2025年5月1日木曜日
2025年4月21日月曜日
富の不均衡と「過剰」についてなんぞ 01 なぜにそんなに貯め込む?
8785 166MM
今まで描いた物の中から、と思っていたが、166MMの絵が欲しかったので、結局新作だ。
富の集中、偏在、格差の問題と、「過剰」を志向することをつなげて文章をまとめようと思っていたのだが、経済的合理性は低く、スピードを過剰に求めた、クルマやバイクの絵、ということで、それならばフェラーリだろうと。んで、最新のF80もそのつもりで描いてはいたのだが、この一つ前がホンダの最新ハイパーバイクだったから、古の、しかし一般人には理解しがたい志にあふれた、ということで、フェラーリ―のごくごく初期のモデル。レーシングカーを、ミラーとかだけをつけて公道も走れるようにしちゃった。そもそも、公道レース用、というクルマ、だったはずだ。
それで、さ、文章の続き。使えきれない程お金をもうけてどうすんの? という話を、chatGPTと進めてみた。
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Me:
そのような富など、一生どころか、孫くらいまでも使いきれないと思うのだが、なぜ、そのような富を分配するとか考えないのだろう。思考とか論理とか知りたい。
ChatGPT:
とても本質的で大切な問いですね。
「なぜ超富裕層は、自分が一生かかっても使い切れないような富を手放そうとしないのか?」という問題は、経済的な欲望以上に、人間の心理、社会的地位、そして世界のシステムそのものに根ざしたものです。いくつかの観点から説明します。
1. 「限界効用」ではなく、「相対的地位」がモチベーションになる
普通は、富の「限界効用」(お金が増えるほど嬉しさが減っていく)によって、ある程度で満足するのが自然です。
しかし、超富裕層の多くは「他人より上かどうか」が価値の指標になっていて、**富そのものが「ゲームのスコア」**のような感覚になっています。
→ つまり「誰よりも多く持っていたい」「ランキングを下げたくない」。
2. 資本主義の仕組みに最適化された思考
資本主義社会では、資本(株・不動産・事業など)を持つ人は持たざる者よりも指数関数的に富が増える設計です。
つまり、「持っている者がさらに持つ」ことが自然な帰結となるため、富を再分配するのは“非効率”と見なされがち。
3. 「トリクルダウン理論」への信仰
一部の富裕層や経済学者は、「富裕層が豊かになることで投資や雇用が増え、貧困層にも恩恵が波及する」と信じています(いわゆるトリクルダウン)。
実際にはその効果は証明されておらず、近年は否定的な見解が主流ですが、それでも**“自分の富は社会のためになっている”という正当化**がされています。
4. 不安と自己正当化
「いつか崩れるかもしれない」「失うかもしれない」という恐怖から、“もっと備えておくべき”という心理も働きます。
また、「自分は努力して勝ち取った」「社会に貢献した」という自負が、再分配に対する反感につながることもあります。
5. 富が「支配手段」になるとき
富は単なる個人の贅沢の手段ではなく、「政治的影響力」や「文化的支配力」にも直結します。
**慈善や再分配は“力を手放す行為”**とみなされ、むしろ抵抗を生むことも。
6. それでも寄付や再分配を考える人もいる
ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットのように、自らの資産の多くを寄付に回す「ギビング・プレッジ」を推進している人もいます。
ただしそれも「国家による強制」ではなく、“自分のコントロール下で行う”再分配という特徴があります。
必要以上の富を保ちたがる心理は、自己防衛・競争・誇示・不信・権力など、いろんな人間の側面が絡んでいます。
興味があれば、さらに哲学的なアプローチ(例えばロールズやノージックの議論)から掘っていくこともできますよ。どうでしょう?
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因みに同じ質問をGoogleのGeminiにもしてみた。
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超富裕層がなぜ富の分配を考えないのか、という問いには、いくつかの複雑な要因が絡み合っています。彼らの思考や論理を理解するためには、経済学、心理学、哲学など、多角的な視点から考察する必要があります。
経済学的な視点:
私有財産権の尊重: 資本主義経済の根幹には、個人が合法的に築き上げた富は個人の所有物であり、自由に管理・処分できるという考え方があります。これは法制度によっても保護されており、富の再分配は個人の財産権への侵害と捉えられる可能性があります。
インセンティブの低下: 富の再分配が頻繁に行われると、富を築くためのインセンティブが低下する可能性があります。努力やリスクを取って事業を成功させても、その果実が再分配されるのであれば、積極的に富を増やそうという意欲が削がれるかもしれません。
経済効率性の懸念: 強制的な富の再分配は、市場のメカニズムを歪め、資源の効率的な配分を妨げる可能性があると考える経済学者もいます。富裕層が投資や消費を行うことで経済が活性化するという考え方もあります。
トリクルダウン理論: かつては、富裕層が豊かになれば、その富が徐々に社会全体に滴り落ちていき(トリクルダウン)、貧困層も恩恵を受けるという考え方がありました。この理論の有効性については議論がありますが、富裕層の中にはこの考えを信じている人もいるかもしれません。
心理学的な視点:
自己正当化: 自身の富は努力や才能によって得られたものであり、当然の権利だと考える傾向があります。成功者は自分の能力を過大評価し、運や社会的な要因を軽視する傾向があるという研究もあります。
エンパシーの欠如: 長年富裕な環境で育つと、貧困層の苦しみや困難を想像することが難しくなり、共感力が低下する可能性があります。富裕層は、他者のニーズよりも自身のニーズを優先する傾向があるという研究も存在します。
現状維持バイアス: 人は現状を維持しようとする心理的な傾向があります。現在の富の偏在した状態を当然のものと捉え、変化を避けようとするかもしれません。
選民意識: 富を持つことは特別な地位や能力の証であると考え、自分たちは社会の成功者であり、他の人々とは異なるという意識を持つことがあります。
哲学的な視点:
功利主義: 社会全体の幸福の最大化を重視する考え方では、富の再分配が社会全体の幸福を高めるのであれば正当化される可能性があります。しかし、その方法や程度については議論の余地があります。
自由至上主義: 個人の自由と権利を最重要視する考え方では、強制的な富の再分配は個人の財産権を侵害する不正義と捉えられます。
正義論: ロールズの「正義論」のように、格差原理に基づいて、最も不利な立場の人々の利益を最大化するような富の再分配は正当化されるという考え方もあります。しかし、具体的な再分配の方法については様々な意見があります。
思考と論理:
超富裕層が富の分配を考えない背景には、上記のような経済的、心理的、哲学的な要因が複雑に絡み合っていると考えられます。彼らは、自身の富の獲得プロセスを正当化し、私有財産権を強く信じ、再分配による経済への悪影響を懸念している可能性があります。また、心理的な要因から、他者の困難への共感や社会全体の公平性への意識が希薄になっている可能性も否定できません。
ただし、すべての超富裕層が富の分配に反対しているわけではありません。慈善活動や社会貢献活動に積極的に取り組んでいる富裕層も存在します。彼らは、社会的な責任を自覚し、富の一部を社会に還元することの重要性を認識していると言えるでしょう。
結局のところ、富の分配に対する考え方は、個人の価値観、経験、教育、そして属する社会の文化や制度によって大きく左右されると言えるでしょう。
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読めばわかる、し、多くの個所は同じことを言ってるが、chatGPTの方が好みかな? GEMINIのほうは、まぁ、それはそうなんだろうけど、どう考えたらいいんだろう? というところに広げづらい。
「トリクルダウン効果」なんて初めて聞いた。次回、「トリクルダウン効果」について教えてもらう。
富の不均衡と「過剰」についてなんぞ 00 (再掲)
そのうちの一つのトピック。今俺は正解を知っているとは思えないが、他人様に読んでもらい意見をもらうことは大事だろう。なかなかな、しかし、頭の中整理がつかない、書き出すとどれくらいの分量でどういう構成にするとか、ちょっと思い浮かべるだけでげんなりしてしまうところだが、ほら、さ、今や生成AIなんていう便利なものがある。chatGPTは無料版がリリースされたときからいろいろ遊んでいたんだが、ここに来て他のの雨後の筍みたいに続々現れているせいもあって、急によくなってきている。自分の考えていることをまとめる、あるいは適切な表現を選ぶ、には非常に便利な代物だ。
以下、以前挙げた文章を、再掲して 第00章とする。ある程度まとめて続け様にアップすることになると思う。絵についても同様、このシリーズについては再掲するものが多いと思う。
2025年4月20日日曜日
8784 NSR500 1988
2025年4月19日土曜日
8783 伊東四朗 _2
2025年4月18日金曜日
8782 Wayne Gardner _25
2025年4月17日木曜日
8781 紺野ミク _4
紺野ミク氏を絵にするのは8年ぶりだ。8年前、まとめて3枚。オールヌードだった。アダルトビデオまで突き詰めた人ではない、幾分ソフトなイメージビデオとグラビアが主戦場の人。2輪4輪のウェブメディア「Lawrence」でお見受けしたが、その後、あの人は今、なんてことを言う間もなく、instagramが今の主な活躍の場なのかな? 違ってたらごめんなさい。現在のところ、個人勢の撮影モデルのようだ。どこか事務所に所属している感じはない。
美人なんだけど、流行りの顔じゃないから苦しいのかな? またはどこかに所属していたら自分の売り方とか決められない不自由を避けたのかもしれない。8年、息が長いというべきなのかどうなのか。
しかし思うのだ。おそらく若い時よりも見せ方を研究しているということもあるのかもしれないが、今の方が魅力的であると思う。太らず、さりとて腹筋バキバキではない軟らかそうな体の輪郭、撮影に耐えられるだけ体形や肌のコンディションをキープされているのだから、この仕事って、ストイックじゃないとできない、氏はとてもきっちりした人である可能性が高い。
若い時には、「そういう目的」で、写真やイメージビデオでお世話になったりするのだが、この年になってしまうと、そういうことを踏まえつつも、魅力を感じるならば絵にしたい、その為に拝見している感じ。無駄に歳を取ってしまうと、写真では「そういう目的」には物足りなくなるか、その辺のところ切実ではなくなってしまうか、なんだが、オレなんぞ、(いずれ)絵にするという名目で彼女の写真を「保存する」などして利用している。「そういう目的」に使うというよりは、なんて言うか恥ずかしい、場合によっては苦い、黒歴史的思い出の方が多いけれど、でも、結構切実に近い感じでそれらを必要としていた若い頃を、なぜか忘れたくない、と思っているようだ、我ながら。
それにしても、こういう人たち、instagramなどネットで割とよく見るのだが、こうしてカメラの前で肌を晒した後、服を着て、撮影スタッフらに「おつかれさまでした~」なんて挨拶をして、現場を離れ、美人であってもテレビなんかに露出している人ほどには、一般の人には認知度は高くなく、だから、タクシーを使うのかもしれないが、電車で自分の住処に戻るために電車に乗り、駅のホームを出て、周りは「お、美人だなぁ」とは思っても、目で追うのも一瞬で、家の鍵を開け、明かりをつけ、大事な商売道具だから、自分の体形や肌のメンテナンスは優先するんだけど、なんて、言う日常で、彼女の傍で、どうか、彼女を支えてくれる人がいますように、と、そういうことをつい想像した時に限り思ったりはする。
2025年4月15日火曜日
8780 Freddie Spencer _57
2025年4月14日月曜日
8779 Galant coupe FTO
2025年4月13日日曜日
8778 NSR500 1985 _2
2025年4月12日土曜日
8777 SC82 SP _2
8776 NSR500 1984 _3
1984年の事
1984年、それまで3気筒だったものが4気筒になって、NSにRがついた。NS500の美点を生かしつつもそろそろ多少馬力で負けけてもハンドリングとピックアップの良さでそれまで何とかなっていたが、やはりパワーがないと苦しいだろう、という判断がなされたであろうことは想像に難くない。が、そこはかつてのホンダ、当たり前のことはやらない、というところで、燃料タンクとエキパイの位置を取り替えてみた。ら、大失敗だった。ライダーはエキパイの熱にずっと苛まれることになるし、距離を走るごとに、タンクが通常位置なら上が軽くなる=相対的に重心が下がり安定する、ところを軽くなるのが下部=重心が上がって不安定さが増す、ということなんだろう。これが大きくて現に翌年のNSRはオーソドックスな配置になっている。
なんて、ある意味ホンダらしい試行錯誤があった1984年、オレは2輪のレースがこの世にあるのだと知ったなり(こういうのがこの世にあるのならもう少し生きていてもいいなと思ったりしたこともあった)のころで、ホンダ、ヤマハ、スズキの区別はついても、NSとNSRの区別はついていなかった。ファンというほどディープな所にはいっていなかった。
18歳、このあたりでは一番の進学校の受験生、どちらかと言うと底辺で喘いでいてそれどころじゃなかったんだ。18歳の時の思い出なんていっても、特に何も思い出せない。気晴らしに何度か他にほとんど客がいない、今はもう影も形もない映画館で一人で映画を観たりとか、街の真ん中を流れる川にかかる橋の上で夕暮れの空を見上げて途方に暮れた気持ちになった思い出とか、そんなところ。
空の上と言えば、夏休み、だ、その頃、街にある一番高いビルの最上階に無料の自習室があって、そこで勉強、一応勉強していた思い出とかもあるな。名も知らぬ司法浪人のお兄さんが「ヌシ」と陰で呼ばれていてそこにずっといるという。冷房が効いて快適な部屋だったけれど、勉強がはかどっている実感は全くなく、見晴らしのいい窓から、窓ガラスに隔てられた嘘のような夏の空。同じフロアにあるロビーのテレビではロサンゼルスオリンピックをやっている。お前ら勉強しに来たんじゃないのかよ?と同級生でずっとそこでテレビを視ている奴のいたのだが、オレは生まれてこの方、59になるまでオリンピックに、世間話で合わせられるよう、以上の興味はなく、誰だっけ? カール・ルイスだったかベン・ジョンソンだったかは、この頃の人だよね、くらいの思い入れしかない。
そういや、4輪のレース、F1では、オリンピックイヤーに若手で頭角を表す、伸びてトップレーサーの仲間入りを果たすドライバーが出ることが多い、という話を、この何年か後に聞いた気がする。この年のアイルトン・セナとか、バルセロナオリンピックの年のミハエル・シューマッハとか。なんかそれっぽい理由を言ってた気がするが、こじつけだろう。
奇天烈なマシンにフレディ・スペンサーが苦心していたころ、それとはまったくあずかり知らぬ日本の田舎町でオレはさえない日常の中、もがいていた。んで、なんかな、あの時の感じがオレの人生の基本モードになってしまっていることが辛い。