2025年7月2日水曜日
ダイワハウスのCM考
松坂桃李氏が出てるダイワハウスのCMで、
「おいおい、この段階で偏った方向に結論付けるのは危険だぞ。もっと柔軟に考えてみるんだ。AかBかじゃなくて、AよりのBとか、BよりのAとか、たとえば中トロ寄りの大トロとか、大トロ寄りの中トロとか、つまり、ウナギ寄りのアナゴとか、アナゴ寄りのウナギとか、あるいはカニよりのかまぼことか、かまぼこ寄りのカニとか、そういう絶妙なバランスが・・・」
というのがあって、注文住宅のCMにこれ? と結構謎なんだけど、なんか時代に対してもメッセージのような気もしている。ちょっと考えてみた。
確かに一見「注文住宅」との関連性が薄く感じられるけれど、よく見ると実はかなり深いメッセージが込められているようにも思えてくる。
松坂桃李氏が語るあの「AかBかじゃなくて」「中トロ寄りの大トロ」「ウナギ寄りのアナゴ」みたいな例え話は、突飛に思えるが、「二項対立を超えた柔軟な発想」を促してるのだろう。
それにしても、最初から観ていくと、これが住宅メーカのCMとわかるのは最後の方にやっと、という、現在主流の、元も子もなく商品名連呼の如きCMとは、明らかに趣を異とする。しかし、一見ミスマッチなこのセリフが、実は注文住宅の本質に触れているとも言えるかもしれぬ。
注文住宅というのは、まさに「既成のAかBか」ではなく、「自分らしいちょうどいいグラデーションを探す作業」なのだろう。たとえば、モダン寄りの和風、収納重視の開放感、家族団らん重視のプライベート空間、等々。こういう、一見矛盾しそうな要素を絶妙にバランスさせる柔軟性こそ、ダイワハウスが提案する住まい方なのかもしれぬ。
これは単なる住宅CMを超えて、「今の時代に対する提言」みたいにも聞こえる。
「おいおい、この段階で偏った方向に結論づけるのは危険だぞ。」
このセリフ、社会全体の思考の硬直化や分断の危うさに警鐘を鳴らしているようにも感じられてならない。家の話をしながら、実は暮らし方=生き方=考え方の柔らかさを説いてると思うのだ。
〇表面的には注文住宅と関係なさそうだが、「選択肢の幅を楽しむ」という注文住宅の本質に沿っている。
〇時代の「二項対立」に対して、「グラデーションの思考」を提案している。
〇意外性のある比喩が逆に印象に残り、ダイワハウスの哲学を際立たせている。
松坂桃李氏が油汚れに塗れたスーツ姿で列車の車両基地で歩きながら言ってるのも、何かの暗喩じゃないかとも。このシチュエーション、言葉の内容と絶妙にずらしていて、単なる住宅CMの枠を越えてくる。
車両基地って、まさに**「裏方」**であり、見えないところで日々整備と調整が繰り返されている場所。それって、住まいや人生においても「整える」「保つ」「点検し続ける」ことの重要性を象徴しているかもしれぬ。松坂桃李氏が話してるのは「柔軟な発想」「グラデーション的な選択」。その思考って、見た目にはわかりづらくて、派手さはないけど、実は裏で一番手間がかかるものだったりする。油まみれの現場に立つことで、その「泥臭さ」も表現してるのかもしれない。
列車の整備現場というのは、クリーンではないし、ピカピカでもない。まさに白でも黒でもない“グレー”の世界。それが、「AかBかじゃなくて、A寄りのB」 というセリフと重なる。カニとかかまぼこなんて軽妙な比喩を言っているのに、背景は重くて工業的。このギャップが何とも言えぬ深い味わいを出している。
列車=社会、車両基地=社会の裏側や転換点と見るなら、「ここで何かが修理され、再出発していく」という構造となる。それは住宅というハードの話だけでなく、今の私たち自身や思考の癖を整備・点検・更新していこうというメッセージとも読めぬことはない。「ちょっと立ち止まって、ものの見方を整備しよう」 そんな空気感が漂っているきがしてしまう。
車両基地は、社会の裏側・人の無意識・見えないインフラ。
油汚れは 矛盾、混とん、人間の本音や未整理な部分。
油汚れに塗れたスーツ姿の松坂桃李氏は、現代の合理性、理性的視点、それでも考えようとする個人。
グラデーション思考は、現代社会への処方箋。
カニとかアナゴとな云々は、対立じゃない曖昧な価値観の美しさ。
これらはそんなメタファーなんじゃないか?
そんなCMをハウスメーカーが打つって、どういうことだ?
家を、究極的には「どう生きたいか」を問う選択の結晶と考える。だからこそ、こういう「生き方」「考え方」に一石を投じるCMを、ダイワハウスはあえて打っているのかもしれぬ。
つまり、 「家は、思考の表現でもある」 というコンセプト。
案外な、小さな哲学の断片かもしれぬ。知らんけど。
ギリシャ悲劇とモータースポーツ

セナの命日と加藤大治郎の誕生日近くには、彼らに関する絵を描くのが、なんとなく恒例になってしまっている。ずっと以前にも、モータースポーツの死生観について書いたような気がするが、もう一度書いてみた。以前とは少し違うが、まぁ、言ってることは同じなのかな?
ニーチェが語った「ギリシャ悲劇」の構造は、彼の初期の著作『悲劇の誕生』(Die Geburt der Tragödie, 1872年)において展開された概念で、アポロン的とディオニュソス的という二つの対立的かつ補完的な原理を軸に構成されている。
まず、アポロン的(Apollinisch)とは何か?
アポロンはギリシャ神話における太陽神で、秩序、理性、調和、個体性、夢の世界を象徴だ。ニーチェにとってアポロン的な芸術は、彫刻や叙事詩のように、明確な形と構造を持った美の表現のことをさす。 個人の輪郭を保ち、現実を夢として昇華し、苦悩を覆い隠すものであるとした。
ディオニュソス的(Dionysisch)について。
ディオニュソスは酩酊と陶酔の神で、混沌、情熱、集団的陶酔、音楽、一体感を象徴しているとする。ニーチェにとってディオニュソス的な芸術は、音楽や悲劇の合唱のように、理性を超えた原始的な力の表現であり、個人の境界が崩れ、世界と一体になるような感覚、則ち「自己の超越」「根源的苦悩の肯定」の表現であるとした。
ギリシャ悲劇の本質として、ニーチェは、ソポクレスやアイスキュロスの悲劇における、アポロン的要素(対話・劇的構造)とディオニュソス的要素(合唱・音楽・陶酔)が融合であると主張した。とくに悲劇合唱(chorus)に、ディオニュソス的な一体感の核心があると見なした。
この際、悲劇とは、人間の根源的な苦悩(ディオニュソス的現実)を、アポロン的な形式で表現し、観客に美と意味をもって提示する構造である。
ところが、ニーチェは、ソクラテス以降のギリシャ文化が理性(アポロン的)に偏重し、ディオニュソス的要素が排除されていったことを嘆いた。
彼はエウリピデスの悲劇をその象徴とし、「論理的説明」を重視することで、悲劇の根源的生命力が失われたとし、この過程を「悲劇の死」と呼んだ。
ニーチェにとってギリシャ悲劇とは、アポロン的秩序とディオニュソス的陶酔という二つの芸術的衝動の緊張と調和の中に生まれた、生の苦悩を美として肯定する芸術形式であり、それは彼にとって「文化の最高形態」であったのだ。
この視点は、単なる文学史的な分析ではなく、ニーチェ自身の哲学、「力への意志」「運命愛(アモール・ファティ)」「永劫回帰」などの萌芽にもつながっているのである。
蜷川幸雄氏だったか、シェークスピア悲劇を脚色するにあたり、観客の目線をギリシャ悲劇のそれのようにする、みたいなこと言ってなかったかな、と思う厳密な引用は文献にあたらないと確定できないのだが、蜷川氏演出における「観客の視点をギリシャ悲劇的なものにする」という趣旨の発言や姿勢は、しばしば語られている。
ギリシャ悲劇的視点を「俯瞰」、「運命」、「カタルシス」とまとめる。
蜷川氏は、特にシェイクスピア悲劇の演出において、「ある個人の悲劇を越えて、人間存在の普遍的な苦悩や運命を観客に突きつける」ことを重視していと陽に思う。これはまさに、ギリシャ悲劇が個人の苦悩を通じて神意や運命を浮き彫りにする構造と重なる。
彼は観客に対して、「当事者的な感情移入」ではなく、悲劇的な構造全体を"引いた視点"で見せようとしていたのではないだろうか? つまり、「これはあなた自身の悲劇かもしれない」と俯瞰的に突き放しつつも共鳴させる、まさにアポロンとディオニュソスの間の張力を活かす視点だろう。
蜷川氏が演出した『タイタス・アンドロニカス』では、復讐と暴力が連鎖する様子を「残酷な祭祀」のように演出しており、これは**ギリシャ悲劇における「血の宿命」や「神意」を彷彿とさせるものだろう。
また『マクベス』では、因果応報という構造的な運命の流れを、登場人物たちの激情とともに、形式美と象徴性を持って舞台上に出現させた。こうした手法は、まさにギリシャ悲劇的な装置としての悲劇のあり方だ。
ギリシャ悲劇的構造を「形式として導入する」発想、則ち、蜷川氏は日本人の身体性や文化的背景を活かしながら、「観客に宿命的な流れを体感させる」構造を用い、個人の苦悩を超えた『集団の悲劇』『時代の運命』としての劇をつくっていたのではなかろうか?
彼が単なる物語としてではなく、観客に「人間存在の本質」を突きつける装置として舞台を捉えていたことの反映だろう。
蜷川幸雄氏はシェイクスピア悲劇の演出において、観客の視点をギリシャ悲劇のようにすることを意識して多として間違いないと思う。だとすれば彼の演出では、個人の物語を超えて、運命や人間存在の普遍的なテーマを浮かび上がらせることを重視していたのだろう。
蜷川氏が演出した『ジュリアス・シーザー』では、民衆や名もなき人々の存在を作品の中核として捉え、観客に対しても彼らの視点から物語を体験させるような工夫がなされていたという 。これは、ギリシャ悲劇における合唱隊(コロス)の役割と通じるものがある。
『オイディプス王』や『メディア』といったギリシャ悲劇の演出では、運命や神託といったテーマを強調し、観客に対して人間の無力さや宿命を感じさせるような演出がなされていたそうだ 。
このように、蜷川幸雄はシェイクスピア悲劇を演出する際にも、ギリシャ悲劇の構造や視点を取り入れることで、観客に深い感動や洞察を与えることを目指していたように思われる。
単純に、古代ギリシャの劇場が、観客が上から部隊を見下ろす、という形、つまり俯瞰する、というところで、それはアイルトン・セナの事故死の時にも通じるものがあったのではないかと感じのだ。
「俯瞰する視点」、つまり観客が「当事者でなく、しかし無関係でもない」立場で、悲劇を見下ろすように体験する構造は、古代ギリシャ劇場の空間構成と精神的体験の本質であると思う。
ギリシャの円形劇場は斜面に築かれ、観客は上から舞台を見下ろす構造だ。これは単なる建築的理由(音響・視界)にとどまらず、神々や運命に対して人間を見下ろす=俯瞰する構図を演出する装置でもあった。そして観客は、合唱隊(コロス)と一体化しつつ、「我々のうちの一人」が破滅していく姿を見て、自らを省みる構造になっている。つまり「一歩引いた視点から、深く巻き込まれる」のが悲劇の鑑賞態度なのだ。
1994年、F1中継という全世界に生中継された場での死は、まさに**「舞台で死ぬ」構図**だった。世界中の人がそれを見下ろすかのように映像で目撃し、何が起きたのかを整理できないまま、宿命的なものとして受け止めた。セナは英雄であり、神に近い存在でありながら、人間の脆さをさらけ出す形で命を落とした。あの一瞬の死には、神話的な運命の重さと、現代人の「無力な目撃者」としての役割が重なっていたとも言える。
蜷川氏がギリシャ悲劇的構造にこだわったのは、舞台上の人物を人間という存在の縮図として曝け出すためだった。
それはセナの死と同様に、「個人としての死」が、「観客=世界」から見られ、語られ、神話になる構造を持つ。「俯瞰」というキーワードは、単なる視点ではなく、個人の死が、共同体にとって意味を持つ瞬間 という、悲劇の最も深い層に触れるものだ。
モータースポーツに限らず、スポーツは本質的に劇的で、時に悲劇的な要素をはらんでいる。が特にモータースポーツは、以下の特性を通じて、「悲劇の舞台」に限りなく近い構造を持っている。
観客は常に「上から」見る。スポーツ観戦はほぼ例外なく観客席が高く、競技者は下で戦う構造である。古代劇場と同じく、観客は神々の視点のように選手たちを見下ろす立場に置かれる。この構造により、「選手=英雄」「観客=運命を目撃する者」という力学が成立する。
選手は「舞台上の登場人物」である。スポーツはリアルタイムの「即興劇」であり、選手たちは観客の目に曝された「演者」なのだ。勝者は英雄となり、敗者や事故に巻き込まれた者は「悲劇の主人公」になる。意図しない破滅(事故、怪我、死)ですら、物語として消費されてしまう。
モータースポーツには、特有の「死との隣り合わせ」と言う要素がある。F1などは肉体と機械の限界に挑む競技であり、その緊張感が観客の感情を高める。セナやジル・ヴィルヌーヴ、トム・プライス、近年であれば、ジュール・ビアンキ。まだいる。加藤大治郎、マルコ・シモンチェリ、小河等、若井伸之、永井康友、名前を挙げきれない数多のドライバー、ライダーの死は、それぞれにスポーツを超えて「神話化」された瞬間だった。一瞬の事故が人類の無力さや技術の暴走すら象徴する、ギリシャ悲劇的な重みを持つ
スポーツ観戦とは、現代の神事、または演劇である。それは現代社会における「生の儀式化」だとも言える。選手たちは「人間の可能性」を体現し、時に「犠牲」となって人々の記憶に刻まれる。観客はそこに興奮、涙、感動、畏れさえも抱く。これはまさに、ギリシャ悲劇で「一人の破滅」を通じて人間存在全体を見つめる構造と一致する。
セナの死は、全世界が俯瞰的に見守る中で、「神のごとき存在が墜ちた瞬間」として受け止められた。あの瞬間、観客は「人間の限界を超えた存在が、肉体の限界に抗えなかった」という哲学的な問いと向き合わされた。涙も、怒りも、報道も、すべてがカタルシス(浄化)に近い形で作用した。
観客席から見下ろされる「競技者たち」、命を削るような挑戦、予測不能な死や敗北、社会的・文化的に神話化される記憶、これらすべてが、スポーツ、とりわけモータースポーツにギリシャ悲劇的な構造を内包させているのではないだろうか?
2025年7月1日火曜日
どう変えるか?3 制度再設計に向けた実践的アプローチ:未来を拓く五つの道筋
制度再設計に向けた実践的アプローチ:未来を拓く五つの道筋
現代日本が直面する制度疲労の打開には、単なる部分修正ではなく、根本的な再設計が求められる。ここでは、その第一歩となる五つの重点分野と、それぞれの具体的アプローチを提示する。
❶ 中央と地方の関係性を再定義する
まず着手すべきは、「中央集権か地方分権か」という二元論を乗り越えた、新たなガバナンスモデルの構築である。特に、地方交付税制度を見直し、地方自治体が独自の判断で施策を展開できる財源の確保と自由度の拡充が急務と考える。たとえば、消費税の地方分配率を高めることや、交付金の使途制限を緩和することが考えられる。
一重に、現状の制度、構造の継続により、日本という国家、日本の社会の衰退が避けられないという事実が顕著になってきている現状において、その衰退が特によく現れてしまっているのは周縁部、つまり地方からであり、それはやがて中央へ、日本全体へと広がっていくと考えるのが、まず普通だろう。或いは、患部を切除するように、衰退した地方を切り捨てる、という料簡も存在するのかもしれないが、地方というものがなくなるということが果たして本当に中央の衰退につながっていくことはないのか?という問題。
中央に人的、経済的、政治的資源を集中させ、地方を切り捨てるというアクションがよりはっきりした時、日本という国が果たして存在しているのだろうか? 分裂は本当にないと言えるか?
とはいえ、無条件に地方を甘やかすというのも、先が見えない話ではある。「自己決定には自己責任を伴う」という原則を制度に組み込む必要がある。国による画一的な縦割り補助金行政からの脱却を図り、教育・福祉・インフラなどの政策分野においても、地域ごとの創意工夫を可能とする設計へと転換していくべきである。
とはいえ、地方分権が進めば、地域間格差の顕在化は避けられない。ここにこそ、国民的な議論を巻き起こす覚悟が求められる。言い換えれば、今まで何となく徹底的な議論を避けてきたが、「格差」というものに我々の社会はどういうスタンスで臨むのか?
「どの程度の差異を許容するのか」という、価値観のすり合わせを避けてはならない。
❷ 政治と制度の「正統性」を再構築する
制度が信頼を失ったときに求められるのは、「正統性の物語」を再構築することだ。これは憲法改正の是非といった議論だけにとどまらず、現代日本における「社会契約」をどのように更新するか、という問いに接続する。
そのために必要なのは、熟議型民主主義の場を制度として時代に合わせて整備することである。一例として、国会とは別に、市民が議題に応じて集い議論する「新・国民対話フォーラム」を常設し、政策形成の初期段階から広く社会の声を取り込む。アイスランドの「市民憲法会議」などがその参考になる。
否、ネットとAIを使えば、もっと容易に国民の議論の中から妥当性を導き出すやり方はあるのではないか?
また、戦後日本が長らく拠り所としてきた「経済成長=正統性」という価値観から脱却し、人間の尊厳、環境との調和、社会的包摂といった新たな共通善を中核に据える必要があるのではなかろうか? 別稿で考察している最中だが、個々の人間としての主体が失われつつある現状で、ここで、何かやらなければいけないのではないか、と、考えている。すっと頼ってきた資本主義経済も、いよいよ行き詰まりの行き詰まりに行き当たっているのでは、と、過去の成功体験ではなく、未来への物語が必要だ、と、強く感じる。
❸ 官僚制度を可視化し、時代に適応させる
信頼される制度の前提は、プロセスの透明性にある。まず国会における政策議論のあり方を抜本的に見直すべきである。官僚が作成したQ&Aを読み上げる形式を廃し、政策責任者の記名制度と議事録の完全公開を義務化することで、「誰が」「なぜ」政策を進めているのかを追跡可能にする。
さらに、官僚制度と政治の役割分担を明確化する一環として、局長級以上への政治任用制の導入を段階的に進める。政策判断が問われるポジションには、忠実な管理官よりも、戦略的思考を持つリーダーを登用する体制が望ましい。
予算制度についても、財務省主導の歳出抑制型から脱却し、中期ビジョンに基づく予算編成と市民参加型の予算(Participatory Budgeting:PB)を導入することで、民主的正統性を強化する改革が必要である。
「正統性の再構築とともに、政策の妥当性を、目に見える形で追及せねばなるまい。
❹ 外国モデルの部分導入から現場実装へ
「制度は輸入できても文化は輸入できない」と言われる。また、こういう議論では必ず他国は他国、日本は日本、と頑なになる向きがいる。その主張の妥当性を明らかにしないままにだ。
成功事例を参照しない理由が存在するようには思えない。たとえば、エストニアのように行政手続をすべてAPI化し、人口・土地・法人などのベースレジストリを整備することで、行政の“プラットフォーム化”を目指すことができる。また、台湾のvTaiwanに見られるように、デジタル空間上での市民参加とAIによる意見集約を試行自治体から導入し、熟議のコストと障壁を下げていく取り組みも有効であろう。
加えて、北欧諸国に学び、教育・福祉・自治を連動させた地域限定公共圏(ローカル・コモンズ)を制度として支援することで、小規模自治体であっても自律的な運営が可能となる。福祉を「投資」として捉える発想の転換が、日本にも必要ではあるまいか?
❺ 統治と文化の再接続:教育改革から始める
最終的な制度変革は、文化の再定義なしには成し得ない。その第一歩として、主権者教育を義務化し、学校教育における模擬選挙、政策討議、合意形成の演習を中高段階で必修化すべきである。民主主義は自然には育たない。教え、育むべき技術である。
また、メディアやNPOと連携し、事実に基づいた意見の違いを尊重する「公論の場」を戦略的に行政が用意する必要がある。議論を避ける文化から、議論を通じて信頼を育てる文化への転換が鍵となる。
更には、地方で実践される市民協議会や公民館民主主義の成功事例を、単なる“ローカルの物語”で終わらせず、中央に逆輸入する制度的ルートを設計することが重要である。文化は一方向には流れない。双方向の循環こそが、成熟した統治の姿ではないか?
三段階の改革ステージ
制度再設計は、一挙に完結するものではない。以下のような三段階での進行が現実的かな、と思う。
段階 | キーワード | 主なアクション |
第一段階 | 軸の再定義 | 中央と地方、官と民の役割を明確化 |
第二段階 | 制度の可視化と開放 | 官僚・政治の透明化、市民参加による政策形成 |
第三段階 | 文化の転換と育成 | 主権者教育、公共的価値の再構築、対話文化の醸成 |
制度とは「生き方の選択」である
日本は、「うまくできた古い装置」が惰性で動き続けてきた国家であると思う。しかし、その装置はもはや時代の重力に耐えきれず、綻びを見せている。もうボロボロだ。
制度の再設計とは、単なる行政の合理化ではない。それは、「誰が、どのように生きる社会を築くのか」という、私たち自身の意思表明にほかならない。
「ゼロから作り直す」という選択は、絶望からの出発ではない。むしろ、希望と参加を取り戻すための試みとしてこそ、私たちはそれを選ぶべきである。
「贈与」に至る/あらかじめ組み込まれた自壊のプログラム? 2 なぜ富に執着するか?
もう充分だろうに、まだ金をもうけようとするか? 財産自体分け与えないまでも、金の種、というか、その手段は移譲してもいいのではないかと思うのだが、そんな感じでもない。なぜか?
再分配は、実質的に人から「人生の一部を取り上げること」(=強制労働の一種)になりかねない。