2025年11月13日木曜日
2025年11月12日水曜日
2025年11月11日火曜日
8868 Khatia Buniatishvili
パリ五輪のプレイベントで、エッフェル塔のあたりでラフマニノフのピアノ協奏曲2番の第3楽章の切り取り、終盤のあたりの物がネットに上がっていて、これが、なんとも祝祭感にあふれ、うっとりするものだったのだが、もう削除されていて残念だが、そこで鍵盤をたたいていたのが、カティア・ブニアティシヴィリ氏だったわけだ。割と慣れ親しんだ、カラヤン&ワイセンベルグの1973年の演奏あたりと比べてみると、彼女の演奏は、特に終盤ギアを上げてくるようだが、ともあれ、苦悶の豹所とは裏腹に、恐らく音楽の快楽の真っただ中に彼女はいた。
ヨーロッパではアイドルピアニスト、から、本格的ピアニストに脱皮した、という位置づけのように見受けられたが、良くは知らん。
2025年11月10日月曜日
8867 Daytona SP3
このままスポーツカーは眠りにつくのだろうか? それはそれで仕方ないとしても、かつてあこがれた思いを込めて描き残しておきたいと思っている。
2025年11月9日日曜日
8866 神楽坂恵
それについて思うことを書き出すと、支離滅裂になるとは思わないが、多分ネット時代に醸成された社会風潮とは相いれないことがいよいよ明らかになってしまうのだろうな、とは思う。 こういう、エロを、まぁ、自分のブログにだけとどめておく、描いて上げたことは告知はするけれど、画像自体は他所には上げない、ということにしている。それは、まぁ、普遍的なルールとは決して思わないが、この時代の最低限のエチケットなんだろうな、とは思っている。
それでも、そんなものがこの世に存在しないようにふるまうのは、断じた間違っているとは思っている。性欲が若い時と比べたら随分と減退してしまっている今でも、やはり、かの曲線、観ることがあれば、刹那、うっとりするものである。
これ以上は、今は書かない。
2025年11月8日土曜日
web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。2
さて、
2025年11月7日金曜日
2025年11月6日木曜日
8862 相川みさお _2
彼女のグラビアさんとしてのキャリア晩年のことを最近ネットで読んだ。グラビア専門じゃない写真家さんのモデルとして、水着でもない寧ろ冬服で厚着気味のモノクロ写真。北関東でロケだったらしいが、付き人がいるわけでもなく、1人で会合場所までやってきて、風景写真の中の人物としてのモデルをこなし、1人で電車に乗って行って帰って行った、という話じゃなかったかな? 違うかな? 何とも味があるというか、余韻があっていい話だと思った。
2025年11月5日水曜日
2025年11月4日火曜日
2025年11月3日月曜日
web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。1
最初に書いておく。この文章はChatGPTとのダイアログを基に、何かそれっぽく、”手作業で”文章化したものだ。
これを書いている時点までも、この問題に限ったことではない、いろいろとChatGPT、Gemini、Grokあたりの大手LLMを使って、いろいろ考えをまとめて文章化の材料を貯えてきているのだが、興に乗ってそっちに注力するあまり、ちゃんと文章にして発信していない。中には新鮮味を失ったトピックもある。が、まぁ、ぼちのぼち、整えて発信していくことにしよう。
さて、まず、この項に合わせられた絵の、Liza Kovalenko(ライザ・コバレンコ)氏という、えっと、ググったらウクライナ出身「という設定」のモデルさん。まぁ、なんていうの? まず美人すぎるんだわ。でも、それだけなら、他にもこれくらい美人の方はいるんだがね。Rachael Cook氏も、すんごい美人だよ。でもな、レイチェル・クック氏と比べても、何か嘘くさいのだ、このライザ・コバレンコ氏。AI生成を疑った。chatGPTに見立てを聞いてみたら、正面からの顔がほとんど、これは顔のデッサンの狂いを見せないための物、活動がInstagramだけというのが不自然。しかしながら背景に著しい破綻は見受けられない。おそらく、実物に相当の補正を加えたものではないか? 決して100パーセント存在しない全くのAI生成でもないだろう、との事だった。
で、だ、おれは、そういう画像を更に、自分のタッチの「絵」に落とし込んでいくのである。まぁな、これでロマンス詐欺でも仕掛けられてるんだったら別だが、どのみち実物と会うことはない。嘘でもびじんならそれはそれで、そういう時代に生きてるんだと感慨にふけりながら絵にするのである。
で、だ、本題。
要するに、カクヨムのAI生成作品がランキング1位をとっちゃった、そしてその作者が1日で38本投稿した、ということで、web作家界隈が大騒ぎしているらしいのだが、まず、誰のなんという作品なのかよくわからない。検索してみた。chatGPTにもお願いして調べてもらった。
なんか、それによると、『無能な俺がAI小説38作品爆撃でランキング1位に!? AI小説編集者として勝ち組人生満喫します!』という作品らしいんだが、いや違うだろ。詰まんねぇよ、と、最初の10行ほど読んではんだんしたが、どうなんだろうな?
んー、まぁいいや。縁があれば読むこともあるだろう。ランキングとか何とか、そんなことは割とどうでもいいレベルの話のような気もするし。
突き詰めると「AIがランキングを荒らした!」というよりも、ランキング制度そのものの脆弱さ(量産型に弱い)とか、「AI=脅威」という受け取り方への反応過多とか、“物語の価値とは何か”という根本問題に行きつく予感がした。これらが一斉に噴き出しただけってね。
たとえば、商業出版や純文学の世界だと「AIで38作投稿しました」なんて話は単なるノイズだろう(ラノベ出版は除く)。でも投稿サイトでは、数字(アクセス・ブクマ・ポイント)が“作品の価値の代理”にされている。だからランキングが“聖域化”していて、侵入者が来ると「秩序が壊れた!」という反応になる。
これってさ、趣味や創作の核心から見たら、これは本質じゃなくない? むしろ「物語を書くとは、何かを表現したい・伝えたいという動機から始まる」って立場からすると、AI量産で埋め尽くされた画面なんて、ただの背景ノイズでしかないんだが。
この件、「AIが量産を可能にした結果、作品の“密度”をどう守るか」という方向から論じたほうが建設的じゃない?
別の側面からいえば、カクヨムなり、なろうなり、プラットフォーム運営がどう対処するかってだけの話で、誰が書こうが何が書こうが、面白いと思えば読むだけのこと。 繰り返してるけど、web作家側からすれば、プラットフォームがダメになる、くらいの話なんだし、自分の作品が需要があるところに届けれたらそれでいいのだ、くらいに考えないと。PV本位主義に知らず毒されていたという気づきさえあればねぇ。
結局のところ、作品が誰に届くか、どういう場で受け取られるか、読者が「これは面白い」と思えるか、という“関係性”こそが創作の本質で、AIだろうと人間だろうと、「届く」かどうかがすべてじゃなかろうか?
AI作品がランキング上位を取るというのは、単に「ランキングという制度設計が量産型に最適化されていた」という話であって、作品そのものの価値や、創作の意義とはまったく別レイヤーの問題。
むしろこの騒動は、作り手側が、“いつの間にか数字を目的化していた”という事実に気づく機会になればいいのだが。
ランキングが壊れても、表現は壊れない。っていうか、そうだな、若い頃から、小説じゃない、音楽の方な、ランキングで効くものを選んだためしが一度としてない。まぁ、よっぽど売れてたら、歳忘れの頃やたら流れてきていて、聴いてみたら良かったということはあったかもね。個人的にはランキングなんてどうでもよくて、試しにカクヨムトップページに、永世ランキングみたいのがあるけどそれを読んでも、なんかピンとこない。どれもこれも、だ。
プラットフォームが沈んでも、語るべきことがある人は語り続ける。そこに戻れる人だけが、結局は長く残るんじゃないかね、ちがうかね?
言い換えてみよう。冷静に考えれば、それは「創作の危機」ではなく「プラットフォームの構造疲労」だ。ランキングは、本来“誰かが面白いと思った”という反応の集積だった。だが、いつしかそれが「順位を上げるために作品を書く」指標へと変わってしまった。AIはその“構造の隙”を突いただけの存在にすぎない。
誰が書こうが、何で書こうが、面白いものは読まれるだろうさ。読まれないなら、そこに届かなかっただけだ。AI量産の波に埋もれたとしても、読む人が「これは違う」と感じる瞬間は必ずあるはずだ。あまり読者を軽く見ない方がいい。
本来、創作とはマーケットインでもランキングインでもない。誰かに見せたい景色や、伝えたい痛みや、笑いの瞬間があるから生まれるものだ。それを形にする手段がAIであろうと、ペンであろうと、本質は変わらない。
もしプラットフォームがダメになったとしても、それは市場の老朽化にすぎない。表現はもっと自由で、もっとしぶとい。読む人がいる場所へ、また届くべき言葉を連れていけばいい。
ランキングの下位に沈むのが嫌なら、そこから距離を置くぐらい、さらっとやらないといけないんじゃないか?それが創作を長く続ける上での「呼吸の深さ」だろう。ランキングは“競技場”であって、“表現の居場所”ではない。そこに居続けると、知らないうちに自分の感性まで数字に合わせてしまう。本当に書きたいものがある人は、いったん離れてみるくらいでいい。数字が静まった場所のほうが、言葉はずっと遠くまで届く。
確かに、そういう創作サイトや、Google検索なんて、呼び込むには太い筋なんだけど、そこで相手にされないなら、細いところで手数増やすとかなんとか、そういうの、小説には書くやつ結構いるのにな。リアルではできない?やらない?
作品の中では、登場人物が臥薪嘗胆をいとわず、ちゃんとそれをやってるのに、現実の作者自身はやらないというのは、創作界隈の典型的な矛盾かもしれぬ。
物語の中では、主人公が諦めずに、小さな手を伸ばし、細い道を探して進む。
誰にも見向きされなくても、必ずどこかで誰かに届く。そういう“信念”を描くのが作家なのに、実際の作者たちは「ランキング圏外=存在しない」みたいな世界で戦っている。
あぁ、これ、NTRざまぁかまされたら、実際警報犯罪を犯していたら別だだけど、10代や20代前半そこらで、再起不能人生\(^o^)/オワタが主流だが、文学も人生もそこからだろう、なぜそうならない?と思った時の感覚に似ているな。詳しくは稿を改めるが。
本当は違う。「太い筋」=大通りが塞がれたら、路地裏を歩けばいいし、地図にない道を自分で描けばいい。SNSでも、個人ブログでも、地元のイベントでも、文芸同人でも、それこそZINEみたいな手作り冊子でも、細い線を何本も引いていけば、やがてそれが道になるんじゃないかねぇ?
現実でそれを“やらない”のは、もしかしたら「やっても無駄」と刷り込まれてるからなのかねぁ?数字でしか評価されない世界に長くいると、 “見えない届き方”を信じる力が削がれていく。
でも、本来の創作というのは、最初から誰かが待ってる場所に向かうものじゃない。まだ誰も知らないところに、灯を点けに行く行為なんじゃあるまいか?それをリアルにやれる人だけが、この“アルゴリズムの時代”を越えていけるような気がしている。
2025年11月2日日曜日
2025年11月1日土曜日
2025年10月31日金曜日
8856 似鳥沙也加
雑誌メディア、特に旧来然としたオヤジ雑誌系、ちょっと考えた方がいいかもよ。ネットがなかったころは、女の子の写真なんて、その世界が独占していたわけだけど、今やセルフプロデュースで、女のコたちの命脈はネットが主流だ。然るにオヤジ雑誌系、女の子のグラビアが大きな売りになっていて、まだ、ネットに明るくない爺さんを相手に商売できている今のうちは形になっていても、ねぇ、というところで。
2025年10月30日木曜日
8855 Jessica Alba _8
しかしながら、氏の絵を上げるのはこれで8枚目。なんだかんだ言って、ルックスというか造形的には好みなのである。インスタなどに上がる彼女の近影、40を過ぎておられるが、魅力は変わらない。
2025年10月29日水曜日
8854 Aimi _2
オレが若い時に彼女がいなかったのはラッキーだった。結構好みだから、一方的に恋焦がれて、決してハッピーにはなれなかった。こうしてネットで彼女を拝見して、ほんのコンマ何秒かうっとりする程度で満足できるくらいに分別がついた今だから、心の中だけでご活躍をお祈りするだけにとどめることが出来る。
あと、オレは、基本的に、誰かに入れ上げる形での推し活はしない主義。
2025年10月28日火曜日
8853 Biturbo _2
2025年10月25日土曜日
8852 AJS7R_5
2025年10月4日土曜日
8850 Emma Watson _33
しかし、AIにそれを作ってもらうとなるとどうなのか? 写真に非常に似せて。エマ・ワトソン氏など、そういうのが世界中で最も多いのではないかという印象さえある。実際、オレも、以前かっぽう着を着た氏を、AIに作ってもらったうえで、世界中でオレしかやっていないようなやり方でイラスト、絵画化を手作業でやった奴、掲載した。他に、幕末の志士の格好をした氏も生成してもらったが、それはまだイラスト化していない。結構時間かかるんだよ、手作業だと。1時間ほどかな。
AIで、どこの誰が作ったかわからない画像で、それをわかって上でかそれすら判別付けずにか、喜んでる奴はこの世には存外に多いようで。
肖像権や著作権って、まぁ、大事、とされているよね。それは異論を挟もうとしても難しい。オレとしては、御覧のように、明らかに日本の片田舎のおっさんが、なんかしこしこ描いているところを想像してしまうと、少々げんなりしてしまうくらい、それが想像できるくらいには、写真じゃない、昔の雑誌の読者投稿欄的な絵にはなっているし、何よりも今まで1銭もお金になっていないので、まぁ、黙認されているか、マイナーすぎて相手にされていない、知られていない、という感じか。
その辺の、中の人、撮影した人、オフィシャルにそれを広めた人、此処までが権利者ね。純粋な推し活としてのファンメイド、闇にお金を得ようとする人。そう言った事情や関係がどのように推移していくか、特にAI自動生成なんて言うものが世に出て以来、激しく流動化していて、これから必ずしも権利者絶対有利というわけにもいかなくなることもあるかもしれない。
しっかし、まぁ、そういうAI自動生成に騙されて喜んでいるアホな男たちよ、な。
2025年9月27日土曜日
「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3
話を少し変える。
資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。
少し整理しよう。
まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?
禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。
ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。
つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。
だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。
整理するとポイントはこうだ。
アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。
バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。
アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。
または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。
一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。 かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。
そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?
個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。
「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ
これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。
個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。
何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?
何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。
何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。
大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。
一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな
其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。
まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。
「贈与」に至る / 糸口を探す 5 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 2
2025年9月18日木曜日
《創作》寝取られ幽霊 第7話 うっかりチンピラが深淵を見てしまいそうになった話























