2021年11月20日土曜日

7226 Valentino Rossi 1996

 

7226 Valentino Rossi 1996

Valentino Rossi
Aprilia RS125R 1996

 ヴァレンティーノ・ロッシが引退ということで、GP125での世界選手権デビューが1996年だから、えっと? 25年、四半世紀、彼はあの場にいたことになる。彼の四半世紀自体凄いことなんだが、四半世紀かぁ。空恐ろしくなる、時間の流れの速さには。
 125㏄の最初の一年目のロッシのことは、全く覚えていない、というより、知らなかった。

 まぁ、国元に帰って、ぶっちゃけ都落ちの気分で、しかし、まぁ、いろいろとっ散らかっていたオレには、GPをおちついてみるということができなかった、っていうか、田舎だし、この年の中継、テレビで見ることができたのかどうかわからない。


 今はネットなんてものがあって、Wikipediaなんて便利なものもあって、1996年のランキングぐらいならすぐに検索できる。


 500ccのチャンピオンは、ミック・ドゥーハン。今では息子が4輪のF3に乗る。500㏄の日本人最高位は5位のヤマハに乗る阿部典史。あとは、クリビーレとかカダローラとか。ドゥーハンが強すぎてあとは小粒に見えてしまうメンツ。


 250㏄はマックス・ビアッジ。真木蔵人に似てる。ナオミ・キャンベルとも浮名を流した人。ロッシとは非常に仲が悪かったらしい。でも、ビアッジと仲が良かった人はいない、とも聞く。日本人は5位宇川徹、7位青木宣篤、8位原田哲也。


 125㏄は日本人祭り。1位から青木治親、徳留真紀、眞子智実。ルーキーロッシは9位。


 なんだそうです。全然覚えてない。青木治親が125㏄のチャンプ獲ったこと以外。あ、あと、500cc、阿部典史がヤマハのエースだったけれど、この年のヤマハ、全然走らなくて・・・。うん。全然見てなかった。結果を後で知っただけ。


 うん。余裕なかった。この年の後半からゲーム制作の仕事に携わるようになるが、まぁ、楽しかったけれど、ちょっと人間の生活サイクルではなかったな。その前は、主に個人的心理的理由で、やはり余裕がなかったが、その辺詳述しても、面白いように書くことは、ちょっとできないかな? いや、いろいろこの時思ったことをベースに書くことはできるんだが、エピソード的には全く面白いことがなかった。

 今のこの季節にはもうゲームを作っていて、休憩時間にコンビニで缶コーヒー買って、ガードレールに座ってタバコ何本か灰にしながら夜空見上げてたかもしれない。夜食に牛丼食いに出たりとか。

 まぁ、そんなわけで、この年のGPについて、ロッシについて、何か語れるわけではないのだが、それでも、まぁ、思うところもないわけでもないのである。(続く)


7225 ZX-10R WSBK spec. 2005

 

7225 ZX-10R WSBK spec. 2005

2021年11月14日日曜日

7222 AE86 Levin_6

7222 AE86 Levin_6

 オレの小学校の時は、なんかどこかそこか、鉄筋新築校舎に建て替え中だった。中学、高校の時は安定のおんぼろの木造校舎だったか、そっくり同じ学校に通った妹など、小中高とも建て替え工事中で、卒業してから新校舎が完成した、そういうめぐりあわせを時々ぼやく。大学は、オレは新築一年目の新校地だったが、妹がいった女子大はどうだったかは知らない。まぁ、爆発的に数が増える団塊ジュニアのほんの少し上の世代あるあるである。

 それが今では高度もの数も減って、我が街の中心市街地では、一つ、来年から合併で消える学校がある。少子化にしっかり貢献しちゃったオレとしては、すみません、としか言いようがない。


 そんなわけで、オレが言っていた高校も、それが卒業してしばらくしてから、線路を挟んだところにあった、富山大学の工学部跡に移転した。で、オレが言ってた高校の場所には高岡市美術館ができたんだけど、そうなってしまうちょっと前、オレが高校生のときの御話。っていうほどの事でもないが。


 高校の正門を出たところに、似たようなおんぼろの店が二件並んでいた。「間島商店」と「床鍋商店」、この二つの店の関係ってどんなんだったんだろ? と、当時もちらっと考えたことがあるが、良くは知らない。どちらも、20段ソフトと、何も他に具が入っていない素うどんが売りで、ウチの高校や、すぐ隣の、昔、ウチの高校から別れた、高岡工芸高校、富大工学部の学生、他にも、電車通学のコは、高岡龍谷高校や向陵高校のコも越中中川駅で乗り降りしていた子もいるそうだから、そういう子たちも、要するに小腹すかした若い子がポケットに残っていた小銭で食べられるようなものを出すような店だった。こちらも、間島の方は廃業、床鍋の方はたこ焼き屋になってしまって、true tearsというアニメで、劇中出てきた今川焼屋のモデルになったりしている。

 角が床鍋、その向かって左横が間島。床鍋の横がクルマでは通れないぐらいの道幅の小路で、越中中川駅に続いている。その道を挟んだ、間島の反対隣り、床鍋から見れば左隣の民家の玄関先に、赤黒ツートンのAE86レビンが停まっていたこと、同級生諸兄は覚えているものなのだろうか?


 今では浪人のリスクを避け、出来る子でも東大を目指さず何処かの医大を志望する子が増えちゃって、東大に入る子が減っちゃったらしい母校であるが、まぁ、進学校であることは確かで、それは昔からで、そういうところで、車やバイクの話をするなんていうのははばかられたものだから、学校の前に、当時は新車のレビンが停まっているなんてことも話題になることはなかった。イニシャルDの20年弱ぐらい前の話だから、「ハチロク」なんて言い方も知らない。カローラ・レビン、である。

 小学生の時にはスーパーカーブームの洗礼も受けているし、そういうのに興味が出て売る年代だし、全く素地がなかったわけではないと思うがどうか?


 このレビンと、学校帰り線路わきに止めてある、カワサキZ250FTを見て、2,3秒うっとりするのが高校生の時の日課だった。何しろ田舎だったから、そうバリバリのスポーツカーやらバイクやらお目にかかることはないのだ。


 レビン、っていうかAE86といえば、そういうわけで赤黒ツートン奈のだ。大学のいっこ上の先輩の最初の車がやはり赤黒のこちらは86トレノ。イニDの白黒なんかじゃない。まぁ、個人的な見解だけど。


 そういうものに熱狂して、周りに多少迷惑もかけ、顰蹙も買い、自分自身も痛い目に遭い、優しさというものを知り、どこかで折り合いを付けるという術を身につけ、いいおとっつあんになっていく、社会化っていうのはそうしてしていくものではなかったか?

 今の若い男の子の大多数は、こういうモノには見向きもしないそうな。それ自体はそうなんだろうけど、

 例えばアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックという画家がいた。子供の時の病気で下肢に障がいを負い、鬱屈したものを多大に抱えてしまっていた人であったようだが、どこかで、最古の自動車レース、パリ・ルーアン間レースの目にし、熱狂し、随分救われたのだというくだりを読んだことがある。それこそ上に書いた高岡市美術館のロートレック展の展示物の中で見たのかもしれない。

 いささかリスクはあるが、若い時の鬱屈はそれと同等以上のリスクとなり得ることがある。それの調整弁的な役割を果たしたことは、歴史の上では確かにあったはずだ。


 例えば秋葉原事件の加藤智大被告が、もっと満足行くぐらいFD3Sで走り回れる環境にあったなら、かのような事件は起こさなかったかもしれないように思う。「無敵の人」を量産する社会になってしまったのは、クルマも取り上げられて、鬱屈を晴らすところがなかったから。極端な言い方をすれば、それで、かつては夜の峠道で当事者が死んでいたのが、今や、列車の中や普通の歩道で無関係の人間が死ぬようになった、と。あまり理路生存とはしていないが、そんな風にも感じられる。


7221 Z1300_12

 

7221 Z1300_12

7220 Flat Red retake

 

7220 Flat Red retake

7219 柳川明_12

 

7219 柳川明_12

Akira Yanagawa
ZX-RR prototype 2002