雑誌メディア、特に旧来然としたオヤジ雑誌系、ちょっと考えた方がいいかもよ。ネットがなかったころは、女の子の写真なんて、その世界が独占していたわけだけど、今やセルフプロデュースで、女のコたちの命脈はネットが主流だ。然るにオヤジ雑誌系、女の子のグラビアが大きな売りになっていて、まだ、ネットに明るくない爺さんを相手に商売できている今のうちは形になっていても、ねぇ、というところで。
2025年10月31日金曜日
8856 似鳥沙也加
雑誌メディア、特に旧来然としたオヤジ雑誌系、ちょっと考えた方がいいかもよ。ネットがなかったころは、女の子の写真なんて、その世界が独占していたわけだけど、今やセルフプロデュースで、女のコたちの命脈はネットが主流だ。然るにオヤジ雑誌系、女の子のグラビアが大きな売りになっていて、まだ、ネットに明るくない爺さんを相手に商売できている今のうちは形になっていても、ねぇ、というところで。
2025年10月30日木曜日
8855 Jessica Alba _8
しかしながら、氏の絵を上げるのはこれで8枚目。なんだかんだ言って、ルックスというか造形的には好みなのである。インスタなどに上がる彼女の近影、40を過ぎておられるが、魅力は変わらない。
2025年10月29日水曜日
8854 Aimi _2
オレが若い時に彼女がいなかったのはラッキーだった。結構好みだから、一方的に恋焦がれて、決してハッピーにはなれなかった。こうしてネットで彼女を拝見して、ほんのコンマ何秒かうっとりする程度で満足できるくらいに分別がついた今だから、心の中だけでご活躍をお祈りするだけにとどめることが出来る。
あと、オレは、基本的に、誰かに入れ上げる形での推し活はしない主義。
2025年10月28日火曜日
8853 Biturbo _2
2025年10月25日土曜日
8852 AJS7R_5
2025年10月4日土曜日
8850 Emma Watson _33
しかし、AIにそれを作ってもらうとなるとどうなのか? 写真に非常に似せて。エマ・ワトソン氏など、そういうのが世界中で最も多いのではないかという印象さえある。実際、オレも、以前かっぽう着を着た氏を、AIに作ってもらったうえで、世界中でオレしかやっていないようなやり方でイラスト、絵画化を手作業でやった奴、掲載した。他に、幕末の志士の格好をした氏も生成してもらったが、それはまだイラスト化していない。結構時間かかるんだよ、手作業だと。1時間ほどかな。
AIで、どこの誰が作ったかわからない画像で、それをわかって上でかそれすら判別付けずにか、喜んでる奴はこの世には存外に多いようで。
肖像権や著作権って、まぁ、大事、とされているよね。それは異論を挟もうとしても難しい。オレとしては、御覧のように、明らかに日本の片田舎のおっさんが、なんかしこしこ描いているところを想像してしまうと、少々げんなりしてしまうくらい、それが想像できるくらいには、写真じゃない、昔の雑誌の読者投稿欄的な絵にはなっているし、何よりも今まで1銭もお金になっていないので、まぁ、黙認されているか、マイナーすぎて相手にされていない、知られていない、という感じか。
その辺の、中の人、撮影した人、オフィシャルにそれを広めた人、此処までが権利者ね。純粋な推し活としてのファンメイド、闇にお金を得ようとする人。そう言った事情や関係がどのように推移していくか、特にAI自動生成なんて言うものが世に出て以来、激しく流動化していて、これから必ずしも権利者絶対有利というわけにもいかなくなることもあるかもしれない。
しっかし、まぁ、そういうAI自動生成に騙されて喜んでいるアホな男たちよ、な。
2025年9月27日土曜日
「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3
話を少し変える。
資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。
少し整理しよう。
まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?
禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。
ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。
つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。
だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。
整理するとポイントはこうだ。
アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。
バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。
アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。
または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。
一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。 かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。
そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?
個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。
「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ
これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。
個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。
何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?
何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。
何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。
大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。
一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな
其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。
まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。
「贈与」に至る / 糸口を探す 5 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 2
2025年9月18日木曜日
《創作》寝取られ幽霊 第7話 うっかりチンピラが深淵を見てしまいそうになった話
2025年9月17日水曜日
8847 安田美沙子 _1 retake

浮気を・・・これ以上書くのならば確認せねば。・・・そう言う事だったらしいし、苦しい時期もあったみたいだ。でも、今は何とかなってる模様。
女性が亭主の浮気を許すのってどういうことなのか? それでも亭主がいいのか、子供のためか? 佐々木希氏もそうだ。まぁ、家庭それぞれか。
残 念 な が ら、オレには全くの異世界のお話でござる。
「贈与」に至る / 糸口を探す 4 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 1
《創作》寝取られ幽霊 第6章 図書館にて
朝の下落合は、まだ少し眠たげだ。アパートの外階段を降り、自転車にまたがると、湿ったアスファルトの匂いが鼻をくすぐる。昨夜見た夢が頭から離れない。清彦は復員してきて、実家の玄関の前で足を止められていた。家に入れてもらえなくても、彼は不思議と怒るでもなく、穏やかな顔をしていた。夢の中の光景がやけに鮮明で、頭の中に残像のように漂っている。
ペダルを踏み出し、聖母坂を下りる。坂道の途中、通学の小学生の列とすれ違い、自転車のハンドルを少し切る。新宿区立落合第四小学校の校庭から、朝のチャイムが鳴り響いてきた。子どもの声のざわめきに紛れて、蓮はふと考える。どうして清彦は、家に入れなくてもあんなに落ち着いていられたのだろう。自分だったらきっと焦ったり、不満をぶつけたりするはずなのに。
山手通りに出る。車の流れはもう忙しない。ヘルメットをかぶったロードバイクの社会人が脇をすり抜けていく。蓮はスピードを緩め、大久保方面へと曲がった。目白通りに差しかかると、コンビニから出てきたサラリーマンが慌ただしくスマホを覗いている。どの人の顔にもそれぞれの予定と不安が張り付いていて、清彦のあの穏やかさとは正反対に思えた。
「穏やかさ」とは何なのだろうか。諦めか、達観か、それとも……。軍服姿のまま、静かに家を見守る清彦の姿を思い出す。あれは敗戦をくぐり抜けた兵士だからこそ持てる余裕なのか。それとも、死者だからこその距離感なのか。ペダルを踏みながら、答えの出ない問いが頭の中を巡る。
神田川沿いの道に入ると、少し風が軽くなる。川面に映る朝の光が、まだ眠気を抱えた瞼を刺激した。ここからは早稲田のキャンパスまで一本だ。桜並木の葉は濃く茂り、初夏の青さを強調している。対向車線を行く学生らしき自転車の列は、誰もがイヤホンを耳に差し込み、視線をスマホに落としたまま漕いでいる。
蓮はスマホを取り出すこともなく、ただペダルを踏む。清彦が「家に入れないこと」を苦とも思わず受け止めていたのは、たぶん「自分の居場所はそこじゃない」と分かっていたからかもしれない、とふと思う。居場所を無理に求めず、ただ傍に立つ。それは弱さではなく、むしろ強さなのではないか。そんな風に考えながらも、やはり自分にはまだ早い気もする。
早稲田通りに入り、正門前の学生でごった返す交差点に差し掛かる。講義に遅れそうな者、友達と笑い合いながら歩く者、みなそれぞれの世界を抱えている。蓮はブレーキをかけ、自転車を押しながら校門をくぐった。夢の余韻はまだ消えず、清彦の穏やかな横顔だけが胸の奥で反芻され続けていた。いや、そもそも、あの夢に出てきた親族一同や戦友達、報われなさすぎだろ。清彦だけが報われなかったわけじゃない。清司爺ちゃんも春江婆ちゃんも、・・・名前わかんねえわ、ひいひい爺ちゃん、ひいひい婆ちゃん、誰かいい思いしてたか? ずっと清司爺ちゃん、春江婆ちゃんのこと好きだったみたいけど、幸せそうじゃなかったぞ。あの、佐久間って人も、誰一人いい目にあってない。
ってか、何のためにビルマくんだりまで行ってたんだ? まあ、彦爺こそ、膝撃たれてたけど、夢の中で死んでた人、皆んなマラリアか餓死だったろ? あ、多分あの司令の少将の人と最期だけはシブかった腰巾着の人は、ピストルで、自、殺って言っちゃいけないんだよね、自決してたなあ。
何しに行ってたんだ?
蓮は正門の前から自転車を降り、駐輪場に自転車を止めに行く間も、一講目のマクロ経済の教室に入って教授を待つ間も、ずっとそんな事を考えていた。篠原絢美とすれ違ったが、絢美こそ気まずそうに顔を逸らしていたが、蓮ときた日にゃ自分の思考に潜り込んでいて、絢美が足を引きずっていたことも含め気がつくことがなかった。まあ、連にしたって気がついていたなら、ほぼパニックに陥るくらい取り乱しただろう。
今日のマクロ経済学は、LM曲線の導出だった。貨幣需要と貨幣供給の関係をグラフで描き、利子率が下がれば人々は貨幣を持ちたがるから投資に回らない、逆に利子率が上がると債券を買う方にシフトする……と教授は何度も強調していた。板書を写しながら、それなりに筋は追えた気がするのだが、「じゃあ現実の俺たちがどのくらい現金を持つかって、こんな数式で説明できるのか?」という引っかかりが残る。式の形は分かっても、生活実感とはどうも結びつかない。金融政策でマネーサプライが増えるとLM曲線が右にシフトする、という説明も「そういうもの」として覚えるしかなさそうだ。理解したというより、ただ納得したフリをしている感覚。
なんだかなぁ、と、思いながらも、そんなもんか、とかとも思ったり。そんなことより、ビルマの問題だ。こんな事言うのもなんだが、特攻隊を犬死みたいに言う人がいて、それに対して烈火の如く反論する人もいる。でも、特攻隊は戦争に行って戦争で死んだ感じがまだするだけ、犬死度はマシな気がする。ろくに戦争らしいこともほとんどやらずに、マラリアやら飢え死にやら、挙句それに対して責任とって、なんだろうか、自決やら、なんなんだったんだ?
商学部の学生としてはLM曲線をもっと理解するようにしなくてはいけないのだろうが、朝から、昨日からずっと、ビルマ戦線の事が頭から離れない。なぜ、あんなところまで出掛けて行って死にそうになったり死んだりしてたんだ? 清彦の表情以前にその事を知らねば、と取りつかれた。
蓮は図書館の静まり返った一角で、厚い戦史の本を開いた。ページをめくる音が、あたりに小さく響く。見開きには、濃い緑のジャングルが描かれた地図。ビルマ。聞いたことはあるが、正確な位置は頭に浮かばない。地図の上で指を這わせる。タイの北部、インドの東、そして南シナ海へと続く。道なき道、密林の奥へと、戦争は押し進められた。
「ここか…」蓮は小声で呟く。列車の線路も、舗装された道路もほとんどなく、河が主要な移動経路だったらしい。水運の重要性、ジャングルの湿気、蚊の群れ、熱帯の雨、すべてが兵士を消耗させる。写真の中の兵士たちは、泥まみれで、荷物を背負い、川を渡る。蓮は息を呑む。戦争の地図だけではなく、環境そのものが敵だった。
さらにページをめくる。年表が目に入る。1942年、日本軍はビルマを南から北へ侵攻した。戦略としては、イギリス植民地への圧力と、中国大陸への補給路確保が狙いだという。蓮は鉛筆で指をなぞる。マンダレー、ラングーン、アウンサンマーケット……聞き慣れない地名が続く。次々に都市や村、川が書かれ、侵攻の経路を示している。密林の間を縫うように進軍したことが、一目でわかる。
戦線は長く、補給が困難だったらしい。蓮はメモを取る。食糧も水も足りず、病気が蔓延し、疲労で倒れる兵士も多かった。敵の砲火だけでなく、ジャングルの湿気、熱、マラリア、毒蛇、食料不足…想像するだけで息が詰まる。ページの端に小さく書かれた数字や統計は、数字としてではなく、苦しみの実感として蓮の頭に入ってくる。
航空戦や補給線の破壊、激しい雨季による河の増水も目に入る。道路が寸断され、進軍が止まる。兵士たちは泥に足を取られ、川に流され、病床に伏す。戦略や計画だけでは片付けられない、人間の苦悩が書かれている。蓮は背筋を伸ばし、改めてページを見つめる。戦争とは、地図上の線や作戦だけでなく、自然や環境と絶えず闘うことでもあったのだ。
「なるほど…」蓮は声にならない声で言う。少しずつ、戦線の全体像が頭に浮かんでくる。南から北へ、湿地と密林を越え、川を渡り、都市を取り囲む長大な線。補給が途絶え、病気と戦い、敵と戦う。地図の中の点は、ただの場所ではなく、苦しむ人々の現場でもある。
蓮はページを閉じ、深く息をつく。文字や図だけではなく、環境、地形、距離、気候……それらが一つに重なって、戦争の姿を形作っていることが、初めて少しわかった気がした。手元のノートに、地名と線を丁寧に書き写す。理解はまだ浅いが、確実に、頭の中で戦線の道筋が見え始めていた。
まぁ、経過はそうだとして、なぜ日本軍はあんなところに手を出したのだろう?
日本軍がビルマに進出した大きな目的は三つあった。第一に、当時ビルマを植民地支配していたイギリス軍を撃退し、英領インドへと圧力をかけること。第二に、中国へ送られる援蒋ルートの遮断である。ビルマ経由で供給される軍需物資や支援が止まれば、長期にわたる日中戦争での中国の抵抗力を削ぐことができる。第三に、資源確保の観点からも、南方作戦の一環としてビルマを押さえることには大きな意味があった。蓮はその記述を追いながら、「アジア解放」という耳触りのいい言葉よりも、現実の軍事的・経済的な打算のほうがはるかに前面にあったのだと理解した。
行動は1942年初頭に始まる。日本軍はタイを経由し、ビルマへの侵攻を開始した。山岳地帯や密林を抜ける進軍は過酷を極めたが、当時のイギリス軍は戦力を十分に整えておらず、日本軍は驚異的な速さで首都ラングーンを攻略する。ラングーン陥落は、ビルマ戦線の転機として強調されていた。港を押さえたことにより、援蒋ルートの遮断はほぼ現実のものとなり、中国への物資輸送は大きな打撃を受ける。その意味で、日本軍は当初の目的を短期的には見事に達成したかに見えた。
蓮はページをめくりながら、その「達成感」が一時的な幻にすぎなかったことを直感する。作戦序盤の成功の陰で、補給の問題はすでに兆候を見せていた。長大な補給路、未整備の道路、急造の兵站体制――勝利の報が届く裏側で、すでに次なる苦境の芽が育ち始めていたのだ。
読み進めていくと、日本軍の成功は長くは続かなかったことがはっきりと分かる。ラングーンを攻略した時点で勝敗は決したかのように見えたが、実際にはそこからが本当の試練だった。そもそもビルマという土地は、広大なジャングルと山岳地帯に覆われ、近代的な道路や鉄道は限られていた。物資の補給には膨大な労力が必要で、港を押さえても内陸にまで行き渡らせる術が十分ではなかった。つまり、勝利を確定づけるための兵站線が最初から脆弱だったのだ。
さらに、英印軍は体勢を立て直し、インド東北部から反撃の準備を進めていた。日本軍は勢いに任せてさらに奥地へ進軍しようとしたが、それは補給線を無理に引き延ばす行為にほかならない。輸送トラックはぬかるみに足を取られ、荷駄を担ぐ兵士たちは飢えと病に苦しんだ。マラリアや赤痢といった熱帯特有の病が兵士を次々に倒し、戦闘に参加できる兵力は急速に減少していく。
蓮は資料に並ぶ数字や証言を目で追いながら、戦術的な勝利と戦略的な失敗の落差に衝撃を受けた。短期的に目的を果たしたはずの作戦が、兵站の欠如によってじわじわと崩れていく。その姿は、勝利を急いだがゆえに自滅へと向かった悲劇にしか見えなかった。ページをめくる手を止めた蓮は、声にならないため息をつきながら思った。「勝つことより、持ちこたえることのほうが、どれだけ難しかったのだろう」と。
やがて蓮は「インパール」という地名に行き当たった。資料の中では、ビルマ戦線における最大の作戦、そして最大の悲劇と記されていた。インパールはインド東北部の山間にある都市で、そこを攻略すれば英印軍の補給拠点を断ち、ビルマ全体の戦況を日本軍に有利にできる──そのように計算されていたという。目的は明快で、一撃で戦局を逆転させる夢のような作戦だった。
しかし、蓮が目を凝らすほど、その無謀さが浮かび上がった。インパールへの道は、アラカン山脈を越える険しいジャングル地帯で、まともな道路はなく、補給の見通しは最初から絶望的だった。にもかかわらず、日本軍は「現地で調達できる」「敵の物資を奪えばよい」といった根拠の乏しい見込みに頼り、膨大な兵力を送り込んだ。結果、補給はまるで機能せず、兵士たちは飢餓と病に追い詰められていった。
資料には、生き残った兵士の証言がいくつも並んでいた。餓死を避けるために木の根や草を食べ、衰弱の果てに動けなくなった仲間を置き去りにするしかなかったこと。マラリアや赤痢が広がり、銃を撃つ前に部隊が壊滅していったこと。戦闘よりも飢えと病に殺された兵士の数が圧倒的に多かったこと。蓮はページを追う手を止め、しばし視線を宙に漂わせた。戦争映画で見たような「激しい戦闘」よりも、もっと静かで、しかしはるかに苛烈な死の連鎖が、そこにはあった。
結局、インパール作戦は何一つ成果を得られぬまま撤退となり、日本軍は二十万を超える兵を投入し、その半数近くを失ったという。蓮の胸の内に、重苦しいものが沈んでいった。清彦も、春江も、清司も──自分の親族たちが関わった戦場とは、こういう現実だったのか。戦って散ったというより、支えを失い、立つ場所すら奪われて消えていった。そんな無念の空気がページの隙間から立ちのぼるように感じられた。
「勝利を夢見て突っ込んだはずが、結局は兵士を殺すための道だったのか」──蓮はそう呟きながら本を閉じ、胸の奥で答えのない問いを繰り返していた。
ビルマ戦線での日本軍の目的は単純に「現地を支配すること」ではなく、もっと広く「戦争の主導権を握ること」と「連合軍の補給線を断つこと」にあったんもではないか。けれど、現場で実際に起こったことを見ると、それがどれほど達成できたのかは疑問だ。戦争が進むにつれて、補給は途絶え、病気や飢えに苦しむ兵士が増え、結局、戦果よりも犠牲のほうが大きくなったように見える。
あの戦線で日本軍が抱えていた目標と、現実との間には大きなギャップがあったんじゃないかと思える。理想として掲げられた戦略や目的はあったかもしれないが、個々の兵士の視点からすれば、ただ生き延びることが精一杯の現実だったのではないだろう。
日本軍の目的は単純だった。連合軍の補給線を絶ち、インドへの進撃を目指すことでアジアでの戦略的優位を確立することだったのだろう。だが現実は、目的に比べて成し遂げた段落もそう言っていた。
夢の中のあの戦線は兵站が完全に崩壊してた。前線まで物資が届かず、食糧も弾薬もろくにない状態で兵士はひたすら死線をさまよっていた。戦略的には見込み、どう見間違えたかあると判断してしまったのだろう。それにしても、現場は常に飢えと疲労に苛まれ、勝利どころか生き延びることすら奇跡だったことだろう。
目的と現実の差はあまりに大きく、無理な進軍計画が悲劇を生んだだけだったのだろう。結局、ビルマ戦線での日本軍の戦果は限定的で、前線の兵士たちが背負った苦難だけが歴史に刻まれたにちがいない。
日本軍のほとんどの作戦立案から進行まで正しいことは存在しないように思えた。それが本当ならば、日本国民や、何より当時今よりもっと強烈に信仰していた天皇陛下に対する背信ではなかったか? そうは考えなかったのか?
図書館の静かなところにいながら、にわかに動悸が上がるような感覚があった。
あらかじめ書架から選び抜き取ってきた本の中に、『ビルマ戦線を生きた兵士たち ― 証言から読み直す戦争体験』というものがあった。編者はこの大学の教授のようだった。
パラパラと書き出しの所を読んでみる。
『本書は1970年代に本学の上條巌教授が行ったビルマ戦線従軍者へのインタビュー記録(未刊行部分を含む)を再編集し、現代の戦争史研究の視点から再検討したものである。』とある。
『従来は「補給の失敗による悲惨な戦場」という一般論で語られがちだったが、証言を精査すると、兵士たちの認識は「敗戦の中で、いかに人間らしくあろうとしたか」に集中していたことが明らかになった。』
『「戦った」というよりも「耐えた」という表現が繰り返され、食糧・薬・仲間の存在が「生きる意味」そのものになっていた。』
耐えることが戦場ですることだったのか。印象に残ったのは、多くの証言者が「何のために戦ったのか分からない」と語りながらも、「帰れなかった者に恥じないように生きる」という言葉で体験を結んでいる点である、と言うあたりのくだりだ。
編者・・・えっと、文学部史学科の成瀬正人教授、な。ノートの片隅にメモしておく。成瀬教授は、これを「戦争目的の空虚さと、個人としての生の尊厳の両立」と捉え、ビルマ戦線を「敗戦体験を通じた人間の生存倫理」の典型と位置付けている。
正直、この時にはもう、おとといの晩の自分の失恋など取るに足りないような気がしていた。しかし、それでもあの時の自分の取り乱しようを思うと、夢の中の、曾祖父清彦のあの穏やかさの理由がわからない。理解のヒント、成瀬教授に話を聞いたら少しは分かることが出来るのだろうか。
図書館を出たら、もう昼休みが終わりに近づく時間だった。ベンチに腰掛けて読書で張り詰めた脳みそを緩めていると、離れたところを篠原絢美が歩いているのが見えた。脚を引きずってるようだ。表情も何となく憂鬱気だ。蓮には気がついていない。
あぁ、彦爺の呪い、効いてるんだなぁ。お気の毒に、と、もはや他人事だ。
昨年、入学した蓮には、当時目の前を通り過ぎた絢美の颯爽と歩いていく姿が強烈に刻まれた。美少女から美女に移ろいゆく正にその途上、そう、カワイイというよりは美人タイプで、心をわしづかみにされたのだ。
何とかお近づきになり、告白、何度かデートをし、キスまでいった。
浮気とか二股かけるとかするタイプだとは思わなかった。それともキスくらい、彼女にとっては挨拶見たいものなんだろうか? 自分の独り相撲だった? うわぁ、それだったらイタすぎるなぁ・・・。
思わず、「都会はなぁ、都会ん女の子は、こわかばい〜」という熊本弁が出てしまった。
えっと、午後の3コマ目は、あ、一般教養の社会学か。だるいな。
大あくびが出てしまった。
2025年9月16日火曜日
「贈与」に至る / 糸口を探す 3 アンパンマンとアセファル
うっかりしていたが、アンパンマンはアセファルそのものなんじゃないか、と、ふと思い立った。等と書いたところで、バタイユ、誰それ?な方々には、ましてアセファルなどと言うものがなんであるかご存じないだろう。
上手く伝わるかわからないが、ざっと説明すると、 バタイユが「アセファル」と名付けてつくった秘密結社は、実際に1936年から1939年ごろまで活動していた。結構史料も断片的で、想像力で補わなくてはいけない部分も多い気がするが、大事なのは、そう言う材料で今のオレが何を考えるか、と割り切ることにする。
設立者は、書いてのとおり、ジョルジュ・バタイユ。活動時期は、936年頃〜第二次世界大戦直前ごろとされる。まぁ、かなり短い期間だったみたいだ。
メンバーとしては、作家で思想家のピエール・クロソウスキー(作家・思想家)、社会学者のロジェ・カイヨワ(社会学者)、哲学者ジャン・ピエール・デュポワなどがいたそうな。すまん。この中では、不勉強故ジャン・ピエール・デュポワの名前しか聞いたことがない。ほかにもぼちぼちいたようだ。
目的・理念みたいなものはなんだったか? ナチズムやスターリニズムといった全体主義が台頭する中、国家や理性中心主義に依存しない共同体を模索するというのが旨だったらしい。 「頭(理性・権威)を持たない人間=アセファル」を象徴とし、死・犠牲・聖性・生のエネルギーを直視できる共同体を目指した。バタイユは「人は神を殺した(ニーチェ)が、まだ国家や理性の偶像に囚われている」と考え、その外に出る実験をしていたようだ。
実際の活動としては、定期的な集会を開くとかね。森などでの儀式的な集まりもあったとのこと。バタイユが描いた「アセファル像」(首を持たず、心臓に太陽を抱えた人間)のイメージをシンボルとして掲げた。文献的な研究というよりも、共同体的・儀式的な実践を重んじた。
「人間は死と犠牲の中でしか本当に生を感じられない」という思想を共有。
バタイユは本気で「人間の生贄の儀式」をやろうとしていた、と伝えられているから、物々しい。実際にメンバーから「自分が犠牲になってもよい」と申し出る者もいるような、変態さんたちの集まりだった。もっとも最終的には実行されなかったって、そりゃそうだよね。やってたら後世に猟奇カルトとして名をはせることになってただろう。現実的な限界と倫理的な抵抗があった。当然ながら。
結社自体は短期間で消滅したが、その精神はバタイユの著作や思想的ネットワークに受け継がれたとされる。
一言で言うなら、理性や国家を超えて、死と犠牲を真正面から受け止める共同体をつくろうとした、半ば実験的・儀式的な秘密結社だった。
そもそもアセファルとは、ジョルジュ・バタイユが考えた「人間のあり方の象徴」だ。「頭がない人間」という字義どおりのイメージから出発している。繰り返すが、頭は、理性、秩序、権威、国家の象徴であり、従って「頭がない」とは、そういうものから自由になった存在であるとする。
理性や秩序を超えた、人間の本能や生の力を表す。「考えるな、感じろ」って、ブルース・リーみたいなことをおっしゃる。計算ではなく、衝動や欲望や犠牲のエネルギーこそが大事なのだ。
それは、死や犠牲と切り離せない存在だ。人は生きるために食べ、他者に与えるために自らを削る。その「生と死の混ざり合い」を直視する姿こそがこの活動の肝となる。
つまりアセファルは、「理性や社会のルールの外側で、もっとむき出しの生と死を生きている人間像」とでも言えばいいか?怖さもあるけど、逆に人間の本当の力を示しているとも言える。
んで、なんで、アンパンマンはアセファルなのか、だが、まぁ、何となくわかっていただけるか?
アセファルは「頭をもたない人間」として、理性・秩序・国家的権威から切断された存在を意味した。アンパンマンもまた「顔(頭部)」が取り替え可能であり、頭は自己同一性の中心ではなく、むしろ欠落・交換・犠牲の場だ。
アンパンマンは自分の顔(=パン)をちぎって飢えた人に与える。これはまさにバタイユ的な「贈与=浪費=犠牲」の論理そのもの。経済合理性に還元できない純粋な贈与であり、消費されることで彼自身は力を失っていく。
子どもたちのヒーローとして秩序を守る一方、自分の頭が交換可能であることによって、人格やアイデンティティの一貫性を欠いている。つまり、秩序の守護者でありつつ、アセファル的な「首なし=逸脱性」も内包する。言い換えるならば共同体の中心でありながら、外部性を孕む。
顔=食べ物=死と生の往還と捉えてみる。バタイユがアセファルを通じて「死と生の根源的な関係」を問題にしたのと同じく、アンパンマンは「自分の死=消耗」と「他者の生=栄養」を同時に体現する存在だ。
要するに、アンパンマンは「秩序を守る子ども向けヒーロー」の皮をかぶった、かなりラディカルなアセファル的存在、とも言えるんじゃなかろうか?
そう考えると、初期のアンパンマンが子供たちに受け入れられなかったこともなんとなく理解できる。やなせたかし氏の初期アンパンマンって、今みんなが知っている「正義の味方」像とはずいぶん違っていた。顔をちぎって人にあげることは、そのまま自己犠牲の象徴なんだがそれはどういうことか?ヒーローっぽい勧善懲悪ではなく、ただ「飢えた人を助ける」だけ。だから敵を倒すカタルシスよりも、むしろ「自分を削る痛々しさ」が前面に出ていた。
これは、バタイユ的に言えば、消費や浪費の恐怖を直視させるものだ。子供が直感的にそこに「不気味さ」を感じてもおかしくない。アンパンマンは「与える=死ぬ」という無意識の構造を背負っているから、単純に「かっこいい!」「強い!」という安心感にはならないのだ、決して。まぁ、時代が進むにつれてアニメ化され、デザインが丸くなり、バイキンマンとの勧善懲悪の枠組みに乗せられた。すると、怖さやアセファル性が子どもに直接届かなくなり、むしろ「わかりやすい正義の味方」として受け入れられるようになったんだが。
要するに、初期の拒否反応は、アンパンマンの「アセファル的な不気味さ」に対する自然な反応とも読める。
しかし、後にどう変容しようと、初期のものがあるからアンパンマンだと思う。
後期の「正義の味方・アンパンマン」って、もちろん大衆的な支持を得て国民的ヒーローになったけど、それだけだと単なる子ども向けキャラで終わっていたかもしれぬ。でも、初期のアンパンマンが持っていた「自己犠牲=食と死の循環」の不気味さがあるからこそ、作品全体に独特の深みが宿っている。
言い換えるならば、初期のアンパンマンは「アセファル的な核」であり、後期のアンパンマンは「社会に受け入れられるための表層」だった。
両者が重なっているからこそ、「ただのキャラ」じゃなくて「時代を超えて生き残る存在」になっているんじゃないか、と。
つまり、いくら勧善懲悪に馴化されても、底には「自分を削って他者に与える」っていうラディカルな贈与の論理が流れている。だから、どの時代のアンパンマンを見ても、子どもたちは無意識にそこを感じ取ってるんだと思う。
バタイユが「アセファル」に込めたのは、秩序や理性から切り離された、もっと原始的で、恐ろしくも人間らしい核だった。アンパンマンの初期像は、まさにその核が子供向けキャラクターの皮膚から透けてしまっていたもの、と読める。
アンパンマンは実際に「自分をちぎって他者に与える」という“擬似的な生贄”を日常的にやっているわけで、バタイユが夢見た共同体的な儀式を、子ども向けアニメが無意識に実装している、という対比になる。
もうね、やなせたかし氏、バタイユ読んでたんじゃないかと思うほど。もちろん史実的に「やなせたかしがバタイユを読んでいた」という証拠は見つかってないが、両者の発想には不気味なほどの共鳴点がある。
共鳴するポイントとして、まず、言うまでもなく、自己犠牲=贈与がある。バタイユは、「生は浪費されることで聖性に触れる」とし、やなせ氏は「正義とは他人のために自分を犠牲にすること」とした。
食べる/食べられるの循環は大事なポイントだ。バタイユの主張での犠牲祭儀における「食と死の共同体」は、アンパンマンの自分の顔(パン)を与えて他者が生き延びることにそのまま当てはまる。
理性よりも“むき出しの生”というか、理性というものの二の次観、ぱねぇ。アセファルつまり、頭を欠いた人間なんて、理性のひとかけらも観られないが、アンパンマンは、顔(頭部)は常に交換され、同一性の中心ではない者としてそれを再現する。
共同体はどうだろう?バタイユにおいては死と犠牲を共有する小さな結社だったが、アンパンマンではパンを与えることで共同体=仲間がつながる、という形になる。
やなせ氏は戦中・戦後を通じて「飢え」を直に経験し、その経験がアンパンマンの原点になった、と自ら語っている。つまり彼は、理論としてではなく、生活の中で「食と死と贈与」の切実さを体感していた。だからこそ、バタイユが哲学・宗教・神話を通じて辿りついた「アセファル的直観」と、やなせの“生活から滲み出た直観”が、結果的に重なっているところが何とも面白い。
ジョルジュ・バタイユは、1897年9月10日生まれ、1962年7月8日没。やなせたかし氏は、1919年2月6日生まれ、2013年10月13日没。まぁ、朝ドラを見ての事だけど、やなせ氏、多分バタイユは読んではいないだろう。しかし、ここまでの相似を見せるのは、経済社会の形、戦争の形というのものが、極限近くに来てしまった故の必然ではないかとふと思った。
バタイユとやなせ氏、出自も立場も違うのに「自己犠牲」「死と生の循環」に同じように触れざるを得なかったのは、やはり 経済社会と戦争によって極限状況に押し出された必然とはいえはしないだろうか?
バタイユの身に降りかかったのは、ヨーロッパの危機だった。第一次大戦後の荒廃、資本主義の限界、ナチズムの台頭、等々。経済合理性や国家権力では説明できない「人間の根源的な生と死」を直視せざるを得なかった。だから、アセファル結社で全体主義にも資本主義にも回収されない「死と犠牲の共同体」を模索のだろう。社会の極限が思想を押し出した形といえる。
朝ドラを見ておられた方々には言うまでもない。やなせたかし氏の場合は、一も二もなく飢えと戦争体験がそれにあたる。一応書いておくが中国戦線に従軍、敗戦後は極度の食糧難を経験し、そのときの「一切れのパンが命を救う」という切実さがアンパンマンの発想に直結した。戦後の高度成長の中でも、「飢えや貧しさに苦しむ人がいる現実」を見続けた。だからこそ「正義=自己犠牲」という定義を揺るがさなかった。
共通する点を考えてみよう。それは、極限状況に触れた人間は、与える/犠牲になるという次元でしか他者と繋がれないという直観だろう。「合理性・秩序・経済」が極限に来ると、必ずその外に「アセファル的なもの」「アンパンマン的なもの」が現れる。
つまり両者の一致は、単なる偶然のシンクロではなく、20世紀という極限の時代が必然的に生み出した応答と見るのが自然じゃないか?
まぁ、それでも、いざ実践しようとすると、アイデンティティというものが、途端に不安定に感じられるようになってしまいそうだ。人間が「与える=犠牲になる」「生と死を直接扱う」ことに踏み込むと、アイデンティティの安定感が一気に揺らいでしまう。
いくつか、理由っぽいものを考えるならば、一つ目に、自己の境界が溶けることを挙げてみる。自分を削って他者に与えるという行為は、文字通り「自分の一部を失う」ことだ。その瞬間、自己同一性の中心が揺らぎ、頭で考える「自分らしさ」では補えなくなってしまう。
理性、秩序に依存できないという事も有り得る。バタイユ的には、理性や社会の秩序は「頭=中心」を維持するための装置だが、アセファル的行為では、頭(理性)はあてにならない。従って、自分が誰であるか、何を基準に動くかが曖昧になる。
だから共同体の規範との摩擦も起きる。周囲の期待や社会のルールは「安定したアイデンティティ」を前提にしている。無条件に与える行為や犠牲は、その枠組みを外れるため、孤独感や疎外感を伴いやすい。
逆に言うならば、この不安定さを耐え抜いた人間こそ、バタイユがいう「アセファル的人間」であり、やなせの描いたアンパンマン的存在でもある。そして、不安定さそのものが、深い生の実感=自己を超えた与える力の証明になる。
ねぇ、今度は人類補完計画?って展開にもなるのだが、エヴァの人類補完計画は、個々の人間の隔たりや孤独をなくし、全人類をひとつの存在にまとめようとする壮大な試みだった。結果として、個人のアイデンティティは溶けてしまう。
アセファル的、アンパンマン的行為というのは、個々が与える或いは犠牲になることで、他者との関係や生の深みを実感する。確かにアイデンティティは揺らぐが、完全に消えるわけではない。与えることと失うことを体験しながら、なお自分として生き続けるわけだ。
つまり、似ているのは個の境界が揺れる点ですが、決定的に違うのは「消えるかどうか」。アイデンティティが揺れる瞬間はあるけれど、完全な消失ではなく、むしろ生のリアルを知る体験となる。
2025年9月13日土曜日
2025年9月8日月曜日
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