2021年12月30日木曜日

7278 GPz400R_5

 

7278 GPz400R_5

「男はつらいよ」に関し 2

 第44作「寅次郎の告白」の最後の方、ちらっと出てくる満男君の愛車、シレッとした顔して、スパーダからGPz400Rに替わっておりました。流すところですが、あの鹿児島まで行ったいわば相棒、さらっと買い替えてしまったか、山田洋次さん、小道具スタッフが替えてしまったことにも頓着しなかったか、それとも、まぁ、それなりに時間も経ち、映画で語られないところで買い替えのドラマとも言えない何かがあったことにしたのか。まぁ、ホントどうでもいいですね。
 いや、どうでもよくないか。公開当時、「寅さん」なんて見なかった、単車乗りを中心にした満男と同世代が、今更「男はつらいよ」シリーズ見ることもあると思うんだが、多分、山田洋次氏的には、その当時のよくいる若者のキャラ付けするための小道具以上の意味はなかったように思うんだが、スパーダからGPz、ホンダからカワサキへの買い替えって、ないわけではないが、それなりの事はあったと思うし、単車に乗っていたという事実自体、満男のキャラクターメイキングにそれなりのポジションを占める事実であったと思われる。当時としては確かに特別、というほどの事ではなかったとは思うが、伯父に影響を受けた、という部分では効果的な小道具ではなかったと思われる。思い付き、思い込みで鹿児島まで行っちゃうところとかね。満男クン、例え泉ちゃんが絡んでいなくても、いろいろ経験したのかな、GPzに乗って、とか、想像してしまう。

 さて、寅さん、車寅次郎氏のことである。シリーズ通じてである。繰り返すが、何度もじっくり見たわけではないので見落としがあるのかもしれないが、テキ屋をやっていて、商材の仕入れの場面ってあったんだろうか? と思ったりするが、ちょっと思いつかない。商売として、あれは成り立っていたんだろうか?と。
 売り口上はほぼ超が付くくらいの一流だったとしよう。しかし、旅姿は、空色のダボシャツ、辛子色のジャケットを腕を通さずにはおるだけ、ソフト帽を外すことはめったになく、あとは古ぼけた革のトランク一つ。商材を持ち歩いているようには思えないし、高額で利益率の高いものを売っているようにも思えない。行く先々で伝手で商材を仕入れ、その場で売っていたということなんだろうか? あの世界の事は全くわからないが、なんかちょっとな、今じゃ絶対あり得ないし、寅さんが活躍した高度経済成長期末期からバブル期、平成の何年間かの間であっても、それだけでやって行けたとはとても思えないのだが、そこは蛇の道は蛇なのかな?
 あと性格。一応振られはするけれどもてないわけではない、なぜか気になるチャーミングな人物ということになっているが、殊現在、リアルであんな人が身近にいたら、ちょっと困る。
 そういう人物も受け入れられたおおらかな時代、といえばいいのかしら? でも、やはりスクリーンの中だけにしていただきたいんじゃないかしら?

 まぁ、寅さんは極端にしても、みんな優しく、弱いけれど強く、聖人でもないが悪人でもない。一所懸命生きている。悲しい顔をすることはあるけれど、暗い目はしない、そういう人たちの時代。ノスタルジーに浸るだけなんだろうか? オレの場合はNETFLIXで確認がてらみてるけれど、やがて物悲しくなる。

 

7277 VT250 Spada

7277 VT250 Spada

「男はつらいよ」に関し 1

 当地富山と、四国のどこかだったかが、遂に「男はつらいよ」のロケ地にならずに、渥美清氏の死去によりシリーズ終了を迎えてしまったため、富山県民的にはちょっとしたトラウマになってしまい、山田洋二監督の次のシリーズ「釣りバカ日誌」ではいち早くロケ誘致に動いたのだが、これも三国連太郎氏の死去でシリーズ終了。そこそこ人気はあったものの「男はつらいよ」ほどではなかったのではないか、と思われる。
 富山市岩瀬など、そのロケ誘致に熱心だったのだと聞き、49作目の制作に際し、山田氏渥美氏などは前向きだったが、松竹映画との交渉が不調だった、らしい。また、一説では、そこまで当地が後回しになったのは、渥美氏が結核など大病を患っていた若いころ、不義理をした女性が当地の女性だったから、当地が後回しになった、なんて話も聞いたことがあるが、それについては確認が取れない。まぁ、若いころの苦い思い出が人生に陰影を与えることもあるわけで。

 さて、画像の赤のVTスパーダ、車寅次郎氏の甥、吉岡秀隆氏演じる諏訪満男クンの最初の愛車で、今はジャン・アレジの奥さんが若いころ演じていた満男君の後輩の及川泉ちゃんが鹿児島でへこたれてるのを聞いて、葛飾柴又から鹿児島まで満男君がこれに乗って駆け付けるなど、大活躍だった。それと同型のバイクである。

 満男君の親父の弘さんは、寅次郎氏に助けられたのか邪魔されたのかよくわからないうちにさくらさんとくっつくことができたが、寅次郎氏と満男君は揃いも揃って女性に対しては不器用で、というのがこのシリーズの肝なんだが、寅次郎さんの移動にはほとんど窓が開く各駅停車の国鉄→JRに対し、特に若いころの満男君はこんなバイクに乗ってたりするのだが、いずれにしろ、基本が気ままな旅をする自由人の乗り物で、窓がはめ殺しの新幹線とか、ましてや飛行機なんてものは使っていた記憶がない。まぁ、全部をじっくり見たわけではないのだけれど。

 さて、あらゆる場面で、この話、現実の、特に今現在の日本では成立しないファンタジーであるというのは、説明要る?
 何百キロも離れた女の子に会いに行くのに、今の子、バイク走らせたりするんだろうか? コスパを考えて、今の子は恋しない、というが、それはお金の話ではなく、それだけの熱量を見せてしまうと、持ってしまうと、却って退かれてしまうというリスクを考えて、ならばと、そこまで入れ込んだりはあらかじめしない、ということなんだと思う。惹かれるだけならまだしも、そこまでやると、半ば犯罪者か精神異常者のような目でみられてしまうから。
 満男、即ち、我々の若いころはどうだったか? 女性との距離感を誤るとこれもまた大事故になってしまうのは今と同じで、オレも懲りずに何度も失敗しているが、まぁ、アリと言っちゃアリだったかな?

 そもそも、今の子でこういう単車に乗るのは、我々の頃よりもはるかに少数派で、時間感覚と距離感覚がマヒしたような単車での自由な旅なんて、ないとは言えないまでも更にかなり少数派なのではないだろうか? 若い子はお金もないしね。大人として大変申し訳ない。

 

7276 青山博一2 retake

 

7276 青山博一2 retake

Hiroshi Aoyama
Avintia Blusens FTR Kawasaki
Valenciana 2012

  金があるチームは速いし、まして威信がかかったワークスチームは金と技術があるからいうまでもなく、という極単純な真理において、では、それを持ちえないチームはどうするか、というと、とにかく金を集めるんだけど、それが閾値に達しなければ、参戦できないし、参戦したとしても下位に沈んでしまえば、テレビ中継に移ることもなく、結局スポンサーが去り、参戦継続が難しくなり撤退する。
 レース、殊、GPぐらいになると年間経費も相当なもので、いろいろ諸経費も然ることながら、まず速いバイク、だ。そしてそれのメンテナンス費用。それが用意できて初めて、報酬額も高いが速いライダーを乗せることができる。

 ならばせめて、トップは走れなくても上位を狙えて、いくらか安いバイクはないものかとなる。昔はTZ500、RGB、RS500なんてあったし、年式落ちのワークスマシンという手もあった。そのような趣旨で’90年代後半NSR500Vなんていうのもあった。
 2ストロークは部品点数も少なく、比較的ローコストで、特に昔は現場のメカニックのアイディアでワークスも凌ぐようなハイパワーを出したりする椿事も無くはなかった。雑と言えば雑、おおらかと言えばおおらか、と、言えないこともなかった。

 4ストローク1000ccに移行して部品点数は格段に増え、精密な組み上げも求められ、現場では手出しができない電子部品も高性能なものが求められ、当然コストも上がる中で、メーカーワークス、準ワークスのサテライトしか残っていないのが現状であるように思われるが、かつては、それでもそうならないように、と、市販公道用のスポーツバイクのエンジンをチューニングしてスペシャルフレームに積んだエントラントの参戦を認めていたである、GPは。

 でも、やはりというか、ワークスには歯が立たなかった、と。

 考えてみれば、これって昔のTTF1であるようにも思われるが、こういうマシンでのレースもあって面白いのではないかと、ふと思った。が、どうなるかね? メーカーはレースの負けが市販車の売り上げを下げるリスクを避け、レースでのガチのバトルを避ける傾向にある。さてさて。


7275 Walter Villa_3

 

7275 Walter Villa_3

Walter Villa
Aermacchi-Harley Davidson 250RR
1975


2021年12月28日火曜日

7270 Kork Ballington_6

 

7270 Kork Ballington_6

Kork Ballington
KR500 1982

 まさにこの個体かどうかは分からない。でも、確かタンクは無塗装アルミのものだったと思うので、この年このタイプのKR500を軽井沢のペンションの玄関先で見た。
 '80年代前半までカワサキGPチームを率いておられたケン鈴木氏のペンションを訪れたのは晩秋の、大学が学園祭をやっている時期で、カワサキに乗っていたオレには憧れではあったけれど、考えてみれば、これが走っていた時期は、ケニーが全盛、82年はフレディ・スペンサーはまだNSを得ていない、NRなんていう馬力はあるけれど重い単車で苦労していたそんな時期。ルッキネリとかウンティーニとかバリー・シーンとかもいた時期で、カワサキがチャンピオン争いに絡むことはついになかったのではないかと思うのだが、しかし、そういう文脈とは別に伝説みたいに語られる。変なの。
 まぁ、言ってしまえば「参加することに意義がある」なんだけど、参加できてしまえば半分以上やる事は終わった、なんてことはなく、結果的に上位を走れなくても、それでも、なんとか少しでも上に行こうとする、参加賞なら間に合ってる、というか、ちょっとどう言えばいいのかわからないな、あと、1,2シーズンカワサキが続けていたなら、例えば85年のフレディのWタイトルはなかったかもしれないし、その後の勢力図も変わっていたのかもしれない、それぐらいの熱はあった。

 風呂が少し寒かったな。温泉ではなく、外国の大きなたらいに足がついたような湯船で、まだ20代だったのに、オレは随分おっさん臭かったのか、ちょっと風呂には不満だったのを覚えている。
 その時期、客はオレ以外におらず、それを見越して奥様のおばさんたち、を呼んでいたようだった。で、鈴木氏もオレみたいな単車でやってくる若い奴に幾度となく同じ話をしたであろう、トーハツからイタリアのピアジオに移籍し、それからカワサキGPチームの監督になった話、あと、奥さんのおばさんだったか、とにかく世界中から養子縁組をして、そのなかのマリオ宮川氏の話とか。ジャン・アレジのエージェントもやったという人である。
 バイク雑誌で読むような話が語られる。は~とかへ~とか相槌うつしかない。

 でも、結果的によく眠れたし、あの一泊は良かった。それは良い。

 翌日、鈴木氏の勧めもあったし、それがなくても鬼押出の浅間記念館に向かうつもりだった。三笠教会の横から坂道をのぼり左に曲がったところで、舗装が切れて、少し轍もあった。転倒た。ブレーキペダルが折れ、フロントフォークが見た目に曲がった。身体は大丈夫だったと思う。が、目の前が真っ暗になった。
 浅間記念館に行くのは諦め、のろのろ、フロントの調子を見ながら引き返す。佐久の街道沿いのバイク屋で、バイク屋の兄ちゃんと二人がかりで、パイプかませて、フロントを少しだけ見た目はまっすぐに修正したが、勿論そんなものはあてにならない。そこで車載のスパナを針金でブレーキペダルの代わりに括り付け、またのろのろ走り出す。諏訪に抜ける山道で、雪まで舞ってくる。幸いつもりはしなかったが、もうそのころは思考が停止していて、諏訪湖畔に降りたころは雨になっていた。
 下道でと思っていたが、帰らなきゃいけなかったのが京都だからそれでは間に合わない。どこかでもう一泊なんていう金銭的余裕なんてこれぽちもない。伊那で中央道に乗った頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。

 悴む手で高速道路を単車で、しかもフロントは曲がってるし、なんて、思考を停止していても、やはり恐怖で、それでも、時速80キロは最低限キープして、名神に合流してから、何にもない羽島PAのトイレの前のタイルの上に、ついつい倒れ込むように寝転がってしまった。山の中を縫う中央道よりは少しは寒さが緩んだような気がしていた。
 いや、さすがにトイレの前でこれはまずいだろうと、体を起こし手目にしたのは、側溝の縁を上り下りするドブネズミだった。なんか呆けてみてしまった。

 「行くか」。精神的には疲れていたが、身体はそれほどでもないことにこの時気が付く。ドブネズミさんのおかげだ。途中、米原を過ぎたあたりで、ビカビカの赤い900ニンジャに容赦なくばひゅんと抜かれたりしつつ、21時には銀閣寺前の自分のアパートに戻っていたのだから、案外早い時間だったんだな、と今になって思う。中央道とか高速を走っていたあたりは、永遠に地獄が続くような感覚だったけど。

 で、酒食らって、気が緩んだところで、その後結構な期間後を引く、ささやかな失敗をするんだが、それについては書かない。


2021年12月27日月曜日

7269 Mike Hailwood_14

 

7269 Mike Hailwood_14

Stanley Michael Bailey Hailwood, MBE
RC173
Fuji 1967

 単車というものに興味を持ったころに、ドゥカティのシグネチャーモデルで”マイク・ヘイルウッド・レプリカ”なんていうのがあって、それが彼の名前を知るきっかけになる。国産車に比べれば、「曲がらねぇわ、止まらねぇわ」っていう操縦性で、いや、乗ったことないんでよくわからんが、しっかり開けて、荷重をしっかりかけてやらねぇと、言うこと聞かないたんしゃだったんだろうな、とは思うが、まぁ、どこまで行ってもわからない。

 さて、2輪と4輪、どちらでもレジェンド級の成績を残したのは、ジョン・サーティスしかいない。マイク・ヘイルウッドは2輪ではレジェンドだったが、4輪のF1ではせいぜい中堅だったらしいし、'60年代2輪でのライバル、アゴスティーニは散々アピールし、英国内のF1で自分でチームを作って年式落ちの車にまで乗ったけど、所謂F1GPからは声がかからなかったらしい。ほかに、GPとF1、どっちも走った人っていたかな?

 日本国内なら、高橋国光氏とか? 

 ワイン・ガードナーはGPを引退した後、何年か、日本のGTでスープラ走らせてるし、エディ・ローソンもインディ・カーに乗ってたが、GPにいた時ほどの成績を残した印象はない。
 グレッグ・ハンスフォードはオーストラリアの国内ツーリングカーでそこそこ活躍したみたいだが、あくまでそこそこ。

 ロッシや、ケーシー・ストーナー。ロッシはオフ・シーズンに、余興でラリークロスに出てったみたいだが、2輪を引退した今、さすがにあの年齢ではF1は狙えないだろう。ケーシー・ストーナーはオーストラリアのV8スーパーカーシリーズに出場することもあるみたいだが、フルシーズン走るということはしないみたいだし。

 逆に4輪から2輪に転向した人は皆無。余興としてはミハエル・シューマッハ、シーズンオフには熱心に2輪に乗っていたみたいだが、これもあくまで余興として。

 ただ、このマイク・ヘイルウッドという人、4輪のF1引退してから、2輪に復帰してマン島で2回勝ってるんだよね。基本、単車の人だったんだな、と。


2021年12月17日金曜日

7257 ZL1000

 

7257 ZL1000

20211216分
エアロバイク 83分42秒 31.83㎞ 700.2kcal

BGM

Paranoimia (feat. Max Headroom) [Extended Version] [2017 Remastered Version]Art of Noise
宇宙戦艦ヤマト2009 with Symphonic OrchestraTHE ALFEE
Inner Universe菅野よう子
Beyond ReasonRyuichi Sakamoto
GloriaZIGGY
マグマ大使コール東京
Jumpin' Jack FlashAretha Franklin
Rude Boy(不良少年のうた)Blankey Jet City
旅姿三人男美空ひばり
The GrooverT.Rex
Zip Gun BoogieT.Rex
冒険者 _02矢萩 渉
Brand New LoverDead Or Alive
リンゴの唄 並木路子
ジェラシー井上陽水
Banstyle/Sappys CurryUnderworld
想い出のエア・ポート吉幾三


筋肉バイクというと、V-Maxを思い出すが、同じ時期の対抗馬としてエリミネーターがあったので。



2021年12月15日水曜日

7256 S14_13

 

7256 S14_13

 健康上、割とかなり切実に減量しなくてはいけないのだが、なかなか手を付けられずにいる。思い立ったら、というところで、エアロバイク。本日は0.1㎏の脂肪燃焼を目標とした。

 77分05秒、31.84㎞、700.3kcal。(20211215) 

BGM

Beethoven - Egmont, Op 84 ca1Claudio Abbado; Berlin Philharmonic Orchestra
夢の途中来生たかお
Moonlight SonataY.Cornefissen
The Heart Asks Pleasure FirstMichael Nyman
彼女は死んだBlankey Jet City
Call Me桃井はるこ
When Love Takes Over (feat. Kelly Rowland)デヴィッド・ゲッタ
The Sheltering SkyRyuichi Sakamoto
Bike Ride To The MoonBOOM BOOM SATELLITES
The JungleB.B. King
PropellerBOOM BOOM SATELLITES
帝国のマーチJohn Williams




The Pianoのメインテーマであるが、S14シルビアのTVCMに使われていたことがあったので、本日の画像はそれに因む。

2021年12月14日火曜日

7255 Veilside Combat JZA80

 

7255 Veilside Combat JZA80

 ヴァレンティーノ・ロッシのGPでの走りの画像見ながら、1996年からいろいろ思い出しているのだが、1997年のこれから書く話題というのは、ロッシから離れて、このヴェイルサイドコンバットスープラの画像の方がよいかと思い、上げてみた。

 1997年の個人的なハイライトというと、Tokyo Game Show 1997 Autumnに開発者として参加したことかなと思う。
 幕張メッセであった、その時のゲームショウだが、そこに、2台80スープラがディスプレーしてあったわけだ。どちらもつるしではなく、SEGAのブースにはカストロールカラーのJGTC仕様のスープラ。確か、ナムコだったと思うが、そちらに、ヴェイルサイドコンバットスープラ、というわけだ。スープラについてはそれだけなんだが。

 オレがかかわっていたゲームというのはRPGというやつで、元々の制作の中心は、PC98とか用のRPGでコアなファンをつかんでいた制作チームだった。最初の企画段階からあるところまで、2Dのグラフィックでいくということで、そこで多少絵が描けるということでオレが呼ばれたんだが、時期が悪く、大手スクェアのファイナルファンタジーVIIのビジュアルが大体的に流れ出した頃で、出資者の意向もあり、3DCGに変更されて、おかげで、なんかもうバタバタ、グダグダになってしまい、おまけに、PlayStation、最初はウチのような小さなソフト会社でもどんどん参入させる方針で、それに乗った形なんだが、配布されたライブラリがバグだらけで、その辺自前でシュートできる大手しか結局モノにならなかった。
 一応、それでも、発売はしたようで、近所のメディアストアで一度だけ商品を見たことがある。で、しかも、誰かが買っていったようなんだが、なんか、本当すんませんでした、と、買って行った人に謝りたくなるような出来だった。

 それはそうと、ゲームショウである。まだ、製作途中というか、あの後、一回全部データ作り直しもしているのだが、グラフィッカーとして、なんか、ブースでトークショーに出てきてしまいましたよ。何話したか、全然忘れたけど。

 ゲームショウで配布するいろいろとか、あと、声優雑誌とタイアップしてキャラの声を担当する新人の子のオーディションとか、出資者というか元請けの会社の部長さんがゲーム専業の広告代理店を通して手配してくれて、あ、その新人の子の事務所の先輩に、京都にいた時聞いていたラジオのパーソナリティ、小森まなみ氏がいて、ウチのブースに顔出しに来られて、少しお話させていただいたんだった。今思い出したよ。

 代理店が手配してくれたんだろう、うちのブースの進行をしてくれたフリーの司会とかナレーターしてるお姉さん、いや、どこかの事務所に所属してたのかもな、芸能人と違ってマネージャーがついてるわけでもない、現地に行くのも現地についてからの段取りも一人でやらなきゃいけない、といっても多分オレとほぼ同世代かほんのちょっと上、休憩時間にちょっと喫茶スペースでお話しした。これも、何話したかは忘れたが、ひとつだけ、こっちのふりに一回一回反応してくれるオタクは基本的に優しい人たちだ、という話だったと思う。
 そこに、元請けの部長さんだ。さすがどこからお金が出るか知ってる、声のトーンを半オクターブ上げて、お姉さん、そっちにいそいそ行っちゃったよ。なんか大変だな、頑張れよ、としみじみ思ったことだけは覚えている。

 別の合間、控室である。キャンギャルの皆さん、表で笑顔で客、カメコに手を振ってる同一人物の綺麗なお姉さんたち、大股開きでパンツ見せながら、タバコ、ぷかーっとふかしてるわけですわ。カメコのとっちゃん坊や達、これ見たらどう思うのか、ふと思ったりした。オレもオレでタバコふかしながら。

 そんなこんなで、まだ、北陸新幹線なんてなく、特急白山かなんかで帰ったんだよな。帰ってすぐ、家に帰らず、そのまま仕事でした。3日ほど幕張に行って、である。

 まぁ、なんというか、結果、クソみたいなものしか作れず、発売後、大きな赤字を出してチームは空中分解、元請けの部長さんもクビになっちゃって、今となっては、へらへら笑うしかない。

2021年12月8日水曜日

7248 Rickman H2 750SS retake

 

7248 Rickman H2 750SS retake

「たどり着く」

 まぁ、上げた画像とは関係ない事を書く。因みに、ナイトキャップというらしいが、寝酒、睡眠導入剤代わりに、安ウィスキーの炭酸割飲みながら、テキストを打っている。つまり、とりとめがない。

 時々頭の中をループするのが、「強く儚い者たち」だっけ、coccoという人が歌ってたやつ。

 トビウオのアーチをくぐって宝島に着いたころ、
 あなたのお姫様は誰かと腰を振ってるわ。

 あぁ、若いころ、げっぷが出るほど体験いたしました。いや、宝島なんかにたどり着けなかったし、歌の中みたいに、甘いお菓子を振舞ってくれる人もいなかった。お姫様が誰かと清潔なシーツにくるまっていたころ、それをその時は知らないオレは、今日ほど冷たい雨ではない、ほんの少し冷たい霧雨、休憩時間、フィルターを軽くかみしめながら煙草の煙を吐いていた。霧雨で煙る山を見ながらね。
 ただ、あの時は、今よりずっと健康で、しっかりと、薄っすら上る上り坂に立ち尽くすことができた。

 せめて、宝島なり何処かなり、たどり着くことはできるんだろうか? それすら怪しい。

 たどり着いた夢の国は
 どこか嘘で、悪いお菓子みたい。

 AJICOの「波動」。UAの曲か、元々は。よくわからない。
 たどり着いたところというのが、しかし、なんかやはり居心地が悪く、そんなことを予感している。まだたどり着いていないとは思うのだが。その前に野垂れ死んじゃうんじゃないか、と思っている。まぁ、それでもいいのかな、と。


 
さて、いい具合で酔いが回ってきたので寝ます。本当は肝臓に負担欠けるから熟睡出来ないらしいんだけどね。

2021年12月7日火曜日

7247 FXS 1979

7247 FXS 1979

 「ハーレー、空冷OHVやめるってよ」である。詳しいことは分からない。事実誤認かもしれないが、来年度のモデルを最後に空冷OHV、カタログから落とすらしい。まぁ、時代だしねぇ、としか言いようがない。別に「いつかはハーレー」とか思っていたわけでもないので、ハーレーファンほどさみしいとか悲しいとかはないけれど、なんか、釈然としないものが何処かにある。


 今では「主要地方道高岡青井谷線」というのだそうだが、何やら「れんげ通り」なんて聞いたことない看板が掛けられている近所のまぁ、この辺では幹線道路である。でも、ずっと「大野早川線」とよんでいたので、今でも「高岡青井谷線」とか「れんげ通り」とか呼ばず「早川線」と言っている。

 小学生の時、石でキャッチボールしてて、捕り損なって、額に2針ほど縫うけがを負った早川線沿いの空き地をつぶした後、スーパーと鉄骨2階建てのテナントビル? ビルと言っていいのかどうかわからないがそういう商業施設ができたのは、額にけがした2年ほど後だったと思うが、時期についてはよくは覚えていない。
 そこにあったスーパーマーケットだが、重宝したんだけど、閉店してしまい、今は居ぬきでリサイクルショップが入っている。これで10年ちょっと経つかな、もっとかな。

 母がちょっと思い立って買い物に行くのにも便利なスーパーだったのだが、最近できたスーパーは結構離れていて、そもそも母には歩いていくのにも遠すぎるし、クルマ通りの多い早川線と、新しくできた環状線を横断しなければ、となると、とても歩いてはいけない。
 まぁ、代わりに買い物などいくらでもするのだが、83になる父に車の運転で、時々買い物にも出ている。いろいろ不安ではあるが、そこは今時の田舎あるある。


 大学生の時か、帰省した時の事だと思う。朝早くそのスーパーの駐車場に、ショベルの黒のローライダーが停まっていたわけだ。
 ハーレーには、実はそれほど興味はなかった。「easy rider」は何度か繰り返して視たが、オレがチョッパーに乗ろうとは思わなかった。同じハーレーなら、スポーツスター系かソフテイルだろ、と薄っすら思っていた。ローライダーにはほぼ興味がなく。

 しかし、件の黒のローライダー、カッコよかったのだ。まるでネコ科の大型の猛獣が眠っているかのようだった。県内ナンバーだったか県外だったかも覚えていないが、このローライダーをみたのは、この時一度きりだった。

 恐る恐る近づいてみた。別に取って食われるはずもないが、そういう気分だった。少し離れて、タバコが一本灰になる時間だけ、それを眺めていた。
 いや、いいもの見せていただきました。ごちそうさまでした、とその場を離れたように思う。前傾姿勢のスポーツバイクとはまた違った走っていく意志が表現された造形だった。


 さて、「ハーレー、空冷OHVやめるってよ」である。そもそもガソリン燃やしてエンジン回す乗り物の社会的余命があとわずかな所に、「空冷」で「OHV」など、当世流、コンピュータ制御の細かな燃調制御などできるはずがなく、いわば走る生きた化石みたいなところはあった。そうじゃなくても、ガソリンエンジンが、ガソリンの持つエネルギーのせいぜい30%も推進力に利用できていない、という点が、ガソリンエンジン絶滅の根拠となっている。
 しかし、言われているほどEVに温暖化抑制の効果があるとは思えない。っていうか、まやかしがいっぱいだと思っている。クルマで言えば、同じ車格なら、ガソリン車の1.5倍ぐらい重い、EVは。それだけ余計エネルギーを食うのである。配電ロス、バッテリー製造時に出るCO2、等々。発電を化石燃料でやるならば、多分、ガソリンエンジンのクルマ走らせるのと排出量、そんなに変わらないのではないのだろうか?となると、EVへの転換以上に、発電インフラについての議論に力点置くべきだろう。

 それと、建設業従事者として、多くのディーゼルエンジンで動く重機などの機械、これらってどうなるんだろう? ある日突然、ディーゼルエンジンの使用、まかりなりません、と言われたら、もうどうしようもなくなるが、その辺を責めてくる話は聞こえてこない。それはそれでありがたいけれど、なんかその程度のもので、温暖化抑制じゃないもっと別の理由が働いてるんじゃないか、と思わせるに充分の状況である。まぁ、大体巷間言われているような理由なんだと考えているが。


 

2021年12月5日日曜日

7246 20211204 東福寺

 

7246 20211204 東福寺

7245 John Denver

 

7245 John Denver

John Denver
TR350


7244 Valentino Rossi 1997_4

 

7244 Valentino Rossi 1997_4

Valentino Rossi
Aprilia RS125R 1997

 ヴァレンティーノ・ロッシの事から離れて、1997年の事を少し。


 1996年には、三菱銀行あたりが立ちいかなくなって、公的資金を入れるも、責任者が相応のペナルティを受けたと印象がないまま公的資金を入れて立ち直りはしたけれど、それが後のこの国のモラル・ハザードにつながったのではないか、と書いたが、

 この年は、遂に支えきれず破綻した、銀行、証券会社、保険会社が続出したという印象。


 それほどまでに、不良債権、バブルの時の金融倫理のゆるみの問題は大きかったのか、ということと、国庫のキャパの問題は当然あるだろうけれど、潰れてしまうものは潰してしまえと舵を切ってしまった、三菱は助けてもらったのに、という、三菱が助けてもらえて他がそうじゃない、なんかいまいち根拠不明な所での不平等感が残る。当時の事を伝えるものはいっぱいあるようで、よみこんだわけではないが、なんか、相当ドロドロしていたんだろう。


 利害が細分化してしまい、国として社会として明確な方針が打ち出しきれない。ネット時代前夜でそれだったので、何につけ、そんな風になってしまい、誰の言っていることが正しいのか、政府首脳のものであっても、そんなことはないはずだと、反証もまた多く信じられない。何を根拠にしているのか明確ではないままだから。後には、それをいいことに、統計すらまともに取らなくなる官僚の仕事であるが、マスコミもまた、自分たちの妄想のストーリーの中に都合のいいファクトだけを当てはめて、なんてことをしたりして、そういうのを市井の人間が肌で感じているものだから、その内陰謀論的なものがばっこしだして、というのが ←今ここ、という感じなのだと思う。


 まず正確なデータ。それを政府が収集して包み隠さず公開することが大切なんだろう。データ取集に関しては官僚が集めて作成するものの他に別系統で収集したものも突き合わせてデータの妥当性を探っていく感じ。それの主体は政府、政治家と呼ばれるポジションの人たちの仕事であり、その過程も細かく公開していく。


 官僚の抵抗は大きいだろうな。しかし、まぁ、それにそぐわない役人はバンバン替えていった方がよい。


 下っ端はなんかそれらしいペナルティを受けたりもするが、最終的な意思決定をする責任者にはそれが及ばないという印象。それがいけない。


 保守というものが、仕組みの大きな枠組みを変えずに、というならそれでもいいが、その為にもへまをしたやつ、不正を働いた奴というのは、特に上の権力を持った奴ほど、ちゃんと更迭、追放していかないと、仕組みの保守は成り立たないと思うが、どうか?


 まぁ、失われた10年と呼ばれていたものが、やがて30年となろうとしているのは、このあたりの事が始まりだとおもっている。先行きの不透明感、不安感だけが残り、行き当たりばったりの対処療法だけが繰り返されて、それに対しての明確な処方も意志も示せていない感じ。 なんか同じこと書いてしまったな。



7243 R35_57

 

7243 R35_57

 思えばR35が、「エンターテインメントとしてのクルマ」の最後だったのではないかとも思う。


 この「エンターテインメントとしてのクルマ」というのは、言い換えれば「憧れとしてのクルマ」ぐらいになろうか? ガソリン車はまだもう少し続くし、スポーツカーもR35の後にも、かつてほどではないが発売されている。
 しかし、走行性能―走るということに、数値のみならずそのコンセプト、思想まで突き抜けていて、我々をしてスゲーと思わせたのはR35が最後だったんじゃないだろうか? ということ。


 クルマの動力性能については、すでに頭打ちだったというのはある。これ以上凄くしたって誰が操縦するのか。
 そうなると、制御系の話になる。いっそ、すべてAIが制御してしまうオートパイロットで最速とか。でも、そういうの本当楽しいの?ってなると、その匙加減、ということになる。

 価格。一部の石油王とか秒で何億稼ぐとか、そういう人間じゃない、正業についた月給取りにでも買える価格でこの性能。言い換えれば、工業力の問題。

 最高速はともかく、加速ではEVの方が上。もう、ガソリンアホみたいに食ってスピード出すなんていうのは許されない。


 つまり時代的に許されていた、何とか無理をすれば買えないこともないクルマを人が操り突き抜けるように走っていく、そういう夢としてのクルマ。買う、買わないの問題ではない。極上の美女とのセックスよりもひょっとしたら上なんじゃないだろうか? とさえ思わせる快楽の予感。その辺での憧れと妄想の対象としてのクルマ、である。



 そもそも、今、我々は、ガツンと突き抜けるように走っていきたいのか? それを希望しているのか? 


 ちゃんと希望しているのであれば、自動車メーカーのブランドイメージのためにこういう車は必要となるが、そう希望することを忘れてしまったのではないか? または、そう希望する、そういう意思をうばわれてしまっているのではないか?
 直接、強硬にそういうことを禁止するということはしないようだ。かえって逆効果だから。徐々にパイを奪っていく。愛好者を少しずつ削っていく。年をとり、そういう愛好者が死滅してしまえば完了、という感じで。


 ブランドイメージに寄与するものがなければ、売れないものをカタログからは消去する、速攻で。株式会社は、顧客のものでも社員のものでもなく、株主のものであり、株価の根拠である複利配当に、しかも即時的に反映されないような企業活動は差し止められる。そんな製品の製造は停止させられるのだ。社員がどんなに希望していたとしても。


 物言う株主とやらにちゃんと対抗しうるような結果を出している経営者でない限り、製造者、開発者の意志、顧客というかファンの希望なんていうのは三の次なのである。


 逆に言うと、そういう経済の理屈の中にありながら、そういう夢を顧客にすらなれなかった、一ファンとして見られた時代を知っている俺たちは幸せだったのかもしれない、という言い方しかできないのかもしれない。


2021年11月28日日曜日

7242 Jean-Louis Albera

 

7242 Jean-Louis Albera

Jean-Louis Albera
KR350
Paul Ricard 1980

 1983年、84年ごろ、ケニーとフレディのころからのGPファンである。そのわずか3年前の事であるが、ジャン・ルイス アルベラなるライダーの事は聞いたことがない。カワサキに乗り#1を付けるほどのライダー、いたのだろうか? わずかに「1980年、ル・カステレのGPにて」、ル・カステレ、つまりポール・リカールとあるが?
 他にジャン・ルイス・アルベラの名前、フランス語pdfで見かけたが、1980年はカワサキには乗っていないという、GPにフルに出ていたわけでもなければ、大した成績も上げていなさそうだ。

 多分、テストか何か。

 非常に胡散臭いし、どこかおおらか。それはこの当時のGPの魅力でもある。


7241 Valentino Rossi 1997_3

 

7241 Valentino Rossi 1997_3

Valentino Rossi
Aprilia RS125
Suzuka 1997

 ロッシパイセン、旭日旗デザインのヘルメット被っちゃったりしてくれてます。”連中”が、ある時から思い出したように始めた鬱陶しいキャンペーンを張る前の事ではありますが。知ってる人は知ってる通り、ロッシはヘルメットやマシンの色、開催地やイベントに合わせて、時には気分でよく変えていた。
 ヨハン・ザルコも”連中”の抗議が入る前は旭日旗をヘルメットのデザインに取り入れていたのだが、旭日旗については前に書いたので、ここでは書かない。

 1997年の事ではない。1994年の宮沢内閣時の日米経済対話。バブル後、日本が弱りだした頃に条約という形を捨てて復活した、不平等条約。最恵国待遇ってやつ。アメリカにそれを認めるんなら、俺たちにもよこせというスタンスで来たのが、中国、韓国で、或いはロシアもだが、ロシアの場合は北方領土の問題がある以上、それを確保しているうちは、ネタに乏しくあっという間に引っ込めたようだが、で、中国、尖閣諸島あたりの問題はあるものの、別に今更日本から殊更搾り取らなくてもいいぐらいに大きくなってしまったが、韓国にとっては「戦争時、日本がしたこと」は相変わらず重要な資産になっている。困ったときは日本から搾りとれ、的な。多分、本当にこのことについてひどいことやらかした日本人が、特に社会上層にいるのだろう、または既に鬼籍に入っているのかもしれないが、とにかく明らかにできないような後ろ暗いことをやらかした奴が。それをいいことに、針ほどの事実を丸太ん棒ぐらいに膨らます膨らます。一説によれば、賠償を求める自称元従軍慰安婦であるという女性、偶に計算すると当時5歳にもいかない幼女だったってこともあるときく。なにそしたら、日本軍はペドフェリアだったといいたいわけか? と。
 関係者が存命中に事実を100%明らかにして、責任取るべき人間、ペナルティを受けるべき人間は、然るべきに処されるべきだったが、日韓お互いに、そうされると困る人間が権力を持っている人たちにいっぱいいたのだろう。
 大多数の関係者がすでに存命ではなく、動きようのない事実を事実として明らかにすることはほぼ不可能であるが、裁判の証拠的な精度で可能な限り明らかにする努力をするべき。それから、後ろ暗いから、賠償的な円借款や無償援助もかなりの額してきたはずだ、名目をあいまいにして。それら一遍全部清算すればよい。
 で、その後は、可能な限りかかわりにならないようにする、と。

 ロッシの1997年スズカでのヘルメットから、あらぬ方向に話が膨らんだ。


7240 CBX550F

 

7240 CBX550F


 画像はCBX550Fであるが、このころはバイクブームの奔りの頃。車体がそっくり同じで、エンジンブロックもほとんど同じで、ボアストロークだけ変えた、というパターンが結構あった。まぁ、免許制度の所為もあったのだろう。


 で、多分、この文、文中のMも読む。「こんなこと書くなよ~」とか、まぁ、程々に抗議してくる。深刻なようなら修正するか削除するかすることになると思う。


 通っていた高校には紙パックのpiknikだったかのジュースの自動販売機が入り口横に置いてある食堂はあったのだが、所謂購買というものはなかった。中学の時はあったんだけど。代わりに、小腹が空けばこの前書いた間島とか床鍋とか。教科書は高岡駅高校にある学海堂、文房具はその反対側にある、名前は忘れた文房具屋さん。
 休み時間に文房具を買いに出た。正門から。
 中学の時の同級生、他の高校に進学したが、その様子では学校に行ってないのだろう、Mが赤いCBX400Fにまたがって、所在なさげにしていた。何を会話したかは覚えていないが、まぁ、CBXの話だよ、当然、多分。


 時は流れる。何しろ、同じ中学だったからと言って、ほとんど当時話をしたことがない奴だったから。
 インターネット、SMSのおかげで、子供の時はそれなりに交流があった同級生とも交流がなかった同級生とも、そこそこ仲良く、飲み会で一緒に酒を飲んだりする。


 まぁ、オレらが社会に出てすぐぐらいから使われだした、ヤンキーだったんだが、ちょっとニュアンスが違ってたやつだった気もする、Mは。そういうわけで、特に親しくないうえに、SMSとか使いだしたのが40代からであったから、奴の年譜なんて全然知らないが、要するに長距離のトラック運転手で、奥さんと二人いた娘のうち一人と死別していると。

 奴の口から聞いた。いつもはにやけ顔の奴だけど、その時はさすがに表情が消えていた。その時点で何年前の事かも知らない。傷は癒えているのだろうか? いや癒えるはずなんてないんだ。できるのは、気持ちにどうやって折り合いをつけるのか? 
 Mは50代半ばの今になっても、スカジャンにリーゼントで、関西や名古屋で時々あるロカビリーのイベントに出かけて行っているようだ。しかし、まぁ、そんな話を聞いた途端、なんというか、底に流れているのは、ロカビリーではなくゴリゴリのブルースであるような気がしてしまった。でろんでろんのスワンプギターが流れてるような。

 手に余る感情、本人が本当は何を考えていたのか、全然わからない。大変だったな、としか言えることはない。
 しかし、奴は、今、偶に張り込んだ食事をインスタとかに上げたりする。何とかやっている。偶におめおめ生きている自分自身の卑怯をなじったりすることもあるのかもしれない。どうなのかはわからない。


 あのときは無邪気な子供だった。ヤンキーもテストで運動が得意だった子も点数獲るのが多少得意だったやつもそうなじゃないフツーの子も。
 まぁ、そろそろ親は当然、本人までも逝っちゃうようなお年頃で、そうじゃなくても、子供の時には想像してなかった苦労をしょい込んでる話も聞いたりする。或いは健康に不安を抱えてるとか。


 因みに、通っていた中学は、当時市内では一番ワルな中学だったそうで、県内にその悪名を轟かせていたそうなんだが。特にオレの代。
 でも、一つ上や一つ下に比べても、物故者が少なく、同窓会の出席も多く、なんか、大人になった今の方が仲良しだ。不思議なものだ。


 コロナ禍で、なかなか飲み会も開けなくなったが、ひとたびほろ酔いの同級生を見ていたら、なんかこんな感じで続けていけたらいいな、と素直に思う。



 でだ、奴の赤いCBXなんだが、あの後、割とすぐ、廃車になってしまうような事故に遭ったそうである。もったいねぇ。