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『トリカブトの花が咲く頃』上下巻を買ってみた
高校生のときに読んだバイク雑誌に丸山健二を訪ねがてら信州大町あたりをツーリングするという記事があって、以来、それほど熱心ではないファンとして、時々は彼の新刊を買い込んで読むということをしている。今改めてwikipediaで彼の作品のリストを眺めるに、その3分の1しか読んでいないのであるから、まぁ、なんというか。
書店で上下巻の新刊を見かけた。熱心なファンがいるのかどうなのか、今日とりあえず上巻だけ買い、読んで後日下巻を求めても手に入らない予感があったので二冊同時に買う事にした。
純文学と娯楽文学、その区別に果たしてどれだけ意味があるのか分からない、が、少なくとも、この本に関しては敷居が高いと、レジに運ぶ前パラパラめくって思った。小説というよりは散文詩であった。
クルマの中で、最初の10ページほど音読してみた。思いのほかオレのリズムにあっているようだ。すらすらと音読できた。また、語句の一つ一つは割りと平易であることもあるのかもしれない。しかし、それぞれの語句の連関がつかめず、言葉が脳に定着せず上滑りしていく感じがした。
ここで、理解できない表現というのは、ダメな表現である、とか、縁がなかった、とか、切り捨ててしまうのが当世流であるような気がするが、ソレならば、一年ぐらいこの本に付き合ってみようか、と、なぜかそう思った。そうしろと囁くわけだ、オレのゴーストが。
おそらく、そういう読み方というのは、今流の電子端末での読書には向かない。そして、そういう向かい方というのは、何かの鍵になりうるのではないか、そう思っている。
例えば1年この本に付き合って、何を読み取るのか? 作中人物の精神であったり丸山健二の精神であったりするのであろうが、それにより何かの教訓を得ようとかそう思うのは間違いだろう。まさか、流行のビジネス本、自己啓発本の類じゃあるまいし。
音読していて、作中世界というものがちっともオレの脳内で展開されることは無かった。こんなのも久しぶりだ。決定的にオレの脳みそが老い始めているのだと思い知った。しかし、まぁ、20代半ばに、1年かけて読んだ本のことを思い出したりもした。もう一度、というより、ここで新たにつなげるべきシナプスというものがあるのだということだ。時間をかけて丹念に。他人の精神を理解するために、その向こうにある何かを理解するために。
さて、現代において、それは決して有益な読書作法であるとはされない。たかが文章如きにスタックするほど、それが有能な人であれば尚更、寧ろ害毒めいたような言い方をされることがある。そのような書物に手出しするべきではない。時間が勿体無い、そんな感じで。その後ろにあるのはなにかと考える。
隋分を端折った言い方にはなるが、それがすなわちグローバリズムとか呼ばれている何かであると。「世界標準」に外れるやり方であると。
それがグローバリズムとか呼ばれているものであれば、稿を改めて論じなくてはいけない。が、ここでは、究極的には個人の精神とは対立するものではないか、と考えている、とだけ書いておく。結局のところ、何の対抗もできないまま飲み込まれがちになってしまうものだが、一矢報いるまで行かなくとも、せめて裏をかいてやる、としたら、こういうやり方なんじゃないか、そう感じたりもしている。
まぁ、妄想だ。しかし、まぁ、ハードカバーの本を手元に置いて、こうも何か変な高揚感があるもの久しぶりで、存分に楽しみたいものだ、と、今は思っている。
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