で、そのソフトビニルで包まれたボール紙でできたお絵描きセットのバッグにあしらわれた写真の赤いレーシングカーである。
まぁ、車種は一通り空で言えたようであるが、レーシングカーは、当時のプロトタイプカーも葉巻型のF1カーも一括りにレーシングカーだった。親父はオレに教えたとは言わないが、そういうことを教える大人がいないと、または、絵本などでも与えないと幼児に車の名前なんて言えるはずがない。が、仮に親父だとして、親父もレーシングカー、個別に名前なんか知らなかったのだろう。
右から左に疾走しているプロトタイプレーシングカーであった。それがプリントされたそのお絵描きセットのバッグは退院してからもしばらくお気に入りだったが、まぁ、幼児も持ち物だ。破損したのか、どうしたのか、いつの間にやら、どこかにやってしまった。
あの車はなんだったのだろう? 流線型のかっこいい車だったけど、決して日常的な場面で見られるような形ではなかった。
ある時、そのプリントされていた写真を別所で視ることができた。大人になってからだ。
プリンスR380A-I。1966年の5月初旬の富士スピードウェイ、衆人の目に現れたのはその一度きりで、「遂に」日本車が欧州車に勝った、そのレースでの一場面との事だったと思う。
オレが生まれたのは、大体その一か月前。6月の下旬にはビートルズが来日している。そんなころの写真であった。
モノの本や、wiki程度の知識であるが、日産に合併吸収されることが決定していたプリンス自動車技術陣の、最期の意地。
その2年前のレースで、スカイラインGT、B54は国産車では突出した性能であったにもかかわらず、レース専用車、ポルシェ904には、敵わず、レース中、一度はポルシェの前に出るも、結果的に後塵を拝する。確か、この話、テレビ、プロジェクトXとかでやってたよな、ちがうかな?
その辺の企業根性物語、或いは本田宗一郎とその子分達が空冷エンジンでF1に挑んだり他にはない小排気量多気筒のバイクでTTに挑んだりした話、或いはそんなホンダに挑んだ更に小さな町工場の吉村秀雄が火事や詐欺に遭い何度かどん底につきおとされてもはそのたびに這い上がった物語、企業話と言わずとも、若いころの長嶋茂雄が当時ナイター設備がなかった立教大学の夜のグラウンドでボールに石灰を塗って苦手を克服すべく守備練習をした話、投手として芽が出そうになかった王貞治が荒川博の家に幾晩も泊まり込み畳を何枚もダメにして一本足打法を開眼した話など、豊臣秀吉の立身出世の物語の如く、日本人の男の子としては知ってしかるべき教養であると、何となく錯覚していたが、そうではなかったようだ。何よりオレ自身そういうのが苦手なんだが。
米英ではなく、旧同盟国ドイツ製のポルシェではあったけれど、舶来品に、欧米へのコンプレックスがまだまだ強い時代の事だったのだろう。
R380はポルシェに勝った。新聞のトップの見出しを飾った、そうである。現在のモータースポーツより格段に上の待遇であり、プリンスがポルシェがどの車がというより、日本製が勝ったという事実が当時の日本には大事だったのだろう。
新生児の時に同時的に起きていたそんなことを知る由もなかった5歳の幼児は、やはり、そんなことは全く知らない。でも、意識下に自動車というものが、時代の希望であったと、何となく知っていたのかもしれない。そうじゃないかもしれない。ただ、安い幼児向けのバッグにプリントされたR380がそれ自体かっこよくて好きだったのだろう。