2025年9月17日水曜日

8847 安田美沙子 _1 retake

 


8847 安田美沙子 _1 retake

 安田美沙子氏、確か京都の南の方の出身だったはずで、歳の頃なら、1986年の年末、伏見大手筋の布団やの店頭で売り子のバイトしていたオレの目の前を幼い彼女が親に手を引かれ年末の買い物で通り過ぎることもあったかもな、と、念のためにwikipediaで確認したら、その可能性はないことが分かった。まぁ、どうでもいいけどね。10何年か前グラビアで活躍して、結婚して、亭主に浮気されたことなんか、カラッと愚痴を言ってたのを読んだ記憶がある。記憶違いかもしれぬ。今、時々instagramに投稿されていて、少なくとも伝え聞く分には家庭円満のご様子。御同慶の限り。
 浮気を・・・これ以上書くのならば確認せねば。・・・そう言う事だったらしいし、苦しい時期もあったみたいだ。でも、今は何とかなってる模様。

 女性が亭主の浮気を許すのってどういうことなのか? それでも亭主がいいのか、子供のためか? 佐々木希氏もそうだ。まぁ、家庭それぞれか。

 
残 念 な が ら、オレには全くの異世界のお話でござる。

「贈与」に至る / 糸口を探す 4 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 1


8846 512BB

 大杉栄と言えば、日本におけるアナキズム(無政府主義)の代表的人物だが、「思想体系の創造者」というより「運動家・実践者」的性格が強かった と言える。

 まず、思想的背景として、大杉はヨーロッパ無政府主義思想(クロポトキン、バクーニンなど)やマルクス主義、さらには自然主義文学や個人主義哲学などを幅広く摂取していた。しかしながら「これが大杉栄の一枚岩の体系」といえるものは存在しない。むしろ折衷的で、状況に応じて柔軟に引用・展開していくスタイルだった。

 著作と理論的側面をみるならば、『正義を求める心』『社会的個人主義』など、アナキズムを日本の現実に合わせて紹介・解説した著作は多く残している。特に「社会的個人主義」という概念は、大杉が工夫した一つのキーワードで、「個人の自由」と「社会的連帯」を両立させようとする試みだった。だとしたら、プルードンあたりの原初の無政府主義を志向していたのではないか? しかしこれも一貫した哲学体系というよりは、輸入思想の翻案・橋渡しの役割に近いものだった。

 運動家としての側面はどうだったか? 労働運動・農民運動・大衆運動の現場に深く関わり、雑誌『平民新聞』『労働運動』『近代思想』などを通じて活動を展開した。その生涯は、理論構築よりも「直接行動」や「大衆啓蒙」に重心が置かれており、そこにこそ彼の独自性があった。

 というところで、体系を築いた思想家 というよりは、運動家、活動家だったとみるべきだろう。ただし、無政府主義を「輸入思想の寄せ集め」で終わらせず、「社会的個人主義」として一定の整理を行った点で、部分的に「理論家」としての側面も認められないでもない。


 もし「体系を作った思想家」と比較するなら、例えばクロポトキンが『相互扶助論』で自然科学と社会思想を統合しようとしたのに対し、大杉は「翻訳者・紹介者・活動家」としての役割が強い、と整理できるのではないか?

 大杉栄は 「純粋な翻訳者」ではなく、翻訳しつつ自分の思想や状況解釈を差し込む人物だった。

 翻訳者としては、クロポトキンやバクーニン、マルクスなど、西欧の社会主義・無政府主義の文献を紹介し、日本語で読める形にした功績は大きいといえる。例えばクロポトキンの『パンの略取』など、当時の運動家が直接触れられなかった思想を日本に伝える役割を担っていた。

 そして大杉は、単なる翻訳にとどまらない。
 大杉は訳文に注釈や論評を加えたり、翻訳後に日本社会への適用可能性を論じたりした。彼の「社会的個人主義」という概念は、バクーニンやクロポトキンから影響を受けつつも、大杉自身が「日本の大衆」「農村社会」に即して再構築したものだった。つまり、翻訳を通じて「思想の輸入」+「現地化」を同時にやっていたわけだ。

 則ち、思想家というより媒介者だったのではないか?
 大杉はバクーニンのように「徹底した破壊の理論」を打ち立てたわけではない。またクロポトキンのように科学的な根拠を与える体系を築いたわけでもない。ただ、日本の社会状況を前に、輸入思想を「どう使えるか」という実践的な翻案を行った。その意味では 「翻訳者」以上、「純粋理論家」未満=媒介者・運動知識人 と言えるmpではあるまいか?

 要するに、大杉は「輸入思想の通訳」でもあり、「日本向けの実践的アレンジャー」でもあったわけだ。

 
 大杉栄は、無政府主義からマルクス主義までを幅広く摂取しつつ、どちらか一方に純粋に立脚するのではなく、折衷的・媒介的に使っていた 人物だった。

 若い頃はマルクス主義に親近だった。最初は『資本論』を熱心に読み、社会主義者としてマルクス経済学を重視していた。特に「階級闘争」「資本主義の搾取構造」への分析は、大杉の社会批判の基盤になっている。

 やがてアナキズムへ傾斜していくわけだが、しかし、ボリシェヴィキ革命後のソ連を見て、国家権力を握った社会主義の危険(専制化・中央集権化)を強く感じました。そこでクロポトキンらのアナキズムに魅力を見出し、国家や権力を否定する方向にシフトしていったのだ。

 「社会的個人主義」とはなにか?
 大杉は「個人の自由」を大切にしつつ、「社会的連帯」も不可欠と考えた。このため、アナキズム的な「権力否定」と、マルクス主義的な「社会経済分析」を併用しようとした。つまり、思想的には 「マルクス的な分析」+「アナキスト的な価値観」 のハイブリッドだったわけだ。

 右派などからは意外と思われるかもしれないが、徹底した「イズムの党派性」を嫌っていたようだ。大杉は「無政府主義者」や「マルクス主義者」としてラベル付けされることを嫌い、むしろ状況に応じて思想を取り入れ、現実運動に活かすスタンスだった。このため、後世から見ると「体系性に欠ける」と評されがちだが、同時に「日本の運動を前に進める柔軟性」があったとも言える。

 言い換えてみよう。大杉にとっては、マルクス主義とは資本主義分析の道具であり、アナキズムは理想の社会像・倫理の指針で、この両者を併用していたともいえる。

 実際、プルードンあたりの原初の無政府主義は「運動家」の立場からは扱いにくい思想家 だった事だろう。

 プルードンの思想の特徴として、まず、「所有とは盗奪である」というテーゼがある。これは資本主義批判として鮮烈。しかし「所有の全面否定」ではなく「小所有(自営業・手工業的所有)」を肯定していた。
 そして、国家・権力への批判。国家や大規模な中央集権に強く反対していた。この点で、そのため後のアナキストに大きな影響を与えた。それのみでは、大杉もさぞや不本意だったことだろう。

 相互主義(ミューチュアリズム)というものが、統治にの代わりとなる。労働者・小生産者が相互に信用を基盤に経済活動を営むという構想だ。これは協同組合運動や信用組合に影響した。
 では、なぜ、プルードンの思想は運動家から見たら、扱いにくかったか?

 大衆運動への即応性が乏しい世言うことがまず考えられる。プルードンは労働者階級の「小生産者」と「自営的職人」を理想化しており、巨大工場での労働運動には必ずしも親和的ではない。19世紀後半以降の労働運動(組合・ストライキ)にはバクーニンやマルクスの方が直接的に武器になった。
 これは革命より漸進改革寄りだったためだ。プルードンは「暴力革命」に懐疑的で、信用制度や協同組合を通じた社会変革を志向していた。直接行動を重視する大杉栄のような運動家には力不足に見えたことだろう。
 則ち、理論的には面白いが実践が難しいといえるかもしれない。プルードンの「相互主義」は、実際には大規模資本主義や国家権力に押し潰されやすい。従って、運動戦略としては「使える部分が限定的」だった。

 大杉はプルードンも読んでいたと思われるが、彼の著作や活動を見る限り「クロポトキンやバクーニン」の方を前面に押し出していた。つまり「プルードン=思想史的に重要だが、運動現場で使うにはやや不向き」という評価だったと思われる。
 プルードンは 思想史の基礎石(アナキズムの原点)として大事だった。しかし、社会運動の即効薬 にはならず、むしろ「古典的な参照点」に留まったのだろう。


 プルードンの相互主義とは、ご近所の町内自治会の穏やかな連合みたいなもんなのだろう。 「町内会・生協・信用組合の連合体」みたいな社会構想のように思えてならない。
 それは、小規模な生産者(職人、農民、自営業)が「相互契約」に基づいて協力するするもので、信用制度や相互扶助で資金や労働を融通し合う仕組みだ。
 ここで、国家や大企業のような大きな権力は必要なく、あくまで「横のつながり」で秩序ができる、という、「無政府主義」と言う言葉が出てくれわけだ。
 言ってしまえば、江戸の講や寄合、戦後日本の農協や自治会のネットワークに近い。革命的な「ドンパチ」ではなく、暮らしの中から秩序を積み上げていくモデルである。

 革命を掲げる運動家(大杉など)にとっては、プルードン的な「自治会の積み重ね」は力強さに欠けて見えたことだろう。資本主義や国家権力に正面から対抗するには、バクーニン的な「直接行動」やマルクス的な「階級闘争」のほうが実践的に思える。だから大杉は「思想史的には大事」と認めつつも、運動戦略としては前に出さなかったのだろうな。

 まとめるならば、 「プルードンは近所づきあいを理想化した哲学者」 「大杉は街頭でマイク握ってる活動家」
 ぐらいの差がある、と整理できそうだ。
 とか言いながら、実は大杉の人となりをあまりよく知らない。あの頃のインテリはどうしてそのような方向に向かったんだろうかとも思ったりする?
 大杉栄を含め、大正期の「インテリ」がなぜアナキズムやマルクス主義といった急進思想に向かったのか――これは当時の社会状況と「インテリ層の生まれた位置」を見ていくと腑に落ちる部分があるように思う。

 明治後期〜大正期の社会状況として、まず急速な近代化と格差がうまれたことがある。日本は富国強兵と産業化を推し進めたが、都市には過酷な労働条件の労働者が溢れ、農村は貧困に苦しんでいた。
 自由民権運動の残響もあったことだろう。明治の初期に「人民の自由」を訴えた運動が潰されて以降、民衆の政治参加は制限され続けていた。それに加え、国家の強権性、則ち大逆事件(1910)のように、思想弾圧は苛烈。知識人にとって「国家=暴力装置」という意識が強まっていった。

 これが、爆発のための熱が上がっていった原因と考えるならば、燃料はどうだったか?
 インテリ層の出自と「浮遊感」とでもいおうか。多くの急進的インテリは、地方の中下層出身(地主の次男三男、農村の秀才)だったらしい。学歴を手にして都市に出るけれども、上層のエリートにはなれず、また農村共同体にも戻れない。つまり 「自分の居場所がない」浮遊感 を抱えやすかったわけだ。この「浮遊するインテリ」が、自分の存在意義を社会運動や思想闘争に見いだしたのだろう。

 それならばなぜアナキズムやマルクス主義にむかっていったのか?
 アナキズムの魅力はなんだったか?
 国家権力に対する鋭い否定は魅惑的だったのだろうな。個人の自由を強調する倫理的な響きもあったことだろう。
 大杉が惹かれたのは、ここに「道徳的正義」と「行動主義」が重なったからのような気がする。

 マルクス主義の魅力は何だったか?
 社会構造を科学的に説明する理論的な力があった。それまでそういうものはなかった。階級闘争という「大きな物語」が、自分たちの不安定な立場に位置づけを与えてくれたようなきがしていたのだろう。

 アナキズム、マルキシズム、共通していたのは「現状を変えられる力」への渇望だ。ただ文筆にとどまるのではなく、「現実を動かす」ことができる思想が欲しかった。

 インテリの心理的背景も見ておこう。「学問や文学で食えるのか?」という不安、これは今でも、っていうか現在こそ強いかもしれない。「自分の知識を何のために使うのか?」という問いが、自らを苛む。権力に取り込まれて安定を得るか、民衆と共に立つか――その分岐で、多くは急進思想に惹かれていったのだろう。


 

《創作》寝取られ幽霊 第6章 図書館にて

 

 朝の下落合は、まだ少し眠たげだ。アパートの外階段を降り、自転車にまたがると、湿ったアスファルトの匂いが鼻をくすぐる。昨夜見た夢が頭から離れない。清彦は復員してきて、実家の玄関の前で足を止められていた。家に入れてもらえなくても、彼は不思議と怒るでもなく、穏やかな顔をしていた。夢の中の光景がやけに鮮明で、頭の中に残像のように漂っている。

 ペダルを踏み出し、聖母坂を下りる。坂道の途中、通学の小学生の列とすれ違い、自転車のハンドルを少し切る。新宿区立落合第四小学校の校庭から、朝のチャイムが鳴り響いてきた。子どもの声のざわめきに紛れて、蓮はふと考える。どうして清彦は、家に入れなくてもあんなに落ち着いていられたのだろう。自分だったらきっと焦ったり、不満をぶつけたりするはずなのに。

 山手通りに出る。車の流れはもう忙しない。ヘルメットをかぶったロードバイクの社会人が脇をすり抜けていく。蓮はスピードを緩め、大久保方面へと曲がった。目白通りに差しかかると、コンビニから出てきたサラリーマンが慌ただしくスマホを覗いている。どの人の顔にもそれぞれの予定と不安が張り付いていて、清彦のあの穏やかさとは正反対に思えた。

 「穏やかさ」とは何なのだろうか。諦めか、達観か、それとも……。軍服姿のまま、静かに家を見守る清彦の姿を思い出す。あれは敗戦をくぐり抜けた兵士だからこそ持てる余裕なのか。それとも、死者だからこその距離感なのか。ペダルを踏みながら、答えの出ない問いが頭の中を巡る。

 神田川沿いの道に入ると、少し風が軽くなる。川面に映る朝の光が、まだ眠気を抱えた瞼を刺激した。ここからは早稲田のキャンパスまで一本だ。桜並木の葉は濃く茂り、初夏の青さを強調している。対向車線を行く学生らしき自転車の列は、誰もがイヤホンを耳に差し込み、視線をスマホに落としたまま漕いでいる。

 蓮はスマホを取り出すこともなく、ただペダルを踏む。清彦が「家に入れないこと」を苦とも思わず受け止めていたのは、たぶん「自分の居場所はそこじゃない」と分かっていたからかもしれない、とふと思う。居場所を無理に求めず、ただ傍に立つ。それは弱さではなく、むしろ強さなのではないか。そんな風に考えながらも、やはり自分にはまだ早い気もする。

 早稲田通りに入り、正門前の学生でごった返す交差点に差し掛かる。講義に遅れそうな者、友達と笑い合いながら歩く者、みなそれぞれの世界を抱えている。蓮はブレーキをかけ、自転車を押しながら校門をくぐった。夢の余韻はまだ消えず、清彦の穏やかな横顔だけが胸の奥で反芻され続けていた。いや、そもそも、あの夢に出てきた親族一同や戦友達、報われなさすぎだろ。清彦だけが報われなかったわけじゃない。清司爺ちゃんも春江婆ちゃんも、・・・名前わかんねえわ、ひいひい爺ちゃん、ひいひい婆ちゃん、誰かいい思いしてたか? ずっと清司爺ちゃん、春江婆ちゃんのこと好きだったみたいけど、幸せそうじゃなかったぞ。あの、佐久間って人も、誰一人いい目にあってない。

 ってか、何のためにビルマくんだりまで行ってたんだ? まあ、彦爺こそ、膝撃たれてたけど、夢の中で死んでた人、皆んなマラリアか餓死だったろ? あ、多分あの司令の少将の人と最期だけはシブかった腰巾着の人は、ピストルで、自、殺って言っちゃいけないんだよね、自決してたなあ。

 何しに行ってたんだ?

 蓮は正門の前から自転車を降り、駐輪場に自転車を止めに行く間も、一講目のマクロ経済の教室に入って教授を待つ間も、ずっとそんな事を考えていた。篠原絢美とすれ違ったが、絢美こそ気まずそうに顔を逸らしていたが、蓮ときた日にゃ自分の思考に潜り込んでいて、絢美が足を引きずっていたことも含め気がつくことがなかった。まあ、連にしたって気がついていたなら、ほぼパニックに陥るくらい取り乱しただろう。


 今日のマクロ経済学は、LM曲線の導出だった。貨幣需要と貨幣供給の関係をグラフで描き、利子率が下がれば人々は貨幣を持ちたがるから投資に回らない、逆に利子率が上がると債券を買う方にシフトする……と教授は何度も強調していた。板書を写しながら、それなりに筋は追えた気がするのだが、「じゃあ現実の俺たちがどのくらい現金を持つかって、こんな数式で説明できるのか?」という引っかかりが残る。式の形は分かっても、生活実感とはどうも結びつかない。金融政策でマネーサプライが増えるとLM曲線が右にシフトする、という説明も「そういうもの」として覚えるしかなさそうだ。理解したというより、ただ納得したフリをしている感覚。

 なんだかなぁ、と、思いながらも、そんなもんか、とかとも思ったり。そんなことより、ビルマの問題だ。こんな事言うのもなんだが、特攻隊を犬死みたいに言う人がいて、それに対して烈火の如く反論する人もいる。でも、特攻隊は戦争に行って戦争で死んだ感じがまだするだけ、犬死度はマシな気がする。ろくに戦争らしいこともほとんどやらずに、マラリアやら飢え死にやら、挙句それに対して責任とって、なんだろうか、自決やら、なんなんだったんだ?


 商学部の学生としてはLM曲線をもっと理解するようにしなくてはいけないのだろうが、朝から、昨日からずっと、ビルマ戦線の事が頭から離れない。なぜ、あんなところまで出掛けて行って死にそうになったり死んだりしてたんだ? 清彦の表情以前にその事を知らねば、と取りつかれた。

 蓮は図書館の静まり返った一角で、厚い戦史の本を開いた。ページをめくる音が、あたりに小さく響く。見開きには、濃い緑のジャングルが描かれた地図。ビルマ。聞いたことはあるが、正確な位置は頭に浮かばない。地図の上で指を這わせる。タイの北部、インドの東、そして南シナ海へと続く。道なき道、密林の奥へと、戦争は押し進められた。

「ここか…」蓮は小声で呟く。列車の線路も、舗装された道路もほとんどなく、河が主要な移動経路だったらしい。水運の重要性、ジャングルの湿気、蚊の群れ、熱帯の雨、すべてが兵士を消耗させる。写真の中の兵士たちは、泥まみれで、荷物を背負い、川を渡る。蓮は息を呑む。戦争の地図だけではなく、環境そのものが敵だった。

 さらにページをめくる。年表が目に入る。1942年、日本軍はビルマを南から北へ侵攻した。戦略としては、イギリス植民地への圧力と、中国大陸への補給路確保が狙いだという。蓮は鉛筆で指をなぞる。マンダレー、ラングーン、アウンサンマーケット……聞き慣れない地名が続く。次々に都市や村、川が書かれ、侵攻の経路を示している。密林の間を縫うように進軍したことが、一目でわかる。

 戦線は長く、補給が困難だったらしい。蓮はメモを取る。食糧も水も足りず、病気が蔓延し、疲労で倒れる兵士も多かった。敵の砲火だけでなく、ジャングルの湿気、熱、マラリア、毒蛇、食料不足…想像するだけで息が詰まる。ページの端に小さく書かれた数字や統計は、数字としてではなく、苦しみの実感として蓮の頭に入ってくる。

 航空戦や補給線の破壊、激しい雨季による河の増水も目に入る。道路が寸断され、進軍が止まる。兵士たちは泥に足を取られ、川に流され、病床に伏す。戦略や計画だけでは片付けられない、人間の苦悩が書かれている。蓮は背筋を伸ばし、改めてページを見つめる。戦争とは、地図上の線や作戦だけでなく、自然や環境と絶えず闘うことでもあったのだ。

「なるほど…」蓮は声にならない声で言う。少しずつ、戦線の全体像が頭に浮かんでくる。南から北へ、湿地と密林を越え、川を渡り、都市を取り囲む長大な線。補給が途絶え、病気と戦い、敵と戦う。地図の中の点は、ただの場所ではなく、苦しむ人々の現場でもある。

 蓮はページを閉じ、深く息をつく。文字や図だけではなく、環境、地形、距離、気候……それらが一つに重なって、戦争の姿を形作っていることが、初めて少しわかった気がした。手元のノートに、地名と線を丁寧に書き写す。理解はまだ浅いが、確実に、頭の中で戦線の道筋が見え始めていた。

 まぁ、経過はそうだとして、なぜ日本軍はあんなところに手を出したのだろう?
 日本軍がビルマに進出した大きな目的は三つあった。第一に、当時ビルマを植民地支配していたイギリス軍を撃退し、英領インドへと圧力をかけること。第二に、中国へ送られる援蒋ルートの遮断である。ビルマ経由で供給される軍需物資や支援が止まれば、長期にわたる日中戦争での中国の抵抗力を削ぐことができる。第三に、資源確保の観点からも、南方作戦の一環としてビルマを押さえることには大きな意味があった。蓮はその記述を追いながら、「アジア解放」という耳触りのいい言葉よりも、現実の軍事的・経済的な打算のほうがはるかに前面にあったのだと理解した。

 行動は1942年初頭に始まる。日本軍はタイを経由し、ビルマへの侵攻を開始した。山岳地帯や密林を抜ける進軍は過酷を極めたが、当時のイギリス軍は戦力を十分に整えておらず、日本軍は驚異的な速さで首都ラングーンを攻略する。ラングーン陥落は、ビルマ戦線の転機として強調されていた。港を押さえたことにより、援蒋ルートの遮断はほぼ現実のものとなり、中国への物資輸送は大きな打撃を受ける。その意味で、日本軍は当初の目的を短期的には見事に達成したかに見えた。
 蓮はページをめくりながら、その「達成感」が一時的な幻にすぎなかったことを直感する。作戦序盤の成功の陰で、補給の問題はすでに兆候を見せていた。長大な補給路、未整備の道路、急造の兵站体制――勝利の報が届く裏側で、すでに次なる苦境の芽が育ち始めていたのだ。

 読み進めていくと、日本軍の成功は長くは続かなかったことがはっきりと分かる。ラングーンを攻略した時点で勝敗は決したかのように見えたが、実際にはそこからが本当の試練だった。そもそもビルマという土地は、広大なジャングルと山岳地帯に覆われ、近代的な道路や鉄道は限られていた。物資の補給には膨大な労力が必要で、港を押さえても内陸にまで行き渡らせる術が十分ではなかった。つまり、勝利を確定づけるための兵站線が最初から脆弱だったのだ。

 さらに、英印軍は体勢を立て直し、インド東北部から反撃の準備を進めていた。日本軍は勢いに任せてさらに奥地へ進軍しようとしたが、それは補給線を無理に引き延ばす行為にほかならない。輸送トラックはぬかるみに足を取られ、荷駄を担ぐ兵士たちは飢えと病に苦しんだ。マラリアや赤痢といった熱帯特有の病が兵士を次々に倒し、戦闘に参加できる兵力は急速に減少していく。

 蓮は資料に並ぶ数字や証言を目で追いながら、戦術的な勝利と戦略的な失敗の落差に衝撃を受けた。短期的に目的を果たしたはずの作戦が、兵站の欠如によってじわじわと崩れていく。その姿は、勝利を急いだがゆえに自滅へと向かった悲劇にしか見えなかった。ページをめくる手を止めた蓮は、声にならないため息をつきながら思った。「勝つことより、持ちこたえることのほうが、どれだけ難しかったのだろう」と。

 やがて蓮は「インパール」という地名に行き当たった。資料の中では、ビルマ戦線における最大の作戦、そして最大の悲劇と記されていた。インパールはインド東北部の山間にある都市で、そこを攻略すれば英印軍の補給拠点を断ち、ビルマ全体の戦況を日本軍に有利にできる──そのように計算されていたという。目的は明快で、一撃で戦局を逆転させる夢のような作戦だった。

 しかし、蓮が目を凝らすほど、その無謀さが浮かび上がった。インパールへの道は、アラカン山脈を越える険しいジャングル地帯で、まともな道路はなく、補給の見通しは最初から絶望的だった。にもかかわらず、日本軍は「現地で調達できる」「敵の物資を奪えばよい」といった根拠の乏しい見込みに頼り、膨大な兵力を送り込んだ。結果、補給はまるで機能せず、兵士たちは飢餓と病に追い詰められていった。

 資料には、生き残った兵士の証言がいくつも並んでいた。餓死を避けるために木の根や草を食べ、衰弱の果てに動けなくなった仲間を置き去りにするしかなかったこと。マラリアや赤痢が広がり、銃を撃つ前に部隊が壊滅していったこと。戦闘よりも飢えと病に殺された兵士の数が圧倒的に多かったこと。蓮はページを追う手を止め、しばし視線を宙に漂わせた。戦争映画で見たような「激しい戦闘」よりも、もっと静かで、しかしはるかに苛烈な死の連鎖が、そこにはあった。

 結局、インパール作戦は何一つ成果を得られぬまま撤退となり、日本軍は二十万を超える兵を投入し、その半数近くを失ったという。蓮の胸の内に、重苦しいものが沈んでいった。清彦も、春江も、清司も──自分の親族たちが関わった戦場とは、こういう現実だったのか。戦って散ったというより、支えを失い、立つ場所すら奪われて消えていった。そんな無念の空気がページの隙間から立ちのぼるように感じられた。

 「勝利を夢見て突っ込んだはずが、結局は兵士を殺すための道だったのか」──蓮はそう呟きながら本を閉じ、胸の奥で答えのない問いを繰り返していた。

 ビルマ戦線での日本軍の目的は単純に「現地を支配すること」ではなく、もっと広く「戦争の主導権を握ること」と「連合軍の補給線を断つこと」にあったんもではないか。けれど、現場で実際に起こったことを見ると、それがどれほど達成できたのかは疑問だ。戦争が進むにつれて、補給は途絶え、病気や飢えに苦しむ兵士が増え、結局、戦果よりも犠牲のほうが大きくなったように見える。
 あの戦線で日本軍が抱えていた目標と、現実との間には大きなギャップがあったんじゃないかと思える。理想として掲げられた戦略や目的はあったかもしれないが、個々の兵士の視点からすれば、ただ生き延びることが精一杯の現実だったのではないだろう。

 日本軍の目的は単純だった。連合軍の補給線を絶ち、インドへの進撃を目指すことでアジアでの戦略的優位を確立することだったのだろう。だが現実は、目的に比べて成し遂げた段落もそう言っていた。

 夢の中のあの戦線は兵站が完全に崩壊してた。前線まで物資が届かず、食糧も弾薬もろくにない状態で兵士はひたすら死線をさまよっていた。戦略的には見込み、どう見間違えたかあると判断してしまったのだろう。それにしても、現場は常に飢えと疲労に苛まれ、勝利どころか生き延びることすら奇跡だったことだろう。

 目的と現実の差はあまりに大きく、無理な進軍計画が悲劇を生んだだけだったのだろう。結局、ビルマ戦線での日本軍の戦果は限定的で、前線の兵士たちが背負った苦難だけが歴史に刻まれたにちがいない。

 日本軍のほとんどの作戦立案から進行まで正しいことは存在しないように思えた。それが本当ならば、日本国民や、何より当時今よりもっと強烈に信仰していた天皇陛下に対する背信ではなかったか? そうは考えなかったのか?


 図書館の静かなところにいながら、にわかに動悸が上がるような感覚があった。

 あらかじめ書架から選び抜き取ってきた本の中に、『ビルマ戦線を生きた兵士たち ― 証言から読み直す戦争体験』というものがあった。編者はこの大学の教授のようだった。

 パラパラと書き出しの所を読んでみる。
『本書は1970年代に本学の上條巌教授が行ったビルマ戦線従軍者へのインタビュー記録(未刊行部分を含む)を再編集し、現代の戦争史研究の視点から再検討したものである。』とある。
『従来は「補給の失敗による悲惨な戦場」という一般論で語られがちだったが、証言を精査すると、兵士たちの認識は「敗戦の中で、いかに人間らしくあろうとしたか」に集中していたことが明らかになった。』
『「戦った」というよりも「耐えた」という表現が繰り返され、食糧・薬・仲間の存在が「生きる意味」そのものになっていた。』
 耐えることが戦場ですることだったのか。印象に残ったのは、多くの証言者が「何のために戦ったのか分からない」と語りながらも、「帰れなかった者に恥じないように生きる」という言葉で体験を結んでいる点である、と言うあたりのくだりだ。

 編者・・・えっと、文学部史学科の成瀬正人教授、な。ノートの片隅にメモしておく。成瀬教授は、これを「戦争目的の空虚さと、個人としての生の尊厳の両立」と捉え、ビルマ戦線を「敗戦体験を通じた人間の生存倫理」の典型と位置付けている。

 正直、この時にはもう、おとといの晩の自分の失恋など取るに足りないような気がしていた。しかし、それでもあの時の自分の取り乱しようを思うと、夢の中の、曾祖父清彦のあの穏やかさの理由がわからない。理解のヒント、成瀬教授に話を聞いたら少しは分かることが出来るのだろうか。


 図書館を出たら、もう昼休みが終わりに近づく時間だった。ベンチに腰掛けて読書で張り詰めた脳みそを緩めていると、離れたところを篠原絢美が歩いているのが見えた。脚を引きずってるようだ。表情も何となく憂鬱気だ。蓮には気がついていない。
 あぁ、彦爺の呪い、効いてるんだなぁ。お気の毒に、と、もはや他人事だ。
 昨年、入学した蓮には、当時目の前を通り過ぎた絢美の颯爽と歩いていく姿が強烈に刻まれた。美少女から美女に移ろいゆく正にその途上、そう、カワイイというよりは美人タイプで、心をわしづかみにされたのだ。
 何とかお近づきになり、告白、何度かデートをし、キスまでいった。
 浮気とか二股かけるとかするタイプだとは思わなかった。それともキスくらい、彼女にとっては挨拶見たいものなんだろうか? 自分の独り相撲だった? うわぁ、それだったらイタすぎるなぁ・・・。
 思わず、「都会はなぁ、都会ん女の子は、こわかばい〜」という熊本弁が出てしまった。
 えっと、午後の3コマ目は、あ、一般教養の社会学か。だるいな。
 大あくびが出てしまった。

2025年9月16日火曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 3 アンパンマンとアセファル

 

8845 Scott Flying Squirrel 500 cc 1935

 うっかりしていたが、アンパンマンはアセファルそのものなんじゃないか、と、ふと思い立った。等と書いたところで、バタイユ、誰それ?な方々には、ましてアセファルなどと言うものがなんであるかご存じないだろう。
 上手く伝わるかわからないが、ざっと説明すると、 バタイユが「アセファル」と名付けてつくった秘密結社は、実際に1936年から1939年ごろまで活動していた。結構史料も断片的で、想像力で補わなくてはいけない部分も多い気がするが、大事なのは、そう言う材料で今のオレが何を考えるか、と割り切ることにする。

 設立者は、書いてのとおり、ジョルジュ・バタイユ。活動時期は、936年頃〜第二次世界大戦直前ごろとされる。まぁ、かなり短い期間だったみたいだ。
 メンバーとしては、作家で思想家のピエール・クロソウスキー(作家・思想家)、社会学者のロジェ・カイヨワ(社会学者)、哲学者ジャン・ピエール・デュポワなどがいたそうな。すまん。この中では、不勉強故ジャン・ピエール・デュポワの名前しか聞いたことがない。ほかにもぼちぼちいたようだ。
 目的・理念みたいなものはなんだったか? ナチズムやスターリニズムといった全体主義が台頭する中、国家や理性中心主義に依存しない共同体を模索するというのが旨だったらしい。 「頭(理性・権威)を持たない人間=アセファル」を象徴とし、死・犠牲・聖性・生のエネルギーを直視できる共同体を目指した。バタイユは「人は神を殺した(ニーチェ)が、まだ国家や理性の偶像に囚われている」と考え、その外に出る実験をしていたようだ。
 実際の活動としては、定期的な集会を開くとかね。森などでの儀式的な集まりもあったとのこと。バタイユが描いた「アセファル像」(首を持たず、心臓に太陽を抱えた人間)のイメージをシンボルとして掲げた。文献的な研究というよりも、共同体的・儀式的な実践を重んじた。

 「人間は死と犠牲の中でしか本当に生を感じられない」という思想を共有。

 バタイユは本気で「人間の生贄の儀式」をやろうとしていた、と伝えられているから、物々しい。実際にメンバーから「自分が犠牲になってもよい」と申し出る者もいるような、変態さんたちの集まりだった。もっとも最終的には実行されなかったって、そりゃそうだよね。やってたら後世に猟奇カルトとして名をはせることになってただろう。現実的な限界と倫理的な抵抗があった。当然ながら。
 結社自体は短期間で消滅したが、その精神はバタイユの著作や思想的ネットワークに受け継がれたとされる。
 一言で言うなら、理性や国家を超えて、死と犠牲を真正面から受け止める共同体をつくろうとした、半ば実験的・儀式的な秘密結社だった。

 そもそもアセファルとは、ジョルジュ・バタイユが考えた「人間のあり方の象徴」だ。「頭がない人間」という字義どおりのイメージから出発している。繰り返すが、頭は、理性、秩序、権威、国家の象徴であり、従って「頭がない」とは、そういうものから自由になった存在であるとする。
 理性や秩序を超えた、人間の本能や生の力を表す。「考えるな、感じろ」って、ブルース・リーみたいなことをおっしゃる。計算ではなく、衝動や欲望や犠牲のエネルギーこそが大事なのだ。
 それは、死や犠牲と切り離せない存在だ。人は生きるために食べ、他者に与えるために自らを削る。その「生と死の混ざり合い」を直視する姿こそがこの活動の肝となる。

 つまりアセファルは、「理性や社会のルールの外側で、もっとむき出しの生と死を生きている人間像」とでも言えばいいか?怖さもあるけど、逆に人間の本当の力を示しているとも言える。


 んで、なんで、アンパンマンはアセファルなのか、だが、まぁ、何となくわかっていただけるか?

 アセファルは「頭をもたない人間」として、理性・秩序・国家的権威から切断された存在を意味した。アンパンマンもまた「顔(頭部)」が取り替え可能であり、頭は自己同一性の中心ではなく、むしろ欠落・交換・犠牲の場だ。
 アンパンマンは自分の顔(=パン)をちぎって飢えた人に与える。これはまさにバタイユ的な「贈与=浪費=犠牲」の論理そのもの。経済合理性に還元できない純粋な贈与であり、消費されることで彼自身は力を失っていく。
 子どもたちのヒーローとして秩序を守る一方、自分の頭が交換可能であることによって、人格やアイデンティティの一貫性を欠いている。つまり、秩序の守護者でありつつ、アセファル的な「首なし=逸脱性」も内包する。言い換えるならば共同体の中心でありながら、外部性を孕む。
 顔=食べ物=死と生の往還と捉えてみる。バタイユがアセファルを通じて「死と生の根源的な関係」を問題にしたのと同じく、アンパンマンは「自分の死=消耗」と「他者の生=栄養」を同時に体現する存在だ。
 要するに、アンパンマンは「秩序を守る子ども向けヒーロー」の皮をかぶった、かなりラディカルなアセファル的存在、とも言えるんじゃなかろうか?


 そう考えると、初期のアンパンマンが子供たちに受け入れられなかったこともなんとなく理解できる。やなせたかし氏の初期アンパンマンって、今みんなが知っている「正義の味方」像とはずいぶん違っていた。顔をちぎって人にあげることは、そのまま自己犠牲の象徴なんだがそれはどういうことか?ヒーローっぽい勧善懲悪ではなく、ただ「飢えた人を助ける」だけ。だから敵を倒すカタルシスよりも、むしろ「自分を削る痛々しさ」が前面に出ていた。
 これは、バタイユ的に言えば、消費や浪費の恐怖を直視させるものだ。子供が直感的にそこに「不気味さ」を感じてもおかしくない。アンパンマンは「与える=死ぬ」という無意識の構造を背負っているから、単純に「かっこいい!」「強い!」という安心感にはならないのだ、決して。まぁ、時代が進むにつれてアニメ化され、デザインが丸くなり、バイキンマンとの勧善懲悪の枠組みに乗せられた。すると、怖さやアセファル性が子どもに直接届かなくなり、むしろ「わかりやすい正義の味方」として受け入れられるようになったんだが。
 要するに、初期の拒否反応は、アンパンマンの「アセファル的な不気味さ」に対する自然な反応とも読める。

 しかし、後にどう変容しようと、初期のものがあるからアンパンマンだと思う。
 後期の「正義の味方・アンパンマン」って、もちろん大衆的な支持を得て国民的ヒーローになったけど、それだけだと単なる子ども向けキャラで終わっていたかもしれぬ。でも、初期のアンパンマンが持っていた「自己犠牲=食と死の循環」の不気味さがあるからこそ、作品全体に独特の深みが宿っている。
 言い換えるならば、初期のアンパンマンは「アセファル的な核」であり、後期のアンパンマンは「社会に受け入れられるための表層」だった。
 両者が重なっているからこそ、「ただのキャラ」じゃなくて「時代を超えて生き残る存在」になっているんじゃないか、と。
 つまり、いくら勧善懲悪に馴化されても、底には「自分を削って他者に与える」っていうラディカルな贈与の論理が流れている。だから、どの時代のアンパンマンを見ても、子どもたちは無意識にそこを感じ取ってるんだと思う。

 バタイユが「アセファル」に込めたのは、秩序や理性から切り離された、もっと原始的で、恐ろしくも人間らしい核だった。アンパンマンの初期像は、まさにその核が子供向けキャラクターの皮膚から透けてしまっていたもの、と読める。
 アンパンマンは実際に「自分をちぎって他者に与える」という“擬似的な生贄”を日常的にやっているわけで、バタイユが夢見た共同体的な儀式を、子ども向けアニメが無意識に実装している、という対比になる。
 もうね、やなせたかし氏、バタイユ読んでたんじゃないかと思うほど。もちろん史実的に「やなせたかしがバタイユを読んでいた」という証拠は見つかってないが、両者の発想には不気味なほどの共鳴点がある。
 共鳴するポイントとして、まず、言うまでもなく、自己犠牲=贈与がある。バタイユは、「生は浪費されることで聖性に触れる」とし、やなせ氏は「正義とは他人のために自分を犠牲にすること」とした。
 食べる/食べられるの循環は大事なポイントだ。バタイユの主張での犠牲祭儀における「食と死の共同体」は、アンパンマンの自分の顔(パン)を与えて他者が生き延びることにそのまま当てはまる。
 理性よりも“むき出しの生”というか、理性というものの二の次観、ぱねぇ。アセファルつまり、頭を欠いた人間なんて、理性のひとかけらも観られないが、アンパンマンは、顔(頭部)は常に交換され、同一性の中心ではない者としてそれを再現する。

 共同体はどうだろう?バタイユにおいては死と犠牲を共有する小さな結社だったが、アンパンマンではパンを与えることで共同体=仲間がつながる、という形になる。

 やなせ氏は戦中・戦後を通じて「飢え」を直に経験し、その経験がアンパンマンの原点になった、と自ら語っている。つまり彼は、理論としてではなく、生活の中で「食と死と贈与」の切実さを体感していた。だからこそ、バタイユが哲学・宗教・神話を通じて辿りついた「アセファル的直観」と、やなせの“生活から滲み出た直観”が、結果的に重なっているところが何とも面白い。
 ジョルジュ・バタイユは、1897年9月10日生まれ、1962年7月8日没。やなせたかし氏は、1919年2月6日生まれ、2013年10月13日没。まぁ、朝ドラを見ての事だけど、やなせ氏、多分バタイユは読んではいないだろう。しかし、ここまでの相似を見せるのは、経済社会の形、戦争の形というのものが、極限近くに来てしまった故の必然ではないかとふと思った。
 バタイユとやなせ氏、出自も立場も違うのに「自己犠牲」「死と生の循環」に同じように触れざるを得なかったのは、やはり 経済社会と戦争によって極限状況に押し出された必然とはいえはしないだろうか?
 バタイユの身に降りかかったのは、ヨーロッパの危機だった。第一次大戦後の荒廃、資本主義の限界、ナチズムの台頭、等々。経済合理性や国家権力では説明できない「人間の根源的な生と死」を直視せざるを得なかった。だから、アセファル結社で全体主義にも資本主義にも回収されない「死と犠牲の共同体」を模索のだろう。社会の極限が思想を押し出した形といえる。
 朝ドラを見ておられた方々には言うまでもない。やなせたかし氏の場合は、一も二もなく飢えと戦争体験がそれにあたる。一応書いておくが中国戦線に従軍、敗戦後は極度の食糧難を経験し、そのときの「一切れのパンが命を救う」という切実さがアンパンマンの発想に直結した。戦後の高度成長の中でも、「飢えや貧しさに苦しむ人がいる現実」を見続けた。だからこそ「正義=自己犠牲」という定義を揺るがさなかった。

 共通する点を考えてみよう。それは、極限状況に触れた人間は、与える/犠牲になるという次元でしか他者と繋がれないという直観だろう。「合理性・秩序・経済」が極限に来ると、必ずその外に「アセファル的なもの」「アンパンマン的なもの」が現れる。
 つまり両者の一致は、単なる偶然のシンクロではなく、20世紀という極限の時代が必然的に生み出した応答と見るのが自然じゃないか?


 まぁ、それでも、いざ実践しようとすると、アイデンティティというものが、途端に不安定に感じられるようになってしまいそうだ。人間が「与える=犠牲になる」「生と死を直接扱う」ことに踏み込むと、アイデンティティの安定感が一気に揺らいでしまう。
 いくつか、理由っぽいものを考えるならば、一つ目に、自己の境界が溶けることを挙げてみる。自分を削って他者に与えるという行為は、文字通り「自分の一部を失う」ことだ。その瞬間、自己同一性の中心が揺らぎ、頭で考える「自分らしさ」では補えなくなってしまう。
 理性、秩序に依存できないという事も有り得る。バタイユ的には、理性や社会の秩序は「頭=中心」を維持するための装置だが、アセファル的行為では、頭(理性)はあてにならない。従って、自分が誰であるか、何を基準に動くかが曖昧になる。
 だから共同体の規範との摩擦も起きる。周囲の期待や社会のルールは「安定したアイデンティティ」を前提にしている。無条件に与える行為や犠牲は、その枠組みを外れるため、孤独感や疎外感を伴いやすい。

 逆に言うならば、この不安定さを耐え抜いた人間こそ、バタイユがいう「アセファル的人間」であり、やなせの描いたアンパンマン的存在でもある。そして、不安定さそのものが、深い生の実感=自己を超えた与える力の証明になる。

 ねぇ、今度は人類補完計画?って展開にもなるのだが、エヴァの人類補完計画は、個々の人間の隔たりや孤独をなくし、全人類をひとつの存在にまとめようとする壮大な試みだった。結果として、個人のアイデンティティは溶けてしまう。
 アセファル的、アンパンマン的行為というのは、個々が与える或いは犠牲になることで、他者との関係や生の深みを実感する。確かにアイデンティティは揺らぐが、完全に消えるわけではない。与えることと失うことを体験しながら、なお自分として生き続けるわけだ。
 つまり、似ているのは個の境界が揺れる点ですが、決定的に違うのは「消えるかどうか」。アイデンティティが揺れる瞬間はあるけれど、完全な消失ではなく、むしろ生のリアルを知る体験となる。

2025年9月8日月曜日

8843 菊池姫奈

 


8843 菊池姫奈

《創作》寝取られ幽霊 第5話 幽霊が非合法で儲けたお金を奪取するのは犯罪か否か?

 



 さて、蓮がゆるゆる清彦が辿った生前のことを悪夢として見ていた間、それは、別に清彦が意図して自分の体験を見せていたわけではなく、蓮の前に顕現した時に引っ張ってきてしまったのだが、ご本人、霊格高いとおっしゃってるが、幽霊は幽霊、別に付き合って寝る必要もなく、暇だからというわけではないが、歌舞伎町の片隅にある、一階は入り口が乱雑に合板が打ち付けられた潰れた飲食店という、雑居ビルを前の路地から見上げていた。
 裏通りの、業者しか使わないような路地である。人通りも、店が並ぶ通りほどにはない。元より、通行人には清彦は姿を見せないようにしているのだが。別に目当ての部屋まで瞬間移動してもいいのだが、そこはそういう気分だった、と、いうしかない。無様に合板が打ち付けられた店舗の横の入り口に清彦は足を踏み入れる。

 他にテナントがない、いつ解体され立て替えられてもおかしくないビルの4階だ。隅の方とはいえ歌舞伎町にそんな物件があること自体、この建物が訳ありなのは、何となく察せられるところだが、他に人気がない、このビルの中で4階の一室だけ、部屋の中に灯りが灯っていた。
 中には、30代くらいの男が一人、普段は目立たないようにしているのだろうか? 普通のサラリーマンのようなをしているのだが、この時の、顔つき、口調、醸し出す雰囲気が、とても堅気とは思わせない。名を鷲塚京介といい、牙狼會という半グレ組織の首領をやっている。この部屋は、牙狼會の中でも上部の何人しか知らないような、表には「スマイル企画」などとふざけた小さい手描きの看板がかけられているだけである。
 鷲塚は、普段、表の顔の時はおとなしそうな雰囲気でいるのだが、この時は、よく映画やドラマにあるように、机の縁に腰かけ、行儀悪く脚を組み、電話口に口汚い大声で怒鳴るように話をしていた。

「いつまでもモタモタ引っ張んてんじゃねぇよ。惚れちまったのかあんなブスに! とっとと風呂に沈めて上がりとっときやがれ!!」
 傘下のホストクラブのホストに違法営業についての指示を出したり
「草の上り、持ち逃げされたって?! ・・・あぁ、ちゃんと取っ捕まえたのか。きっちり締めとけ。指の何本かへし折ってな。殺すなよ。いろいろ面倒だし、従順になった売り手は必要だからな」
 など、覚せい剤取引の指示を出したり。まぁ、早い話、冷徹で頭はいいのだが、この鷲塚という男

『クズだな』

 この部屋、いやこの建物には自分一人しかいないはずだが、鷲塚には誰かの声が聞こえた。
「……誰だ?」あえて声を落とし冷静さを装って言い、耳を澄ませた。 と、次の瞬間電灯が切れる。わずかに鷲塚が身構えた次の瞬間には再び電灯はついたのだが

『それじゃ、遠慮なくお金もらってくよ』

 鷲塚には、声が空気の外から耳にねじ込まれてくるように聞こえた。慌てて、鷲塚は金庫のダイヤルを回す。つい数時間前、自分の手で札束の角を叩き揃えて収めたばかりの金庫が、ただの空気の箱になっていた。
 それを確認して「どういうことだ?」と立ち尽くしたが、次に瞬間には思い切り机をけり飛ばす音が他に誰もいない雑居ビルに響いた。


 次の朝。

「ねぇ、彦爺」
などと、蓮は目の前の幽霊、見た目は死んだときと同じ大体30代なんだが、試しにそう呼んでみた。

『おぅ、目が覚めていきなり爺呼ばわりか』

「だって、俺にとっちゃ爺ちゃんと言えば清志郎爺ちゃんだもん。ひい爺さんだと思ってたのは、清司爺ちゃんだし。っていうか、そもそも、生きてる清司爺ちゃん知らないんだけど。彦爺は枠外。」

『孫に枠外呼ばわれされた件。・・・まぁ、いいや。僕をひい爺ちゃんと認めてくれるわけだな。』

 清彦、「バカテス」の次は、「ティアムーン帝国物語」を読んでいたようだ。単行本を閉じて蓮の方を向く。

「長い夢見たんだ。疲れたよ。彦爺が昔の家の縁側で、小さい清志郎爺ちゃんと遊んでるところから、戦場で、脱出して脚撃たれて、死にかけて……。帰ってきたら、家の戸口の前から入れてもらえなくて。行き場をなくして寺に身を寄せて、そして、死んじゃって。そこから・・・、高校生の清志郎爺ちゃんが、寺の片隅で彦爺の墓に手を合わせているところまで――。」

 清彦、一瞬天井を見上げて、ひと呼吸置いて言った。

『う~ん、まずだ、じゃ、僕も君を蓮と呼ぶことにする。蓮もその夢見ちゃったわけだな。』

「誰か他に見た人いるの?」

『清志郎だよ。女房に逃げられた時に、昨日と同じように僕は呼ばれたんだけど、・・・なんか、記憶というか、実際あった出来事を引っ張ってきちゃうみたいだな。僕が知らない場面も清志郎は知っていたりしたから、別に僕が見せたわけじゃないぞ。それだけは言っておく。」


 蓮は、かの時代の苛烈な運命、曾祖父清彦だけじゃなく、佐久間秀幸や、戦場や復員船で死んだ人たち、空襲で家族を失った女性などの運命を思い出してしまい、しばし絶句する。
 あと、清志郎爺ちゃんが女房に逃げられたって、いったい何?


「いろいろ訊きたいことがあるんだけど・・・」

『ん? なんだ? ひい爺ちゃんが教えて進ぜよう。わかる事だけだけどな。』

 蓮は、ちょっとの間、ためらったが、思い切って訊いてみた。

「彦爺が家に入れてもらえなかったときに、どうして、あんなに落ち着いていられたんだ?」


『あ~、それな・・・。うん、わからん。ただ喚いてもどうにもならんと思ってたのかもな。
 戦場ではな、怒鳴り散らしたところで、死んだ奴は誰も帰ってきやしないし、腹がふくれるわけでもない。喚いたやつから死ぬ。声をあげずに飲み込んだやつだけが、生き残れたりしてな。
 家の前に立ったときも同じだよ。僕が吠えたところで、親父も兄弟も、閉めた戸を開けはしない。だったら、静かに引き下がるしかなかった、みたいなこと考えてたのかもしれん。』

 蓮は二の句が継げない。

『あと、家族を、僕のお袋や親父、清司も春江も怨むという感覚は、全然なかったんだ。ただ、・・・なんだろうな? 日本に帰ってきて野宿かよ、とは思ってたかもしれん。』


 うん。その感覚、全然わからない。

『子供の時の清志郎と、もっと遊んでやれなかったのは残念だけど、出征する前から、清司の奴がな、清司の奴がな、春江の髪を直す仕草に、ふっと目をやるのを見たことがあった。ホント、淡~くだけど、兄嫁、春江の事、憧れみたいなものがあったんじゃないかと思っていた。脚無くした僕より、清司の方が春江や清志郎を幸せにしてくれると思ったのかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。』


「・・・まぁいいや。全然わかんないけど、彦爺は彦爺だしな。あと、清志郎爺ちゃんがお、奥さん、まぁ、婆ちゃんだけど、逃げられたってどういうこと?」

 確か、朝、帰った来たときにも、その話聞いた。確か…坂本家の嫡男は、代々女が運が悪くって・・・って、いやぁぁぁぁぁぁぁ!

『奈穂子ちゃん、って君の母ちゃんな、が小さい時だよ。確か、他の男と駆け落ちしたんだ。詳しいことは清志郎に訊きな。』

 訊けるかよ。もう清志郎爺ちゃん、癌でいつ死んでもおかしくないのに。いつ「ジイチャン、キトク、スグカエレ」・・・って、電報の時代じゃないな。とにかく、そういう連絡が来るかもしれないってのに。

『あぁ、清志郎な。大丈夫。僕は霊格が高いから、清志郎の病気くらい、何とかなる。』

 このスチャラカ幽霊、何を言ってるのかよくわかりません。


 蓮は冷蔵庫から食パンを2枚取り出し、トースターで焼きもせず、そのまま、マーガリン塗りたくってモソモソ食べ出す。食べ出してから、あ、とか思って、清彦に訊ねる。

「まさかとは思うけど、幽霊はメシ、食わないよね?」

ちょっと困った顔をした清彦は答える。

『ああ、それはいいんだけど、蓮、そんなしょぼい朝飯か?』

「地方出身の学生なんて、金がないんだよ。ちゃんと朝飯食ってるだけ、褒めてくれよ。」

拗ねたように応じる蓮に、清彦はにんまりとして

『しょうがないなあ、我がひ孫は。これで何か美味いもの食え』
と、澁澤を一枚、蓮に差し出す。
『孫の奈緒子ちゃんにはそういう機会なかったけど、こうやって小遣い、渡してみたかったんだよねえ』

 蓮は困惑する。
『どうした。どこぞのお笑いタレントみたいに、美味いもん食え、で、割り箸渡してるわけじゃないだろ?』
 そういう清彦に蓮は
「いや、どうして、幽霊がお金持ってるの?」

 清彦はそれには答えず、ニヤリと笑うだけ。もう、なんかね、嫌な予感しかしない。


「彦爺、さあ、大学ついてくるの?」

『何、うちのひ孫は付き添いして欲しいような甘えん坊さんかぁ?」揶揄ってきやがる。

「ちげーよ!」

『あはは、冗談。流石に四六時中憑いてまわられるのも嫌だろう。心配するな。よ!』

 掛け声ひとつで、それまで、国民服を着た半透明の幽霊が、現代のその辺にいる成人男性が普通に着ている服装に変わり、半透明じゃなくなった。ついでになくなったはずの脚もちゃんとついていた。

『僕ほど霊格が高いと、こういうふうに実体化もできたりするわけよ。これで、東京観光してくるわ。』

 付き纏われるわけではないことにホッとする蓮。

『ああ、この際言っとくけど、一度こうやって目の前に現れた以上、そこにいるのに完全に透明になって蓮から見えなくなる、ということはないみたい。清彦の時はそうだった。蓮の近くに僕がいないんなら、本当に僕は他所に行ってると思って。 まあ、余程の危機一髪の時は、飛んでいくよ。』


「っと、そうだ。昨日寝る間際、仇討つとか言ってたけど、何かした?」
 恐る恐る蓮は尋ねた。

「・・・あぁ、蓮を降った女のコな。相手の男と一緒に〈靴の中にずっと小石がある呪い〉と〈毎日身に付けてるものが2センチ破れる呪い〉かけといた。」
 とスチャラカ幽霊は答えた。

 うわぁ、なにその地味な嫌がらせ・・・。

「贈与」に至る / 糸口を探す 2 KP61、ジョルジュ・バタイユ、哄笑

 


8840 KP61 _4

 では、ジョルジュ。バタイユが、四輪のボロボロのスターレットKP61でダートラとかジムカーナ転戦するとか、どうだろう?

 バタイユの KP61スターレットでジムカーナ転戦。二輪のTZ250だと「骨折」一直線だけど、四輪のジムカーナなら「ボロいKPで限界まで突っ込んでスピンしまくる」感じで、また違った「浪費と供犠」が見えてくる。

 KP61スターレットとは、80年代当時の若者にとって「安い・軽い・FR・壊してナンボ」みたいな車だった。競技ベース車としては最強の入門車。ジムカーナやダートトライアルで、みんな転がして、部品を拾って、また直して走る。
 バタイユがもしその現場にいたら、間違いなく「安くて古いからこそ尊い」って言い張っただろう。「最新のシビックで勝つことに何の意味がある。崩れ落ちる寸前のスターレットで笑いながらスピンすることこそ供犠だ」とかなんとか、パドックの片隅で煙草ふかしながら言ってそう。

 地方のジムカーナ会場って、ほんとに田舎の広場だったりする。現に当地では、真夏で人が来ないスキー場の駐車場でやってたりする。他には、廃飛行場の跡地とか、河川敷の舗装路とか、観客なんてほとんどいなくて、参加者とその仲間と近所の子供が数人。
 そこにボロいKP61をトランポなしで自走して持ってきて、スペアタイヤ4本とジャッキだけで走る。エンジンはキャブが咳き込むし、LSDはチャタチャタ鳴くし、クラッチは半分焼けてる。

 んで、バタイユがコースインすると、もう全開。進入で荷重抜けてリアがスパーンと流れて、そのまま派手にスピン。パイロンなぎ倒して、審判の人に赤旗振られて戻される。でも、車から降りたバタイユは、目をぎらぎらさせてこう宣うわけだ。

 「これこそ破局だ。破局は祝祭なのだ!」
 KP61って、そもそも安いから「潰してもいい」って前提で乗られてた。だからジムカーナやダートでクラッシュして、フェンダーが凹んでも、ライトが割れても、誰も泣かない。直すのは仲間。適当に叩いて色塗って、また走る。
 それをバタイユは「供物」として扱うだろう。「KPは共同体の神に捧げる羊である」なんて言い出しかねない。

 そして彼は、地方シリーズを転戦する。長野の浅間台スポーツランド、新潟の胎内スピードパーク、関西の名阪スポーツランド、九州の恋の浦。どこに行っても、パドックで「首なし団」と称する仲間と焚き火を囲み、酒を飲み、昼間はスピン大会。「誰が一番多くパイロンを倒すか」が裏の勝負。優勝者には地元のリンゴ一箱。でもそれはすぐに食い尽くされて、跡形も残らない。
 浪費の美。

 バタイユは供犠を語るとき、必ず「笑い」をちらつかせる。犠牲は厳粛なものじゃなく、どこかで「祭り」のように騒がしく、無駄で、バカバカしい。つまり供犠は「遊び」でもある。
 だから、筑波のパドックで骨折した仲間を見ても、悲壮感じゃなくて「やっちまったな!」と笑い声が先に出る。それを「神聖」と呼んでしまうのが、彼のトリックだ。

 普通の破滅思考は、破滅を目標にして一直線に突っ走る。しかし、バタイユの場合は、「どうせいつか終わるんだから、だったらその途中で笑いながら盛大にぶち壊そうよ」という感じ。 全然、暗くない。 むしろ太陽に向かって舌を出してるような明るさすらある。
 地方ジムカーナの賞品がリンゴ一箱とか、地方サーキットの勝者に渡るのが米袋とか。そういう「しょっぱい景品」を仲間たちとむさぼり食って、跡形もなく浪費してしまう。それをバタイユは絶対に楽しんだはずだ。彼は「無駄になること」そのものを肯定していた。
 だからKP61を壁にぶつけてフェンダーをぐしゃっとさせても、それで落ち込むんじゃなく「これで供犠は済んだ」と笑う。

 破滅主義者だったら、車が壊れたら「これでもう走れない、終わりだ」と沈むはず。でもバタイユは逆だ。壊れるからこそ嬉しいし、無駄に終わるからこそ意味がある。そうやって、むしろ「生き延びる方向」に転がっていく。

 考えてみたら、これってすごく変な話で、「死」とか「破滅」とかを正面から扱うのに、どうしてかそこに「陽気さ」が宿ってしまう。バタイユは常に「闇を見よ」と言いながら、結果的に「光の中で踊る」方向へ連れて行ってしまう。
 それはたぶん、彼が破滅を「手段」として見ていたからだと思う。破滅そのものに住みつくんじゃなく、その瞬間に立ち会うことで「陶酔」に触れる。だから、暗黒のはずが、いつの間にか祭りになる。


 例えば、筑波サーキット。予選で転倒して骨折、予選落ち。でもパドックで缶ビールを飲みながら「俺は今日、供犠を果たした」と宣言する。仲間たちは爆笑しながら「いや、それはただのコケだろ」とツッコむ。そういうやりとりが、もう完全に「生の肯定」なんだよな。

 KP61スターレットでジムカーナに出て、全力で突っ込んでパイロンなぎ倒して、順位は最下位。でも本人は最高に笑っていて、「破局は美しい」と言いながらピースサイン。その姿って、「破滅」を選んでいるようでいて、実際には「生きることを選んでる」


 結局のところ、バタイユは破滅思考じゃないんだと思う。彼がやってるのは「過剰思考」。
 ちょっとだけやればいいのに、もっとやる。
勝つために走ればいいところを、転ぶまで攻める。
腹八分目に 食えばいいところを、全部平らげる。
程々に飲めばいいところを、吐くまで飲む。
 そういう「過剰」の中で、死や破局に触れてしまうことがある。

 でもそれはあくまで副作用であって、目的じゃない。だから彼は、いつも笑っている。「俺は死にたいんじゃない。ただ、もっと生きたいだけなんだ」。その裏返しがあの思想なんじゃないかと思う。

 もし彼が単なる破滅主義者だったら、たぶん我々、いやほとんどオレだけ?はこんなに惹かれなかったはずだ。「どうせ全部滅びる」って言葉だけなら、世界中にいくらでもある。でもバタイユの言葉には、どうしても「おかしさ」と「楽しさ」が混じる。死を語っているのに生が滲む。それが妙に人間的で、だから魅力的なんだと思う。

 いわば、ジョニー・ロットンであって、シド・ヴィシャスではない。 バタイユって「どう見ても破滅的なことばかり言ってるのに、なぜか死に急がない」タイプ。だからジョニー・ロットンであって、シド・ヴィシャスじゃない。

 シド・ヴィシャスは完全に「自己破壊=様式美」になっちゃった人で、破滅をそのまま生きて燃え尽きてしまった。でもロットンは「全部ぶっ壊す!」と叫びながらも、ちゃっかり長生きして、今でもロック・アイコンとして毒を吐き続けてる。つまり「破壊と反逆」をエネルギー源に変換する能力がある。

 バタイユも同じで、供犠や浪費、エロスや死の欲望を語りながら、実際の生活はどこか「ずる賢く延命」してる。しかもその延命が、決して妥協や日和りじゃなくて、「反逆精神を持ったまま老いる」っていう稀有な在り方だ。

 ジムカーナのスターレット転戦でもそう。
 確かにパイロン吹っ飛ばしてクラッシュばかりしてるんだけど、それは「死にたいから」やってるんじゃない。むしろ「限界の先で生き延びて、また次の会場に行く」ためにやってる。破滅を燃料にして、でも破滅は選ばない。

 だから彼は「供犠の哲学者」なのに、自分自身を最後の羊として屠ろうとはしない。むしろ「俺が屠られたら共同体は困るだろう?」とニヤリと笑って、またハンドルを握る。

 ここが、まさにジョニー・ロットン的。死を演じてしまったシドとは違って、死を「利用」して生きる。破滅に見せかけて実はとことん生のほうに執着している。

 そういえば、ジョルジュ・バタイユの哄笑する姿を想像すると、ジョニー・ロットンや植木等のそれと重なって見える。




2025年9月7日日曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 1 ジョルジュ・バタイユ、TZ250

 

8839 TZ250 _9


 ジョルジュ・バタイユがもし1980年代あたりに元気に活動していたと仮定したら、彼はきっと「モータースポーツ」「単車」「スピード」みたいなものに惹かれたのではないかと思えて仕方ない。

 バタイユの思想には「極限体験」「逸脱」「共同体の陶酔」が根っこにある。したがって、1980年代に元気なら例えばこんな展開が考えられるかもしれぬ。


 F1ブームとの親和性はどうか? セナやプロストが全盛を迎える直前だ。寧ろマンセルとピケが同じチームで丁々発止やってたころ。スピードと死の接近、スポンサー資本の華美さと人間の肉体の限界が交差する場所として、バタイユ的には非常に「エロティック」な場であったことだろう。「消尽(dépense)」なんて、F1マシンの燃料やタイヤに重ねて語りそうだ。


 二輪文化については? 特にヨーロッパのカフェレーサー文化から日本の族車カルチャーまで、暴走や事故を「神聖な瞬間」として描きそうだ。単車の爆音を「共同体的祝祭」として読み替えるわけだ。


 バタイユはおそらく消費社会批判と結びつけることだろう。1980年代は消費資本主義の絶頂期。スポンサーだらけのマシンや、レーサーが広告塔になる姿を「神聖さの堕落」と批判しつつも、同時にそこに「崇高な笑い」を見出すにちがいない。


 絶頂にいた当時の日本との接点があったなら、ホンダNSRやカワサキGPZに夢中になりつつ、走り屋や峠文化を「神聖な浪費」として愛でたかもしれぬ。


 もっと妄想を膨らませると、1980年代のバタイユは「パリ・ダカール・ラリー」に強烈に惹かれた気もする。死のリスク、砂漠という空虚な空間、マシンと人の極限。これ、完全に彼のテーマと重なるように思える。


 バタイユがのめり込むのが単車なら、例えば、市販のTZ250で、サーキットでコケまくりながらも、アマチュアながらレースにのめり込んだりしてな、とか考える。

 市販レーサー、ヤマハTZ250、まさに80年代のプライベーターが血反吐を吐きながら走らせるマシン。いわゆるレーサーレプリカどころじゃない、特にパイプフレームの頃の、なんて、本当に「レースやりたい奴向け」のマシン。公道走行不可、ナンバーも付けられない。サーキット専用。2ストロークで、ピーキーで、パワーバンド外すと一気に失速して、逆に入ったら暴力みたいに吹け上がる。素人が乗れば確実にコケる。いや、上手くてもコケる。F1の華やかさよりずっと「肉体と機械がギリギリでぶつかる場所」って感じがする。


 バタイユがもしそこで生きてたら、こんな風景が浮かぶ。人類の文学史における変態とか、闇の哲学者とか、そういう評価はもう散々されているんだが、ただ机に向かって文字ばっかり打ってた御仁ではなかったようだ。

 転倒と破壊を肯定するだろう。「勝つ」よりも、転倒しながら肉体とマシンを削り取っていくことそのものを「至高の浪費」として捉えるのではないか? ガチ勢にはひょっとしたら迷惑な奴かもしれないが、「レースは死と交わる祝祭だ」とか言いそうだ。


 バタイユの運動神経がどうであったかはよく知らないし、ライダーとして大成したかどうかもわからないが、多分、アマチュアにこだわったに違いない。プロの華やかな舞台より、地方サーキットの埃っぽいパドック、ビール片手にオイル臭の中で仲間と語らう空気を「共同体」として愛したことだろう。その中で「コケる瞬間」を、破局に向かう笑いの爆発として解釈したような気がする。


 TZ250の特性としては、特にアルミフレームの公道用TZRとほぼほぼ同じになる前のものはイメージとして、ピーキーで、パワーバンド狭くて、乗り手を振り落とすような性格だったに違いない。バタイユなら「理性を裏切るマシン」として詩的に讃えそうだ。そして「TZは私を裏切る。だがその裏切りにこそ真実がある」とか書きそう


 そんなバタイユにとって、サーキットは則ち宗教的思想的聖域だったろう。彼にとってサーキットは教会や闘牛場の延長線だ。転倒や事故が供犠になり、消費されるガソリンやタイヤが「神聖な供物」として語られるわけだ。

 


 つまり80年代のバタイユは「プロにはなれないが、サーキットに自分を燃やすアマチュアレーサー」として、身体を削り、笑いながらコケて、その体験を思想の言葉で書き散らす…そんな姿が想像できてしまう。


 オレがこんなことを思ってしまうのも、生前結構ヤバめな秘密結社、「アセファル(首なし人)」なんてのをやってたのを読んだからだ。いや、それをやるなら絶対サーキットで目剥いて走ってただろって思ったわけだ。

 アセファルというのは、ただの読書会じゃなくて、実際に「人身供犠」をガチで検討してたという話まで残ってる、とんでもなものだった。

 で、それを1980年代に当てはめるならば、秘密結社で供犠をやるくらいなら、絶対サーキットで目剥いて走ってただろ」ってね。


 バタイユが言うところの「首なし」と「フルフェイス」なんて、ちょっと通じるものがありすぎだ。アセファルの象徴が「首なしの人間」だった。80年代のフルフェイスヘルメットって、外から顔が見えないし、レーサーのアイデンティティを消してしまう。つまり、ヘルメットとはアセファルの仮面というわけだ。


 今でこそ、がちがちに安全対策がとられているけれど、当時のサーキット(鈴鹿・筑波・SUGOとか)は、事故死が珍しくなかったように記憶している。まぁ、今より多かったとは思う。そして、「死とスピード」が常に背中合わせの空間、共同体的な祝祭場だった。秘密結社での供犠が「サーキットの転倒・死亡事故」に置き換わるわけだ。


 そしてその場で、タイヤを削り、ガソリンを燃やし、エンジンを焼き尽くし、挙げ句の果てにライダーが骨折しても走り続ける。これはまさに「バタイユ的な贈与の極致」だったに違いない。


 バタイユが仲間を集めてたならどうなったか?

 アセファルの仲間たちがもし80年代にいたら、全員でTZ250やNSR250を買って、秘密結社の集会は「筑波サーキットの走行会」になる。「転倒こそ神聖。骨折は通過儀礼」って感じでね。わ~、迷惑。


 想像すると、秘密結社「TZ首なし団」 みたいなのを作って、夜は酒と議論、昼はサーキットで目を剥きながら走る、っていう光景が浮かんだりするわけだ。彼らの議論は夜の酒場で続く。「供犠とは何か」「共同体の陶酔とは何か」――その答えを求めてね。でも昼間は、ツナギ着て、フルフェイスかぶって、TZでコーナー突っ込んでコケる。 転倒は供犠だ。骨折は通過儀礼だ。そうやって彼らは、「哲学」を現実に置き換えてしまう。

 バタイユが本当に求めていたのは、文字の世界に閉じこもることじゃなかったと思う。いつも「越境」とか「逸脱」とか「破局」とか言ってるけど、それって結局は、肉体が壊れる瞬間とか、共同体が笑いながら死に突っ込む瞬間とか、そういう体験のことだった。机上の理屈じゃなくて、実際に骨を折ること、血を見ること。

 だからこそ、もし80年代に生き延びていたら、あの時代の「サーキット文化」に夢中になってたに違いない。

 F1? いや、あれはちょっと違う気がしてくる。

 確かに80年代のF1はセナやプロストが台頭して、死と隣り合わせのスピードを見せてはいたけれど、バタイユにとっては少し「遠い」。華やかすぎるし、スポンサーにがんじがらめだし、そこに「地下」の匂いはない。

 寧ろ地方サーキットのほこりっぽいパドック、雨で濡れたアスファルトに倒れたマシン、それを仲間とガムテで直してまた走る。そういう場こそが「供犠の舞台」としたのではないか?


 夜は酒を飲みながら、転倒の話で笑う。

 「お前のハイサイドは美しかった」

 「ガソリンぶちまけて火が出た瞬間、俺は神を見た」

そうやって笑い合う共同体。それが「首なし人間たち」の1980年代版。


 バタイユはきっと、フルフェイスを「仮面」と呼んだろう。顔を隠すことによって、ライダーは「誰でもない者」になる。アセファルの首なし像がそのまま形を変えて、ここにある。ヘルメットの中で歯を食いしばり、目を剥いてスロットルを開ける。そこに「理性を越えた陶酔」がある。


 もちろん、死ぬ奴も出る。繰り返すが、80年代の二輪レースなんて、今みたいに安全設備が整ってなかった。それを悲劇として悼むんじゃなくて、「供犠が成就した」として讃える。まぁ、狂ってるわな。しかし、これこそ、完全にバタイユ的な共同体のあり方だったように思う。


 現代の目で見たら狂気以外の何物でもない。でも、あの時代のバイク乗りたち、特にレーサーや峠小僧たちは、世間知らずの甘ちゃんなりにも、どこかで「死ぬかも」というのを嗅ぎながら走っていたのではなかったか?その空気に、バタイユがフィットしないわけがない。


 筑波のパドックとかに、青い目のフランス人が混じっていて、ボロボロのツナギに身を包みながら、コーヒー片手に「今日はどこまで越境できるか」なんて呟いているんだ。笑うよな。走り出したら案の定コケて、仲間に引き起こされながら、「ああ、これだ。これこそ供犠だ」なんて呻いてるわけさ


 結局のところ、「秘密結社アセファル」なんて、20世紀前半の暗黒の時代にしか成立し得なかったものというようにも思う。

 でも80年代にその衝動が残っていたら、きっとそれは「サーキットで死ぬまで走る共同体」になっていたはずだ。血とオイルとガソリンと笑い。その中に「神聖さ」を見出して。

 そんなわけで、バタイユさん、もし生きてたら、きっとTZでハイサイドくらって、骨折して、でもニヤニヤしながら松葉杖でパドック歩いてたでしょ? で、その体験をまた「エロティシズム」とか「至高体験」とかに仕立てて、分厚い原稿を書き散らしてたはずだ。



 想像して、ニマニマしてしまうわけです。



 



2025年8月17日日曜日

寝取られ幽霊 第4話 地獄巡り 下


 清彦は、かつての坂本家の玄関先で立ち尽くしていた。秋の午後の日差しが残酷なくらい穏やかに降り注いでいるが、どうやら、本当に残酷な事柄というのは、こういう穏やかさの中でこそ起こるのだと、蓮は今日の夢を見ているうちに予感するようになった。

 テレビのドラマのように、不穏なBGMなんてない。遠くで鳶の鳴く声が聞こえてくるのと、時折風が木の葉を微かに揺らす以外、いや、何やら家の奥で口論も聞こえるか。現代のように道を走る車の音があるわけではない、近所の子供が遊ぶ声が聞こえるわけでもない。そんな午後の風景を、映画か舞台演劇を観るように蓮は眺めていたが、場面は変わる。


 清彦より一年以上前に大沢辰造と共に復員した佐久間秀幸が現れる。時間もそれくらい巻き戻っているようだった。


 やや早回しに場面は展開する。


 佐久間が復員船で舞鶴に上陸したのは、1945年末から46年初頭のことだった。港からまず舞鶴線に乗り、綾部を経て山陰本線で京都に出る。

 そこからは東海道本線・山陽本線を伝って大阪、神戸、岡山、広島と、西日本の主要都市を経由して下関へ向かった。

 当時の復員輸送は急ごしらえの編成で、車内は兵士たちで溢れ、立ったままや通路に座り込んで移動するのが常だった。網棚の上にまで人が寝そべり、天井のつり革や手すりにしがみつきながらうとうとする者もいた。蒸し暑い空気と汗の匂いが充満し、窓を開ければ煤煙と寒気が吹き込む。立錐の余地もない車内では、一人が動けば列全体がぐらりと揺れ、互いの体温を感じながらじっと耐えるしかなかった。駅ごとに炊き出しや地元の人々からの握り飯の差し入れがあり、それに支えられながらの旅である。


 やがて列車は門司を過ぎ、鹿児島本線を南下して博多駅に滑り込んだ。薄曇りの冬の空の下、佐久間は荷を抱え、人波に押し出されるようにしてホームに降り立った。駅舎の壁には煤けた跡が残り、吹き込む風はどこか焦げた匂いを運んでいた。


——空襲か。

  春先の、あの噂は本当だったのか。

 ここから先は、もう自分の足で確かめるしかない――。佐久間は人々の流れを外れて駅前に立ち尽くし、胸に広がる不安を押し殺しながら、焼け跡の街へと歩み出していった。


  佐久間は背嚢を背負い直し、真っすぐ家の方角を目指す。

  足は自然に動いたが、道は記憶のままではなかった。広かった通りは瓦礫で狭まり、焼け落ちた材木の黒い骨組みが空に突き出している。

  ——ここは、本当にあの通りか?

  小学校の角を曲がると、さらに胸が締めつけられた。校舎は屋根を失い、校庭は灰色の土に変わっている。かつて子供たちの声が響いた場所に、今は風が唸って通り抜けるだけだった。

 家があったはずの界隈に近づくと、地図が頭の中から消えていく。あの薬屋の角も、八百屋の軒もなくなっていた。目印を失い、佐久間は瓦礫の海を漂うように歩き回る。

  「……違うか、こっちか……」

  独り言を繰り返しながら、焼け跡を踏み越えていく。足元で瓦が割れる音が、やけに大きく響く。

 やがて、立ち止まった。

  ここらが——そう、このあたりが、あの家のはずだ。土間があり、柱の奥に仏壇があって、夕餉の匂いがした。

  しかし、今そこにあるのは、煤に覆われた地面と、半分溶けた茶碗の破片だけだった。

 後ろから声がした。

  「お探しかね」

  振り向くと、腕に包帯を巻いた老人が立っていた。

  「この辺りの人で、生き残った者はいないよ」

  あまりに簡潔な言葉だった。だが、それで全てがわかった。

 佐久間の膝が、がくりと地面についた。掌が灰を掴み、指の隙間からざらざらとこぼれる。頭を抱えた。額に力が入りすぎて、こめかみが痛む。

  胸の奥で何かが煮えたぎるように熱くなるのに、涙は一滴も出なかった。

  代わりに、腹の底から声がせり上がってきた。

  「おおおおおおおおおっ——!」

  それは言葉ではなかった。

  怒りでも、悲しみでもない。

  全てを押し流す、どうしようもない虚しさが、声になって空へと突き抜けた。

 周囲の瓦礫が、その絶叫を吸い込み、反響させる。鳥が一斉に飛び立ち、遠くで犬が吠える。

  佐久間は、声が枯れるまで叫び続けた。

  灰と煤の匂いが喉を焼き、胸が裂けそうになる。

  それでも叫ばずにはいられなかった。


 清彦の、つまりは蓮の実家は熊本市内とはいえ、郊外にあり、空襲の被害は免れた。しかし、清彦と同じ大学学部を出て(若干佐久間が後輩にあたる)正式なものではないが、なんちゃって軍医をしていたのも同じ。

 清彦は脚を失い、復員も随分と遅れてしまったが、実家は無事だった。佐久間は五体無事に復員できたが空襲で一切合切を失ってしまった。

 何が幸運なのかわからない。


 否、幸運なんてあるものか! 理不尽が多少形を変えてふりかかっているだけじゃないか!



 再び、実家の玄関前にたたずむ清彦の場面に戻る。


 蓮にとっての祖父は、清彦の息子の清志郎であるし、生前の事は知らないが、長い間曾祖父と教えられていたのは、清彦の弟の清司だった。この際だから、蓮は清彦の事を”彦爺”と呼ぶことにした。見た目30歳くらいの幽霊ではあるのだが。



 ひとり。清彦の母、ツヤが玄関から出てきた。


 引き戸の外側まで出てきたところで立ち止まり、清彦をじっと見つめた。ただの一瞬のようでいて、その視線は永遠の長さを持っているかのようだった。

 そこに立つのは、まぎれもなく我が子であるはずなのに、戦地に送られて二度と戻らぬと覚悟したままの「清彦」でもあった。

 目の奥がかすかに潤む。けれども、それを涙として溢れさせてはならぬと、自らに言い聞かせている。唇が震え、今にも「おかえり」と言いそうになるのを、喉の奥で必死に押し殺す。その代わりに、やっとの思いで声を絞り出した。

「……清彦は、戦で亡くなったとば言い聞かされとる。皆、そう思うとるとよ。親戚も、近所も……」


 わずかに震える声。声の端が、泣き笑いのようにかすれていた。

 それでも彼女は涙をこぼさない。母は泣いてはいけない。泣けば、これまで必死に積み重ねてきた「生き残った者として、死者に対する日常」が崩れてしまうからだ。


 ツヤはそっと懐に手を差し入れた。取り出したのは、使い古された茶封筒。角はすり切れ、指に長く触れていたために光沢すら帯びている。そこに入っているのは、何やら一枚の書付と、わずかばかりの紙幣であった。紙幣は皺だらけで、幾度も数え直した跡がある。


「……お父さんの縁のあるお寺よ。……ここで世話になりなさい。うちには、もうあんたの居場所はなか」


 言葉は冷たいようでいて、その指先は小刻みに震えていた。母として拒まねばならぬ立場と、どうしようもなく息子を抱きしめたい思いとが、身体の中でせめぎ合っているのだろう。

 清彦の手に封筒を押しつけるとき、ツヤは一瞬だけ、その手の甲に触れた。だがすぐに視線を逸らし、踵を返して奥へと身を引く。

 背中はまっすぐを保とうとしているのに、肩のあたりが小刻みに揺れていた。

 けれど、彼女は決して振り向かない。振り向けば、堰が切れてしまうことを知っているからにちがいない。


 清彦は、無言で深く、しばしの時間首を垂れた。


 やがて顔を上げたとき、彼の目には涙も怒りも浮かんでいなかった。ただ、夢を歩いている者が、ふと空の模様に見とれるような、どこか現実から切り離された淡い表情だった。


 秋の陽射しが斜めに差し込み、杖の影が細く伸びる。清彦はその杖を頼りに、静かに実家を離れていった。一歩ごとに、土間の音が遠ざかり、家の匂いが薄れていく。

 後ろから慌ただしい足音が迫った。

  「兄さん!」

 振り返る間もなく、若い影が清彦の前に飛び出してきた。弟、清司だ。思えば、清彦は、出征前から清司の、春江に対する淡く若い恋慕に気がついていたような気がする。清彦が戦死したと知らされたのであれば、こうなることもごく自然な事のように思われた。


 彼は道に膝をつき、地面に額をこすりつけるようにして土下座した。

  「兄ちゃん……兄ちゃんに、なんと詫びればよかか……!」

  声は涙でつぶれ、言葉にならない。

 清彦は、じっと弟の背を見下ろしていた。片脚を失っては、視線を合わせるためにしゃがむこともままならぬ。かろうじて、肩に手を置き、穏やかに、ただ淡々と口を開いた。

 「……春江と、清志郎を頼む」

 命令でもなく、懇願でもなく、ただ一つの願いを託すように。


 清司の背中が震え、地面に落ちる涙が土を濡らした。


 清彦は、それ以上言葉を重ねず、土下座する清司をそこに置き再び歩き出す。



 なんてことだ! 蓮は自分の曽祖父の代に起きていたことに対し、どう考え思えばいいのか、夢の中なりに混乱した。あまりに、誰も救われなさすぎじゃないか! 自分の事ではなかったが、怒りであり、悲しみであり、寂寥でもあったし、どれでもなかった。

 そして、彦爺、どうしてこうも静かなんだ?



 夕刻の風は乾いて、耳の奥に虫の声だけを残す。途中の小さな社で足を止めると、拝殿の軒がちょうど雨風を避けるにほどよく、清彦はそこを借りた。賽銭箱の脇に背を預け、杖を横に置く。木の匂い。注連縄の藁に残る手触り。袖口から入り込む冷え。腹の虫が鳴り、遠くで犬が吠え、どこかの家の戸が一度だけ軋んだ。

 同じ野宿だというのに、あのビルマでの半分濡れた泥濘に漬かり、敵兵におびえながらのものを思えば、何と平和な事か! ひょっとしたら清彦は初めて日本に帰ってきたことを実感したのかもしれない。

  夜が降りきると、鳥の気配も消えた。星が軒の切れ間にいくつか見え、それを確かめるように目を閉じた。


 ここからは10倍速。

 朝もやを割るように歩き出す清彦。

 川筋を渡り、田の間を抜け、益城の町並みが近づく。

  「光照寺」と記された板標。山門の瓦。鐘楼の柱の節目。庫裏の土間に伸びる光。


 封筒の書付を見た住職が、何も多くは問わず、ただ一度頷く。


 箒を持つ清彦——落ち葉が掃き寄せられ、山になる。

 井戸の釣瓶を引く——桶の水面が陽を弾く。

 薪割り——鉈がまっすぐに降り、年輪がぱきりと割れる。

 庫裏の離れ——夜更けに体を横たえ、咳一つ飲み込む。


 昼下がり、子供たちが寺の縁側に腰を並べる。

 算盤の玉が小気味よく走り、かなの手本が紙の上に並ぶ。

 間違えると舌を出して笑い、合えば得意げに頷く。

 清彦は、板戸に背を預け、指で空に字の形をなぞってみせる。

 「ここで止める。ここは細く」

 子供の眉間の皺がほどけ、紙に新しい線が一本通る。


 物置の陰、擦り傷の少年に消毒液を含ませた布を当てる。顔をしかめる少年の手を言葉で外す。

 「数えるぞ。いち、にい、さん——はい終わり」

 奥から出てきた祖母が何度も頭を下げる。

 別の日。指を挟んだ青年の爪の際を整え、簡易の副木を添え、布で固定する。

 虫に腫らした腕には冷やした薬草をあてがい、熱を測るときの顔はどこまでも静かだ。

 夕刻の座敷、ほの暗さに線香の煙がまっすぐ伸びる。

 鐘が一度だけ鳴る。音は薄闇を渡って、畑の向こうでほどける。

 そして、夜。

  蝋燭の小さな火。

  清彦の鉛筆は、紙の上を止まりなく進む。

  細く立つ影が、行の端で揺れては戻る。

  何を書いているかは、知ることが出来ない。


 季節の断片が、ぱらぱらと継がれていく。

 柿の橙が庇の外で濃く、霜の白さが夜明けの土を薄く覆い、雨の粒が石段を斑に光らせる。

 袂に入った粉薬の紙包みが増え、子供の背がわずかに伸びる。

 笑い声、泣き声、釜の蓋の鳴る音——それらが一つの輪になって日々を回す。

 ——十倍速のような流れの中で、ただ一度だけ速度が落ちる瞬間を見た。

 夜半、蝋燭の火がふっと短くなり、清彦が筆を止め、宙に視線を置く。

 窓の外、遅い風。

 そのわずかな静止に、彼が何を見ているのかは、わからない。ただ、次の瞬間にはまた鉛筆が動き出し、紙の上に細い線が連なっていった。



 ある晩の事だ。


 厚さにムラがある質の悪い窓ガラス越しに月を見ながらいつものように何かを書いていた時に、窓の外から、息をひそめるように、しかし切羽詰まった声色で清彦に呼びかける声があった。


「坂本さん」


 ビルマで清彦の一年前に、先に復員するために別れた佐久間秀幸だった。傍に人影、女性のようだ。素直に戦友と再び会えたことを清彦は喜んだが、同時に、よりによってこの時間、ただならぬ雰囲気も感じた。

「よく来てくれたな。まぁ、とりあえず上がれ」

 つられて清彦も声を潜めてしまった。


 上がって部屋に入ってきていきなり、佐久間は清彦に土下座して見せた。

「面目ない!」

 清彦は訳が分からない。ひょっとして佐久間にとんでもない不利益を負わされたのだろうか?


 どうも違うようだ。復員して妻子身内一切を失った佐久間は、無気力で自暴自棄になり、気がつけば愚連隊に身を落としてしまったらしい。そういえば、佐久間が身につけているのは、どこかちぐはぐな堅気のものが身につけているものではないように思われた。そういう自分の不甲斐なさを、かつての戦友を目の前にしていたたまれなくなった、と言うのが土下座の一つの理由らしい。


 そして、隣に同じく深くお辞儀をしている女性だ。聞けば彼女は佐久間の愚連隊のボスの情婦だったらしいが、佐久間と同じく福岡の空襲で家族をすべて失い、ボスに心ならずも手籠めにされたのだが、境遇が似た佐久間と心を通わせ、絆され、駆け落ちしたとの事だった。名を澄江という。

 ボスは澄江への恋慕というよりは、メンツをつぶされたことに怒り心頭で、執拗に佐久間と澄江を追跡する。見つけ出して八つ裂きにすると言っているのだそうだ。

 

 不謹慎にも清彦は笑ってしまった。半ば隠遁者のような自分に比べ、この佐久間と澄江の二人、ついでに愚連隊のボスも、なんと、元気というか闘志があるというか、生臭いというか。本当は生きるってこういう事なのかしら、と一瞬考えてしまった。


 「疲れたろう。とりあえず布団は借りてきてやる。休もうじゃないか。明日、此処の住職に相談しよう。」


 笑ってしまいそうになったことをごまかすように、清彦は言った。


 翌朝、清彦は、佐久間、澄江を伴い、光照寺住職松原玄真に、佐久間の身の上を明かしたうえで、何とか佐久間を遠くに逃がすなど、できないか? と相談した。佐久間が自分が属していた愚連隊のボスの名前を言った時、玄真は「あのヤロウ、生きていやがったのか!」と、苦々しく言った。


 結局、佐久間と澄江は、玄真の手引きで日向に逃れることになり、三日後、光照寺を旅立っていった。その後、音信はプツリと途絶える。

 1959年の春先、日向の山中で、男女二人の白骨死体が発見される。ひどく暴行を受けたような痕跡が何とか見て取れたが、他に何の手掛かりもなく、未解決事件として処理された。


 

 寺男をしながら、近所の子供に勉強を教えたり、簡単な医療行為を行ったりして過ごしていた清彦だが、1950年の晩秋、風邪をこじららせて、あっけなく死んでしまった。ビルマでの無理がずっと体に残っていたのだろう。


 小学生になっていた、清彦の息子、清志郎には直接清彦の死が知らされたわけではない。しかし、両親や曾祖父の様子から清彦の不幸を推察してしまった。

 両親は、夜、子供(清志郎や妹たち)が寝静まる時間、座卓で差し向かいで二人して泣いていたし、祖母ツヤは曾祖父の部屋で、入り婿だった祖父寛治は座敷で、それぞれ一人で、うつむき方を震わせていた。清志郎自身は、清彦の事は極幼い頃の記憶しかない。何となく生きていることは知っていたが、養父清司に遠慮もあり、遂に光照寺に会いに行くことはなかった。以来、清志郎から見て、両親や曾祖父は心から笑うことがなくなったように思う。



 更に何年か経ち、光照寺の境内に高校生の少年が訪れた。清志郎である。墓銘も刻まれていない、隅っこの墓の前に立った。しばらくそうした後、しゃがんで手を合わせた。

 特に何をするわけでもない。その後清志郎は、本堂の階段に腰掛けて、何を考えるわけでもない、空を見上げていた。


 ここで、蓮は目が覚めた。寝付いたのが日が出てからだったので、夕方の中途半端な時間に目覚めてしまった。大学は・・・サボりだ。

 それにしても、随分と長い夢を見たような気がする。怖い、という感覚はないが、何とも寂寥感と救われなさが充満したような、ある種の悪夢のようにも思えた。


 そして、曾祖父の、自称守護霊、坂本清彦の幽霊と来た日にゃ、蓮の本棚から「バカとテストと召喚獣」を抜き出して、読んで居やがりましたよ。

 清彦がケタケタと笑いながらラノベをめくる姿を、蓮は呆れたように見ていた。ついさっきまで目にしていた光景――ビルマでの死の脱出劇、佐久間と澄江の末路、家族を泣かせた清彦の死、そして清志郎の墓前での沈黙――。鬱シリアスの主人公じゃなかったんですか、この人? それらと、この半透明の男の姿とが、どうしても結びつかない。

 「同一人物・・・・だよな?」

 思わず口をついて出た蓮の問いに、清彦は少しの間だけ笑いを止め、何とも言えない顔をした。懐かしさ、後悔、そして照れをごちゃ混ぜにしたような表情だった。

  「あぁ、蓮君も清志郎と同じ夢見たんだな。別に僕が演出したものじゃないよ。現に僕が知らない場面も見てるみたいだし。ビルマではいつくばった挙句、脚無くしたのも、蓮君の本見て笑ってるのも、僕なんだと、御承知願いたい。死んじまうと、重たいもんはみんな置いてきぼりにしてくるらしいよ。

 っていうか、本当のことを言うと、僕は若い頃、医者じゃなくて、劇作家になりたかったんだわ。柳屋金語楼って知ってる? 何かな金語楼の落語が進化したらこんな感じになるのか、と、ちょっと嬉しい。あぁいうのの台本を書く人になりたかったんだよ。」


 おや、これは意外な展開。じゃなくて、蓮は清彦に、どうして家の敷居を跨がせてもらえなかったときに、ああも穏やかでいられたのか確かめたかった。が、それを切り出すタイミングがつかめない。


 そうこうしている内に、このスチャラカ幽霊、またバカテスにのめり込み、腹を抱えて笑い出す。

 蓮は、なんとも釈然としない気持ちで溜め息をついた。けれど、その笑い声が不思議と、さっきまでまとわりついていた寂寥感を少しだけ吹き払ってくれるのも確かだった。


 その夜、布団に横になった蓮の耳には、まだ遠く、山中で聞いたような、誰かの泣き声の残響が残っていた。清彦の笑い声と入り交じり、現実と幻の境目が、妙に曖昧に揺れていた。

 それでも蓮は目を閉じた。眠りの中で、また誰かに呼ばれる気がしていた。

  けれど、その声が悲しみなのか、救いなのかは、まだわからなかった。



2025年8月15日金曜日

「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム? 4 「デジタル生存競争」要約




 岡田斗司夫氏のYOUTUBEチャンネルで、いつだったか、ダグラス・ラシュコフ氏の「デジタル生存競争」についての話があった。冒頭の紹介で、ちょっとね、これは衝撃的だった、と言えばいいのかな?  


 オレから見て、もうこの文明には先がない、と言う見方というのは、単にオレが暗愚なだけで、頭のいい奴等にはちゃんと、この世界の未来像は描けているに違いない。普段は、「あと、二、三世代で人類は絶滅近くまで衰えるさ」とか「そろそろ生態系総入れ替えがあるんじゃない?」なんてうそぶいているオレだが、どこか楽観しているところがあった。


 ところがだ、今を時めくテック系スーパーリッチたちは、ちっとも人類の未来なんて考えていない、という、これはラシュコフ氏の考えではなく、氏が実際見聞きしたことであるというところがね、なんともはや。 



 物語の始まりは、ラシュコフ氏が高額な講演料を提示され、「未来について語ってほしい」と依頼される場面だ。


 彼はテクノロジーに関する一般的なカンファレンスかと思って出向くのだが、実際には遠隔地の高級ホテルに通され、待っていたのは5人の超富裕層の男性たち――すべてテクノロジー業界の成功者、つまり現代の「支配階級」とも言える億万長者たちだった。

 彼らは次々と質問を投げかけますが、その内容は彼の予想を大きく裏切るものだった。「ニュージーランドとアラスカ、どちらが気候変動後により安全だと思うか?」とか、「地下施設の空気循環をどうすべきか?」とか「AIを使って警備員の忠誠を管理する方法はあるか?」とか、「自分の資産を守るには、どのような技術が必要か?」等々。 


 つまり彼らは、「いかにして文明の崩壊後に自分だけが安全に生き延びるか」というテーマにしか関心がなかったのだ。しかもその議論は、世界の修復や共有の未来を築くための話ではなく、「他者から切り離された自分だけのシェルターで生き延びる」という、徹底的に利己的なもの。  ここでのラシュコフ氏が受けた衝撃たるや。岡田氏のチャンネルを聞いて、自分でも読んで、オレだってそうだった。彼らは社会をより良くするテクノロジーの活用ではなく、テクノロジーを「逃避装置」として利用している。しかも、こうした考え方――自分たちが創った問題の影響から自分だけを守ろうとする姿勢――は、実は現在のテック業界全体に広く浸透している「思考様式(The Mindset)」であると彼は分析している。



 このまま第一章、行っておこう。

 第一章では、冒頭で提示された「マインドセット(The Mindset)」という考え方をさらに深掘りしている。

 ラシュコフ氏が言う「マインドセット」とは、現代のテック億万長者たちが共有する、非常に特徴的な世界観のようだ。それは以下のような前提に基づいている。


 〇人間社会は根本的に壊れている。

 〇進歩とは、テクノロジーによって自然や人間性を「制御・超越」すること。

 〇問題は「修復する」よりも、「脱出する」方が合理的。

 〇富と技術こそが生き延びる手段であり、倫理や共感は贅沢品。


 このマインドセットにとらわれることで、富裕層は世界の不平等や気候危機といった「自分たちが加担してきた問題」から目を逸らし、むしろそれらを前提として自己防衛にリソースを注ぐようになる。

 しかも彼らは、社会的連帯や制度の改善よりも、「仮想通貨」「AI」「宇宙移住」「地下シェルター」「サイボーグ化」といった“個人だけが逃げ切るための技術”に投資していく。


 ラシュコフ氏はこれを「テクノロジー信仰の終着点」だと批判する。もともと、インターネットやIT革命は人々をつなげ、知識や権力を分散させるためのものでした。しかしその理念は、今や富裕層によって乗っ取られ、「選ばれた者だけが“後”を生き延びる」ための道具へと変質してしまったのだ。


 また、ラシュコフ氏は「このマインドセットがテック界だけでなく、一般市民にも影響を与えている」とも指摘している。たとえば多くの人々が、資本主義に不満を持ちながらも「自分もいつか勝者になれる」と思ってしまう幻想に取り込まれているというのだ。


 この章では、ラシュコフ氏が非常に重要な問いを投げかけている。 「本当にテクノロジーは進歩しているのか? それとも“逃げ方”が進化しているだけなのか?」


 この問いを軸に、この本は今後、ビジネス、教育、仮想通貨、AI、宇宙開発などの分野で「マインドセット」がどう作用しているかを見ていっている。



 さて、困ったね。棹差せば何とかなるなんてことはないけれど、今の流れに身を任せていても、ジリ貧からの破滅的衰退しかないようですよ、人類ったら。


 第二章以下をざっと要約していく。 


 第二章:暗号通貨と脱中央集権の誤算

 仮想通貨は自由と平等の理想を掲げつつ、現実では投機と格差再生産の手段となる。リバタリアニズムとの親和性が個人主義と自己保存に結びつく問題を浮き彫りに。 


 第三章:宇宙と身体からの脱出願望

 火星移住や意識アップロードは、人類共通の修復より“選民の脱出”を目指す極端な思想。テクノロジー信仰を宗教的救済と見なす視点で、現実逃避を批判。 


 第四章:教育とビジネスにおける階級再生産

  教育とビジネス構造がエリート層を選抜し、連帯を弱める。企業家精神や競争が社会的責任を後景に追いやり、構造的格差を固定化するメカニズムを明らかに。 


 第五章:自己中心的社会の進行

  競争主義と個人主義が倫理や共感を圧殺し、情報格差と孤立を助長。人々を“個別化”し、協力と連帯感を失わせる結果として、社会全体が分断されていく危機を描写。


 第六章(仮称):改革への処方箋

  テクノロジーを社会的連帯の道具とし、共感と協力を基盤に教育・ビジネスを再設計。富の再分配・贈与的経済への転換を目指し、人間らしさの回復を提言する。


 最終章(まとめ/展望) 

 マインドセットを批判し、個人と社会の再編を訴える。選民的思考から協力型社会へシフトすることで、持続可能で倫理的な未来が構築可能であると結ぶ。


  どうする? 革命でも起こす? まぁ、誰もそんなガッツないよね。やっても明るい未来が来るとは思えない。さっきから、オレの中のジョニー・ロットンが、囁くどころか、「No future for you!」ってがなってるんだが。 


 ラシュコフさん、マインドセットをどんなふうに変えるのか、そういう提言で終わっているが、まぁ、告発までは衝撃的だった。でも、それへの対処はなんというかな、これまで切り返されてきた優等生的結論の域を出ていない。  確かに、そんな風に変わって行けたなら素晴らしいけれど、どんな形を目指すべきかは言えても、そこまでのロードマップが提示されていない。


 どうやったら変えていけるんだ?  いったいどうやったら変えられるんだ?

2025年8月14日木曜日

《創作》寝取られ幽霊 第3話 地獄巡り 中

 



 結果を言えば、清彦が膝下を撃たれ翌日、3人を取り囲んでいたのは、アブドゥル・カリム・ソーという名のムスリムをリーダーとしながら、それぞれの部族のコミュニティのやり方に与することを良しとしなかった。メンバーはムスリムのほか、カレン族など仏教系の山岳民族で構成され、かつて所属していた部族からも、英蘭中軍や日本軍からも逃れるように山中を転々としていた。
 日本軍は勿論、比較的に新しいビルマ政府も、英蘭中も信用していなかったが、それでも、リーダーのムスリム、アブドゥル・カリム・ソーは、英国に医学で留学経験があり、更には日本語にも通じている、なかなかのインテリだった。

 清彦などは膝を撃たれていたが、そうじゃなくとも3人とも相当衰弱していたので、このグループに保護され、終戦まで行動を共にすることになった。仮に清彦が撃たれていなかったとしても、彼らは結局、日本軍には辿り着けなかった。それ位、1944年夏以降のビルマでの日本軍は壊滅的だった。行軍路に、白骨から漂う甘ったるい匂い、ふらつく兵の荒い息、乾いた金属音が、その現実を物語っていた。

 その様を夢で見ていた蓮は、あぁ、ひい爺ちゃん此処で死んだんじゃなかったんだな、と、少し安心した。っていうか、もう清彦が自分の曽祖父であることを受け入れていることに、我ながら、ちょっと驚いた。

 一度、清彦がアブドゥルに訊いたことがある。なぜ自分たちを助けたのかと。アブドゥル・カリム・ソーはこう答えた。

「ここには日本軍に村を焼かれたものもいるが、イギリス軍や中国軍に焼かれたものもいる。もし、お前たちが、そうすることを決めた人間だったら、此処で八つ裂きにしているところだが、そうじゃないだろ? 誰かが決めたことで村を焼かれた人間が、誰かが決めたことで死にそうになっている人間を助けることは、間違っているとは思わない。」

 清彦は膝下を撃たれ、ジャングルの中で感染は避けられず、腐敗は進んでいた。通常なら、ただ死を待つだけだったろう。だが、アブドゥル・カリム・ソーには医術があった。混乱の中、彼は手術を決行し、膝下を切断した。山奥の家にこもり、妻のアミナ・ノーとともに、清彦の命を保ち続けた。3人とも、決して豊富とまでは言えなくとも、体力が緩やかに戻るくらいの食事にはありつけた。清彦は脚の事もあり敵わなかったが、佐久間や大沢はグループの人間に交じり狩りや簡単な農耕もこなした。

 
 昭和二十年、戦争はようやく終わった。
 だが、終わったと誰が決めるのか。前線にいた者たちは、玉音放送など聞いていない。弾が止まり、敵が姿を消し、食料が届かなくなり、やがて静けさが腹の痛みや傷のうずきに変わる。それが終戦だった。

 膝下を失った清彦はまだ動くわけにはいかなかったが、佐久間秀幸と大沢辰造は、アブドゥルの伝手で、一足先に復員することになる。二人が旅立つ日、ミイトキイナ脱出の日には出なかった涙だったか、一番若い大沢など大泣きする場面もあった。

 早回し、早回し。

 佐久間秀幸と大沢辰造は、ラングーンより復員船「白山丸」に乗せられた。聞けば同じ船に乗っていた日本兵は、部隊ごと、というわけではなく、佐久間、大沢に似た事情、敗走の末、なんとかラングーンにたどり着いた者が多かった。
 ラングーンと言えば、日本軍のビルマ方面司令部がおかれていたが、もはや見る影もなく、英軍が闊歩しているような状況であった。アブドゥル・カリム・ソー達といた時は、伝聞で日本は負けたのだとは聞いていたが、実感としてはなく、ラングーンの街並みを見て初めてそれを実感したような有様だった。何やら感慨らしきものが湧いてきそうにもなったが、疲れ切っていた佐久間、大沢以下、復員船に乗る日本兵は何ら騒ぐことなく、白山丸に押し込められた。

 佐久間達と偶々近くに居合わせた田島信一は、信州出身で、筑豊炭田で働いていたところを徴兵されたという境遇では大沢辰造に似ていた。1945年3月のメイクティーラ攻防戦に参戦していたが、白山丸に登場した時点で、マラリアでひどく消耗していた。佐久間、大沢はミイトキイナ脱出間際に、マラリアで埋葬した石塚恒夫軍曹を思い出した。二人はアブドゥル達といたおかげで、比較的健康状態は良い方だったが、それ以外の搭乗した日本兵の健康状態はかなり悪いようだった。

 田島は、熱にうなされながらも調子のいい時は饒舌に故郷の伊那谷の事をしゃべっていた。船上のある日のことだ、船倉の湿った空気に、消毒薬と海水の匂いが混ざっていた。田島の息は次第に浅くなり、やがて波の音にかき消された。次の瞬間、船倉の空気は、誰も言葉を発せぬ沈黙で満たされた。ミイトキイナの石塚軍曹の埋葬の時は泣かなかった大沢辰造だが、田島の水葬の時は清彦やアブドゥル達と別れるときのように大泣きした。翌日には本土の島影が見えた、その前日の事である。

 舞鶴に上陸した二人。佐久間は福岡に、大沢は働いていた筑紫ではなく故郷の秩父へと旅立っていった。


 それは良いんだが、ひい爺ちゃん、どうなったの?


 容態の安定が必要だった清彦が復員したのは、終戦から丸2年経った1947年秋の事である。この時はすでに日本政府による復員船はなく、アブドゥルの伝手でバンコクからの難民船「比婆丸」の片隅に乗っての復員となった。
 神戸に着いたとき、空の色はビルマの地のそれのような残酷な群青とは似ても似つかない穏やかな青だったが、岸壁には、古びた荷役クレーンが錆び色に光っているのみ。旗を振る人も出迎えの声もなく、ただ自分の影だけがそこに立っていた。
 清彦は帰国したという安堵や喜びよりも、糸の切れた凧のような所在のなさを強く感じていた。自動的に列車に乗せられ、故郷の熊本に戻ったのは、上陸した次の日のことである。

 帰国した次の日の夕方少し前、夢の冒頭、幼かった蓮の祖父、清志郎が清彦の膝の上で甘えていた、かつての蓮の実家の門の前に、片脚を失い杖をついた清彦は立っていた。
 わずかに逡巡した後、清彦は門をくぐる。妻の春江が玄関横の庭の掃除をしていたが、顔を上げ清彦の顔を見て、驚き、しかし、何やら悲しそうな複雑な表情をした。

 いや、そこは、喜ぶところじゃないのかよ?

 口元を押さえ春江は家の中に駆け込んでいく。何やら複数人の声が聞こえてくるが何をしゃべっているかはわからない。しかし、清彦は何となくこの後の自分の運命を予感していた。


プレスコードと戦後言論空間の歪み、その継承

 


0.プレスコードという見えない鎖

 敗戦の年、1945年の秋。焦土と化した街に、アメリカ軍のジープが土埃をあげて走る光景があった。空襲で黒焦げになったビルの残骸を背景に、占領軍の兵士たちは軽い口笛を吹きながら通りを歩く。その背後で、日本人は焼け跡に腰をおろし、瓦礫の中から鍋や茶碗を掘り出していた。

「日本は自由になった」——そう新聞は書いた。だが、その紙面の裏側では、まだ知られていない規則が息をひそめていた。
 GHQが日本の新聞社や放送局に配布した「プレスコード(新聞発表用規程)」である。そこには31項目にわたり、報道してはならない事項が並んでいた。占領軍批判、連合国批判、原爆被害の詳細、戦前の戦争責任の追及に触れることも許されない。

 江藤淳は、この時期を「言語空間の占領」と呼んだ。彼は著書『閉ざされた言語空間』でこう述べている。
「占領期の日本人は、自らの母語で、自らの現実を語ることを禁じられた。」
 それは単なる検閲ではなく、思考の土台そのものを組み替える作業だった。


 この「組み替えられた土台」は、占領が終わった後も日本人の中に残った。一見すると自由な言論空間だが、そこには“見えない線引き”が存在する。そして人々は、気づかぬうちにその線を避けて言葉を選ぶようになった。それは現在にも継承されている。どういう訳かノイジ―マイノリティーに弱い報道。

 原爆の被爆者差別は、その典型的な副産物だろう。広島・長崎の惨状は、長く断片的にしか報じられなかった。瓦礫の街でケロイドを負った子供を抱く母の姿も、内部被曝に苦しむ人々の証言も、
 占領下では“国民に見せてはならない”ものとされた。そのため、国民全体の理解が遅れ、やがて「被爆者=不健康で危険な存在」という偏見が根付く。

 西部邁は、晩年の講演でこう語っている。
「言論統制とは、単に言葉を封じることではない。それは人々の沈黙を習慣に変えることだ。」

 プレスコードは、まさに沈黙を習慣化させた。それは、戦後の保守も革新も等しくその上に立ち、思考を育てることになった「見えない鎖」だった。


1.右翼も左翼も、大間違い

 保守であれ革新であれ、政治的立場を持つことは悪くない。むしろ、思想は立場を持ってこそ鍛えられる。
 だが、現代日本の右翼と左翼の多くは、その立場を論理的に組み立てる力を失っている。ネット上で飛び交う罵倒は、論理ではなく感情の応酬だ。

 ネトウヨと呼ばれる右派の一部は、「日本は素晴らしい国だ」と叫ぶが、その理由づけは歴史的検証よりも感情の昂ぶりに依存している。
 一方で、パヨクと呼ばれる左派の一部もまた、「権力は悪だ」という反射的な姿勢に固執し、現実的な解決策を提示できない。


 渡部昇一は、かつてこう指摘している。
「自分が正しいと確信する者ほど、相手の正しさを想像できなくなる。」

 この想像力の欠如こそ、議論を分断へと導く。論破を目的とすれば、相手は敵でしかなくなる。
 だが、説得や合意形成を目的とすれば、相手は「引きつけるべき他者」に変わる。

 百地章は、憲法学の立場からこう述べた。


「立憲主義とは、異なる立場の間に“争える共通基盤”を維持することだ。その基盤が失われれば、言論はもはや共存を目指さない。」

 しかし、現代の保守も革新も、この「共通基盤」を育てようとしない。相手を「無知」か「悪意」と断じるのは容易だ。だが、その瞬間に言葉は届かなくなる。


 プレスコードによって制限された言論空間で育った世代が、「自分の立場の正しさ」だけを磨き続け、「他者の立場とどう向き合うか」という思考をあまりにも鍛えられなかったのではないか?
 それは世代を超えて受け継がれ、今日のSNS上で、奇妙に過剰で、かつ浅い議論として現れている。


2.鎖が外れても、足は前に出なかった

 1952年、サンフランシスコ講和条約の発効とともに、占領軍による直接的な検閲は終わった。
 新聞は再び自由に記事を書けるはずだったし、ラジオも自由に放送できるはずだった。

 だが、江藤淳は『閉ざされた言語空間』で、こう述べている。
「言論統制は解除された。しかし、解除されたことを自覚できる人間は少なかった。自由を行使する習慣が、すでに失われていたからである。」

 この「習慣の喪失」が、戦後日本の革新陣営に深く染みついていた。戦前、共産党や社会主義者は激しい弾圧にさらされ、獄中で歳月を過ごした者も多かった。だからこそ、占領期のプレスコード下でも、彼らは「また抑圧されるかもしれない」という予感を捨てきれなかったのかもしれない。

 西部邁は、戦後左派の体質をこう評している。
「彼らは戦前の抑圧に対するルサンチマンを、未来への理念に昇華できなかった。その結果、戦争反対と反権力が自己目的化し、時代が変わっても身動きが取れなかった。」

 プレスコード解除は、思想を鍛え直す絶好の機会だったはずだ。戦前の記憶を踏まえつつ、新しい現実に合った論法や政策を模索できた。 だが、実際には旧来の「闘争の文法」にしがみつき、保守との間に新しい対話の形式を築くことはなかった。

 その背景には、もうひとつの心理的な要因があったように思う。長年「被害者」としての自己像を支えにしてきた人々にとって、相手と対等に議論するという行為は、その自己像を手放す危険をはらんでいるとかんじていたのではないか? だからこそ、ルサンチマンは次の世代へも受け継がれてしまった。
 結果として、革新は自らの支持基盤を拡大できず、むしろ社会の中で孤立を深めていった。それはこの何年か顕著だが、共産党や社民党の縮小として表面化し、「もう店をたたむべきでは」という声すら出る事態につながっていく。


3.受け継がれた怨念という遺産

 戦後の革新陣営が、戦前の弾圧の記憶に囚われたまま動けなくなったことはすでに触れた。だが、より奇妙なのは、その怨念が世代を超えて受け継がれたという事実である。
 戦争を直接知らない世代が、あたかも自らが被害者であるかのように語り、同じ怒りや不信感を、血の中に溶け込ませるかのように継承してしまう。それは教育現場や文化サークル、労働組合、学生運動などの場で、繰り返し語り直され、情念として保存された。

 渡部昇一は、この現象を「歴史的現場の記憶の擬似相続」と呼んでいる。
「自分が体験していない出来事に、体験者の感情をそのまま借りて加担する。それは本来、冷静な歴史理解を阻む危険な行為である。」

 これは保守側にも同じことが言える。
 明治や昭和初期の“栄光”を、体験してもいないのに自分のものとして誇り、その輝きにふさわしい日本を取り戻せと叫ぶ。いずれも現実から遊離した感情の継承であり、論理的な組み立てを欠く。

 百地章は、戦後思想史を論じる中でこう述べている。
「自由な言論空間を持ちながらも、感情的な歴史解釈を温存するのは、言論の自立を放棄するに等しい。」

 ここに、プレスコードの影はありはしないか?
 占領期の日本人は、「本当のことを言っても仕方ない」という沈黙を習慣化させられた。その習慣は、真実を検証する努力よりも、感情の物語を維持することに傾きやすくする。

 そして、それは保守にも革新にも等しく作用した。


 世代が変わっても、怨念の火種だけが形を変えて残る。もはや戦争体験者がほとんどいない時代になっても、右も左も、それぞれの物語に沿った「敵像」を守り続けている。それは、未来のために過去を使うのではなく、過去のために未来を犠牲にする姿だ。


4.歪みの増幅と、出口を探す試み

 今生きている社会は、戦後の言論空間が抱えた歪みを、より複雑に、より激しく増幅させた場所である。
 SNSのタイムラインは、一見すると自由闊達な討論の場のように見える。しかし実際には、同じ意見の者同士が集まり、相手を攻撃することで仲間意識を確認する空間になっていることが多い。

 江藤淳が指摘した「解除されたことを自覚できない言論空間の住人」は、今では検閲のないネットの世界でも、自ら検閲に似たバイアスをかけている。都合の悪い情報を見ない、見ても信じない、信じても発信しない。その代わり、感情を刺激するフレーズや画像が共有され、拡散される。

 西部邁は、生前こう警告した。
「自由とは、好き勝手に叫ぶことではなく、他者の自由を守るために自分を制御する技である。」
 この制御の欠如が、現代の言論の質を著しく下げている。右派は左派を、左派は右派を「論破」しようとし、説得ではなく撃破を目指す。その結果、議論は分断を深め、本来の目的である「共に社会を改善する」という視点を失う。

 百地章が言う「争える共通基盤」を再構築するには、自分と異なる立場の人を“倒すべき敵”ではなく、“引きつけるべき他者”と見なす習慣が必要だ。
 そのためには、プレスコード時代に培われた「沈黙と物語優先」の癖を、世代のどこかで断ち切らねばならない。

 渡部昇一の言葉を借りれば、
「相手の正しさを想像できる者だけが、自らの正しさを確かめられる。」
 この単純だが難しい姿勢を取り戻せれば、保守も革新も、今よりはるかに深い議論を交わせるはずだ。

 共産党や社民党が店をたたむべきかどうかは、単に党勢の問題ではない。「古い物語を引きずったままの言論空間」を続けるか、それとも新しい論法と関係性を築くか——その選択を迫られているのは、実は日本社会全体なのだ。
 もし出口があるとすれば、それは相手を引きつける論法を学び直すことだろう。そして、そのためには自分自身の“物語”を一度疑う勇気が必要だ。

 戦後80年近くを経た今、その勇気こそが、新しい時代の言論空間を開く鍵になるはずだと睨んでいる。
 しかし現実には制御がなく、論理よりも感情が優先され、分断が深まっている。
 百地章は「争える共通基盤」の再構築を、渡部昇一は「相手の正しさを想像できる者だけが、自らの正しさを確かめられる」と提唱した。この視点こそが、今の日本の言論空間に欠けているものだ。

 共産党や社民党の衰退は、単なる党勢の問題ではない。古い物語を引きずった言論空間の構造そのものが、現代の分断や浅薄な論争を生み出している。相手を引きつける論法を学び直し、自分自身の物語を一度疑う勇気にあるのやらどうなのやら。その辺が出口なんじゃないかと思うのだが。

 戦後80年近くを経た今、沈黙の習慣とルサンチマンの連鎖を断ち切り、自由と責任を両立させた言論空間を作るタイミングにあると考えている。