2021年3月14日日曜日

6395 R380A-I_7 & 赤いレーシングカーのこと2

R380A-I  1966

 で、そのソフトビニルで包まれたボール紙でできたお絵描きセットのバッグにあしらわれた写真の赤いレーシングカーである。

 まぁ、車種は一通り空で言えたようであるが、レーシングカーは、当時のプロトタイプカーも葉巻型のF1カーも一括りにレーシングカーだった。親父はオレに教えたとは言わないが、そういうことを教える大人がいないと、または、絵本などでも与えないと幼児に車の名前なんて言えるはずがない。が、仮に親父だとして、親父もレーシングカー、個別に名前なんか知らなかったのだろう。

 右から左に疾走しているプロトタイプレーシングカーであった。それがプリントされたそのお絵描きセットのバッグは退院してからもしばらくお気に入りだったが、まぁ、幼児も持ち物だ。破損したのか、どうしたのか、いつの間にやら、どこかにやってしまった。

 あの車はなんだったのだろう? 流線型のかっこいい車だったけど、決して日常的な場面で見られるような形ではなかった。


 ある時、そのプリントされていた写真を別所で視ることができた。大人になってからだ。

 プリンスR380A-I。1966年の5月初旬の富士スピードウェイ、衆人の目に現れたのはその一度きりで、「遂に」日本車が欧州車に勝った、そのレースでの一場面との事だったと思う。

 オレが生まれたのは、大体その一か月前。6月の下旬にはビートルズが来日している。そんなころの写真であった。

 モノの本や、wiki程度の知識であるが、日産に合併吸収されることが決定していたプリンス自動車技術陣の、最期の意地。
 その2年前のレースで、スカイラインGT、B54は国産車では突出した性能であったにもかかわらず、レース専用車、ポルシェ904には、敵わず、レース中、一度はポルシェの前に出るも、結果的に後塵を拝する。確か、この話、テレビ、プロジェクトXとかでやってたよな、ちがうかな?


 その辺の企業根性物語、或いは本田宗一郎とその子分達が空冷エンジンでF1に挑んだり他にはない小排気量多気筒のバイクでTTに挑んだりした話、或いはそんなホンダに挑んだ更に小さな町工場の吉村秀雄が火事や詐欺に遭い何度かどん底につきおとされてもはそのたびに這い上がった物語、企業話と言わずとも、若いころの長嶋茂雄が当時ナイター設備がなかった立教大学の夜のグラウンドでボールに石灰を塗って苦手を克服すべく守備練習をした話、投手として芽が出そうになかった王貞治が荒川博の家に幾晩も泊まり込み畳を何枚もダメにして一本足打法を開眼した話など、豊臣秀吉の立身出世の物語の如く、日本人の男の子としては知ってしかるべき教養であると、何となく錯覚していたが、そうではなかったようだ。何よりオレ自身そういうのが苦手なんだが。


 米英ではなく、旧同盟国ドイツ製のポルシェではあったけれど、舶来品に、欧米へのコンプレックスがまだまだ強い時代の事だったのだろう。
 R380はポルシェに勝った。新聞のトップの見出しを飾った、そうである。現在のモータースポーツより格段に上の待遇であり、プリンスがポルシェがどの車がというより、日本製が勝ったという事実が当時の日本には大事だったのだろう。

 新生児の時に同時的に起きていたそんなことを知る由もなかった5歳の幼児は、やはり、そんなことは全く知らない。でも、意識下に自動車というものが、時代の希望であったと、何となく知っていたのかもしれない。そうじゃないかもしれない。ただ、安い幼児向けのバッグにプリントされたR380がそれ自体かっこよくて好きだったのだろう。


2021年3月13日土曜日

6394 Giacomo Agostini_11

 


Giacomo Agostini
MV Agusta 500

 ジャコモ・アゴスチーニは、大藪春彦の「汚れた英雄」の原作に、実名、出てきたかな? どうだったかな? 1960年代から70年代に前世だったイタリアのグランプリライダーで、オレがリアルタイムでレースを追いかけだした頃は、ヤマハのチームディレクターだった。


 日本よりはるかにその方面に熱心なイタリア人にとってレジェンド中のレジェンドみたいな人。



この10年の事

  2011年3月11日は、高岡市長慶寺のローソン新築に向けたボーリング調査をしていた。小矢部川と千保川の合流地点よりはわずかに上流であるけれど、一級河川、それなりの規模の川の中下流域で、小矢部川が右に蛇行している地点の内側となれば、普通に軟弱な地盤の所ではある。実際の所、住宅は少なく、工場とかごみの焼却施設とか、国道160号線沿いにはガソリンスタンドとか車屋とかそういうのがあるようなところ。

 鉄骨平屋であれば、判断によってはボーリング調査など行わず、スウェーデンサウンディングで地盤調査を済ませてそれで確認申請を取ってしまうようなところではあるが、一括してローソンの新規店舗の建設を請け負っている、多分この時は全国展開をしているハウスメーカー、建設会社ではなかったかと思うが、そこの方針でボーリング調査一択であった。

 で、まぁ、今はボーリングマシンの動力、電動モーターというのも増えつつあると思うのだが、結局電源の事を思えば、ヤンマーの汎用ディーゼルエンジンで動かすのが多くの場合で、おかげで左耳難聴になってインフルエンザにとどめを刺されて、片耳聴こえなくなってしまったのだが、音も然ることながら、振動もかなりのもので、足場単管で組まれたボーリングの足場の上は結構揺れる。おまけに試験地は軟弱地盤の上を走る国道160号線のすぐ横で、大型が通ればそれだけで揺れる。だから14時26分、当地は震源から離れているので震度3だったそうだが、揺れが到達したのは何分後だったんだろうか? とにかく、そんな大きな地震が来ているとは知らなかった。春の浅い時期で晴れてはいたけれど、冬のような防寒着が必要な、なんとも微妙な季節だった。今もそうなんだが。

 夕方、会社に帰る途中のカーラジオで、大地震が来てしまったことを知る。しかし、丁度津波が遡上していた名取川とか、どこにあるのか知らず、静岡のあたりなんだろうか? 四国の方なんだろうか? と思っていた。

 オレのあの日の東日本大震災の体験はそんなところである。被災地以外の多くの人と同じように、津波などの映像で心を痛めたりしたり、津波の恐怖におののいたりした。今もしている。

 同時代の日本人として、思うことは多々ある。しかし、募金以外何もしていない。ある程度落ち着いて以降、あのあたりに旅行に行くことすらない。間もなく、同程度の地震が、同じ東北地方か東海地方又はその以西にやってくると言われているが、次、この国はもうちょっとましなことができるんだろうか? そのためにオレは何かやれたんだろうか? と思うが、言うまでもなく、特に何もやっておらず、恥じ入るばかり。


 マグニチュード8だの9だのというのは、幸いにして起きることは考えにくいところに住んでいる。しかし、7弱程度のものであれば、天正大地震と安政飛越地震、記録にある限り2度起きている土地柄だ。この地の震度がそれほどでなくても、狭い日本だ、日本のどこかで起きれば受ける影響はとてつもなく大きい。

 本当に起きた時は、この前よりもうちょっとマシなことをしたいものだ。


6393 R380A-I_6 & 赤いレーシングカーのこと。


R380A-I 1966


 多分5歳の頃だったと思う。同じころにあさま山荘事件、ずっとテレビでやってたのを覚えているから、寒い時期だったのではないかと思う。その頃は父の勤務地の都合で福井市に住んでいたのだが、特に身体に不都合を感じていた覚えはないのだが、「肺炎」で入院していたことがある。両親にすればその親、オレからすれば祖父母が近くにいるわけではない、不安も多々あっただろう。

 福井駅にほど近い割と大きめの病院だった。

 とにかく、身体に特に不都合、何らかの症状を感じていないお子様だったから、親の目を盗んでは病院の中、いろいろ歩いて回った、ような記憶がある。それほど大した病気ではなかったのだ。

 両親の故郷の高岡から、母方の、だったかな、父方のだったかな、祖母が見舞いに来た。何しろ病院中ぺたぺた歩き回るくらい退屈していたお子様だったので、病院の売店でお絵描きセットを買い与えられた。お絵描き帳と何色かのカラーペンが、厚紙をビニールで包まれたバックに入ったヤツ。
 オレのは、赤いレーシングカーが右から左に疾走中のやつで、入院もしていない妹にもなぜか、恐らくは細川智栄子氏の絵柄と思われる少女のキャラクターが描かれたもの。

 脱線する。細川氏の「王家の紋章」、いまだ連載中というのを最近知った。びっくりした。その作品のほとんどは1970年代のもので、「王家の紋章」も連載開始が1976年とwikipediaには書いてある。どのようなペースでの連載化は知らぬ。よく長期連載で引き合いに出される「ゴルゴ13」「こち亀」「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」ほどの掲載頻度ではないのかもしれない。良く知らないのだけれど、wiki情報では氏も、ウチの両親と同世代。長生きしていただけますように。


 で、「王家の紋章」ではなく、赤いレーシングカー。

 教員を勤め上げた叔父によれば、教育心理学か発達心理学か、その辺の学問で、そういう事例について学ぶこともあるそうなのだが、物の全体像、あるいはほんの一部分を見てそれが何であるか正確に言い当てる幼児というのは、割といるそうで、オレの大学の名古屋出身の先輩もそうであったらしいのだが、人様の言葉を満足にしゃべる前から、クルマの形、全体像は勿論、ミラーやテールランプだけを見て車種を言い当てるお子様だったらしいですよ、オレは。
 とにかく、自動車がそんな頃から好きだったらしい。

 因みに、その「肺炎」なんだが、誤診であったと聞かされた。子供、幼児だったから詳しいことは聞かされてはいない。親は当然というか、釈然とした表情ではなかったと思う。
 大人になって、今現在福井市に在住している方に聞いた話では、その病院、福井市民にはやはりというか藪医者との評判だっただそうだが、とっくに代替わりもしたはずで、でも、50年経った今もそれなりに結構の規模で営業しておられるらしいので、実際はそうではないのかもしれない。







2017年3月11日土曜日

6371 Michael Rutter


Michael Rutter (6371/8401)

Michael Rutter
SC59
Macau GP, 2013

6370 ZX-RR 2003 retake


ZX-RR 2003 retake (6370/8401)


6369 相楽樹


相楽樹 (6369/8401)

6368 紫電_2


紫電_2 (6368/8401)

6367 阿部典史_17


阿部典史_17 (6367/8401)

Norick Abe
NSR500
Suzuka 1994

6366 W1S_1 retake


W1S_1 retake (6366/8401)

6365 Daytona Coupe_5


Daytona Coupe_5 (6365/8401)

Cobra Daytona Coupe
 50th Anniversary
aluminum edition

6364 Valentino Rossi_2 retake2


Valentino Rossi_2 retake2 (6364/8401)

Valentino Rossi
NSR500
Jerez 2001