2025年6月22日日曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義4 「過剰な贈与」の倫理的考察

 

「過剰な贈与」の倫理的考察

 贈与の概念は、人類学や哲学において長らく議論されてきたテーマである。マルセル・モースの『贈与論』では、贈与が単なる一方的な行為ではなく、返礼を伴う「交換」の一形態として捉えられている 25。 モースは、「自己を滅して他者への犠牲とするのではなく、お互いに自己犠牲を回避しつつも、自己を他者に対して与えあうという思想」を示し、過度な「贈与」一辺倒と「譲りえぬもの」一辺倒という極端な社会的態度を退け、中庸を貫くことの重要性を説いた。これは、贈与が社会システムを維持するための互恵的なメカニズムであり、自己を完全に消滅させるような「過剰な贈与」は推奨されないという立場を示している。

 アンパンマンは「正義の味方」と名乗るが、実際には単純な勧善懲悪構造では捉えきれない複雑さを持つ。ばいきんまんという敵役も、実のところ飢えていたり孤独だったりすることがあり、「完全なる悪」ではない。彼を完全に抹殺することなく、毎回逃がす/追い払うにとどめるのは、「悪を罰すること」よりも「命を奪わないこと」への倫理的配慮とも読める。
 さらに、アンパンマンの倫理は、国家的イデオロギーに還元されることのない、「顔の見える」他者との関係性に根差している。これは、エマニュエル・レヴィナスが語る「顔の倫理」──他者の顔に出会うことで自己が倫理的責任を引き受けるという思想──に通じる。

 ジャック・デリダの贈与論において、真の贈与とは「返礼を期待せず、自己認識すらされない純粋な行為」であり、そこには矛盾がある。つまり、与えたと認識された時点でそれは贈与ではなく、交換あるいは誇示となる。では、アンパンマンの贈与は果たして純粋か?アンパンマンは、顔を差し出しながらも、その行為が周囲に認識されている。そして何より、その行為によって彼は「ヒーロー」としての役割と敬愛を獲得する。これはデリダのいう「贈与の不可能性」に抵触するようにも見える。
 しかし、その一方で、アンパンマンの贈与には「秘密」が存在する。彼は自身の行為を誇示せず、しばしば無言で実行し、見返りを求めることはない。さらに、顔を与え続けるという行為が彼の存在基盤を脅かしている点──つまり、彼自身が徐々に消耗していく構造──において、その贈与は「自己消滅的な贈与」とも読める。これはデリダの贈与観における「計算なき行為」としての贈与に接近している。
 デリダ的に言えば、アンパンマンは「贈与という名の構造的矛盾を受け入れながら、それでもなお贈与する存在」であり、その倫理性は不可能性のなかに倫理を見出す哲学的挑戦ともいえる

 デリダの師匠筋にあたるジャン=リュック・マリオンは、贈与を「呼びかけへの応答」として捉える。これは、自己意識や選択のレベルを超え、他者からの根源的な「呼びかけ」を受け取ることで自己の存在が確立されるという考え方である。アンパンマンが困っている人を見捨てられないという「愛」から正義が生まれるというやなせ氏の思想 10 は、このマリオンの「呼びかけへの応答」としての贈与と親和性がある感じがする。アンパンマンは、飢えという他者の根源的な苦痛を「呼びかけ」として受け止め、それに応える形で自己を差し出す。この行為は、意識的な選択や計算を超えた、存在論的なレベルでの贈与じゃないだろうか?

 ナタリー・サルトル=ラジュスは「借り」の哲学において、与える側が見返りを期待するか否かにかかわらず、受け取る側には「借り」が生じるという見解を示した。アンパンマンの無償の贈与は、受け手に対して直接的な返礼を求めないが、その極端な自己犠牲ゆえに、受け手にはある種の「負債」や「感謝の義務」といった心理的な「借り」が生じる可能性も指摘できる。これは、贈与が常に純粋な善意として受け取られるとは限らず、受け手側の心理に複雑な影響を与えうるという側面を示唆する。

 これらの贈与論の視点から見ると、アンパンマンの行為は、モースが提唱する互恵的な贈与の枠組みを超え、デリダやマリオンが探求するような、より根源的で無条件な贈与の領域に踏み込んでいる。彼の自己消費的な贈与は、現代社会の「give and take」という教義 に挑戦し、資本主義的な交換の論理を突き破る哲学的な可能性を提示している。


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