2022年1月30日日曜日

7324 Z400GP & note「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-2

7324 Z400GP

 アウトサイダー、アウトサイドがあるなら、当然インサイダー、インサイドもあるわけなんだが、インサイド、内側にはなにがあるのか? っていうか、「アウトサイド」「インサイド」を定義するのか? 境界は? ということになる。

 まぁ、特に今更言うまでもなく、政治的な話をすれば、インサイドとは与党、ということになるが、では野党はアウトサイドで野党議員はアウトサイダーかと言われると、そうではない。寧ろ日本ではその無能ぶりで結果的に与党を助ける準インサイダーであるともいえる。
 このコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」的な意味合いから外れるならば、アウトロー、テロリストもアウトサイダーの括りに入るのかもしれない。一義的には、社会の標準的なものの外側、標準的であるというなら内側、ということになる。
 社会の標準的なものの考え方、フィーリングからの疎外感が大きなテーマであったと思う。しかし、まぁ、「疎外感」と書いてしまうと、陳腐であり軽いものに感じられてしまうから厄介だ。実際にそれはいかにも個人的なものであるが、「疎外感」の3文字はなにやらそれで、それぞれ個々人を全くの個別のものにしてしまい、いや、個人的なものであるから最初から連帯なんてありえないけれど、しかし、何ら他者にその処方の糸口すら期待できない、というものにしてしまうのではないか、という感覚もある。

 '90年代半ばごろより「適応障害」とか、なんとか、それは病であるという風に言われるようになってしまった。哲学や文学が敗北してしまったとその時思ったものだ。’90年代初めごろまでは、少なくともオレは、処方となる言葉を自分で探していたし、そういうものだと思っていた。その中でこの本も見つけたわけなんだけど。
 多分、ある程度、神経内科的な治療法、処方は確立しているのかもしれない。知らんけど。

 しかし、感覚的には、どうにもそれには違和感があるし、アウトサイダーをインサイドに引き入れるということ自体、正しいのかどうか、ちょっと考えなおすべきなのかもしれないように思ったりもする。


 さて、画像のZ-GPだが、旗棒にRPMの直管である。族…旧車會仕様であるともいえる。が、直管はさておいても、旗棒、絞りハンドルというのは、もともと、プレスライダーが始めた、事件現場、国会議事堂から、如何にバイクで記者の書いた記事や写真のフィルムを新聞社に、如何に早く届けるかというところから生まれたスタイルである。速さに意義があったし、弾丸のようにすり抜ける単車はカッコよく映ったのだろう。
 しかし、多分、良くは分からないがこのようなスタンダードな単車に絞りハンドルというのは、プレスライダーの単車としては’80年代前半には絶滅したスタイルだろう。250ccまでの小排気量でも十分な性能が出るようになったし、場合によってはオフロードバイクみたいなものの方が取り回しがよく小回りが利いただろうから。以降、族車にのみそのスタイルが受け継がれるようになる。おそらくやってるコ本人、何でそんな形なのかも知りはしないかもしれない。珍妙なスタイルだけ残って珍走団などと呼ばれるようになる始末である。

 で、かつて単車乗り「あちら側」「こちら側」なんて言い方をしたそうな。単車乗りに限らず、急進的なサブカル人も言ってたらしいが、何しろリアルな会話の中でそれを聞いたことはない。因みに1966年生まれであるが。
 まさしく、アウトサイダー、インサイダーなんだが、しかし、如何にもイキった言い方で、今のコはそういうものをかなり極端に忌避する。非常にかっこ悪いと感じているようだ。

 中二病というのは、伊集院光氏がラジオで言い出した言葉だと思うが、「珍走団」というのもその流れ。学生、子供の時にそういうイキったやつらにいやな思いをさせられた、代打数の「普通の」人々の心をとらえたものと思われるが、

 この「普通」というのが、とてつもなく曲者であるようにも思う。

 

7323 T33

 

7323 T33

7322 Alex Hofmann_1

 

7322 Alex Hofmann_1

Alex Hofmann
ZX-RR
Donington Park 2004


7321 Randy Mamola_14

 

7321 Randy Mamola_14

Randy Mamola
XR-35
Brandshatch 1981


2022年1月25日火曜日

7320 Z400FX_8 & ノート「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-1

 

7320 Z400FX_8

ノート 「アウトサイダー」/ コリン・ウィルソン 0-1


 20代前半だ。京都にいたオレは、銀閣寺道の交差点近くの古本屋で、ボロボロの「アウトサイダー」という本を手に入れた。別にこの少し前、同じ題名のハリウッド青春映画に感化されたわけではない。が、言葉の響きになぜか惹かれるものがあったのだろう。


 それからの一年、片時も手元から離さず、一言一句の意味をかみしめながら、実にゆっくりとその本を読んだ。そんな読み方をした本は、後にも先にも他に一冊もない。


 大阪に行くときも、京阪電車の中でずっとそれを読んでいた。定食屋に入っても、店の少年ジャンプとかは読まずに、手に持った本の文字を追っていた。
 メモ用紙がなくて、本の内容とは全く関係ない走り書きもあったりする。一度など、四条京阪の駅で入ったトイレに紙がないので、裏表紙の一つ内側の白紙をほぐしてトイレットペーパーの代わりにした時もあった。

 結構状態の悪かった本は更にボロボロになり、自分で色画用紙を張って表紙を修理したりした。


 ほんのさっきだ。それほどの付き合いだった本の事しばらく忘れていたけれど、ふと思い出し、そうだ、あれのノート、今更ながら書いてみよう、と思い立った。

 生憎と、今、モノに埋もれてすぐには出せない。まぁ、10分ほど発掘すれば出てくるだろうが、次回にでも、如何にオレがその本をボロボロにしたか見ていただくことにして、


 それにしても、多分、おれは「アウトサイダー」という言葉に惹かれたから、あんなボロボロの本を買ったのだと思うのだが、そんなことは今のコにはありえない事だろうな、と思うのだ。本の内容を何十年ぶりかで紐とく前に、そのことについてちょっと考え込んでしまった。

 「アウトサイダー」と「アウトロー」は、一般的には類似語として考えられているようだが、この本の内容ではそうではないということになっていた。まぁ、それはそれとして、特にネットが一般のものになって以降、ネット弁慶が増えたせいもあって、随分とアウトローに対して手厳しい、だけの、社会になってしまった。だけ、と書いたのは、手厳しいことは言っても、その背景、アウトローを生み出してしまった社会の責任については触れようとしないというのが多数派であるということ。

 もっとも以前から、宥和的というか、慈愛をもって、その原因に浮きあい原因を解消していくという動きはごく少数ではあったのだが、ネットで、オレを代表とした凡夫がゴミみたいな言い分を人様になんの推敲もなく晒せる時代になってから、口汚くアウトローを詰る言葉の音量が特に大きくなったような気がする。


 この本では、アウトサイダーの社会から乖離する精神については書かれているが、反社会的行動については取り扱っていない。考えてみれば、ネットでも、社会の一般的な考え方から外れてしまっているかもしれないが、こんな私を認めてほしいという主張を目にすることは少なくないので、需要がないとは言わないが、しかし、「アウトサイダー」という言葉を今現在の社会肯定する素地というのはかなり少ないように思えるのだ。


 本文を読んでいく前に、もうちょっと、その辺考えをまとめてみようなとも思う。



2022年1月22日土曜日

7315 Marco Lucchinelli_4

 

7315 Marco Lucchinelli_4

Marco Lucchinelli
TT750
Daytona 1985


7314 Edi Stöllinger retake

 

7314 Edi Stöllinger retake

Edi Stöllinger
KR250
Misano 1980


7313 Barry Sheene MBE_3 retake

 

7313 Barry Sheene MBE_3 retake

Barry Sheene MBE
0W60 1982


7312 KZ1000MkII_10

 

7312 KZ1000MkII_10

7311 S30Z_46

 

7311 S30Z_46

 明け方、大分、宮崎の方でそれなりに大きい地震があったそうだ。プレート境界面の、割と地中深いところが震源なんだそうで、それが、境界面伝いに段々とせりあがってきたら南海トラフ地震となる。
 太平洋辺縁の地殻活動の相関、時系列の記録を見れば素人でも何か関係があるとは思うものだが、あいにくとまだ、確立された法則のようなものは見つかっていない。トンガの海底火山の大噴火、衝撃波による高潮のような津波。太平洋辺縁に限らず地球全球で地殻の活動期なんだそうだ。

 コロナ禍。なんなんだろうな、コレ。病気自体も然ることながら、社会構造の不都合、脆弱性を次々暴き、機能不全に追い込む。年寄り二人と心臓を患ったことがある初老の中年男のウチにウィルスが入り込んでしまったら、西宮の妹は3人分の葬式を出さなきゃならないことになる。

 つまりは怯えてる。地震とかコロナとか。せめて少しでも苦痛の少ない穏やかな仕舞を望んでいたのだが、それもかなわなくなるかもしれない。

 日々、目に見えて身体の機能が低下していく老いた両親。しかし、まだ二人とも存命なのだから、オレはラッキーなのかもしれない。そして遠からずそれはわが身で、しかも、その日を一人で迎えなければならない。そういうものだろうと、そのことについては諦めだけがあり、怯えとかはないけれど、ドスンと腹の奥に重しになっている。

 突き抜けたい、と、若いころ思っていた。まぁ、若いころのそれは、色恋ごとについてだったんだが、今となっては、もう、この衰え行く身体、そして精神全体について、だ。


 それはそうと、こうして、単車やらクルマやらオネエチャンやら風景やらの絵のようなものを舐ってるのだが、10000枚も描けば、遂に一廉の人物になれそうもないオレでも、なにかになれるかな?と淡い期待をもっているのだが、線を追う、色を分ける、そんな作業をやっているとき、ふと、小学生のころピアノを弾いていてバイエルの教本で鍵盤を追っかけてるときの感覚を思い出したりする。熱狂はない、が、他では案外味わうことが少ない、自分が一転に収斂されていく奇妙な楽しさだ。
 尻に感じた猛烈な横G加速G、それを思い出したり想像したりしながら、案外それで、憂鬱は少し軽くなり、とりあえず明日の分のモチベーションは回復したりする。

 そんな甲斐性もなく、ヘタレでビビりだから、アクセルを踏み込めず突き抜けて走り去るなんて遂にできそうもないけれど、それでも、どこかでそんな自分を夢想したりするときがある。


 50過ぎて会社で今やってることのために、まさか、小学生の時毎日前を通ていた鉄工所の門をくぐることになるとは思わなかったか、その鉄工所の前あたり、緩いカーブになっていて、小学校の帰り、そのカーブの向こうから、白い、普段見ないような車が走ってきた。細いバンパーの前の型のポルシェカレラ(901ボディの所謂ナローポルシェ)かな、とも、思ったが、近づくにつれてそれが、S30Zであることが分かった。そういうことがあった。まぁ、フェアレディZなら田舎でもそんなに見ないことはないけれど、すれ違う時、小学生のオレは「かっこいい~」って興奮した。
 日本車の性能が世界のトップレベルの成るにはまだ数年要する頃で、フェラーリやランボルギーニが、時速302キロとか300キロとか言ってた時に、条件が良いところを走っても200キロ何とか届くか届かないか、という時ではあったけれど、スーパーカーブームに毒されたニッポンのオトコのコにとっては、フェアレディは、ニッポンの誇りだった。

7310 Gilles Husson retake

 

7310 Gilles Husson retake

Gilles Husson
Team Gavory Z1000
BOL D'OR 1978


7309 The Pastday -station front of My Hometown

 

7309 The Pastday -station front of My Hometown

 高校の3つ上の先輩にあたるモーリー・ロバートソン氏の先年亡くなられた御母堂、ロバートソン黎子氏の実家は、我が町では、それなりに名家として知る人ぞ知る。モーリー氏の従弟は妹の小中高の同級生の雪が積もってても短パンボーイだったりして、県内ではそれなりにデカいつもりでも関係者にすぐ突き当たる。
 まぁ、でも、大学の社会学で習ったには、っていうか、講師が雑談に言ったには、日本においては、自分起点で知り合いの知り合いの、でつないでいけば、4~5人で大方の日本人につながるそうなんだが、まぁ、そんな感じで。

 パンクロック好きの高学歴の変な外人(まぁハーフなんだが)として、渋谷陽一氏のラジオとかにちょくちょく出てた30数年前は、長髪でほっそりしたイケメンだったが、いつの間にか髪の毛が薄くなり貫禄も出て、って、その辺は人のことも言えないので、その辺にして、で、なんてったっけ? 経歴詐称でバタ臭い顔の人がMC降りた番組に代わりに出るようになってから、テレビで、モーリーパイセンの顔よく見るようになったんだけど、そうなる直前の、彼のYouTubeチャンネルで、故郷訪問というVがいくつかあって、その中でも紹介されていた。

 今は取り壊されて、駅前ロータリーの一部になってしまったところにあった雑居ビル。モーリーパイセンは叫ぶように言った。「九龍城じゃねぇか!」って。オレもずっとそう思っていた。表のバスターミナル側には、ミスタードーナッツとか、旅行代理店の出店とかあったんだけど、裏側はなんか入るのためらわれる定食屋とかピンサロとか。内側は回廊式になっていて、変なところに祠があったりして、薄汚れていて。
 高校生の時だったか、暇に任せて探検したことがある。言ってみれば、ダンジョン感。上層は、実は居住施設になっていて、回廊を抜き足差し足歩いていたら、生活音が聞こえたりして、慌てて退散した。

 或いは、押井守氏の「攻殻機動隊」、ゴーストハックされた光学迷彩男を追跡している場面のシチュエーション。あんな感じ。

 突然異界に入り込んでしまったような感覚が、実はなかなか楽しかった。

 耐震強度的に、恐らく完全にアウトで、全国的にも姿を消しつつある昭和40年代の建造物。そこに息づいた人の臭いとか何とか。

 そいや、思い出した。高校の授業サボって、やはり今は無くなってしまったウチの街唯一の百貨店の昔の建物の屋上にあった、小さな遊園地っぽいスペースでぼーっとしてた時の事。一応、そういうものはそういうものとしてそこで「営業」してるんだけど、客なんて一人もいない。まだ、今みたいに人がいないなんてことはなかった中心街だったけど、見下ろすと、結構やれた感じの街並みが広がっていて、結構昼間なのに暗がりっぽいものもあったような気がした。

 それがよかった、なんてこともないのだろうが、あれは夢の事だったのではないか、というぐらい、今は何もないウチの街の駅前だ。

2022年1月14日金曜日

2022年1月3日月曜日

7289 Etiénne Quartararo

7289 Etiénne Quartararo

Etiénne Quartararo
RS250R 1986

  写真のヘルメット見て、「ああ、片山敬済氏の写真ね」と、思うじゃない。しかし、緑ゼッケン(=250cc)で#65とかつけてたはずがなく、250cc走ってた頃はヤマハだったしロスマンズではなかったし、って、ロスマンズカラーだけどロスマンズじゃねぇし、この写真、と、2度見3度見して、キャプションも読んで、エティエンヌ・クアンタラロ氏1986年とある。え、この名前って? と思いググってみたら、案の定、2021年プレミア・クラスでタイトル獲ったファビオ・クアンタラロ君の御尊父であらせられるとの事だ。
 写真は250㏄だが、125㏄ではフランスの国内チャンピオンにもなったことがあるそうで、そこそこ能力はあったのだろうが、スポンサー集められなかったのかな? GPには出てきていないはずだ。今まで聞いたことがなかった。さすがにフランスの国内選手権のことまでは知らない。

 しかし、まぁ、片山レプリカのヘルメットといい、ロスマンズカラーなのにロスマンズじゃないところといい、突っ込みどころに事欠かない写真だが、考えてみれば、当時、結構名の知れたライダーも平気でスペンサーレプリカ被ってレース出てたし、当時としてはフツーなのかもしれない。
 まるで、当時のバリバリマシンの読者投稿写真を見るようで、楽しい。どこかに角生えてないかい?

 ということは、このエティエンヌ・クアンタラロ氏、ほぼオレと同世代か。このエティエンヌ・クアンタラロ氏にしても、ヴァレンティノ・ロッシの親父のグラジアーノ・ロッシ氏にしても、四輪ではヨス・フェルスタッペン氏にしても、現役時代、遅くはないにしても、トップまで行くこともない、いまいち地味だったけど、息子が大成してさぞや嬉しかろう。
 トップを走った、ガードナーの息子は今年からプレミアクラス、ドゥーハンの息子は四輪でF1のすぐ下のクラスまで登ってきている。さぁ、どうなるかね?



 

7288 ZX-9R_2

 

7288 ZX-9R_2

ZX900B 1994

2022年1月1日土曜日

7283 Randy de Puniet_2

 


7283 Randy de Puniet_2

Randy de Puniet
ZX-RR
Sepang 2007


7282 330 P4 spyder

 

7282 330 P4 spyder

330 P4 spyder
Paul Hawkins
Brands Hatch 1967


7281 H1 500SS Mach III_3 & 2022元旦所感

 

7281 H1 500SS Mach III_3

元旦所感

 カレンダーが新しいものに掛け替わった、などと言っても、特にカレンダーなど壁に掛けることもなくなって何年も経つ。こういう時、子供がいない家というのは、どうにも新鮮な気持ちで新年を迎える殊勝な気持ちが弱い。ましてコロナ禍、妹夫婦も来ることがなく、老いた両親と三人、しかし、外は子供の時にあったような、そこそこな雪。静かな元旦だ。

 で、カレンダーが掛け替わったというのに、昨年、いや、昨日と同じように、オレはこんなことをしている。勿論年内にはそれなりに大掃除とか料理とか準備はした。

 結構ね、去年は仕事が胃に来た。この年になるまで、そんな仕事をしてこなかったから。まぁ、悪いこととは思っていない。それも人生としてはアリ。若い時は、そういうものから逃げてしまったり、逃げちゃだめだ逃げちゃだめだと思いながらそればかりになったり。気持ちは後ろ向きではなく、ネガティブなことはちっとも思ってないのに、なぜか胃にはしっかり来ているなんていう、これは初めての経験だ。結構面白い。でも、胃が痛い、時々。
 医者に診てもらって、特に悪いところはないようなので、このままいく。仕事、ずっと続くけれど、とりあえず、一区切りまで、うまくやりたいと思う。

 気が付けばカウントダウンに入っている年齢になっている。下手打てば明日この世にいなくなってるかもしれない。今更後悔のない人生を、なんて無理なくらい、後悔が掃いて捨てるほどあるんだが、それなりに整理をつけながらやっていくことになる。

 実は、このブログに何千と上げている絵みたいもの、これらもその一環だったりする。思った数にはまだ3千程足りない。まぁ、ぼちぼちやっていくしかない。

 ただ、見えないけれど、皆があることを感じ取っている線を一本超えただけの事で、それがめでたいのかどうか、この年になれば、そういう区切りまでとりあえずたどりつけたのは、よかったね、というのはよくわかる。

 また一年、皆様も元気で過ごされますよう、お祈りしております。

2021年12月31日金曜日

7280 Jean Alesi_3

 

7280 Jean Alesi_3

Jean Alesi
Tyrrell 018 Ford
Jerez 1989

「男はつらいよ」に関し 4

 劇中に出てくる単車はネタ切れで、クルマに関してもこれはというものがなく、及川泉ちゃんを演じる後藤久美子氏のリアルのパートナー、ジャン・アレジ氏を描いてみることにした。
 ジャン・アレジ氏というと、息子のレース資金の捻出のため、時価1億円ぐらいするんじゃないかと言われるF40を売却したりとか、最近では実弟のビジネス上のトラブルから起こした爆竹騒ぎでおとがめを受けたりとかというニュースを訊いたりする。ファミリー思いなのは良いが、爆竹騒ぎ、後藤久美子氏が、寅さんが問題を起こしたのを聞いたさくらさんのような表情をしていたのかもしれないと思うと、不謹慎だが笑ってしまった。

 さて、今、男をつらいよ、というタイトルで新作もなかなか作れないだろうと思う、理由の一つに、そのタイトル自体があったりする。矢野顕子氏の「ラーメン食べたい」の歌詞の中で
「男もつらいけれど、女もつらいのよ」
というのがあるが、言ってみても、寅さんシリーズの中の「つらさ」とは、せいぜい女性に振られるつらさであり、寅さん自身、その気になれば、リリーさんというたいそういい女といつでも所帯を持てる状態だった。今現在、男と女、どっちが辛い? 「つらい」じゃなくて「辛い」となり、呑気な惚れた腫れたの次元で語られる話でもなくなってきている。
 女性の社会的不利を辛いとする声が大きい一方で、男性の辛さも寅さんのつらさとは質を変えてしまっている。

 また一個前の投稿の、ウェイン・レイニーもそうだし、日本人なら青木琢磨氏がそうだ。今年亡くなったフランク・ウィリアム氏もそうだが、事故で負ってしまったハンディキャップを持つ方々、事故どころか生来のものもあったりとか。そういう人たちの辛さと比較して「つらい」とか言うのが妥当なのか?
 コロナなどの社会不安で、生き辛い人は?とかね。

 いや、パートナー、恋人を見つけられない辛さはあるさ。しかし、現実にはその辛さは複合的だし、思いつめれば簡単に殺人事件まで発展したりする。寅さん、性格上、もう少しでうまくいく時に限ってなんか逃げてしまうこともある。そんな奴が「つらい」なんて言うな、と言われないためには、これまでのシリーズと違う作りにしていくことも考えなくてはいけないのではないか?

 今までとは急速に姿、質を変えるか、そもそも消滅しつつある「男性」性というものをもう一度吟味してみる必要がある。敢えて「男はつらいよ」というならば、今広がりつつある声に抗していくだけの力がしかもないと。


7279 Wayne Rainey_7

 

7279 Wayne Rainey_7

Wayne Rainey
OWA8
Bugatti Circuit 1989

「男はつらいよ」に関し 3

 満男の愛車として劇中登場したのは、スパーダとGPz400Rの2台では、このウェイン・レイニーのYZRは何かというと、第46作目、「寅次郎の縁談」中、就職活動中、なかなか内定が取れなくてヤサグレてた満男の部屋に貼ってあったのが、ラッキーストライクカラーのYZRに乗って、この画像はコーナーの立ち上がりだが、右コーナーのコーナーアペックス付近、今のコみたいに肘擦りこそしていないものの、フルバンクの姿勢のウェイン・レイニーのポスターだった、というわけだ。
 単に、無造作な舞台背景ではなく、満男のある面へのキャラ付けの意味合いがあることが決定的なんだと思った。
 白時に黒のヘルメットでラッキーストライクというと1989年のことだが、この映画の撮影は早くても1991年、公開が1992年なのだから、こういう映画の性格上公開に割と近い時期まで撮影していた可能性もある。
 無造作に選ぶとすれば、GPでもドゥーハンとか、同じレイニーでもマルボロカラーであるとか、シュワンツでもいい。いや、GPにこだわらなくても、セナ様のポスターの方が調達しやすかったのではないか? わざわざ、でなければ、貼ってあったのが89年のレイニーであることはないようにも思う。あと「HRC」とか「TERRA」っていうステッカーも貼ってあったりする。

 あ、でも、89年頃撮影した時のセットがそのまま残ってるという可能性もあるな、確認はしていないけれど。どうでもいいか。


 2019年の「おかえり寅さん」、あ、ネタバレ注意、なんて、今の今までよりによってこのオレが書くとは思っていなかった言葉を書いてみる。まぁ、大したことは書かないんだけど。満男クンはオレよりはほんの少しだけ若いんだけど、シリーズを通じて、善人たちが幸せ等なのが辛い、というのとは別に、オレと同じ種類のバカで観ているのが辛かったりする。だから、誰もいない、娘も視ていないところで伯父さん思い出してめそめそするの、オレもおなじことやっちゃったりするんだろうか? と思ったりもするが、同じ音のミツオがいっているとおり、「いいじゃない、人間だもの」なのかもしれず。

 山田洋次氏ではなく、庵野秀明氏を連れてきて「シン・男はつらいよ」でも作らない限り、いよいよ、シリーズこれが最後なんだろう。山田洋次氏の作風でこれから映画を作るのも難しいし、敢えて作風を変えてまでそれをすることを、ファンが許さないかもしれない。
 底に流れる精神はそのままに、それでも、「男はつらいよ」のリメイクなり続編なりを作っていくとしたらどうなるだろうと、妄想してみた。

 まず、満男クン、単車乗りに復帰しろ、と。娘の高校受験もあるだろうが、次作がおそらく露天商、即ちテキ屋に関することらしいので、つまりは伯父寅次郎氏がモデルなのは明白で、となれば寅さんがした通り、日本中を放浪するように旅しながらノマド小説家となるしかない。まぁ、次作の時には娘の高校受験もひと段落してそうだが、しかしむすめをひとりにするわけにもいかず、というところで、池脇千鶴氏が演ずるところの担当編集者が名乗りを上げて、住み込みで娘の世話をするようになる。「おかえり寅さん」劇中、ほのかに、満男クンとの仲が進展するかもしれない、という描写があるのだが、
「君の事は信頼しているし、君もボクの事をよく理解してくれてると思ってる。ある意味きみがいるから、小説家としてやっていけるんだけど、でも、だからと言って、結婚とは結び付かないんだ。結婚って何だろう?」
的な若い子が言いそうなセリフを、50を過ぎても満男クンは平気で言いそうではある。まぁ、かの編集氏、さくらおばあちゃん、博おじいちゃんをはじめ周りの人には、そのように認知されていく中で、
 満男クンの日本準で体験したエピソードが映画として綴られていくわけである。寅さんがそうであったように、ちょくちょく葛飾柴又には帰ってきたりするんだけど。あと、寅さんのような艶話とはちょっと違うエピソードな。
 さあ、富山県、そうなったら積極的にロケ、誘致し給え。


 「う~ん、なんて言うかな、ほら、”ああ、生まれてきてよかったな”って思うことが、何遍かあるじゃない、ね? そのために人間生きてんじゃないのか?」

 どのエピソードで寅さんが満男クンに言ったセリフか、ちょっとわからないが、回想として「おかえり寅さん」に出てくる場面である。オレなんかね、生きる意味に結構拘泥しすぎてしくじったと思ったりしているクチだが、若い奴にそんなこと質問されたら、オレならどう答えるだろう? 

2021年12月30日木曜日

7278 GPz400R_5

 

7278 GPz400R_5

「男はつらいよ」に関し 2

 第44作「寅次郎の告白」の最後の方、ちらっと出てくる満男君の愛車、シレッとした顔して、スパーダからGPz400Rに替わっておりました。流すところですが、あの鹿児島まで行ったいわば相棒、さらっと買い替えてしまったか、山田洋次さん、小道具スタッフが替えてしまったことにも頓着しなかったか、それとも、まぁ、それなりに時間も経ち、映画で語られないところで買い替えのドラマとも言えない何かがあったことにしたのか。まぁ、ホントどうでもいいですね。
 いや、どうでもよくないか。公開当時、「寅さん」なんて見なかった、単車乗りを中心にした満男と同世代が、今更「男はつらいよ」シリーズ見ることもあると思うんだが、多分、山田洋次氏的には、その当時のよくいる若者のキャラ付けするための小道具以上の意味はなかったように思うんだが、スパーダからGPz、ホンダからカワサキへの買い替えって、ないわけではないが、それなりの事はあったと思うし、単車に乗っていたという事実自体、満男のキャラクターメイキングにそれなりのポジションを占める事実であったと思われる。当時としては確かに特別、というほどの事ではなかったとは思うが、伯父に影響を受けた、という部分では効果的な小道具ではなかったと思われる。思い付き、思い込みで鹿児島まで行っちゃうところとかね。満男クン、例え泉ちゃんが絡んでいなくても、いろいろ経験したのかな、GPzに乗って、とか、想像してしまう。

 さて、寅さん、車寅次郎氏のことである。シリーズ通じてである。繰り返すが、何度もじっくり見たわけではないので見落としがあるのかもしれないが、テキ屋をやっていて、商材の仕入れの場面ってあったんだろうか? と思ったりするが、ちょっと思いつかない。商売として、あれは成り立っていたんだろうか?と。
 売り口上はほぼ超が付くくらいの一流だったとしよう。しかし、旅姿は、空色のダボシャツ、辛子色のジャケットを腕を通さずにはおるだけ、ソフト帽を外すことはめったになく、あとは古ぼけた革のトランク一つ。商材を持ち歩いているようには思えないし、高額で利益率の高いものを売っているようにも思えない。行く先々で伝手で商材を仕入れ、その場で売っていたということなんだろうか? あの世界の事は全くわからないが、なんかちょっとな、今じゃ絶対あり得ないし、寅さんが活躍した高度経済成長期末期からバブル期、平成の何年間かの間であっても、それだけでやって行けたとはとても思えないのだが、そこは蛇の道は蛇なのかな?
 あと性格。一応振られはするけれどもてないわけではない、なぜか気になるチャーミングな人物ということになっているが、殊現在、リアルであんな人が身近にいたら、ちょっと困る。
 そういう人物も受け入れられたおおらかな時代、といえばいいのかしら? でも、やはりスクリーンの中だけにしていただきたいんじゃないかしら?

 まぁ、寅さんは極端にしても、みんな優しく、弱いけれど強く、聖人でもないが悪人でもない。一所懸命生きている。悲しい顔をすることはあるけれど、暗い目はしない、そういう人たちの時代。ノスタルジーに浸るだけなんだろうか? オレの場合はNETFLIXで確認がてらみてるけれど、やがて物悲しくなる。

 

7277 VT250 Spada

7277 VT250 Spada

「男はつらいよ」に関し 1

 当地富山と、四国のどこかだったかが、遂に「男はつらいよ」のロケ地にならずに、渥美清氏の死去によりシリーズ終了を迎えてしまったため、富山県民的にはちょっとしたトラウマになってしまい、山田洋二監督の次のシリーズ「釣りバカ日誌」ではいち早くロケ誘致に動いたのだが、これも三国連太郎氏の死去でシリーズ終了。そこそこ人気はあったものの「男はつらいよ」ほどではなかったのではないか、と思われる。
 富山市岩瀬など、そのロケ誘致に熱心だったのだと聞き、49作目の制作に際し、山田氏渥美氏などは前向きだったが、松竹映画との交渉が不調だった、らしい。また、一説では、そこまで当地が後回しになったのは、渥美氏が結核など大病を患っていた若いころ、不義理をした女性が当地の女性だったから、当地が後回しになった、なんて話も聞いたことがあるが、それについては確認が取れない。まぁ、若いころの苦い思い出が人生に陰影を与えることもあるわけで。

 さて、画像の赤のVTスパーダ、車寅次郎氏の甥、吉岡秀隆氏演じる諏訪満男クンの最初の愛車で、今はジャン・アレジの奥さんが若いころ演じていた満男君の後輩の及川泉ちゃんが鹿児島でへこたれてるのを聞いて、葛飾柴又から鹿児島まで満男君がこれに乗って駆け付けるなど、大活躍だった。それと同型のバイクである。

 満男君の親父の弘さんは、寅次郎氏に助けられたのか邪魔されたのかよくわからないうちにさくらさんとくっつくことができたが、寅次郎氏と満男君は揃いも揃って女性に対しては不器用で、というのがこのシリーズの肝なんだが、寅次郎さんの移動にはほとんど窓が開く各駅停車の国鉄→JRに対し、特に若いころの満男君はこんなバイクに乗ってたりするのだが、いずれにしろ、基本が気ままな旅をする自由人の乗り物で、窓がはめ殺しの新幹線とか、ましてや飛行機なんてものは使っていた記憶がない。まぁ、全部をじっくり見たわけではないのだけれど。

 さて、あらゆる場面で、この話、現実の、特に今現在の日本では成立しないファンタジーであるというのは、説明要る?
 何百キロも離れた女の子に会いに行くのに、今の子、バイク走らせたりするんだろうか? コスパを考えて、今の子は恋しない、というが、それはお金の話ではなく、それだけの熱量を見せてしまうと、持ってしまうと、却って退かれてしまうというリスクを考えて、ならばと、そこまで入れ込んだりはあらかじめしない、ということなんだと思う。惹かれるだけならまだしも、そこまでやると、半ば犯罪者か精神異常者のような目でみられてしまうから。
 満男、即ち、我々の若いころはどうだったか? 女性との距離感を誤るとこれもまた大事故になってしまうのは今と同じで、オレも懲りずに何度も失敗しているが、まぁ、アリと言っちゃアリだったかな?

 そもそも、今の子でこういう単車に乗るのは、我々の頃よりもはるかに少数派で、時間感覚と距離感覚がマヒしたような単車での自由な旅なんて、ないとは言えないまでも更にかなり少数派なのではないだろうか? 若い子はお金もないしね。大人として大変申し訳ない。

 

7276 青山博一2 retake

 

7276 青山博一2 retake

Hiroshi Aoyama
Avintia Blusens FTR Kawasaki
Valenciana 2012

  金があるチームは速いし、まして威信がかかったワークスチームは金と技術があるからいうまでもなく、という極単純な真理において、では、それを持ちえないチームはどうするか、というと、とにかく金を集めるんだけど、それが閾値に達しなければ、参戦できないし、参戦したとしても下位に沈んでしまえば、テレビ中継に移ることもなく、結局スポンサーが去り、参戦継続が難しくなり撤退する。
 レース、殊、GPぐらいになると年間経費も相当なもので、いろいろ諸経費も然ることながら、まず速いバイク、だ。そしてそれのメンテナンス費用。それが用意できて初めて、報酬額も高いが速いライダーを乗せることができる。

 ならばせめて、トップは走れなくても上位を狙えて、いくらか安いバイクはないものかとなる。昔はTZ500、RGB、RS500なんてあったし、年式落ちのワークスマシンという手もあった。そのような趣旨で’90年代後半NSR500Vなんていうのもあった。
 2ストロークは部品点数も少なく、比較的ローコストで、特に昔は現場のメカニックのアイディアでワークスも凌ぐようなハイパワーを出したりする椿事も無くはなかった。雑と言えば雑、おおらかと言えばおおらか、と、言えないこともなかった。

 4ストローク1000ccに移行して部品点数は格段に増え、精密な組み上げも求められ、現場では手出しができない電子部品も高性能なものが求められ、当然コストも上がる中で、メーカーワークス、準ワークスのサテライトしか残っていないのが現状であるように思われるが、かつては、それでもそうならないように、と、市販公道用のスポーツバイクのエンジンをチューニングしてスペシャルフレームに積んだエントラントの参戦を認めていたである、GPは。

 でも、やはりというか、ワークスには歯が立たなかった、と。

 考えてみれば、これって昔のTTF1であるようにも思われるが、こういうマシンでのレースもあって面白いのではないかと、ふと思った。が、どうなるかね? メーカーはレースの負けが市販車の売り上げを下げるリスクを避け、レースでのガチのバトルを避ける傾向にある。さてさて。


7275 Walter Villa_3

 

7275 Walter Villa_3

Walter Villa
Aermacchi-Harley Davidson 250RR
1975