Delta HF Integrale_3 (3523/7670)
2014年7月13日日曜日
2014年7月12日土曜日
3521 Kenny Roberts_8 & 「モータースポーツと死生観 1」
Kenny Roberts_8 (3521/7670)
Kenny Roberts
on OW54
in WGP 1981
☆
モータースポーツと死生観 1
そういえば、二輪のモータースポーツを伝える雑誌は月刊としてはもはや二誌になってしまったし、二輪の雑誌だというのに、GPのことをページを割いて毎月伝えるバイク雑誌も案外少ない。バブル期でも、それほど多いとはいえなかったが、それでも、もう少し多かったような気がする。
その2輪のモータースポーツなのだが、専らMotoGPの結果のみである。モトクロスには専門誌があるようだが、昔であれば、AMAの結果ももう少しわかったし、季節になればマン島TTについての記事もあったりしたのだが、この何年か、雑誌ではとんと見かけない気がする。
その2輪のモータースポーツなのだが、専らMotoGPの結果のみである。モトクロスには専門誌があるようだが、昔であれば、AMAの結果ももう少しわかったし、季節になればマン島TTについての記事もあったりしたのだが、この何年か、雑誌ではとんと見かけない気がする。
で、石原慎太郎氏が三宅島で開催しようとした公道レース、MotoGPの系統ではなく、マン島TTなど、所謂Irish Road Raceといわれる一連の公道イベントの系統であると思われる。時代が時代で、そのあたり、雑誌を読むだけではほとんど知ることはなかったが、facebook伝いにこの2,3年で結構知ることが出来た。と、ともに、そこでyou tubeに上げられている映像を教えられ、それがどういうものなのかを段々と知ることになるのだが、
さて、何とも懐かしい感覚なのだ。それは、高校生の時、初めて二輪のレースのことを知ったころの興奮に近い衝撃というか。’80年代前半から半ばにかけての、ケニーとフレディ、ウンティーニ、ルッキネリ、そして片山敬済の時代のことだ。ハング・オフ(ハング・オン)といわれる乗車姿勢というのも、確かに衝撃的だった。それだけではないのだが、あの時の感覚を説明しろといわれても、何とも名状しがたいものであった。ただ、酷く美しいと思ったのは間違いない。
エディ・ローソン、ワイン・ガードナー、ウェイン・レイニー、ケヴィン・シュワンツ、ミック・ドゥーハン、ヴァレンティノ・ロッシ、それぞれの時代でファンの末席にいたのだが、この何年か、どうにも、かつてのような興奮を覚えない。マルク・マルケスの肘摺りなんてすごいじゃないか、とは思いはするけれど、なんというか・・・。
それがどういうことなのかは分からなかったが、ネットでマン島TTレースや、マンクスGP、アルスターGPなどの映像を見ていて分かったようなことがあるので、それを書く。
さて、何とも懐かしい感覚なのだ。それは、高校生の時、初めて二輪のレースのことを知ったころの興奮に近い衝撃というか。’80年代前半から半ばにかけての、ケニーとフレディ、ウンティーニ、ルッキネリ、そして片山敬済の時代のことだ。ハング・オフ(ハング・オン)といわれる乗車姿勢というのも、確かに衝撃的だった。それだけではないのだが、あの時の感覚を説明しろといわれても、何とも名状しがたいものであった。ただ、酷く美しいと思ったのは間違いない。
エディ・ローソン、ワイン・ガードナー、ウェイン・レイニー、ケヴィン・シュワンツ、ミック・ドゥーハン、ヴァレンティノ・ロッシ、それぞれの時代でファンの末席にいたのだが、この何年か、どうにも、かつてのような興奮を覚えない。マルク・マルケスの肘摺りなんてすごいじゃないか、とは思いはするけれど、なんというか・・・。
それがどういうことなのかは分からなかったが、ネットでマン島TTレースや、マンクスGP、アルスターGPなどの映像を見ていて分かったようなことがあるので、それを書く。
ひとつには、自分の子供の世代のレーサーとして走っているような時代ということもあるのかな、とも考えた。かつては、走っているレーサー達はおじさんたちでありおにいさんたちであったが、いつの間にやらタメ、年下、そして、いまや子供の世代、である。これは、どのスポーツ興行でも共通するのであろうが、最初は年齢的なこともあって、プレイヤー達に素直にあこがれられたが、年を追うごとに・・・というのはあるのかもしれない。目が肥えて多少のプレイでは驚かなくなるということもあるのかもしれない。
MotoGPの若いツルりとした顔のイケメンたちに、しかし、老いの負け惜しみでもなんでもなく、魅力を感じることはなく、一方で、今となくても超ベテランといわれるライダーでオレと同じか一つ二つ若いぐらいの公道イベントのライダーたち、こちらにしても、そういうわけでほとんどオレよりは若いはずなんだが、しかし、人によってはジャガイモみたいな顔をしているけれど、なんとも雰囲気のあるライダーたちなのだ。それは、オレが高校生だった頃のGPを走っていたライダーたちも持っていたような気がするのである。それは何なのか、ということなのだが。
(0015/7670)
Labels:
「モータースポーツと死生観」,
0000~0100(T),
3501~3600,
Kenny Roberts,
RD/RZ/TZ/TZR/YZR~,
WGP/MotoGP,
Yamaha,
ヤマハ
2014年7月11日金曜日
3507 Grégory Leblanc_2
Grégory Leblanc_2 (3507/7670)
グレゴリー・ルブラン
ZX-10R 拾四年式八時間耐久決戦仕様
Grégory Leblanc
& ZX-10R
for Suzuka 8 Hours Endurance Road Race 2014
Labels:
3501~3600,
Evangelion,
GPz/ZZ-R/ZX~,
Grégory Leblanc,
Kawasaki,
Suzuka 8hour,
エヴァンゲリオン,
カワサキ
2014年7月10日木曜日
2014年7月9日水曜日
3490 C2 1965 & 本日のエクササイズ 2014年7月9日分
C2 1965 (3490/7670)
☆
本日のエクササイズ 2014年7月9日分
●sit up 60
●crunch 30
●leg raise 30
1020/460200, 0.22%
体調不良やら、仕事の忙しさやらにかまけて、結構サボった。
2014年7月6日日曜日
2014年7月5日土曜日
2014年7月4日金曜日
3481 加藤大治郎_8 & モータースポーツと死のリスクと
加藤大治郎_8 (3481/7670)
Daijiro Kato
on NSR500
@Comunitat Valenciana,Valencia
VALENCIA GRAND PRIX
rd.1 MotoGP 2002
☆
モータースポーツと死のリスクと
7月4日だからといって、アメリカの独立記念日ネタはやらない。74番のライダーにまつわり、例えばレースと死生観について、みたいな事をちょこっと考えた。
石原慎太郎氏が東京都知事だった頃、三宅島の復興のために、三宅島でマン島TTレースのような公道レースを行って観客を集めるとか何とか、そういう構想をブチ挙げて、しかし、よりによって二輪のメーカーやレース関係者の反対を受けて、なにやらよくわからないイベントにスケールダウンして、今はもう立ち消えになったんじゃないかしら? よく知らない。とりあえず検索もしていない。
検索した。2010年でそのようなイベントは終わっている。おそらく東日本大震災により継続するような雰囲気ではなくなってしまったのだろう。
Wikipediaによれば、GPも走ったことのある宮城光氏などが反対し、ホンダや他の日本のメーカーも石原氏とは「レースに対しての考え方が違う」と協力をしなかった、一方でハーレーダヴィッドソンやBMWが割りと積極的に協賛に応じようとした、とある。
実際、1966年には藤井敏夫氏、2006年の前田淳氏、2013年の松下佳成氏と、三氏が落命しているし、毎年一人か二人亡くなるのが普通、というところなのではあるが、しかし、それにしても、三宅島の件でも海外のメーカーが協賛しようとしたりしたのも然り、それだけ危険なイベントであっても、ゆるぎなく連綿と歴史が刻まれるところを見ても、日本では考えられないことである。
facebookをみても分かる。今年のTTでもそうだったし、パイクスピークでもそうだった。死亡者がでてしまったら、ずらっと「R.I.P.」の三文字、即ち、Rest In Peace、安らかに、という言葉が並ぶ。死んでしまったことについては盛大に悲しむ。しかし、日本人と違うのは、であるから、死を絶対悪とし、ソレを避けることが何によりも優先する、とは決してならないところだ。
実際、1966年には藤井敏夫氏、2006年の前田淳氏、2013年の松下佳成氏と、三氏が落命しているし、毎年一人か二人亡くなるのが普通、というところなのではあるが、しかし、それにしても、三宅島の件でも海外のメーカーが協賛しようとしたりしたのも然り、それだけ危険なイベントであっても、ゆるぎなく連綿と歴史が刻まれるところを見ても、日本では考えられないことである。
facebookをみても分かる。今年のTTでもそうだったし、パイクスピークでもそうだった。死亡者がでてしまったら、ずらっと「R.I.P.」の三文字、即ち、Rest In Peace、安らかに、という言葉が並ぶ。死んでしまったことについては盛大に悲しむ。しかし、日本人と違うのは、であるから、死を絶対悪とし、ソレを避けることが何によりも優先する、とは決してならないところだ。
寧ろ、死のリスク、ソレに対する恐怖すら乗り越えて、自分の望む方向に突き進む者、一人一人が例え無名であっても英雄で、それを実に直截的に体現しているレーシングライダーがその際たるもの、ということが、欧米では確実にあるのである。10年ほど前であるならば、ヒデトシ・ナカータよりもテツヤ・ハラーダやダイジロ・カトーの方がヨーロッパでは知られた日本人であったというのも、そういうところからであろうよ。
ただ、逆に欧米では人の死に対し、過剰に躁状態になり、ということもないのかもしれないが、悲しみや死に対する恐怖を乗り越えるための精神状態をアクティブに作り出すための心の動かし方をするのかもしれない。
日本土着のものとしては、死というのはもっと静かに受け止めるものだったのではないか? そのように感じるようになったのが、東日本大震災からのことである。
そして、それらのいずれとも違う、死は絶対悪であり、何としても、最優先に避けなければいけないものという考え方が、多くの場合、この日本では現在の主流であり、こういった流れの中で、モータースポーツというものが済みに追いやられているのではないか、そう感じているのだが、この問題は、この何週間、何ヶ月間、トップニュースになっている、集団的自衛権の問題、その反対派の意識の大きな柱ではあるのだけれど、逆に、緻密で実のある反駁立論を不可能にし、結果内閣、政府の動きを抑止できなかった、というところにつながるのではないかと感じている。柔軟な理論構成を出来なくしてしまっている、ような。
日本土着のものとしては、死というのはもっと静かに受け止めるものだったのではないか? そのように感じるようになったのが、東日本大震災からのことである。
そして、それらのいずれとも違う、死は絶対悪であり、何としても、最優先に避けなければいけないものという考え方が、多くの場合、この日本では現在の主流であり、こういった流れの中で、モータースポーツというものが済みに追いやられているのではないか、そう感じているのだが、この問題は、この何週間、何ヶ月間、トップニュースになっている、集団的自衛権の問題、その反対派の意識の大きな柱ではあるのだけれど、逆に、緻密で実のある反駁立論を不可能にし、結果内閣、政府の動きを抑止できなかった、というところにつながるのではないかと感じている。柔軟な理論構成を出来なくしてしまっている、ような。
こういった、どこかで身に着けてしまった「・・・ねばならない」的なものの考え方というのは、ずいぶんと足枷になってしまうものだ。これ以上は、ここでは、別の話になってしまうが。
モータースポーツから何かインスピレーションを得られるとすれば、それは、まさに、それでも前に進む意志であり、それを、段々と奪われて来てしまっている。その時々、レーサー達の死を契機に。
モータースポーツから何かインスピレーションを得られるとすれば、それは、まさに、それでも前に進む意志であり、それを、段々と奪われて来てしまっている。その時々、レーサー達の死を契機に。
「死のリスクは何としても避けなければならない」という考え方も「死を恐れず、ソレよりもソレを乗り越えて死地を前に進むことが大事だ」という考え方も、それぞれその時々で正しいのであるのであろう。が、今のこのタイミング、とりあえず集団的自衛権の話は脇に置くにしても、一方の「死のリスクを避けることが何よりも最優先」という考え方のほうが、代々なにやらおかしな、怪しげな論者によって変な力を持ってしまっているために、いろいろ変なことも困ったことも起こってるような気がして仕方ない時がある。
(0014/7670)
Labels:
3401~3500,
Daijiro Kato,
Honda,
NS/NSR,
WGP/MotoGP,
ホンダ,
加藤大治郎
2014年7月3日木曜日
3478 997 GT3 R_8
997 GT3 R_8 (3478/7670)
997 GT3 R
in 24 Hours of the Nürburgring 2014
driver; Peter Dumbreck, Wolf Henzler, Alexandre Imperatori
3477 GL1000_3 & 手帳術、考察 1
GL1000 (3477/7670)
☆
手帳術、考察 1
個人的な事情として、まぁ、自分自身何とかしなくては、という思いはさて置き、というか、書いていて煮詰まるだけだし、読み返してみると、つまらない。方法は色々あるとしても、なんというか、腑に落ちないわけだよ、色々手に出したところで。50手前でそんなこと言っているのも大変恥ずかしいわけであるが、案外程度の差は遭っても、結構多くの同世代も、そんなことを感じているのではないかと思う次第。まぁ、それなりに、それぞれに方法論は持っているけれど、それがてっていできるかどうかで、今頃ひとかどの人物になっているか、平凡に埋没してしまっているか、というところなのだろう。
まだ、手帳術とか、その辺の言葉に届かない。前置き、長過ぎ。
まぁ、なんだ、子供の頃は、自分に内在するエネルギーというのは、とてつもないものがあって、それをどう使うか、しかし、暢気にそういうことを考えたり考えなかったりして、いつからか、いや、結構このエネルギーというやつも、有限で、とか思い出し、今ではなんと言うか、特に目を見張るほども持っているわけでは当然なく、しかし、それでも何とかしなくては、というところで、いかに無駄なく推進力を得ていくのか、あたりを考えたりするわけだ。
その辺、いろいろと、自己啓発術見たいのは出ているが、それら、すべてが正解で、すべてが誤答であるという事実。もし、このオレが正解を得ても、ソレを書いたところで、読んだ人にとってはそうじゃない可能性が結構高い、ということ。
なんとかしなくちゃ、何とかできたらいいな、というのは勿論なのだが、しかし、まぁ、ある意味、死ぬまでソレを探し続けるというのも実にまっとうな気がしている。ここで、正解を得て、では、と、次に行く、というようなものではないのかもしれない。
もういいだろう。
ワタミの、今では創立者で国会議員という肩書きになるのか、渡邉美樹氏の手帳本や、その元ネタとなったといわれる「七つの習慣」。ためになるといえば、ためになるのだが、エンターテインメントの一種といってしまえば、そうともいえる。この二冊や類書に限らず、多くのビジネス本、自己啓発本、クソみたいなものもあるにはあるが、うまく書かれているものを読めば、体が熱くなるような錯覚を覚えたりするのかもしれない。なんというか、昔のヤクザ映画みたあとの観客、映画館を出ると、やたら、肩で風を切って歩きたがる、みたいな? 明日からオレも変わるのだ、みたいな、決意めいたものがあって、そのとおりに出来る人も勿論いるのだけれど、そして、真面目に書いてあることをなぞる人もいるのだけれど、例えば、後者は書かれていたとおりやってみても、何やら、いつまでたってもご利益が得られない。オレはどこか間違っているのだろうか? などと、傍目には実にお気の毒な状況に陥ってみたり、そもそも、オレのように、何ら実行に移せず終わってみたりするのが、かなりの割合じゃないかと睨んでいるが、どうか?
それでも、数ある方法論の中で「手帳術、ノート術」なんていうのは魅力的なのだろう。理由は色々思い当たる。次にはその辺を整理して書こうかな、と。
(0013/7670)
2014年7月2日水曜日
3474 Chevy 1956
Chevy 1956 (3474/7670)
☆
本日のエクササイズ 2014年7月2日分
●crunch 70 (30+20+20)
900/460200, 0.20%
●arm curl 2kg 200×L,R
1000/920400, 0.109%
体調がよろしくない。腹を下している。ほとんど水便。
登録:
投稿 (Atom)