8236 750刀
死を覚悟するなんて、その人間の才覚に関らず、多くの場合、直前に「あぁ、オレはこれで死ぬんだ」と思って、暴れ泣きわめく暇もなく、従って覚悟があるなしに関らず、暴力的かどうかすらよくわからぬまま、全て意味消失するのではないか?
勿論、病ですでに死期を告知されている場合や、刑罰として予告され与えられる死なんていうものもあるが、この際、それは置く。いや、置いとく必要もないか?
この際には、意味消失の瞬間を死とするか、肉体の生命活動の停止を死とするか、迷うところだが、残されたものにとっての死は語られることが多いけれど、当事者にとってはどうであるか、考えてみた。
聖ヒデヨシの死というのは、漫画という創作物の演出として、所謂「フラグが立つ」ような場面はあったにしろ、本人は、対向車が中央車線をはみ出して目の前をふさいだその瞬間まで死を考えたこと無かったろう。目の前をふさがれても「くそったれ!」とは思っても、それが自分の死につながるとは瞬間的に思う暇もなかったに違いない。
そういや、「綺麗な顔してるだろ。信じられるか? それで死んでるんだぜ。」という感じのセリフがあったように思うが、細かいところは違ってるかもしれない、上杉カズヤの死というのも、そんな感じだったかもしれない。予兆なんてあったとしても誰もわからないような微かなもので。
いきなり電球が切れて暗闇になるようなものなんだろうが、そもそも、暗闇を知覚しない、そんな感じを想像するが、そうであろうとは思っても、知覚しない、思考しない、しかしそれを知っている、なんてことはないわけで、そうなると、魂があって死後の世界が云々と便宜的にも言いそうになる気持ちには確かになる。死んでしまうということは何もかもなくなってしまう、それを知るという事さえなくなってしまう事だ。
それがいきなり来る。
元旦の地震で、家の裏の山が崩れた、揺れで家が倒壊し押しつぶされた、で、亡くなった方々。一瞬の大きな衝撃でそのまま、となった方々、残された方々の無念はともかく、まだラッキーで、足や腰や胸を圧迫され、段々身体が冷えていく、急速な死が近づいてくるの感じながらついに亡くなった方々。
事故死の中でも、意識がしばらくあったのちの死というのは、どういうものだろう? 痛覚も怖さもすべて気力がなせるもので、痛みを感じることができなくなり、怖さについても同様で、それ位衰弱してから死はやってくるんだろうか?
死の、まさにすべての意味が失われる、失われた、その瞬間まで刻一刻と変わる精神のフェイズを我々は知らない。何しろ意味が失われる瞬間そのものも想像でいうしかないのだから。知らない、わからないから恐怖する。そこに宗教の意味があるんだろうが、それだって多分に想像で言っていることで、結局検証のしようなど誰もできないことだ。
「わからないから、今を精いっぱい生きるのだ」などと問題をぶった切ってまとめるような年でもそろそろなく、かといって、実のところどうなのかということを知るすべも持たない。わかるのは、どうであれ、人類史上死ななかった人間はだれ一人としていない、と、ただそれだけだ。