easy riderをスクリーンで観たのは3回。因みにこの映画の封切は1969年だが、当然リアルタイムでこの時には見ていない。映画の名前は、多分、高校生になって単車に興味を持つようになってから知ったのだと思うが、初めてみたのは浪人をしていた19歳の時、早稲田松竹においてだった。なぜか鈴木清順氏の「チゴイネルワイゼン」と併映だったような気がする。記憶に間違いがないとしたら、どういう意図での併映だったんだろう?
大学に入って、今は大学院大学の校舎に改築されたところにあった学生会館のホールで、哲学研究会の主催で2回。スクリーンで観たのは以上3回。
あとは、ネトフリで、結構何度も観た。
星条旗タンクとオレンジにフレアパターンのタンクの2台のパンヘッドが疾走する場面と言うのが気持ちよさそうで、この映画の大きな魅力のひとつではあるのだが、ここで改めて説明が要らないとは思うが、結末は衝撃的である。
これは、保守的市民社会の暴力性を告発したものであると、直接的には思ってしまうし、そのような文章も書いたことはあるのだが、なんか本当にそうだろうか? と、どこかで感じていたようにも思う。
一言で言えば、やはり難解なのである。単車が走って、暴力があって、ジャック・ニコルソン演じるジョージ・ハンセンが焚き火の前でくどくど言ってたことが、この映画の主張なんだろうか? そんな単純なものではるまい。それを言ったハンセンはその夜撲殺される。まさかこれを死亡フラグとは言うまいよ。
映画の最初は、腕時計を捨てたところで流れ始める「Born to be wild」。ロックチューンだが、勇ましい行進曲のようにも聞こえる。対し、エピローグに流れるのは「Ballad of Easy Rider 」。優しいフォークソング。鎮魂歌だった。
ざっと振り返ると、冒頭からすぐに、ヒッピー・コミューンに寄り道したあたりから、ワイアットの表情は曇り出す。挙句、終盤、ハンセンがいなくなった後の二人の焚き火で「俺たちはしくじったんだ」と繰り返す。あそこで、何を指して「しくじった」のかはっきりさせないと、難解になる。というか、ぼやけてよく見えなくなってしまう。
その思いが、ヒッピーコミューンを訪れた時から始まっていたのだとすれば、その時から、それまでワイアットが思い描いていた「自由」の不可能を見てしまっていたことを指す。
自由なんてものはないのではないか? だとしたら、そんな、最初からないものを目指し操作性の悪い改造ハーレーで粋がって旅するなんて言うのはとんだ道化ではないか? と言うしくじりか?
旅自体がしくじりだったのか、こそこそ違法行為で手に入れた金で何とかなると思っていたことがしくじりだと言ったのか?
思いのほか、他人の「自由」に不寛容な現代のアメリカへの失望、を重視するなら「俺たちはしくじったんだ」の主語は、アメリカ社会を指すかもしれないと思うと、また話は違ってくる。その後すぐの結末に引っ張られて、そんな風に観客は思ってしまうかもしれない。
さてどっちと考えるべきだ?
ワイアットとビリーの名前が、ワイアット・アープとビリー・ザ・キッド、西部開拓時代の伝説的寓話的人物の名前から引っ張ってきている。今度は西から東、ロサンゼルスからフロリダを目指したわけだが、ビリーが、どうやら単純に楽園を目指してたのに対し、ワイアットにとっては、アメリカが落としてきたと思しき「自由」のかけらを拾う旅路に変質していったようだ。
「自由」は楽園だと思っていた。それの実在を信じ、前提にして旅を始めたのが、しくじりだったのか?
Geminiとの壁打ちでは、Geminiは腐った社会の末端、その象徴のドラッグで稼いだ金を路銀にしたのが、結局、そう言った腐った仕組みから逸脱を志向しておきながら、叶わなかったことの原因になった、それをしくじったと指摘してきたが、確かに、ニューオリンズのマルディグラでは、ドラッグをきっかけに深淵を見るバッドトリップに見舞われたが、だからと言って、ドラッグがしくじりの根幹に関わると言う見解にはピンとこない。
ならば、自由に向かって、〇〇(「仕組み」とか「体制」とか「秩序」とか、その辺の言葉が入る)から逃げるようにしたのがいけなかったか? 端から反体制運動に関わるつもりも、どう見えても失敗にしか見えなかったヒッピーコミューンを作るような振舞いをするつもりも、気概もなかった。お気楽に、社会のしがらみから逃れ、「自由」という、美味しい上澄みだけをいただこうとしたのが、誤りだったか?
だとしたら、結論は「ほれ、みたことか」か? ふかわりょうみたいに「だからいっただろう?」とかいわれてしまう。それを結論にしなくてはいけないのか?
書ききれないな。ビリーのバイクも描きたいし、稿を改め、もう少し続ける。

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