2025年6月17日火曜日
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存在と鋼鉄3:完成という名の盲目
完成という名の盲目
「技術とは『問いを持たない完成物』である」という洞察は、現代社会を読み解く中核的な視座であり、マルティン・ハイデガーが『技術への問い』で提示した問題意識にも深く根ざしている。これは単に哲学の話にとどまらず、今日のAI、戦争、日常生活、芸術、政治といった多様な領域にまで貫通する主題である。
たとえば現代のAI社会では、顔認識システムや信用スコア、自律兵器などが「なぜこの技術が必要なのか」「どのような価値判断に基づいているのか」という倫理的な問いを持たないまま稼働している。技術の内部では、効率化と最適化というロジックが全面化し、問いを発する主体としての人間が次第に無力化されていく。これはまさに「自己目的化された技術」の姿であり、手段が目的へとすり替わる構造である。
戦争の文脈では、この構造はさらに顕著だ。ナチス・ドイツが開発したV2ロケットから、現代の無人ドローン兵器に至るまで、兵器とは究極の「問いを持たない完成物」である。技術者はその殺傷力や精度にのみ関心を持ち、それがどこで、誰に対して、どのように使用されるかを問うことはない。その結果、倫理的責任はシステムの中に分散し、誰も加害の全体像に直面しないまま、暴力が実行される。
この「技術の無問い性」は日常生活にも浸透している。スマート冷蔵庫や音声アシスタントといった便利な道具は、私たちの生活を効率化する一方で、「便利とは何か」「便利さによって何が失われるのか」という問いを放棄させる。利便性が日常を覆うほどに、私たちは自分の欲望や行為の根拠を自問しなくなる。
この構造に対し、芸術はある種の対抗を示す。「完成された作品」ではなく、「問いを残す作品」こそが、鑑賞者との対話を生む。未完成の詩や終わらない旋律、決定を拒む絵画は、技術的完成とは異なる価値――揺らぎ、余白、未決定性――を持っている。それは「完成を拒むことで、問いを開き続ける」営みであり、他者に対して開かれた空間を創出する。
さらに政治や制度も、完成を目指すとき、同じ危険性を孕む。たとえば「テロ対策法」や「社会的信用制度」などは、正義や安全という名のもとに人間の揺らぎや逸脱を排除し、「問われない管理体制」を形成する。法や制度が完成されるとは、往々にしてそこに人間の多様性を受け入れない硬直性を伴う。
「問いを忘れた答えは、暴力になる」。この警句は、技術が単なる道具であることを忘れたとき、手段が目的化し、人間の生を管理し定義しようとする危険性を鋭く突いている。問いとは運動であり、完成は停止である。だからこそ、私たちは常に問い続けなければならない。完成された技術の中に潜む「思考の空白」に、倫理と哲学の光を差し込むために。
技術とは、私たちの暮らしを便利にし、効率を高め、誤差なき判断を代行してくれる「完成されたもの」の象徴として語られがちである。しかし、そこには決定的に欠けているものがある。すなわち「なぜそれを行うのか?」という根源的な問いだ。ハイデガーが喝破したように、技術は単なる中立的手段ではない。それは世界を「資源」として把握し、人間でさえ制御と管理の対象へと還元してしまう装置であり、そこに倫理の余地は乏しい。
ナチス・ドイツによるホロコーストはその極限的帰結であった。ユダヤ人をガス室に送る列車を運行した駅員は「私はただ時刻表に従っただけだ」と語り、効率的な設計に従事した技術者もまた、問いを持たぬまま機能を最適化した。
この構図は、イスラエルがガザに投下するドローン兵器にも連なっている。精密で効率的な殺戮装置を前に、「誰が敵なのか?」という問いは意図的に排除され、ただ命令と手続きが作動する。かつて被害者だった者が、技術を「完成」させることで新たな加害を行うという倒錯は、現代技術倫理の断絶を示している。
私たちは「技術は中立である」という幻想を捨てねばならない。顔認識AIは権力構造を映し、検索アルゴリズムは思考を方向づけ、医療AIは命の優先順位を決める。民主主義ですら、技術によって「制度」として自動化されるとき、本質的な問いよりも効率が支配する。だが、問いを持つこと、完成を拒むことこそが倫理の出発点だ。あらかじめ与えられた「完成形」に沈黙するのではなく、「なぜ?」と問う声こそが、私たちがなお人間であることの証なのである。
2025年6月16日月曜日
存在と鋼鉄2:被害者性の変容とナチズム批判の行方
被害者性の変容とナチズム批判の行方
ナチズムは、20世紀における絶対悪の象徴として語られてきた。人種差別を国家理念に据え、全体主義体制のもとで言論・思想の自由を封じ、さらにはホロコーストという前代未聞の「産業的殺戮」を実行したこの体制は、人間の尊厳そのものを踏みにじる試みとして、倫理的に断罪されてきた。ゆえに「ナチズム批判」は、現代社会において普遍的な道徳的基準の一つと見なされ、疑いようのない正義として受け止められてきたのである。
しかし、21世紀に入り、ナチズム批判の在り方そのものが静かに揺らぎつつある。それは、単に歴史認識が変化したというよりも、「被害者」という存在に内在する複雑さが可視化され始めたからだ。かつてナチスの犠牲となったユダヤ人たちの一部が築いた国家・イスラエルが、今日のパレスチナ、特にガザ地区において行使している武力や封鎖政策に対して、国際社会から非難の声が上がっている。「被害者であったはずの者が、なぜ加害に手を染めるのか?」という問いは、あらゆる単純化された善悪の図式を崩壊させる。
ここで重要なのは、「イスラエル=ナチス」という短絡的な等式を結ぶことではなく、むしろこの構造が私たちの倫理感覚に突きつけてくる、より深い命題である。すなわち、「被害者は、常に純粋で無垢な存在なのか?」「加害性は、一度も被害を受けたことのない者のみに宿るのか?」という人間性の根源にかかわる問題である。被害者が被害者であるがゆえに無条件に道徳的優位に立つという想定は、現実の歴史や政治の中でたやすく崩れる。むしろ、その想定こそが、新たな加害性を不可視化してしまう温床にもなりうる。
こうした視点に立つとき、ナチズム批判とは「過去の悪」を糾弾することにとどまらず、常に現在の権力構造を問い直し、倫理的に自分たちの姿を照らし返す営みでなければならない。そのようにして初めて、歴史の教訓は生きたものとなる。
被害者性と道徳的特権
近代以降の倫理的言説において、「被害者」はしばしば絶対的な道徳的優位に立つ存在とされてきた。特にホロコーストの記憶は、単なる歴史的事件を超え、文明批判の鋭利な刃として、あらゆる形の全体主義や人種主義を糾弾する道徳的な錨として機能してきた。それは「人間が他者を手段としてのみ扱ったとき、いかなる悲劇が起こるのか」という問いを我々に突きつけ続けた。しかし、その「被害者性」が時間とともに「道徳的特権」へと変容し、絶えず免責される主体となったとき、我々はそこにある構造的な盲点を見落としてはならない。
国家としてのイスラエルが、封鎖、入植、空爆といった手段を用い、パレスチナ人に対して暴力的な支配構造を継続している現実の前で、「被害者だからこそ正しい」という図式は、倫理的にも政治的にも持続可能ではない。かつてナチズムが非難されたのは、それが「民族の名において、他者の生存の権利を体系的に否定した」からであり、それはユダヤ人が被害者であったから特別だったのではなく、誰であっても犯してはならない罪だったからである。
にもかかわらず、イスラエルがその建国の正統性を「被害者としての記憶」に強く依拠し続けることで、加害の現実が見えにくくなっている。そのことが、ナチズム批判という営みの意味そのものを変質させてしまいかねない。被害者であったことは歴史的事実であり、癒されるべき苦しみであるが、それは永遠に倫理的免責の盾として使えるものではない。
むしろ我々が学ぶべきは、「被害者であっても加害者になりうる」という人間存在の両義性である。そしてこの両義性こそが、近代以降の人権思想や民主主義が向き合ってきた根源的な課題である。道徳的優位にあるからこそ、自らが行使する暴力に対して敏感でなければならない。それを怠ったとき、「かつての被害者」が「新たな加害者」となり、記憶が倫理から逸脱する危険がある。ゆえにナチズム批判は、他者を裁くための道具ではなく、自らの倫理的盲点を問い続けるための鏡であり続けるべきなのだ。
ハイデガー的視点からの補助線
マルティン・ハイデガーは、ナチズムとの関わりゆえに多くの批判を受けながらも、20世紀最大の存在論的思想家の一人とされる。彼の哲学の中心には、「存在の問い」がある。すなわち、我々が日常的に使う「存在」という言葉をあらためて問い直し、あらゆる事象や人間の在り方を「存在するとはどういうことか?」という原点に立ち返って見つめ直す試みである。彼にとって、近代の危機とは、まさにこの「存在の忘却」=存在の意味が忘れ去られ、すべてのものが「計算可能な資源」「管理対象」としてのみ捉えられてしまうことにあった。
この視点から見ると、ハイデガーの思想は、ナチズム批判を超えて、現代の政治的・軍事的暴力に対する深い警鐘ともなりうる。たとえば、現在ガザで行われているような大規模な空爆や包囲政策において、市民の命が「統計的リスク」や「敵性要素」としてのみ処理されているとしたら、それはまさにハイデガーの批判した「技術的暴力」の最たるものである。爆撃対象は、もはや「顔を持った他者」ではなく、「戦略的コスト」「軍事的達成度」の数値に変換されている。
ハイデガーが警告したのは、技術の進展そのものではなく、それが人間の思考や倫理の基準までも技術的合理性に従わせてしまう構造である。つまり、「この方法が効率的だ」「この行動が国家目標に資する」という理由が、そのまま「正しさ」と見なされてしまうような思考停止のことである。ガザの現状は、まさにこの技術的合理性が「他者の生」に関する判断をも支配してしまっている例であり、ハイデガー的に言えば、それは人間存在の深い危機である。
さらに彼は、「現代の人間は、もはや自らの存在の意味を問わなくなった」と語った。これは、我々が他者の苦しみや死に対して、数値や映像で把握しながらも、それを「経験」することなく通り過ぎてしまう現代人の姿に重なる。スクリーン越しの暴力は匿名化され、我々の倫理的感受性は鈍麻していく。その中で、暴力は見えなくなり、問いもまた失われていく。
こうした状況において、ハイデガーの哲学は、過去の政治的過ちを検証するためだけでなく、いまこの瞬間に加担しつつある構造的暴力を問うための、鋭い存在論的補助線となりうるのである。
ヘーゲルとナチス
ついでと言っては何だが、ヘーゲルの思想とナチスについても触れておく。ナチス・ドイツが目指した国家像に、「ヘーゲル的なもの」が反映されていたのか――これは20世紀思想史における根深い問いである。結論から言えば、ナチスが目指した国家は、厳密な意味でのヘーゲル国家ではない。だが、ヘーゲルの哲学から恣意的に抽出された「国家至上主義」や「歴史の目的論的構造」は、ナチズムを正当化する装置として用いられた節がある。
ヘーゲルは『法の哲学』で、国家を「倫理の完成された形態」として位置づけた。この国家は、個人の自由を保障しつつ、自由の実現を制度として体現する「理性的な共同体」である。しかしナチスが構想した国家は、自由の保障とは真逆の、民族と国家を絶対視し、個人をその手段に貶める全体主義体制だった。
それでも、ナチズムの中には、「歴史の目的に向かって国家が前進する」というような、ヘーゲルの歴史哲学の変奏があった。とくに、国家の意志を歴史の必然として描くレトリックや、「個人より全体が上位にある」という構造は、ヘーゲルの一部を粗雑に引用することで構築された。
もっとも重要なのは、ヘーゲル自身が、国家を絶対化する危険を認識していたことである。彼にとって国家とは、理性と自由の具体化であり、決して権力そのものを正当化するものではなかった。だがナチスはこの点を意図的に捨象し、国家や民族の名のもとにすべてを統合しようとした。
要するに、ナチスが構想した国家は、ヘーゲル哲学の正統な継承ではなく、むしろその悪しき模倣であり、国家と歴史に関する哲学的伝統の「暴力的盗用」であったと言えるだろう。
ナチズムによる国家至上主義の暴走のあと、ヨーロッパ思想界は「ヘーゲル的なもの」の解釈と再定位に迫られることとなった。なぜなら、ナチズムを正当化する文脈の中に、国家や歴史の必然性といった、ヘーゲル哲学の要素が都合よく摘出されていたからである。この流れの中で、複数の思想家たちが、ヘーゲルとその「近代的主体性」の問題をめぐって、まったく異なる態度を取るようになった。
まずマルティン・ハイデガーは、ヘーゲル的弁証法=「自己意識の完成」や「歴史の総体性」を、存在論的な忘却の最たるものと見なした。彼にとって、近代哲学(とりわけヘーゲル)は「存在の問い」を「主体の思考」に還元してしまった誤謬の典型であり、ナチズムのように「技術と国家が一体化する世界」を根底で支える思想の系譜と位置付けた。その上で、ハイデガーは国家ではなく、詩や言葉を通じた「思索的生」の回復を志向した。
一方、アレクサンドル・コジェーヴは、ヘーゲルをソビエト共産主義やフランス革命の完成形として読む、非常に挑発的な解釈を展開した。彼の『ヘーゲル読解講義』は、精神の自己完成=「歴史の終わり」というテーゼを打ち出し、個人の自由と国家的秩序が最終的に調和する地点を想定した。その思想は後にフランシス・フクヤマにも影響を与え、「リベラル・デモクラシーこそが歴史の最終形態」とする構図の理論的支柱となった。
だが、戦後のカール・シュミットのような思想家は、このような「国家=理性の完成形」とするヘーゲル的図式に反発しつつ、それを逆手にとって「例外状態(非常事態)」の思想を構築した。シュミットにとって重要なのは、誰が主権を握るかではなく、「誰が例外を決定するのか」であり、形式的な憲法秩序よりも、敵と味方を区別する「決断」の政治を重視した。この決断主義的リアリズムは、ナチズムへの一部協力という黒歴史を持ちながらも、20世紀末のポスト政治理論に影響を及ぼしていく。
やがて戦後思想は、ヘーゲルの「全体性の哲学」に対して反抗的な立場をとるようになる。構造主義やポスト構造主義の思想家たちは、ヘーゲル哲学に代表される「歴史の必然性」や「全体性の思想」に対し、強い疑念を抱いた。レヴィ=ストロースは、人間社会や文化を「普遍的な構造」によって読み解こうとしたが、その構造は決して歴史の直線的進歩や精神の完成を意味するものではない。むしろ神話や親族制度の背後にある「無意識的な構造」に注目し、歴史よりも構造の反復に重きを置いた。
ミシェル・フーコーは、近代の「理性」や「主体」といった概念が、実は権力の装置として機能してきたことを暴いた。彼にとって、歴史は進歩や真理の実現の場ではなく、「知」と「権力」の関係によって編まれたディスコースの変遷である。狂気、監獄、セクシュアリティといった主題を通して、フーコーは「全体的真理」への懐疑を突きつけた。
ジャック・デリダは、「意味」の安定性そのものを問い直し、「脱構築(ディコンストラクション)」の手法で哲学的伝統の内部にひそむ矛盾を暴き出した。彼の思想では、テキストには常に「差延(ディフェランス)」が働き、決して最終的な意味や統一には到達しない。この姿勢は、ヘーゲル的な「絶対精神」や「弁証法的完成」といった構想とは真逆の立場にある。
このように、構造主義・ポスト構造主義は、20世紀後半の思想において「歴史の目的化」への根本的な異議申し立てとなったのである。
「ヘーゲル的なもの」は20世紀を通じて、正統な継承・批判的誤読・意図的な捨象・そして構造的な反発といった形で、思想的に大きく揺れ動いていく。その過程は、ナチズムの暴走と、それを可能にした知の構造をめぐる、ヨーロッパ思想界全体の自己省察の軌跡でもある。
閑話休題。
ナチズム批判の変容とは何か?
ナチズム批判は、かつては明確に特定の政体――1933年から1945年のドイツ第三帝国――を糾弾する営みだった。それはヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党による全体主義、ユダヤ人を中心とした少数派に対する迫害、思想と言論の弾圧、人間を技術的合理性のもとに大量に殺害する政治機構への反省であり、その過ちを二度と繰り返さぬよう記憶するという倫理的責任に基づいていた。
だが21世紀に入り、ナチズム批判は次第に、単なる歴史的非難にとどまらず、「あらゆる形の脱人間化」に抗う倫理的態度へと変容すべきものとして再定義されつつある。ナチスが行ったことの本質は、特定の民族や人種を「人間として見ない」という点にあった。つまり、暴力の核心にあるのは、他者の顔を見ない態度、「人間性の無視」である。それが人種差別、植民地主義、占領政策、または現代の空爆戦略にまで引き継がれているとするならば、ナチズム批判とは、そのような構造的暴力のすべてに対して向けられるべきなのである。
この視点から見ると、たとえばガザにおける軍事行動を「それはナチズムとは違う」として免責する言説は、むしろナチズム批判を空洞化させることになる。加害主体が誰であれ、「顔の見えない他者を、管理対象や敵性分子として扱う」構造が再現されているならば、そこには共通の問題構造があるのだ。その構造を見抜き、批判し、倫理的に拒否することこそが、記憶されたナチズム批判を現在へと活かすということではないか。
ナチズムを過去の“特殊な事件”に閉じ込めてしまうのではなく、その背後にあった「思考停止」「脱人間化の論理」「技術と暴力の結託」を抽出し、今なお繰り返される人間性の否定と闘うためのレンズとすること。ナチズム批判の真価はそこにある。
存在と鋼鉄1:ニーチェ、ハイデガー、ナチス、ポルシェの交錯点
交錯
20世紀は、「思想が現実に裏切られた世紀」でいえるのではなかろうか。そこには哲学者の夢想があり、政治の暴力があり、そして工業技術という冷たい手があった。ニーチェとハイデガーという二人の哲学者は、世界の根底にある「問い」を抱えながらも、その言葉が歴史の渦に呑み込まれる瞬間に立ち会った。そこに、ナチス・ドイツという権力構造、フェルディナンド・ポルシェという技術者の姿が絡みつく。
ニーチェが「神の死」を宣告したとき、彼は人間が自ら価値を創造しなければならないという、厳しい自由の荒野を指し示した。それはあくまで個人の心象風景の話であったと敢えて言おう。しかしその思想は、ハイデガーの言葉を借りれば、「忘却の忘却」へと堕ちた。ナチスはその「超人」を国家の理想像にすり替え、個人の内的格闘を集団の選民思想へと変質させた。ニーチェの遺言は、おそらくは恣意的に誤読されることで、暴力の理論にすり替わった。
ハイデガーはこの誤読を知っていた。彼自身もまた、1933年、フライブルク大学総長としてナチスに加担した。だが彼は、すぐにその「技術の支配」がもたらす本質的な危機に気づく。ハイデガーにとって、最大の敵は「技術化された世界」だった。彼が『技術への問い』で語るように、現代技術とは「存在そのものが資源(ベストアンド)として見られる世界」の到来である。
その象徴が、ポルシェの技術であった。国民車ビートルは、「人民の幸福」の形をした国家の意志だった。戦車や軍用車両は、「存在の開け」としての人間を部品へと還元する暴力の装置だった。ポルシェは政治家でも哲学者でもない。ただ、誠実な技術者だった。しかし、ハイデガー的視座から見れば、その「誠実さ」こそが危うい。技術が目的を問わずに発展するとき、人間は手段として扱われる。
ハイデガーは「存在の忘却」を叫んだ。人間が「もの」や「機械」や「制度」に溶けていく時代において、「私は誰か」「なぜここに在るのか」という問いそのものが失われていく。ナチスとは、そうした問いの完全な麻痺状態だった。そこでは、個人の実存は国家の論理に吸収され、技術は「問いを持たない完成物」としてのみ賞賛された。
ポルシェの車は、よく走った。よく殺した。それは、「良き生」のために走ったわけではない。ニーチェの「生の肯定」は失われ、ハイデガーの「在ることへの驚き」は踏みにじられた。
この四者の交錯は、一つの問いを突きつける:・思想は技術とどう共存できるのか。
・意志はどこまで他者を傷つけずに成し得るのか。
そして、我々は「在る」ということを、本当に理解しているのか。
2025年5月1日木曜日
2025年4月19日土曜日
8783 伊東四朗 _2
2025年4月18日金曜日
8782 Wayne Gardner _25
2025年4月17日木曜日
8781 紺野ミク _4
紺野ミク氏を絵にするのは8年ぶりだ。8年前、まとめて3枚。オールヌードだった。アダルトビデオまで突き詰めた人ではない、幾分ソフトなイメージビデオとグラビアが主戦場の人。2輪4輪のウェブメディア「Lawrence」でお見受けしたが、その後、あの人は今、なんてことを言う間もなく、instagramが今の主な活躍の場なのかな? 違ってたらごめんなさい。現在のところ、個人勢の撮影モデルのようだ。どこか事務所に所属している感じはない。
美人なんだけど、流行りの顔じゃないから苦しいのかな? またはどこかに所属していたら自分の売り方とか決められない不自由を避けたのかもしれない。8年、息が長いというべきなのかどうなのか。
しかし思うのだ。おそらく若い時よりも見せ方を研究しているということもあるのかもしれないが、今の方が魅力的であると思う。太らず、さりとて腹筋バキバキではない軟らかそうな体の輪郭、撮影に耐えられるだけ体形や肌のコンディションをキープされているのだから、この仕事って、ストイックじゃないとできない、氏はとてもきっちりした人である可能性が高い。
若い時には、「そういう目的」で、写真やイメージビデオでお世話になったりするのだが、この年になってしまうと、そういうことを踏まえつつも、魅力を感じるならば絵にしたい、その為に拝見している感じ。無駄に歳を取ってしまうと、写真では「そういう目的」には物足りなくなるか、その辺のところ切実ではなくなってしまうか、なんだが、オレなんぞ、(いずれ)絵にするという名目で彼女の写真を「保存する」などして利用している。「そういう目的」に使うというよりは、なんて言うか恥ずかしい、場合によっては苦い、黒歴史的思い出の方が多いけれど、でも、結構切実に近い感じでそれらを必要としていた若い頃を、なぜか忘れたくない、と思っているようだ、我ながら。
それにしても、こういう人たち、instagramなどネットで割とよく見るのだが、こうしてカメラの前で肌を晒した後、服を着て、撮影スタッフらに「おつかれさまでした~」なんて挨拶をして、現場を離れ、美人であってもテレビなんかに露出している人ほどには、一般の人には認知度は高くなく、だから、タクシーを使うのかもしれないが、電車で自分の住処に戻るために電車に乗り、駅のホームを出て、周りは「お、美人だなぁ」とは思っても、目で追うのも一瞬で、家の鍵を開け、明かりをつけ、大事な商売道具だから、自分の体形や肌のメンテナンスは優先するんだけど、なんて、言う日常で、彼女の傍で、どうか、彼女を支えてくれる人がいますように、と、そういうことをつい想像した時に限り思ったりはする。
2025年4月15日火曜日
8780 Freddie Spencer _57
2025年4月14日月曜日
8779 Galant coupe FTO
2025年4月13日日曜日
8778 NSR500 1985 _2
2025年4月12日土曜日
8777 SC82 SP _2
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1984年の事
1984年、それまで3気筒だったものが4気筒になって、NSにRがついた。NS500の美点を生かしつつもそろそろ多少馬力で負けけてもハンドリングとピックアップの良さでそれまで何とかなっていたが、やはりパワーがないと苦しいだろう、という判断がなされたであろうことは想像に難くない。が、そこはかつてのホンダ、当たり前のことはやらない、というところで、燃料タンクとエキパイの位置を取り替えてみた。ら、大失敗だった。ライダーはエキパイの熱にずっと苛まれることになるし、距離を走るごとに、タンクが通常位置なら上が軽くなる=相対的に重心が下がり安定する、ところを軽くなるのが下部=重心が上がって不安定さが増す、ということなんだろう。これが大きくて現に翌年のNSRはオーソドックスな配置になっている。
なんて、ある意味ホンダらしい試行錯誤があった1984年、オレは2輪のレースがこの世にあるのだと知ったなり(こういうのがこの世にあるのならもう少し生きていてもいいなと思ったりしたこともあった)のころで、ホンダ、ヤマハ、スズキの区別はついても、NSとNSRの区別はついていなかった。ファンというほどディープな所にはいっていなかった。
18歳、このあたりでは一番の進学校の受験生、どちらかと言うと底辺で喘いでいてそれどころじゃなかったんだ。18歳の時の思い出なんていっても、特に何も思い出せない。気晴らしに何度か他にほとんど客がいない、今はもう影も形もない映画館で一人で映画を観たりとか、街の真ん中を流れる川にかかる橋の上で夕暮れの空を見上げて途方に暮れた気持ちになった思い出とか、そんなところ。
空の上と言えば、夏休み、だ、その頃、街にある一番高いビルの最上階に無料の自習室があって、そこで勉強、一応勉強していた思い出とかもあるな。名も知らぬ司法浪人のお兄さんが「ヌシ」と陰で呼ばれていてそこにずっといるという。冷房が効いて快適な部屋だったけれど、勉強がはかどっている実感は全くなく、見晴らしのいい窓から、窓ガラスに隔てられた嘘のような夏の空。同じフロアにあるロビーのテレビではロサンゼルスオリンピックをやっている。お前ら勉強しに来たんじゃないのかよ?と同級生でずっとそこでテレビを視ている奴のいたのだが、オレは生まれてこの方、59になるまでオリンピックに、世間話で合わせられるよう、以上の興味はなく、誰だっけ? カール・ルイスだったかベン・ジョンソンだったかは、この頃の人だよね、くらいの思い入れしかない。
そういや、4輪のレース、F1では、オリンピックイヤーに若手で頭角を表す、伸びてトップレーサーの仲間入りを果たすドライバーが出ることが多い、という話を、この何年か後に聞いた気がする。この年のアイルトン・セナとか、バルセロナオリンピックの年のミハエル・シューマッハとか。なんかそれっぽい理由を言ってた気がするが、こじつけだろう。
奇天烈なマシンにフレディ・スペンサーが苦心していたころ、それとはまったくあずかり知らぬ日本の田舎町でオレはさえない日常の中、もがいていた。んで、なんかな、あの時の感じがオレの人生の基本モードになってしまっていることが辛い。