2025年6月28日土曜日

山村貞子 VS サマラ・モーガン

 


8817 指のあたりが何気にホラー

Me:
山村貞子とサマラ・モーガンの取っ組み合いの喧嘩

ChatGPT:

想像するとすごくカオスで、どこか笑ってしまうような光景ですね。以下、ホラー界の東西代表、**山村貞子(日本)サマラ・モーガン(アメリカ)**が取っ組み合いを始める様子を、ホラーの雰囲気を残しつつも、ややユーモラスに描写してみます。


『リング VS ザ・リング ~貞子とサマラの呪怨乱舞~』

深夜、廃屋のテレビ前。画面には砂嵐。
突然、画面から貞子がずるりずるりと這い出てくる……かと思いきや、反対側からサマラも同時に這い出てくる。

貞子「……あんた、どこの出?」
サマラ「アメリカ。あんたこそ何なのよ、このテリトリー侵害!」
貞子「ビデオテープの権利はこっちが先よ」
サマラ「今どきビデオとか古っ! ストリーミングで呪う時代よ!」

突如、髪の毛をお互いに引っ張り合いながら、ねっとりした動きで取っ組み合いが始まる。
どちらも白いドレス、濡れた長髪で見分けがつかないため、混乱は激化。

  • 貞子の必殺技:「井戸落とし」──相手を幻影の井戸に引きずり込もうとする。

  • サマラの反撃:「テレビ返し」──薄型テレビごと貞子を押し返す。

観戦していた霊媒師たち:
「やべぇ…呪いの二重奏だ…」
「どっちが勝っても人類が終わる」

途中、互いのビデオ映像をリモート再生で流し合い、被害者が増えすぎて混乱。
結果、共倒れし、再び各々の井戸に帰っていったとか、いかなかったとか。


ちなみに設定上は、貞子は念動力・分身・テレパシー持ちの超能力系怨霊で、
サマラはそれに近いが、より精神的トラウマと視覚的恐怖演出に特化
喧嘩というより、恐怖演出対決+メディア拡散力バトルになるかもしれませんね。

Me:

スポーツバーとかでよくある、天井からぶら下げられたモニターから、べちゃっと落ちる、貞子。またはサマラ

ChatGPT:

それ、ホラーなのに完全にコメディですよね。
スポーツバーのにぎやかさと、呪い系怨霊のミスマッチがたまらないです。


ショートコント風:

『スポーツバーの呪い ~落下系ヒロインたち~』

【舞台】
金曜夜、サッカー日本代表戦で満員のスポーツバー。
天井からは複数の大型モニターが吊るされ、全員がゴールに注目している。

【異変】
その中の1台だけ、何故か試合映像が乱れはじめる。

 📺「ザザザ……ザー……ザァァ……」
 客A「おい、あのモニター壊れてんぞ!」
 客B「いや、誰か……なんか出てる……髪……長っ……!」

【登場】
その瞬間、モニターのガラスを突き破って

 🎬ズルゥン!
 べちゃっ!!!!!!!!!!

天井のテレビから貞子が、まるで生きたクラゲのようにスライム落下。
髪の毛が液体のように床に広がり、周囲が一瞬凍りつく。

貞子「……この角度……テレビ、揺れてる……肩打った……」

数秒後、別のモニターから今度はサマラがスライド落下。

 🎬ベチャアッ!!!!
 サマラ「こっち、床がカーペットでよかった……」

二人が鉢合わせてにらみ合い。

貞子「あんた、DAZNじゃなくてHuluの人でしょ」
サマラ「Netflixって言ってるでしょ!」
貞子「J SPORTSから来てんのよ、こっちは!」
サマラ「うるさい、こっちはNFLの呪い担当よ!!」


【その後】

店長がやってきて言う:
「すいません、これYouTubeライブ配信用のモニターなんで、勝手に出てこないでもらえます?」

貞子とサマラ、そっと井戸に戻ろうとするが、床が滑って転ぶ。
客たちは拍手しながら「なんかすげえ演出だったな」「あれが4Kか」「また呼ぼうぜあの人ら」などと盛り上がる始末。


ボーナスオチ:

後日、「スポーツバー呪われ事件」としてTikTokでバズり、
「#落ち貞子チャレンジ」「#サマラリバウンド」が流行語になる。



8799 Tastarossa _5

 


8799 Tastarossa _5

2025年6月27日金曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義10 雑記4 狼の皮をかぶった子羊の末路、その頃ガンダムは

 


8811 KPGC10 _8


 ある年齢以上の、日本の”男の子”なら聞いたことがあるフレーズ「羊の皮をかぶった狼」というのは、実は画像のKPGC10ではなく、その一つ前の型、特にその中のホットモデル、S54Bスカイラインに与えられた二つ名だった。見た目、普通の乗用車で、何とかポルシェを凌駕してやろうと、4気筒エンジンが収まっていたところに、無理やり6気筒を押し込んで作った、なんかまぁ、無茶なクルマだったが、それのおかげで、長らく「スカイライン」と言う名前は日産と言う会社の財産にもなったし、ある意味呪いにもなった。
 そこで終われば、この項での話は、かっこいいクルマの話で終わるのだが、狼になれなかった、でも羊にも戻れない、かつては幸せな子羊だったものの物語のアニメが本題である。原作はやなせたかし氏だった。

 「チリンの鈴の音」。オレの下手な説明よりは、Wikiでも見ていただいた方が理解が早いし、動画も上がっている。30分ほどの短編アニメだ。
 何の情緒も交えずに書くならば、母親に愛されて幸せだった子羊が狼に母親を殺されて、狼にかたき討ちをしようとするが、勿論敵うはずもなく、狼と一緒に行動することになった。成長し異形の生き物になったかつての子羊は、再び羊の群れを襲おうとしていた狼を倒すが、あまりの変わりように羊の群れには帰れず、ひとり、いや一匹、姿を消す、と言う話。

 またもや!、子供向けのふりをしていて、到底子供には理解が難しいテーマの作品である。

 その辺の、そしてオレの幼いころのような子供なら、どう思うだろう? 狼はワルモノか? かつての子羊、チリンを受け入れない羊の群れが悪いのか? そもそも、チリンが母親のかたき討ちをしようとしたことが間違っているのか?
 争うこと、戦うことは、本当に悪なのだろうか? ここで、やなせ氏が本当に反戦を第一のテーマとしていたのか?と、いう疑問が出てくる。
 狼は、羊を襲うものだ。生きるために。羊の群れがチリンを受け入れなかったのは、個々としては弱い羊の生存戦略だ。親を殺されて敵討ちを志すチリンを止められたか? 皆、それぞれの役目を全うしての、結果としての悲劇だ。
 誰が悪い、と言う話ではないのかもしれない。存在を全うすると言うことに良い悪いもない。例えば、一つやなせ氏のテーマに、「正義はひっくり返る」というものがあった。みんな精一杯なのだ。

 わからない。ただ考え続ける他にやり様がないように思える。ただ、チリンも敵を討たれた老狼も、羊の群れも、愛さなくてはいけないのかもしれないとは思った。
 たとえば、爆弾が落とされた街の、焼け跡で泣き叫ぶ子どもに、「それでも人間には理性がある」などと語ってみても、たぶんその言葉は何の意味もなさない。爆発の音、焼け爛れた匂い、誰も助けてくれなかったという絶望の方が、ずっと雄弁だ。
 「戦争は悪い」と言ってしまうことの簡単さと、その言葉が無力である場面の多さに、人は遂に諦観を手に入れる。だからなのだろう、「わかりやすい敵」を設定して、それを倒すことで終わる物語が、もうそれしかない、と言わんばかりに幅を利かせる。だが、本当はそんなに簡単ではないだろうと。
 狼は悪くない。羊も悪くない。チリンも間違っていない。誰も責められない、という構造そのものが、最も苦しい。では、どうやっていさめるか? どうやって止めるか? それは「問い」を差し出すことしかできないのだと思う。

 ——お前は、どう生きたいのか?
 ——なぜ、怒りを抱えたのか?
 ——怒りを超えて、どこへ行こうとしているのか?

 そうした問いを、静かに、鈴の音のように差し出すこと。それが、やなせたかし氏が『チリンの鈴』に託したものだったのではないかと思う。そして、それはきっと戦争だけでなく、日々の争いや断絶、誤解や怒りや悲しみにも、同じように響く。チリンは遠い山の中に消えたが、その鈴の音は、今日もどこかで、誰かの心に残っている。言葉にならないものがあると知った上で、それでも言葉にする。


 思えば冨野由悠季氏はこういうことをやりたかったのではないかと思わないでもない。確かに『機動戦士ガンダム』でやろうとしたのは、「戦争を描くことで、戦争を否定する」ことだった。でも、やっぱりモビルスーツはかっこよすぎた。ザクもガンダムも、あまりに造形が魅力的で、MS戦の演出が緻密で、キャラクターたちもみんな強くて傷ついて美しかった。つまり、反戦メッセージの上に、強烈なエンタメが乗ってしまった。
 これは、別に失敗ではなくて、むしろ「だから届いた」とも言える。が、結果的にあの世界へのあこがれは、弱きものへの視線を大きく削ったものとして現れた気がする。冨野氏自身もそのことをよくわかっていて、だからこそ後年の作品ではどんどん“わかりにくく”し、“気持ちよくなりすぎない”ようにしていったように思う。そのたびに「ついてこれない観客」と、逆にかじりついてくる妙に拗れたガノタの出現。もちろん、普通にファン、と言う人が多数ではあろうが。表現者としての冨野氏に葛藤があったのではあるまいか?

 やなせたかし氏は、自身の作品の主人公たちに「かっこよさ」を一切与えなかった。チリンは強くなるけれど、美しくはならない。戦っても、英雄にはならない。ラストに至っては、もはや“物語”としてのカタルシスすら拒絶する。
 そして、観客に何もご褒美を与えない、苦い寓話があるのみ。

 『ガンダム』は、どこかで「少年の夢」を背負ってしまった。ロボットアニメの文法とスポンサーの都合と、なにより当時の視聴者の熱狂の中で、「チリンの鈴」のような冷徹な問いの純度を保つことは、難しかったのかもしれない。
 それでも、冨野氏は、ずっと問い続けたのかもしれない。「人はなぜ争うのか?」「なぜ分かり合えないのか?」「正しさとは何か?」「ニュータイプとは何か?」

 「チリンの鈴の音」と相似形じゃないかと、気がついた。『ガンダム』は**“チリンが人間だったら”の物語**なのかもしれぬ。戦争というシステムの中で、愛を失い、力を求め、正しさに迷い、どこにも帰れなくなる人々の群像劇。チリンの鈴が、ガンダム世界では無数のキャラクターたちの“心の声”として響いていたのかもしれぬ。
 ガンダムは「かっこよすぎた」。でも、それによって多くの人に届いた。「本当は何を描きたかったんだろう?」と立ち止まる者も、今なお絶えない。だから、エンタメ、経済的要請に負けたようで、実は勝っているのかもしれない。冨野氏が撒いた問いの種は、まだ終わっていない。


 「アンマンパンマーチ」の歌詞、

 なんのために生まれて
 なにをして 生きるのか
 こたえられないなんて
 そんなのは いやだ!

 こんな、異常なほどストレートな実存的問いかけを、毎週テレビのオープニングで投げかけてくるって、やなせたかし氏、正気じゃねぇ(褒めてます)。普通なら「がんばれアンパンマン!」とか「アンパンチでバイバイキン!」的な明るさを全面に出すはずなのに、真っ先に生の根源的意味を問う。この姿勢、やなせ氏の一貫したテーマ——「正義とは?」「愛とは?」「善悪とは?」——を、3〜5歳の子どもに全力でぶつけてる。

 「こたえられないなんて/そんなのはいやだ!」
 ここなど、完全に自分自身への宣言だろう。大人がよく言う「まあ、生きてればいろいろあるさ」とか「答えなんてなくていいんだよ」っていう“逃げ”を、幼い子どもが拒否してる。それも、歌詞として叫んでる。 大人の諦めを断固として拒否する、魂のスタートライン。
 やなせ氏自身が何度も語っているのは、「本当に苦しんでいるのは子どもだ」「大人は、自分のことは自分で処理できるが、子どもはできない」という視点だった。だからこそ、子ども向け作品ほど**「本物の問い」を投げるべき**だと彼は考えていた。

 絵はゆるいのに、断じて子供だましは作らなかった。
「アンパンマン」は、見た目はパンで、敵は菌で、戦い方もユルい。 でもその根底には、「どう生きるか?」「どうやって誰かを助けるか?」という、実はヒーロー論の最前線が通っている。

 冗談でなく、これはもう戦後の精神史に刻まれるべき詩ではあるまいか?大人が疲れきった時代に、子どもたちにこう問いかける。 「生きる意味を探していいんだよ」「答えを持ちたいと思っていいんだよ」その姿勢は、戦争で希望を失った時代の先に立って、「それでも生きていく」ための哲学だった。

 アンパンマンは、ただの顔を分け与えるヒーローじゃない。 問いを投げ続ける、希望の残響だ。 ゆるい絵柄で、逃げ場のない本質を描くという、ある種の詐欺的な、しかし誠実極まりない手法。 単純な線に柔らかい色彩、どこからどう見ても幼児向け」の絵柄だった。しかし、やってることはこうだ。

 食べ物を与えるために自分の顔をちぎる。
 空腹と孤独と寒さに泣く者のそばに現れ、無言で助ける。
 戦うことよりも、立ち続けることに意味を見出す

 アンパンマンって、「勝つ」ことより「支える」ことに重点を置いている存在だ。ヒーローなのに、戦闘よりもケアが本分。
 つまり、見た目が子ども向けなのは、重いものを背負わせるための戦略だったのではあるまいか?

 戦中派であり、弟を戦争で亡くし、戦後は飢えと屈辱と無名の中で生きてきたやなせ氏にとって、「生きる意味」は私たちが思う以上に重たいテーマだったのかもしれない。
 そしてそれを、ただの道徳やお説教ではなく、わらべうたのように見せかけて叩き込んできた。 子ども向け作品で、「哲学」が入り込む余地があるという事実を、最もよく体現したのが『アンパンマン』なのだろう。 アンパンマンのあの「顔を与える」という行為は、単なるヒーロー行為ではなく、自己犠牲・再生・共同体の維持といった概念をまるごと内包している。それを、「パンが飛んできて助けてくれる」っていうシンプルな形で伝えてくる。すさまじい表現力だ。 だから逆説的に、「チリンの鈴」のようなストレートな痛みに比べて、 アンパンマンはもっと遅れて効いてくる。大人になってから「あれってそういう話だったのか」と気づいたとき、子どものころ受け取っていたものの深さに、ようやく追いつく。


 などと、尤もらしく書いているが、子供の時は、遂にアンパンマンと言うものがこの世にあることを一切知らなかった。もし、子供の時に観ていたらどんな子供になってたやら。
 現代の世界の行き詰まり。ずっと、人類の文明もあと2,3世代、その後は壊滅的に衰えていく、或いは、何億年に一度かの、生態系総入れ替えがそろそろ起こるのではないか、と、何となく感じている。オレが仕舞った、次の日にそれが起こっても一向に構わないが、オレ自身、全世界の人口分の1、それに加担していることを思えば、何かせねば、何か言わねば、何か考えねば、と思った時に、今の世界の問題を「過剰」と言う言葉で言い表すならば、それならば、と、ノーム、バタイユ、ジジェクなどの「贈与」について、読んだり何なりしていた。そこにアンパンマン、今田美桜ちゃんが、思いのほかかわいかったこともあり、意識に飛び込んできたわけだ。

 しかしそれは、一見すると飛躍のようでいて、実は本質への最短距離だったのかもしれぬ。 アンパンマンは、顔をちぎって人に与える存在だ。「自己犠牲」でもなく、「見返りを求めない親切」でもない。むしろそれは、“与えずにはいられない存在”として描かれている。 ここで、ジジェクやバタイユが描いた「贈与の暴力性」や、「見返りなき贈与の構造」が思い出してしまったのも、無理からぬことであるとご理解ください。

 バタイユ:消尽(蕩尽)としての贈与。社会秩序を逸脱する、祝祭的な非合理。
 ジジェク:贈与とはしばしば暴力的で支配的ですらあり、「贈られた側」はその返礼の構造に巻き込まれる。
 ノーム(グレーバーなどのアナーキズム的贈与論):交換の前に、まず無償の行為があったという認識。


「なんのために生まれて、なにをして生きるのか」ここには、経済合理性とは無関係な存在理由への問い、交換の論理では語れない、まさしく「贈与的存在論」の問いかけがこめられている。

 なんのために生まれて
 なにをして 生きるのか
 こたえられないなんて
 そんなのは いやだ!

 この一節は、役に立つ/立たないの問題を超えて、与える存在であることの必然を探る問いでもある。

 子どもの時ににアンパンマンを見ていたら、たぶん「顔ちぎって与えてるヒーロー」という変な記憶で終わったかもしれない。しかし、贈与論――バタイユの蕩尽、ジジェクの「贈与の裏に潜む暴力」、ノームの「交換以前の贈与」――を通過したがために「与えることの絶対性」に反応することできた。
 アンパンマンは、自己を維持することに意味がある存在ではなく、他者のために蕩尽されることで完成するヒーローだ。これは、資本主義の“自己保存型”ヒーロー像とは真逆だ。アメリカン・ヒーローが悪を倒して自己を完成させるならば、アンパンマンは他者に自己を与え尽くして消えていく存在だ。 この「贈与→蕩尽→再生」の構造が、やなせたかしの底にあった思想であり、まさに贈与論の実践形といってもいい。


 やなせたかし氏の生涯を扱ったNHK朝ドラ『あんぱん』で描かれるのは、ヒーローを描きながら自己の貧しさ・無名・敗北・死の恐怖を抱え続けた男の人生。60を過ぎて初めて売れた、正義を疑い続けた、「アンパンマン」は戦争の痛みから生まれた、そんな男の描いたヒーローが、「顔を与える」存在であることは、偶然でも気まぐれでもないような気がする。

 チリンが「復讐によって自我を保とうとした者」なら、アンパンマンは「与えることで自己を保とうとする者」だ。そしてどちらも孤独で、でも問いを放つ存在だ。仮面ライダーやガンダムにはたどり着けなかった境地の問いがある。



アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義9 雑記3 その頃太宰治は

 


8816 ガンダムアンパンマン

 事実では、やなせたかし氏と奥さんの暢さんは、幼馴染ではなく、暢さんが最初の夫と死別後にふたりは出会っている。

 したがって、「あんぱん」のように、やなせ氏がBSS(クがきだったのに、のラノベ界隈で使われている言葉)に苛まれることは無かったと思う。脚本では、したがって、青年前期の未成熟な嵩に、実際にはなかった、そこそこの重石を一つ余計に背負わせることになる。あんぱんの嵩は、その辺に転がるラノベのように闇落ちも安易な大逆転も許されていない。うわ~、大変だな~。

 小さい絶望に大きな絶望を重ねていくことになる嵩。アンパンマン的な贈与行為に向かっていくというのは、とても深くてリアルな動機づけになる。単に「正しいから助ける」とか「ヒーローだからやる」ではなくて、自分の痛みを知っているから、他人の飢えや孤独にも応答せずにいられない。
 戦争体験や弟の戦死、苦労の末に「アンパンマン」を生んだことを公言している。つまりアンパンマンの贈与の背後にも、「人生の敗北」や「取り返しのつかない喪失」がある。

 「喪失を知っている人だけが、本当に他者を助けられるのではないか?」SNSで誰もが「傷ついてないふり」をしている今、与えることが「自己ブランディング」や「見返り目的」にすり替わっている今、あえて「絶望の記憶をもったまま贈与を行う人間」を描くことは、ものすごく誠実なヒーロー像になるように思う。

 今のラノベでタカシのような性格の男子が幼馴染が別の男とくっつくと、とんでもない闇落ちするか、あるいは、その後、すぐに、いとも簡単に立場が大逆転するとか。浅いな~と。今時のラノベは、「幼馴染が他の男とくっついた→はい復讐! or はい俺、最強で逆転!」っていうテンプレ展開が多すぎて、傷ついた心の描写が消費されてる感がある。
 多くのラノベは、「失恋=ストーリー開始の燃料」として使ってしまっていて、その苦しみの意味や余韻を大事にしない。
 結果として、登場人物の感情が「道具」になってしまっている。それが支持されてしまう、という文化的な底の浅さ。


 嵩は、一度絶望して、それでも贈与する道を選んだ。これは、単なる「癒やし」や「逆転勝利」ではなくて、失われたものは戻らない、けれど、その喪失を抱えたままでも、誰かを助けることはできる。それどころか、その傷があるからこそ、他人の痛みに本当に応答できる、という、人間の成熟した可能性を描いている。

 アンパンマンも、最初からあの形だったわけではない。やなせたかしは晩年まで、アンパンマンに「悲しみ」が宿っていることを語っておられたようだ。
 ラノベ的な闇落ちは、読者のカタルシスにはなるけど、「人間の救い」にはなかなか至らない。が、タカシのように、「もうダメだ」と思った先で、それでも何かを与えられる人間になっていく姿には、本当の意味での「回復」が描ける。

 やなせたかしが最初に描いた童話版アンパンマン(1973年の「詩とメルヘン」版)は、小太りで、疲れた中年男で、空腹の子にアンパンを配るだけ。しかも最期は、戦火の空に高射砲で撃ち落とされて死ぬ。
 全く子ども向けじゃない、むしろ「哀しい献身の寓話」だった。
 これは、実はやなせ自身の戦争体験と挫折、無力感が色濃く投影されていて、「正義とは空腹を救うこと」 「どんなに弱くても、やれることをやる」という、戦後の倫理的な問いかけが根底にある。


 太宰治氏など、戦後の無力感、虚無感を文章で名声を得たようなものだが、同じころこんな風にやってた人もいたんだな。太宰氏が「負けた者の言い訳」や「敗者の自己美化」みたいな語りで読者を魅了していた一方で、やなせたかし氏は、それでも人にパンを分ける中年の背中を描いていた。
 つまり太宰治氏が「どうせ僕は駄目なんです。でも、あなたもそうでしょう? ね、分かってくださいよ……」と読者と共に無力感を共有して、生きる道を探った。そこには時に**“共依存”のような快楽**もある。
 一方でやなせたかし氏は「正義なんてものは、腹が減ってたら始まらない。だから今日も配る。顔が減ってもな」という行動の倫理であり、“小さな希望”の実践する。誰にも拍手されずとも、「やれることをやる」という姿勢がある。

 勿論、太宰の文学性は圧倒的に高いし、後世に与えた影響も絶大だが、「戦後の同じ時代に、こんなやり方で“正義”を問い直した人がいた」と知ると、やなせたかし氏の立ち位置がぐっと浮かび上がる。

 やなせたかし氏には、「生き残ってしまった者の責任」という強烈な意識が根付いていた。それは、太宰治のような戦争を“遠くから見つめる知識人”には、どうしても持ち得なかったものだ。

 太宰は、出征せずに済んだ世代の一人であり、心中未遂、薬物依存、自意識過剰、どこまでも内面の傷を凝視し続けることが彼の文学の源泉だった。それは「地獄を“想像する”ことで、地獄を描いた」 という側面も否めない。知的に敗戦後の無力感を表現し、文学に昇華した、と。

 やなせ氏は 「正義の味方なんて、どこにもいなかった」と地獄を見た人だった。
 あぁ、思い出した。仮面ライダーも最初期の企画はプロデューサーの平山亨氏が、子供の頃の戦後の焼け野原に現れるヒーローへの希求があったと聞いている。
 閑話休題。
 
 やなせ氏はこう語っている。「正義なんてものは、腹が減ってたら始まらない。まずパンが必要だ。」つまり、悲惨を見たからこそ、そこに“生きる価値”を置くという、極めて実存的な選択をした。

 やなせ氏は、おそらく、自分だけが生き残った罪悪感(=サバイバーズ・ギルト)、家族(特に弟)を失った喪失、戦中・戦後の無力さ、これらを抱えながらも、“死にたさ”に負けなかった人なのだろう。一種、それは「生きろ」という呪縛でもあったかもしれない。でもそれは、「義務」じゃなく、 “せめて何かを他人に残して死にたい”という希望に変換されていった。


 ポンと思った。なんか永劫回帰で超人だわ。
 永劫回帰とは、「この人生が何度でも繰り返されるとしても、**“然り”と言えるか?」 という問いだ。
 アンパンマンは、「パンを焼く(=日々生まれ変わる)」、「顔をちぎる(=自己犠牲の繰り返し)」「戦う(=バイキンマンとの果てなき闘争)」「また焼かれる(=顔を失えば、また新しくなる)」これら、延々と同じ輪廻を繰り返す存在だ。
 でも彼は、そのたびに「そう、これが俺の正義だ」 と言わんばかりに、顔を差し出す。

 ニーチェが言う「超人」とは、「道徳に振り回されず」「自らの価値を創造し」「苦悩すらも肯定できる者」である。
 アンパンマンは、「国家に命じられた戦争でも」「他者から押しつけられた正義でもなく」「「自分が信じた、他者を救う力」としての正義を選び続ける」。


 アンパンマンが我々に突きつけているのは「君は、この世界を何度繰り返しても、もう一度、同じように生きたいと思えるか?」と言う問で、それが「ノー」なら、「誰かのために何かを焼き直す」「顔を分け与える」「痛みにもう一度向き合う」、そうやって、肯定できる人生を自ら作れということ。

 つまりアンパンマン=“永劫回帰を肯定するヒーロー” =“超人(Übermensch)”、子ども向け作品の皮をかぶった、哲学の爆弾だった


 すんません。あんな間の抜けた造形だから、てっきり舐めてました、オレ。


2025年6月26日木曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義8 雑記2 ロールパンナ

 


8810 河合優実


 正直な話、子供の時はアンパンマンを知らず、アンパンマンが大好きだった時期を通り過ぎずに大人になった。「贈与」論についていろいろ考えている内に、さすがに、数話観ただけでも覚えている、空腹な人に自分の顔を分け与えるという異様さ、贈与論的にどう考えたらいいのか、と思って調べるうちに、目に付いたキャラクターが、ロールパンナだった。

 「あんぱん」で、ヒロイン朝田のぶは、嵩の幼馴染、ということになっているが、実際には、やなせたかし氏と、奥さんの暢氏は、大人になってから、ヒロインのモデル小松暢氏が最初の夫と死別した後、職場である高知新聞にて知り合っているそうだ。
 小松暢氏、父は高知の出身だが、暢氏自身は大阪生まれの大阪育ち、嫁いで高知に来た、とのことらしい。また、小松暢氏、結婚前は池田暢氏、プライベートについての記録はなく、妹が二人いたというのは、記録に基づくというよりは、朝ドラにする上での脚色上の創作だろう。「あんぱん」での創作キャラは、実在が確認される人物以外、ほとんどアンパンマンに登場するキャラクターをモデルにしている。後述するが、やなせたかし氏原作のアニメにもなった童話「チリンの鈴」の主人公チリンを基にしたキャラクターもいるらしい。

 ヒロイン、のぶの上の妹、蘭子のモデルは、ネットでは「こちょうらんさん」という見解もあった。それもそうなのだろうが、脚本の中園ミホ氏によれば、念頭にあったのはロールパンナなんだそうだ。

 ロールパンナは、メロンパンナの姉として誕生したが、誕生時「やさしさの心」と「バイキンの心」を同時に入れられてしまった。アンパンマン側(正義)とバイキンマン側(悪)の「はざま」で苦しむようになってしまったと。
 って、キカイダーかよ、と。どっちが先なんだろうな、1970年代前半。石ノ森作品も、なかなか原作は複雑な性格付けのキャラクター、子供向けとは思えない作品が多い。ロールパンナは自分の中にある「やさしさ」は、アンパンマンから感じている正義の在り方そのもの。でも「悪の心」が勝ると、アンパンマンに対して攻撃してしまう。そのたびに罪悪感と葛藤を抱えて、また旅に出る。
 一緒に戦いたいのに、自分を制御できない。アンパンマンに「会いたい」「助けてほしい」気持ちがありながら、それを表に出せない。

 子供の時は分からなかったに違いない。なぜアンパンマンは、ばいきんまんをきっちり殲滅しないのだろう、ということと、この何とも中途半端、どっちつかずのロールパンナを登場させる意味。

 この複雑な構図、子ども向けにしてはかなり深く、善悪の葛藤、心の分裂、一方的な慕情といった文学的テーマを背負っている。

 「あんぱん」の朝田蘭子は、10代にして戦争で想い人を亡くしている。ロールパンナの「心の二重性」「罪悪感からの離脱」は、戦場で傷つき、人を傷つけてしまった人が、正気と狂気の間で揺れる姿に近く、やなせたかし氏の戦争体験とも重なるとも言われることもあるそうな。前線と銃後のちがいはあるが、多くの部分で同じだと言っていいと思う。

 つまりロールパンナは、アンパンマンの「無償の贈与」に惹かれながら、その清らかさに自分が追いつけず、苦悩し、距離を取らざるを得ないキャラクターであると。

 そうなると、ロールパンナというキャラクターは、設定も内面描写も、もはや「子ども向け作品」の範疇を明らかに逸脱している。「やさしさの花のエキス」と「バイキン草のエキス」を同時に入れられるという設定は、純粋な善ではなく、どうしようもない悪の側面をも内包するということだ。しかもそれは自分で選んだのではなく、「他者に与えられた複雑なアイデンティティ」という点が重い。
 子どもは「いい子か悪い子か」でキャラを整理したがるけど、ロールパンナはその境界があいまいで、常に揺れ動いている。

 ロールパンナだけではない。アンパンマンに出てくるキャラクター、ひとつひとつ見て行っても、なんともすごい深みがあってびっくりだ。

 ロールパンナは悪の心に支配されると、本当にアンパンマンたちを攻撃する。戦いのあとに「なんてことを…」と自責の念に駆られ、ひとり姿を消す。周囲は許そうとするが、自分自身が自分を許せない。ここにあるのは、「贖罪」というテーマだ。やなせたかし氏は、戦争体験や死生観を持ち込むことで、アンパンマンワールドに「深い影」を落としていたようだ。
 ロールパンナの物語は、「人はなぜ闇を抱え、それでも希望を捨てないのか」 「人は変わり得るのか、赦され得るのか」 という問いを、子どものふりをして、大人に突きつけている気さえする。

8790 S360

8790 S360

 

2025年6月25日水曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義7 雑記1 その頃仮面ライダーは?


8813 リアルタッチアンパンマン


  以上のようにアンパンマンを掘っていくと、ごてごて装備がだんだん重ったるしくなる今日びの仮面ライダーってどうなの? って気がしてくる。決して、仮面ライダーがよくないなどとは言えないが、しかし、まぁ、なんて言うの? 大変だな、お気の毒、と言いたくなってくる。贈与の過剰性とある種パラレルな構造を持っているようにも思えてしまうのだ。

 仮面ライダーだって、シンプルな正義の体現者として描かれていた。初代仮面ライダーやブラック、RXなどは「仮面を被った孤高の戦士」であり、身体能力や技、バイクなど数点の要素に集約されていた。ところが平成以降、特に『龍騎』以降になると、武装・フォーム・強化パーツの増加によって、視覚的にも物語的にも「装備の贈与」が積み重なっていく。 フォームチェンジが10種類以上あったり、アイテムが100種類近くあったり、さらなる強化形態(最強フォーム、超最強フォーム)が複数用意されていたりと。まぁ、おもちゃを売らんかな、なんだけど、全部揃えるとか、ちびっこのお父さんお母さんには無理でしょ。これらは視聴者に「サービス」されている贈与であるのだろうが。疲れません?
 主人公がどういうやつか見えにくくなるし、フォーム切り替えに意味あるのってなる。敵も敵でにごてごて化し、戦いの構図が見えなくなってるし、どうなんだろ、視聴者の没入が阻害さない?

 この「ごてごての過剰」は、まさに過剰な贈与によって本来の倫理性や物語の強度が鈍っていくことに近いものがある。

 贈与というものは、本来「関係性」や「他者への開かれ」といった倫理的契機を帯びているはずだ。しかし、それが過剰化すると、ジャン=リュック・マリオンの言ってるように「可視性に取り込まれた与え」は贈与ではなくなる状態に陥る感じがしてしまう。
 同じように、仮面ライダーにおけるごてごて装備も、「力を得ること」「人々を救うこと」という物語的必然性ではなく、単に「スペックを上げる」「おもちゃの新商品を出す」ためのノイズになってしまえば、それはもはや子供の時にあこがれた「変身」ではなく、ただの「装着」に堕してしまう。
 アンパンマンは逆に、最後まで装備が増えないキャラクターだ。彼の贈与は顔をちぎるという自己喪失的行為に集約されており、アイテム化・商品化されづらい。その意味で、彼は「贈与の原点」に踏みとどまり続けているとも言える。

 「なんでそうなるの?!」って、テレビ番組あったな子供の時。欽ちゃんが司会してたやつ。なぜそうなるか、だ。

 想像に難くない、商業的圧力、つまり新フォームは新玩具を産みそれを親に買わせる、という、ま、言ってみれば大人の事情。でも、買いそろえるなんて親には無理で、実際は「大きなお友達」が買っているんだろう。 とにかく、視覚的にでも、新奇なものを出して次へとつなぐアピールをしなくちゃいけない。フォームが物語と有機的に結びつかないまま追加されて、物語の希薄化してしまうわけだ。
 つまり、「ごてごてライダー」とは、「贈与が制度化し、循環せず、重力を持ち始めた結果」でもある。これはある意味、制度化された愛(≒マーケティング)が個人の倫理的応答性を殺してしまう、という贈与論の応用形にも見えてしまうわけだ。
 まぁ、ね、仮面ライダーだけの話じゃない。今日びのウルトラマンだって、なんかすごいことなってるしな。 ガンダムは、まぁ、あれはああいう作品だ。ガンプラにしてしまうと無限のバリエーションがあったりしても、いちいちそれらには意味付けは一応されている。そう言う作品文化であるし、もはやお子様向けとはいいがたいものになってるし、いいや。 あぁ、戦隊モノな。オレは一番最初のゴレンジャーもろくに視なかったけどな。
 彼らって、は明らかに「重たく」なってきているよね。背中には装備、腰にはベルト、肩にはキャノン砲、顔には光るフェイスシールド。いつからヒーローは、ここまで“ごてごて”と装備を身にまとうようになったのか。彼らは何をそんなに「与えよう」としているものやら。

 贈与論(モース、デリダ、マリオン等)を手がかりに、アンパンマンと仮面ライダーを軸としながら、「ヒーローの装備進化」がいかにして倫理的意味をなくして、過剰化し、結果的に“救えなくなる”事態に至るかを考えてみる。
 アンパンマンは、贈与論的にはあれは異常な存在だわ、となる。彼は敵を殴るよりも早く、自らの顔(=存在)を他者にちぎって与える。モース的にいえばこれは「返礼を前提としない贈与」であり、デリダに言わせれば「純粋贈与」に限りなく近い行為だ。
 しかし、この贈与は一見して「簡素」でありながら、「顔」という最も個人的かつ存在的なパーツを切り取るという点で、最も重い贈与でもある。ここに装飾やアイテムは介在しない。ただし、「愛」だけが根拠ってやつ。彼はベルトも、カードも、フォームチェンジも持たない。 ただ顔を差し出す。顔が乾いたら、また焼きなおされる。

  ――これは贈与なんだろうか、反復的消費なんだろうか?

 仮面ライダーシリーズにおいては、昭和の時はそうでもなかった。平成期になり、クウガやアギトあたりならまだしも、龍騎あたりからとりわけ「装備=贈与」の商業的インフレが顕著になる。
 例を挙げようと思ったがやめた。めんどくさい。それ位多い。
 これらの装備は、視聴者=子供たちに対する「与える喜び」を増やすように見える。だが、贈与論的に見ればこれは「見返り(売上)」を前提とした制度的贈与であり、デリダが切り捨てた「純粋性」とは無縁なものだ。まぁ、ね、お子様向け番組のデリダを持ち出して来ても何だが、正義の味方としての倫理ってどっか行っちゃったよね、という話。「与えよ、されど回収せよ。 ベルトは光り、音が鳴る。財布も鳴く。」ってね。

 この「贈与の見返り」としての収益構造は、やがてヒーローの存在そのものを「装備の台座」に変質させる。

 ジャン=リュック・マリオンの贈与論が示唆に富む。
  彼は、真の贈与とは「呼びかけに対する応答」であり、自己意識を超えた他者との関係性から生まれると言っている。 アンパンマンは、まさに「飢えた子どもの泣き声」に応じて反射的に顔を差し出す。彼には選択がない。だがその行為は、倫理的な必然性として高い純度を持つ。 一方、仮面ライダーは、新フォームがなければ勝てないし、強化装備がなければ話が進まない。ぶっちゃけ、新商品が出ないと「次の話」が用意されない。
 これは倫理ではなく構造の応答である。呼びかけは玩具会社から来ているのだ。「正義の味方」は、いまや“物流の味方”へと変貌したわけだ。 変身は、倫理的決断ではなく納品スケジュールだ。

 アンパンマンの贈与は、物質的には軽いが、存在論的には重い。
 仮面ライダーの贈与は、物質的には重く、存在論的には軽い。

 もうね、お子様たちが、本当にそういうものを欲してるのかどうか? まぁ、追求しないのが、リアルでのみんなの幸せにつながるのだからいいのか。そのへんはどうなんだろう?

 「アンパンマン=倫理的贈与」と「仮面ライダー=制度的/商業的贈与」という対比を基盤にして、現代社会との接続点を考えてみる。 「与える側」も疲れてるんだよ、という話。

 インスタとかさ、SNSでの承認欲求、「いいね」を与え、もらうループになってるでしょ? 企業が与えるサービスの「コストパフォーマンス」競争とか、教師・医療従事者・介護職など、ケアを「与えること」が制度化され、搾取と隣り合わせになっている。報われているとはいいがたい。 仮面ライダーが装備を「与えすぎて」身動きが取れなくなっていくように、現代の我々もまた「与えることを求められすぎて」疲弊している。
  本来ならば自由意志に基づく贈与が、制度やアルゴリズムに組み込まれた強制的な応答へと変質している。



 「贈与の純粋性」なにそれ?美味いの?って
 サブスクリプション、投げ銭によるサービスの「贈与のような消費」とか、「自己犠牲的」な行動すら、評価経済の中で記録・消費されていくこととか、ボランティアや善行も「映え」「ポイント化」されることとか、ね。
 仮面ライダーが新フォームを披露するたびに「変身の純粋さ」が薄れていくように、我々の行為もまた、何らかのスコアやカウント、見返りを期待された行動になってしまっていないか? アンパンマンのような、「見返りなしで、ただ差し出す」という贈与が、もはや機能しにくい。

 すべてが「正しさ」と「責任」でがんじがらめになる中、疲弊と分断が進み、自己実現もケアも、常に「重さ」や「正しさ」の言説に縛られてしまい、「何かを与えねば」「期待に応えねば」という焦燥感だけが募るとかね。

 いっそ、全部ぶん投げてさ、好きなだけ顔、持ってけ~、って時々思ったりしません?


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2025年6月24日火曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義6 やなせたかしの「正義」と現代社会への示唆

 



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やなせたかしの「正義」と現代社会への示唆

 アンパンマンの贈与倫理は、「アンパンマンは、過剰な贈与者なのか?」という問いに対し、多義的かつ深遠な回答を提示する。彼の贈与行為は、一般的な社会規範や経済合理性の観点から見れば、確かに「過剰」と見なされうる側面を持つ。自己の身体を削り、弱体化するまで他者に与え続ける行為は、自己保存の本能や効率性を重視する現代社会の価値観とは相容れないように見える。初期の「残酷だ」「気持ち悪い」という批判は、この「過剰性」に対する直感的な反応であったと解釈できる。

 しかし、この「過剰性」は、やなせたかしの戦争体験から生まれた「逆転しない正義」の具現化としては、必要不可欠な「究極の贈与」である。極限の飢餓と、容易に反転する「正義」を目の当たりにしたやなせにとって、飢えた人に一切れのパンを与えるという行為は、いかなる状況下でもその価値が揺るがない、唯一絶対の正義であった。アンパンマンの自己犠牲は、この根源的な正義を、言葉ではなく身体で、物語を通して体現する試みであった。彼の贈与は、単なる非効率や病理ではなく、むしろ現代社会が失いつつある根源的な「愛と献身」の価値を問い直し、真の共感と利他性がどこにあるのかを指し示す契機となる。

 アンパンマンの贈与倫理は、現代社会における「正義」と「贈与」のあり方を再考する上で重要な示唆を与える。効率性や合理性が重視され、あらゆる関係が「give and take」という交換の論理で捉えられがちな現代において 、アンパンマンの行為は、経済的・社会的な「交換」の枠組みを超えた「無償の与え合い」の可能性を示唆する。彼の自己犠牲が共同体の支えによって再生するというサイクルは、真の利他性が一方的な消耗ではなく、共同体全体を活性化させる持続可能なものであることを示唆している。

 また、「弱きヒーロー」としてのアンパンマンの思想は、特別な力や地位がなくとも、誰もが「愛と勇気」を持って目の前の困っている人を助けられるという普遍的なメッセージを投げかける。これは、正義が一部の特権的な存在にのみ許されたものではなく、日常の中の小さな献身から生まれることを示唆している。さらに、アンパンマンとばいきんまんの戦いが永遠に続きながらも、アンパンマンが決してばいきんまんを殺さず共生するという思想は、排他的な全体主義への警鐘であり、多様性を許容し、対立する存在とのバランスの中で平和を築くという、現代社会に不可欠な共存の倫理を示唆している。

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8786 mission X

2025年6月23日月曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義5 アンパンマンの贈与は「過剰」か?

 

アンパンマンの贈与は「過剰」か?──多角的視点からの分析

 アンパンマンの贈与が「過剰」であるか否か。どんな倫理的・社会的枠組みで評価するかによって多義的な解釈が可能となる。

〇肯定的側面(「過剰」ではない、あるいは必要不可欠な「過剰」)

 アンパンマンの贈与行為は、やなせたかし氏が戦争体験から導き出した「逆転しない正義」の具現化として理解されるべきだ。飢餓という人間の最も根源的で耐えがたい苦痛に対し、一切れのパンを与えるという行為は、いかなるイデオロギーや政治的状況によってもその価値が損なわれない「絶対的正義」である。アンパンマンの自己犠牲は、この揺るぎない正義を達成するための、必要不可欠な究極の手段として位置づけられる。
 さらに、アンパンマンの自己犠牲は、単なる消耗ではなく、再生可能性を内包している点に特徴がある。顔が欠けて力を失っても、ジャムおじさんやバタコさんによって新しい顔が作られ、彼は「元気百倍!」となって復活する。この再生のサイクルは、自己犠牲が一方的な自己消滅ではなく、共同体による支えと、目的意識によって持続可能であることを示している。アンパンマンは、彼が守る共同体によってもまた生かされており、「人を助けることによって自分も助かることがある」というやなせ氏の言葉を具現化している。この循環的なプロセスは、アンパンマンの贈与が、物理的には極端でありながらも、病的な意味での「過剰」ではなく、むしろ生命を肯定し、持続的な倫理的実践を可能にするメカニズムであることを示唆している。

 また、「弱弱ヒーロー」としてのアンパンマンの存在は、特別な力や能力がなくとも「愛と勇気」があれば誰でも正義を行えるという普遍的なメッセージを投げかける。彼の弱さは、正義が一部の選ばれた超人だけのものではなく、誰もが持ちうる共感と献身の心から生まれることを示唆している。これは、読者や視聴者に対し、「あなたも、今日からでも『アンパンマン』になれる!」という希望を与える。
 さらに、アンパンマンの自己犠牲は、一見すると「偽善」と解釈されうる側面も持つが、それが肯定的に捉えられているのではないか?見せられた何本かの中にあったんだよ。アンパンマンは「困ってる人を助けた時に心が暖かくなって、その時分かったんだ。ぼくが何のために生まれてきたのか、何をして生きていていくか、何がぼくの幸せなのかってことも」とみたいなことを告白していた。この告白は、彼の自己犠牲が究極的には自身の幸福にも繋がるという「偽善の心を持つ絶対的正義」の概念を示唆する。しかし、「偽善」とはいいながら、結果として多くの他者を救い、社会に肯定的な影響をもたらすため、悪とは区別されるべきじゃないか?。この視点は、自己犠牲が、純粋な利他性だけでなく、行為者自身の内的な充足感によっても駆動されうるという、人間行動の複雑な動機付けを肯定的に捉えるものだと思う。


〇批判的側面(「過剰」と見なしうる、あるいはその限界)

 アンパンマンの贈与は、その倫理的な深遠さにもかかわらず、現実社会の文脈に照らすと「過剰」と見なしうる側面や、その限界も存在する。

 「過剰な利他主義」は、倫理学や心理学の観点から問題点が指摘されている。過度な自己犠牲は、機能的境界線の設定困難、適切なレベルの自尊心の欠如、共依存といった病理的な状態を引き起こす可能性がある。アンパンマンの行為は、自己の身体を削り続けるという点で、このような病理的利他主義と類似する側面が確かにある。また、受け手側に、直接的な返礼を求められなくとも、心理的な「借り」や「負債」を生じさせる可能性もあるのではないか? これは、贈与が常に純粋な善意として受け取られるとは限らず、受け手側の自律性や尊厳に影響を与えうるという側面を示唆する。

 さらに、アンパンマンの贈与モデルは、市場経済や大規模な社会システムとの非親和性を持つ。利他心が強すぎる集団では、情報コストが増大し、分業や規模の経済、新技術の導入が困難になるという「オルソン効果」なんてものがあった。これにより、市場の発生が妨げられ、経済発展が阻害される可能性もある。アンパンマンの世界が、ジャムおじさんのパン工場を中心とした小規模な共同体で完結しているのは、このような「過剰な利他主義」が大規模な社会システムでは機能しにくいことの示唆とすら考えることもできる。彼の贈与モデルは、普遍的な倫理的理想を示す一方で、その実践が特定の共同体規模や関係性に限定される現実的な限界を内包している。
 最後に、アンパンマンが自らの「顔を食べる」ことを勧める描写は、一部の大人から「残酷だ」「気持ち悪い」と批判されたように、生理的な嫌悪感や、文化的にタブー視されるカニバリズムを連想させるという側面も持つ。この違和感は、アンパンマンの贈与が、一般的な倫理観や社会規範の境界線を越える「過剰性」を内包していることを示している。