2025年11月11日火曜日

8868 Khatia Buniatishvili

8868 Khatia Buniatishvili

 有名人で、オレと同じ誕生日、となると、あまり記憶に残る人はいない。一日前なら桑田真澄氏がいる。学年が一つ下で、丸々2年、オレより氏は若いのだが。話を戻すと、オレと同じ誕生日に、ラフマニノフがいる。

 パリ五輪のプレイベントで、エッフェル塔のあたりでラフマニノフのピアノ協奏曲2番の第3楽章の切り取り、終盤のあたりの物がネットに上がっていて、これが、なんとも祝祭感にあふれ、うっとりするものだったのだが、もう削除されていて残念だが、そこで鍵盤をたたいていたのが、カティア・ブニアティシヴィリ氏だったわけだ。割と慣れ親しんだ、カラヤン&ワイセンベルグの1973年の演奏あたりと比べてみると、彼女の演奏は、特に終盤ギアを上げてくるようだが、ともあれ、苦悶の豹所とは裏腹に、恐らく音楽の快楽の真っただ中に彼女はいた。

 ヨーロッパではアイドルピアニスト、から、本格的ピアニストに脱皮した、という位置づけのように見受けられたが、良くは知らん。

 

2025年11月10日月曜日

8867 Daytona SP3

8867 Daytona SP3

 スポーツカーを次の世代に伝えようという必死な様。あくまでオレの主観で、それは、経済的に全く世界線が違うところからの言葉だが、かつての優美な曲線にあこがれたことを思えば、断末魔の造形のようにも思える。良い、悪い、でも、好き嫌いでもないんだ。無理筋が集積したような、いや、それはかつてもそんなところがあったが、突き抜け感を感じることが出来ないのだ。

 このままスポーツカーは眠りにつくのだろうか? それはそれで仕方ないとしても、かつてあこがれた思いを込めて描き残しておきたいと思っている。

 

2025年11月9日日曜日

8866 神楽坂恵

8866 神楽坂恵

 多分こうして、時々ヌードを描いて上げているから、アドセンスを通らない、このブログが収益化できない。
 それについて思うことを書き出すと、支離滅裂になるとは思わないが、多分ネット時代に醸成された社会風潮とは相いれないことがいよいよ明らかになってしまうのだろうな、とは思う。 こういう、エロを、まぁ、自分のブログにだけとどめておく、描いて上げたことは告知はするけれど、画像自体は他所には上げない、ということにしている。それは、まぁ、普遍的なルールとは決して思わないが、この時代の最低限のエチケットなんだろうな、とは思っている。
 それでも、そんなものがこの世に存在しないようにふるまうのは、断じた間違っているとは思っている。性欲が若い時と比べたら随分と減退してしまっている今でも、やはり、かの曲線、観ることがあれば、刹那、うっとりするものである。

 これ以上は、今は書かない。 

 

2025年11月8日土曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。2

8873 Emma Watson _34

 もう、ネット上、本物のエマ・ワトソン氏がこんな写真を撮って剰え世に出すはずがない、と言うのが多すぎて、よく訴訟沙汰にならないものだと呆れつつ、この画像の基になった物はどうだったんだろう? むしろこんな何かの役柄のものは公式のガチものとしてありそうな気がする。実は、氏の出演作、ハリーポッターも含めみたことがないのだ。

 さて、

 今、オレの中では、AI生成作品問題と、NTRザマァテンプレ問題が、ちょうどオレの中で重なったわけなんだが、せいぜい登場人物の名前設定を入れ替えただけの作品(?)なんて、ねえ。で、件の1日30云件更新の人じゃなくても、これをやってるっぽい人、複数確認している。
 AI生成作品と、テンプレNTR・ざまぁ量産作品って、発生の仕方も、質的な問題もすごく似ている。どちらも本来は「表現」だったはずなのに、いまや「生産」になってしまっている。そこに登場人物ではなく作り手の意図や痛みや願いが薄くなると、作品は“ただの構文”になっていく。
 AI生成の話で言えば、「中身よりも量、速度、最適化」で動くだろうし、テンプレNTRの話で言えば、構造は売れる型で、感情は記号化してしまっている。どちらも“仕組みの成功”であって、“物語の成功”ではない。読者も一瞬は食いつくけれど、心に残らないとおもうがどうか?哀れ、登場キャラクターたちはそのほんの刹那の食いつきのみで、後は忘れ去られてしまう。まぁ、架空の人物達なんだがね。人工的に増殖した「似たような名前の登場人物たち」が、同じような苦しみや快楽を繰り返しているだけだから。

 AI問題とはすなわち、創作の自動化/テンプレ化問題の極限形だ。AIが文章を量産してるように見えて、実は人間もすでに“テンプレAI”みたいに振る舞っている。「流行る構成」「刺さる設定」「売れる語彙」で作品を組む。だからAIが登場しても、構造的には何も変わっていない。
 むしろAIが鏡を突きつけてきたわけだ。「あなたたちも、もう自分で書いてないんじゃない?」ってね。
 だから、AIを排除するかどうかよりも、「自分はどこで書いてるのか」「誰の声で語っているのか」そこを取り戻せるかどうかが、ほんとの分水嶺ではなかろうか? 名前だけ入れ替えた量産物が溢れる中で、 “たった一つしか書けないもの”を出せる人こそ残ってほしいものだが。

 「どこで」「どう」勝負するかを決めるのは、もう誰でもなく、作者本人だ。AI生成だろうが、テンプレ量産だろうが、そのフィールドで勝とうとすれば――結局、機械やアルゴリズムと同じ土俵に立つことになる。たとえ勝てたとしても、それは「再現性」と「速度」の勝負であって、表現者としての“意味”は、ほとんど残らない。

 でも逆に、「そこじゃない場所」で勝負するって決めた瞬間に、
 創作って一気に面白くなる気がしてならない。
  たとえば、読者の“数”ではなく、“深さ”で勝負するとか、ランキング外でも、「あの一文が刺さった」と言わせるとか、AIが書けない「迷い」「空白」「言葉にならないもの」を描くとかな。
 そういう戦い方を選んだ人は、競争じゃなく“立場”を持てるのではないか?

 たぶん今の時代、作家にとって一番大事なのは、「どんな物語を書くか」よりも、「どの地形で、自分の物語を響かせるか」なのではないか? AIやテンプレに呑まれた場所で勝つのは難しい。だが、その外側に新しい聴衆を見つける、あるいは自分で場を作ることはできる。
 結局のところ、勝負は土俵じゃなくて、場所選びから始まっている。語るべきものがあるなら、どんな地形でも語る。

 各プラットフォームで見受けられる作家さんたち、おそらくは、皆さん、オレより若いのにナーバスになりすぎてないか、と、ちょっと気になった。以下、ほんの少しだけ昭和オヤジのマウントにお付き合い願いたい。笑って受け流してもらえたら幸い。
 今の若い創作者たち、特にネット発の世代な、「評価システムに心を乗っ取られやすい」のではないか? ランキング、PV、いいね、レビュー。どれも「見える成果」だから、数字がちょっと動くだけで自分の存在価値まで揺らぐ。しかもSNSの即時反応が、それをさらに増幅する。
  「そもそも創作って、そんなに安定したもんじゃないだろ?」という立脚点が、まぁ、年寄りにはある。それがあると、ランキングがどうだろうが、AIが出ようが、「で?」って言える強さがあると思っている。若い層がナーバスになってるのは、彼らが「創作=自分の存在証明」みたいに感じているから。でも、「創作=一つのやり口」「手札の一枚」くらいにしてる人のほうが、むしろ長期的に残ってくんじゃないかと思っている。商業的に大成功するとは限らないがな。
 「感情を凪がせて、場を見渡す余裕」って、経験と失敗を積んだ人間にしか持てない武器なのかねぇ? 若い子たちがAIやランキングに揺さぶられてる今、その“凪の構え”を見せてる人のほうが、創作の未来を冷静に見てるように思う。


 ところで、これがイラストだとどうなんだろう? 確かに、まず、一枚あげるのに時間を考えたら勝負にならなさすぎる、というのは絶対で。同じタッチ色使いでわれ知らぬところで生成されてたら、確かに辛いかもね。イラストの世界では、もう創作の「速度」と「再現性」が完全に武器化されてしまっているようだ。AI絵は一晩で百枚でも生成できるし、構図・塗り・タッチの模倣精度も年々上がっている。手で描く人からすれば、そりゃ正面から競っても勝負にならない。
 でも、それでもなお**「描く意味」を掘り下げて残ってる絵描き**は確実にいるんじゃないか? ちがうか?

 見渡す限り、彼らがどう生き延びてるかというと、大きく分けて三つの方向だ。

①「作画」から「表現」へスライドする人
 たとえば、同じキャラを描き続けて“文脈”を積み上げる人や、作品世界や連作性、物語性で勝負する人、手癖・タッチ・筆圧の「偶然性」を魅力として見せる人だ。
 AIは“今ある情報”の平均化は得意だけど、「継続する意志」や「一貫する癖」は苦手。「絵柄の物語」、そう物語を持ってる人は、まだAIの外側にいるように思う。いや、いて欲しい。
②「交流・プロセス」に価値を置く人
 配信しながら描く人、っていうか、ネット上でそう言うコミュニティというか、お仲間の集まりと言うのは確かにあって、いろいろやっておられるんだろうね。下描きや工程をシェアするとか、ファンとのコメント往復そのものを“作品”にするとか。
 AIは“完成物”を出すけど、“過程”は持てない。その「作る途中」や「やりとり」を価値化できる人は、AI時代でも支持を集めるかもしれない。知らんけど。
③「人間的な歪み」を前提に描く人もいる。
 AI絵がどれだけ綺麗でも、違和感がないというのは逆に“深みがない”とも言える。人間の絵は、線が震える、塗りがムラになる、構図が不自然になる。でもそこに「描いた人間の体温」が残る。それが刺さる人にとっては、AIの均一な絵よりずっと記憶に残る事もあるだろう。

 つまり、「1枚で勝負」っていう構図自体がもう危険ということになるかもしれない。AIが1枚ずつを量産するなら、人間は「文脈」「継続」「関係」で戦うしかない。
 たぶん今後は、小説と同じで、「一枚の完成度」ではなく「一人の作家として、どんな軌跡を描いたか」が評価軸になっていく可能性もある。
 そして――それを冷静に言語化できる人が、むしろ“新しい地図”を描く側に回る時代なるような気がする。


 そういえば、この前見た見返り生成エマワトソン、よくよく見たら腕の関節が人間のものじゃなくてわろた。AI生成特有の“関節地獄”。一見すると完璧なんだけど、肘が逆に曲がってるとか、指が7本あるとか、首がどっから生えてるのかわからないとか。しかも、モデルの顔や質感がリアルになればなるほど、その“ちょっとした歪み”が逆にゾッとする。人間の目って、顔や体の「あり得なさ」には異常に敏感だ。
 AI絵がどんなに精密でも、結局は“整合性をとりきれない”部分が残る。それは単なる技術の未熟さだけじゃなくて、AIには「骨格の痛み」や「身体感覚」がないから。だから、あの不自然な関節の向こうには、ちゃんと“描いた経験のない存在”が透けて見える。
 逆説的に、そこが人間の絵の強みになりうる。「描いた人間がそこにいた」という証拠が、震える線の中にしかない。

 画像を読み込んで、AI、問われたら「腕」と答えはするのだが、それがないと、腕を腕と認識しないのかな、と思ったりする。実際、AIが「画像をどう認識しているか」というのは、人間の感覚とはだいぶ違うらしい。AI(特に画像生成や認識系モデル)は「腕」という概念を人間のように理解しているわけではなく、過去に学習した大量の画像の中で「腕とラベルづけされた部分によく現れる形状・位置・色のパターン」を統計的に記憶しているのだということだ。
 だから、もし画像全体を読み込んでも、「腕っぽい形」が見えない/欠けている/他の物体に重なっていると、AIは「腕がない」と判断することがあるらしい。逆に、関節の位置や長さ、手指の形などが平均的な“人間の腕”とズレると、「これは腕っぽいが不自然」とは思わず、そのまま“腕”として出してしまうのだという。
 つまり、AIは「これは腕だ」と“理解”しているというより、「ここにこういう線と陰影と肌色があると、多くの学習画像では“腕”というラベルがついていた」という確率で判断しているだけということになる。
 したがって、問われたら答えられるけど、自分からはわかってない、というのが、実際のところらしい。人間が「見た瞬間に違和感を覚える」ほどの奇形を、AIが“自然”だと判断して出力してしまうのはこのためなんだろう。
 だからたとえば、学習量によって、そういうおざなりな部分も存在する。「学習量」や「学習の質」によって、AIの“おざなりさ”はかなり変わるということになる。もう少し正確に言うと、AIが何をどう見抜けるかは、次の3つの要素の掛け算で決まるのだそうだ。

① 学習量(データの量)
 画像認識モデルは、何億枚という画像から統計的なパターンを学ぶ。ただし量が増えても、「腕の正しい曲がり方」「自然な手の重なり」など精密な構造情報が少ないデータだと、AIはそこを“適当に補う”ようになる。ということは、「数だけ多くても雑な学習」だと、ざっくりした腕や手は描けるが、関節のつき方や筋肉の自然さまではわからない。

② データの質(多様さ・正確さ)
 例えば、医学的な人体写真や3Dスキャンのような精密データやプロの画家や写真家による“人体を理解した構図”が豊富に含まれていれば、AIは「腕のつき方」「自然な骨格バランス」も学べる。逆に、ポーズ写真やアマチュア作品中心だと、“平均的な腕”の曖昧な像しか作れない。 結果として、手首が2本あったり、関節が逆に曲がるといったことが起きやすい。

③ モデル構造(学習方法・パラメータ設計)
 近年のモデル(例:SDXLやFluxなど)は、構造的学習(spatial awareness)が強化されていて、関節や物体の位置関係をより精密に理解できるのだと。一方、古いモデル(Stable Diffusion 1.x系など)は、単に「似ているピクセル」を平均化して描くため、部分的な破綻が多い。

 要するに、学習量が足りないと“知らない”、学習の質が悪いと“間違って覚える”、モデル設計が古いと“構造が壊れる”、という三段階の「おざなり」が存在する、ということだ。
 もし「リアルタッチの人体」や「見返り構図」みたいな破綻しやすいテーマを扱うなら、プロ級の参照素材(ポーズ資料や写真)を一緒に渡して「これを参照して」と指示することで、かなり破綻を減らすことができることになる。人間にたとえると、「独学でスケッチしたやつ」より「クロッキー会で何百回もデッサンしたやつ」の違い、みたいな感じか。

 生成美女が真正面の肖像が多くても、斜めからの画像が思いのほか少ないのはその辺が理由に関係している。「斜め構図が少ない」現象は、まさに、学習データの偏りと構造理解の難易度の両方に直結している。
 AIモデルが学習している画像の多くは、
 SNSや写真共有サイト、肖像データベースからの収集が中心です。
 そこに多いのは圧倒的に「正面顔」だ、そういえば。理由を挙げるならば、顔認証やポートレート撮影用途で正面が主流ということ、SNSのアイコン・プロフィール用は正面向きがほとんどということ、アマチュア写真やセルフィーも、カメラ目線が圧倒的に多いということ、の3点。
 結果、AIの内部では「顔=正面を向いた楕円形の中に目鼻口が並ぶもの」
 という統計的な“常識”が出来上がってしまっている。だから、3/4斜めや横顔になると一気に破綻率が上がる。とくに目と鼻の奥行き関係や、輪郭線の陰影の扱いが弱くなる。

 AIは3D的な立体を理解しているわけではなく、「2D画像間のパターン」を確率的に学んでいるだけだ。だから、角度が変わると“別のもの”として扱ってしまう。構造理解の限界というわけだ。「空間の回転」がすんごく苦手。

 こんなこともあるらしい。たとえば Stable Diffusion や Flux 系では、「構図バランス」や「ポーズごとの特徴」**を学習させてはいるが、それでも正面構図の圧倒的多数が基礎を占めているため、生成時にプロンプトで「斜め」「横顔」などを指定しても、 “無意識に正面へ戻ろうとする”傾向があります。AIの「平均への引き寄せ」だ。これはモデルの学習戦略の影響といえる。

 まとめると、生成美女の正面顔が多いのは、データの偏りがある事、立体認識がまだまだ足りないということ、平均を行こうとすることの3点に集約される。
 したがって、もし斜めや動きのある構図を作りたいなら、「3/4 view」「profile view」「dynamic angle」「from above」など、具体的な角度指示+身体の向き指定(肩・腰・顎など)を併用するのがコツと、チャッピーは宣ってる。また、「写真作品」や「映画のスチル」から学んだモデルを選ぶと、斜め構図でも自然な結果が出やすいとのことだ。


 更に言えば、AIは3dモデリングをしないことで不気味な谷を回避してる。あの「AIが3D構造を理解していない」という話と、「不気味の谷(uncanny valley)」の回避は、裏表の関係にある。AIは“立体を理解しない”ことで、むしろ安全地帯にいるのだ。
 本来、人間が「不気味」と感じるのは、“ほぼ人間っぽいけど、微妙に違う”ときだ。たとえば3Dモデルの顔が「硬い」「瞬きが不自然」みたいなケース。
 しかしながらStable Diffusion や Midjourney のような画像生成AIは、
 あくまで「写真っぽい2Dの模様」を再構成してるだけだ。つまり、彼らは「立体を理解して再現」しているのではなく、「過去に見た“平面としての人間像”を寄せ集めて作っている」。
 その結果、本物っぽいのに、リアルな人間の“ズレ”が出ないし、だから、CGモデルやゲームキャラのような“生理的な違和感”が起きにくい。
 これが、「3D的な理解をしないことで、不気味の谷を避けている」という構造ということになる。

 逆に、谷に落ちるのは「立体を中途半端に再現しようとしたとき」だ。最近のAI(特に動画生成や3Dレンダリング系)は、そこに一歩踏み込もうとはしている。が、3D理解が不完全なままだと、顔が動くと、目鼻の位置がズレるし、首の角度で皮膚のテクスチャが歪むし、立体感と陰影が喧嘩するし、さっぱりワヤですわ。
 こういう“違和感の揺らぎ”が起きて、不気味さが増す。まさに「谷の中腹で足を取られる」状態だ。
 つまるところ、つまり、AIは「嘘をつくのが上手い」。人間が見る“リアル”って、
 実は「本物っぽく見える2D情報」だったりする。だからAIは、「立体的に正確」よりも「そう見えるように誤魔化す」方向で最適化されてる。
 これは絵画の写実主義にも近い。フェルメールも、構図と光の演出で“本物らしさ”を出したけど、実際の空間比率はかなり歪んでる。
 AIもまさにそれを確率的にやってる感じ。

 もしAIが本当に3Dモデリングベースで「骨格」「筋肉」「皮膚」を正確に再現し始めたら、いよいよ“人間の模倣者”として不気味の谷に突入する。が、現状の生成モデルは、 “谷の手前で踊ってる”くらいの距離感をうまく保ってるわけだ。


 言い換えると、人間に真似できない速度でカバーする2dアニメだったということになる。AIが「立体を理解せずに2Dで“リアルっぽさ”を出す」構造と、日本の2Dアニメーション文化が進化した方向性は、まったく同じ「不気味の谷を避けるための高速化と記号化」という点でつながっている。

 日本アニメが「2Dのまま高速化」したのは、ディズニー型のフル3D的立体表現(=西洋的リアリズム)ではなく、「少ない枚数で、印象的な動きを作る」という省略の美学で発展してきたという経緯がある。 限られた予算と時間の中で、リアルな人体の動きを模倣せず、記号的な動き・線・影で“リアルよりリアルに感じる”感情表現をする、という、これが「リミテッドアニメーション」の核心だ。手塚治虫がディズニーを研究しながら、逆に“動かさない演出”を確立した理由もそこにある。
 つまり、立体を完璧に再現する努力より、2Dの虚構を極める方向に行った。そのほうが、不気味の谷を回避できるし、表現として自由度が高かった。

 AI生成も「2Dアニメ」と同じ戦略を取っている。正確な3D構造は持たない、陰影や線を“そう見えるように”配置する、表情や構図を“感情的に最も伝わる角度”で補正する、といった具合に。
 つまり、AIは3Dを「理解していない」のではなく、理解しないほうが、人間が“美しいと感じる絵”を出せるということを、確率的に学習しているわけだ。
 これは、実は「手描きアニメーターの最適化」と同じ構造である。2Dで“時間と空間を省略しながら感情のピークを描く”、AIはそれを統計でやってるだけなのだ。

 「速度」で人間に勝るのも、同じ2Dという土俵だからということだ。AIは「2Dの空間と色と形」を組み合わせるだけなので、3Dレンダリングのような物理計算が不要。だから人間の何千倍ものスピードで試行錯誤できる。
 日本アニメが「少ない枚数で情感を伝える」ように、AIも「少ない情報で“リアルに見える”」方向を極端に突き詰めててしまってる。

 言い換えよう。AI生成は、3Dではなく2Dアニメの延長線上にある。
 そして、日本のアニメ文化が長年かけて辿り着いた“虚構のリアリティ”の哲学を、AIは無意識のうちに再現している。だから、もし未来のAI映像が「ジブリと攻殻機動隊の中間」みたいな世界を作ったら、それは技術的進化というよりも、むしろ日本の“2Dで3Dを超える”美学の再発明になるかもしれぬ。


 

8865 750F1 _2

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2025年11月6日木曜日

8862 相川みさお _2

8862 相川みさお _2

 彼女も2000年頃活躍したグラビアさん。今のコたちと比べると、目のあたりのメイクがナチュラルというか。それで充分魅力的。逆に今のグラビアさんは、進歩したメイク技術と修正で、充分勝負できる、と。この頃は、そういうものがなく、ネットでの活躍もそれほどできない頃だったから、けっこう、すっぴんの差は残酷だったかもしれぬ。知らんがね。

 彼女のグラビアさんとしてのキャリア晩年のことを最近ネットで読んだ。グラビア専門じゃない写真家さんのモデルとして、水着でもない寧ろ冬服で厚着気味のモノクロ写真。北関東でロケだったらしいが、付き人がいるわけでもなく、1人で会合場所までやってきて、風景写真の中の人物としてのモデルをこなし、1人で電車に乗って行って帰って行った、という話じゃなかったかな? 違うかな? 何とも味があるというか、余韻があっていい話だと思った。

 

2025年11月3日月曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。1

8863 Liza Kovalenko

 

 最初に書いておく。この文章はChatGPTとのダイアログを基に、何かそれっぽく、”手作業で”文章化したものだ。


 これを書いている時点までも、この問題に限ったことではない、いろいろとChatGPT、Gemini、Grokあたりの大手LLMを使って、いろいろ考えをまとめて文章化の材料を貯えてきているのだが、興に乗ってそっちに注力するあまり、ちゃんと文章にして発信していない。中には新鮮味を失ったトピックもある。が、まぁ、ぼちのぼち、整えて発信していくことにしよう。


 さて、まず、この項に合わせられた絵の、Liza Kovalenko(ライザ・コバレンコ)氏という、えっと、ググったらウクライナ出身「という設定」のモデルさん。まぁ、なんていうの? まず美人すぎるんだわ。でも、それだけなら、他にもこれくらい美人の方はいるんだがね。Rachael Cook氏も、すんごい美人だよ。でもな、レイチェル・クック氏と比べても、何か嘘くさいのだ、このライザ・コバレンコ氏。AI生成を疑った。chatGPTに見立てを聞いてみたら、正面からの顔がほとんど、これは顔のデッサンの狂いを見せないための物、活動がInstagramだけというのが不自然。しかしながら背景に著しい破綻は見受けられない。おそらく、実物に相当の補正を加えたものではないか? 決して100パーセント存在しない全くのAI生成でもないだろう、との事だった。

 で、だ、おれは、そういう画像を更に、自分のタッチの「絵」に落とし込んでいくのである。まぁな、これでロマンス詐欺でも仕掛けられてるんだったら別だが、どのみち実物と会うことはない。嘘でもびじんならそれはそれで、そういう時代に生きてるんだと感慨にふけりながら絵にするのである。


 で、だ、本題。

 要するに、カクヨムのAI生成作品がランキング1位をとっちゃった、そしてその作者が1日で38本投稿した、ということで、web作家界隈が大騒ぎしているらしいのだが、まず、誰のなんという作品なのかよくわからない。検索してみた。chatGPTにもお願いして調べてもらった。

 なんか、それによると、『無能な俺がAI小説38作品爆撃でランキング1位に!? AI小説編集者として勝ち組人生満喫します!』という作品らしいんだが、いや違うだろ。詰まんねぇよ、と、最初の10行ほど読んではんだんしたが、どうなんだろうな?


 んー、まぁいいや。縁があれば読むこともあるだろう。ランキングとか何とか、そんなことは割とどうでもいいレベルの話のような気もするし。


 突き詰めると「AIがランキングを荒らした!」というよりも、ランキング制度そのものの脆弱さ(量産型に弱い)とか、「AI=脅威」という受け取り方への反応過多とか、“物語の価値とは何か”という根本問題に行きつく予感がした。これらが一斉に噴き出しただけってね。


 たとえば、商業出版や純文学の世界だと「AIで38作投稿しました」なんて話は単なるノイズだろう(ラノベ出版は除く)。でも投稿サイトでは、数字(アクセス・ブクマ・ポイント)が“作品の価値の代理”にされている。だからランキングが“聖域化”していて、侵入者が来ると「秩序が壊れた!」という反応になる。

 これってさ、趣味や創作の核心から見たら、これは本質じゃなくない? むしろ「物語を書くとは、何かを表現したい・伝えたいという動機から始まる」って立場からすると、AI量産で埋め尽くされた画面なんて、ただの背景ノイズでしかないんだが。


 この件、「AIが量産を可能にした結果、作品の“密度”をどう守るか」という方向から論じたほうが建設的じゃない?



 別の側面からいえば、カクヨムなり、なろうなり、プラットフォーム運営がどう対処するかってだけの話で、誰が書こうが何が書こうが、面白いと思えば読むだけのこと。 繰り返してるけど、web作家側からすれば、プラットフォームがダメになる、くらいの話なんだし、自分の作品が需要があるところに届けれたらそれでいいのだ、くらいに考えないと。PV本位主義に知らず毒されていたという気づきさえあればねぇ。


 結局のところ、作品が誰に届くか、どういう場で受け取られるか、読者が「これは面白い」と思えるか、という“関係性”こそが創作の本質で、AIだろうと人間だろうと、「届く」かどうかがすべてじゃなかろうか?

 AI作品がランキング上位を取るというのは、単に「ランキングという制度設計が量産型に最適化されていた」という話であって、作品そのものの価値や、創作の意義とはまったく別レイヤーの問題。

 むしろこの騒動は、作り手側が、“いつの間にか数字を目的化していた”という事実に気づく機会になればいいのだが。


 ランキングが壊れても、表現は壊れない。っていうか、そうだな、若い頃から、小説じゃない、音楽の方な、ランキングで効くものを選んだためしが一度としてない。まぁ、よっぽど売れてたら、歳忘れの頃やたら流れてきていて、聴いてみたら良かったということはあったかもね。個人的にはランキングなんてどうでもよくて、試しにカクヨムトップページに、永世ランキングみたいのがあるけどそれを読んでも、なんかピンとこない。どれもこれも、だ。

 プラットフォームが沈んでも、語るべきことがある人は語り続ける。そこに戻れる人だけが、結局は長く残るんじゃないかね、ちがうかね?


 言い換えてみよう。冷静に考えれば、それは「創作の危機」ではなく「プラットフォームの構造疲労」だ。ランキングは、本来“誰かが面白いと思った”という反応の集積だった。だが、いつしかそれが「順位を上げるために作品を書く」指標へと変わってしまった。AIはその“構造の隙”を突いただけの存在にすぎない。


 誰が書こうが、何で書こうが、面白いものは読まれるだろうさ。読まれないなら、そこに届かなかっただけだ。AI量産の波に埋もれたとしても、読む人が「これは違う」と感じる瞬間は必ずあるはずだ。あまり読者を軽く見ない方がいい。


 本来、創作とはマーケットインでもランキングインでもない。誰かに見せたい景色や、伝えたい痛みや、笑いの瞬間があるから生まれるものだ。それを形にする手段がAIであろうと、ペンであろうと、本質は変わらない。

 もしプラットフォームがダメになったとしても、それは市場の老朽化にすぎない。表現はもっと自由で、もっとしぶとい。読む人がいる場所へ、また届くべき言葉を連れていけばいい。

 ランキングの下位に沈むのが嫌なら、そこから距離を置くぐらい、さらっとやらないといけないんじゃないか?それが創作を長く続ける上での「呼吸の深さ」だろう。ランキングは“競技場”であって、“表現の居場所”ではない。そこに居続けると、知らないうちに自分の感性まで数字に合わせてしまう。本当に書きたいものがある人は、いったん離れてみるくらいでいい。数字が静まった場所のほうが、言葉はずっと遠くまで届く。



 確かに、そういう創作サイトや、Google検索なんて、呼び込むには太い筋なんだけど、そこで相手にされないなら、細いところで手数増やすとかなんとか、そういうの、小説には書くやつ結構いるのにな。リアルではできない?やらない?

 作品の中では、登場人物が臥薪嘗胆をいとわず、ちゃんとそれをやってるのに、現実の作者自身はやらないというのは、創作界隈の典型的な矛盾かもしれぬ。

 物語の中では、主人公が諦めずに、小さな手を伸ばし、細い道を探して進む。

 誰にも見向きされなくても、必ずどこかで誰かに届く。そういう“信念”を描くのが作家なのに、実際の作者たちは「ランキング圏外=存在しない」みたいな世界で戦っている。

 あぁ、これ、NTRざまぁかまされたら、実際警報犯罪を犯していたら別だだけど、10代や20代前半そこらで、再起不能人生\(^o^)/オワタが主流だが、文学も人生もそこからだろう、なぜそうならない?と思った時の感覚に似ているな。詳しくは稿を改めるが。


 本当は違う。「太い筋」=大通りが塞がれたら、路地裏を歩けばいいし、地図にない道を自分で描けばいい。SNSでも、個人ブログでも、地元のイベントでも、文芸同人でも、それこそZINEみたいな手作り冊子でも、細い線を何本も引いていけば、やがてそれが道になるんじゃないかねぇ?

 現実でそれを“やらない”のは、もしかしたら「やっても無駄」と刷り込まれてるからなのかねぁ?数字でしか評価されない世界に長くいると、 “見えない届き方”を信じる力が削がれていく。


 でも、本来の創作というのは、最初から誰かが待ってる場所に向かうものじゃない。まだ誰も知らないところに、灯を点けに行く行為なんじゃあるまいか?それをリアルにやれる人だけが、この“アルゴリズムの時代”を越えていけるような気がしている。

8859 Emily Ratajkowski _12

 

8859 Emily Ratajkowski _12

2025年11月2日日曜日

8858 青木裕子 _2

 

8858 青木裕子 _2

 2000年頃、グラビアさんとして活躍されていた。2010年に結婚引退、と言う事だったから、今は中高生ぐらいの子のお母さんかな? 知らない。幸せに暮らしておられますように。

2025年10月31日金曜日

8856 似鳥沙也加

8856 似鳥沙也加

 雑誌に氏のグラビアを見かけても、実はそれほど魅力的とは思えなかった。ところがネットに上がった氏の写真はそうではない。彼女に限ったことではなく、案外そんなパターンが最近多い。
 雑誌メディア、特に旧来然としたオヤジ雑誌系、ちょっと考えた方がいいかもよ。ネットがなかったころは、女の子の写真なんて、その世界が独占していたわけだけど、今やセルフプロデュースで、女のコたちの命脈はネットが主流だ。然るにオヤジ雑誌系、女の子のグラビアが大きな売りになっていて、まだ、ネットに明るくない爺さんを相手に商売できている今のうちは形になっていても、ねぇ、というところで。

 

2025年10月30日木曜日

8855 Jessica Alba _8

8855 Jessica Alba _8


 ジェシカ・アルバ氏が出演したムービーというと、一本しか記憶にない。ほら、ジェイソン・ステイサムが主演の、彼女はなんか護衛される女の子の役の、と、いうところで調べてみたら、「メカニック:ワールドミッション」、だって。それ以前から、氏の事を知っていて、「お、ジェシカ・アルバだ」とか思ってみたけれど、なんか、別に魅力的な役ではなかったような気がしている。ハリウッド映画のかわいこちゃん的役回り、それ以上の事は求められなかったのだろう。
 しかしながら、氏の絵を上げるのはこれで8枚目。なんだかんだ言って、ルックスというか造形的には好みなのである。インスタなどに上がる彼女の近影、40を過ぎておられるが、魅力は変わらない。

 

2025年10月29日水曜日

8854 Aimi _2

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 この方を描いた絵を上げるのは2回目となる。滋賀あたりを中心に活動しておられる、フィットネスインストラクター兼インディーズ系のグラビアさん。

 オレが若い時に彼女がいなかったのはラッキーだった。結構好みだから、一方的に恋焦がれて、決してハッピーにはなれなかった。こうしてネットで彼女を拝見して、ほんのコンマ何秒かうっとりする程度で満足できるくらいに分別がついた今だから、心の中だけでご活躍をお祈りするだけにとどめることが出来る。

 あと、オレは、基本的に、誰かに入れ上げる形での推し活はしない主義。

 

2025年10月28日火曜日

8853 Biturbo _2

8853 Biturbo _2

 マセラティのビトゥルボ、80年代、なんかちぐはぐで時代の波にイマイチ乗り切れていない青少年の悩みに対し「ソープへ行け!」と喝を入れていた北方謙三氏が、丁度その頃乗っていたのではなかったかと思う。

 アラテン(なんて言う言い方があるのかどうかは知らんが、要するに10歳前後のおこちゃまのころのことだ)のあたりで、スーパーカーブームの洗礼を受けた身としては、マセラティといえば、ボーラやメラクのような、流麗で、ライトがパッカンと開く車をイメージしていたので、この押しの強い強面デザインは、それはそれでシブいと思った。
 乗ったことはないので想像だが、当時のイタリアのツインターボなど、そうとうじゃじゃ馬のドッカンターボだったんじゃないかと思う。実際自分が載る分には、う~ん、となるかもしれないが、如何にもキケンな雰囲気が楚々割れる、頭の弱いやつだった、オレは。 

2025年10月25日土曜日

8852 AJS7R_5

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 大藪春彦の原作版『汚れた英雄』で、主人公・北野晶夫がレースで大けがを負い、その復帰前に―― 恐怖心を克服するため、雪解け前の八ヶ岳の舗装路で、まだ人の来ない時間に、MVアグスタ350とAJS 7Rで走り込みをしていたくだりがあったと思う。

 このあたりの単車は、オレがそういうものに興味を持った1980年代には、もうとっくに大古車になっていた。どこか変にカッコつけた少しキモカワイイおじさん達の供物みたいになっていて、80〜90年代のNSRやTZRと比べたら、ずいぶん穏やかなもののように思えた。

 しかしこのAJS 7R、現役当時はカリカリのレーサーだった。主流のツイン勢を追い回し、勝とうとしていたのだから、乗る人を相当選んだはずだ。
 シングルシリンダーのエンジンは排気量が上がるほどピストンが大きくなり、振動も燃焼ロスも増える。だから総排気量ではツインに及ばなかったが、その代わりに軽量で、ピックアップの良さを極限まで引き出した設計だった。きっと、そういうマシンに命を賭けて乗るスペシャリストがいたのだろう。
 似た発想で――誕生の経緯はまた別だが――1977〜78年の鈴鹿8耐で走った「ロードボンバー」というマシンもあった。
 シングルでも4ストロークでもなかったが、ホンダのNS500も、やはり同じような哲学だったと思う。軽量とレスポンスの鋭さで、パワーの上のYZRやRGを追いかけ、あわよくば食ってしまう。シリーズ全体の戦略上、勝負を捨てるサーキットまで設定しての挑戦だった。

 いまや、複数の条件下で最適化された結果、どの単車も同じような機構とデザインになってしまった。そういうのはなにも単車に限ったことではない。仕方がないといえばそうなのだが――それじゃ何か、詰まらない。文明がピークアウトして、あとは坂を下っていくだけなのだということを、可視化されたようでさ

2025年10月4日土曜日

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8850 Emma Watson _33

 元になった画像は、恐らくはAIによる自動生成なんじゃないかと思っている。自動生成イコール、フェイクであり、肖像権は?とか何とか、面倒くさい問題が待っている。一方で、それはファンメイドの似顔絵みたいなものであると考えたらどうなるか? そういうのはネットやPCがこの世に生まれる前から、雑誌とか何とかの読者欄にあったものだ。それら、いちいち問題にしていたか?

 しかし、AIにそれを作ってもらうとなるとどうなのか? 写真に非常に似せて。エマ・ワトソン氏など、そういうのが世界中で最も多いのではないかという印象さえある。実際、オレも、以前かっぽう着を着た氏を、AIに作ってもらったうえで、世界中でオレしかやっていないようなやり方でイラスト、絵画化を手作業でやった奴、掲載した。他に、幕末の志士の格好をした氏も生成してもらったが、それはまだイラスト化していない。結構時間かかるんだよ、手作業だと。1時間ほどかな。
 AIで、どこの誰が作ったかわからない画像で、それをわかって上でかそれすら判別付けずにか、喜んでる奴はこの世には存外に多いようで。

 肖像権や著作権って、まぁ、大事、とされているよね。それは異論を挟もうとしても難しい。オレとしては、御覧のように、明らかに日本の片田舎のおっさんが、なんかしこしこ描いているところを想像してしまうと、少々げんなりしてしまうくらい、それが想像できるくらいには、写真じゃない、昔の雑誌の読者投稿欄的な絵にはなっているし、何よりも今まで1銭もお金になっていないので、まぁ、黙認されているか、マイナーすぎて相手にされていない、知られていない、という感じか。

 その辺の、中の人、撮影した人、オフィシャルにそれを広めた人、此処までが権利者ね。純粋な推し活としてのファンメイド、闇にお金を得ようとする人。そう言った事情や関係がどのように推移していくか、特にAI自動生成なんて言うものが世に出て以来、激しく流動化していて、これから必ずしも権利者絶対有利というわけにもいかなくなることもあるかもしれない。

 しっかし、まぁ、そういうAI自動生成に騙されて喜んでいるアホな男たちよ、な。

2025年9月27日土曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3

 


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Ferrari 312 PB #0884
Clay Regazzoni
Sebring  1972

 話を少し変える。
 資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
 一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
 例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。

 少し整理しよう。

 まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?


 禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。

 ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
 資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。

 つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。

 だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。

 整理するとポイントはこうだ。

 アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。

 バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。

 アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
 アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。


 または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
 実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。

 海風が吹き抜ける小さな村には、決して法律や制度の圧迫を受けずに暮らす人々がいた。ハワイの太陽に照らされ、波の音が子守歌のように響く中で、彼らは「所有」という概念に縛られることなく、ただ必要なものだけを分け合い、働き、助け合っていた。そこでは誰もが生きる権利を平等に持ち、誰もが互いに貸し借りと返済の義務を負う、プルードンの言う「相互主義」が日々の生活に息づいているようだ。
 一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
 しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。  かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。


 そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?

 個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
 ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。

 「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ

 これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。

 個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。

 何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?

 何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
 社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。


 何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
 アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。

 大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
 大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
 「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
 要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。

 一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな

 其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
 中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
 つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。

 まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。


「贈与」に至る / 糸口を探す 5 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 2

 


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Freddie Spencer
RS1000RW
Daytona 1982


 決定的に感じるのは、当時、そんな彼らを慰撫する文学がなかったのだろうか?ということだ。当時の日本には、いわゆる 「慰撫する文学」=社会の不安や個人の浮遊感をやさしく吸収してくれるような文学の厚みが乏しかったような気がしてしまうのだ。

 明治〜大正の文学状況を見てみる。
 自然主義文学の支配があったと思われる。島崎藤村や田山花袋に代表される「私小説」的な自然主義は、「自己暴露」と「ありのまま」が重視された。これは自己表現にはなるけれど、「社会の中でどう生きていけるか」を慰める方向には乏しいとも言える。

 浪漫主義の余韻もある。北村透谷や島崎藤村の初期のように「理想」や「恋愛」を歌った浪漫主義はあったが、日露戦争後は色あせていった。つまり「夢で癒す」文学の力が弱まった。

 この時期の文学ということで思い浮かべるのが、夏目漱石の想像だったりするのだが、漱石の位置はどうだったんだろう?夏目漱石は文明批判や個人の孤独を描いたけれど、結局「どう慰められるか」については答えを出せなかった(むしろ孤独や不安を鋭く描き切った)。読者にとっては「共感はできるが癒しにはならない」ということになってしまうかもしれない。それはそれ、共感さえあれば、後は何ともできると思わないでもないんだが。
 そこまで至らなかったのは、大衆文学の未成熟があるかもしれない。推理小説、恋愛小説、娯楽小説は芽生えていたけど、まだマスを抱え込むほどの文化的力はなかったようだ。

 インテリにしてみれば、自然主義文学では救われない、漱石を読んでも孤独が深まる、大衆文学はまだ軽く見られている、というところで、「自分を支えるのは思想しかない」 という方向に行きやすかったのだろう。
 そして、その思想というのがアナキズムやマルクス主義という「現状打破の力」を持った急進思想だった。ほらつながった。


 後の時代との比較も考えてみる。
 戦後になると、三島由紀夫や大江健三郎のように「思想と文学を往還」する人は出るが、同時に大衆文学やエンタメも厚みを持ってきた。だから戦後インテリは「政治運動に熱中する人」と、「文学やサブカルに逃避する人」とに分かれていけた。大正期はその「逃げ場」が薄かったため、思想への傾斜が強く出た、とも言える。


 一言でぶっちゃけてみよう。アンパンマンがいなかったんだ。

 アンパンマンとは、飢えたり困ったりした子に「顔をちぎって食べさせる」存在だ。つまり 「慰撫」や「支え」を分かち与える文学的・文化的存在だ。大正期のインテリたちにとっては、そういう「アンパンマン的な文化」が欠けていた。

 アンパンマン的なものがなかった時代、文学は自然主義や漱石的孤独に傾き、「癒す」より「突きつける」方向に進んでいた。娯楽小説や大衆文化はまだ軽視されており、本格的に人を支える力には育っていなかった。だから「苦しい、孤独だ、どうしたらいい?」という問いに答えるものが乏しかった。

 「顔を分け与えてくれる」ような文学がなかったから、インテリは思想に救いを求めた。しかも選んだのは「社会を変える」「権力を否定する」というアナキズムやマルクス主義だった。もし「アンパンマン的な文学」があれば、もっと柔らかい方向に行ったかもしれない。



 それ以前、明治期や江戸時代までの文学にも、そういうものは少なかったんだろうか?とか思う。 深く人間性を追求していくような、さ。

 江戸時代までの文学を振り返ると、確かに 「深く人間性を追求する」文学 というのは、近代文学ほど体系的には発達してはいなかった。だが、その代わりに 「慰撫する」「気晴らしする」「共感する」」文学や芸能 が厚みをもって存在していたと思う。

 江戸文学の性格として、人間心理の深掘りより「型」と「共感」があった。近代文学のような「自己の内面をえぐる」作品は少ないともいえる。しかし、「型」によって感情を共有し、慰撫や娯楽を担ったのではないか?

 井原西鶴(好色一代男・日本永代蔵)は、個人の欲望や商人の知恵を活写しつつ、人生の面白さ・哀しさを軽妙に描いていた。
 近松門左衛門(心中物・曽根崎心中)は恋愛や義理の板挟みで苦しむ人間を描き、涙と共感を誘った。
 丁度、今大河ドラマで蔦屋重三郎の事やってるな。浮世草子や黄表紙こそ、ユーモアや風刺で日常を笑い飛ばす「慰め」の文学だった。 俳諧(松尾芭蕉など)は、人生の無常をしずかに受け入れる「心の調律装置」だった。芭蕉は深い人間性を探るというより、自然や人生の「さび」を味わう方向。

 慰撫の厚みを思う。江戸の庶民文化は「歌舞伎」「浄瑠璃」「落語」「戯作」などがあり、人間を慰め、楽しませ、共感させる 機能を果たしていた。
 つまり「アンパンマン的な文化」はむしろ江戸のほうが豊かだった。


 明治以降、「文学=真剣なもの、芸術的なもの」というヨーロッパ型の観念が導入され、江戸的な「慰撫・娯楽・共感」の要素は「低俗」として切り捨てられた。つまり、近代と断絶してしまったのだ。
 結果として、自然主義や漱石的な「内面の苦悩を突きつける文学」が主流になり、慰める文化の厚みが痩せてしまった。

「アンパンマンがいなかった」言い換えると、「江戸にはあった慰撫文化が、明治以降のインテリ文学では抜け落ちた」という歴史的断絶が出来てしまったという事だ。


 とすれば、産業革命、近代化という時代に浮かれて、その辺に向けられる目が少なかった時代だったからといえるだろうか?

 江戸時代の文学は、人情や人生の機微を扱うものもあったが(近松や井原西鶴など)、基本的には身分制や共同体的秩序の中で「どう生きるか」を描いたものだった。近代的な意味で「個人の存在や内面の深掘り」を主題化する文学は、西欧近代思想と並行して生まれてくる。
 明治〜大正期にかけては、急激な近代化・産業革命に「社会が追いつけていない」状態で、人々は新しい思想や運動に飛びつきやすかった。西洋から輸入された「自由」「平等」「革命」などの理念は、時代の閉塞感や抑圧と結びついて一気に燃え広がる。
 しかし、その一方で「人間の弱さを抱きしめる」「慰撫する」ような文学はまだ十分に根付いていなかった。漱石や鴎外にしても、個人と社会の摩擦や葛藤を描くけれど、読者に「安心」を与えるものではない。

 だから、大杉栄のように「思想を行動にする」インテリが現れる素地があったのだろう。ある意味で、日本の近代文学は「人を慰める」方向よりも「人を揺さぶる」方向に偏っていたともいえる。西欧ではトルストイの後期とか、ドストエフスキーの「苦悩の中での救済」とかがあるけど、日本ではそこがぽっかり抜けていた。


 とすれば、今の時代もそんな傾向が優っているかもしれぬ。AIの伸長、どこまで行くのかが見通せない。自分の心への視線、悟性が少し後退している?そうでもない?

 技術の進化(特にAI)によって、人間自身の内面への洞察や自覚がどこまで維持されるか、あるいは後退するのではないか?

認知負荷の軽減による後退の可能性はありうる。 AIが情報整理や判断の補助をすることで、人間は「考えなくても済む」状況に慣れてしまうかもしれない。その結果、自己観察や反省、内省の能力がやや鈍るリスクはきっとあるだろう。
 逆に拡張される可能性もある。AIを使って自分の行動や思考の傾向を可視化したり、心理的パターンを分析したりすることも可能だ。うまく使えば、自分への洞察はむしろ深化することもありえる。

 悟性の質の変化も考えなくては。「後退」かどうかではなく、むしろ「形を変える」と考えるほうがしっくりくるかもしれない。従来は自己の内面に直接向き合うことが悟性の源だったのが、今後は外部ツール(AI)を介した間接的な洞察も増える。その意味で、悟性は「自己への視線」と「ツールを通した視線」の二層構造になる感じになるかもしれない。

 となれば、意識的な鍛錬の重要性が高まるだろう。技術が進んでも、能動的に自己観察する習慣や「内面に耳を傾ける時間」を持つことが、悟性を維持する鍵になるような気がする。ここは昔も今も変わらない部分だが。


 また、現在の状況を見ていると、慰撫するのはいいのだが、それぞれなりに前に進む力になり得ているのだろうか?と思わないでもない瞬間があったりもする。
 「慰撫」は確かに心を落ち着け、痛みを和らげる働きはあるが、それだけでは前に進む力には必ずしも直結しない。痛みを感じたままでも、ある種の「自己の力で前に進む感覚」を伴わないと、慰めは一時的な安堵に留まるだけになることがある。
 文学でいうならば、悲しみや挫折に対して共感的に描写される場面は多いが、読者や登場人物がそこから行動や自己変革へ進む「力」に変わるかどうかは、作者の描き方や構造によることが大きい。
 言い換えれば、慰撫は「受け止める力」を与える一方で、前に進む力(自己決定、勇気、主体性)は別のプロセスが必要になることが多い、とも言える。


 危惧するのは、そういうところでの悟性、言い換えたら哲学。その辺が弱くないか?ということだ。
 慰めや励ましは感情面での支えにはなるが、それが「前に進む力」や「行動や選択に結びつく知恵」になっているかというと、そこは別問題だからだ。
 哲学的な悟性、つまり状況や自己を深く理解し、そこから現実的な判断や行動に結びつける力が弱い場合、慰めは一時的な安らぎに留まってしまうことになってしまいがちではないか?言い換えれば、心が温まるだけで、知的・実践的な力にはならない。もし議論の対象が「慰めや共感と、自己変容や成長の力の関係」なら、ここで問うべきは 「慰めがどの程度、自己理解・現実理解を促し、選択や行動に変換されているか」 という点になるだろう。

 幼いころ、世界の苦さや不条理に触れた時、私たちはただ「どうしようもない」と感じるしかなかった。慰める文学も、救いの象徴も、身近には存在しなかった。アンパンマンも、どこかで手を差し伸べてくれるヒーローもいなかったのだ。だから、思考は無意識のうちに硬直し、苦しみをそのまま抱え込むしかなかった。

 この時の悟性とは、単なる知識や理屈ではなく、世界の不条理に対峙するための哲学だった。しかし、幼い心にはその哲学を育む土壌がなかった。周囲の言葉や物語は、慰めよりも規範や価値の押し付けばかりで、苦しみの存在自体を肯定する力はほとんどなかったのだ。

 だからこそ、後になって哲学や文学に触れた時、初めて「自分の感じていた世界の苦さは、孤独ではなかったのかもしれない」と気づく。それは、アンパンマンがいなくても、自らが小さな救済を作り出す力になり得る悟性の芽生えだった。


 子供の頃はあんぱんをもらえる立場だったが、大人になるということは、顔をちぎって分け与えることを考えなくてはならない。

 アンパンマンの顔は文字通り「食べ物」だが、この言葉を比喩として読むと「自分の時間や愛情、資源」をどう配分するか、という大人の課題にも置き換えられる。


2025年9月18日木曜日

《創作》寝取られ幽霊 第7話 うっかりチンピラが深淵を見てしまいそうになった話

 



 さて、ひ孫が結構真面目にビルマ戦線ことを調べている頃、スチャラカ幽霊、もとい清彦は実体化して、新宿駅から3丁目の末廣亭を目指して、そりゃぁもう、ウッキウキで歩いてたわけです。

 生前、何か学校の試験で良い点数をとることが得意だったばかりに、成り行きで医者をやる羽目になってしまったが、実はお笑い、落語とか漫談とか喜劇が大好きで、芸人とまでは行かなくとも、そんな話を書く仕事をしたいと、少年の時一度は思ったものだ。
 何やら、ひ孫蓮は、清彦自身が実家に入れてもらえなかったとき、さして取り乱さなかったことを不思議に思っているらしい。これは蓮や、息子の清志郎にはとてもじゃないが言えたことではないが、母親に実家に戻ることを拒否されたとき、悲しくないわけではなかったが、とっさに、それならば少年の頃書きたかった喜劇の戯曲を描き散らしてやれと思ってしまい、益城の光照寺に向かう道すがら、何を書くかで頭の中がいっぱいで、割と悲しくなかった、と言うのがある。繰り返すが、こういうことは、とても蓮や清志郎には言えないのだが。ひでえ親父、曾祖父だ。

 ひ孫、蓮に呼ばれ、っていうか、息子清志郎の時もそうだったが、何やら、子孫が女性関係でひどく傷ついたときに呼ばれるらしい。自分でもよくわかってない。
 その割に、そう言えば、出征前、母親ツヤにちらっと聞かされた。清彦の祖父にあたる坂本清嘉、この人も女運は良くなかった。ツヤ自身は間違いなく清嘉の血を引いた娘であるが、ツヤの母、清嘉の妻、名前をタエというが、蓮から見れば祖母、不義密通を繰り返し、祖父清嘉はそれを黙認せざるを得なかった。ツヤ自身はそう言う自分の母が嫌いだったらしいが、その話を聞かされた折、祖父清嘉から、坂本家代々の嫡男は、どうにも、恋愛だの結婚だの、幸せな巡りに会えないと聞かされたらしい。その時は笑って聞き流していたが、僕もモロそうだったなぁ、と苦笑いが浮かぶ。

 それはそうと、清志郎の時もそうだった。今回も特に蓮を慰めるために何かをするなどと言う事は考えていない。せっかく呼ばれたのだから、今のこの世を楽しんでやれと、これがかなりのスチャラカ。

 とりあえず、寄席とかお笑いライブとかに生き倒してやろうと思ったわけなんだが、その軍資金のために、昨晩は、半グレ反社の牙狼會を襲撃して、数えてみたら570万円ほどあった。奪った現金はどうしているのか? そこはほら、よくある便利アイテム、言ってみればドラ●もんの異次元ポケットのようなところにしまってあるのだが、
 それにしても、ちょっと多すぎかもな、とも思う。70万円だけ持っていることにして、どこかに配って回ろうか、と思った時のことだ。

 ご存じのとおり、歌舞伎町、新宿2丁目3丁目界隈、メインストリートからはずれたら、道幅はそう広くはない。車2台すれ違うのに気を遣う通りも少なくない。そこを向こうから、・・・これは何と言ったらいいのか。着ているものの生地は結構よいものを使っているのに、仕上がりとして、何ともちぐはぐな、でも値だけは張りそうなスーツを着た若者。顔の造作は悪くない、寧ろイケメンの部類に入れていいと思うが、結果としてそこにあるのは何とも卑下た、品のない顔つきをした若者、蓮よりほんの少しだけ年上だろうか? が歩いてくる。結構子は強張って速足だ。
 清彦氏、本人曰く、霊格が高い特典として、瞬時に、その人物の思考や背景など人となりが分かってしまう。要するに、昨日襲撃した牙狼會、鷲塚の子分で、ホストをしている。今朝から鷲塚に集合かけられて、襲撃してきた奴(まぁ、清彦なんだが)について、何か手掛かりを探して来いと、昨日は、っていうか、今朝夜明けごろまで、川口くんだりからやってきている女の子とよろしくやっていたのだが、そんなわけでそこから呼び出さられ一睡もせず、こうやって歩き回っているというわけだ。
 本名は三浦ノブオ、栃木県小山市出身、ホストクラブの源氏名は聖夜。まぁ、箸にも棒にも引っかからない奴ですわ。察してください。

 ノブオは、とにかく鷲塚には絶対服従である。とはいえ、鷲塚も大概だ。ほぼほぼノーヒントで金を強奪していった奴を探せなんて、なんて無理ゲー?とか思いながらこうして歩き回ってるわけだ。あ~、帰って眠りてぇ。
 ふと、前の方に30代だろうか、何の変哲もない黒いスラックスに、白いシャツ、ノーネクタイの男がこちらを見ていた。清彦だ。

「あに見てんだよ?」
 オラついた口調ですごんでみる。
『アンタなんて見てないよ。看板を見てただけだ。』
 男はそう返事してくる。いつもなら、そこから更にウザ絡みするところだが、その瞬間、何も見えない暗闇、深淵に叩きこまれた錯覚がおそった。ほんの一瞬だが。ノブオが数瞬凍り付いている間に、男は歩いて行ってしまった。
「けっ!」
 お定まりのチンピラが吐くようなセリフを残して、ノブオも反対方向に歩いていく。意識に登ったわけではない。深層心理で、相手にしちゃいけない奴だと感じ取ったのかもしれない。


 ふむ。昨日のクズな親玉の子分か。必死だな。ご苦労さん。鷲塚っていったな、昨日の男。昨日の事務所の他に何箇所か現金隠してるとこあるようだったな。この際、全部頂くか。
 これが、特殊詐欺でせしめた金だったら、だまし取られた人に返さなきゃと思うところだが、どういう訳か、男、女や、クスリで身を持ち崩した奴には、そう言う気持ちは働かなかった。そもそも、特殊詐欺のお金は銀行口座を通過する事が多く、現金として札束とかないだけ手出しするのが面倒だ。鷲塚も、クスリ、風俗関係の他に、特殊詐欺のグループも手下にいるが、奴から現金全部せしめた辺りで、警察に証拠になりそうな書類もせしめておいて、送りつけてやろうか。そんなことも考える。なんか、あの鷲塚って奴のやり方が気に入らないんだよねぇ。
 というなら、今すぐ、警察に通報してやれよ、と、突っ込む人間は此処にいない。

 んで、そのお金だ。・・・どうするかなぁ。子ども食堂にでも寄付するか。僕はお笑い見に行けるだけあればいいのだし。


 初めての末廣亭の昼間の寄席、大変楽しく堪能させていただきました。


 一週間後、都内の子ども食堂に、それぞれ50万ずつ入った匿名の封筒がポストに入れられていた。警察に届けられたが、送り主不詳ということで、時間が経てば子ども食堂の活動資金にいかされるだろう、と、蓮はネットニュースで読んだ。ちらっと、寄付したの誰なんだろうなと考えた。まさか、その横でラノベ読みながらゲラゲラ笑ってるスチャラカ幽霊がやったとは思わない。

 そして、報道されなかったこと。池袋、渋谷、千住の牙狼會の事務所が次々襲撃され現金を強奪される。3000万円近くにおよんだ。どこも、目立たない古ぼけたオフィステナントビルの一室だった。見張りを増やして警戒していたが、根こそぎ現金が強奪された。残るは六本木の事務所だけであった。