ネットに転がっていた、エマ・ワトソン氏の水着画像。今は少し落ち着いているのかな。んでもって、「そりゃぁ確かに、エマ・ワトソンと言われればそうなのかもしれないが、なんか違う」画像、それが素人目に見て明らかな物から順に淘汰されているようで、一時期よりかなり見ることが少なくなった気がする。
若い時は、そういうのをある特定用途に用いることもなかったではないが、ろくでもない年の取り方をしていても、というか、そんな年の取り方をしてしまったからか、「そういう」用途に使うことは無くなったとしても、画像の中の肢体の曲線にそういう昔を思い出し、俺なりの解釈を加えて、絵にしたくなってしまうのだ。
有名人を扱うが画像は、極力控えた方がいいとは思うのだが、反面、ネットの片隅で、図らずもちまちまやってる分には、まして、そういうオレの「解釈」への需要は少数で、ゆえに影響力もかなり限定的で、商用利用も今のところない、というところでお目こぼしを受けているのだと思う。それなら描きたければ描いちゃえ、と発作が起きてしまう。それに従った。
そういう但し書きはなかったが、恐らく元画像はAI生成されたもの。それをphotoshopは使ったがAIは使わず、AIは使ってないがphotoshopを使って描画したもの
若い時は、そういうのをある特定用途に用いることもなかったではないが、ろくでもない年の取り方をしていても、というか、そんな年の取り方をしてしまったからか、「そういう」用途に使うことは無くなったとしても、画像の中の肢体の曲線にそういう昔を思い出し、俺なりの解釈を加えて、絵にしたくなってしまうのだ。
有名人を扱うが画像は、極力控えた方がいいとは思うのだが、反面、ネットの片隅で、図らずもちまちまやってる分には、まして、そういうオレの「解釈」への需要は少数で、ゆえに影響力もかなり限定的で、商用利用も今のところない、というところでお目こぼしを受けているのだと思う。それなら描きたければ描いちゃえ、と発作が起きてしまう。それに従った。
そういう但し書きはなかったが、恐らく元画像はAI生成されたもの。それをphotoshopは使ったがAIは使わず、AIは使ってないがphotoshopを使って描画したもの
動画生成、自分の思ったキャラクターが、グリグリ自分の思った動きをしてくれる、そういうものを、プロンプト一発でできるのは、そりゃあ楽しいのだと思う。
しかし、観てる方はなんか食傷気味。動画に限らない、静止画像だってそうだ。
人が作った温かみとか、そういう感覚的な言葉は使いたくない。この、よくはできてるけど、もうゲップが出ます、という感覚。総じて、欲張って画面での情報量が多すぎるからなんではなかろうか、と思う。
静止画、絵を考えたら、ふと思うが、人の描いた絵の面白みは、その人の主観に基づいた、要素の取捨選択にあるように思うのだ。基本的技術は前提として、そこに、描き手の観察眼の的確さ、表現の的確さの妙を期待してるんだ、と思った。
もっと言えば、情報量そのものより、画面の中のすべてが、同じ強さで見せ場になろうとしていることが、食傷の原因なのかもしれぬ。顔も衣装も背景も光も、隅々まで凝っている。動画なら、そこに表情、身振り、カメラ移動まで加わる。どこを見ても「どうです、よくできているでしょう」と迫ってきて、観る側が目を休めたり、自分で何かを発見したりする余地が少ない。
緻密に描き込まれた絵でも、いつまでも見ていられるものはある。そこでは、細部が多くても、見る順序や強弱が組み立てられている。逆に、要素が少なくても、全部が自己主張していれば、うるさく感じる。
「観察眼の的確さ」とは、単なる再現の正確さとも違う。ある人の姿を描くとき、顔の細密な再現より、肩の落ち方ひとつを拾った方が、その人らしさが伝わることがある。見えているものの中から、何がその対象を成り立たせているのかを見抜く。 技術は、その判断を画面に定着させるためにある。
生成する側は、思い描いたものが全部出てくること自体を楽しめる。一方、観る側は、その願望が実現した喜びまでは共有していない。だから「全部できました」の先に、何を見せたいのかが必要になる。
この話は、AIか人間かという区分というより、「作り手が実現したかったもの」と「観る人に届く表現」の間には、もう一段、選び直す仕事がある、ということなのである。生成の容易さによって、その一段を通らない画面に接する機会が増えた――という捉え方をするなら、「よくできてるけど、もうゲップが出ます」という感覚に、かなり具体的な説明がつけられそうな気がする。
第一印象、最初のインパクトのために、黒、原色のべた塗り、というのがつらい。今流行りではあるが。勿論、極北としてモンドリアン的抽象表現はその限りではないけれど、そういう感じのアニメ的彩色、数多ある表現の中から、今目の前にあるものの独自性を看取しなければいけないかと思うと、辛い時が多々ある。
見る側が、独自性を探し出す仕事まで引き受けなければならないのが、しんどいんですね。
黒を強く置き、原色のべた塗りで輪郭や面を際立たせる。それで第一印象は強くなるけれど、同じように強い画面が並ぶと、今度はその強さ自体が共通の様式になってしまう。目には飛び込んでくるのに、一つひとつの違いは、こちらが注意を凝らして読み分けなければならない。
そこで「よく見れば、この作品ならではの工夫がある」と言われても、その“よく見る”ための関心を、画面から受け取れていない。作品ごとに鑑賞の義務を課されるようで、疲れるのだと思う。
モンドリアンのような抽象表現なら、色面の大きさや配置、その釣り合いそのものを見ることができる。一方、人物や物語を描いた画面で、強い配色がまず前に出てくると、その向こうにあるはずの、描き手が対象をどう見たかに、なかなか触れられないことがある。
取捨選択には、何を残すかだけでなく、何を弱く置くか、何を目立たせずにおくかも含まれる。全部を第一印象のために強くすると、見続けて初めて気づくような違いが、かえって届きにくくなるのではなかろうか。
一言で言えば、生成画像の中でも特に色彩爆発気味の物、これに見る側は時として胃もたれを感じるのである。

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