2025年7月11日金曜日

お笑い芸人の文学性


8833 北野武 _3



  お笑い芸人の人生って文学っぽい。でも、小説にしたら、途端につまらなくなりそう。

 お笑い芸人の人生って、本人が「笑い」に変換しているからこそ、苦労や悲劇が際立つし、聞き手も受け取れる。「笑い」は一種の変換装置で、辛さや惨めさを加工して届ける手法だ。でも、それを小説という形に置き換えてしまうと、その変換装置が外れちゃって、ただの「辛い話」や「破滅型の人間ドラマ」になってしまいがち。

 しかも芸人本人の「語り口」って、テンポや間、言い回し、声のトーンなど、話芸そのものが文学性を持ってるところがある。だから「書き起こし」では伝わらないし、フィクションにしても似た空気感を再現するのはとても難しい。
たとえば――「漫才師として売れる直前にコンビ解散」、「舞台でウケない中、相方が失踪」、「深夜のラジオだけが心の支え」、「M-1でウケてるのに決勝落ちた理由が『キャラが定まらないから』」――みたいな出来事というのは、事実としてはすごくドラマチック。でも小説でそのままやると、「業界あるある」「売れない芸人の群像劇」になってしまって、なぜか読者の想像よりも小さくまとまりがち。

 むしろ、小説で芸人を描くなら、本人の「笑いへの執念」や「表現としての笑い」「社会との軋轢」を真正面から描く必要があるかもしれない。笑わせることの裏側にある“文学的葛藤”を掘り下げないと、たぶんただのエピソード集にしかならない。

逆にいうと、芸人が自分の人生を語るとき、彼らはすでに一流の語り部であり、文体を持った存在でもある。だから、「芸人の語り」は、もはやそれ自体が文学なんだと思う。話芸という名の口語文学。

 ちなみに、太宰治や中原中也なんかも、人生そのものが「文学っぽい」けど、小説にするにはやっぱり「加工」が必要だった。芸人も同じで、そのままでは逆に小説にならない。


 表層的なエピソードもそうだけど、多分、だけど、ネタを作る時の、事象の観察から分解分析、再構成、そこにお笑いの要素を加える作業、それを内面でやってるうちに、場合によっては、世間と隔絶される瞬間もあるだろうし、それでも、他者にはお笑いとして接しなければならないジレンマ。グネグネてドロドロなことになってそうだ。日常の些細な出来事、誰かのふるまい、自分の内面さえも対象化して、笑いに変換するという作業。これはもう、現実を一度壊して再構成する、きわめて文学的・哲学的な営みでもある。
 しかも厄介なのは、「他人を笑わせるために」それをやっているということ。
 つまり、真剣な問いや孤独な視線が、そのままでは商品にならない。笑いという形にしないと、誰も興味を持たない。だけど、笑いにしてしまった時点で、その深層にある「本音」や「違和感」は、ぼかされたり、誤解されたりもする。

 だから多分、こんなことが起きるだろう。

〇誰かの癖に違和感を持ち、それをずっと反芻する→「なんかおかしい」をネタに変える→みんな笑う。でもその違和感の核心にあるものには、誰も届かない。→「ああ、これは“笑い”にしかならなかった」と虚しさを感じる

〇社会の歪みに鋭く気づく→だけど、それをストレートに言うと説教くさい→笑いとして仕上げたら「毒舌芸」として消費される→本人の葛藤や怒りは置き去りにされる

 つまり、自分の観察力や繊細さが「笑い」としてしか他者に認識されないという、ある種の認識のズレ、他者との齟齬がずっとついて回る。これ、やっぱり文学的というか、思想とエンタメの間で煮詰まるような話なんじゃないか?

  たとえば芥川龍之介が現代に生きてたら、絶対にネタ作りしてるタイプというようにも思う。彼の観察眼や皮肉、滑稽さへの嗅覚は、コントや漫才台本にかなり近い。だけど、笑わせるたびに「ほんとはこれ、笑っていい話じゃねえんだけどな」って冷めた目で見てる。そういう冷たさが、芸人にも潜んでる気がする

 つまり、お笑い芸人の人生が「文学っぽい」んじゃなくて、お笑いを本気でやるということそのものが、実は文学的な営みなのかもしれない。ただ、それを小説にしてしまうと「笑いの重力」が失われるから、途端に軽くなる。これはかなりやっかいな問題だが、逆にいえば、ここを突破できたらとんでもなく面白い小説が書ける気もする。


 そういう人間はえてして、破滅型と呼ばれ、お笑い芸人もそう、ロックミュージシャンも、詩人もあたりも。数学者は、端からレイヤーが違うから安全圏にいるかもしれない。 しかし小説にすると陰惨なものになりそう。それはそれで蕩尽であるが、これが一般向けを前提にしたお笑いであるところが大きなジレンマ。それでも、誰かが、それに何かを感じたら贈与は成立するか。

 「贈与」という視点が入った瞬間、破滅の物語が単なる自己消費ではなく、「意味のある蕩尽」になる。誰かがそこから何かを受け取る。あるいは、感じてしまう。そこにだけ、救いが生まれるのではなかろうか?

 破滅型と呼ばれる人々――芸人、ミュージシャン、詩人――彼らはしばしば、自らの生を燃やし、晒し、時に壊すことで何かを創る。でも彼らの営みが、本質的に「自分のため」だけではなく、“誰かの笑い”や“誰かの救い”として差し出されている点に、すごく深い構造がある。
 数学者、数学は絶対性の世界に没入しつつも、その営みが直接“他者の感情”に触れることは少ない。だから、ある意味で、己を賭ける必要がない(もちろん、賭けてる人もいるが、それが構造的に求められているわけではない)。
しかし、芸人や詩人、ロックミュージシャンは、自分の「恥ずかしさ」「哀しみ」「狂気」すら素材にして他者に差し出す。笑ってもらう、泣いてもらう、震えてもらうために。

 そして、それが一般向けであること。ここが最大の矛盾。個の地獄を踏み台に、万人の娯楽に変えるという、極限の分解・希釈・変換作業。そこに、芸としての凄みと、同時に「報われなさ」がある。


 が、だからこそ「贈与」という概念が意味を持つ。
 笑われた。売れなかった。自分の中で何かが壊れた。でも、誰かが「お前のネタに救われた」と言った。たった一人でも、それが本当だったなら、それは一方通行ではない。“芸”は完結する。

 この構造、たとえば内田百閒のエッセイや、町田康の小説、あるいはたまの音楽にも少し通じる。自分のどうしようもなさをさらけ出して、それがなぜか「癒し」になったり、「笑い」になったりする。「こんなダメなやつでも生きている」という事実が、誰かの孤独を和らげる。
 つまり、陰惨になってもいい。ただし、それが誰かの「受け取れるもの」になっていれば、それは贈与として成立する。破滅する者の生は、贈与として完結することで、物語になれる。

 文学も芸も、その一点でつながってる。

 笑いとは、地獄の副産物。でもそれを他人に差し出すとき、それは贈り物になる。贈るために、堕ちる。堕ちることを、許されてしまう。だから、笑いは時に残酷なまでに優しい。


 お笑いではない。私小説だ。西村賢太を思い出す。
 西村賢太はまさに、破滅と笑いと贈与の境界を歩いた人。彼の作品は、徹底した私小説でありながら、読者がどこか笑ってしまう余地がある。でもそれは、本人の「悲惨な生」に対する読者の嘲笑ではなく、彼自身が自分を客体化し、滑稽さとして描いているからこそ、笑いが成立してる。
 あれは、もう一人コントに近い。いや、むしろ「笑ってはいけない孤独」みたいなものを、延々と読まされてる感覚に近い。
 己の惨めさ、不器用さ、社会とのズレを冷静に見つめ、なぜそうなったのかを徹底的に分析し、それを文学の文体で組み直す(しかも笑ってしまうように)。
 読者に差し出すが、感動よりも、居心地の悪い笑いと、ある種の親密さを与える。これを贈与と呼ばずしてどうする?

 彼の「文学」は、いわば芸人がテレビに出ることなく、ひたすらネタだけをノートに書き続けた世界線のようなものだ。自分の惨めさに、誇張も美化もない。でもどこかで「これを読んだお前はどう感じる?」と、問いかける手が伸びてくる。あのいやらしさと誠実さが同居している感じ、もうまさに「笑いを孕んだ蕩尽」そのものだ。

 ちなみに、西村賢太自身、インタビューで「笑われてもいいけど、嘲笑は許さない」って言ってるのも象徴的で、つまり彼の中にも**「笑いは贈与であるべき」という信念**があったんじゃないかと思う。
 笑わせてしまった。それでちょっとでも伝わったら、それでいい。
でも、「嗤われたら」それはもう贈与ではなくなる。その線を、彼はギリギリで見極めていた。


 その点、ビートたけしのあり方が絶妙だよなとも思う。ビートたけしという存在は、日本の芸人史・文化史の中でもほんとうに特異で絶妙なバランスの上に成り立ってる。
 芸人として大衆に笑いを届ける「マス」の存在でありながら、芸術家として「パーソナルな闇や怒り」を表現する一面もあり、しかもその両方を同時に生き抜いてきたからだ。普通、どっちかになる。完全に「売れ線」に寄るか、「尖った自己表現」に行くか。でもたけしは、「浅草の舞台のにおい」と「カンヌのレッドカーペット」を、同じ身体に持ってしまった。
 お笑い芸人ツービートとして毒舌、風刺、下ネタ、暴力的ギャグで人気獲得し、テレビタレントとして「元気が出るテレビ」「スーパージョッキー」など、一般大衆向けに人気を得、それでありながら北野武名義で『ソナチネ』『HANA-BI』など世界で評価された作家性を発揮し、エッセイ、小説、評論、雑誌の連載などで自己の観察と批評を続けた。
 何より、バイク事故後の言動で、ろれつの怪しさ、死生観の露出などは、彼自身を独特なポジションに収めることとなった。

 そして重要なのは、彼が笑いを保ち続けていることだ。どれだけ文学的な陰影があろうと、映画がどんなに虚無を描こうと、彼はテレビで「フライデー襲撃」とか言ってネタにしてしまえる。
 この「深刻さを笑いに引き戻す」動きは、「贈与としての笑い」そのものだ。彼は笑いを、自分の破滅の「外」に置いたまま、投げ続けてる。

 要するに
〇内面に破滅を抱えてるのに、それを笑いとして加工できる
〇その加工技術が超一流で、一般向けにも届く
〇にもかかわらず、「笑いの外側」でも生きようとする(映画、文学)
〇それでいて、笑いを捨てない。笑いに戻ってくる

 これは、燃えさかる自己という炉の中で、笑いというギフトを焼いている みたいな芸当だと思う。

 たけしを「伝説」と仮に呼ぶならば、「破滅型でありながら、贈与の人であり続けたから」かもしれない。崩れそうな自我を芸にして、なお笑わせてくれる。そんな奴ぁ、めったにいない。


 もう少し、ミュージシャンも頑張れ、と思う。早々に本当に破滅するのは勿体無い
 音楽は言葉と違って、メロディやリズム、感情の揺れを直接伝える力が強い分、破滅的な感情を昇華させる力も大きいはずなんだが、だからこそ、燃え尽きるのも早い。
 でも、「破滅」だけが創造の全てじゃない。むしろ、その先にある「成熟」や「再生」、あるいは「受け継ぎ」があってこそ、芸術はより豊かになる。

 同世代ならばカート・コバーン。それ以前から古くはブライアン・ジョーンズ、マーク・ボラン。尾崎豊をここに加えるにはためらいはある。実はあんまり好みではない。その死後に影響を受けた人たちが音楽を紡ぎ続けて、結果的に文化として根付いていく。
 だからこそ、ミュージシャンには、どうか破滅だけで終わらず、長く自分の声を響かせてほしい。それが個人のためでもあり、ファンや社会への「贈与」でもあるから。

 破滅の早期消費は文化の損失でもあるし、本人の人生としてもすごくもったいない。自分の中の破滅的な衝動とどう折り合いをつけるか、創造のエネルギーに昇華させていくか、そして時に休みながらでも表現を続けていくか、そういうバランス感覚が、すごく大事なんじゃないかなと思う。

 芸人の話と同じように、ミュージシャンもまた、自分の破滅的な部分を「贈与」として昇華できれば、たとえ陰惨なテーマを扱っても、それは「ただの破滅」じゃなくなる。文化の中で燃え尽きるだけじゃなく、文化を燃やし続ける存在であってほしいものだ。


 最後に蛇足。フライデーもビートたけしに襲撃されたから今も生き残ってたりしてな。フォーカスは廃刊したのに。
 フライデーの「たけし襲撃事件」はまさに伝説的な事件で、あれがあったからこそ週刊誌界隈でも独自の存在感を保っている面は大いにあると思う。フォーカスが廃刊したのは、たしかに一時期の社会情勢や経営の問題もあるけど、パンチ力や話題性という意味ではフライデーの方が強烈なインパクトを残している。たけしの襲撃は、単なる暴力沙汰以上に「芸人が週刊誌というメディアに反撃した」という象徴的な事件になっていて、結果としてフライデーのブランド価値を逆に高めたとも言える。
 まさに「問題を起こしても、話題をつくって生き残る」みたいな、芸人の“笑いと破滅の共生”に通じるところがある。週刊誌業界にとっても、たけしという“生きた伝説”がいることは、ある意味での強みなにかもしれない。

2025年7月9日水曜日

どう変えるか?4 外国人の参政権、外国の参政権

  外国人参政権というのを、かつての民主党の系統の一部などが時々持ち出しては、その度に右派が過剰に反応して叩きまくる。Xで周期的に視ることがある光景だ。まぁ、確かに、在日、訪日外国人に関する今の制度そのものと運用をきっちりしない現状で、行うべき議論ではないと思う。

 それとは別に、個人的な考えとして、その外国人参政権、くれてやってもいいのだが、オレたちにも、影響力が強い諸外国の参政権よこせ、という主張もあっていいと思うのだ。
 アメリカ大統領や中国国家主席、ロシア大統領、その他もろもろ、彼らの一挙手一投足が、大いに我々の生活に影響する、この理不尽、非対称性。 まぁ、実現するとしても最低100年はかかるんだろうが、基礎理論位立ててみてもいいのではないか思う。

 言い換えれば、「外国人参政権」の議論を、単なる国内の権利問題としてではなく、「対称性(symmetry)」や「相互性(reciprocity)」という観点から捉え返す提案、つまり 「我々にも諸外国の参政権を寄越せ」 というのは、国際政治の構造的不均衡を炙り出す問題提起のつもりでいる。
 外国人参政権の議論は、確かに周期的にXで炎上し、ともすれば感情的な対立に陥り、右派の過剰反応も含め、感情的な対立が先行しがちだ。しかし、その背景にある「我々の生活が、我々がコントロールできない外部の力によって大きく左右される」という感覚は、多くの人々が共有するものだと思う。


 これは政治哲学・法哲学・主権論の交差点にあるようなテーマになり得ると考えている。




以下、基礎理論を考える上でのポイントを整理してみる。


現状の外国人参政権議論の問題点

 日本の文脈では、在日外国人(特に韓国・朝鮮籍)の歴史的背景や、永住者の権利問題が絡む。地方参政権を認めるべきかという議論が中心だが、感情的な反発(「国籍に基づく権利の不可侵性」vs「人権としての参政権」)で停滞している。

 特に右派には、最近ではかつてのように標的が在日朝鮮人だけではない。クルド人、フィリピン人、何より中国人へのヘイトが強く、その背景に、当日本人から徴収した税金を不当な形で彼らのために使われているという印象が強い、と言うことがある。これは、日本にいる短期、長期に滞在する外国人についての諸制度の不備が理由にある。現在の在留資格制度や外国人登録の運用が曖昧であるとか、そこから派生し、様々な規則、法律の網を、そう言った外国人は容易にかいくぐることが出来、結果日本人に不利益なことが生じる事例が、結構バカにできないくらいに伝えられる。
 そういった現状では、外国人に参政権などというのは、とんでもない、と言う主張にはうなづかざるを得ない。参政権の問題云々がなくても、その辺の規定そのものや運用を見直すべきことではある。

 その上で、参政権付与の前提となる「誰が対象か」の定義が不明確であるため、これをクリアにしないと議論が進まない。

 右派の反応は、「国家主権の侵害」や「外国人による日本支配」といった極端なシナリオを想定し、議論を封殺する傾向がある。Xでは特にこのパターンが顕著だ。


 しかしながら、一応オレはここではより大きい問題を扱うつもりでいる。

 まず、何より非対称的な影響力構造を問題にしたい。
 国際社会では「他国の政治」が自国の国民生活に甚大な影響を与える一方で、その国に対する政治的関与は皆無だ。
 「超大国」による「選挙結果」「政策転換」が経済・軍事・気候変動・通商・為替などあらゆる形で波及する。それなのに、我々、そういったスーパーパワーの蚊帳の外の国の市民には発言権がゼロだ。アメリカの金融政策が日本の株価や為替を動かし、中国の環境政策が日本の大気汚染に影響し、ロシアの地政学的判断が世界のエネルギー価格を左右するという現実があるにもかかわらず、トランプに対してもプーチンに対しても習近平に対しても、我々は何もできないではないか。

 ウェストファリア主権体制(1648年以降)は国民国家を基礎とするが、現実にはグローバル化・超国家的経済連携・SNS時代により、主権の内実が拡散・浸食されている。
「主権は国家の内側で完結する」という前提はすでに破綻している。グローバル経済・地政学的構造は既に国境を越えて影響を及ぼしており、「国内にいる者のみが関与できる」という従来モデルは機能不全に陥っている。影響のあるところに権利があるべき、という「機能的主権論」へとシフトするべきじゃないだろうか? 日本人はその意思決定に一切関与できない。それは民主主義の原理(「影響を受けるならば、発言権を持つべき」)との矛盾を孕んではいないだろうか? 

 そのために「影響力の非対称性」を是正する発想に基づいている。



2025年7月3日木曜日

8828 NSR500 1989?

 


8828 NSR500  1989

NSR500  1989 ?
in cartoon color scheme


8827 住吉大社 250503

 


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K.Senga

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「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム? 3 「成長」という言葉に感じる違和感

  国政選挙が近くなると、何かとってつけたように「成長戦略」なんて言葉を口にする政治家のお歴々がいます。まぁ、今回の選挙は、それすらなく、ひたすら給付金か減税かとかなんとか、即物的なお話に終始しそうで、それどころではないのですが。それはそれで良いのですが、ひところ、特に今回のような目玉争点がない時など、何とかの一つ覚えみたいに「成長戦略」なんだかな、と。

 しかしまぁ、この言葉を聞くたびに、なんというか、成長してるのか? ちゃんとさせてきたのか? させてねぇでしょ? っていうか、もう成長なんて無理でしょ? なんてテレビのこちら側では思ってる。「成長」なんて言葉つかっときゃ、カッコ着くとか思ってない?って。 


 企業活動などで、何と言うかな、ビジネス本、自己啓発本に毒された、というか、最近言われるリスキリングとか、その方面の事も含めて「成長」、個人も会社もその言葉を好んで使う向きが多くて困る。まぁ、オレも年を取ったし、おまけに所帯も持っていなければしたがって養育するべき子供もいない。しかし会社には、まだまだこれからの20代30代40代もいて、子供もいる。頑張らなきゃという熱量は持って然るべき何だろうとは思う。でも、それは、成長を目指すことが最適解なのか? 「成長」志向ドライブに、なんかすごく違和感があったりする。

 「成長」が万能の呪文になってしまった。今、ビジネス書や自己啓発、リスキリング、キャリア設計など、 どこを切っても出てくるキーワードが「成長」。変化に対応するには、成長しろ、だの、現状維持は後退と同じ、だの、企業も人も、常に上を目指せ、だの。
 成長とか努力とか自体は否定はしないけれど、この宗教的圧力って何?


 そもそも、なんで「成長」しなきゃいけないんだ?何のための成長?誰がその尺度を決める?成長して“何か”にならなきゃ、価値はないわけ?
 “何者か”にならなくても、
ただ“在る”だけでいいんじゃないのか?

 確かにさ、子どもを守るためとか、食っていくためとか、キャリアを積むためとかのために成長は必要ですよ、うん。でも、それは“上に向かう成長”でなければならないのか?

たとえば、こんな方向性もある。深まるのも成長、収斂していくのも成長、誰かを育てられるようになるというのも成長だろう。

というのはただの愚痴で、
でも、

 マクロ経済的な、経済「成長」のミニチュア版として個人の「成長」という言葉が使われてるように思う。なんか滑稽とか思っちゃダメ?

 経済「成長」のメタファーとしての「個人の成長」っていうか、現代社会では、 経済成長(GDPの拡大)=善 という価値観が根底にあり、それが「個人の成長」という言葉に転写されて使われている。
 つまり、「経済が右肩上がりであるべきなら、あなた自身も右肩上がりであるべき」というような経済の論理を、人格の論理にまで敷衍する癖がある。

 この流れのなかで、「成長」はどんどん道徳化されていく。

  • 成長=よいこと

  • 成長を止める=怠惰、諦め、停滞

  • 成長したいと思わない=どこか欠けた人

こういう前提のもとで自己啓発書やリスキリングの言説が流布すると、
個人の在り方まで、経済的合理性で判断されるようになる。

 「人間は常に成長すべき」という言葉は、一見前向きだが、それに当てはまらない人を見えないところで排除してしまう側面もある。病気の人、子育てや介護に追われる人、年齢的に体力や集中力が落ちた人、あるいはもう、そんなに頑張りたくないと思っている人、って、ゲッ、全部オレ当てはまるわ。それはそうと、こういう人たちにとって「成長」は、評価の呪縛にもなり得るだろう。


 もっとも、「成長」という言葉そのものが悪いわけじゃない。それが、どんな成長なのか?ということだ。寛容になることも成長だろう。痛みを知ることも成長、美意識や判断力が育つことも成長だ。こういう多様な“成長のかたち”を認めないと、 個人の人生すらも「GDPのミニチュアモデル」にならないか? 

 まぁそっちはいい。

 経済学上の話として、資本主義社会での会社企業、特に今のやたら、株価が~、とか、企業価値が~、とか言う時代には、GDPなどの成長、または株式の配当のために常に利益を出し、しかもその額を段々と増やさなきゃいけなくなってるが、ムリくね?
 そんなの不可能だ、と言ってる、マルクス系以外の経済学者もいるし、それでも、無限の経済成長は有り得ると言ってる人もいる。整理する。

 マルクス経済学系に限らず、「無限の経済成長は現実的でないのでは?」と考えるポスト成長(Post-Growth)派や脱成長(Degrowth)派の経済学者・思想家たちも台頭してきている。

 成長を疑うマル経以外の経済学者、思想家としては以下の通り。

1. ティム・ジャクソン(Tim Jackson)

 著書に『Prosperity Without Growth(成長なき繁栄)』があり、 「GDP成長をやめても、持続可能で豊かな社会は作れる」と提唱している。

 成長を止めたら社会が崩壊する、というのは一種の信仰であり、 それを支えているのは“資本収益率 > 経済成長率”という構造そのものだと指摘している。

2. ケイト・ラワース(Kate Raworth)

 著書『ドーナツ経済学』で、環境と社会の「許容量」の中で経済活動を再設計しようとする。「経済成長」を目的にするのではなく、「人間の基本的欲求と地球の限界のバランス」を重視すべきとする。


3. ニコラ・ジョルジュカラエン(Nicolas Georgescu-Roegen)

 環境経済学・生態経済学の父と呼ばれる存在らしい。経済も物理法則(エントロピー増大の法則)の中にある限り、無限成長など物理的に不可能であると論じた。

4. セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)

 フランスの「脱成長」思想家で、 「富の最大化よりも、幸福やつながりの最大化を」と主張している。


 一方で「無限成長は可能」とする立場の方々。

これもいるにはいる。ただし、こちらにしても、条件つきであることが多いようだ。

1. 内生的成長理論(ポール・ローマーなど)では、成長は「物的資本」だけでなく、「知識・技術革新・人的資本」に依存しており、 イノベーションが続く限り成長は持続可能であるとする理論、とのことだ。尤も、これは「環境負荷」や「資源の有限性」への配慮が甘いという批判も強い。

2. グリーン成長派(OECDや一部の国際機関)は、技術革新と脱炭素に目途が立てば、成長と持続可能性は両立できるという立場だ。
 うん、で、それはいつごろになります?


 現実的には企業が「永続的に利益を伸ばす」のは理論的にも、無理ゲーにも程がある。企業の寿命は歴史的に見ても短い(平均して数十年程度)し、「売上は右肩上がり」「配当も毎年増配」などというのは、市場競争や技術の陳腐化を考えると構造的に不可能なんだが、
 そんなことは、みんなわかってるけど、そうやんなきゃいけない社会風潮が悲劇的。八甲田山やインパールの、死の行軍を思わせる。なのに、株主資本主義の世界ではこれが「当然の期待」とされる。これはもう、経済理論や経営者の見識というより金融市場の自己増殖的な性格に問題があるんじゃないだろうか。

 ざっと浅学なりに知っている各経済思想を整理してみる。

◆思想家・立場別:経済成長へのスタンス比較表

思想家 / 立場

成長は「目的」or「手段」

主張の要点

特徴的な概念

賛同者 / 適用例

アダム・スミス(古典派)

手段(ただし自動的に福祉向上とみなす)

自由市場に任せれば富は自然に分配される

見えざる手、利己心の調和

自由主義経済、英米資本主義の源流

フリードマン(新自由主義)

明確に「目的」

成長こそ自由と繁栄の源泉。国家の介入は最小限に

小さな政府、自由市場

サッチャー、レーガン政権、橋本政権以降の日本

ケインズ

手段

国家が景気調整することで安定的な成長を確保すべき

有効需要、乗数効果

戦後日本の高度成長、ポストコロナの財政出動論

アマルティア・セン

手段

成長ではなく「人間の自由(ケイパビリティ)」が目的

福祉経済学、開発倫理

国連、UNDP、ノーベル賞受賞者

ケイト・ラワース

手段(かつ成長そのものに限界がある)

社会的ニーズと環境限界の間の「ドーナツ」内に収まる経済が理想

ドーナツ経済

アムステルダム市(政策採用)、欧州一部地域

ティム・ジャクソン(脱成長派)

手段(成長は必須でない)

成長なき繁栄は可能。むしろ「ポスト成長」が人間的

Prosperity Without Growth

脱成長運動、欧州グリーン政党

斎藤幸平

手段(むしろ加速する成長は有害)

成長より「コモン(共有資源)」の再構築を

脱成長コミュニズム

若年層リベラル層の支持増、日本共産党の一部発言にも影響

ブータン王国

手段

GDPよりGNH(国民総幸福)が重要

国民総幸福

小国だが先進的なモデルとして国際評価あり




 さて、その辺、日本の現状はどうか? 日本の経済に対する考え方はどうなのか?

 制度面では依然として「成長=正義」の思想が根強いといえる。国家予算、地方交付税、年金制度、企業の評価制度など、あらゆる制度が「経済成長ありき」で設計されている。政策目標も「GDPを○○兆円に」「設備投資増加率」など成長ベースが多数であるようだ。
 しかし、社会の実態としては、成長が鈍化し、人口減・高齢化で「脱成長社会」に近づいている。成長率は1%未満の年がほとんど(実質ゼロ成長国家に近い)であるにもかかわらず、制度や意識は「成長前提」から離れられず、社会のひずみが顕在化しているように思われる。


◎ズレの例:成長前提の幻想と現実のギャップ

項目

現実

成長前提制度とのズレ

少子化

加速度的に進行(出生数75万人割れ)

子育て支援より経済成長への予算配分が優先されがち

地方の衰退

人口減・空洞化

地方創生策も「経済成長」ベースの誘致型が中心で定着せず

環境問題

気候変動・災害増加

成長のためのインフラ整備(道路・リニア等)が矛盾を加速

労働環境

長時間労働・低賃金

成長優先の企業評価が「人件費圧縮」に繋がる

教育・文化

削減傾向、自己責任論強化

成長に直接寄与しない分野とされ後回しに




 いい加減、成長にこだわらず、「地域の幸福」「人的資本」「自然との調和」など、他の評価軸を制度に埋め込む必要がある。これも正直オレ自身がしっくり来ていないが、地域通貨、ベーシックインカム的思想、生活保障付きの社会参加型経済(ケア労働重視)などが、思いつく選択肢としては出てくる。
 成長を前提としない社会、国家運営をするには、政治家諸兄は勿論、オレ自身まだまだ料簡が昭和で、この言葉にしがみついてしまうのだが、なんだが、それではどうにも立ちいかなかった、というのが「失われた30年(やがて40年)」ということではないだろうか?

 なぜ経済成長信仰がこんなに強いのだろう? 思いついたことを列挙する。

①歴史的な成功体験がある。戦後復興と高度成長期、日本(そして西側諸国)は、成長=豊かさ、生活向上、社会安定という「黄金時代」を経験してしまった。ゆえに、政治家も官僚も「成長すればすべて解決できた」時代の記憶から抜け出せない。

②年金・保険・税制など社会制度が「未来は今より大きい経済になる」ことを前提に構築されている。成長が止まるなどと言ってしまうと、制度設計そのものが破綻してしまうため、信仰せざるを得ないのだろう。寧ろ痛々しいか?

③政策の成果や政権の業績を、GDPや雇用者数などで可視化しやすい。つまり 成長は「数字」で表現されやすい。一方で他の指標(幸福度、環境指標、教育の質)は定量化しづらいため、議論や評価に使いにくい。

④企業活動と金融市場、株価、投資、雇用、配当など、すべて「企業が成長し続ける」ことを前提として成立している。逆にいうと、成長をやめた時点で、失業や株価下落などの痛みが先に来る。

⑤ 大衆心理には「成長を止める」と言うと=「貧しくなる」「国が衰退する」と直結するイメージ、いや恐怖が根強い。そして実際はそうではないが、まだ「脱成長=後退・共産主義・没落」と結びつける印象が強く残っている。

 経済を「目的」から「道具」に再定義することで、社会全体の健康度や幸福度が上がる可能性を考えてみるべきだ。まず、「成長を諦める」わけではなく、「そういう言葉を盲信しない」というところから始めないと。