2026年2月2日月曜日

「責任ある積極財政」という言葉が覆い隠すもの

 

「責任ある積極財政」という言葉が覆い隠すもの


  いま与党が掲げる「責任ある積極財政」という言葉には、決定的な曖昧さがある。

  それはスローガンとしての曖昧さではなく、責任と積極性という概念そのものが、政策設計の中で空洞化しているという意味での曖昧さだ。


  まず「責任」とは何か。

  誰が、何について、どのような形で責任を負うのかが示されなければ、責任という言葉は成立しない。しかし現実には、政策が失敗した場合に内閣や政権がどのような不利益を引き受けるのかは明示されていない。一方で、物価上昇や社会保障の劣化、地域サービスの消失といった形で、調整コストは国民、とりわけ貧困層や移動困難な層に直接転嫁される構造になっている。

  つまり「責任はある」が、「取る主体は政治ではない」という状態だ。


  次に「積極」とは何か。

  規模の大きさなのか、スピードなのか、対象分野なのか。どの指標で、どこまで達成すれば積極と評価されるのかが示されていない以上、この言葉は検証不能である。結果として「積極」という表現は、従来型の予算執行に「やっている感」を付与する修飾語に堕している。


  ここで問題なのは、財政出動の是非ではない。

  問題は設計思想が更新されていないことだ。

  ケインズ的財政出動が想定していたのは、人口増加と高い消費性向、国内で完結する産業構造を前提とした社会である。しかし現在の日本は、人口減少・需要の回復不能・不安による消費抑制・グローバル化による漏出という、ほぼ正反対の条件に置かれている。同じ操作を繰り返して同じ結果を期待する方が非現実的だ。


  その結果、財政出動は景気刺激ではなく、受注主体と制度を延命するための点滴として機能する。波及は元請から孫請け、給与支払いの段階で止まり、その先の生活圏には届かない。瀕死の層は平均値の中に埋没し、「回復」という言葉だけが残る。


  では政府は何をすべきなのか。

  もはや「成長させるための事業」ではなく、市場では不採算だが、社会の基礎代謝を維持するために不可欠な領域を引き受けることが政府事業の中心になるはずだ。地域インフラ、医療・教育の裾野、文化や技術の継承など、放置すれば不可逆に失われるものがそこに含まれる。


  例えば、その延長として、市場で成立しない仕事を「みなし公務員」として直接雇用するという選択肢も論理的には成り立つ。しかし日本の制度では、ここに必ずブローカーや中間搾取が入り込み、目的が雇用や維持ではなく「配分」にすり替わる。政治が嫌うのは失敗ではなく制御不能であり、官僚制が耐えられないのは例外処理と現場判断だ。結果として、効かないと分かっているが管理しやすい財政出動が選ばれ続ける。


  結局のところ、「責任ある積極財政」という言葉が示しているのは、責任を引き受ける主体を曖昧にしたまま、制度と組織を維持するという政治的選択である。

  それは再生策ではない。管理された衰退を、見えにくく進めるための言語だ。


  本当に問われるべきなのは、積極か否かではない。

  誰が、どの形で、不可逆なコストを引き受けるのか。

  その問いを正面から書かない限り、どんな財政論も現実から乖離し続ける。

9002 E-CE9A Evo.II retake

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2026年2月1日日曜日

「責任ある積極財政」に何を期待する?

   どうやら「責任ある積極財政」とはアベノミクスの言い換えではあるまいか? 
  そして、前回その恩恵を受けられたもの、政策が何とか届いた者は随分とはしゃいでいるようだが、そもそもアベノミス、じゃないアベノミクスに対する評価というのは、たまたま立っていられた立ち位置で随分違うようだ。

  財政-インセンティブを持たせて国をある方向に動かしていく、というものを、全く否定しきれるものではないが、少なくとも、今現在の我々がその言葉で思い浮かべる国のムーブというのは、ほぼ無効であると考えるべきではないか、と思っている。

  未だ信者が少なからずいるアベノミクスを例にみていく。


アベノミクスは政策として失敗だった――データから見た検証

  アベノミクスは「大胆な金融緩和」「機動的な財政出動」「成長戦略」という三本の矢を掲げ、デフレ脱却と経済成長を目標とした政策である。しかし、開始から10年余を経た現在、主要な経済指標を確認すると、その成果は極めて限定的であり、政策としては失敗だったと評価せざるを得ない。
  第一に、実質賃金の低迷である。厚生労働省の毎月勤労統計によれば、アベノミクス開始時(2012年)と比較しても、実質賃金は長期的に見てほぼ横ばい、もしくは低下傾向にあった。名目賃金は微増したものの、円安と物価上昇により購買力は改善せず、「景気回復の実感」が広がらなかった最大の要因がここにある。
  第二に、GDP成長率の停滞である。2013年以降の日本の実質GDP成長率は年平均で見ても1%前後にとどまり、持続的成長とは程遠い。特に消費税増税(2014年、2019年)の影響も重なり、個人消費は断続的に冷え込み、内需主導の成長モデルは構築されなかった。
  第三に、物価目標(2%)の未達である。日本銀行は大規模金融緩和により「2%の物価安定目標」を掲げたが、エネルギー価格高騰などの外生要因を除けば、安定的に達成されたとは言い難い。金融政策は資産価格を押し上げた一方、実体経済への波及は弱かった。
  第四に、株価と実体経済の乖離である。日経平均株価はアベノミクス期に大きく上昇したが、その恩恵は主に株式保有層や大企業に集中した。労働分配率は低下傾向にあり、企業収益の拡大が家計に十分還元されたとは言えない。この点で、株価上昇をもって政策成功とみなす評価は極めて限定的である。
  最後に、構造改革の不徹底である。成長戦略とされた規制改革や産業転換は部分的にとどまり、少子高齢化や労働市場の硬直性といった根本課題には十分対応できなかった。金融緩和に依存するあまり、経済構造そのものの刷新が後回しにされたと言える。
  以上の点から、アベノミクスは「金融市場の安定化」には一定の効果を持ったものの、国民生活の改善や持続的経済成長という本来の目的は達成できなかった。政策としては、成功ではなく失敗として総括されるべきである。


  そして状況的に、それを運用しようとしているメンツが変わっていない事、他取り巻く状況、何も変わらず、ここで「積極財政」とやらを持ち出したところで、しばしの中断の後の、以前に逆戻り、それが届いたものは潤うが、前回届かなかった者は、10年の悪夢がさらに続行することだろう。失われた30年が40年になってしまう事だろう。

  とはいえ、野党がこれを何とかできる保証はまるでない。自民党政権の続行がy=-nXの下下がりの直線を描くとして、野党では全く動きが読めない。xのマイナスn乗の垂れた線を描くかもしれないし。変な波型を描くかもしれない。y=-nxにしたところで、この世の事象でそのような線を描くものは、あるところで勾配を急にした垂れた曲線に変わるものだ。つまり、どのみち「安定的に改善する線」は、どこにも見当たらない、ということだ。

  野党には任せられないから、と言うので自民党に投票する分にはそうであろう、自分には分け前が回ってくる目途が立っていて自分と周辺だけが儲かればいいという料簡ならそれもそれ。が「積極財政」で国がよくなるなど期待して投票したところで、かなりの確率でそれは裏切られるように思われる。


  それでも株価には効くから、という話をしようとして、これが先に来てしまった。しかし、株価優先の政治がどんなものであるか? 次回。

8987 秋元ともみ _8

 

8987 秋元ともみ _8