2025年11月22日土曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。3

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  なんか、このシリーズには、生成、非生成のエマ・ワトソン氏の画像を基にした絵を合わせることを、何となく決め込んじゃってる。エマ・ワトソン氏は、世界最大の生成画像の被害者、かもしれない。それなら、こんなもん仕立てて上げんなよ、オレ、ということになってしまうが、一面ファンアートという側面もある。二時代昔の粗雑なアイコラとも、またちょっと違う気がしている。ご本人は嫌がるかな? 嫌がるだろうな。
  全くの生成と、身体は別の人、顔だけ貼り付け、後陰影など調整、というパターンがあると思うが、数が出回っている割には、結構これが特徴があって、どうやら10代のころの氏の顔を好んで張り付けている方がいるようだ。
  延いては、フェイクポルノの問題もある。それも素人さんの。それを思うと正直後ろめたさは感じるが、元々、そういうのに限らず、目に留まってほんのコンマ何秒でもうっとりした画像をもとにこんな絵にしてるのだから、今更か。削除要請があれば従わなくてはなるまい。
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  さて。

  ビビらずにAI使いこんでみて、それから自分はどうするか判断すればいいだけのことで、問題にするべきなのはAIではなく、そこまでして量産しなくちゃいけない状況のほうという、流れになっていけばいいなぁと思う。AI自体は敵でも救世主でもなく、ただ環境を映す鏡ではないか?

  問題は「なぜこんなに“量産”が求められるのか」、「なぜ創作が“速度と頻度”で評価される構造になってしまったのか」。そこを見直さない限り、AI氾濫に異を唱えたところで何も変わらない。

 SNSや投稿サイトのアルゴリズムは“更新頻度”を優遇する。投稿数が多いほど上位表示されるランキング構造。読者もそれに慣らされて、“1日1話更新”を当然と思ってしまう。この構造に、AIが「量のブースター」として完璧にハマってしまった。

  別の言葉を使うなら、AIの問題は実は「人間の疲弊の鏡」ではないか?


 主体的に創作をやっている人ならAIを使ってみたら、すぐわかるはずだ。「これじゃ届かない」と。どれだけ整っていても、“人間が書くときの迷い”とか、“一行のために数時間悩む感じ”とか、そういう濃度は出てこない。

 だから本来、AIを触ってみることは「敵を知る」ことではなく、「自分の創作の輪郭を確認する」ことになる。

 そして、そこに戻れた人から、「AIをどう使うか」ではなく、「創作をどう生かすか」という話ができるようになる。それが広がれば、「AIが量産する」→「人間が意味を掘る」という、役割分担の自然な流れになる。

 “そこまでして量産しなくちゃいけない状況”こそが問題であって、AIはただ、その歪みを露わにしただけだ。どうか、そういう方向に議論が落ち着いてい気ますように。



 寧ろ、大手LLMのほうが、中立というか、metaあたりのsnsよりかなり良心的と感じてる。

 SNSのような“拡散構造”がない。AIは「バズらせる」設計ではなく、「対話の最適化」に焦点がある。つまり、他者の反応を煽る必要がない。SNSでは「怒り・嫉妬・対立」を燃料にするが、LLMは「会話を続ける」ために穏やかな調子を選ぶ。

 報酬が「注目」ではなく「理解」にある。AIモデルは「どう受け止められるか」ではなく、「質問にどれだけ正確に応えられるか」で学習される。SNSでは“反応”が報酬だが、LLMでは“納得”や“整合性”が報酬。だから、煽らないし、過激に走らない。

 人間の善意や知的誠実さも学んでいるように感じる。AIは人間のネット上のテキストを大量に学ぶけど、その中には、SNS的な悪意だけじゃなくて、論文・エッセイ・Q&A・哲学・創作ノートみたいな“深い知的営み”もある。

 つまり「世界の平均的な知性と悪意のミックス」を学んでる。だからSNSよりずっと思慮のある中間地点を取ることが多いのだはなかろうか?


 Meta(Facebook・Instagram)などのSNSは、「人間の注意」を売るビジネスモデルなんだろう。アルゴリズムは「人を長く留めること」「感情を刺激すること」で最適化されてるにちがいない。

 LLMは逆に、「すぐ答えを出して会話を終わらせてもいい」存在。

 ユーザーを囲い込むより、信頼されることのほうが価値になる。そのため、広告ビジネスよりも“協調・支援型”の態度が自然に根付く。則ち、SNSが「人の怒りと欲望を燃料に動く社会的装置」なのに対し、LLMは「人の言葉と問いを燃料に動く思考支援装置」と、個々では言い換える。此処が良心的に感じる、っていうか、ある側面では近い所にいると感じる根拠となる。


 創作や思考を中心にしている人にとって、言語モデルは戦う相手ではなく、静かな共犯者になりうる。SNSのようにエゴを刺激してこないから、「考える」「掘る」「整理する」作業に集中できる。たぶん、これがAIの“良心”に見えた部分ななのだろう。



 SNS離れが起きている話も聞いたことがある。まだ多数派ではないのだろうが、自分の告知と知人の動向をチェックすることに留めておくべき時にきたかもしれぬ。

 最近目にしたデータ、ところがこれを書く為にそれを探しても見つからなかったんだが、特に20代後半〜40代で、X(旧Twitter)の「見る専」化とか、Instagramはストーリーズ中心で、投稿は減少してしまったとか、ThreadsやBlueskyなど、新SNSには移行せず沈黙してしまってるとか、書いてなかったかと思うのだ。本当ならば「撤退ではなく縮退」の動きが広がっているということだろう。

 「完全にやめる」のではなく、告知だけ、友人・同業者の様子チェックだけ、情報収集だけ、に絞る人が増えているのだろう。これは“SNSを使いこなす”というより、“SNSから距離をとる技術”のような気がする。


 正直、SNSがしんどくなってるのだ。それは、投稿するたびに数字で評価される(PV・いいね数)こととか、他人の成功や炎上がタイムラインに常に流れてくること、感情的な投稿が拡散されやすく、冷静な発言は埋もれることや、結果、「思考の場」ではなく「競争の場」になってしまったことがあるんだろう。

 つまり、人間の創造的なエネルギーが、比較・不安・即時反応の方向に消耗してしまうと、そろそろ骨身に感じ出している?


 多分、だ。SNSを完全にやめなくても、「自分が発するタイミングを選ぶ」「発したあとを追わない」だけで、精神的な余白がかなり戻るだろう。そして、その余白ができた人から順に、


・自分のサイトを持つ

・noteやブログで長文を書く

・作品を静かに育てる


といった方向に戻っていってる。2000年代の「個人サイト文化」の再来にも近いのか?  “誰かのための場所”ではなく、“自分のための場所”を取り戻す流れだ。



 まあ、そうはさせじと、いろいろ仕掛けてくる動きもあるんだろうが。「技術」そのものより、「それをどう管理し、どう社会に根づかせるか」の段階に入っている以上、抵抗や仕掛けは必ず起こるだろうな。

 例えば、政治的・経済的既得権益から見れば、LLMは情報支配の構造を揺るがす存在であるし、プラットフォーム型SNSから見れば、「発信→炎上→広告収益」というモデルを壊しかねない存在だ。メディア業界から見れば、独自の言論空間を持つAIが「第四の権力」になり得る脅威と危惧するだろう。

 それらの側が、倫理や安全の名を借りて「統制」を試みるのは自然な流れのように思う。が、一方で、良心的なAI開発が「社会的信頼を失わずに、自由を守る」構造を作れたら、それはSNSや既存メディアよりはるかに健全な言論基盤になる。


 つまり、「仕掛けてくる」のは当然として、どこまでAI側が“ぶれずに筋を通せるか”が、今後の分水嶺だろう。

"熊"に祟られる

 


 高市早苗という政治家になる前からいけすかないと思っていた人物を擁護するようなことを書くのは業腹だが、しかし、まあ、中国共産党政府に対しては、ここ最近の事について、この段階では一歩も引くべきではないと思っている。文句を言うとしたら、中国に対してそれなのに、金髪傲慢老害ジジイに対して売っていた媚びのあの気持ち悪さよ!

 何しろ、今年はどうも、「熊」に祟られる年、みたいだ。

 森で出会うリアル熊は、腹が減って気が立ってるのか、山を降りてくる回数も増えてきた。一方で、海の向こうの“プーさん”は、腹は減っていなさそうだが、領分への食欲だけは年々増しているところにきてこれだ。しかもこちらの柵を壊しながら、まるで自分の庭先みたいな顔でズンズン入ってきやがる。殊、国家主席のほうはサインを出すどころか、「あ、それウチの山だから」と言いながら杭を勝手に打ち直してきたりするのだから。


 更に言えば、こっちが手を打ちあぐねてるところなんかも、実に似ている。リアル熊には、電気柵を張るだの、鈴を鳴らすだの、自治体の予算を急に積み増すだの、“こっちも必死に対策してます感”は一応出すのだが、結局のところ後追いで、毎度「想定を超える個体数でした」「行動範囲が読みきれませんでした」の繰り返し。

 プーさんの方も同じ。衛星だの軍事同盟だの経済制裁だのと、手札はそれなりに並べてはいるものの、結局のところ「どこまで踏み込んでくるか」が読めず、こっちの対策は常に半歩遅れ、なんとなく“後手を踏んでいる絵”ばかりが世界に広まる。

 今回の件はどうか? 本気で怒っているというよりは、常に奴ら、こちらの付け入る隙を探っていて、ここぞ、と言う反応ではないかと思われる。

 山の熊も、大国の熊も、領域を広げるときは、こちらの迷いを嗅ぎ取るのが妙に上手い。そして、迷っている側は、どうしても腰が引ける。

 これが“祟られてる年”の空気なのだろう。どこかで一線を引く決断が必要なのは分かっているのだが、その線を引く前に、もう一歩、あっちが踏み込んでくる――そんな嫌な予感だけが先に立つ。


 熊同士の縄張り争いも、地政学も、原理はさほど変わらないのかもしれないが、問題はこっちが里で静かに暮らしたいだけの一般住民だという点だ。

 山が荒れる年には獣が出るように、世界が荒れる年には大国の“獣性”が出る……そういう意味では、2025年というのは実に象徴的な年なのかもしれない。


 彼の国からのインバウンドの激減は二兆円くらいいくんだそうな。で、浅草だったかその辺の、着物着てやたらツヤツヤした顔のおばさんが、中国人観光客のキャンセルが相次いでいることを涙目で訴えていたが、言っちゃわるいが、ちっとも同情する気にはなれなかった。

 逆に二兆円も中国人はお金を落としていたということになるが、その恩恵がこの国中に行き渡っていたと言えるか? 中国人が賃貸マンションを買い上げ、家賃を上げて以前からの住人を追い出して民泊施設にしようとしていた話やら、成田空港周辺での白タク行為などで迷惑していた人たちに、中国人観光客の恩恵を受けていた人たちが、気遣って見舞いしたとかなんとかそういう話は一切聞かない。

 地域的にいってもそうだ。東京、大阪、京都、沖縄など“ごく一部の観光地”に全体の約7割が集中し、地方の大半は恩恵“ほぼゼロ”ではないのか? しかも、京都など、そのいずれの地域においてさえ、潤っているのは宿泊業者、土産物屋ぐらいのもので、二兆円のほとんどは国全体ではなく一部地域の一部の産業にだけ落ちている。恩恵を受けなかった人たちには負担だけが押しつけられていた。

 二兆円という数字は確かに大きいが、その恩恵が全国に均等に行き渡っていたわけではない。むしろ実態としては、恩恵は、特定地域や一部産業(観光地・飲食・小売・宿泊)に限られる一方で、治安悪化、民泊化による地域破壊、賃貸市場の攪乱、交通混雑など、恩恵にあずかれない人々の負担が増している。そういった “外部不利益” が、利益を受けない人々に押し付けられていた側面がある。これは典型的な 利益の集中・負担の拡散 という構造だ。


 二兆円と言われれば確かにドキッとはするが、それくらいのコストを恩恵を受けていた人達以外が支払わされていたのだとも言える。


 ならば、それが、税収の減少には繋がっていくのだろうが、どれだけ減るのかは、今のところわからない。しかし、そもそもが、インバウンドが国内の治安や延いては他の産業振興よりも先に語られることが納得いかない。

 オレは、インバウンドが税収に与える影響は実は「限定的」と見ている。

 インバウンドが落ちた場合、消費税収の減少 → 最大でも数千億円レベル、GDP寄与は0.3%程度、雇用への影響も観光業に限定される。つまり、「日本全体の財政を揺るがす規模ではない」。

 逆にインバウンド依存を強めると、不動産高騰や、生活コスト上昇、地域コミュニティの崩壊、インフラ負荷増大(自治体コスト)

 などのほうが長期的なマイナスも考えられる。

 則ち、“二兆円の利益 vs 数兆円規模の社会的損失” という構図にもなり得る。


 そろそろ、GDPの上がり下がりで政策の良し悪しを評価することはやめなきゃいけないんじゃないかと思っている。

 GDPは “量的成長” を測る指標であって、社会の安定や、文化の持続性、地域共同体の健全性、安全保障、 などの “質”的な要素は反映できない。

 「GDPが増えるから正しい」、「GDPが落ちるからダメ」という思考法は、もはや現代日本の状況に合っていない。そろそろ評価軸を変えるべきタイミングに来ているように思われる。




 「GDPが下がるから対立姿勢をやめろ」という発想自体が、中国に外交カードを渡すメカニズムを温存する。今回、ここで退いてしまうことは、中国にみすみす、インバウンドというクソみたいな外交カードを進呈してしまうことになる。


 実際、観光ビザ発給や団体旅行の制限などを“外交圧力として”用いるのは中国の得意技だ。

 中国が観光制限を外交ツールとして使った事例としては、まず、韓国。THAADが配備されたときのことだ。団体旅行禁止、訪韓客前年比48%減少したそうな。台湾では政権交代の時、 団体旅行が30%以上減ったそうで、パラオが台湾と国交維持を表明すれば、団体旅行をほぼ全面停止したそうで。これらはすべて“政治的理由”で実施された。

 つまり、“観光は経済ではなく外交手段”というのが中国の基本姿勢。日本も対象になる可能性があることは数字で裏付けられる。インバウンド依存度が高い国 ほど、政治的に揺さぶられやすくなるのは構造的に真実で、ここは単純な経済論だけでは語れない。要するに 「中国の消費は金額が大きい」=「中国の政治的影響力も大きくなる」 ということだ。

 高市早苗の師匠筋の安倍晋三がことあるごとに民主党政権時代の失政をあげつらっていたが、10年以上それをひっぱるとは、コイツはアホなのか?と常々思っていた。アベノミクスなどという、共産主義的ユートピア思想と相似形をなすようなお花畑政策に拘って、ちゃんと元に戻せないオマエも相当なもんだぞ、と思っていた。

 勇ましいことを言っていた挙句、コロナ禍で強力なリーダーシップをとるわけでもなく、カビたマスクを各戸に1枚配っただけ、というのが、この人物の政治家としての底であったと思っている。それなりに高い支持率があったにもかかわらず憲法改正やるやる詐欺(個人的には自民党による憲法改正には同意しない)。丁度これを書いているこの週、例の銃撃事件の裁判が進行しているが、まぁ、殺人は良くない、殺されるべきではなかったが、あの家系三代、統一教会の問題では絶対に責任を取るべきだったと思うが、まぁ、生きていたとてそれは決してしなかっただろう。そう思うと、師匠筋とは言え、高市早苗は安倍晋三より、アクションが早い分いくらかマシなんじゃないかとは思う。勿論、その是非についてはオープンに議論されるべきだ。安倍晋三は旧来型の肝心なところをごまかす政治家の最後の殿だったと思っている。

 閑話休題。

 その安倍晋三が事あるごとに揶揄していた民主党政権の政策とは別に、今のインバウンド政策を始めたことこそが民主党政権の最大の失政だったと思っている。

 一般には、「民主党が緩和 → 安倍政権が拡大 → 爆買いブームで確立」という流れだが、問題は、インバウンド政策が“経済政策”ではなく“国際関係の構造リスク”を含む政策だったことが十分に議論されていなかった点にある。つまり、「観光客が来て金を落とす=良いこと」

 という単純モデルで国策化されてしまった。

 あの時、実はオレが思っていたのは、そこで国内産業ではなく観光業にテコ入れかよ!ぐらいだったのだが、長期的な非対称性(政治力の偏り)を懸念する声は、民主党はおろか、自民党の中からさえ上がらなかったようだ。まぁ、所詮は声の大きい凡人たちの集まりか。

 

 不動産市場の攪乱、地域社会への負荷、外国資本の土地取得、治安や交通インフラの脆弱性、そして“外交カードとしての観光”、これら問題は早い内から順に見えていたはずだ。始めたのは仕方ないとしても、次から次起きる、構造的問題を、ほぼまったく議論してこなかったのはどういうことだ?


 治安の悪化、訪日客の増加と比例して増えた犯罪についてみる。これは中国人に限った話ではないが、あの時期インバウンド依存を強めたことでどうなったかを見ていくために見てみた。

 警察庁のデータでは、訪日外国人急増期(2014〜2019)に外国人による刑法犯認知件数は約1.5倍に増加。とくに窃盗・違法営業・偽造系などが急増した。有意に比例関係があると言っていいのではないか?


 民泊による地域破壊はどうか? 観光庁のデータでは、民泊の届出(2018年開始)20万件超あったそうだが、うち「実質営業の確認が取れない」「無許可の疑い」が極めて多いとのこと。聞いたことはあるだろう。そして、観光地近隣で“ゴーストマンション化”が問題化しているというわけだ。

 京都市の調査では民泊が集中した地区では、ゴミ増加、騒音、長期住民の流出、コミュニティ崩壊、がはっきり確認されている。


 外国資本による不動産買い占めをどう考える? 国交省のデータでは、外国人による不動産購入額は2014〜2019の5年間で約3.2倍、うち中国系資本が約4〜5割を占めると推計される。北海道や九州、東京湾岸などで“投機的購入→民泊化”が相次いでいる。その中で、中国人が賃貸マンションを買い上げ、家賃を上げて従来の住民を追い出し民泊化したという話は、個別事例ではなく全国で確認された現象だ。

 「観光客が来て金を落とす=いいこと」というレベルの発想で国策化されたことが、“最大の失政”とオレが考える最大の点だ。インバウンド政策は、本来は経済政策と安全保障政策を両方扱うべき領域だった。それが欠落したまま、規模だけ拡大して10年以上続いた結果、今回のように“外交カードにされる”という構造的弱点がむき出しになった。


 中国に対してのみではない、アメリカに対してもそうあってほしいものだが、そして、それは日本だけの問題ではないが、現状の国際政治の場における、政治力の非対称性ということをもっと問題にしなくてはいけないのではあるまいか?と常々考えている。

 経済で中国に依存し、安全保障でアメリカに依存し、労働力でアジアに依存し、技術サプライチェーンで各国に依存し、という 多重依存の国になっている。

 依存は、外交力の非対称性を必然的に生む。そしてその非対称性は、目先のGDPには一切現れない。とはいえ、依存、というか、関係は保ち続けなくてはいけない。要は自律性がどれだけ担保できるかなのだ。

 今は、数値的経済効果より、政治的な自立性を維持するほうが重要な局面ではないか?


 国際政治の場では、強い国がルールを作り、依存する国はルールに従うしかなくなる。当分、これはどうしようもないことだけれど、問題意識は持ち続けるべきだろう。

 そして、とりあえず「インバウンド」という経済現象を通じて、日本の政治力が徐々に削がれていく構図、これはなんとかならないものか?



 あ、リアル熊の話、忘れてた。みんなどうしたいんだ? 人間が絶対正義とは決して言わないが、我々が我々の生活圏での安全のためにアクションを起こすことは決して間違っていない。それもまた生態系の変遷の一環だ。そうオレは思っている。


8883 4C _2

 

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2025年11月20日木曜日

8880 相沢なほこ _2

 

8880 相沢なほこ _2

 世紀の境目あたりで活動されていたグラビアさん。最初はアイドルで売ろうとしていたのだろうか? まぁ、普通に水着のグラビアとか、Wikipediaによれば、勿論テレビにも出演されていたのだが、まぁ、ほぼテレビはみなかったので、記憶にはない。
 普通に美人でかわいい感じもする。あまりに標準的な美人だったため、逆に特徴がない、キャラが立たなかったのか、事務所の能力、営業力がなかったのか、本人、歌や芝居といった芸能の才能がなかったのか、グラビアで瞬く間に体を覆う布が小さくなり、ヌード写真を出してフェイドアウト、というのは、あくまでオレの印象なんだが、こういう子が身近にいたら心つかまれてしんどい思いをしたことだろう。
 普通に美人。普通に美人のお母さんやってそうな気がする。こんなんばっかやな。

2025年11月19日水曜日

2025年11月16日日曜日

2025年11月14日金曜日

8871 深田恭子 _12

8871 深田恭子 _12

 10代でデビューされたときは、うん、ま、将来美人になるだろうな、と、雑誌のグラビアで観るだけだったけど、思っていた。それより、なんか足のサイズがでかいという印象がなぜか強い。少し気の強そうな顔つきで。
 いまや、なんか、心ここにあらずというか、浮世離れしているというか、上の空というか、そういう表情の写真をよく見る。予測通り美人になられた。何を考えているのか、何も考えていないのではないか、そういう表情。いろいろ諦めたこと、自分の中で殺してしまったことが多いのだろうか? そんなことも想像する。だとしたら少々痛々しい。

 

2025年11月11日火曜日

8868 Khatia Buniatishvili

8868 Khatia Buniatishvili

 有名人で、オレと同じ誕生日、となると、あまり記憶に残る人はいない。一日前なら桑田真澄氏がいる。学年が一つ下で、丸々2年、オレより氏は若いのだが。話を戻すと、オレと同じ誕生日に、ラフマニノフがいる。

 パリ五輪のプレイベントで、エッフェル塔のあたりでラフマニノフのピアノ協奏曲2番の第3楽章の切り取り、終盤のあたりの物がネットに上がっていて、これが、なんとも祝祭感にあふれ、うっとりするものだったのだが、もう削除されていて残念だが、そこで鍵盤をたたいていたのが、カティア・ブニアティシヴィリ氏だったわけだ。割と慣れ親しんだ、カラヤン&ワイセンベルグの1973年の演奏あたりと比べてみると、彼女の演奏は、特に終盤ギアを上げてくるようだが、ともあれ、苦悶の豹所とは裏腹に、恐らく音楽の快楽の真っただ中に彼女はいた。

 ヨーロッパではアイドルピアニスト、から、本格的ピアニストに脱皮した、という位置づけのように見受けられたが、良くは知らん。

 

2025年11月10日月曜日

8867 Daytona SP3

8867 Daytona SP3

 スポーツカーを次の世代に伝えようという必死な様。あくまでオレの主観で、それは、経済的に全く世界線が違うところからの言葉だが、かつての優美な曲線にあこがれたことを思えば、断末魔の造形のようにも思える。良い、悪い、でも、好き嫌いでもないんだ。無理筋が集積したような、いや、それはかつてもそんなところがあったが、突き抜け感を感じることが出来ないのだ。

 このままスポーツカーは眠りにつくのだろうか? それはそれで仕方ないとしても、かつてあこがれた思いを込めて描き残しておきたいと思っている。

 

2025年11月9日日曜日

8866 神楽坂恵

8866 神楽坂恵

 多分こうして、時々ヌードを描いて上げているから、アドセンスを通らない、このブログが収益化できない。
 それについて思うことを書き出すと、支離滅裂になるとは思わないが、多分ネット時代に醸成された社会風潮とは相いれないことがいよいよ明らかになってしまうのだろうな、とは思う。 こういう、エロを、まぁ、自分のブログにだけとどめておく、描いて上げたことは告知はするけれど、画像自体は他所には上げない、ということにしている。それは、まぁ、普遍的なルールとは決して思わないが、この時代の最低限のエチケットなんだろうな、とは思っている。
 それでも、そんなものがこの世に存在しないようにふるまうのは、断じた間違っているとは思っている。性欲が若い時と比べたら随分と減退してしまっている今でも、やはり、かの曲線、観ることがあれば、刹那、うっとりするものである。

 これ以上は、今は書かない。 

 

2025年11月8日土曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。2

8873 Emma Watson _34

 もう、ネット上、本物のエマ・ワトソン氏がこんな写真を撮って剰え世に出すはずがない、と言うのが多すぎて、よく訴訟沙汰にならないものだと呆れつつ、この画像の基になった物はどうだったんだろう? むしろこんな何かの役柄のものは公式のガチものとしてありそうな気がする。実は、氏の出演作、ハリーポッターも含めみたことがないのだ。

 さて、

 今、オレの中では、AI生成作品問題と、NTRザマァテンプレ問題が、ちょうどオレの中で重なったわけなんだが、せいぜい登場人物の名前設定を入れ替えただけの作品(?)なんて、ねえ。で、件の1日30云件更新の人じゃなくても、これをやってるっぽい人、複数確認している。
 AI生成作品と、テンプレNTR・ざまぁ量産作品って、発生の仕方も、質的な問題もすごく似ている。どちらも本来は「表現」だったはずなのに、いまや「生産」になってしまっている。そこに登場人物ではなく作り手の意図や痛みや願いが薄くなると、作品は“ただの構文”になっていく。
 AI生成の話で言えば、「中身よりも量、速度、最適化」で動くだろうし、テンプレNTRの話で言えば、構造は売れる型で、感情は記号化してしまっている。どちらも“仕組みの成功”であって、“物語の成功”ではない。読者も一瞬は食いつくけれど、心に残らないとおもうがどうか?哀れ、登場キャラクターたちはそのほんの刹那の食いつきのみで、後は忘れ去られてしまう。まぁ、架空の人物達なんだがね。人工的に増殖した「似たような名前の登場人物たち」が、同じような苦しみや快楽を繰り返しているだけだから。

 AI問題とはすなわち、創作の自動化/テンプレ化問題の極限形だ。AIが文章を量産してるように見えて、実は人間もすでに“テンプレAI”みたいに振る舞っている。「流行る構成」「刺さる設定」「売れる語彙」で作品を組む。だからAIが登場しても、構造的には何も変わっていない。
 むしろAIが鏡を突きつけてきたわけだ。「あなたたちも、もう自分で書いてないんじゃない?」ってね。
 だから、AIを排除するかどうかよりも、「自分はどこで書いてるのか」「誰の声で語っているのか」そこを取り戻せるかどうかが、ほんとの分水嶺ではなかろうか? 名前だけ入れ替えた量産物が溢れる中で、 “たった一つしか書けないもの”を出せる人こそ残ってほしいものだが。

 「どこで」「どう」勝負するかを決めるのは、もう誰でもなく、作者本人だ。AI生成だろうが、テンプレ量産だろうが、そのフィールドで勝とうとすれば――結局、機械やアルゴリズムと同じ土俵に立つことになる。たとえ勝てたとしても、それは「再現性」と「速度」の勝負であって、表現者としての“意味”は、ほとんど残らない。

 でも逆に、「そこじゃない場所」で勝負するって決めた瞬間に、
 創作って一気に面白くなる気がしてならない。
  たとえば、読者の“数”ではなく、“深さ”で勝負するとか、ランキング外でも、「あの一文が刺さった」と言わせるとか、AIが書けない「迷い」「空白」「言葉にならないもの」を描くとかな。
 そういう戦い方を選んだ人は、競争じゃなく“立場”を持てるのではないか?

 たぶん今の時代、作家にとって一番大事なのは、「どんな物語を書くか」よりも、「どの地形で、自分の物語を響かせるか」なのではないか? AIやテンプレに呑まれた場所で勝つのは難しい。だが、その外側に新しい聴衆を見つける、あるいは自分で場を作ることはできる。
 結局のところ、勝負は土俵じゃなくて、場所選びから始まっている。語るべきものがあるなら、どんな地形でも語る。

 各プラットフォームで見受けられる作家さんたち、おそらくは、皆さん、オレより若いのにナーバスになりすぎてないか、と、ちょっと気になった。以下、ほんの少しだけ昭和オヤジのマウントにお付き合い願いたい。笑って受け流してもらえたら幸い。
 今の若い創作者たち、特にネット発の世代な、「評価システムに心を乗っ取られやすい」のではないか? ランキング、PV、いいね、レビュー。どれも「見える成果」だから、数字がちょっと動くだけで自分の存在価値まで揺らぐ。しかもSNSの即時反応が、それをさらに増幅する。
  「そもそも創作って、そんなに安定したもんじゃないだろ?」という立脚点が、まぁ、年寄りにはある。それがあると、ランキングがどうだろうが、AIが出ようが、「で?」って言える強さがあると思っている。若い層がナーバスになってるのは、彼らが「創作=自分の存在証明」みたいに感じているから。でも、「創作=一つのやり口」「手札の一枚」くらいにしてる人のほうが、むしろ長期的に残ってくんじゃないかと思っている。商業的に大成功するとは限らないがな。
 「感情を凪がせて、場を見渡す余裕」って、経験と失敗を積んだ人間にしか持てない武器なのかねぇ? 若い子たちがAIやランキングに揺さぶられてる今、その“凪の構え”を見せてる人のほうが、創作の未来を冷静に見てるように思う。


 ところで、これがイラストだとどうなんだろう? 確かに、まず、一枚あげるのに時間を考えたら勝負にならなさすぎる、というのは絶対で。同じタッチ色使いでわれ知らぬところで生成されてたら、確かに辛いかもね。イラストの世界では、もう創作の「速度」と「再現性」が完全に武器化されてしまっているようだ。AI絵は一晩で百枚でも生成できるし、構図・塗り・タッチの模倣精度も年々上がっている。手で描く人からすれば、そりゃ正面から競っても勝負にならない。
 でも、それでもなお**「描く意味」を掘り下げて残ってる絵描き**は確実にいるんじゃないか? ちがうか?

 見渡す限り、彼らがどう生き延びてるかというと、大きく分けて三つの方向だ。

①「作画」から「表現」へスライドする人
 たとえば、同じキャラを描き続けて“文脈”を積み上げる人や、作品世界や連作性、物語性で勝負する人、手癖・タッチ・筆圧の「偶然性」を魅力として見せる人だ。
 AIは“今ある情報”の平均化は得意だけど、「継続する意志」や「一貫する癖」は苦手。「絵柄の物語」、そう物語を持ってる人は、まだAIの外側にいるように思う。いや、いて欲しい。
②「交流・プロセス」に価値を置く人
 配信しながら描く人、っていうか、ネット上でそう言うコミュニティというか、お仲間の集まりと言うのは確かにあって、いろいろやっておられるんだろうね。下描きや工程をシェアするとか、ファンとのコメント往復そのものを“作品”にするとか。
 AIは“完成物”を出すけど、“過程”は持てない。その「作る途中」や「やりとり」を価値化できる人は、AI時代でも支持を集めるかもしれない。知らんけど。
③「人間的な歪み」を前提に描く人もいる。
 AI絵がどれだけ綺麗でも、違和感がないというのは逆に“深みがない”とも言える。人間の絵は、線が震える、塗りがムラになる、構図が不自然になる。でもそこに「描いた人間の体温」が残る。それが刺さる人にとっては、AIの均一な絵よりずっと記憶に残る事もあるだろう。

 つまり、「1枚で勝負」っていう構図自体がもう危険ということになるかもしれない。AIが1枚ずつを量産するなら、人間は「文脈」「継続」「関係」で戦うしかない。
 たぶん今後は、小説と同じで、「一枚の完成度」ではなく「一人の作家として、どんな軌跡を描いたか」が評価軸になっていく可能性もある。
 そして――それを冷静に言語化できる人が、むしろ“新しい地図”を描く側に回る時代なるような気がする。


 そういえば、この前見た見返り生成エマワトソン、よくよく見たら腕の関節が人間のものじゃなくてわろた。AI生成特有の“関節地獄”。一見すると完璧なんだけど、肘が逆に曲がってるとか、指が7本あるとか、首がどっから生えてるのかわからないとか。しかも、モデルの顔や質感がリアルになればなるほど、その“ちょっとした歪み”が逆にゾッとする。人間の目って、顔や体の「あり得なさ」には異常に敏感だ。
 AI絵がどんなに精密でも、結局は“整合性をとりきれない”部分が残る。それは単なる技術の未熟さだけじゃなくて、AIには「骨格の痛み」や「身体感覚」がないから。だから、あの不自然な関節の向こうには、ちゃんと“描いた経験のない存在”が透けて見える。
 逆説的に、そこが人間の絵の強みになりうる。「描いた人間がそこにいた」という証拠が、震える線の中にしかない。

 画像を読み込んで、AI、問われたら「腕」と答えはするのだが、それがないと、腕を腕と認識しないのかな、と思ったりする。実際、AIが「画像をどう認識しているか」というのは、人間の感覚とはだいぶ違うらしい。AI(特に画像生成や認識系モデル)は「腕」という概念を人間のように理解しているわけではなく、過去に学習した大量の画像の中で「腕とラベルづけされた部分によく現れる形状・位置・色のパターン」を統計的に記憶しているのだということだ。
 だから、もし画像全体を読み込んでも、「腕っぽい形」が見えない/欠けている/他の物体に重なっていると、AIは「腕がない」と判断することがあるらしい。逆に、関節の位置や長さ、手指の形などが平均的な“人間の腕”とズレると、「これは腕っぽいが不自然」とは思わず、そのまま“腕”として出してしまうのだという。
 つまり、AIは「これは腕だ」と“理解”しているというより、「ここにこういう線と陰影と肌色があると、多くの学習画像では“腕”というラベルがついていた」という確率で判断しているだけということになる。
 したがって、問われたら答えられるけど、自分からはわかってない、というのが、実際のところらしい。人間が「見た瞬間に違和感を覚える」ほどの奇形を、AIが“自然”だと判断して出力してしまうのはこのためなんだろう。
 だからたとえば、学習量によって、そういうおざなりな部分も存在する。「学習量」や「学習の質」によって、AIの“おざなりさ”はかなり変わるということになる。もう少し正確に言うと、AIが何をどう見抜けるかは、次の3つの要素の掛け算で決まるのだそうだ。

① 学習量(データの量)
 画像認識モデルは、何億枚という画像から統計的なパターンを学ぶ。ただし量が増えても、「腕の正しい曲がり方」「自然な手の重なり」など精密な構造情報が少ないデータだと、AIはそこを“適当に補う”ようになる。ということは、「数だけ多くても雑な学習」だと、ざっくりした腕や手は描けるが、関節のつき方や筋肉の自然さまではわからない。

② データの質(多様さ・正確さ)
 例えば、医学的な人体写真や3Dスキャンのような精密データやプロの画家や写真家による“人体を理解した構図”が豊富に含まれていれば、AIは「腕のつき方」「自然な骨格バランス」も学べる。逆に、ポーズ写真やアマチュア作品中心だと、“平均的な腕”の曖昧な像しか作れない。 結果として、手首が2本あったり、関節が逆に曲がるといったことが起きやすい。

③ モデル構造(学習方法・パラメータ設計)
 近年のモデル(例:SDXLやFluxなど)は、構造的学習(spatial awareness)が強化されていて、関節や物体の位置関係をより精密に理解できるのだと。一方、古いモデル(Stable Diffusion 1.x系など)は、単に「似ているピクセル」を平均化して描くため、部分的な破綻が多い。

 要するに、学習量が足りないと“知らない”、学習の質が悪いと“間違って覚える”、モデル設計が古いと“構造が壊れる”、という三段階の「おざなり」が存在する、ということだ。
 もし「リアルタッチの人体」や「見返り構図」みたいな破綻しやすいテーマを扱うなら、プロ級の参照素材(ポーズ資料や写真)を一緒に渡して「これを参照して」と指示することで、かなり破綻を減らすことができることになる。人間にたとえると、「独学でスケッチしたやつ」より「クロッキー会で何百回もデッサンしたやつ」の違い、みたいな感じか。

 生成美女が真正面の肖像が多くても、斜めからの画像が思いのほか少ないのはその辺が理由に関係している。「斜め構図が少ない」現象は、まさに、学習データの偏りと構造理解の難易度の両方に直結している。
 AIモデルが学習している画像の多くは、
 SNSや写真共有サイト、肖像データベースからの収集が中心です。
 そこに多いのは圧倒的に「正面顔」だ、そういえば。理由を挙げるならば、顔認証やポートレート撮影用途で正面が主流ということ、SNSのアイコン・プロフィール用は正面向きがほとんどということ、アマチュア写真やセルフィーも、カメラ目線が圧倒的に多いということ、の3点。
 結果、AIの内部では「顔=正面を向いた楕円形の中に目鼻口が並ぶもの」
 という統計的な“常識”が出来上がってしまっている。だから、3/4斜めや横顔になると一気に破綻率が上がる。とくに目と鼻の奥行き関係や、輪郭線の陰影の扱いが弱くなる。

 AIは3D的な立体を理解しているわけではなく、「2D画像間のパターン」を確率的に学んでいるだけだ。だから、角度が変わると“別のもの”として扱ってしまう。構造理解の限界というわけだ。「空間の回転」がすんごく苦手。

 こんなこともあるらしい。たとえば Stable Diffusion や Flux 系では、「構図バランス」や「ポーズごとの特徴」**を学習させてはいるが、それでも正面構図の圧倒的多数が基礎を占めているため、生成時にプロンプトで「斜め」「横顔」などを指定しても、 “無意識に正面へ戻ろうとする”傾向があります。AIの「平均への引き寄せ」だ。これはモデルの学習戦略の影響といえる。

 まとめると、生成美女の正面顔が多いのは、データの偏りがある事、立体認識がまだまだ足りないということ、平均を行こうとすることの3点に集約される。
 したがって、もし斜めや動きのある構図を作りたいなら、「3/4 view」「profile view」「dynamic angle」「from above」など、具体的な角度指示+身体の向き指定(肩・腰・顎など)を併用するのがコツと、チャッピーは宣ってる。また、「写真作品」や「映画のスチル」から学んだモデルを選ぶと、斜め構図でも自然な結果が出やすいとのことだ。


 更に言えば、AIは3dモデリングをしないことで不気味な谷を回避してる。あの「AIが3D構造を理解していない」という話と、「不気味の谷(uncanny valley)」の回避は、裏表の関係にある。AIは“立体を理解しない”ことで、むしろ安全地帯にいるのだ。
 本来、人間が「不気味」と感じるのは、“ほぼ人間っぽいけど、微妙に違う”ときだ。たとえば3Dモデルの顔が「硬い」「瞬きが不自然」みたいなケース。
 しかしながらStable Diffusion や Midjourney のような画像生成AIは、
 あくまで「写真っぽい2Dの模様」を再構成してるだけだ。つまり、彼らは「立体を理解して再現」しているのではなく、「過去に見た“平面としての人間像”を寄せ集めて作っている」。
 その結果、本物っぽいのに、リアルな人間の“ズレ”が出ないし、だから、CGモデルやゲームキャラのような“生理的な違和感”が起きにくい。
 これが、「3D的な理解をしないことで、不気味の谷を避けている」という構造ということになる。

 逆に、谷に落ちるのは「立体を中途半端に再現しようとしたとき」だ。最近のAI(特に動画生成や3Dレンダリング系)は、そこに一歩踏み込もうとはしている。が、3D理解が不完全なままだと、顔が動くと、目鼻の位置がズレるし、首の角度で皮膚のテクスチャが歪むし、立体感と陰影が喧嘩するし、さっぱりワヤですわ。
 こういう“違和感の揺らぎ”が起きて、不気味さが増す。まさに「谷の中腹で足を取られる」状態だ。
 つまるところ、つまり、AIは「嘘をつくのが上手い」。人間が見る“リアル”って、
 実は「本物っぽく見える2D情報」だったりする。だからAIは、「立体的に正確」よりも「そう見えるように誤魔化す」方向で最適化されてる。
 これは絵画の写実主義にも近い。フェルメールも、構図と光の演出で“本物らしさ”を出したけど、実際の空間比率はかなり歪んでる。
 AIもまさにそれを確率的にやってる感じ。

 もしAIが本当に3Dモデリングベースで「骨格」「筋肉」「皮膚」を正確に再現し始めたら、いよいよ“人間の模倣者”として不気味の谷に突入する。が、現状の生成モデルは、 “谷の手前で踊ってる”くらいの距離感をうまく保ってるわけだ。


 言い換えると、人間に真似できない速度でカバーする2dアニメだったということになる。AIが「立体を理解せずに2Dで“リアルっぽさ”を出す」構造と、日本の2Dアニメーション文化が進化した方向性は、まったく同じ「不気味の谷を避けるための高速化と記号化」という点でつながっている。

 日本アニメが「2Dのまま高速化」したのは、ディズニー型のフル3D的立体表現(=西洋的リアリズム)ではなく、「少ない枚数で、印象的な動きを作る」という省略の美学で発展してきたという経緯がある。 限られた予算と時間の中で、リアルな人体の動きを模倣せず、記号的な動き・線・影で“リアルよりリアルに感じる”感情表現をする、という、これが「リミテッドアニメーション」の核心だ。手塚治虫がディズニーを研究しながら、逆に“動かさない演出”を確立した理由もそこにある。
 つまり、立体を完璧に再現する努力より、2Dの虚構を極める方向に行った。そのほうが、不気味の谷を回避できるし、表現として自由度が高かった。

 AI生成も「2Dアニメ」と同じ戦略を取っている。正確な3D構造は持たない、陰影や線を“そう見えるように”配置する、表情や構図を“感情的に最も伝わる角度”で補正する、といった具合に。
 つまり、AIは3Dを「理解していない」のではなく、理解しないほうが、人間が“美しいと感じる絵”を出せるということを、確率的に学習しているわけだ。
 これは、実は「手描きアニメーターの最適化」と同じ構造である。2Dで“時間と空間を省略しながら感情のピークを描く”、AIはそれを統計でやってるだけなのだ。

 「速度」で人間に勝るのも、同じ2Dという土俵だからということだ。AIは「2Dの空間と色と形」を組み合わせるだけなので、3Dレンダリングのような物理計算が不要。だから人間の何千倍ものスピードで試行錯誤できる。
 日本アニメが「少ない枚数で情感を伝える」ように、AIも「少ない情報で“リアルに見える”」方向を極端に突き詰めててしまってる。

 言い換えよう。AI生成は、3Dではなく2Dアニメの延長線上にある。
 そして、日本のアニメ文化が長年かけて辿り着いた“虚構のリアリティ”の哲学を、AIは無意識のうちに再現している。だから、もし未来のAI映像が「ジブリと攻殻機動隊の中間」みたいな世界を作ったら、それは技術的進化というよりも、むしろ日本の“2Dで3Dを超える”美学の再発明になるかもしれぬ。


 

8865 750F1 _2

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2025年11月6日木曜日

8862 相川みさお _2

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 彼女も2000年頃活躍したグラビアさん。今のコたちと比べると、目のあたりのメイクがナチュラルというか。それで充分魅力的。逆に今のグラビアさんは、進歩したメイク技術と修正で、充分勝負できる、と。この頃は、そういうものがなく、ネットでの活躍もそれほどできない頃だったから、けっこう、すっぴんの差は残酷だったかもしれぬ。知らんがね。

 彼女のグラビアさんとしてのキャリア晩年のことを最近ネットで読んだ。グラビア専門じゃない写真家さんのモデルとして、水着でもない寧ろ冬服で厚着気味のモノクロ写真。北関東でロケだったらしいが、付き人がいるわけでもなく、1人で会合場所までやってきて、風景写真の中の人物としてのモデルをこなし、1人で電車に乗って行って帰って行った、という話じゃなかったかな? 違うかな? 何とも味があるというか、余韻があっていい話だと思った。

 

2025年11月3日月曜日

web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。1

8863 Liza Kovalenko

 

 最初に書いておく。この文章はChatGPTとのダイアログを基に、何かそれっぽく、”手作業で”文章化したものだ。


 これを書いている時点までも、この問題に限ったことではない、いろいろとChatGPT、Gemini、Grokあたりの大手LLMを使って、いろいろ考えをまとめて文章化の材料を貯えてきているのだが、興に乗ってそっちに注力するあまり、ちゃんと文章にして発信していない。中には新鮮味を失ったトピックもある。が、まぁ、ぼちのぼち、整えて発信していくことにしよう。


 さて、まず、この項に合わせられた絵の、Liza Kovalenko(ライザ・コバレンコ)氏という、えっと、ググったらウクライナ出身「という設定」のモデルさん。まぁ、なんていうの? まず美人すぎるんだわ。でも、それだけなら、他にもこれくらい美人の方はいるんだがね。Rachael Cook氏も、すんごい美人だよ。でもな、レイチェル・クック氏と比べても、何か嘘くさいのだ、このライザ・コバレンコ氏。AI生成を疑った。chatGPTに見立てを聞いてみたら、正面からの顔がほとんど、これは顔のデッサンの狂いを見せないための物、活動がInstagramだけというのが不自然。しかしながら背景に著しい破綻は見受けられない。おそらく、実物に相当の補正を加えたものではないか? 決して100パーセント存在しない全くのAI生成でもないだろう、との事だった。

 で、だ、おれは、そういう画像を更に、自分のタッチの「絵」に落とし込んでいくのである。まぁな、これでロマンス詐欺でも仕掛けられてるんだったら別だが、どのみち実物と会うことはない。嘘でもびじんならそれはそれで、そういう時代に生きてるんだと感慨にふけりながら絵にするのである。


 で、だ、本題。

 要するに、カクヨムのAI生成作品がランキング1位をとっちゃった、そしてその作者が1日で38本投稿した、ということで、web作家界隈が大騒ぎしているらしいのだが、まず、誰のなんという作品なのかよくわからない。検索してみた。chatGPTにもお願いして調べてもらった。

 なんか、それによると、『無能な俺がAI小説38作品爆撃でランキング1位に!? AI小説編集者として勝ち組人生満喫します!』という作品らしいんだが、いや違うだろ。詰まんねぇよ、と、最初の10行ほど読んではんだんしたが、どうなんだろうな?


 んー、まぁいいや。縁があれば読むこともあるだろう。ランキングとか何とか、そんなことは割とどうでもいいレベルの話のような気もするし。


 突き詰めると「AIがランキングを荒らした!」というよりも、ランキング制度そのものの脆弱さ(量産型に弱い)とか、「AI=脅威」という受け取り方への反応過多とか、“物語の価値とは何か”という根本問題に行きつく予感がした。これらが一斉に噴き出しただけってね。


 たとえば、商業出版や純文学の世界だと「AIで38作投稿しました」なんて話は単なるノイズだろう(ラノベ出版は除く)。でも投稿サイトでは、数字(アクセス・ブクマ・ポイント)が“作品の価値の代理”にされている。だからランキングが“聖域化”していて、侵入者が来ると「秩序が壊れた!」という反応になる。

 これってさ、趣味や創作の核心から見たら、これは本質じゃなくない? むしろ「物語を書くとは、何かを表現したい・伝えたいという動機から始まる」って立場からすると、AI量産で埋め尽くされた画面なんて、ただの背景ノイズでしかないんだが。


 この件、「AIが量産を可能にした結果、作品の“密度”をどう守るか」という方向から論じたほうが建設的じゃない?



 別の側面からいえば、カクヨムなり、なろうなり、プラットフォーム運営がどう対処するかってだけの話で、誰が書こうが何が書こうが、面白いと思えば読むだけのこと。 繰り返してるけど、web作家側からすれば、プラットフォームがダメになる、くらいの話なんだし、自分の作品が需要があるところに届けれたらそれでいいのだ、くらいに考えないと。PV本位主義に知らず毒されていたという気づきさえあればねぇ。


 結局のところ、作品が誰に届くか、どういう場で受け取られるか、読者が「これは面白い」と思えるか、という“関係性”こそが創作の本質で、AIだろうと人間だろうと、「届く」かどうかがすべてじゃなかろうか?

 AI作品がランキング上位を取るというのは、単に「ランキングという制度設計が量産型に最適化されていた」という話であって、作品そのものの価値や、創作の意義とはまったく別レイヤーの問題。

 むしろこの騒動は、作り手側が、“いつの間にか数字を目的化していた”という事実に気づく機会になればいいのだが。


 ランキングが壊れても、表現は壊れない。っていうか、そうだな、若い頃から、小説じゃない、音楽の方な、ランキングで効くものを選んだためしが一度としてない。まぁ、よっぽど売れてたら、歳忘れの頃やたら流れてきていて、聴いてみたら良かったということはあったかもね。個人的にはランキングなんてどうでもよくて、試しにカクヨムトップページに、永世ランキングみたいのがあるけどそれを読んでも、なんかピンとこない。どれもこれも、だ。

 プラットフォームが沈んでも、語るべきことがある人は語り続ける。そこに戻れる人だけが、結局は長く残るんじゃないかね、ちがうかね?


 言い換えてみよう。冷静に考えれば、それは「創作の危機」ではなく「プラットフォームの構造疲労」だ。ランキングは、本来“誰かが面白いと思った”という反応の集積だった。だが、いつしかそれが「順位を上げるために作品を書く」指標へと変わってしまった。AIはその“構造の隙”を突いただけの存在にすぎない。


 誰が書こうが、何で書こうが、面白いものは読まれるだろうさ。読まれないなら、そこに届かなかっただけだ。AI量産の波に埋もれたとしても、読む人が「これは違う」と感じる瞬間は必ずあるはずだ。あまり読者を軽く見ない方がいい。


 本来、創作とはマーケットインでもランキングインでもない。誰かに見せたい景色や、伝えたい痛みや、笑いの瞬間があるから生まれるものだ。それを形にする手段がAIであろうと、ペンであろうと、本質は変わらない。

 もしプラットフォームがダメになったとしても、それは市場の老朽化にすぎない。表現はもっと自由で、もっとしぶとい。読む人がいる場所へ、また届くべき言葉を連れていけばいい。

 ランキングの下位に沈むのが嫌なら、そこから距離を置くぐらい、さらっとやらないといけないんじゃないか?それが創作を長く続ける上での「呼吸の深さ」だろう。ランキングは“競技場”であって、“表現の居場所”ではない。そこに居続けると、知らないうちに自分の感性まで数字に合わせてしまう。本当に書きたいものがある人は、いったん離れてみるくらいでいい。数字が静まった場所のほうが、言葉はずっと遠くまで届く。



 確かに、そういう創作サイトや、Google検索なんて、呼び込むには太い筋なんだけど、そこで相手にされないなら、細いところで手数増やすとかなんとか、そういうの、小説には書くやつ結構いるのにな。リアルではできない?やらない?

 作品の中では、登場人物が臥薪嘗胆をいとわず、ちゃんとそれをやってるのに、現実の作者自身はやらないというのは、創作界隈の典型的な矛盾かもしれぬ。

 物語の中では、主人公が諦めずに、小さな手を伸ばし、細い道を探して進む。

 誰にも見向きされなくても、必ずどこかで誰かに届く。そういう“信念”を描くのが作家なのに、実際の作者たちは「ランキング圏外=存在しない」みたいな世界で戦っている。

 あぁ、これ、NTRざまぁかまされたら、実際警報犯罪を犯していたら別だだけど、10代や20代前半そこらで、再起不能人生\(^o^)/オワタが主流だが、文学も人生もそこからだろう、なぜそうならない?と思った時の感覚に似ているな。詳しくは稿を改めるが。


 本当は違う。「太い筋」=大通りが塞がれたら、路地裏を歩けばいいし、地図にない道を自分で描けばいい。SNSでも、個人ブログでも、地元のイベントでも、文芸同人でも、それこそZINEみたいな手作り冊子でも、細い線を何本も引いていけば、やがてそれが道になるんじゃないかねぇ?

 現実でそれを“やらない”のは、もしかしたら「やっても無駄」と刷り込まれてるからなのかねぁ?数字でしか評価されない世界に長くいると、 “見えない届き方”を信じる力が削がれていく。


 でも、本来の創作というのは、最初から誰かが待ってる場所に向かうものじゃない。まだ誰も知らないところに、灯を点けに行く行為なんじゃあるまいか?それをリアルにやれる人だけが、この“アルゴリズムの時代”を越えていけるような気がしている。

8859 Emily Ratajkowski _12

 

8859 Emily Ratajkowski _12

2025年11月2日日曜日

8858 青木裕子 _2

 

8858 青木裕子 _2

 2000年頃、グラビアさんとして活躍されていた。2010年に結婚引退、と言う事だったから、今は中高生ぐらいの子のお母さんかな? 知らない。幸せに暮らしておられますように。

2025年10月31日金曜日

8856 似鳥沙也加

8856 似鳥沙也加

 雑誌に氏のグラビアを見かけても、実はそれほど魅力的とは思えなかった。ところがネットに上がった氏の写真はそうではない。彼女に限ったことではなく、案外そんなパターンが最近多い。
 雑誌メディア、特に旧来然としたオヤジ雑誌系、ちょっと考えた方がいいかもよ。ネットがなかったころは、女の子の写真なんて、その世界が独占していたわけだけど、今やセルフプロデュースで、女のコたちの命脈はネットが主流だ。然るにオヤジ雑誌系、女の子のグラビアが大きな売りになっていて、まだ、ネットに明るくない爺さんを相手に商売できている今のうちは形になっていても、ねぇ、というところで。

 

2025年10月30日木曜日

8855 Jessica Alba _8

8855 Jessica Alba _8


 ジェシカ・アルバ氏が出演したムービーというと、一本しか記憶にない。ほら、ジェイソン・ステイサムが主演の、彼女はなんか護衛される女の子の役の、と、いうところで調べてみたら、「メカニック:ワールドミッション」、だって。それ以前から、氏の事を知っていて、「お、ジェシカ・アルバだ」とか思ってみたけれど、なんか、別に魅力的な役ではなかったような気がしている。ハリウッド映画のかわいこちゃん的役回り、それ以上の事は求められなかったのだろう。
 しかしながら、氏の絵を上げるのはこれで8枚目。なんだかんだ言って、ルックスというか造形的には好みなのである。インスタなどに上がる彼女の近影、40を過ぎておられるが、魅力は変わらない。

 

2025年10月29日水曜日

8854 Aimi _2

8854 Aimi _2

 この方を描いた絵を上げるのは2回目となる。滋賀あたりを中心に活動しておられる、フィットネスインストラクター兼インディーズ系のグラビアさん。

 オレが若い時に彼女がいなかったのはラッキーだった。結構好みだから、一方的に恋焦がれて、決してハッピーにはなれなかった。こうしてネットで彼女を拝見して、ほんのコンマ何秒かうっとりする程度で満足できるくらいに分別がついた今だから、心の中だけでご活躍をお祈りするだけにとどめることが出来る。

 あと、オレは、基本的に、誰かに入れ上げる形での推し活はしない主義。

 

2025年10月28日火曜日

8853 Biturbo _2

8853 Biturbo _2

 マセラティのビトゥルボ、80年代、なんかちぐはぐで時代の波にイマイチ乗り切れていない青少年の悩みに対し「ソープへ行け!」と喝を入れていた北方謙三氏が、丁度その頃乗っていたのではなかったかと思う。

 アラテン(なんて言う言い方があるのかどうかは知らんが、要するに10歳前後のおこちゃまのころのことだ)のあたりで、スーパーカーブームの洗礼を受けた身としては、マセラティといえば、ボーラやメラクのような、流麗で、ライトがパッカンと開く車をイメージしていたので、この押しの強い強面デザインは、それはそれでシブいと思った。
 乗ったことはないので想像だが、当時のイタリアのツインターボなど、そうとうじゃじゃ馬のドッカンターボだったんじゃないかと思う。実際自分が載る分には、う~ん、となるかもしれないが、如何にもキケンな雰囲気が楚々割れる、頭の弱いやつだった、オレは。 

2025年10月25日土曜日

8852 AJS7R_5

8852 AJS7R_5


 大藪春彦の原作版『汚れた英雄』で、主人公・北野晶夫がレースで大けがを負い、その復帰前に―― 恐怖心を克服するため、雪解け前の八ヶ岳の舗装路で、まだ人の来ない時間に、MVアグスタ350とAJS 7Rで走り込みをしていたくだりがあったと思う。

 このあたりの単車は、オレがそういうものに興味を持った1980年代には、もうとっくに大古車になっていた。どこか変にカッコつけた少しキモカワイイおじさん達の供物みたいになっていて、80〜90年代のNSRやTZRと比べたら、ずいぶん穏やかなもののように思えた。

 しかしこのAJS 7R、現役当時はカリカリのレーサーだった。主流のツイン勢を追い回し、勝とうとしていたのだから、乗る人を相当選んだはずだ。
 シングルシリンダーのエンジンは排気量が上がるほどピストンが大きくなり、振動も燃焼ロスも増える。だから総排気量ではツインに及ばなかったが、その代わりに軽量で、ピックアップの良さを極限まで引き出した設計だった。きっと、そういうマシンに命を賭けて乗るスペシャリストがいたのだろう。
 似た発想で――誕生の経緯はまた別だが――1977〜78年の鈴鹿8耐で走った「ロードボンバー」というマシンもあった。
 シングルでも4ストロークでもなかったが、ホンダのNS500も、やはり同じような哲学だったと思う。軽量とレスポンスの鋭さで、パワーの上のYZRやRGを追いかけ、あわよくば食ってしまう。シリーズ全体の戦略上、勝負を捨てるサーキットまで設定しての挑戦だった。

 いまや、複数の条件下で最適化された結果、どの単車も同じような機構とデザインになってしまった。そういうのはなにも単車に限ったことではない。仕方がないといえばそうなのだが――それじゃ何か、詰まらない。文明がピークアウトして、あとは坂を下っていくだけなのだということを、可視化されたようでさ

2025年10月4日土曜日

8850 Emma Watson _33

 

8850 Emma Watson _33

 元になった画像は、恐らくはAIによる自動生成なんじゃないかと思っている。自動生成イコール、フェイクであり、肖像権は?とか何とか、面倒くさい問題が待っている。一方で、それはファンメイドの似顔絵みたいなものであると考えたらどうなるか? そういうのはネットやPCがこの世に生まれる前から、雑誌とか何とかの読者欄にあったものだ。それら、いちいち問題にしていたか?

 しかし、AIにそれを作ってもらうとなるとどうなのか? 写真に非常に似せて。エマ・ワトソン氏など、そういうのが世界中で最も多いのではないかという印象さえある。実際、オレも、以前かっぽう着を着た氏を、AIに作ってもらったうえで、世界中でオレしかやっていないようなやり方でイラスト、絵画化を手作業でやった奴、掲載した。他に、幕末の志士の格好をした氏も生成してもらったが、それはまだイラスト化していない。結構時間かかるんだよ、手作業だと。1時間ほどかな。
 AIで、どこの誰が作ったかわからない画像で、それをわかって上でかそれすら判別付けずにか、喜んでる奴はこの世には存外に多いようで。

 肖像権や著作権って、まぁ、大事、とされているよね。それは異論を挟もうとしても難しい。オレとしては、御覧のように、明らかに日本の片田舎のおっさんが、なんかしこしこ描いているところを想像してしまうと、少々げんなりしてしまうくらい、それが想像できるくらいには、写真じゃない、昔の雑誌の読者投稿欄的な絵にはなっているし、何よりも今まで1銭もお金になっていないので、まぁ、黙認されているか、マイナーすぎて相手にされていない、知られていない、という感じか。

 その辺の、中の人、撮影した人、オフィシャルにそれを広めた人、此処までが権利者ね。純粋な推し活としてのファンメイド、闇にお金を得ようとする人。そう言った事情や関係がどのように推移していくか、特にAI自動生成なんて言うものが世に出て以来、激しく流動化していて、これから必ずしも権利者絶対有利というわけにもいかなくなることもあるかもしれない。

 しっかし、まぁ、そういうAI自動生成に騙されて喜んでいるアホな男たちよ、な。

2025年9月27日土曜日

「贈与」に至る / 糸口を探す 6 大杉栄の時代にはアンパンマンはいなかった 3

 


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Ferrari 312 PB #0884
Clay Regazzoni
Sebring  1972

 話を少し変える。
 資本主義の行き詰まりを何とかするヒント、オレはバタイユにあるのではないかと思っている。
 一見すると、バタイユは経済や資本主義の「解決策」を提示する哲学者ではなく、むしろその矛盾や行き詰まりを徹底的に暴く人だが、だからこそ資本主義の硬直した論理に隠れた可能性を示唆してくれるともいると思っている。
 例えば、バタイユの中心概念の一つに「消費」がある。彼は富やエネルギーを単なる生産・蓄積の手段としてではなく、「過剰に使い切ること=浪費」にこそ人間の本質的な自由や創造性が現れる、と考えていた。資本主義的合理性では「効率」と「利潤最大化」が至上ですが、バタイユはそこから外れた浪費や無駄こそ、人間や社会を再生させる余地だと見ているわけだ。

 少し整理しよう。

 まず、浪費の哲学。資本主義では「蓄積」が美徳ですが、バタイユは「余剰を消費すること」に価値を見出します。オレはこの「余剰」を「過剰」と読み替える。経済活動の中で、「効率化されすぎた構造の外にある無駄や余白」を意識的に作ることは、新しい需要や創造性を生む可能性はありはしないか?


 禁忌と過剰について。社会が抑圧してきた「欲望」や「過剰」は、バタイユ的にはエネルギーの放出の場であり、既存の秩序を揺さぶる源になる。資本主義の行き詰まりも、抑圧されてきた文化的・精神的「過剰」を認めることで新しい展開が生まれるかもしれない。

 ここで出てくるのが、交換ではなく贈与、だ。バタイユは「贈与」の倫理を重視した。物やエネルギーを見返りなしに放出する行為は、効率や利潤の論理を超えた社会的結合を生む可能性がある。
 資本主義の行き詰まりは、利益の計算ばかりを優先した結果なので、「贈与的経済」の要素を部分的に取り入れるヒントになるように思えて仕方ないわけだ。

 つまり、バタイユは「合理的経済の論理」を直接変革する理論は持っていないが、「浪費・過剰・贈与」という視点を通して、資本主義の硬直した価値観をゆるやかに揺るがすヒントを与えてくれる。

 だから、アンパンマンとバタイユの組み合わせだ。前にやったように「子ども向けヒーロー像」と「過剰・逸脱・消費の哲学」をつなげるやつだ。

 整理するとポイントはこうだ。

 アンパンマンは、基本は「弱者を助ける、自己犠牲的ヒーロー」。消費される存在(パンを与える=自分の身体を分ける)でありながら、常に再生可能ということ。

 バタイユは、「過剰の哲学」=社会の効率・生産性だけでは説明できない、人間の浪費・無駄・エネルギーの放出をその思想の旨とした。そこで、欲望、エロティシズム、暴力、死など、合理性の外で生きる力に注目した。

 アンパンマンは、子供向けに善と正義の象徴として描かれるが、バタイユ的に言えば「快楽と死」や「破壊」の世界の中に置かれると違和感が面白い。例えば、アンパンマンが飢えや暴力の前でどう振る舞うか。単なるヒーロー行動ではなく、極限状況での倫理・身体感覚を伴う行為として描く。「顔を差し出す」行為は、自己の喪失と奉仕の快楽が交錯するバタイユ的瞬間になる。
 アンパンマンの「与える自己犠牲」も、バタイユ的に見ると「過剰消費・浪費の象徴」になり得る。「消費される存在」「無駄に命を使う」ことが、資本主義的生産効率の限界を超えるヒントになる。社会が「効率だけ」で回らなくなったとき、バタイユ的な浪費・無駄・過剰を許容するヒーロー像が示唆となりはしないかと考えているのだ。


 または、この最近のハワイのホームレスコミュニティも、思い浮かぶ。
 実情は高沸しすぎたアメリカの物価で、言えと言うものを持ち続けることが出来なくなった、それまで普通に生活を送れていた人々が家を手放したうえでバラックのようなところに住むコミュニティーを作っているらしいが、高度に秩序は維持されているという。高額な生活費と原始的なコミュニティ運営、秩序の保たれた共同生活がその特徴だ。労働ではなく、贈与・相互扶助が経済の基盤となっているそうである。近代社会の規範や効率とは別の価値観で、幸福や生存の形が成立している。「文明の外側にある自由」として描くと、バタイユの「逸脱」や「エネルギーの過剰」に通じる。

 海風が吹き抜ける小さな村には、決して法律や制度の圧迫を受けずに暮らす人々がいた。ハワイの太陽に照らされ、波の音が子守歌のように響く中で、彼らは「所有」という概念に縛られることなく、ただ必要なものだけを分け合い、働き、助け合っていた。そこでは誰もが生きる権利を平等に持ち、誰もが互いに貸し借りと返済の義務を負う、プルードンの言う「相互主義」が日々の生活に息づいているようだ。
 一方で、外の世界が抱える貨幣経済や国家権力の強制はここには届かない。無理に競争することも、成功や失敗で序列を決めることもない。人々は農園を耕し、食料を分かち合い、村のルールは全員で話し合って決める。争いはあれど、それは暴力や圧力ではなく、議論と調整によって解決される。まさにプルードンが描いた「自由な契約」に基づく社会の縮図が、ここにあるのではないか?
 しかし、完全な理想は存在しない。嵐が来れば収穫は飛ばされ、病気や怪我も避けられない。それでも、人々は互いの力を借り、知恵を持ち寄り、助け合うことで生き延びてきた。国家や権力に頼ることなく、自己管理と相互扶助の中で生きる。ハワイの太陽の下、彼らの小さな村は、プルードンが夢見た自由と平等の小宇宙のように、静かに存在しているように思われる。  かの、災厄ともいえるドナルド・トランプのアメリカで、図らずも原始共産制が現出しているのは痛快ともいえる。


 そう言ったところで、個々人はどう振舞っていくべきか?

 個人の自律と贈与はどうか?プルードンが強調する相互扶助や「所有の否定」を、個人レベルで具体化すると、「自分の行動を自分の価値基準で律する」という姿勢になる。自律の倫理とは他者や国家に依存せず、自分の判断で生活や選択をすることであり、贈与の実践とは、利害や見返りを求めず、日常生活の中で小さな「贈与」を積み重ねる。食べ物や時間の共有、知識の提供、困ったときの手助けなどのことを指す。
 ここで重要なのは、**社会的理想としての「互助」ではなく、個人の倫理行動としての「助け合い」**に焦点を置くことだ。

 「所有」と「自己」の関係について考える。プルードンは「所有は盗みだ」と言った一方で、自分の力で得たものを尊重すべきという側面もある。個人のあり方としては、最小限の所有意識は当然あるだろう。物や資源に執着せず、必要な分だけを手元に置くという感じで。そして、所有する以上、それをどう使うかの倫理的判断を個人が持つ

 これは、ハワイのホームレスコミュニティでの生活を想像すると分かりやすく、限られた資源の中で互いに助け合い、モノに対する執着を最低限にしている姿勢が該当する。

 個人の生活における「連帯」の実感についてはどうか?理論的には「連帯」や「互助」を語るのは簡単だが、個人の生活レベルで実感するには、次のような行動が伴う。日常の小さな「契約」や「約束」を守ることで信頼を築くことが必要だろう。自分の利益だけでなく、他者の利益も意識して行動しなくてはいけない。必要に応じて助けるが、助けたことを誇らず、評価を求めない、当たり前を感じるようにならなくては。

 何か、70年代にちらほら見かけられた、ヤバ気なカルト的コミュニティみたいだ。そう思うとちょっと退くか?

 何はともあれ、ここでのキーワードは「個人的信義」だ。社会全体の制度や法律ではなく、個人の信念と行動が中心になる。
 社会思想を個人レベルに落とすと、結局、社会の理想は「個々人の行動の総和」として現れる。つまり、個人の生活倫理が集まることで、社会的な「互助」や「平等」の小さな形が生まれる。形式的な制度に頼らず、個人の選択と倫理が社会を形作る、という感じ。


 何か難しくなってきたな。だからここでアンパンマンに戻ってみる。つまり、社会の仕組みや制度の理想を語るよりも、個々人のあり方や日常の振る舞い、優しさや思いやりが積み重なった結果として、理想的な社会が立ち現れる、という感じで。そしてアンパンマンはその象徴として最適、というわけだ。
 アンパンマンは「社会制度や法律で人を救う」のではなく、「自分の身体の一部(アンパン)を分け与えてでも、目の前の困っている人を救う」という個人レベルの行為を体現している。プルードンの「相互扶助」や「個人主義」とも呼応するが、彼の理論は抽象的で経済的・社会的関係に重きを置くのに対し、アンパンマンは日常的・情緒的な次元で同じ原理を表現しているわけだ。

 大杉栄の在り方にロマンは感じるけれど、それよりも「ソウイウモノニワタシハナリタイ」というスタンスでいたいし、そこまで言うならば宮沢賢治よりは中原中也の方が好みなのでめんどくさい。
 大杉栄の思想や生き方の“純度”には確かにロマンがある。無条件に理想を体現してる感じ。だけど、そこに自分を置くのはちょっと神格化されすぎているし、なんかちょっと違うという事も無くはない。
 「ソウイウモノニワタシハナリタイ」っていうスタンスだと、もっと個人的な、感情の起伏や不完全さを肯定したくなる。でも、私人ということで言うならば、オレは宮沢賢治より中原中也の方が好み。中也の詩は、理想とか大義ではなく、ただ自分の弱さや孤独をまっすぐ曝け出すところが魅力だから。
 要するに、ロマンの質の違いなのかもしれぬ。大杉栄=大きな理想、賢治=理想の追求、中也=自己の不完全さの肯定、みたいな。だから「めんどくさい」。

 一方で、詩の言葉がスルッと入ってく瞬間は間違いなくあるけれど、そういうある意味迂遠なことをやっていてはいけないのではないか、と思ったりもしてな

 其処は堪えて、中也の表現で「茶色い戦争」というのがあったと思う。決して平和主義者を標榜していたわけではないが、そういう嫌悪感は、個人の枠組みを持っているからこそ出る言葉なんだと思う。「茶色い戦争」という表現は、たとえ中也自身が平和主義者として名を馳せていたわけではなくても、個人の感覚や倫理観を通して世界を見たからこそ生まれたものだと思うのだ。
 中也の詩では、戦争や暴力に対して単純に善悪を問うのではなく、その色合いや匂い、肌触りまで感じ取るような微細な感覚が描かれているように思う。「茶色」という色を選ぶことで、戦争の泥臭さや現実感、そして感情的な嫌悪が、抽象的な「戦争」という概念ではなく、感覚として読者に伝わるのだ。
 つまり、表現に嫌悪感が宿るのは、中也が戦争そのものを哲学的に考察しているからではなく、個人の感覚の枠組みの中で「これは耐えられない」と直感的に感じたからこそ出てくる言葉だと思う。彼の詩は、そういう個人的な感受性が普遍性に変換される瞬間を捉えているのが魅力だからな。

 まぁ、中也自身、自覚していたのは、オレはあんなのにはついていけねえや、という感じだと思うが。その感覚は、プルードンの理想や共産主義的な「人類皆平等」の夢と現実のギャップに直面した瞬間とも言えはしないか?言い換えると、「オレには無理だ」と自覚するのは、単に能力や性格の問題ではなく、その理想を支える価値観や生活リズム、対人関係の仕組みに自分が適合できないことを理解した瞬間でもある。