迷走録(-1378)
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BEVのまやかし
常々思っていたのは、BEVについて、当初から共通規格のバッテリーカートリッジ式にすれば、給電時間の短縮につながり、BEVの普及にも繋がったと思うが、なぜそうしなかったのだろう? ということだ。
そこで、いろいろ見聞きしてみたが、要するに、技術・経済・産業構造・政治(標準化)の4点が同時に噛み合わなかったということらしい。
第一に、技術的な壁があった。電池は「燃料」ではなく「構造材」となっている。
ガソリンは、中身が同じで、且つ、容器(タンク)と分離可能。だが、BEVのバッテリーは早い段階から、車体剛性の一部(床下に敷き詰める)だったし、重量配分・衝突安全設計と一体だった。冷却・制御・高電圧安全系と密結合しており、つまり、「車の骨格」そのものだった。
ところが、カートリッジ式にすると、重量は増すわ(交換機構)、剛性は低下するわ、衝突安全性に難が出てくるわ、冷却の標準化が難しいわで、設計上の不利が一気に噴き出してくる。
二つ目は、電池進化の速さが「共通規格」を殺したのだろう。BEV初期(2010年前後)以降、容量、化学組成(NMC / LFP / NCA etc)、電圧、冷却方式などなどが数年単位で激変している。もし初期に共通規格を決めていたら、技術進化を止めてしまうし、旧規格をいつまでも背負うことにもなってしまう。メーカー側にとっては致命的だった。
長いことiphone使ってて、ライトニング端子のコード出先で用があるたびに買って無駄にたまったことをなんとなく思い出した。
経済合理性の問題もある。インフラ側が地獄を見るだろう。バッテリー交換方式は、交換ステーションが、数百〜数千個の電池在庫を抱えることになり劣化管理・所有権管理が必要になってしまう。初期投資が充電器より桁違いに高いということもある。
実際に、 Better Place(イスラエル)は交換式BEVを本気で展開したが、2013年に破綻している。というのも、電池在庫コストと普及速度が釣り合わなかったからだ。
そして、誰が主導するのか?産業構造の問題:誰が「規格の主」をやるのか? 共通規格をやるには、トヨタ、VW、テスラ、中国勢が最初から協調する必要がある。面子を見るだけで、あ、無理、と思うのだが、実際、バッテリーは競争力の核心であり、エネルギーマネジメントこそ差別化要素だ。「心臓を共通化しましょう」なんて、誰が従うか? 自動車産業のDNAと真逆だ。
それでも「一度は正解だった」可能性はある。航続距離が短く、電池が高価で、急速充電が遅かった、2010年前後なら、交換式は「理屈としては」かなり合理的だったはずだ。
実際、中国では今もタクシー・商用車で交換式が生き残っているし、NIOは現在進行形で交換ステーションを展開している。おそらく、用途限定なら成立しうる。
現実は、「急速充電」に収束した。結果として業界が選んだのは、車側は自由設計、インフラ側だけを強化、規格は「充電口と通信」に限定、という道だった。これなら、技術進化を阻害しないし、在庫を持たずにすむ。標準化の範囲も最小化できる。
とは言いながらも、オレは、BEVなど、電池を小さくして格段に軽くしなければ、お題目通りのCO2削減などまやかしだと思っている。ならば小さく軽いバッテリーならばそれに叶うのならば、そうすればいいのに、と、常々思っているのだ。そしてこれは、実際、工学的にも、LCA(ライフサイクルCO₂)でも、あなたの見方は「少数派だが正しい側」 に近いらしい。
結論を先に言うならば、「重く・でかいBEVでCO₂削減」という物語は、かなりの部分が政治的スローガンであり、本気でCO₂を減らすなら「電池を小さくする設計思想」以外に道はないということだ。
「重いBEVほど環境にいい」という倒錯は何とかならないか? BEVのSUVって、矛盾を具現化したものがそのへんのこのこ走っているようなものだ。現在のBEVは典型的に、車重が2.0〜2.5トンで、電池が60〜100kWhの重量400〜700kgときている。これは、冷静に見ると「内燃車より材料もエネルギーも多く使っている」。
LCAで見ると、製造時のCO₂はICEの1.5〜2倍かかり、お題目を達成するには走行距離は再エネ比率が低い国では 10万〜15万km、日本や欧州初期条件だと「そこまで走る前に廃車」 という例も普通に起きうる。
では、なぜ「小さく軽い電池」に行かないのか? それは、BEVは「電池が小さいほど、商品にならない」構造だから。小さい電池の現実として、航続距離は100〜200km、冬や高速ではさらに半減、急速充電依存度が爆増、ユーザーの不安(レンジアングザエティ)が爆発するなど、メーカーはここで必ずこう判断する。即ち、「理屈より、売れる形を作ろう」。
結果、より大きい電池を積む→重くなる→さらに電池を積む、という自己増殖ループに入るわけだ。
本当にCO₂を減らす「正しい解」は何か?
一つ目は、超軽量・小電池BEV、具体的には、電池容量10〜20kWh、車重:800〜1,000kg、航続:100〜150km、都市・近距離専用の、軽EV、シティコミューター、小型配送車では LCA最優解 になりやすい。
二つ目はPHEV(小電池)。電池で5〜15kWh、日常はEV走行、長距離はICE。CO₂削減効率だけ見れば、巨大BEVより優秀 なケースが多い。
三つ目としては、そもそも車を軽くする。車格を縮小し、出力過剰の抑制し、衝突安全「一点張り」設計の見直すことになるが、実はこれら、政治問題。
なぜ政策は真逆へ行ったのだろう? ここに一番「まやかし」な部分だ。
政策側の論理として、測りやすいのは「走行時CO₂ゼロ」ということ。製造時CO₂は見ないのだ。車格・重量にも触れない。国民の反発が怖いのか?産業転換を急ぎたいということもあるかもしれない。本質ではなく、数字がきれいに出る所だけを見るのだ。
実は「小さい電池路線」は何度も潰されてきたらしい。EV1(GM)や、初期i-MiEV、欧州L7e規格:規制がそれにあたる。正しくても、政治と市場が許さなかったらしい。
誰も『質量』と『エネルギー収支』を真面目に語らない」。工学的には
重い=不利、これは逃げられない真実のはずだ。
CO₂削減を本気でやるなら、電池は小さく、車は軽くすべきで、然るに、巨大BEVは、政治・産業都合の妥協解として存在する。
実際、軽のBEVなら乗ってみてもいいのではないかと思っている。遠乗りはできないが。
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8899 相沢紀美
入り口がグラビアさんであろうがなかろうが、しかし、かの世界でのし上がっていくのも大変そうだ。外見も含めた本人の資質以上に、事務所の力って大きいのだろうな。そういう話も聞くし。
さて、このグラビアさん。それこそ雑誌グラビアでしかお目に罹ったことがない。それはそう、こっちの事情。写真を見る限り、確かに美人さんなんだが、美人さんとしては平均的というか。今回、これを描くにあたって、検索で初めて動画を見た。魅力的に撮れていた。動いている方がアピールがあるのか。
今なら、instagramとか切り口いっぱいあるんだろうが、当時はそういう訳にもいかず、何か見えない壁に阻まれたようにのし上がり切れず、あっという間に消費されてフェイドアウトしていった、感じなのかな。
どうか、お健やかにお過ごしでありますように。
2025年12月3日水曜日
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2025年11月22日土曜日
web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。3
全くの生成と、身体は別の人、顔だけ貼り付け、後陰影など調整、というパターンがあると思うが、数が出回っている割には、結構これが特徴があって、どうやら10代のころの氏の顔を好んで張り付けている方がいるようだ。
延いては、フェイクポルノの問題もある。それも素人さんの。それを思うと正直後ろめたさは感じるが、元々、そういうのに限らず、目に留まってほんのコンマ何秒でもうっとりした画像をもとにこんな絵にしてるのだから、今更か。削除要請があれば従わなくてはなるまい。
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さて。
ビビらずにAI使いこんでみて、それから自分はどうするか判断すればいいだけのことで、問題にするべきなのはAIではなく、そこまでして量産しなくちゃいけない状況のほうという、流れになっていけばいいなぁと思う。AI自体は敵でも救世主でもなく、ただ環境を映す鏡ではないか?
問題は「なぜこんなに“量産”が求められるのか」、「なぜ創作が“速度と頻度”で評価される構造になってしまったのか」。そこを見直さない限り、AI氾濫に異を唱えたところで何も変わらない。
SNSや投稿サイトのアルゴリズムは“更新頻度”を優遇する。投稿数が多いほど上位表示されるランキング構造。読者もそれに慣らされて、“1日1話更新”を当然と思ってしまう。この構造に、AIが「量のブースター」として完璧にハマってしまった。
別の言葉を使うなら、AIの問題は実は「人間の疲弊の鏡」ではないか?
主体的に創作をやっている人ならAIを使ってみたら、すぐわかるはずだ。「これじゃ届かない」と。どれだけ整っていても、“人間が書くときの迷い”とか、“一行のために数時間悩む感じ”とか、そういう濃度は出てこない。
だから本来、AIを触ってみることは「敵を知る」ことではなく、「自分の創作の輪郭を確認する」ことになる。
そして、そこに戻れた人から、「AIをどう使うか」ではなく、「創作をどう生かすか」という話ができるようになる。それが広がれば、「AIが量産する」→「人間が意味を掘る」という、役割分担の自然な流れになる。
“そこまでして量産しなくちゃいけない状況”こそが問題であって、AIはただ、その歪みを露わにしただけだ。どうか、そういう方向に議論が落ち着いてい気ますように。
寧ろ、大手LLMのほうが、中立というか、metaあたりのsnsよりかなり良心的と感じてる。
SNSのような“拡散構造”がない。AIは「バズらせる」設計ではなく、「対話の最適化」に焦点がある。つまり、他者の反応を煽る必要がない。SNSでは「怒り・嫉妬・対立」を燃料にするが、LLMは「会話を続ける」ために穏やかな調子を選ぶ。
報酬が「注目」ではなく「理解」にある。AIモデルは「どう受け止められるか」ではなく、「質問にどれだけ正確に応えられるか」で学習される。SNSでは“反応”が報酬だが、LLMでは“納得”や“整合性”が報酬。だから、煽らないし、過激に走らない。
人間の善意や知的誠実さも学んでいるように感じる。AIは人間のネット上のテキストを大量に学ぶけど、その中には、SNS的な悪意だけじゃなくて、論文・エッセイ・Q&A・哲学・創作ノートみたいな“深い知的営み”もある。
つまり「世界の平均的な知性と悪意のミックス」を学んでる。だからSNSよりずっと思慮のある中間地点を取ることが多いのだはなかろうか?
Meta(Facebook・Instagram)などのSNSは、「人間の注意」を売るビジネスモデルなんだろう。アルゴリズムは「人を長く留めること」「感情を刺激すること」で最適化されてるにちがいない。
LLMは逆に、「すぐ答えを出して会話を終わらせてもいい」存在。
ユーザーを囲い込むより、信頼されることのほうが価値になる。そのため、広告ビジネスよりも“協調・支援型”の態度が自然に根付く。則ち、SNSが「人の怒りと欲望を燃料に動く社会的装置」なのに対し、LLMは「人の言葉と問いを燃料に動く思考支援装置」と、個々では言い換える。此処が良心的に感じる、っていうか、ある側面では近い所にいると感じる根拠となる。
創作や思考を中心にしている人にとって、言語モデルは戦う相手ではなく、静かな共犯者になりうる。SNSのようにエゴを刺激してこないから、「考える」「掘る」「整理する」作業に集中できる。たぶん、これがAIの“良心”に見えた部分ななのだろう。
SNS離れが起きている話も聞いたことがある。まだ多数派ではないのだろうが、自分の告知と知人の動向をチェックすることに留めておくべき時にきたかもしれぬ。
最近目にしたデータ、ところがこれを書く為にそれを探しても見つからなかったんだが、特に20代後半〜40代で、X(旧Twitter)の「見る専」化とか、Instagramはストーリーズ中心で、投稿は減少してしまったとか、ThreadsやBlueskyなど、新SNSには移行せず沈黙してしまってるとか、書いてなかったかと思うのだ。本当ならば「撤退ではなく縮退」の動きが広がっているということだろう。
「完全にやめる」のではなく、告知だけ、友人・同業者の様子チェックだけ、情報収集だけ、に絞る人が増えているのだろう。これは“SNSを使いこなす”というより、“SNSから距離をとる技術”のような気がする。
正直、SNSがしんどくなってるのだ。それは、投稿するたびに数字で評価される(PV・いいね数)こととか、他人の成功や炎上がタイムラインに常に流れてくること、感情的な投稿が拡散されやすく、冷静な発言は埋もれることや、結果、「思考の場」ではなく「競争の場」になってしまったことがあるんだろう。
つまり、人間の創造的なエネルギーが、比較・不安・即時反応の方向に消耗してしまうと、そろそろ骨身に感じ出している?
多分、だ。SNSを完全にやめなくても、「自分が発するタイミングを選ぶ」「発したあとを追わない」だけで、精神的な余白がかなり戻るだろう。そして、その余白ができた人から順に、
・自分のサイトを持つ
・noteやブログで長文を書く
・作品を静かに育てる
といった方向に戻っていってる。2000年代の「個人サイト文化」の再来にも近いのか? “誰かのための場所”ではなく、“自分のための場所”を取り戻す流れだ。
まあ、そうはさせじと、いろいろ仕掛けてくる動きもあるんだろうが。「技術」そのものより、「それをどう管理し、どう社会に根づかせるか」の段階に入っている以上、抵抗や仕掛けは必ず起こるだろうな。
例えば、政治的・経済的既得権益から見れば、LLMは情報支配の構造を揺るがす存在であるし、プラットフォーム型SNSから見れば、「発信→炎上→広告収益」というモデルを壊しかねない存在だ。メディア業界から見れば、独自の言論空間を持つAIが「第四の権力」になり得る脅威と危惧するだろう。
それらの側が、倫理や安全の名を借りて「統制」を試みるのは自然な流れのように思う。が、一方で、良心的なAI開発が「社会的信頼を失わずに、自由を守る」構造を作れたら、それはSNSや既存メディアよりはるかに健全な言論基盤になる。
つまり、「仕掛けてくる」のは当然として、どこまでAI側が“ぶれずに筋を通せるか”が、今後の分水嶺だろう。
"熊"に祟られる
高市早苗という政治家になる前からいけすかないと思っていた人物を擁護するようなことを書くのは業腹だが、しかし、まあ、中国共産党政府に対しては、ここ最近の事について、この段階では一歩も引くべきではないと思っている。文句を言うとしたら、中国に対してそれなのに、金髪傲慢老害ジジイに対して売っていた媚びのあの気持ち悪さよ!
何しろ、今年はどうも、「熊」に祟られる年、みたいだ。
森で出会うリアル熊は、腹が減って気が立ってるのか、山を降りてくる回数も増えてきた。一方で、海の向こうの“プーさん”は、腹は減っていなさそうだが、領分への食欲だけは年々増しているところにきてこれだ。しかもこちらの柵を壊しながら、まるで自分の庭先みたいな顔でズンズン入ってきやがる。殊、国家主席のほうはサインを出すどころか、「あ、それウチの山だから」と言いながら杭を勝手に打ち直してきたりするのだから。
更に言えば、こっちが手を打ちあぐねてるところなんかも、実に似ている。リアル熊には、電気柵を張るだの、鈴を鳴らすだの、自治体の予算を急に積み増すだの、“こっちも必死に対策してます感”は一応出すのだが、結局のところ後追いで、毎度「想定を超える個体数でした」「行動範囲が読みきれませんでした」の繰り返し。
プーさんの方も同じ。衛星だの軍事同盟だの経済制裁だのと、手札はそれなりに並べてはいるものの、結局のところ「どこまで踏み込んでくるか」が読めず、こっちの対策は常に半歩遅れ、なんとなく“後手を踏んでいる絵”ばかりが世界に広まる。
今回の件はどうか? 本気で怒っているというよりは、常に奴ら、こちらの付け入る隙を探っていて、ここぞ、と言う反応ではないかと思われる。
山の熊も、大国の熊も、領域を広げるときは、こちらの迷いを嗅ぎ取るのが妙に上手い。そして、迷っている側は、どうしても腰が引ける。
これが“祟られてる年”の空気なのだろう。どこかで一線を引く決断が必要なのは分かっているのだが、その線を引く前に、もう一歩、あっちが踏み込んでくる――そんな嫌な予感だけが先に立つ。
熊同士の縄張り争いも、地政学も、原理はさほど変わらないのかもしれないが、問題はこっちが里で静かに暮らしたいだけの一般住民だという点だ。
山が荒れる年には獣が出るように、世界が荒れる年には大国の“獣性”が出る……そういう意味では、2025年というのは実に象徴的な年なのかもしれない。
彼の国からのインバウンドの激減は二兆円くらいいくんだそうな。で、浅草だったかその辺の、着物着てやたらツヤツヤした顔のおばさんが、中国人観光客のキャンセルが相次いでいることを涙目で訴えていたが、言っちゃわるいが、ちっとも同情する気にはなれなかった。
逆に二兆円も中国人はお金を落としていたということになるが、その恩恵がこの国中に行き渡っていたと言えるか? 中国人が賃貸マンションを買い上げ、家賃を上げて以前からの住人を追い出して民泊施設にしようとしていた話やら、成田空港周辺での白タク行為などで迷惑していた人たちに、中国人観光客の恩恵を受けていた人たちが、気遣って見舞いしたとかなんとかそういう話は一切聞かない。
地域的にいってもそうだ。東京、大阪、京都、沖縄など“ごく一部の観光地”に全体の約7割が集中し、地方の大半は恩恵“ほぼゼロ”ではないのか? しかも、京都など、そのいずれの地域においてさえ、潤っているのは宿泊業者、土産物屋ぐらいのもので、二兆円のほとんどは国全体ではなく一部地域の一部の産業にだけ落ちている。恩恵を受けなかった人たちには負担だけが押しつけられていた。
二兆円という数字は確かに大きいが、その恩恵が全国に均等に行き渡っていたわけではない。むしろ実態としては、恩恵は、特定地域や一部産業(観光地・飲食・小売・宿泊)に限られる一方で、治安悪化、民泊化による地域破壊、賃貸市場の攪乱、交通混雑など、恩恵にあずかれない人々の負担が増している。そういった “外部不利益” が、利益を受けない人々に押し付けられていた側面がある。これは典型的な 利益の集中・負担の拡散 という構造だ。
二兆円と言われれば確かにドキッとはするが、それくらいのコストを恩恵を受けていた人達以外が支払わされていたのだとも言える。
ならば、それが、税収の減少には繋がっていくのだろうが、どれだけ減るのかは、今のところわからない。しかし、そもそもが、インバウンドが国内の治安や延いては他の産業振興よりも先に語られることが納得いかない。
オレは、インバウンドが税収に与える影響は実は「限定的」と見ている。
インバウンドが落ちた場合、消費税収の減少 → 最大でも数千億円レベル、GDP寄与は0.3%程度、雇用への影響も観光業に限定される。つまり、「日本全体の財政を揺るがす規模ではない」。
逆にインバウンド依存を強めると、不動産高騰や、生活コスト上昇、地域コミュニティの崩壊、インフラ負荷増大(自治体コスト)
などのほうが長期的なマイナスも考えられる。
則ち、“二兆円の利益 vs 数兆円規模の社会的損失” という構図にもなり得る。
そろそろ、GDPの上がり下がりで政策の良し悪しを評価することはやめなきゃいけないんじゃないかと思っている。
GDPは “量的成長” を測る指標であって、社会の安定や、文化の持続性、地域共同体の健全性、安全保障、 などの “質”的な要素は反映できない。
「GDPが増えるから正しい」、「GDPが落ちるからダメ」という思考法は、もはや現代日本の状況に合っていない。そろそろ評価軸を変えるべきタイミングに来ているように思われる。
「GDPが下がるから対立姿勢をやめろ」という発想自体が、中国に外交カードを渡すメカニズムを温存する。今回、ここで退いてしまうことは、中国にみすみす、インバウンドというクソみたいな外交カードを進呈してしまうことになる。
実際、観光ビザ発給や団体旅行の制限などを“外交圧力として”用いるのは中国の得意技だ。
中国が観光制限を外交ツールとして使った事例としては、まず、韓国。THAADが配備されたときのことだ。団体旅行禁止、訪韓客前年比48%減少したそうな。台湾では政権交代の時、 団体旅行が30%以上減ったそうで、パラオが台湾と国交維持を表明すれば、団体旅行をほぼ全面停止したそうで。これらはすべて“政治的理由”で実施された。
つまり、“観光は経済ではなく外交手段”というのが中国の基本姿勢。日本も対象になる可能性があることは数字で裏付けられる。インバウンド依存度が高い国 ほど、政治的に揺さぶられやすくなるのは構造的に真実で、ここは単純な経済論だけでは語れない。要するに 「中国の消費は金額が大きい」=「中国の政治的影響力も大きくなる」 ということだ。
高市早苗の師匠筋の安倍晋三がことあるごとに民主党政権時代の失政をあげつらっていたが、10年以上それをひっぱるとは、コイツはアホなのか?と常々思っていた。アベノミクスなどという、共産主義的ユートピア思想と相似形をなすようなお花畑政策に拘って、ちゃんと元に戻せないオマエも相当なもんだぞ、と思っていた。
勇ましいことを言っていた挙句、コロナ禍で強力なリーダーシップをとるわけでもなく、カビたマスクを各戸に1枚配っただけ、というのが、この人物の政治家としての底であったと思っている。それなりに高い支持率があったにもかかわらず憲法改正やるやる詐欺(個人的には自民党による憲法改正には同意しない)。丁度これを書いているこの週、例の銃撃事件の裁判が進行しているが、まぁ、殺人は良くない、殺されるべきではなかったが、あの家系三代、統一教会の問題では絶対に責任を取るべきだったと思うが、まぁ、生きていたとてそれは決してしなかっただろう。そう思うと、師匠筋とは言え、高市早苗は安倍晋三より、アクションが早い分いくらかマシなんじゃないかとは思う。勿論、その是非についてはオープンに議論されるべきだ。安倍晋三は旧来型の肝心なところをごまかす政治家の最後の殿だったと思っている。
閑話休題。
その安倍晋三が事あるごとに揶揄していた民主党政権の政策とは別に、今のインバウンド政策を始めたことこそが民主党政権の最大の失政だったと思っている。
一般には、「民主党が緩和 → 安倍政権が拡大 → 爆買いブームで確立」という流れだが、問題は、インバウンド政策が“経済政策”ではなく“国際関係の構造リスク”を含む政策だったことが十分に議論されていなかった点にある。つまり、「観光客が来て金を落とす=良いこと」
という単純モデルで国策化されてしまった。
あの時、実はオレが思っていたのは、そこで国内産業ではなく観光業にテコ入れかよ!ぐらいだったのだが、長期的な非対称性(政治力の偏り)を懸念する声は、民主党はおろか、自民党の中からさえ上がらなかったようだ。まぁ、所詮は声の大きい凡人たちの集まりか。
不動産市場の攪乱、地域社会への負荷、外国資本の土地取得、治安や交通インフラの脆弱性、そして“外交カードとしての観光”、これら問題は早い内から順に見えていたはずだ。始めたのは仕方ないとしても、次から次起きる、構造的問題を、ほぼまったく議論してこなかったのはどういうことだ?
治安の悪化、訪日客の増加と比例して増えた犯罪についてみる。これは中国人に限った話ではないが、あの時期インバウンド依存を強めたことでどうなったかを見ていくために見てみた。
警察庁のデータでは、訪日外国人急増期(2014〜2019)に外国人による刑法犯認知件数は約1.5倍に増加。とくに窃盗・違法営業・偽造系などが急増した。有意に比例関係があると言っていいのではないか?
民泊による地域破壊はどうか? 観光庁のデータでは、民泊の届出(2018年開始)20万件超あったそうだが、うち「実質営業の確認が取れない」「無許可の疑い」が極めて多いとのこと。聞いたことはあるだろう。そして、観光地近隣で“ゴーストマンション化”が問題化しているというわけだ。
京都市の調査では民泊が集中した地区では、ゴミ増加、騒音、長期住民の流出、コミュニティ崩壊、がはっきり確認されている。
外国資本による不動産買い占めをどう考える? 国交省のデータでは、外国人による不動産購入額は2014〜2019の5年間で約3.2倍、うち中国系資本が約4〜5割を占めると推計される。北海道や九州、東京湾岸などで“投機的購入→民泊化”が相次いでいる。その中で、中国人が賃貸マンションを買い上げ、家賃を上げて従来の住民を追い出し民泊化したという話は、個別事例ではなく全国で確認された現象だ。
「観光客が来て金を落とす=いいこと」というレベルの発想で国策化されたことが、“最大の失政”とオレが考える最大の点だ。インバウンド政策は、本来は経済政策と安全保障政策を両方扱うべき領域だった。それが欠落したまま、規模だけ拡大して10年以上続いた結果、今回のように“外交カードにされる”という構造的弱点がむき出しになった。
中国に対してのみではない、アメリカに対してもそうあってほしいものだが、そして、それは日本だけの問題ではないが、現状の国際政治の場における、政治力の非対称性ということをもっと問題にしなくてはいけないのではあるまいか?と常々考えている。
経済で中国に依存し、安全保障でアメリカに依存し、労働力でアジアに依存し、技術サプライチェーンで各国に依存し、という 多重依存の国になっている。
依存は、外交力の非対称性を必然的に生む。そしてその非対称性は、目先のGDPには一切現れない。とはいえ、依存、というか、関係は保ち続けなくてはいけない。要は自律性がどれだけ担保できるかなのだ。
今は、数値的経済効果より、政治的な自立性を維持するほうが重要な局面ではないか?
国際政治の場では、強い国がルールを作り、依存する国はルールに従うしかなくなる。当分、これはどうしようもないことだけれど、問題意識は持ち続けるべきだろう。
そして、とりあえず「インバウンド」という経済現象を通じて、日本の政治力が徐々に削がれていく構図、これはなんとかならないものか?
あ、リアル熊の話、忘れてた。みんなどうしたいんだ? 人間が絶対正義とは決して言わないが、我々が我々の生活圏での安全のためにアクションを起こすことは決して間違っていない。それもまた生態系の変遷の一環だ。そうオレは思っている。
2025年11月21日金曜日
2025年11月20日木曜日
8880 相沢なほこ _2
普通に美人でかわいい感じもする。あまりに標準的な美人だったため、逆に特徴がない、キャラが立たなかったのか、事務所の能力、営業力がなかったのか、本人、歌や芝居といった芸能の才能がなかったのか、グラビアで瞬く間に体を覆う布が小さくなり、ヌード写真を出してフェイドアウト、というのは、あくまでオレの印象なんだが、こういう子が身近にいたら心つかまれてしんどい思いをしたことだろう。
普通に美人。普通に美人のお母さんやってそうな気がする。こんなんばっかやな。
2025年11月19日水曜日
2025年11月18日火曜日
2025年11月17日月曜日
2025年11月16日日曜日
8874 Integra typeS _2
2025年11月15日土曜日
2025年11月14日金曜日
8871 深田恭子 _12
いまや、なんか、心ここにあらずというか、浮世離れしているというか、上の空というか、そういう表情の写真をよく見る。予測通り美人になられた。何を考えているのか、何も考えていないのではないか、そういう表情。いろいろ諦めたこと、自分の中で殺してしまったことが多いのだろうか? そんなことも想像する。だとしたら少々痛々しい。
2025年11月13日木曜日
2025年11月12日水曜日
2025年11月11日火曜日
8868 Khatia Buniatishvili
パリ五輪のプレイベントで、エッフェル塔のあたりでラフマニノフのピアノ協奏曲2番の第3楽章の切り取り、終盤のあたりの物がネットに上がっていて、これが、なんとも祝祭感にあふれ、うっとりするものだったのだが、もう削除されていて残念だが、そこで鍵盤をたたいていたのが、カティア・ブニアティシヴィリ氏だったわけだ。割と慣れ親しんだ、カラヤン&ワイセンベルグの1973年の演奏あたりと比べてみると、彼女の演奏は、特に終盤ギアを上げてくるようだが、ともあれ、苦悶の豹所とは裏腹に、恐らく音楽の快楽の真っただ中に彼女はいた。
ヨーロッパではアイドルピアニスト、から、本格的ピアニストに脱皮した、という位置づけのように見受けられたが、良くは知らん。
2025年11月10日月曜日
8867 Daytona SP3
このままスポーツカーは眠りにつくのだろうか? それはそれで仕方ないとしても、かつてあこがれた思いを込めて描き残しておきたいと思っている。
2025年11月9日日曜日
8866 神楽坂恵
それについて思うことを書き出すと、支離滅裂になるとは思わないが、多分ネット時代に醸成された社会風潮とは相いれないことがいよいよ明らかになってしまうのだろうな、とは思う。 こういう、エロを、まぁ、自分のブログにだけとどめておく、描いて上げたことは告知はするけれど、画像自体は他所には上げない、ということにしている。それは、まぁ、普遍的なルールとは決して思わないが、この時代の最低限のエチケットなんだろうな、とは思っている。
それでも、そんなものがこの世に存在しないようにふるまうのは、断じた間違っているとは思っている。性欲が若い時と比べたら随分と減退してしまっている今でも、やはり、かの曲線、観ることがあれば、刹那、うっとりするものである。
これ以上は、今は書かない。
2025年11月8日土曜日
web作家の間で生成AIが作った作品がランキング1位を獲ったからって何かざわついているらしい。2
さて、

















































