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考えてみたら、法華宗の事ばかり書いていて、ランボゥの事書いてないし、それなら、別にカワサキ空冷4発を合わせることもないのだ。んでもって、ランボゥに話題を引き戻す前に、東本昌平氏の「キリン」の事について少し、と思い、今回は刀。
非常に稚拙な、という修飾語はつくが、プチ宗教論争、プチ思想哲学論争なんて、20代の時、げっぷが出るほどやったのだ。それもこれもすべてはマウントとるためなんだが、夜の酒を飲みながらのそれに備えて、昼間のうちに書籍でにわか知識の詰め込みなんかもやったりしたものさ。今更、同僚で顕正の彼女を、以降、ここでは姫と呼称するが、姫とは多分直接的な論争になることはないだろう。姫の同級生の方か、顕正会のもう少し上位の人が、こんなオレを、それでも、折伏弘通しようというなら、多少はあるのかもしれない。まぁ、オレが彼らの立場なら、こんな奴はごめんだがね。
ざっくり整理するならば、妙法蓮華経と勤行の良さは充分理解できた。それだけで価値があることは分かった。しかし、顕正会の主張方針とは相いれることができず、会員として活動することもできない、ということだ。
心が決まって、改めて思うのは妙法蓮華経の経文としての端正さである。そう感じるというのは一体どういうことなのか、生まれて初めて、じゃないわ、前に鈴木大拙氏の「歎異抄」を読んだことがあるんだった。臨済宗門徒の氏が、親鸞の教えが浄土宗門徒の間で変質することを嘆いた、なんていう、言ってみれば愚痴本だ。名著とは言われているが。仏教関係の書籍を買うのは、その「歎異抄」に次いで、ということになる。それが今回、3冊ほど仏教研究書籍、他に何冊か、まとめてお買い上げだ。
法華経関連書籍が4冊と、佐藤優氏が母校の、氏は神学部であったから、多分その神学部で講義したその内容らしい、という本と、ガダリやデリダと並んで、オレが若い時スターだったドゥルーズの、これ、入門書みたいな内容らしい。
ホントは土木の技術書買って読めばいいのだが、ついつい手が出るのは、単車とかクルマの本じゃなければこのあたりだったりする。GWとその後の2週間の出張の夜、コロナだし遊びに行けないので夜の御供として。
若いころというと、美術部の後輩に、一時期幸福の科学に偉く傾倒した奴と、バイト仲間の他の大学の学生(っていうか百万遍のかの国立大学の奴)でオウム真理教に入信しちゃった奴がいた。それぞれから、結構熱心に勧誘されたりした。
って思いだしたよ。なんか、オレ、勧誘しやすいのか、原理研の勧誘こそなかったけど、前に書いた通り、英会話の教材やら、高校の時新宿駅で自衛隊の勧誘を受けたし、渋谷から青山通り、表参道と歩いただけで2回、厚化粧のオバちゃんお姉さんに、シルクスクリーンやらリトグラフやら売りつけられそうになった。以来、クリズチャン・ラッセンが特に嫌いになったんだがな。
そう思うと、オレって、そんな隙だらけに見える? って、少し落ち込んでしまう。
そのあたりから、思ってたのさ。新宗教、新興宗教なんていうのは、組織として不安定な分、教祖が「烏の色は白」といってもそれに従わなければならないようなところがある。そうしないと組織を維持できない。壺とか怪しげなもの売られる以前に、そういうのが我慢できない。
こうやって、オレは、良いと思ったりとか興味を持ったりしたら、その話の裏も取り、そのうえで受け入れるかどうか決める、なんて言うやり方をいつの間にかとるようになった。法華経との出会いはきっと悪くないものであるという予感がある。それをもたらしてくれた姫には感謝だ。心から。
まぁ、しかし、特に顕正会のような立ち位置の新宗教、そこの支部長あたりが仮に折伏にくるのだとしたら、そのような本では何も日蓮大聖人様の教えなどわからない、とか、間違いだ、とか言うのだろう。まぁ、それならお互い何が分かってるのか? って話なんだが、お互い何もわからないんだよ。なんて、少々乱暴か。主観も客観も必ず正しいことなんてない。一般に客観が正しいみたいな思われ方をしているが、そういうのはただ、外から見る分には、以上の意味はないから、中の事は分からないし、内側にこもっては外からの評価がわからない。信心が、他所の評価も気にならない。自分の信心で目いっぱいで、他人様の信心などどうでもいい、という立場を取らない、あくまで折伏にこだわるなら正しいものはまるで見えていないということになる。ただ、自分が絶対正しい、という料簡こそ、実は真っ先に間違いであると断ぜられるべきものであると思っている。その辺からして多分決して分かり合えない。
まぁ、オレが思ってることだって正しいとはほぼ思っていない。特に万人にとっては。間違っているから常に正しいものを探すのだけど、正しいものを手に入れた瞬間に間違ったものになってしまうのだから、きりがない。しかし、そういうことの面白みが、何となくわかってきていたりしてな。
限界超克の姿こそ男にはふさわしい
それは一種永続的な闘争であるが
その苛烈な思惟に耐え続けるのは難しい
若さは性急に結論を欲し 問題を切断しようとする
自身の有限を自覚しながらも
再び立ち上がり走り出さなければならない
初めてアクセルを握った時から
何も変わってはいないのだ
そらで覚えているのを書き出してみた。それぐらい若い時のオレには重要な一節だった。「キリン」が最初にMr.Bikeに連載されていた時に、東本氏によって、作中と、漫画とは別のページに書いてあったのを合わせて、こんな感じだったと思う。
こめかみとその奥の脳髄の芯が随分と疲れたような感覚は取れなかったけれど、これはこれからこういうものだし、男ってこんなもんだ、なんて妙に腑に落ち、何か世界が変わったような気がした、これを読んだときは。
因みに、「男には」なんて、「男」を振り回すなんて、随分昭和だが、しかしこの場合の男はつまり、例えば戦場で、恋人の写真を持参して「戦争が終わったらこのコと結婚するんです」なんて妙なフラグを立てることもなければ、そもそも、持って歩く写真に写す恋人などいないのに、いざ始まってしまえば、真っ先にヘルメットごと頭を撃ち抜かれてしまうような男、意を決して女性に愛の告白をして「君のためならなんだってできる」といったら、即座に「じゃぁ、私のために、私の前から今すぐ消えて」と言われてしまうような男である。いくら男女平等とはいえ、そういうのはごめんだろう、多分、女性の方々も。
モチベーションが低いわけではないが、妙に疲れ果てた感覚があるし、それでいて変に覚醒していて、寄り添ってくれる人もなく脚に力は入りきらないのだが、寄り添ってくれる人がいなければ、前に行かないのか? 違うだろ? と、ゴーストが囁いてくれちゃったりなんかして、一度、丹田に力を込め、歯をほんの少しだけ食いしばり、食いしばりすぎると俺みたいに奥歯ボロボロになりますので。まぁ、そういう自己イメージだ。そうやってよろよろ前に進みだす。
どこかの教えにおすがりすれば、それは間違いであると断じられ、なにか即席のお救いをあてがわれるのだろうが、そういうことは選ばない。
で、自己陶酔と揶揄されるから人には言わないけれど、案外とこれが、居直ってしまえば楽しいと思えなくもない。そんな感じ。
キリンが、何十年越しにポルシェに挑みかかるきっかけは若い女性だった。こちらも若い女性であることは変わりないが、あちらはイケオジで女性と懇ろになったりしていたが、こちらは、そういうことはほぼあり得ない。でも、な~んか (´・ω・`)人(´・ω・`)ナカーマ、とか、思ってしまった。
ランボゥの詩というのは、そういうのが、そんな珍しくはないことで、ちょっとばかりしんどいかもしれないが、特別絶望的な孤独感を感じるほどの事もない、と、いい具合に教えてくれる。
ような気がする。知らんけど。
というようなところを、顕正会の件は、ブログでは、一応のまとめとしておく。新しい展開があって、それが面白いと思えば書くことにする。