばかりではないのは間違いなくても、あくまでイメージとして。
 ウクライナの件で、近隣諸国の根拠のない性善説めいたものでここまで引っ張ってきたものが、ここに来てもうムリ、ということに相成っている。ここで近隣諸国の指導者の性善説を迂闊にぶち上げようものなら支持率下がるどころか、石投げられそうな雰囲気だ。日本が挑発しなければ何もない、という主張も、どうも怪しい。

 特に共産党、風前の灯火だがしぶとく消えない大昔の社会党左派、今の社民党、そして彼らのシンパ。大きな方針から細かい個々の主張まで決して自分たちの誤りを認めようとせず、常に間違っているのは与党、自民党である。立民も基本一緒。
 大多数の支持を得るのにまず必要なのは、イデオロギーであった時代はとっくに終わって久しく、それもこれも正鵠を得た現状分析能力と現実的で精密で実現可能な政策立案能力が大前提にあって、それがあって初めて、イデオロギーに凝り固まったものでない政策方針の話となる。そこで発信能力というのはおのず生まれるものだが、それは前提以前のスキルであるが、それすら彼らはマスコミの所為として、自分たちでの改善をしようとしない。

 とにかく自分の間違いを決して認めようとしない。悪いのは全て相手。それは自分たちの権威のためなのだろうが、それにより更なる支持の獲得など夢のまた夢ぐらいに不可能にしているし、つまりは現在の上層部の地位保全のためだけのものである。
 この点が、法華宗系全体、特に創価学会、顕正会あたりと相似形をなすところである。共産党と彼ら、お互い蛇蝎のように嫌いあっているというのに、である。公明党は公明党で政界をうまく泳いでいかなくてはいけないので、この数年、創価学会との距離が開きつつあるという話を時々聴く。

 宗教が自らの誤謬を認めたがらないというのも、やはり教義への信頼に関わってくると考えているのだろうが、間違っているのは、その時々、その団体ごとの上層部ということになると、当然自分の地位にかかわる問題で。
 いずれも、そこの上にいる人たち、人に対しマウントを取るのが第一義と考えているような人たちが多いという印象で、ってそれは与党も含め他の人たちも一緒だが、内輪での権威を外からの見た目よりも優先し、というのが特に法華宗系の特徴であるように思われる。

 いくら治安が最悪の時代だったとはいえ、日蓮があくまで折伏、「俺の言うことに従え~!!」にこだわったことが、結局、後世の勢力拡大を阻んでいる。それが基本ムーブ、教義に織り込まれたものであれば、早晩内輪でのマウントの取り合いになるのが必定で、日蓮が理想としたはずの所の仏法の世とはすでにかけ離れている。離合集散というが、多分分裂する場合の方がはるかに多く、その内のかなりの割合がやがてフェイドアウトしていくことだろう。宗教の第一義とこの世の大多数がイメージしている心の平安とは程遠く、文字だけの曼荼羅である御本尊と言い、視覚イメージの重要性を軽視するなど、人の自由な心の動きをいつか否定してくる怖さが常にある。そしてそれらの問題に対しては答えようとはしない。問題などないがごとく。内輪にこもるとそういうのが問題とは思えなくなるのだろうか?

 ある時点でひょいと顔が向く方向を変えられることがあって、目指すところが違ってしまったけれど、どちらも非常にまじめで自己鍛錬は怠らないが、夜郎自大で尊大に人を見下し、また見下したがるような、人の話を真面目に聞かない、如何にも神経質そうな、寛容というものを遂に学ぶこともなく、人の心の機微にも疎く、友達少ない、でもそういう自覚がない、自分は周りから好かれているリーダーになるべき人間だと思い込んでいる、そういう青年が挫折もなく年を取った、そういう人たちによって、どちらも動かされているイメージがある。それぞれ教義、イデオロギーが第一のふりして、実は強烈な自分ファーストだったりしてな。まぁ、現在の共産党の上層部は結構つつましやかなところもあるので、もっぱらこれは法華宗諸派の上層部の話かもしれない。共産党は中間層にこういう性格の奴多そう。

 多分、どちらも第一党、国教となり得る可能性は、ほぼない。自覚はあるが、案外、自分自身にとっては、今の立ち位置がちょうどよく、ぶち上げる言葉は釣るためのものであって、という可能性もないではない。

 そんなところ。
 
 

7487 CB750four_64 & あ~、参ったな

 

7487 CB750four_64


 別筋で、twitter掘ってて、青木俊氏のツィートに何か感じるものがあったのか、「陸自一佐 逮捕」という検索をかけてみたのだ。

と、秀島裕展という名前に行き当たる。何しやがった、この秀島某という男? と思って調べると直接の容疑は銃刀法違反なのだが、ここで顕正会の名前が出てくる。秀島某は会員だったそうで。

 続けて掘ってみると、出てくるわ出てくるわ、顕正会の問題行為。しかしだ、それを扱うどのサイトも、日蓮正宗や創価学会会員によるサイトらしく、事実なんだろうが、それを問題にしているのは、法華宗系の内輪もめ、内ゲバっぽいのである。おそらく、逆に正宗や創価学会の問題行為を題材にしたサイトでは顕正会会員が運営したものも出てくることだろう。 多分事実でないことはないにしろ、どちらのあちらに対する批判的記事も殊更大げさに書いてあるに違いない。

 顕正会会員が起こした事件としては、平成21年の1月新潟でのものが調べた中では最新のものとなっている。FBIからは、オウム系は当然としても、法華宗系の中で創価学会と並んで危険カルト認定であるとかないとか。

 勧誘の手口というのも目にした。思い当たることも多く、姫はなぜにオレに声をかけたのか? いろいろ可能性は考えたが、まぁ、甘っちょろいおっさんと思われたから、という可能性が高まった。寂しいが。

 主張としては、国立戒壇の建立というのもあるのだが、まぁ、この点だけ創価学会がマシと思える点だが、創価学会が主権在民を主張するのに対し、顕正会は戦前の天皇主権を主張するらしい。まぁ、その部分、当事者たちの主張を直接読んだわけではない。

 繰り返すが、何を信じ、法律に触れない限りは何を言っても結構なんだが、オレは与することはできない。心苦しいが 姫への退会の申し入れ、早くせねばなるまい。


 しかし、となると、結局顕正会、正宗、創価学会と主張の多少の違いをお互いディスっているが、その実やってることは大同小異で、これは法華宗の根源的教義あたりに問題があるような気がしてしまう。実際、まだ読んでいる最中だし、この前買ってきた本以外にもいろいろ目を通しながら、という作業をボチボチとやっているが、御聖人様、どうも、宗教人としてそれはどうよ? というのを多々お見掛けしてしまう。

 文字だけの曼荼羅。法華宗系はご本尊が仏”像”ではないらしく。「龍口の法難」という神秘イベントのあと、流罪となった佐渡で日蓮が作ったものなんだそうだが、文字だけ。「南無妙法蓮華経」という文字列の直下に自身の名前、左右に関係する神仏などの名前を廃したものなんだそうで。・・・絵心、残念ながらなかったんかな? 御聖人様のお気持ちはわからないが、これが後世、法華宗→日蓮宗を、なんかガサツなものにしてしまったことはないか? 絵なんて、仏絵なんて余計なものはいらん! とかなって、延いては人の細やかな日常の機微みたいなものに無頓着な宗教になってしまったことはないか? たかが絵ではあるが、それをめでるちょっとした心って大事だよ。でも、それはここでは大したことじゃない。

 神秘イベントの取り扱い。うまくいけば、私が正しいから起きた奇跡、という。世の中がうまくいかないのは、私の言葉を受け入れないから、というスタンス。これについて思うことは大体書いたが、勘違いか、特に顕正会には、御聖人様、自身を釈尊の生まれ変わりと自称したとか言ってなかったかな? 或いは妙法蓮華経そのものであるとか。大川隆法と同じこと言うとるやん。釈尊とかキリストとかの生まれ変わりと僭称する奴って多いのだが、他とは違う、これは真実であるという根拠が大体こういった神秘イベントなんだが、真実であるかどうか検証するすべもなく、一方で社会の不具合は、不信心という要素がなくても説明可能なものがほぼ100%であり、その不信心自体、それぞれが自分たちの教義以外をすべて不信心と括ってしまっているのだから、どれか一つを取って妥当、正当とする根拠はまるでない。

 いや神秘イベントが真正のものであるならば、素直に処刑されるべきだっただろう。菅公のようにこの世に祟るか、キリストのように復活してもいい。「龍口の法難」のような、一方からは奇跡と言われるが、客観的には何が起きたかあいまいで検証不能な、如何にも中途半端な神秘イベントというのは、日蓮の大きな根拠となりはしても、法華宗→日蓮宗の広がりを”その程度”のものにしてしまっている。凡夫のオレはそんなものはあるわけがないと思っているが、本当にあることなのらば、もっとはっきりわかり後世信者ないものにも語り草になるものにするべきだったな。

 また、現在のラノベよろしく、釈尊や経文の生まれ変わりであるというなら、上記の如くよほど強力で明らかな法力をいつでも示すことができるのではないのであれば、寧ろ自称はしないだろう、伝えられる通り叡智の集積であるというなら。別の、史実になかったより効果的なやり方で教義の拡大浸透、弘通を行ったはずだ。なんか御聖人様、オレ様がぁ!が強すぎたのか、そこら中にかみつきすぎだ。それこそ人の心の機微に疎かったのか、それではk教義は広まらない。

 社会全体なんて大風呂敷広げすぎだが、個々の信心、信心が足りていないから不幸が起こるとか信心しなかったから地獄に堕ちるのだという脅迫めいたものというのは、どの宗教でもありがちだが、例えばニーチェの「神は死んだ」というのは、彼が無神論者だったことを示すものではなく、寧ろ熱心なキリスト者だったところに、何を指してそう判断するか、信仰の強弱で救われたり救われなかったり、というのが、ルサンチマンの増幅につながっていることへの批判をこめたものだったわけだが、画一的な何かを求めてくる宗教を自称するものを宗教と呼んでいいものかどうか?

 三派はじめ、その辺法華宗系の人たちに訊いてみたいものだが、ダイバシティ、宗教や民族、人種などの多様性を受け入れるという、今日の流れについていかが思うか、というところ。それはそれ、というのであれば、どうか、オレを会員にするのは諦めて欲しいのだが、さて、御聖人が鎌倉期、それを言わなければいけない必然はあったのだろうが、それは今日的に妥当なんだろうか? 教義のアップデイトを簡単にできないのは、その時代、正に今現代、それぞれの教団、団体の上層部の地位保全とルサンチマンと他人に対してマウントとりたいという意志の拗れた形での充足以外に、意義が思いつかないが、まぁ、オレはあくまで門外漢で通すつもりなので、正確なことは知らない。

 あ、あと、身延って、「ゆるキャン△」で名前知ったけど、日蓮宗の聖地なんだな。

 FBIからカルト認定されようが、他の2派から批判されようが、実際のところ、そうそう問題活動が頻発しているわけではなく、会の体質として潜在的にそういうものがあることは否定できなくとも、個別の事象は会員の突出によるもののようであるし、表面上今現在、穏やかな団体と言ってもいいような気はする。オレはとても会員として活動することはできないが、信じることができる人はどうぞ。オウムのような差し迫った危険さがあるわけではなく、従って姫を力づくで連れ戻す、なんていうこともするつもりもない。これも繰り返す。姫は顕正会に救われた。そういうポジティブな部分もちゃんとある。信じるというのであればそれまで阻む理由も全くない。

 ただ、会社で、姫に以降、やはり嫌われるような形になるんだろうなぁ。非常に残念。つか、少し悲しいかも。まぁ、すべてうまくいくことというのも、この世にはあまりない。会社の業務に支障が出るようではお互いに損するのだから、派手なことは仕掛けられないだろう。

 会とは、「大人のケンカ」の準備はしておこうと思う。消費者センターには早い時期に相談しているし、知り合いの弁護士にも、宗教、消費者問題が得意な同業者(弁護士)はいないかと、今回の事は何となくほのめかしてはいる。

 今回の折伏は残念でした。しかし、オレはこのように面倒くさい奴なんです。どうか、すんなりリリースしてくださいますよう。

2022年5月4日水曜日

7486 ブランズハッチのロッシさん & このブログのアクセス状況について

 

7486 ブランズハッチのロッシさん

R8 GT3
Valentino Rossi
Brands Hatch  2022

 自宅から始めてインターネットにつないだのが1998年。ほぼ同時に当時のドメインのサーバーに自分のウェブページを持って、ドメイン替えたらウェブページも移動して、ブログが全盛になれば、ブログに移行し、最初はココログだったが、2011年ごろよりブロガーでやっている。
 画像についてはそれとは別にPixivで晒していたんだが、そちらで公開していたものは公開停止。1994年5月1日をスタートにして、一日一枚で割り振っている。なんでそんな変なことをしているかは、ここ何本かのエントリを見て察してください。
 まぁ、大部分ネットで拾ったものをベースにしたものであるわけだから、コピーライト的にはグレー、それの濃い奴。しかし、一切の収益化をしていないし大々的な広告を打って呼び込みをしているわけでもないので大目に見られているのかもしれない。

 現在6338本のエントリ、Pixivにあったものの再掲載を除き一番古いエントリが2013年1月6日、本日まで3405日、総閲覧数134300、一日あたりは40ほどの閲覧。途中、随分と交信していない期間もあったりしているが、現在は、一週間で均せば大体その辺の数字となる。
 アクセス解析について、なにしろただでやらせてもらってるので、アクセス元の詳しい情報とか検索キーワードとか、見るべきものはないのだが、国別アクセスランキングというのが見ていて楽しい。

 どうにも自分の国からのアクセスがアメリカからのそれに負ける。URL取得のロボットが回っているのかも知れないし、案外日本にいても.comドメインの人のアクセスが多いだけなのかもしれない。その辺よくわからん。

 全期間を通じてということでは、ロシアからのアクセスが案外と多い。時々まとめてアクセスがあったりするのだが、最近ウクライナ問題について書いていたころ、ややアクセスが増えた? ひょっとして監視されてる? とも思ったが、こんな影響力のないブログとか監視してもねぇ、と考えている。

 そして、ウクライナ。3か月ほど前まではコンスタントに視に来てくださる方がいた。どのような方かはわからないが、ご無事でありますように。

 ドイツ、フランス、ポルトガル。こちらからもコンスタントに視に来てくださる人がいるようだ。ありがとうございます。

 上のランキングには出てこないが、時々、キプロスとかトリニダート・ドバコとか、他にも珍しい所からのアクセスがあった時はうれしくなる。





7485 Emma Watson_23 & 外国人の選挙権、外国の選挙権

 

7485 Emma Watson_23



 どうもエマ・ワトソン氏とウチの会社の顕正会の姫、タメ年らしい。アラサーの大台越えしたあたりで。さすがにドレスコードがあるところではそれなりに化粧もするのだろうが、ワトソン氏は「普段」設定のグラビアなど、そばかすを隠そうとはしない。ウチの会社の姫も、まぁ、会社で勝負メイクしても仕方ないのだが、最近まつ毛多少いじってあっても、そんな濃い化粧はしていない。若さに任せてノーメイクというわけにもそろそろ行かない歳なんだと思うが、化粧って、女の人、すげー負担だろうなと思う。お金もそうだけど、それで男性に比べて人生の総時間の何パーセントロスしてるんだろう? ロスと考えるのも良くないか。逆に、その辺時間と気を使わない男性は、使う男性に比べて、やや不利になる局面が増えつつあるらしいが。どちらにしろ、オレにはよくわからない、よく知らないので、あまり、知ったかぶりで書いても怒られるだけか。まぁ、思うまま、なるべく素で生きられる方向というのは良いことなんだろう。


 オレが大学生の時、”インターナショナリズム”でも、のちによく使われるようになった”グローバリズム”でもない、”コスモポリタニズム”、”トランスナショナリズム”なんて言う言葉、特に後者は一瞬だが聞かれたことがあった。概念としては、個-国ではなく、個-世界という対峙の仕方であり、縦方向の構造を持ったそれぞれの国がつながるのがインターナショナル、国の縦割りではない、球的なとでも言おうか、縦横方向に広がりがあるものが幅を利かせる、グローバリズム、一つ一つの個、その集積がコスモポリタニズム、それら点が横方向につながりを持つのがトランスナショナリズム。同じような領域の似たようで、全く意味の違う言葉達だが、実際機能しているのは、インターナショナリズムとグローバリズム、それぞれの領域を主張する国という概念と多国籍企業や国際テロ集団、というのが現実のようだ。コスモポリタニズムやトランスナショナリズムは、儚い理想として消えつつある。

 これら、1980年代後半のことであったが、その頃、書く?バブルの絶頂期だったっていう枕詞? まぁ、日本全体鷹揚になってはいたころで、その中で居住して納税もしている外国人に参政権を、という声が出始めたと記憶している。税の公平公正さからすれば尤もだとは思った。それによって不利益を被る、第二次世界大戦あたりで不当な利益をため込んだりなぁなと何となくその時しでかしたことに対しての相応のペナルティーを逃れてきて、そうなったら財産を没収されたり罰せられたりする可能性がある、今でいう上級国民とそれに準ずる立場の人物やその係累あたりが強硬に反対していたような印象がある。

 その後、そういう層がアメリカにお目こぼしと口止め料をいただく代わりに、国の財貨がかの国に簒奪、流出するのに何の手を打たなくなるようになって(日米経済対話と呼ばれる明治初期の不平等条約の復活)、只今も日本は絶賛衰退中なのであり、

 以上の事は、オレの憶測と印象だけで言っていることで、妥当とはされていないことなのだが、アメリカにのみならず近隣諸国によっても富の簒奪が現実的なものになってしまってからは、外国人参政権? とんでもない!!というのは尤もな話になってしまった。


 しかし、例えばドナルド・トランプのアメリカ大統領当選あたりにはじまり、後任のジョセフ・バイデンもそうだし、その後の習近平やここに来てのウラジミール・プーチンの所業を見るに、かくも、我々の生活に影響し脅かす外国の首長に対し、制度として、われわれは何御意思表示もできないというのは、どういうことなのだろう? という理不尽を感じるに及び、外国人に選挙権を与える代わりに外国の政体に対しても、何らかの選挙権かそれに準じるものを要求するべきではないか、と、ふと考えた。

 古代ギリシャに始まり、歴史が進むに従い、物理的に不可能ということで直接制が代表制に替わった民主主義とよばれるものだが、ここに来てのコンピュータ技術の発展によって、いっそ直接制に回帰することも可能なのではないか? とも思う。しかも世界中に起こる事象に対してだ。

 まぁ、ならないだろうな。現在政治家と呼ばれる職業にいる人がその主義主張に関らずそれを脅かされるわけであるから、それを認めるはずもなく、実現に何百年かかるか、それとも全世界の人が何割という単位で死ぬような大きな災厄でもない限り実現はしないだろう。
 しかし、誰か、酔狂にでも、コンピュータネットワークを使った、全世界を一つとする直接民主主義のというもののシミュレーション、やってみてくれないかな? そうすれば、逆に現状についても色々見えてないものが見えてくるような気がする。

 けど、そこで問題になってくるのが、日本においては若年層を中心にした選挙投票率の低さ、その前提となる現状把握能力の低さ、限界だろう。如何に教育そして事象を周知させていくか、そもそもその事象をどのような形で把握するのか、問題になる。何しろ、捏造も簡単な今の世に何をもって真実とするかが、大問題なんだから。

2022年5月3日火曜日

7484 HS30H Nissan-works

 

7484 HS30H Nissan-works

7483 AE92 Levin_2 &  億劫

7483 AE92 Levin_2


 気が晴れない。嫌なことがあるわけではない。嫌な奴と関わってるわけでもない。顕正会の件にしたって、創価学会に比べたらはるかに純度が高い善意の人たちだ、基本は。姫は会社では顔を合わすことになるけれど、いれば娘ほどの歳の彼女の足を引っ張ってしかられることもあるけれど、可愛いしカッコいいこともあり嫌いではない。まぁ、かるい憂鬱の種というか、憂鬱まではいかない、億劫の種がいっぱいあって、GW明けの2週間の出張、やる事はやったし、ほんの少しの準備を除きGW明けを待つばかりだが、いろいろ脳内でシミュレーションていう奴をついついしてしまい、問題は恐らくないはずなのに、なんか気が重くなる。猪にぶつけられた車を買い替えるお金の算段とか、3回目のワクチンとか。どれも、そんな難しいことじゃないけれど、嫌じゃないんだけど、あぁ、もう、なんか億劫。

 体重過多で、身体を動かすのは嫌いではないが、ついつい身構えがちで、GWなどゆるゆる運動など、ちょっと多めにやってみようか、などと思ったり、部屋がもので氾濫してるので整理せねば、と。

 GW、なんもかもほっぽり出して死んだように寝ていたいよ。

 などと言って、オレにはそれほどもう時間が残されているようにも思えず、やんなきゃなぁ、と、ずっと思ってるんだけど、まぁ、硬い大岩を貧弱な鑿で少しずつ砕いてほぐすように、懸案s、なくしてくしかない。

 セナが死んだ1994年5月1日、せめてあの日から何かを毎日積み重ねてたら、オレは一廉の人物になれたんだろうか? などといつぞや思い立ち、さてと思い、こんな画像とか絵とか、かの日からの日数と同じ枚数になるようやっているのだが、それに加えて、駄文であっても思ったことを同じだけ、などと。かの日から今日まで10299日なんだそうだ。便利だな、今の時代。そういう計算、ウェブページで一瞬にやってくれるところがある。7483というのは、確か前に手計算でやった時は2010年代の前半ぐらいではなかったかと思う。丁度、心筋梗塞やった頃か。まぁ、一日一枚では追いつかないのだから、まとまった休みに量産しなきゃ追いつかない。

 が、とりあえずは足の踏み場もないに等しい、目の前のスペースの片づけか。でっけぇため息。

 

7482 GSX1100S_28 & ランボゥに戻る前にキリンに立ち寄る

 

7482 GSX1100S_28


 考えてみたら、法華宗の事ばかり書いていて、ランボゥの事書いてないし、それなら、別にカワサキ空冷4発を合わせることもないのだ。んでもって、ランボゥに話題を引き戻す前に、東本昌平氏の「キリン」の事について少し、と思い、今回は刀。

 非常に稚拙な、という修飾語はつくが、プチ宗教論争、プチ思想哲学論争なんて、20代の時、げっぷが出るほどやったのだ。それもこれもすべてはマウントとるためなんだが、夜の酒を飲みながらのそれに備えて、昼間のうちに書籍でにわか知識の詰め込みなんかもやったりしたものさ。今更、同僚で顕正の彼女を、以降、ここでは姫と呼称するが、姫とは多分直接的な論争になることはないだろう。姫の同級生の方か、顕正会のもう少し上位の人が、こんなオレを、それでも、折伏弘通しようというなら、多少はあるのかもしれない。まぁ、オレが彼らの立場なら、こんな奴はごめんだがね。

 ざっくり整理するならば、妙法蓮華経と勤行の良さは充分理解できた。それだけで価値があることは分かった。しかし、顕正会の主張方針とは相いれることができず、会員として活動することもできない、ということだ。

 心が決まって、改めて思うのは妙法蓮華経の経文としての端正さである。そう感じるというのは一体どういうことなのか、生まれて初めて、じゃないわ、前に鈴木大拙氏の「歎異抄」を読んだことがあるんだった。臨済宗門徒の氏が、親鸞の教えが浄土宗門徒の間で変質することを嘆いた、なんていう、言ってみれば愚痴本だ。名著とは言われているが。仏教関係の書籍を買うのは、その「歎異抄」に次いで、ということになる。それが今回、3冊ほど仏教研究書籍、他に何冊か、まとめてお買い上げだ。
 
 
 法華経関連書籍が4冊と、佐藤優氏が母校の、氏は神学部であったから、多分その神学部で講義したその内容らしい、という本と、ガダリやデリダと並んで、オレが若い時スターだったドゥルーズの、これ、入門書みたいな内容らしい。

 ホントは土木の技術書買って読めばいいのだが、ついつい手が出るのは、単車とかクルマの本じゃなければこのあたりだったりする。GWとその後の2週間の出張の夜、コロナだし遊びに行けないので夜の御供として。

 若いころというと、美術部の後輩に、一時期幸福の科学に偉く傾倒した奴と、バイト仲間の他の大学の学生(っていうか百万遍のかの国立大学の奴)でオウム真理教に入信しちゃった奴がいた。それぞれから、結構熱心に勧誘されたりした。
 って思いだしたよ。なんか、オレ、勧誘しやすいのか、原理研の勧誘こそなかったけど、前に書いた通り、英会話の教材やら、高校の時新宿駅で自衛隊の勧誘を受けたし、渋谷から青山通り、表参道と歩いただけで2回、厚化粧のオバちゃんお姉さんに、シルクスクリーンやらリトグラフやら売りつけられそうになった。以来、クリズチャン・ラッセンが特に嫌いになったんだがな。
 そう思うと、オレって、そんな隙だらけに見える? って、少し落ち込んでしまう。

 そのあたりから、思ってたのさ。新宗教、新興宗教なんていうのは、組織として不安定な分、教祖が「烏の色は白」といってもそれに従わなければならないようなところがある。そうしないと組織を維持できない。壺とか怪しげなもの売られる以前に、そういうのが我慢できない。

 こうやって、オレは、良いと思ったりとか興味を持ったりしたら、その話の裏も取り、そのうえで受け入れるかどうか決める、なんて言うやり方をいつの間にかとるようになった。法華経との出会いはきっと悪くないものであるという予感がある。それをもたらしてくれた姫には感謝だ。心から。

 まぁ、しかし、特に顕正会のような立ち位置の新宗教、そこの支部長あたりが仮に折伏にくるのだとしたら、そのような本では何も日蓮大聖人様の教えなどわからない、とか、間違いだ、とか言うのだろう。まぁ、それならお互い何が分かってるのか? って話なんだが、お互い何もわからないんだよ。なんて、少々乱暴か。主観も客観も必ず正しいことなんてない。一般に客観が正しいみたいな思われ方をしているが、そういうのはただ、外から見る分には、以上の意味はないから、中の事は分からないし、内側にこもっては外からの評価がわからない。信心が、他所の評価も気にならない。自分の信心で目いっぱいで、他人様の信心などどうでもいい、という立場を取らない、あくまで折伏にこだわるなら正しいものはまるで見えていないということになる。ただ、自分が絶対正しい、という料簡こそ、実は真っ先に間違いであると断ぜられるべきものであると思っている。その辺からして多分決して分かり合えない。

 まぁ、オレが思ってることだって正しいとはほぼ思っていない。特に万人にとっては。間違っているから常に正しいものを探すのだけど、正しいものを手に入れた瞬間に間違ったものになってしまうのだから、きりがない。しかし、そういうことの面白みが、何となくわかってきていたりしてな。


 限界超克の姿こそ男にはふさわしい
 それは一種永続的な闘争であるが
 その苛烈な思惟に耐え続けるのは難しい
 若さは性急に結論を欲し 問題を切断しようとする

 自身の有限を自覚しながらも
 再び立ち上がり走り出さなければならない
 初めてアクセルを握った時から
 何も変わってはいないのだ

 そらで覚えているのを書き出してみた。それぐらい若い時のオレには重要な一節だった。「キリン」が最初にMr.Bikeに連載されていた時に、東本氏によって、作中と、漫画とは別のページに書いてあったのを合わせて、こんな感じだったと思う。
 こめかみとその奥の脳髄の芯が随分と疲れたような感覚は取れなかったけれど、これはこれからこういうものだし、男ってこんなもんだ、なんて妙に腑に落ち、何か世界が変わったような気がした、これを読んだときは。
 因みに、「男には」なんて、「男」を振り回すなんて、随分昭和だが、しかしこの場合の男はつまり、例えば戦場で、恋人の写真を持参して「戦争が終わったらこのコと結婚するんです」なんて妙なフラグを立てることもなければ、そもそも、持って歩く写真に写す恋人などいないのに、いざ始まってしまえば、真っ先にヘルメットごと頭を撃ち抜かれてしまうような男、意を決して女性に愛の告白をして「君のためならなんだってできる」といったら、即座に「じゃぁ、私のために、私の前から今すぐ消えて」と言われてしまうような男である。いくら男女平等とはいえ、そういうのはごめんだろう、多分、女性の方々も。

 モチベーションが低いわけではないが、妙に疲れ果てた感覚があるし、それでいて変に覚醒していて、寄り添ってくれる人もなく脚に力は入りきらないのだが、寄り添ってくれる人がいなければ、前に行かないのか? 違うだろ? と、ゴーストが囁いてくれちゃったりなんかして、一度、丹田に力を込め、歯をほんの少しだけ食いしばり、食いしばりすぎると俺みたいに奥歯ボロボロになりますので。まぁ、そういう自己イメージだ。そうやってよろよろ前に進みだす。

 どこかの教えにおすがりすれば、それは間違いであると断じられ、なにか即席のお救いをあてがわれるのだろうが、そういうことは選ばない。

 で、自己陶酔と揶揄されるから人には言わないけれど、案外とこれが、居直ってしまえば楽しいと思えなくもない。そんな感じ。


 キリンが、何十年越しにポルシェに挑みかかるきっかけは若い女性だった。こちらも若い女性であることは変わりないが、あちらはイケオジで女性と懇ろになったりしていたが、こちらは、そういうことはほぼあり得ない。でも、な~んか (´・ω・`)人(´・ω・`)ナカーマ、とか、思ってしまった。

 
 ランボゥの詩というのは、そういうのが、そんな珍しくはないことで、ちょっとばかりしんどいかもしれないが、特別絶望的な孤独感を感じるほどの事もない、と、いい具合に教えてくれる。
 ような気がする。知らんけど。


 というようなところを、顕正会の件は、ブログでは、一応のまとめとしておく。新しい展開があって、それが面白いと思えば書くことにする。


 
 


2022年5月2日月曜日

7481 小倉藍

 

7481 小倉藍

Ai Ogura
kalex-Triumph Moto2
Jerez 2022

優勝おめでとうございます


2022年5月1日日曜日

7480 Z1-R_34 & 正しくないことを求める 又はロールモデルの不在

7480 Z1-R_34


 なまじ正しいもの、と言っても、この際は、人倫的に正しい、ということを指すよりは、最短距離を行く正解、という意味での正しい、を指すが、そう、なまじ正しいものを求めるから、解釈や考え方の違いを生み、時にはそれが深刻なものとなる。
 いっそ、間違ったものを目指してはどうか? ある時点で、オレはそんなことを考えてしまったのだと思う。今でも、より多くの事を知りたいならば間違ってみるべきだと思っている。

 そろそろランボゥの話に戻りたく、「地獄の季節」をほんの少しばかり音読してみた。気が付いた。こりゃぁ、宗教家には見せられないな。卒倒起こすぞって。宗教的には何一つ正しいものがない。権威にすがることも、権威を目指すことも、自分自身が権威になることも、最初から放棄している。今の時点で正しくはないし、正しいものを目指しているわけでもない。ただ、無防備に苦しみ、それを晒している。中原中也もそうだ。

 オレが若いころの昔には、イケメンに限り、そういうポーズもモテていたが、今は全面的にアウトなんだろうな、きっと。いつだったか、この十年以内の事だ、こういう感じの稚拙な模倣のロックバンドの曲を、真矢みき氏が「バランスが酷い悪い心をしている」とかなんとかで、斬って捨てていた。まぁ、そりゃあそうなんですがね。
 で、男の子は一本キリの価値観の線上に並べられ、ある所より下位は足切り、その後陽の目も視られなようなそんな感じになっていく。

 これを自ら進んでいくというのは、かなりのリスクがある。まず失敗してひどい目に遭う。オレも結構そんな感じ。稀に成功する奴もいるけれど。

 しかし、まぁ、一直線に並べられては、ずっと後ろの方に押し込められるぐらいなら、自分の思うところを目指して失敗したほうがマシという考え方はあるように思う。あとは自分の心臓が止まったのにも気が付かないぐらい集中して進んでいくだけだ。

 というような生き方も、なかなかできない時代、社会になってしまった。ロールモデルはきれいさっぱり片づけられ、最初からそんなものはなかったかのようにふるまわれ、ひたすら立ちすくむしかない。

 あとは、明らかに間違っている、模倣すれば苦しみしかないのが分かってしまっているような詩人の言葉しか残ってない。

 読み解け。解釈はそれぞれの流儀でいい。何かヒントがあるはずだ。

 

7479 研二クン仕様 3_retake & あ痛てて?

 

7479 研二クン仕様 3_retake


 ひとつ厄介なことが、人間って弱いものだから、アイデンティティとか自分の正しさとかの根拠を、権威、歴史伝統、その辺に求め、盲従したり、不勉強の上におかしな解釈が入り込んだりして、まぁ、なんていうか、とっ散らかって大変なことになる、というのがある。まぁ、それは実害がある場合とない場合があって、ない場合など、直接批判はできないけれど、それが時間、代を重ねるごとに、更におかしな具合に拗らせちゃったりして、もうひたすら「面倒」というしかないものになってしまう。

 ずっと、法華宗界隈の事書いてきたけど、日本の暴走族? 珍走団?だってそうだ。何よりもまず、やたら画数の多い感じを使った当て字とか、本家ロンドンのロカビリーからせいぜいキャロルクールスまでのリーゼントを真似たにしては、随分とビミョーなトサカ頭、チョッパー由来なのかプレスライダー由来なのかわからんが、それでちゃんと運転できるの? っていう感じの絞りハンドル、それ前見えないでしょう、という取り付けられ方した、ロケットカウルとか。まぁ、その辺はまだかわいいよ。
 拗らせがさらに進んで右翼団体何かに身を進めるが、決して歴史を勉強しなおすわけではない。都合のいいことだけちょこちょこ摘み上げて、自分は歴史の本流の上に立っている、なんてお手軽に思い、足りない自分の知識と知恵に反することを目にしては、それがそこにある必然に思いをはせるなんてことは当然せず、ここぞ、オレの生きる世界とばかりに攻撃する。
 あらゆる宗教のチカラの根源はここにある。神が仏が存在を肯定してくれるからそこに立っていられる。あとは、その思いの強弱。

 第一に、アイデンティティなんて横文字自体問題がないことはない。ところがそれに合う適当な日本語がどうも見当たらないので仕方ないが。そういうものを意識しなくても、引っ掛かりなく生きて生きていけるなら何となくやれてしまう今の社会、ということもあるのだろう。ただ、一旦、一歩でもそういうコースを外れてしまうと、とんでもない恐慌状態に陥ってしまう。
 何にすがるか、それについて個別に批判したりしなかったりは意味がないし、いかなるものでもそれぞれの意志は尊重されるべきだが、ただ、それはそういうものだと知っているのと知らないのでは大違いではないかと思う。

 どちらがいいのかって? そいつぁ言えないね。

7478 toecutter replica & 世紀末なんたら伝説と末法 

 

7478 toecutter replica


 丁度「鎌倉殿の十三人」、大河ドラマでやってるが、鎌倉時代の武士なんて言うのは、まだまだ、野盗と区別がつかないならず者が多く、まぁ、言ってみれば某世紀末何たら伝説に出てくるようなヒャッハーな人たちがいっぱい? このあたりを末法の世とし、法然、日蓮、道元が現れた、なんて、昔歴史の授業で習ったこと、wikipediaで確かめながら進めていく。

 日蓮が今の関東、千葉鴨川のあたりのその辺の農民とかのリーダー的な家に生まれ幼少時を過ごし、仏門に入り、特定の人物に師事するということもなく、大体は独学でसद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma-Puṇḍarīka-Sūtra、即ち「白蓮華のように最も優れた正しい教え」(植木雅俊訳)にたどり着いたとあるが、多分その頃の関東と言えば、集落から一歩出たらヒャッハーの真っただ中で、幼少時から末法の世を皮膚感で感じていたのだろう。

 ということは、来世以前、たった今、救済などとお高くも止まれない、正にわが身を守らなければいけない、魂の救済? そんなの後々、という現実も身に染みていたのだろう。仏様の話は今晩ゆっくりするとして、たった今だ、この酷い現実を何かしなければ、というところが、法華宗系が他の宗派に比して特に政治を志向する原因の一つなのかもしれない。或いは仏の教えと現実の乖離具合、そのギャップをいかに埋めるかで、終生頭がいっぱいだったのかもしれない。

 それにしても、日蓮正宗、創価学会と、妙信講則ち顕正会の人たち、正本堂の建立なんてことで対立するとか、っていうか、そこに、派閥同士のマウントの取り合いがあったんだろうが、それ自体、像法または末法の徒の所業と思わなかったのかしら? 日蓮がいたら実に下らん、と、三者まとめて一刀両断されるかも、とか思わなかったのかしら?

 まぁ、日蓮がそれをいかに思ったかなんて知るすべもないが、

 例えば、平安末期から鎌倉期の、特に治安の乱れを、現代の状況に類似する、という法華宗社会観、歴史観であるが、事此処にいたり、信心が無くなったからだ、などと言ったところで、現実の野党の主張並みに、抽象的過ぎて、お花畑で、却って、だから宗教は、となりかねない。っていうか、なってるし。そういう現実を、今の日本中が間違っている、などと繰り返してそれしか言わないのであれば、これまた無能な野党と同じなのである。
 せめて、信心によってどうなる? またはどうして信心を獲得できない? その辺を地道に探っていくところが見えればよいのだが、まぁ、大方の印象はそうじゃない。
 宗教法人は、自分たちに誤謬は一切なく間違っているのはこの世の方で、力ずくでそういう民心を変えなければならない、というのがまぁ、ほぼ100%で、これでは、彼らが忌み嫌う共産党員と全く同じなのである。
 まぁ、好きに言っててくれよ、ただしオレのいないところで、なんだが、

 一応オレも政治学科にいた人間で、とりあえず分かったのは、政治という如何に複雑怪奇で人心をまとめるなんていく困難も知っているし、っていうか習ったし、それに対するあらゆる処方も仮説の域を出ないことも習った。経済学、社会学、心理学、法律、それらの更に細かく分類分化されたものが、人数分の利害も絡んで、もうほっぽり出したくなるほど「面倒くさい」をはるかに通り越した複雑さで、それを何とか解明しようとする学問であったと思うが、それを「仏の教え」なんて、一言で何とかなると思われているとしたら、何とも舐められたものだ、と、苦笑いしか出てこない。仏の教え、それは結構。それを是非、膨大な個別の問題、恐らく全人類の人口以上の数がある、に生かして順に解決していってはくれまいか? おそらく、それは教義のお仕着せでは何一つ成せないはずだ。

 とりあえずはウクライナ問題だ。コロナ禍の事もある。それにして物流や経済が急激に悪化している。ウクライナ問題では、それこそヒャッハーなことをしでかすロシア兵がかなりいたそうである。国立戒壇の建立なんて言ってる場合じゃないぞ。今ある危機についてちゃんと彼なりに対処しようとしたのが日蓮ではなかったか?

 とはいえ、一介の田舎のおっさんにすぎないオレにしても、それについての処方など一切持っているわけではない。自分にできないこと人に求めるのも何なんだが。

 逆に言えば、日蓮聖人の教えは、「白蓮華のように最も優れた正しい教え」を唱える、それがすべてで、それ以外は一切要らないということもできる。一切の政治的活動もだ。

 まぁ、そういうわけで、摂受ならまだしも、つまりそういう考えの人も世の中に入るんだねぇ、と思えても、オレはそれを自分のものとすることはできない、オレを折伏弘通するなんて言うのはやめてください。たのんます。

 画像は、世紀末何たら伝説な漫画の世界観の元になった「Mad Max」に出てきた、トゥカッターの単車のレプリカ。

7477 Martin Z1000R_1 retake & ♪最後に笑っちゃうのはわたしのはぁずぅ~♪

7477 Martin Z1000R_1 retake


 '70年代後半から'80年代前半にかけてだと思う。その前後もあるにはあったが、オレのイメージではこのころが百花繚乱という感じの全盛期だったと思う。
 その頃のヨーロッパの単車メーカーが作る二気筒よりは、いまいち違いが判らないけれど、日本の4メーカーが作る4気筒エンジンの方がパワーがあり、結構人気だった。セックスピストルズだったかクラッシュだったかは忘れたが、退屈な自国のメーカーの単車よりは破壊的パワーを持つホンダの単車を、と、レコードジャケットか何かに使っていたように思う。とはいえ、まだ、このころ、ヤマハは出遅れてて少数であったが。勝ってきた単車のエンジン、エンジンブロックが鋳鉄肉厚でマージンが大きく、ギリギリシリンダーの径を広げてオーバーサイズのピストンブっこんで、パワーを上げるなんて言うのは、当時日本人には思いつかないことだったようだ。Japanese Universal Motorcycleなんて、4メーカー、ちょっと見た目はどれも一緒、と揶揄はされたが、元々パワーがあり、さらに上乗せできると人気は相当のものだったようだ。
 この際の百花繚乱とは、フレームメーカーということ。画像のマーチン、ほかにもニコバッカー、ハリス、エグリ、そしてビモータ。他にもいっぱいある。日本の単車を買った人が思い思いにパワーを上げるのは良いけれど、単車メーカーから出荷されたものの吊るしのフレームでは、そろそろそんなパワーも受け止めきれなくなりつつあって、その置き換えに、ということだ。
 GPから耐久、ノンタイトルの賞金レースまで、そこに出走して、互いに、どちらのフレームが優れているか、そういう面もあっただろう。誰が作ったフレームが優れているか? 言い換えれば、誰の設計コンセプトが正しいか、誰の工作技術が優れているか、ということでもあったはずだ。
 やがて、日本のメーカーの単車も、コンピューターで応力とか計算したアルミフレームで最初から出してくるようになり、こういうフレームメーカーは淘汰されていくのだが、そんなフレームメーカーの鉄パイプ製フレームが息を吹き返して、日本製アルミフレームを凌駕する場面もあったりで、今でもニーズが全く消滅してしまったわけでもなく、という感じ。でも、環境対策で設計がキメキメキツキツになった今では、パーツの交換が自前でできる余地がかなり少なく、いよいよ絶滅するかもね。

 どうなんかな? ’80年代の事と今の事、今の事は置いといて、’80年代当時のことだ。誰が作ったフレームが優れているか、というのは論争で決まるものじゃなかったはずだレースや公道を走って、乗り手の癖も踏まえて、それで決まったはずだ。

 人生における、こう生きたらよろしい、というのもすべてその時点では仮説で、本当に正しいのかどうかは、一生かけて、それこそ今際の際までの時間をかけて、証明するしかないのであるまいか? 他人が言う、それこそ怪しげなマナー講師が勝手にでっち上げたマナーとか呼んでいるものの如き、生き方についてのあくまで”仮説”に従う必要もなく、自分が思うように生きて、最後に笑っていれば勝ちだ。それこそ、その後どす黒く硬直しようが、それはもうどうでもいいのだ。

 途中間違っていることに納得できたなら修正変更したってかまわない。ただ、うまくいかないからと、慌てて人の言うことに盲従するということだけはやめた方がよい。

 自分が正しいかどうかは論争で決めるんじゃない。行動で決めるのだ。しかも相当の時間をかけて。今、例えうまくいってなくても、そんなことは大したことじゃない。

 

2022年4月30日土曜日

7476 KZ1000MkII_11 & メメントムリムリ

 

7476 KZ1000MkII_11


 新しめの賃貸住宅の、小ざっぱりとした一室に設けられた祭壇に向かい、彼女の友達が前に座り読経を始める。彼女はオレのすぐ横に座ってオレが渡された経本のどこか迷ってるとそのたびごとにどこを友達が読んでいるのか教えてくれる。自分の娘ぐらいの女性に高校生の坊やみたいにドキドキしちゃって笑われてみるテスト。

 読経自体嫌いではない。そして、なるほど妙法蓮華経、心地よくいいお経だった。前に座って経を読む彼女の友達の声質が変わったようにも思えた。トランス状態に近づいているか。ある意味ヤバいな、これ、とも、ちらっと思ってみたり。


 さてそんなこんなで、経本と数珠(彼女の団体ではどういう言い方をするかはわからない。こういうこまごまとしたものの用語、宗派によって違うのだから、ホント面倒くさいよな、お前ら)を渡され、勤行のフォーマットも教えられ、まずは素直にそれに従ってみることにした。反論、批評するにも材料が少なすぎることもあったし。

 で、勤行自体は非常に良いものであるとは感じた。さすがは、挫折に打ちひしがれていたであろう彼女を救ったものの事だけはある。

 しかし、だ、そういう美点を帳消しにするぐらい、彼女に渡された機関紙、ネットの上位者による講話がお粗末で閉口した。あ、オレはこの団体とは相いれない、と思ってしまうぐらいに。

 何点か書きだす。

 上位者の講話。信者獲得、引き留めのためもあるのだろう、まぁ、一般通念ではありえないような日蓮大聖人様の起こした奇跡の数々を検証不可能な形で並べて押し付けられても、オレはそこで扱いに困りフリーズしてしまう。正直、そういうのを信じられない以上に、そういう話の押し付け方に拒否感を強く覚える。前にも書いた。彼女を救った、このことだけで充分奇跡的なのだ。そういう心を大切にする感じがちっともしない。なんか妙法蓮華経の良さがなければどうしようもないすぐに吹っ飛んでしまうぐらいに不味い。

 ここで、彼女の団体の名前を書かざるをえまい。以下を読めばわかる人にはわかるだろうから。富士大石寺顕正会という名前である。戦後の新宗教というものに分類されるらしい。彼らの目指すところというのは国立戒壇の建立なんだそうで。つまり、妙法蓮華経の国教化である。あ~、一応は法学部政治学科にいたやつに言うことじゃないよな、と、思ったり。
 政教分離というが、さて、宗教人が宗教から得たインスピレーションのようなものを政治の場で主張するのはアリだろうが、実際に政治や制度に宗教のエッセンスが入り込むことはあってはならないと思っている。
 どうも、法華宗系というのは政治的であろうことを隠そうとはしない。その極が創価学会であるが、一家して学会員のところの従弟に上のようなことを申し上げたら猛烈に反論されたことがある。何を言われてるのかちょっとわかんなかったけど。まぁ、彼が熱心な信者だということは分かった。
 政治というのは、一面マウントの取り合いである。その為であろう。法華宗系というのは、他の宗派に比して、分派が非常に多い印象がある。宗派内で、あいつの言うことは間違っている、あいつの言うことが気に入らない、あいつが気に入らない、というのが多宗派より多いのだろう。浄土真宗なども戦国時代はそんな感じだったそうだし、宗派同士の物理的な争いも珍しくなかったが、しかし今や真宗の方はお互い見て見ぬふりなのかどうか、穏やかなものだ。
 だから宗教は力をなくすのだ、と、法華経のひとはいうのだ。あ、従弟もそんなこと言ってかもしれない。だから宗教が世を救えないのだと。いや、政治的になる事だけが世を救う道じゃないだろ、と。精神医学、社会学その他の蓄積された知見も使い、それぞれの心について、どうしてもっと具体的な処方を示さない?
 政治的であるあまり、地方にある組織を、「隊」などと称する。いやいやいや、宗教も軍隊もなすべきこと、意義がある事だけれど、受け持ちするところは全く違うところはずだろ、と強く思う。正直、気味が悪い。

 さて、顕正会は最初妙信講と言っていたそうであるが、宗教施設に関し、当時は同じく日蓮正宗内にあった創価学会を激しく対立したそうであるが、そこからしてなんかもう。箱モノにこだわるところが如何にも政治的であろうとする法華宗的であるが、宗教とはそういうものじゃないだろうと。先に妙信講が正宗を破門になったそうであるが、創価学会も割とすぐ、あまりに金に汚いということで同じく破門になっている、そうだ。してみれば、妙信講側、即ち顕正会側が、自分たちが法華経自体により真摯に向かっているし、それが高じて、自分たちを唯一真の仏弟子と称するようになったのも想像できる。
 破門されたときは、まじめに、一所懸命活動していた人たち、悲しかっただろう、悔しかっただろう、寂しかっただろう。
 しかし、今となっては、本当のところ日蓮が何を思っていたか分からないし、更に仏陀、ゴーダマ・シッタルダが何を考えていたのか、日蓮が本当にそれに即していたかなどということを誰も検証はできない。検証できないことを押し付けられても、それが気になって、とても信心にはつながらない。

 過剰に政治的であることを自身の組織の構造的問題と捉え、法華宗内で提起し活動しようとしても、またしても新しい分派ができるだけの事なのだろうな、と思う。本当に経文自体はいいのに、残念なことである。

 で、そのような経緯もあるのだろうが、他宗派、他宗教を邪教と言ってはばからないし、池田大作に至っては蛇蝎認定である。宗教家にしては結構汚い言葉でののしっている。それが一番拒否感を感じてしまうことろ。まぁ、池田大作のあの淀んだ様がよくわからなくとも良からぬものであることは大いに同意できるところであるが。
 ルサンチマンから自由になるというのも宗教にとって大きなテーマであり、そのルサンチマンの質もひとぞれぞれで、それに従いそれぞれの処方が必要となる。人をののしる事でオレのルサンチマンは晴れるのか? とてもそうは思えない。

 というようなところで、オレが顕正会の会員として活動していくことはムリ、なのだ。あ~、彼女には恨まれるかもな~。ちょっと辛い。が、まぁ、まずは経本と数珠(繰り返すが会の中での正式な言い方を知らない)、返却、どうやってやろ?

 ここで顕正会の名誉のため、というか、ネットで検索した限り、創価学会や他の怪しげな新興宗教と違い、金などが絡んだなどのトラブルは、ごくまれに突出した個々の会員を除き、ほとんどないようだ。そういう意味では、もし、彼らと考えが合うというというなら信者になってみるのもよかろう。オレはムリだがな。
 何よりも、繰り返す、彼女を救ったのだ。これは大きい。


 

7475 Ayrton Senna da Silva_26 & メメントモリモリ

 

7475 Ayrton Senna da Silva_26


 一個前のエントリを書いていて思い出した。そうだよ、5月1日じゃないか、と。セナの死から28年、もう28年だよ、え? 微妙にここ何本かのエントリとテーマが重なるので、画像、カワサキ空冷4発から離れて、5月1日恒例セナ画いきます。

 もうムリとわかっていたんだよ、あの頃、オレ。で、ぽっきり男根が中折れするがごとく、セナのウィリアムスはタンブレロの壁に激突し大破したのは、何かを暗示しているように思えた、とは、何度か書いた。ここは戦略的撤退をすべき局面であると強く感じるきっかけだったのだ、1994年5月1日にイモラサーキットで起きた出来事というのは。ここでこんな風に腐ってる場合じゃない、何かを練り直さねば、と思ったのだ。

 ここへきて、の一連のささやかな出来事は、神仏か、或いはセナかもしれないが、何かこの所ですることがあるのなら、ぼやぼやしてるんじゃない、と、そういったものが彼女を遣わしたのかもしれないな、とも思ったりもする。


 そんなことを思ったりもするのだが、だがしかし、だ、悪いものを抱えて死んで地獄に堕ちる人の骸は、黒ずんで重くなってしまうのだと、これは彼女の団体が言っていることなのだが、それを熱心にオレに言う彼女に、「あぁ、〇〇ちゃん、これ以上オレをがっかりさせにで!」と、内心思いながらも、かなりあいまいな表情をオレは浮かべていたことだろう。まぁ、これも書いた通り、翌日の職場での彼女はいつものようにカッコよかったからいいんだがな。
 死に際し、いよいよ魂魄が肉体から抜け落ちると、体重が何百グラムか落ちる、つまり、魂魄にも質量があるのではないか? という話はどこかで読んだことがある。死体になるとがおかしな具合に硬直し黒ずんでしまうというのはその人が地獄に堕ちたから、なんて初めて聞くが、どうやら彼女の団体の重要な教えでもあるらしい。

 言っちゃ悪いが、関係なくね? とか思ったが口には出さない。それは、多分生前摂取した化学物質のせいかもしれないし、オレみたいに心臓疾患を抱えて血の巡りが悪くなってりゃ、死んでしまうと早いうちにそうなってしまうこともあるかもな。逆に言うとオレが死ねばそうなってしまう可能性は結構ある。でも、そんなこと、多分自分の身に起こるであろうけれど、やはり、関係ないね、って。
 死ぬ時ゃ、そうだな、死期を悟ったら、南の島の人が来ないようなところの樹の根元に倒れ伏し、そのまま息を引き取って、ドロドロに溶けるように腐って土に還りたいものだと思っている。まぁ、その辺の野生動物とかに食い散らかされて、肉も骨もその辺に散らばって、そのままの形では土に還ることもかなわないのだろう。ただ、妙に黒ずんだシミを大地に残すのは一緒なのかもしれない。両親が死ねば、まぁ、妹はいるけれど他に係累がいない以上、そうなる自由もオレにはある。まぁ、日本国の領土の中でそれをすると関係諸方面に多大なるご迷惑をおかけすることになるかもしれないので、他所で。

 宗教にとって、死というのは重要なテーマだ。どの宗教にとっても。死んだら、今の思い、思うオレのこの心は、どこに行くのだろう? およそ意味消失というのが、言葉ではわかっても実感として想像できない。
 しかし、まぁ、前の職場で、山の中上司が目の下に延びる跡津川断層を見ながら言ったことが今でも忘れられなくて。このブログの前やってたウェブページにも書いたけど。

 「俺達ゃ、何千何万年の時間相手に商売してるようなもんだよな」

って。地質調査の仕事というのは、確かにそういう側面がある。地球誕生からの時間を24時間と見立てたら、人類がなんかもしゃもしゃやってる時間というのは、わずか0.2秒なんだそうで。そんなところで、自分の魂がどこに行くとか何とか、ひどく無意味に思える。少なくとも、死後の事について何か憂うるというのは、オレにはない、そんなヒマはないと認識している。何も残せないだろうけれど、残してもなんか無駄なような気がするけれど、オレの人生の勝利条件はそんなところにはないと思っている。

 でも、ま、それで、ちゃんと彼女はやっているのだから、彼女にとってこれは間違いではないのだ。それは尊重しよう。何事も相性なのだ。彼女とこの教えの相性はこの上のないものなのだろう。
 しかし、まぁ、困ったなぁ、彼女とその友人がオレに言ってること聞けば聞くほど、気持ちの乖離が止められない。



7474 Jean Nicolas Arthur Rimbaud & ランボゥ~妙法蓮華経

 

7474 Jean Nicolas Arthur Rimbaud


 ポエトリーリーディングなどとカッコつけて横文字を使わずとも、詩の朗読と言ってしまえばいいのであるが、これは専ら読み手のためのもので、よほどの読み手でない限り、聞いているだけならあまり参加する意義は感じない。
 アレン・ギンズバーグとかジャック・ケルアックあたりの時から、イヴェントとしてあるようだ。自作の詩を読むのもいいけれど、それより、ある程度知られた他人様の詩を朗読する方が意義があるのではないかと思う時がある。何かを取り込むうえで。まぁ、感覚的に思うだけなんだけど。
 
 或いは舞台演劇にも似る。言葉を、脳の中だけでなく、身体に、延いては魂に定着させる方法として有効であるように思う。これも感覚的に思うだけだけど。または「知らんけど」。

 読経という行為はそれに似る。言霊などというが、いまいちオレにはふわっとしてあいまいだけど、そういうものなのかしら、古の、それなりに鍛錬を積んだ人の思想を体と魂に定着させる、そういう行為と解釈する。

 ある女性の話だ。っていっても、どれだけいるかわからない、ウチのブログをすべて閲覧している読者にはわかるかもしれない、この前登場した、あの女性だ。挫折感いっぱいにこちらに戻ってきたはずだ、当時は。自己肯定感が極端に下がり、即ち自分自身に裏切られたような心持で、明日のめども立たず、今までの夢を放棄しなくてはいけない寂しさとか悲しさとか。泣きわめきたいけれど、いよいよその境地だとそれすらできなくなるような。
 何の訓練も積み重ねもないと自分で思っていいた彼女が、安易に、夜の商売などにつくことが、一番考えやすいはずだけど、それだけ、割と見た目可愛らしいコだし、基本、明るい性格をしているので、いや、元女優だから、軽々とそう演じているだけなのかもしれないけれど、店に出てもそれなりに人気は出ただろう。
 しかし、昼の務めを選んだ。職場の彼女は明るく有能で、打てば響く感じ、肝心、必要なところで素直だし。凛としてかっこいい。

 本人の性格もあっただろうし、親兄弟、娘の果たした役割も大きいだろう。ただそれよりも彼女自身の人間としてのコアな部分の強さに、正直、いたら自分の娘ぐらいの歳の彼女を半ば尊敬したりもしていた。

 彼女と彼女の高校時代の友人が目の前に並ぶ休日のファストフード店の席で、20の時、観月橋の前時代的な喫茶店でやはり女性二人に体面に座らされ、英会話教材の売り込みをかけられた時の事を思い出した。その時は、丁度大学のESSでチャップリンの「独裁者」の演説部分、いや、J.F.ケネディの就任演説だったかな? を暗唱していたので、それを目の前の二人の女性にかまして撃退した。
 勧誘かよ、と。心の中で舌打ちをする。法華宗系の団体、らしい。何しろ職場ではぼーっとした感じのおっさんなので、扱いやすいと思われていたとしたら悔しいな、と。職場では若い彼女の足を引っ張ることも度々あり、少しは彼女の俺に対する心象も良くしたい、出来れば少しお近づきにもなりたい、なんて言うスケベ心がコレだ。まぁ、オレにはよくある事です。

 と同時に、職場の彼女がどうして自分自身をしっかり保つ出来たのかその理由もわかった気がした。やはり古の人の言葉を体に取り込み、それによって彼女自身をしっかり立たせていたのだろう。聞けば、勤行のフォーマットをできるだけ厳格に守るのが彼女の団体の肝らしいし。朝夕、決められた形で今日を唱える。これは決してバカにできるものでないことは知っている。
 体内時計的な生理的リズムを作っていくという効果、発声し、身体にダメージを与えない、特に声帯を頭蓋骨を振るわせて規則的に刺激を与えていくことで、思考と体のつながりの流れをよくすることができる、ような気がする、知らんけど。
 それは、逆に言えば読経でなくても、妙法蓮華経でなくてもいいのだが、ある団体の下、その団体の規則としてそれを行う、というのは、我々はそれぞれは弱くいい加減な存在であるから、かなり有効であるようにも思う。

 彼女は、この後、「確信」という言葉を使っているが、パッと目の前の霧が晴れる感覚、恐らく、それが強いものであれば、神秘体験とか啓示とかいう言い方をよそではするのだろう。脳と体が一定方向に一定以上の負荷がかかった時とかに、起こり得るものであるようだ。そのような効果を欲するならば、妙法蓮華経でなければならないことはない。般若心経でも、観経疏でも、念仏でも構わない。読経じゃなくてもよい。それでも、誰か著名な詩の朗読でも構わないし、歌を歌うのでも構わない。スポーツでその境地に至ることだってできるようだ。
 そういえば、これを書いている今日の明日が命日となるアイルトン・セナ、フレディ・スペンサーはウチのブログではおなじみ。昔で言えばカール・ルイス、さらに昔のモハメド・アリ、ちょっと昔のウサイン・ボルト、最近では大坂ナオミに至るまでの「信仰の告白」とは、そういうところからきているように思う。
 思想家であれば、フリードリヒ・ニーチェが自分の思想と形而下の自分の日常の悩みに疲れ果てた時、どこぞの湖のほとりを散歩していた時受けた啓示により、「ツァラトゥストラはかく語りき」を書きあげたはずだ。
 オレにしても、今まで、中途半端なものであるならば、そういうの、何度か経験したこと、ないわけじゃない。

 彼女には、妙法蓮華経があるところに、ぴたっとはまり、挫折に適切な手当てをして、それによって彼女自身をすくっと立たせさしめているのだと思った。無いこともないが、これで充分奇跡的なのだ。

 充分奇跡的なのに、それを置いて、昔の、検証不可能な、ここでは彼女たちに合わせてこう言おう、日蓮大聖人様の起こした奇跡の数々をオレに開陳されていくのを、うなづきつつも右から左に受け流しながら、職場ではあんなカッコいいのに、目の前の彼女はちょっと残念なコに見えてしまった。しかし、その次の日職場で彼女にあった時はいつものように凛々しくカッコよく可愛かったのだから、不思議なものだ。

 彼女の同級生は、オレが気を使いながらも反論しようと試みても、それをさせじとばかりに言葉をかぶせてくる。勧誘時のノウハウの一つなのだろうか? こうやって勧誘することで団体の中での彼女の位階は上がることもあるのかもしれない。それに協力するのは、今後会社で円滑に彼女とコミュニケーション採るためにもやぶさかではなかった、この時点では。ただ、彼女が「普段はつかえねぇおっさんなんだから、こういうことぐらい私の役に立ちなさいよ」と思ってたとしたら、ちょっと辛い。

 まぁ、会社での彼女との空気を悪くするのもはばかられたので、ままよ! そのファストフード店の近所の彼女たちの団体のスペースに連れていかれることになった。

 緊張の次回に続く。


0002 ZII_1(再掲) & オレの中で起きているランボゥと空冷4気筒のキャラ被りについて。

0002 ZII_1


 強くしなやかで自分を支えてくれるような言葉を探していたのだと、今になって思う。何しろ、ガールフレンドに全霊かけて向かって、全力で彼女ファーストでいたのが、ちょっと息をついたその瞬間に逃げられるなんて言うのを繰り返していたから、ガールフレンドに支えられ、なんてこともなく、支えてくれるとすれば、どこか吊るしの言葉を探してきてそれをつっかえ棒にするしかなかったのだ。
 
 
 早熟の詩人と、その時すでに半ば骨董品、肉厚鋳鉄で重い空冷4気筒、しかしチューニングすればとんでもない馬力を出せるそういうのを積んだバイク。両者への憧れみたいなものは、オレの脳みその中ではお互いシナプスが隣り合ってたんじゃないかと思う。

 概ね突き抜けた早熟天才詩人という印象のランボゥだが、「地獄の季節」では、その"地獄"に炙られながらも目をそらさず、遂に克服したかどうかもわからないが、それでも対峙する執念を感じた。それがオレの中においては、突き抜けた強さに変換でもされたのか?

 
 排気量は少なくとも、同じカワサキでオレの400の方が年式は新しかったのだが、土砂降りの国道8号線、福井のあたり西行きの車線、四苦八苦するオレの横を抜いていったのはZIIで、奥さんか彼女と思われる女性をタンデムに乗せて。
 バイクの性能じゃない。専ら乗り手の練度の所為だったのだろう。そのZIIこそ、突き抜けていく意志そのものに見えた。

 ちょっとややっこしいぞ。ついてきて。そんな雨の国道8号線の事を思い出しながら、麩屋町錦の旅館での泊りがけのバイト明けの朝、通りに出たところで待ってたのは、京都盆地の朝だというのに蒸し暑く淀んだ熱気と呼ぶ一歩手前まで来ている重く分厚い大気で、で、土砂降りにの国道の事を思い出しながら頭の中をリフレインしているのは、中島みゆきの「あした」で。

 何もかも愛を追い越してく
 土砂降りの一車線の人生
 凍えながら二人ともが
 二人分傷ついている

 ってね。まぁ、何はともあれ二人でいられてよかったじゃないか。いよいよオレが突き抜けていかなければならない時、オレは多分一人だ、という予想はどうやら正しかったようだが、それにしても、その時は呑気にそんなことを思いながら、蛸薬師通を河原町に歩いて抜けていた。ま、今も結構呑気なんだがな。


 今になって、あの時の心の動きを、ちょっとだけ詳しく思い出さなきゃいけない羽目になっている。それについては稿を改めて。


 画像のZIIは、ちょうどその頃の、PCなんてない、全くの手描きで、こんなん描いてたオレ、すげぇ、と思ったりするが、結構息を止めてやってたので、今はできないし、やったら、リアルに死ねる。

2022年4月29日金曜日

7473 750RS-ZII_37 & ランボゥの名前なんて久々に思い出した件

 

7473 750RS-ZII_37


 Mr.Bike BGの2022年5月号に連載中の、東本昌平氏の「雨はこれから」の最後の方、
「思い出した 私はボードレールよりランボーになりたかったのだ」
とある。因みに、ランボーとは、フランスの詩人、ジャン・ニコル・アルチュール・ランボゥのことであって、シルベスタ・スタローンの銃器ドッカンドッカンのマッチョなアレではない、念のため。

 東本氏のボードレールの引用は覚えている。鈴木信太郎氏の訳による、岩波書店のものの引用であったはずで、これに思い立ち探してみるが、埋もれて見つからない。ま、いつもの事なんだがな。仕方がないので、ネットで見つけた明治38年の上田敏氏による該当箇所の翻訳を転載する。「アホウドリ=信天翁=アルバトロス」からの引用である。

 雲居の君のこのさまよ、世の歌人(うたびと)に似たらずや、
 暴風雨(あらし)を笑ひ、風凌(しの)ぎ猟男(さつを)の弓をあざみしも、
 地(つち)の下界(げかい)にやらはれて、勢子(せこ)の叫に煩へば、
 太しき双(そう)の羽根さへも起居妨(たちゐさまた)ぐ足まとひ。

 「キリン」の中には、アホウドリではなく「かもめのジョナサン」からの引用もあったな。生きづらさと自由は紙一重、でも、決定的に違う。空と陸のようなものだ。で、悲壮そうに見えて、どこか何やらコミカル。喜びいっぱいという感じでもないが、まぁ、こんなもんだろうし、悲しんでてもしかたないべ? という、どこかほんのり突き抜けた感じ。

 東本氏の作品の他の個所で、あ、これランボゥの引用だ! と思った記憶はあるのだが、どこからだったかは覚えていない。

 ランボゥの引用と言えば、東本氏の作品でなく、原作オサム氏、脚色と作画が御厨さと美氏の「ケンタウロスの伝説」の中のこれだ。

 また見つかった、
 ――何が、――永遠が、
 海と溶け合う太陽が

 で、ついでに見つかったよ、東本氏が引用したところ。どこで使っていたかは忘れた。上の引用のすぐ前だった。

 ああ、時よ、来い
 陶酔の時よ、来い


 これも岩波文庫、小林秀雄訳による「地獄の季節」(ま、「イルミナシオン」も収められてるんだけど)。堀口大学氏には申し訳ないが、新潮文庫の「ランボー詩集」よりこちらの方が気分だ。

 山川健一氏、最近めっきり作品を見ないのは、多分、オレが読書をしないせいなんだろうけれど、氏も何かに書いてたな。青春の護符として、いつもポケットに入っていたと。オレの場合青春の護符というとコリン・ウィルソンの「The Outsider」なんだが、しかし、「地獄の季節」、大岡昇平編「中原中也詩集」は、ポケットにいつも入っているというわけではないにしろ、ボロボロになるまで読みつぶし、何度か買い替えている。

 マラルメもまぁ、読んだことはあるし、宮沢賢治も同様。でも、なんか、ピンとこなかった。かなり偏ってのかもしれない、いや、偏っていた。この辺の好み。ぶっちゃけ、今思うと漫画由来なのな(爆


 でも、一度だけというのを含めると、こうやってちゃんと出版社から出ているものから、街角(京都だったし結構いた)で書き手自身が手売りしている詩集まで、結構読んだ。詩集を開くときは、ロックのCDを買い込んできてスロットルに入れて再生ボタンを押すときと同じわくわく感があった。
 



2022年4月24日日曜日

7470 Emma Watson_22 & 資源分配の事

 

7470 Emma Watson_22


 ウクライナの問題で更に顕在化しただけで、問題はそれ以前からあった。コロナ禍での物流の滞り、脱炭素化の動き、だ。

 個人の方がまとめられたものだが、コツコツと世界中の統計を拾い集めていらっしゃるページより。

 「天然ガス供給のロシア依存度」

 ちょっと詳しめのニュースを見ていたら、このことは目にしたこと、耳にしたことはあるだろう。2014年のクリミア併合の時に、すでにロシアに依存しているリスクについて警告はなされてきたようだが、これも、ちょっと詳しくニュースを見ていた人は、ドイツ経済がこのことで相当のダメージを負ったのだという話。現地に住む日本人による文章である。


 統制経済を押しのけて市場経済が世界中に広がることで、大枠において世界は安定するというのが1990年代の楽観であったが、最初はイスラム圏起点のテロリズム、そして今回のロシアによる蛮行である。
 市場経済によってロシアや中国を縛ることができると見込んでいたのが、逆にエネルギーで身動き取れなくなった形。しかし、ウラジミール・プーチンはそのような計算だったが、そのようなロシアの目論見に従うことを、身を切ることになっても良しとしなかった、といことがあるだろうし、そもそも、ロシアのやる事が酷すぎて許せなかった、というところにプーチンの計算間違いがあったようだ。

 いずれにしろ、ヨーロッパ中心ではあるが、日本もそれを逃れることはできない、エネルギーの逼迫。問題はウクライナの件だけではないので、話がとても複雑に見える。

 自動車をはじめ、生活、一般産業の熱源を電力に一本化しようとする動きが、ひどく胡散臭く思える。誰かが(何となく顔ぶれが思い浮かびはする)電力という巨大な利権構造を構築しようとしているような気がして仕方ない。

 COP-XXで、いつの間にやら、森林保護、植林を寧ろ促進する、ということが話し合われなくなったのは、なぜだろう? バイオマスは、何も電力に変換しなくても、熱源にはなり得る。太陽はあまねくすべての地上に降り注ぎ、それを個々に生かせば、エネルギーの逼迫はかなりのところで抑えられるはず。また別に電力に変換してもいいのだ。しかし、なぜ、それがメガソーラー、巨大風力発電プラント、そして原子力発電に集約されようとする? インディーズのあらゆる方式の小規模発電施設を許さないということではないか? 蓄電池の問題もあるだろう。しかし、思いのほかその進歩の歩みが遅い。研究者は必死にやっているのだろうが、未来への貢献度に比して、予算をひどく抑えられていることはないか?

 まず、エネルギーの逼迫を見せて、その辺の可能性をずっとばして、利権構造にかなった大規模発電インフラに集約させる、そういう意図が全く存在しないと言えるだろうか?

 何やら陰謀論っぽくなってしまったが、ことの重要度に比して、ウクライナの件以前から、何やら不明瞭なことは多い。

 いずれにしろ、今後熱源の選択肢はぐっと減り、価格から生活様式に至るまで、電力供給者とその周辺の言いなりとなる社会になっていく可能性は結構ある。
 そこに公正さを求めるのはどれだけ可能か? 水資源の状況を見てみるに、そういったもののひな型というのはないに等しく。資本主義の市場原理をそこで許していいものか、供給需要、効率、すべてを詳らかにして、全くの公共財として、使った正価だけの負担で済むのか?

7469 AJS 7R_1 retake

 

7469 AJS 7R_1 retake

2022年4月23日土曜日

7468 Taka Aono_1

 

7468 Taka Aono_1

Taka Aono
AE86 Trueno
Formura Drift 2009


7467 Kawasaki Z1-R + Suzuki Inazuma Engine + turbo

 

7467 Kawasaki Z1-R + Suzuki Inazuma Engine + turbo

7466 Emma Watson_21 & この後の日本の事

 

7466 Emma Watson_21


 これを書いている時点で、ウクライナ東部マウリポリというところをロシアが掌握したとかしないとかいってる。無法がこのまま勝ち逃げとは何とも腹立たしいところであるが。

 いつまで続くかわからぬこの動乱であるけれど、目先が利く奴で大ぴらには言えない方法で、ひょっとしたら大儲けしている奴もいるのかもしれないが、多くの場合、徐々に生活の不便が増え、不安も増している、そういう状況で、日本においてはこの動乱で何が問題となったか、整理しておく。結局、国としてどうしていくというコンセンサスというのはなかなか形成されないだろうが、個々としてどのような心構えで行くべきか、国、社会としてのコンセンサスの前に必要になることもあろうかと思う。

 ロシア側は散々一連の報道をフェイクと主張する。かの金色頭みたいだ。そうやって自分の非と認めない。確かに本当に報道が真実なのか、突き詰めようがない。どのような映像もCGでちょちょいのちょいな時代だ。
 PCやテレビのモニターが知らせてきている、どれが真実に近い妥当なものと判断するか? 結局は感覚でしかないのだけれど、感覚は狂うものだ。できるだけ人の主観が入らないデータ、信頼できるソース、データ取りのやり方まで明らかなもの、成形されていない生データを求め、しかも、そういう生データを読み取る能力となる。
 そうなると、例えばテレビのコメンテイターなる職分がいかに、場合によっては胡散臭く、基本的には不要、ということになってくる。
 これはウクライナ問題だけではない、コロナの時もそうであった。一人の立てるところは一か所でしかなく、そこからの視点、コメントには当然反論も有り得る。ここでも、さて、どちらが正しいのか? となる。受け取る側として、では、どちらが人に優しいのか? といったことが一つの判断基準にはなり得る。しかし、これも、どれをとっても人に優しい面、そうじゃない面があったりするのだから、知れば知るほど、人の話を聞けば聞くほどわからなくなる。精神医などは、いっそ、目を背けることが心の健康のためになる、ともいう。でも、そこにも、置いていかれるリスクはどこかで頭を持ち上げるはず。
 ここで、どうすればいいのかなんていう結論なんてわかるはずもなく、書けるはずもない。非常にしんどいことであるが、その都度、判断していくしかない。一個前の判断が間違っていたと思えば、修正することをためらってはならない。状況は恐ろしいスピードで変わっていく。

 国防の問題。ロシアの高官が脅しをかけてきた。しかし、少なくともウクライナが落ち着くまで、戦線を二つ抱える甲斐性がロシア軍にはなさそうなので、状況は注視しつつも、おちついてかんがえるべきではある。それにしても、やくざ者まがいの品のなさにはあきれるしかないが。
 とはいえ、いつかは何らかの形が付く。そうじゃなくても、ウクライナが落ち着いているかどうかはわからないが、日本には近い将来、国防が手薄になってしまう出来事がほぼ確実に起きる。巨大地震。それを機に、ロシアだけでない、中国や北朝鮮が領土の一部を占拠しないとだれがいえよう? ウクライナの事が起きてしまった今となっては。国際法とか慣習とか国際世論とか、もう、お構いなしの連中で、明らかに不利となることがわかる状況でない限り、行動基準に、常識とか良識とか慈愛とか遵法精神とかエチケットとか、その辺のもの一切合切欠落しているのだと思った方がよい。
 理念として戦争放棄、そうありたいね、とは思うが、いざという時にやがて70年前にできた法律に、それについて何の吟味をすることもなく、アップデートをすることもなく縛り続けられるのはどうなんだろう? そういう声は大きくなるだろう。しかし、準備が完了しないうちに、上の事は起きて、護憲を言ってたやつらは石を投げられることもあるかもしれない。なにしろ、言うだけ言って責任取らないと思われている。
 誰が主導して変えるのか、その時の為政者の公平さ公正さが担保されなければ、確かにおっかなくて憲法なんて変えられないのだ。
 その辺、選挙に向けての、ひっくり返す側の野党の動き、主張というのはいかにも温く、かつ的外れ感が甚だしい。さてね、どうなるか?

 物流、資源配分の問題。
 コロナの時からそれは起こっていた。滞ってしまえばあっという間に不都合が起きた。物流に限ったことではないが、いろいろ前提は変わってきてしまった。まだ変わり切ってはいない。

 で、ここまで書いて、なんかめんどくさきなってきたので、続きはまた。

7465 AE92 Trueno_3

 

7465 AE92 Trueno_3

7464 Kork Ballington_8

 

7464 Kork Ballington_8

Hugh Neville “Kork” Ballington
KR250 1979


7463 Ferrari 365 GTB4 Daytona_5

 

7463 Ferrari 365 GTB4 Daytona_5

365 GTB4 'Daytona' 
Group IV Conversion 


7462 Emma Watson_20 & 歴史上目指された何かの終わり

7462 Emma Watson_20


 資本主義的というか、経済的合理性というか、その中で目指される利潤とか何とか、その為に旧時代的な専制であるとかそういったものは消滅してしまうかと思われていた。特に1990年代等。しかしそうではなかった。
 すぐ隣に曲がりなりにも資本主義国家である大韓民国があるにもかかわらず、そちらへ移行できない朝鮮民主主義人民共和国。まぁ、この国名を見ただけで、民主主義なんて言うものが胡散臭いまでに力がないことであることがよくわかるのだが。そこのキム一族。
 巨大なマーケットを持ち、それを外から隔絶しても何とかやれるとおもっているのだろうか? ここに来て共産主義に強烈な回帰を見せる習近平。
 そして、国内での政敵を暗殺でシレッと排除し、強権を国外に広げることに躊躇のないウラジミール・プーチン。

 確かに、資本主義という奴、カール・マルクスが共産主義なんて言うものを発表したころに状況が似てきた。カール・マルクスは、子女が炭鉱などで奴隷のように働かされているのを見て、キャピタリズムというものの矛盾を感じ、「資本論」を書きあげたわけであるが、広がるべき未開の領域があってこその資本主義であるが、それがなく、いかに他人の財布に手を突っ込んで金をかすめ取ってくるか、他人を、特に弱者をむさぼることでしか利潤を上げられない、そうでもして利益を上げ続けなければ成り立たない資本主義も、そろそろ終わりは見えているのだが、キム一族、習近平をはじめとする中国共産党員、ウラジミール・プーチンのモチベーションは、そういうものに対抗していくもの、とも、思えない。別に、カール・マルクスの理想を目指しているとは、ちっとも思えない。

 アメリカ、という存在はある。それとその周辺に抗していかなくては、というのがあるのだろうが、そこに加わって、その価値観でそこそこうまくやっていくという選択肢を取らない、というのは、それぞれの国の風土に合うとは思われないという判断もあるのかもしれないが、何より、キム一族、中国共産党、ロシア上層部、幼い時から受けてきた教育、培われた世界観のなかでのアイデンティティを実現するにはそうならざっるを得ない、というか、それを実行するのに、むしろ、今のそれぞれの国の状況というのはやりやすい、と言えるのかもしれない。

 つまりは、・・・どういえばよいか? 立身出世の枠組みとしての世界観、その中でどう立ち回るか、というところでの一種、男根主義とでも言おうか? それだけでは全てが言い表せられているとは思えないな。
 令和ニッポンにおいては、中高年、オレがいつの間にその括りに入っていて愕然とするんだけど、「昭和」などといわれ、それが少々揶揄する意味合いで使われることが多いのが、いささか心外なのだけど、デリカシーを欠いた、モラハラ的なものという意味でつかわれることが多いことばである。「男はこうあらねばならない」というところで育てられ、それぞれに軌道修正をせねばならぬところをうまくいかなかった者が浴びせられる言葉なのだが、それは一種男根主義ともいえる。

 中露それぞれの(旧)共産党員、外の状況を知らされない閉じた世界の中で出世していく、同輩を蹴落とし陥れることもあっただろう、そうやっていくことが神から与えられたミッションであると(そもそも神なんて彼らにはいないのだけれど、そのような概念が何となくあって)信じ込まされた挙句、至った頂点である。女性もいるだろうが、ここはもう、敢えて男根主義と書く。適当な語彙が浮かばない。

 とすれば、日本国内において、昭和オヤジが順次、やらかした奴は即時、排除されているわけだが、この局面においては、ウラジミール・プーチンも同様、これ以上ないやらかしをしてしまっているわけだから、排除されなければならない。