2022年4月30日土曜日

7476 KZ1000MkII_11 & メメントムリムリ

 

7476 KZ1000MkII_11


 新しめの賃貸住宅の、小ざっぱりとした一室に設けられた祭壇に向かい、彼女の友達が前に座り読経を始める。彼女はオレのすぐ横に座ってオレが渡された経本のどこか迷ってるとそのたびごとにどこを友達が読んでいるのか教えてくれる。自分の娘ぐらいの女性に高校生の坊やみたいにドキドキしちゃって笑われてみるテスト。

 読経自体嫌いではない。そして、なるほど妙法蓮華経、心地よくいいお経だった。前に座って経を読む彼女の友達の声質が変わったようにも思えた。トランス状態に近づいているか。ある意味ヤバいな、これ、とも、ちらっと思ってみたり。


 さてそんなこんなで、経本と数珠(彼女の団体ではどういう言い方をするかはわからない。こういうこまごまとしたものの用語、宗派によって違うのだから、ホント面倒くさいよな、お前ら)を渡され、勤行のフォーマットも教えられ、まずは素直にそれに従ってみることにした。反論、批評するにも材料が少なすぎることもあったし。

 で、勤行自体は非常に良いものであるとは感じた。さすがは、挫折に打ちひしがれていたであろう彼女を救ったものの事だけはある。

 しかし、だ、そういう美点を帳消しにするぐらい、彼女に渡された機関紙、ネットの上位者による講話がお粗末で閉口した。あ、オレはこの団体とは相いれない、と思ってしまうぐらいに。

 何点か書きだす。

 上位者の講話。信者獲得、引き留めのためもあるのだろう、まぁ、一般通念ではありえないような日蓮大聖人様の起こした奇跡の数々を検証不可能な形で並べて押し付けられても、オレはそこで扱いに困りフリーズしてしまう。正直、そういうのを信じられない以上に、そういう話の押し付け方に拒否感を強く覚える。前にも書いた。彼女を救った、このことだけで充分奇跡的なのだ。そういう心を大切にする感じがちっともしない。なんか妙法蓮華経の良さがなければどうしようもないすぐに吹っ飛んでしまうぐらいに不味い。

 ここで、彼女の団体の名前を書かざるをえまい。以下を読めばわかる人にはわかるだろうから。富士大石寺顕正会という名前である。戦後の新宗教というものに分類されるらしい。彼らの目指すところというのは国立戒壇の建立なんだそうで。つまり、妙法蓮華経の国教化である。あ~、一応は法学部政治学科にいたやつに言うことじゃないよな、と、思ったり。
 政教分離というが、さて、宗教人が宗教から得たインスピレーションのようなものを政治の場で主張するのはアリだろうが、実際に政治や制度に宗教のエッセンスが入り込むことはあってはならないと思っている。
 どうも、法華宗系というのは政治的であろうことを隠そうとはしない。その極が創価学会であるが、一家して学会員のところの従弟に上のようなことを申し上げたら猛烈に反論されたことがある。何を言われてるのかちょっとわかんなかったけど。まぁ、彼が熱心な信者だということは分かった。
 政治というのは、一面マウントの取り合いである。その為であろう。法華宗系というのは、他の宗派に比して、分派が非常に多い印象がある。宗派内で、あいつの言うことは間違っている、あいつの言うことが気に入らない、あいつが気に入らない、というのが多宗派より多いのだろう。浄土真宗なども戦国時代はそんな感じだったそうだし、宗派同士の物理的な争いも珍しくなかったが、しかし今や真宗の方はお互い見て見ぬふりなのかどうか、穏やかなものだ。
 だから宗教は力をなくすのだ、と、法華経のひとはいうのだ。あ、従弟もそんなこと言ってかもしれない。だから宗教が世を救えないのだと。いや、政治的になる事だけが世を救う道じゃないだろ、と。精神医学、社会学その他の蓄積された知見も使い、それぞれの心について、どうしてもっと具体的な処方を示さない?
 政治的であるあまり、地方にある組織を、「隊」などと称する。いやいやいや、宗教も軍隊もなすべきこと、意義がある事だけれど、受け持ちするところは全く違うところはずだろ、と強く思う。正直、気味が悪い。

 さて、顕正会は最初妙信講と言っていたそうであるが、宗教施設に関し、当時は同じく日蓮正宗内にあった創価学会を激しく対立したそうであるが、そこからしてなんかもう。箱モノにこだわるところが如何にも政治的であろうとする法華宗的であるが、宗教とはそういうものじゃないだろうと。先に妙信講が正宗を破門になったそうであるが、創価学会も割とすぐ、あまりに金に汚いということで同じく破門になっている、そうだ。してみれば、妙信講側、即ち顕正会側が、自分たちが法華経自体により真摯に向かっているし、それが高じて、自分たちを唯一真の仏弟子と称するようになったのも想像できる。
 破門されたときは、まじめに、一所懸命活動していた人たち、悲しかっただろう、悔しかっただろう、寂しかっただろう。
 しかし、今となっては、本当のところ日蓮が何を思っていたか分からないし、更に仏陀、ゴーダマ・シッタルダが何を考えていたのか、日蓮が本当にそれに即していたかなどということを誰も検証はできない。検証できないことを押し付けられても、それが気になって、とても信心にはつながらない。

 過剰に政治的であることを自身の組織の構造的問題と捉え、法華宗内で提起し活動しようとしても、またしても新しい分派ができるだけの事なのだろうな、と思う。本当に経文自体はいいのに、残念なことである。

 で、そのような経緯もあるのだろうが、他宗派、他宗教を邪教と言ってはばからないし、池田大作に至っては蛇蝎認定である。宗教家にしては結構汚い言葉でののしっている。それが一番拒否感を感じてしまうことろ。まぁ、池田大作のあの淀んだ様がよくわからなくとも良からぬものであることは大いに同意できるところであるが。
 ルサンチマンから自由になるというのも宗教にとって大きなテーマであり、そのルサンチマンの質もひとぞれぞれで、それに従いそれぞれの処方が必要となる。人をののしる事でオレのルサンチマンは晴れるのか? とてもそうは思えない。

 というようなところで、オレが顕正会の会員として活動していくことはムリ、なのだ。あ~、彼女には恨まれるかもな~。ちょっと辛い。が、まぁ、まずは経本と数珠(繰り返すが会の中での正式な言い方を知らない)、返却、どうやってやろ?

 ここで顕正会の名誉のため、というか、ネットで検索した限り、創価学会や他の怪しげな新興宗教と違い、金などが絡んだなどのトラブルは、ごくまれに突出した個々の会員を除き、ほとんどないようだ。そういう意味では、もし、彼らと考えが合うというというなら信者になってみるのもよかろう。オレはムリだがな。
 何よりも、繰り返す、彼女を救ったのだ。これは大きい。


 

7475 Ayrton Senna da Silva_26 & メメントモリモリ

 

7475 Ayrton Senna da Silva_26


 一個前のエントリを書いていて思い出した。そうだよ、5月1日じゃないか、と。セナの死から28年、もう28年だよ、え? 微妙にここ何本かのエントリとテーマが重なるので、画像、カワサキ空冷4発から離れて、5月1日恒例セナ画いきます。

 もうムリとわかっていたんだよ、あの頃、オレ。で、ぽっきり男根が中折れするがごとく、セナのウィリアムスはタンブレロの壁に激突し大破したのは、何かを暗示しているように思えた、とは、何度か書いた。ここは戦略的撤退をすべき局面であると強く感じるきっかけだったのだ、1994年5月1日にイモラサーキットで起きた出来事というのは。ここでこんな風に腐ってる場合じゃない、何かを練り直さねば、と思ったのだ。

 ここへきて、の一連のささやかな出来事は、神仏か、或いはセナかもしれないが、何かこの所ですることがあるのなら、ぼやぼやしてるんじゃない、と、そういったものが彼女を遣わしたのかもしれないな、とも思ったりもする。


 そんなことを思ったりもするのだが、だがしかし、だ、悪いものを抱えて死んで地獄に堕ちる人の骸は、黒ずんで重くなってしまうのだと、これは彼女の団体が言っていることなのだが、それを熱心にオレに言う彼女に、「あぁ、〇〇ちゃん、これ以上オレをがっかりさせにで!」と、内心思いながらも、かなりあいまいな表情をオレは浮かべていたことだろう。まぁ、これも書いた通り、翌日の職場での彼女はいつものようにカッコよかったからいいんだがな。
 死に際し、いよいよ魂魄が肉体から抜け落ちると、体重が何百グラムか落ちる、つまり、魂魄にも質量があるのではないか? という話はどこかで読んだことがある。死体になるとがおかしな具合に硬直し黒ずんでしまうというのはその人が地獄に堕ちたから、なんて初めて聞くが、どうやら彼女の団体の重要な教えでもあるらしい。

 言っちゃ悪いが、関係なくね? とか思ったが口には出さない。それは、多分生前摂取した化学物質のせいかもしれないし、オレみたいに心臓疾患を抱えて血の巡りが悪くなってりゃ、死んでしまうと早いうちにそうなってしまうこともあるかもな。逆に言うとオレが死ねばそうなってしまう可能性は結構ある。でも、そんなこと、多分自分の身に起こるであろうけれど、やはり、関係ないね、って。
 死ぬ時ゃ、そうだな、死期を悟ったら、南の島の人が来ないようなところの樹の根元に倒れ伏し、そのまま息を引き取って、ドロドロに溶けるように腐って土に還りたいものだと思っている。まぁ、その辺の野生動物とかに食い散らかされて、肉も骨もその辺に散らばって、そのままの形では土に還ることもかなわないのだろう。ただ、妙に黒ずんだシミを大地に残すのは一緒なのかもしれない。両親が死ねば、まぁ、妹はいるけれど他に係累がいない以上、そうなる自由もオレにはある。まぁ、日本国の領土の中でそれをすると関係諸方面に多大なるご迷惑をおかけすることになるかもしれないので、他所で。

 宗教にとって、死というのは重要なテーマだ。どの宗教にとっても。死んだら、今の思い、思うオレのこの心は、どこに行くのだろう? およそ意味消失というのが、言葉ではわかっても実感として想像できない。
 しかし、まぁ、前の職場で、山の中上司が目の下に延びる跡津川断層を見ながら言ったことが今でも忘れられなくて。このブログの前やってたウェブページにも書いたけど。

 「俺達ゃ、何千何万年の時間相手に商売してるようなもんだよな」

って。地質調査の仕事というのは、確かにそういう側面がある。地球誕生からの時間を24時間と見立てたら、人類がなんかもしゃもしゃやってる時間というのは、わずか0.2秒なんだそうで。そんなところで、自分の魂がどこに行くとか何とか、ひどく無意味に思える。少なくとも、死後の事について何か憂うるというのは、オレにはない、そんなヒマはないと認識している。何も残せないだろうけれど、残してもなんか無駄なような気がするけれど、オレの人生の勝利条件はそんなところにはないと思っている。

 でも、ま、それで、ちゃんと彼女はやっているのだから、彼女にとってこれは間違いではないのだ。それは尊重しよう。何事も相性なのだ。彼女とこの教えの相性はこの上のないものなのだろう。
 しかし、まぁ、困ったなぁ、彼女とその友人がオレに言ってること聞けば聞くほど、気持ちの乖離が止められない。



7474 Jean Nicolas Arthur Rimbaud & ランボゥ~妙法蓮華経

 

7474 Jean Nicolas Arthur Rimbaud


 ポエトリーリーディングなどとカッコつけて横文字を使わずとも、詩の朗読と言ってしまえばいいのであるが、これは専ら読み手のためのもので、よほどの読み手でない限り、聞いているだけならあまり参加する意義は感じない。
 アレン・ギンズバーグとかジャック・ケルアックあたりの時から、イヴェントとしてあるようだ。自作の詩を読むのもいいけれど、それより、ある程度知られた他人様の詩を朗読する方が意義があるのではないかと思う時がある。何かを取り込むうえで。まぁ、感覚的に思うだけなんだけど。
 
 或いは舞台演劇にも似る。言葉を、脳の中だけでなく、身体に、延いては魂に定着させる方法として有効であるように思う。これも感覚的に思うだけだけど。または「知らんけど」。

 読経という行為はそれに似る。言霊などというが、いまいちオレにはふわっとしてあいまいだけど、そういうものなのかしら、古の、それなりに鍛錬を積んだ人の思想を体と魂に定着させる、そういう行為と解釈する。

 ある女性の話だ。っていっても、どれだけいるかわからない、ウチのブログをすべて閲覧している読者にはわかるかもしれない、この前登場した、あの女性だ。挫折感いっぱいにこちらに戻ってきたはずだ、当時は。自己肯定感が極端に下がり、即ち自分自身に裏切られたような心持で、明日のめども立たず、今までの夢を放棄しなくてはいけない寂しさとか悲しさとか。泣きわめきたいけれど、いよいよその境地だとそれすらできなくなるような。
 何の訓練も積み重ねもないと自分で思っていいた彼女が、安易に、夜の商売などにつくことが、一番考えやすいはずだけど、それだけ、割と見た目可愛らしいコだし、基本、明るい性格をしているので、いや、元女優だから、軽々とそう演じているだけなのかもしれないけれど、店に出てもそれなりに人気は出ただろう。
 しかし、昼の務めを選んだ。職場の彼女は明るく有能で、打てば響く感じ、肝心、必要なところで素直だし。凛としてかっこいい。

 本人の性格もあっただろうし、親兄弟、娘の果たした役割も大きいだろう。ただそれよりも彼女自身の人間としてのコアな部分の強さに、正直、いたら自分の娘ぐらいの歳の彼女を半ば尊敬したりもしていた。

 彼女と彼女の高校時代の友人が目の前に並ぶ休日のファストフード店の席で、20の時、観月橋の前時代的な喫茶店でやはり女性二人に体面に座らされ、英会話教材の売り込みをかけられた時の事を思い出した。その時は、丁度大学のESSでチャップリンの「独裁者」の演説部分、いや、J.F.ケネディの就任演説だったかな? を暗唱していたので、それを目の前の二人の女性にかまして撃退した。
 勧誘かよ、と。心の中で舌打ちをする。法華宗系の団体、らしい。何しろ職場ではぼーっとした感じのおっさんなので、扱いやすいと思われていたとしたら悔しいな、と。職場では若い彼女の足を引っ張ることも度々あり、少しは彼女の俺に対する心象も良くしたい、出来れば少しお近づきにもなりたい、なんて言うスケベ心がコレだ。まぁ、オレにはよくある事です。

 と同時に、職場の彼女がどうして自分自身をしっかり保つ出来たのかその理由もわかった気がした。やはり古の人の言葉を体に取り込み、それによって彼女自身をしっかり立たせていたのだろう。聞けば、勤行のフォーマットをできるだけ厳格に守るのが彼女の団体の肝らしいし。朝夕、決められた形で今日を唱える。これは決してバカにできるものでないことは知っている。
 体内時計的な生理的リズムを作っていくという効果、発声し、身体にダメージを与えない、特に声帯を頭蓋骨を振るわせて規則的に刺激を与えていくことで、思考と体のつながりの流れをよくすることができる、ような気がする、知らんけど。
 それは、逆に言えば読経でなくても、妙法蓮華経でなくてもいいのだが、ある団体の下、その団体の規則としてそれを行う、というのは、我々はそれぞれは弱くいい加減な存在であるから、かなり有効であるようにも思う。

 彼女は、この後、「確信」という言葉を使っているが、パッと目の前の霧が晴れる感覚、恐らく、それが強いものであれば、神秘体験とか啓示とかいう言い方をよそではするのだろう。脳と体が一定方向に一定以上の負荷がかかった時とかに、起こり得るものであるようだ。そのような効果を欲するならば、妙法蓮華経でなければならないことはない。般若心経でも、観経疏でも、念仏でも構わない。読経じゃなくてもよい。それでも、誰か著名な詩の朗読でも構わないし、歌を歌うのでも構わない。スポーツでその境地に至ることだってできるようだ。
 そういえば、これを書いている今日の明日が命日となるアイルトン・セナ、フレディ・スペンサーはウチのブログではおなじみ。昔で言えばカール・ルイス、さらに昔のモハメド・アリ、ちょっと昔のウサイン・ボルト、最近では大坂ナオミに至るまでの「信仰の告白」とは、そういうところからきているように思う。
 思想家であれば、フリードリヒ・ニーチェが自分の思想と形而下の自分の日常の悩みに疲れ果てた時、どこぞの湖のほとりを散歩していた時受けた啓示により、「ツァラトゥストラはかく語りき」を書きあげたはずだ。
 オレにしても、今まで、中途半端なものであるならば、そういうの、何度か経験したこと、ないわけじゃない。

 彼女には、妙法蓮華経があるところに、ぴたっとはまり、挫折に適切な手当てをして、それによって彼女自身をすくっと立たせさしめているのだと思った。無いこともないが、これで充分奇跡的なのだ。

 充分奇跡的なのに、それを置いて、昔の、検証不可能な、ここでは彼女たちに合わせてこう言おう、日蓮大聖人様の起こした奇跡の数々をオレに開陳されていくのを、うなづきつつも右から左に受け流しながら、職場ではあんなカッコいいのに、目の前の彼女はちょっと残念なコに見えてしまった。しかし、その次の日職場で彼女にあった時はいつものように凛々しくカッコよく可愛かったのだから、不思議なものだ。

 彼女の同級生は、オレが気を使いながらも反論しようと試みても、それをさせじとばかりに言葉をかぶせてくる。勧誘時のノウハウの一つなのだろうか? こうやって勧誘することで団体の中での彼女の位階は上がることもあるのかもしれない。それに協力するのは、今後会社で円滑に彼女とコミュニケーション採るためにもやぶさかではなかった、この時点では。ただ、彼女が「普段はつかえねぇおっさんなんだから、こういうことぐらい私の役に立ちなさいよ」と思ってたとしたら、ちょっと辛い。

 まぁ、会社での彼女との空気を悪くするのもはばかられたので、ままよ! そのファストフード店の近所の彼女たちの団体のスペースに連れていかれることになった。

 緊張の次回に続く。


0002 ZII_1(再掲) & オレの中で起きているランボゥと空冷4気筒のキャラ被りについて。

0002 ZII_1


 強くしなやかで自分を支えてくれるような言葉を探していたのだと、今になって思う。何しろ、ガールフレンドに全霊かけて向かって、全力で彼女ファーストでいたのが、ちょっと息をついたその瞬間に逃げられるなんて言うのを繰り返していたから、ガールフレンドに支えられ、なんてこともなく、支えてくれるとすれば、どこか吊るしの言葉を探してきてそれをつっかえ棒にするしかなかったのだ。
 
 
 早熟の詩人と、その時すでに半ば骨董品、肉厚鋳鉄で重い空冷4気筒、しかしチューニングすればとんでもない馬力を出せるそういうのを積んだバイク。両者への憧れみたいなものは、オレの脳みその中ではお互いシナプスが隣り合ってたんじゃないかと思う。

 概ね突き抜けた早熟天才詩人という印象のランボゥだが、「地獄の季節」では、その"地獄"に炙られながらも目をそらさず、遂に克服したかどうかもわからないが、それでも対峙する執念を感じた。それがオレの中においては、突き抜けた強さに変換でもされたのか?

 
 排気量は少なくとも、同じカワサキでオレの400の方が年式は新しかったのだが、土砂降りの国道8号線、福井のあたり西行きの車線、四苦八苦するオレの横を抜いていったのはZIIで、奥さんか彼女と思われる女性をタンデムに乗せて。
 バイクの性能じゃない。専ら乗り手の練度の所為だったのだろう。そのZIIこそ、突き抜けていく意志そのものに見えた。

 ちょっとややっこしいぞ。ついてきて。そんな雨の国道8号線の事を思い出しながら、麩屋町錦の旅館での泊りがけのバイト明けの朝、通りに出たところで待ってたのは、京都盆地の朝だというのに蒸し暑く淀んだ熱気と呼ぶ一歩手前まで来ている重く分厚い大気で、で、土砂降りにの国道の事を思い出しながら頭の中をリフレインしているのは、中島みゆきの「あした」で。

 何もかも愛を追い越してく
 土砂降りの一車線の人生
 凍えながら二人ともが
 二人分傷ついている

 ってね。まぁ、何はともあれ二人でいられてよかったじゃないか。いよいよオレが突き抜けていかなければならない時、オレは多分一人だ、という予想はどうやら正しかったようだが、それにしても、その時は呑気にそんなことを思いながら、蛸薬師通を河原町に歩いて抜けていた。ま、今も結構呑気なんだがな。


 今になって、あの時の心の動きを、ちょっとだけ詳しく思い出さなきゃいけない羽目になっている。それについては稿を改めて。


 画像のZIIは、ちょうどその頃の、PCなんてない、全くの手描きで、こんなん描いてたオレ、すげぇ、と思ったりするが、結構息を止めてやってたので、今はできないし、やったら、リアルに死ねる。

2022年4月29日金曜日

7473 750RS-ZII_37 & ランボゥの名前なんて久々に思い出した件

 

7473 750RS-ZII_37


 Mr.Bike BGの2022年5月号に連載中の、東本昌平氏の「雨はこれから」の最後の方、
「思い出した 私はボードレールよりランボーになりたかったのだ」
とある。因みに、ランボーとは、フランスの詩人、ジャン・ニコル・アルチュール・ランボゥのことであって、シルベスタ・スタローンの銃器ドッカンドッカンのマッチョなアレではない、念のため。

 東本氏のボードレールの引用は覚えている。鈴木信太郎氏の訳による、岩波書店のものの引用であったはずで、これに思い立ち探してみるが、埋もれて見つからない。ま、いつもの事なんだがな。仕方がないので、ネットで見つけた明治38年の上田敏氏による該当箇所の翻訳を転載する。「アホウドリ=信天翁=アルバトロス」からの引用である。

 雲居の君のこのさまよ、世の歌人(うたびと)に似たらずや、
 暴風雨(あらし)を笑ひ、風凌(しの)ぎ猟男(さつを)の弓をあざみしも、
 地(つち)の下界(げかい)にやらはれて、勢子(せこ)の叫に煩へば、
 太しき双(そう)の羽根さへも起居妨(たちゐさまた)ぐ足まとひ。

 「キリン」の中には、アホウドリではなく「かもめのジョナサン」からの引用もあったな。生きづらさと自由は紙一重、でも、決定的に違う。空と陸のようなものだ。で、悲壮そうに見えて、どこか何やらコミカル。喜びいっぱいという感じでもないが、まぁ、こんなもんだろうし、悲しんでてもしかたないべ? という、どこかほんのり突き抜けた感じ。

 東本氏の作品の他の個所で、あ、これランボゥの引用だ! と思った記憶はあるのだが、どこからだったかは覚えていない。

 ランボゥの引用と言えば、東本氏の作品でなく、原作オサム氏、脚色と作画が御厨さと美氏の「ケンタウロスの伝説」の中のこれだ。

 また見つかった、
 ――何が、――永遠が、
 海と溶け合う太陽が

 で、ついでに見つかったよ、東本氏が引用したところ。どこで使っていたかは忘れた。上の引用のすぐ前だった。

 ああ、時よ、来い
 陶酔の時よ、来い


 これも岩波文庫、小林秀雄訳による「地獄の季節」(ま、「イルミナシオン」も収められてるんだけど)。堀口大学氏には申し訳ないが、新潮文庫の「ランボー詩集」よりこちらの方が気分だ。

 山川健一氏、最近めっきり作品を見ないのは、多分、オレが読書をしないせいなんだろうけれど、氏も何かに書いてたな。青春の護符として、いつもポケットに入っていたと。オレの場合青春の護符というとコリン・ウィルソンの「The Outsider」なんだが、しかし、「地獄の季節」、大岡昇平編「中原中也詩集」は、ポケットにいつも入っているというわけではないにしろ、ボロボロになるまで読みつぶし、何度か買い替えている。

 マラルメもまぁ、読んだことはあるし、宮沢賢治も同様。でも、なんか、ピンとこなかった。かなり偏ってのかもしれない、いや、偏っていた。この辺の好み。ぶっちゃけ、今思うと漫画由来なのな(爆


 でも、一度だけというのを含めると、こうやってちゃんと出版社から出ているものから、街角(京都だったし結構いた)で書き手自身が手売りしている詩集まで、結構読んだ。詩集を開くときは、ロックのCDを買い込んできてスロットルに入れて再生ボタンを押すときと同じわくわく感があった。
 



2022年4月24日日曜日

7470 Emma Watson_22 & 資源分配の事

 

7470 Emma Watson_22


 ウクライナの問題で更に顕在化しただけで、問題はそれ以前からあった。コロナ禍での物流の滞り、脱炭素化の動き、だ。

 個人の方がまとめられたものだが、コツコツと世界中の統計を拾い集めていらっしゃるページより。

 「天然ガス供給のロシア依存度」

 ちょっと詳しめのニュースを見ていたら、このことは目にしたこと、耳にしたことはあるだろう。2014年のクリミア併合の時に、すでにロシアに依存しているリスクについて警告はなされてきたようだが、これも、ちょっと詳しくニュースを見ていた人は、ドイツ経済がこのことで相当のダメージを負ったのだという話。現地に住む日本人による文章である。


 統制経済を押しのけて市場経済が世界中に広がることで、大枠において世界は安定するというのが1990年代の楽観であったが、最初はイスラム圏起点のテロリズム、そして今回のロシアによる蛮行である。
 市場経済によってロシアや中国を縛ることができると見込んでいたのが、逆にエネルギーで身動き取れなくなった形。しかし、ウラジミール・プーチンはそのような計算だったが、そのようなロシアの目論見に従うことを、身を切ることになっても良しとしなかった、といことがあるだろうし、そもそも、ロシアのやる事が酷すぎて許せなかった、というところにプーチンの計算間違いがあったようだ。

 いずれにしろ、ヨーロッパ中心ではあるが、日本もそれを逃れることはできない、エネルギーの逼迫。問題はウクライナの件だけではないので、話がとても複雑に見える。

 自動車をはじめ、生活、一般産業の熱源を電力に一本化しようとする動きが、ひどく胡散臭く思える。誰かが(何となく顔ぶれが思い浮かびはする)電力という巨大な利権構造を構築しようとしているような気がして仕方ない。

 COP-XXで、いつの間にやら、森林保護、植林を寧ろ促進する、ということが話し合われなくなったのは、なぜだろう? バイオマスは、何も電力に変換しなくても、熱源にはなり得る。太陽はあまねくすべての地上に降り注ぎ、それを個々に生かせば、エネルギーの逼迫はかなりのところで抑えられるはず。また別に電力に変換してもいいのだ。しかし、なぜ、それがメガソーラー、巨大風力発電プラント、そして原子力発電に集約されようとする? インディーズのあらゆる方式の小規模発電施設を許さないということではないか? 蓄電池の問題もあるだろう。しかし、思いのほかその進歩の歩みが遅い。研究者は必死にやっているのだろうが、未来への貢献度に比して、予算をひどく抑えられていることはないか?

 まず、エネルギーの逼迫を見せて、その辺の可能性をずっとばして、利権構造にかなった大規模発電インフラに集約させる、そういう意図が全く存在しないと言えるだろうか?

 何やら陰謀論っぽくなってしまったが、ことの重要度に比して、ウクライナの件以前から、何やら不明瞭なことは多い。

 いずれにしろ、今後熱源の選択肢はぐっと減り、価格から生活様式に至るまで、電力供給者とその周辺の言いなりとなる社会になっていく可能性は結構ある。
 そこに公正さを求めるのはどれだけ可能か? 水資源の状況を見てみるに、そういったもののひな型というのはないに等しく。資本主義の市場原理をそこで許していいものか、供給需要、効率、すべてを詳らかにして、全くの公共財として、使った正価だけの負担で済むのか?

7469 AJS 7R_1 retake

 

7469 AJS 7R_1 retake

2022年4月23日土曜日

7468 Taka Aono_1

 

7468 Taka Aono_1

Taka Aono
AE86 Trueno
Formura Drift 2009


7467 Kawasaki Z1-R + Suzuki Inazuma Engine + turbo

 

7467 Kawasaki Z1-R + Suzuki Inazuma Engine + turbo

7466 Emma Watson_21 & この後の日本の事

 

7466 Emma Watson_21


 これを書いている時点で、ウクライナ東部マウリポリというところをロシアが掌握したとかしないとかいってる。無法がこのまま勝ち逃げとは何とも腹立たしいところであるが。

 いつまで続くかわからぬこの動乱であるけれど、目先が利く奴で大ぴらには言えない方法で、ひょっとしたら大儲けしている奴もいるのかもしれないが、多くの場合、徐々に生活の不便が増え、不安も増している、そういう状況で、日本においてはこの動乱で何が問題となったか、整理しておく。結局、国としてどうしていくというコンセンサスというのはなかなか形成されないだろうが、個々としてどのような心構えで行くべきか、国、社会としてのコンセンサスの前に必要になることもあろうかと思う。

 ロシア側は散々一連の報道をフェイクと主張する。かの金色頭みたいだ。そうやって自分の非と認めない。確かに本当に報道が真実なのか、突き詰めようがない。どのような映像もCGでちょちょいのちょいな時代だ。
 PCやテレビのモニターが知らせてきている、どれが真実に近い妥当なものと判断するか? 結局は感覚でしかないのだけれど、感覚は狂うものだ。できるだけ人の主観が入らないデータ、信頼できるソース、データ取りのやり方まで明らかなもの、成形されていない生データを求め、しかも、そういう生データを読み取る能力となる。
 そうなると、例えばテレビのコメンテイターなる職分がいかに、場合によっては胡散臭く、基本的には不要、ということになってくる。
 これはウクライナ問題だけではない、コロナの時もそうであった。一人の立てるところは一か所でしかなく、そこからの視点、コメントには当然反論も有り得る。ここでも、さて、どちらが正しいのか? となる。受け取る側として、では、どちらが人に優しいのか? といったことが一つの判断基準にはなり得る。しかし、これも、どれをとっても人に優しい面、そうじゃない面があったりするのだから、知れば知るほど、人の話を聞けば聞くほどわからなくなる。精神医などは、いっそ、目を背けることが心の健康のためになる、ともいう。でも、そこにも、置いていかれるリスクはどこかで頭を持ち上げるはず。
 ここで、どうすればいいのかなんていう結論なんてわかるはずもなく、書けるはずもない。非常にしんどいことであるが、その都度、判断していくしかない。一個前の判断が間違っていたと思えば、修正することをためらってはならない。状況は恐ろしいスピードで変わっていく。

 国防の問題。ロシアの高官が脅しをかけてきた。しかし、少なくともウクライナが落ち着くまで、戦線を二つ抱える甲斐性がロシア軍にはなさそうなので、状況は注視しつつも、おちついてかんがえるべきではある。それにしても、やくざ者まがいの品のなさにはあきれるしかないが。
 とはいえ、いつかは何らかの形が付く。そうじゃなくても、ウクライナが落ち着いているかどうかはわからないが、日本には近い将来、国防が手薄になってしまう出来事がほぼ確実に起きる。巨大地震。それを機に、ロシアだけでない、中国や北朝鮮が領土の一部を占拠しないとだれがいえよう? ウクライナの事が起きてしまった今となっては。国際法とか慣習とか国際世論とか、もう、お構いなしの連中で、明らかに不利となることがわかる状況でない限り、行動基準に、常識とか良識とか慈愛とか遵法精神とかエチケットとか、その辺のもの一切合切欠落しているのだと思った方がよい。
 理念として戦争放棄、そうありたいね、とは思うが、いざという時にやがて70年前にできた法律に、それについて何の吟味をすることもなく、アップデートをすることもなく縛り続けられるのはどうなんだろう? そういう声は大きくなるだろう。しかし、準備が完了しないうちに、上の事は起きて、護憲を言ってたやつらは石を投げられることもあるかもしれない。なにしろ、言うだけ言って責任取らないと思われている。
 誰が主導して変えるのか、その時の為政者の公平さ公正さが担保されなければ、確かにおっかなくて憲法なんて変えられないのだ。
 その辺、選挙に向けての、ひっくり返す側の野党の動き、主張というのはいかにも温く、かつ的外れ感が甚だしい。さてね、どうなるか?

 物流、資源配分の問題。
 コロナの時からそれは起こっていた。滞ってしまえばあっという間に不都合が起きた。物流に限ったことではないが、いろいろ前提は変わってきてしまった。まだ変わり切ってはいない。

 で、ここまで書いて、なんかめんどくさきなってきたので、続きはまた。

7465 AE92 Trueno_3

 

7465 AE92 Trueno_3

7464 Kork Ballington_8

 

7464 Kork Ballington_8

Hugh Neville “Kork” Ballington
KR250 1979


7463 Ferrari 365 GTB4 Daytona_5

 

7463 Ferrari 365 GTB4 Daytona_5

365 GTB4 'Daytona' 
Group IV Conversion 


7462 Emma Watson_20 & 歴史上目指された何かの終わり

7462 Emma Watson_20


 資本主義的というか、経済的合理性というか、その中で目指される利潤とか何とか、その為に旧時代的な専制であるとかそういったものは消滅してしまうかと思われていた。特に1990年代等。しかしそうではなかった。
 すぐ隣に曲がりなりにも資本主義国家である大韓民国があるにもかかわらず、そちらへ移行できない朝鮮民主主義人民共和国。まぁ、この国名を見ただけで、民主主義なんて言うものが胡散臭いまでに力がないことであることがよくわかるのだが。そこのキム一族。
 巨大なマーケットを持ち、それを外から隔絶しても何とかやれるとおもっているのだろうか? ここに来て共産主義に強烈な回帰を見せる習近平。
 そして、国内での政敵を暗殺でシレッと排除し、強権を国外に広げることに躊躇のないウラジミール・プーチン。

 確かに、資本主義という奴、カール・マルクスが共産主義なんて言うものを発表したころに状況が似てきた。カール・マルクスは、子女が炭鉱などで奴隷のように働かされているのを見て、キャピタリズムというものの矛盾を感じ、「資本論」を書きあげたわけであるが、広がるべき未開の領域があってこその資本主義であるが、それがなく、いかに他人の財布に手を突っ込んで金をかすめ取ってくるか、他人を、特に弱者をむさぼることでしか利潤を上げられない、そうでもして利益を上げ続けなければ成り立たない資本主義も、そろそろ終わりは見えているのだが、キム一族、習近平をはじめとする中国共産党員、ウラジミール・プーチンのモチベーションは、そういうものに対抗していくもの、とも、思えない。別に、カール・マルクスの理想を目指しているとは、ちっとも思えない。

 アメリカ、という存在はある。それとその周辺に抗していかなくては、というのがあるのだろうが、そこに加わって、その価値観でそこそこうまくやっていくという選択肢を取らない、というのは、それぞれの国の風土に合うとは思われないという判断もあるのかもしれないが、何より、キム一族、中国共産党、ロシア上層部、幼い時から受けてきた教育、培われた世界観のなかでのアイデンティティを実現するにはそうならざっるを得ない、というか、それを実行するのに、むしろ、今のそれぞれの国の状況というのはやりやすい、と言えるのかもしれない。

 つまりは、・・・どういえばよいか? 立身出世の枠組みとしての世界観、その中でどう立ち回るか、というところでの一種、男根主義とでも言おうか? それだけでは全てが言い表せられているとは思えないな。
 令和ニッポンにおいては、中高年、オレがいつの間にその括りに入っていて愕然とするんだけど、「昭和」などといわれ、それが少々揶揄する意味合いで使われることが多いのが、いささか心外なのだけど、デリカシーを欠いた、モラハラ的なものという意味でつかわれることが多いことばである。「男はこうあらねばならない」というところで育てられ、それぞれに軌道修正をせねばならぬところをうまくいかなかった者が浴びせられる言葉なのだが、それは一種男根主義ともいえる。

 中露それぞれの(旧)共産党員、外の状況を知らされない閉じた世界の中で出世していく、同輩を蹴落とし陥れることもあっただろう、そうやっていくことが神から与えられたミッションであると(そもそも神なんて彼らにはいないのだけれど、そのような概念が何となくあって)信じ込まされた挙句、至った頂点である。女性もいるだろうが、ここはもう、敢えて男根主義と書く。適当な語彙が浮かばない。

 とすれば、日本国内において、昭和オヤジが順次、やらかした奴は即時、排除されているわけだが、この局面においては、ウラジミール・プーチンも同様、これ以上ないやらかしをしてしまっているわけだから、排除されなければならない。

 

2022年4月17日日曜日

7460 CB7

 

7460 CB7

7459 Emma Watson_19 & 近現代が目指した理念の終わり 2

 

7459 Emma Watson_19


近現代が目指した理念の終わり 2

 学級文庫にあったからと言って、オレはマハトマ・ガンジーの伝記は読まなかった。みなしごハッチとか、主人公が辛い目に遭う話が苦手で、予備知識として、結構迫害されていたことは何となく知っていたから。
 Wikipediaによれば南アフリカ弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。民衆暴動ゲリラ戦の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」を提唱した(よく誤解されるような「無抵抗主義」ではない)」とある。
 というわけで、豪そうにガンジーの事を語る根拠などこれっぽちもないが、市民の取るべき行動として、非暴力が理想的なものとされてきた流れの中にいつの間にか無抵抗も入り込んでしまったのではないか?

 国家や社会よりも、まず個を優先する思潮、それは良い。オレも多分にそうだから。しかし、地殻である争いうごと、鉄火場にオレを巻き込むな。よくわからんし。という料簡。オレを巻き込むぐらいなら、さっさと降伏しろ、という主張。それが平和だとする思考モード。それが何を招いたか?勿論、ガンジーがやっていたことはそんなことじゃない、はず。

 事、ここに及んで、というわけじゃなく、理念はとっくの昔に無くなっていて、形骸化した何かをむさぼっていただけなのかもしれない。


 民主国家というものにおいては、それぞれが自分の見解を表明することができる。しかし、そのおかげで、全体としての意思決定に時間がかかる。例えば、そういうところを突いて電撃的に現状変更を試みる奴が現れているということだ。他にもそういうことがあるだろう。それが民主主義への懐疑につながっている、という言い方もできる。
 とにかくそのような虚を突いて、我々の日常を脅かそうとする輩というのが、合法、非合法問わず結構いて、対し、「非暴力、非服従」というのが、ある種性善説を前提とした楽観的なものを前提にとしていたもので、又は、ガンジーの艱難辛苦、周辺で流された血も知らず、(オレも知らない)実に虫がいいところでの物言いだったのではないか? ということだ。


 大多数の平和を訴える言説が、しかし、実はこんな感じで、ウラジミール・プーチンを平和的に説得することも、もう一人のウラジミール、ウラジミール・ゼレンスキーに抵抗を思いとどまらせることもできはしない、というのがどういうことなのか?
 前に受けた激烈な痛みを伝えることだけに終始してきた平和運動というもの、それの死角を今見事に突かれている。

7458 伊藤真一_1 retake

 

7458 伊藤真一_1 retake

Shinichi Ito
NSR500 1993


7457 Zephyr 750_10

7457 Zephyr 750_10

7456 Emma Watson_18 & 近現代が目指した理念の終わり 1

 

7456 Emma Watson_18


近現代が目指した理念の終わり 1

 そりゃぁ、子供の時から可愛らしいお嬢さんだったさ。しかしまぁ、こんな美しい淑女になってしまうなんて、時間の流れって恐ろしいよね、と感じてしまうエマ・ワトソン氏であるが、ウクライナ動乱についての文章を合わせられることを嫌がるかもしれない。彼女とは全く関係ない、っていうか、例により、画像と文章の関連はほとんどない。よもや、彼女がロシアを擁護する可能性は小さいとは思うが、かといって、積極的に批難に回った話も聞かないわけであるし。
 とはいえ、彼女、確か女性の解放について積極的に活動していたはずで、ウクライナ動乱はそれを可能とする前提を覆すものである。決して無関係というわけでもあるまい。


 ロシアがなす非道について、ここで詳述しても仕方ない。ネットにどれだけでも転がっているのだからそれを見ていただくことにして、しかし、かの動乱について伝えられること、どこまで信じていいものやら、伝え聞く悲惨さも然ることながら、そういう事実だけで、目を背けたくなる。或いは、そういう事実のおかげで、まだ、モニターのこちら側の精神は幾分安全に保たれているのかもしれないが、しかし、どこまでも、真実と思いきれない気持ち悪さは残る。それについての考察も必要だが、

 まず、我々に伝えられるところの、ロシアが、プーチンがなすところに非道について、それが真にそうであることを前提として話を進める。現地に入った、普段は自国政府に批判的なジャーナリストが、ロシア軍がなした目を背けたくなるような非道を伝えているところから、それはかなり真実に近いものとして考える。

 プーチンがやってることというのは、嫌悪され批判されて当然であると思うが、それが如何に批判されるべきかを書くことが本ポストの趣旨ではない。批判、攻撃することについて待ったをかける、いつの時代でも一定数いる論理について考えてみたい。

 奇妙なことに、ロシアに対して強硬かそうでないかについて、案外と、右翼寄り左翼寄りというのは関係ないように見える。
 強硬であるとしたら、一にロシアであるということ、これは元から右翼寄り。断じて人権蹂躙を許せない、これは左翼寄りの人も言うところ。そして、ロシアが、それに同調して北朝鮮や中国が日本にも攻めてくるということの現実味がかなり増したことがある。
 宥和的であるとしたら、ロシアを挟んで反対側にあるウクライナのこと、日本は関係ない、日本を巻き込むな、という本音が共通していて、右翼寄りの人であれば、残虐犯罪行為を無視して、「強権」が行使されている、その「強権」に何らかの価値を見出しているような人。左翼寄りなら、ロシアより自国の権力がこのことを理由に過度に存在感をアピールするようになること、憲法9条の改正に突っ走ろうとすることを警戒しているように見える。

 宥和的であることに対し、「隷属的平和主義」という名づけをツイッターで見たが、事後、如何に屈辱的な隷属を強いられることが待っていたとしてもここは戦争で命を落とすべきではない、と、はっきり断言する、断言できる人は、さすがにいないようだ。
 彼らの頭には、ひょっとしたら、マハトマ・ガンジーの「非暴力・非服従」があったのかもしれない。小学校の教室の学級文庫の偉人のコーナーで読んでからの、武器を持たない市民の正しく美しいあり方のスタンダードであり続けてきたし、やがて強権はその前に敗れ去る、ということであったが、今やそれはほぼ価値を失ったファンタジーとなり下がったように思える。

 どういうことなのか、考えていく。

2022年4月10日日曜日

7453 Egli -Vincent_1 retake

 

7453 Egli -Vincent_1 retake

7452 Yamaha YZ350 engine + Aprillia RS250 frame & 元女優にボーリング調査について教える件

 

7452 Yamaha YZ350 engine + Aprillia RS250 frame


 画像と文章、全く関係ありません。

 漫画「少年アシベ」に出てくるキャラクター、王さんの造形は押井守氏にそっくりなんだが、ひょっとしたら、押井氏をモデルにしているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。知らないし。押井守氏と言えば、高校の時「うる星やつら ビューティフルドリーマー」に、現在したい写真家の看板あげてやってる同級生、釣埼清隆君がえらい感化されていたが、押井守氏と言えば何といっても「攻殻機動隊」だろう、と思う。なんというか、個人の内面の淀みを突いてくるような作品が多い印象がある。
 ウチの会社の営業に、押井氏の実写版「パトレイバー」に出演した経験を持つ女のコ、と、オレぐらいの年齢からすればそんな感じだが立派な女性である、がいる。決して彼女の人格を貶めるような深刻な意味ではなく、イジりのネタにされそうな的な意味で、どうやら半ば黒歴史なんだが、一方で、彼女にとっては輝かしい思いでの一コマでもあるらしく、何やら複雑そうだが、まぁ、そんな感じで。
 で、敢えてそんな彼女をここでは元女優と呼ぶ。その元女優から、ボーリング調査について教えて欲しいと。最近彼女の立ち回り先のハウスメーカーからボーリング調査についての問い合わせをちらほら聞くようになって、考えてみれば、彼女自身、ボーリング調査についてよく知らないので、この際、知っておこうというわけだ。

 さて元女優、ってか、弊社、土木工事全般、機材のレンタルの他に、住宅など「地盤改良工事」が営業品目となっているわけであるが、彼女は主に地盤改良の営業をやっている。が、地盤改良と言っても、セメントっぽい何かで地面を固めるのではなく、穴開けて砕石ぎゅぎゅおしこんだり、足場単管のような鋼管を杭のように使う工法を、彼女は主にハウスメーカーを回って売り込んでいる。前の会社でオレもその辺とか構造設計士とか回ったことがあったので、設計士は?と尋ねたら、そっちは行っていないそうだ。
 上物つまり建物のデザイン的なことや使い勝手てきなことの専門家であっても、ハウスメーカーの人、地盤についてはほぼ素人で、ボーリングについてよく知らない。彼女も、それを取り繕う場面はあっただろうが、よく知らない。それじゃ不味いだろう、という元女優の問題意識により。しかし、ハウスメーカーの人も元女優も今後地質調査師として現場に出ることは多分ないので、それほど詳しい知識が必要なわけでもない。いくつかの項目についてインデックス的なことを申し上げればよいのかな、と考えているが、そういうものがいればの話、自分の娘ぐらいの年齢の女性に、あんまりチョロいことを言ってバカにされた目で見られるのも辛く、結構プレッシャーだ。

 まず、ボーリング調査の作業、一般的にはどのようなことが行われているか?
 作業風景については、素人と言っても、全くの門外漢というわけでもないだろうから、省略。そこで、多くの場合はコアチューブと呼ばれるΦ66㎜から86㎜、長さは1mの鋼管の先にビットを付けたもので穴をあけていく。鋼管の中に入ってくる、その深さ深さごとの土をコアというが、コアを採ったり採らなかったり。つまりは鋼管に泥水(でいすい)と呼ばれるほとんどの場合水にベンドナイトとかポリマーとか混ぜ込んだものを通しながら、オーダーによって、土質さえ確認できれば流してしまって構わなかったり、土を採取したりしながら掘り進めていく。で、多くの場合1mに1回、これもオーダーによっては50㎝に一回標準貫入試験を行って、地面の硬さを測る。

 標準貫入試験というのが、ボーリング孔を使っていろいろやる試験(原位置試験)の内のもっともポピュラーなもの。STP(standard penetration test) という言い方があって、なんか今風な感じもするし、流行るかな?と思ってたが、案外皆さん保守的なのか、意識高い系みたいなことはせずに、そのまま標準貫入試験と言っているようだ。63.5kgのおもり(モンケンと現場で言っている。これもドライブハンマーと言い換えさせようという動きがあったようだが定着したのかどうか?)をストローク76㎝で、SPTサンプラー又はレイモンド・サンプラーを垂直に打ち付け30㎝打ち抜く回数が、経験的に1㎡が沈まずに耐えられるトン数、所謂N値と呼ばれる数字となる。サウンディングの報告書に書かれている、qa則ち地耐力というものと限りなく同じであるけれど、決定的に違う、という説明も、元女優に対してした方がいいのだろうな。まぁ、皆さん、「換算」という言葉もつけずN値、N値とおっしゃっておられるが、その辺は、いいか。

 標準貫入試験、意識高い系ではないが、キーボード打つのが面倒なので以下SPT、ではそんなわけでN値がわかるが、他に、その間の土を試料として採取してくることもできる。「乱した試料」「乱さない試料」なんて言うのがございまして、普通に、コアチューブをグリグリまわして採ってくる試料は「乱した試料」といいます。ほら、ビットが土をほぐしぃの、かきまぜぇのコアチューブの中に入ってくることは想像できるでしょ? それとは別に、地面の中にあったそのままの状態で採ってくる技術もあるわけです。それで、N値とは違う形で硬さとかを実験室みたいなところに持ち込んで試験したりするんですが、さて、SPTの飼料は、まぁ、コアチューブの試料ほど乱してはいないものの、「乱さない」とも言えないぐらいのもので、とりあえず、それを使って、土、砂の粒の大きさはどのようなものがあるのか、とか、密度とかを測ったりします。前いた会社では、場合によっては、試験が終わって上にサンプラーを上げてすぐ、サンプラーの中がそもそも真鍮製の内管があり、それをすぐにラップで包んで持って帰って含水比を測ったりもした。

 フツーのボーリングにSPTは付き物で、それをまとめて「ボーリング調査」と言っているわけだが、ウチの営業さんとかにもなじみが深い、SWSサウンディングで得られる結果など、比較してどちらが良いのか、という話になるが、何よりもサウンディングでは基本的に土質がはっきりわからないため、換算式から出てきたqaというのは推定でしかない。それだけのことが致命的だったりする。これが砂か粘土かというだけならまだしも、木くずなどのゴミが混じっていたら、地盤にとっては非常に憂慮すべきことなのだが、それは一切サウンディングではわからない。水位もわからない。サウンディング跡の穴に水位計を突っ込んでも、まぁ、たいていは水があるところにはいけない。建築工事中の作業性の話なんてちょっとしたことで、それより、地下水位の変動で、簡単地盤が沈むこともあるし、地震時液状化の危険もある。それも、サウンディングではよくわからない。
 一方で、SPTはピッチが、上記の通り、通常1mごと、最小でも50㎝。で、叩かずとも、モンケン乗せただけで自沈、ということもあるが、その辺小さな数字が拾えない。SWSではそれが可能。今の機械本当よくできています。細かくその辺の数字拾ってくれます。そういうのが必要な時もあるのです。


 というようなところで、ここまで話をすれば5分?10分? 元女優には1時間ほど、ボーリング調査で何ができるか? ボーリング孔を使ってする様々な原位置試験について教えて欲しいということだったので、今、前の会社でやってたこといろいろ思い出しているところ。

2022年4月9日土曜日

7451 Z34 S-GT 2022

 

7451 Z34 S-GT 2022

Z34 S-GT 2022
Okayama


7450 Giacomo Agostini_15

 

7450 Giacomo Agostini_15

Giacomo Agostini
OW20
Daytona 1974


7449 Tommykaira R

 

7449 Tommykaira R

7448 CB750four_63

7448 CB750four_63

7447 Jorge Martínez_2

 

7447 Jorge Martínez_2

Jorge Martínez Salvadores "Aspar"
Derbi 125  1988


7446 Z1 “1197R”

 

7446 Z1 “1197R”

7445 Z1000S1_4

 

7445 Z1000S1_4

2022年4月3日日曜日

7437 杉本有美

 

7437 杉本有美

7436 Czinger 21C

 

7436 Czinger 21C

7435 石田ゆり子_18

 

7435 石田ゆり子_18

7434 Wayne Gardner_1 retake

 

7434 Wayne Gardner_1 retake

Wayne Gardner
NSR500
Suzuka 1989


7433 woman_910

 

7433 woman_910

7432 1600GT_2

 

7432 1600GT_2

7431 Elise Sprint 220 2018

 

7431 Elise Sprint 220  2018

2022年4月2日土曜日

7430 Seeley-Kawasaki H2A 1973

 

7430 Seeley-Kawasaki H2A 1973


「解せない買い物」

 「人のセックスを笑うな」という、確か芥川賞か直木賞かの候補になった小説があったと思うが、「人の買い物を腐すな」という結論になりそうな文章、行きます。

 前の会社、今の会社と、住宅地盤に関する仕事をしている。三つ前の文章にも書いた通り。で前の会社にいた時、”機械式”でなく、手回しでサウンディングと呼ばれる地盤調査を行っていなんだが、オレがいた会社では「すっとんクルクル」と呼んでありがたがったタイプの地盤があった。現場作業員的にである。地表から軟弱で、100㎏f、10KNの重りを乗せるか、それすら乗せるまでもなく、調査器具であるスクリューポイントいうねじねじがついた棒が、回さずにずぶずぶ沈んでいくのである。回す手間がないだけ、すごく楽。100kgf乗せなくても沈んでくれるなら、尚楽。乗せるのも人力で、載せる台に5㎏、10㎏、10㎏、25㎏、25㎏、25㎏と載せていくので、5kgf、15kgf、25kgf、50kgf、75kgf、100kgfの段階での荷重での調査具、ねじねじのついた棒の挙動を観察することになる。さすがに、調査員もそこを歩いているわけだから、5kgfでの沈み込み、自沈はないのだが、50kgfぐらいから怪しくなる地盤っていうのは結構あって、ちょっと乗せて急に沈み込みそうなら重りをさっと外すのが正式と習ったが、外す間もなく、どっしゃんと落ちるように自沈する地盤もあったりした。当然、そういう地盤は軟弱である、ほぼ。
 っていうか、そんな地盤、まぁ、地表こそ、乾いた土に見えても、地下水位が地表のすぐ下ぐらいにあって、もう、土のふりした水と言っていい。まぁ、専門的には別の言い方があるんだけど。
 で、まぁ、オレら(現地で調査作業する奴)は楽でいいんだけど、なんで、こんな土地かうかね? なんでこんなところに家建てるかね? と思ってしまっていたわけである。

 あぁ、そうだ、で、「すっとんクルクル」なんだけど、一応ね、6~7mの深さまではなんとか調査しましょうね、というお約束があった。基礎の下にかかる建物のチカラというのは、まぁ、何となく広がっていくような広がっていかないような、玉ねぎを逆さにしたような、じゃなくて「球根」なんて言い方してたな。まぁ、単純にそんな力がかかったとして地盤に影響があるほどの力がかかるのはどっかその辺まで、と、ざっくりと言ってたんだけど、ま、実際はそんな単純なものじゃないんだけどね。で、その6~7m、すとんと落ちるように自沈して、そのあと硬い層に当たって、くるくる軽やかに空回りする様を言い表した言葉であります。

 今勤めてる会社の近くも割とそういうところが多く、印象深いのが、10mまで一度も手回しせず終了、5点すべてそうだった、というところがあった。現在、しっかり店舗付き住宅が建っていますがね。

 まぁ、建つには建ちますよ。しっかり正しくコストをかけて地盤にも手を入れれば。でも、地盤にお金をかけるというと、なんか損したみたいなこと言う人もいて、なら、なんでそこに土地を買った? ということになる。解せない買い物であります。

 直接地盤についてではないが、東京都民の、収入がやや多い人々のタワマン信仰も解せない。まぁ、これはオレの価値観によるものだが、どうも、ね、同じく前の会社にいた時ボーリング調査で敷地内に入った養鶏”工場”の鶏舎の中のブロイラーを連想させて嫌なんだよねぇ。一匹一匹が最小限のスペースに押し込められ、同じ方向を向いている様っていうのは、不気味ですらあったんだが、まぁ、それとタワマン、延いては東京都民の皆さんの暮らし向きと重ねるというのも乱暴なんだが、とりあえず、建物そのものはまっとうに作られていれば、想定される最大限の大きさの地震とかには耐えられるのでしょうが、伝え聞くタワマンの立地、ことごとく液状化したり、場合によっては足元津波にやられるところだったり。大地震となれば、救援が届くのも結構時間がかかるだろうし、電気はないと考えるべきだから高層階にいれば上り下り大変だし、建物だけは無事で、中も大変、外も大変、というのが想像されるんだが、対策されてるんだろうか? そう考えるだけで、よく、そういう物件欲しがるよなぁ、と思ってしまう。これも、オレ的には解せない買い物。

 でもね、仕方ないっていうか、まぁ、当地のそういう解せない買い物って、出資者たる親の存在があるんだよね。親の土地で建てたり、親にお金出してもらう代わりに近くに住むことになってしまったり。そういうパターンがかなり多い。

 でも、そういうパターンと離れた買い物をした同級生が二人ほどいて、一人は、海の近く、一人は、川の近くの、江戸時代までは湿原であったであろう所。最近では寧ろオレの住んでる町内が床下浸水で全国ニュースになったりするが、その前はよく水が付いたあたりである。行ったことはないが、しかし、二件とも、そんな大げさな家ではなさそうだ。子供に継がせるとかそういうことを前提にせず、自分が気持ちよく住めそうなところに家を買ったみたいだ。

 いるよね。タワマンもそうか。よい眺めが何よりの自分の人生に対する報酬であるようにとらえているのかもしない人。

 そう考えると、リスクを承知したうえであればそういう買い物もありなのか、と思ったりもする。どのみち、何があっても大丈夫なんて言うところは日本にはほとんどないのだし。

 というところで、画像につながる。シーリーというメーカーのフレームにカワサキの750マッハのエンジンを積んだスペシャルバイクである。まぁ、合理性で乗るものじゃない。乗りたいから乗る。文句あるか? と言われそうな単車である。まぁ、そういうのでいいんじゃないかとも思ったりするのだ。


 ただただ、やはり事前に相談を受ければ、「やめた方がいいんじゃない?」と言ってしまいそう。でも、買うんだよね。では買った後どうするか、というのが大事な話になるわけだ。