2024年3月17日日曜日

8245 GT40 Mk.II _10

 

8245 GT40 Mk.II _10

 ネトフリに「Ford vs Ferrari」が上がってたので久しぶりに視た。いや、燃えるわ。基本、こういうのが好きなんだわ。他は割とどうでもよくて。

 Mk.IIがルマンを制したのは、オレが生まれた年だ。1966年。今の事を思うと随分と原始的で野蛮なクルマでレースをやっていたものだと思う。燃料の自然流下は当然として、ホイールの組付けの時なんて、電動トルクレンチなんて何それ?って感じで、大ハンマーで殴って閉めたり緩めたりしてたんだからびっくりだ。燃調から何から何まで電子部品なんてものはなく、コンピューターのテレメーターなんてものもない。ただただドライバーの感覚が頼りという。
 2輪も4輪も、70年代から80年代にかけて、ライダーやドライバーが主導してレギュレーションを安全側に大きく変えていった、との事。それだけならまだいいが、メーカーやらスポンサーやら興行者の思惑も絡んで、今や、レーサー達、随分と安全にレースをできるようになったが、彼らが、何か鳥かごか何かの中、ハムスターとかハツカネズミが、一所懸命回し車に乗って回してる様を幻視してしまう事があって、非常に寂しくなってしまう事がある。

 徒にレーサーを危険にさらさないため、と言われてしまえば何の反論もできないが、生身で機械と、その向こうの生死と対峙していたかつてのレーサー達は、そういう物が持つ何とも言いようがない、風格というか凄みを持っていて、素直に男の子として憧れることができた。かつてのように明日がレースだというのに深酒してなんてもっての外で、今の前夜はホテルの部屋でテレビゲームやって適当な時間に寝る、それが自己管理、という感じの今のレーサーのコにはちょっと持ちえないんじゃないだろうか? まぁ、かつてのレーサー達より早く走るスキルは断然あるとは思うが。そう思うと、オレはオールドファンであって、今のレーサーは今のファンに応援してもらえたらいいのではないか、とついつい思ってしまい、若い頃のようにリザルト追っかけなくなって久しい。

 とはいえ、ドラマの「不謹慎にもほどがある!」じゃないけれど、それより時代はずっと前になるけれど、一つ一つ映画の内容を書き出そうとすればするほど、今の時代じゃあり得ない事のオンパレードになってしまい、それは、とりもなおさず、この時代においては妥当性を失ってしまっていることに他ならない。
 ここは、かつての時代を知り、ファンであった自分がラッキーだったのだと、あまり喧伝せず、なるべくひそやかに思っているだけにとどめておくことなのかな、と思う。寂しいと言ってしまえば寂しいことなんだろうが、まぁ、そういう物だ。

 因みに画像は映画の主人公クリスチャン・ベイル演ずるケン・マイルズが駆ったMk.IIとは違うカラーリングである。

2024年3月13日水曜日

2024年3月11日月曜日

8243 高岡 長慶寺 2018年7月

 

8243 高岡 長慶寺 2018年7月

 今年の3.11は何やら殊更東日本大震災で亡くなった方のご遺族の話をネットやらテレビやらで目にする。実際この何年間のそれより多いのだろう。何しろ元旦から能登ででかいのあったわけだし、最近では千葉も何やら不穏だ。意識がどうしてもそういうところに向くところにはもってこいの素材ではあるに違いないが、そう、亡くなった方々にとっては13回忌にもあたる。

 13年早いのか短いのか。しかし、テレビで当時今のオレと同じ年で奥様をなくされた男性が70歳であるとテロップに出ていた。同世代くらいの夫婦の機微というのが自分事ではないので全くの想像でしかないが、そこそこケンカすることもあっても、基本信頼しあいお互い一緒に時間を過ごしていく掛け替えのない相手、であるはずで、そういう伴侶がいない、と。子供がいれば慰めにはなるが代わりにはならない。どこか決定的な欠落を抱え込む、そんな13年間というのはどういうものなのだろう?
 今から13年経てばオレも70になっている。ちょっとゾッとした。

 しかし、13年前である。前にもブログに書いたが、オレはその日は、高岡長慶寺のローソン建築のためのボーリング調査をやっていた。ボーリングの足場の上は絶えずディーゼルエンジンで振動しているし、おまけにこの敷地、すぐ横が片側2車線の国道で、大型車がよく通るわけだが、このあたり軟弱地盤で、それだけで地面がグワングワン揺れるのだ。地震があった時、当地には震度3が伝わったが全然それに気づくことはなかった。直帰すれば手っ取り早いのだが、一旦富山の会社に戻って調査内容を記録しなくてはいけない。会社への道すがらのラジオで、テレビと同時音声、「名取川を津波が遡上しております。畑の上を船が流されています!」などと言ってるではないか。
 名取川? どこ? 女優の名取裕子氏の顔が、別にファンではないけれど思い浮かんだきり。まぁ、日本国内には間違いないらしい。それにしても、畑の上を船が流されていく津波って、相当なもんだぞ?! しばらく聴いているとどうやらそこは仙台近郊らしい。そっちか!

 会社に戻ると社長以下社員一同テレビにかじりついて観ていた。阪神大震災や9.11WTCの事を思い出した。しばらくはテレに等はこれ一色になるのだろう。ひどいことになったものだ、と思っていた。

 一昨年か。仙台に出張に行った時の宿が、津波こそやってこなかったようだが、壊滅的な被害を受け多くの人が亡くなったときく閖上の山側数キロの道沿い、震災後より、仮設住宅や復興作業従事者の宿になっていただろうコンテナハウスをお色直ししてビジネスホテルに改装したところだった。夜、オレは、1人で閖上の方に行ってみようかとも思ったが、そういう度胸を持てなかった。ほんの少し走ればすぐだったんだが。何かに飲まれてしまうような気がしたのだ。津波じゃなくて。宿から見る海の方角は暗くライトもほとんど見られなかった。

 さて13年前オレがボーリング調査したコンビニだが、今の会社の通勤途中にある。朝、トイレを催すとそこで用を足し、缶コーヒーとタバコを買う、まぁ、普通に利用している。
 今年の元旦は、オレんちの事情で、そんなに晴れがましくはない地味な正月ではあったんだが、まぁ、平穏な日常であるはずだった。それを突き破るように地震はきたんだ。13年前も、オレはフツーに仕事していたし、多くの人にとっては何もなければ13年も経てば何をしていたか記憶に無くなってしまうような日常だったはずだ。

 そんな日常という、なんだろ? 幕かな? 何かな? そんな感じのものを突き破ってやってくるものだ、災いというものは。ということは、その幕の向こうにいつも災いは待機しているということになる。

2024年3月9日土曜日

8241 憶えてることって嘘だったんだろうな

 

8241 憶えてることって嘘だったんだろうな

氷見 島尾海岸 2024年3月

8240 プロンプトがうまくいかずプルガサリができてしまった件

 

8240 プロンプトがうまくいかずプルガサリができてしまった件

プロンプトでアンギラス描いてもらおうと思ったが、どうもうまくいかず、北朝鮮映画の怪獣、プルガサリをアップデートしたようなのができてしまった。

8239 Barbara Palvin _4

 


2024年3月8日金曜日

2024年3月3日日曜日

8237 加藤大治郎 _16

 

8237 加藤大治郎 _16

Daijiro Kato
RC211V 2002

8236 750刀

 

8236 750刀

 死を覚悟するなんて、その人間の才覚に関らず、多くの場合、直前に「あぁ、オレはこれで死ぬんだ」と思って、暴れ泣きわめく暇もなく、従って覚悟があるなしに関らず、暴力的かどうかすらよくわからぬまま、全て意味消失するのではないか?
 勿論、病ですでに死期を告知されている場合や、刑罰として予告され与えられる死なんていうものもあるが、この際、それは置く。いや、置いとく必要もないか?

 この際には、意味消失の瞬間を死とするか、肉体の生命活動の停止を死とするか、迷うところだが、残されたものにとっての死は語られることが多いけれど、当事者にとってはどうであるか、考えてみた。

 聖ヒデヨシの死というのは、漫画という創作物の演出として、所謂「フラグが立つ」ような場面はあったにしろ、本人は、対向車が中央車線をはみ出して目の前をふさいだその瞬間まで死を考えたこと無かったろう。目の前をふさがれても「くそったれ!」とは思っても、それが自分の死につながるとは瞬間的に思う暇もなかったに違いない。

 そういや、「綺麗な顔してるだろ。信じられるか? それで死んでるんだぜ。」という感じのセリフがあったように思うが、細かいところは違ってるかもしれない、上杉カズヤの死というのも、そんな感じだったかもしれない。予兆なんてあったとしても誰もわからないような微かなもので。

 いきなり電球が切れて暗闇になるようなものなんだろうが、そもそも、暗闇を知覚しない、そんな感じを想像するが、そうであろうとは思っても、知覚しない、思考しない、しかしそれを知っている、なんてことはないわけで、そうなると、魂があって死後の世界が云々と便宜的にも言いそうになる気持ちには確かになる。死んでしまうということは何もかもなくなってしまう、それを知るという事さえなくなってしまう事だ。

 それがいきなり来る。
 元旦の地震で、家の裏の山が崩れた、揺れで家が倒壊し押しつぶされた、で、亡くなった方々。一瞬の大きな衝撃でそのまま、となった方々、残された方々の無念はともかく、まだラッキーで、足や腰や胸を圧迫され、段々身体が冷えていく、急速な死が近づいてくるの感じながらついに亡くなった方々。
 事故死の中でも、意識がしばらくあったのちの死というのは、どういうものだろう? 痛覚も怖さもすべて気力がなせるもので、痛みを感じることができなくなり、怖さについても同様で、それ位衰弱してから死はやってくるんだろうか?

 死の、まさにすべての意味が失われる、失われた、その瞬間まで刻一刻と変わる精神のフェイズを我々は知らない。何しろ意味が失われる瞬間そのものも想像でいうしかないのだから。知らない、わからないから恐怖する。そこに宗教の意味があるんだろうが、それだって多分に想像で言っていることで、結局検証のしようなど誰もできないことだ。

 「わからないから、今を精いっぱい生きるのだ」などと問題をぶった切ってまとめるような年でもそろそろなく、かといって、実のところどうなのかということを知るすべも持たない。わかるのは、どうであれ、人類史上死ななかった人間はだれ一人としていない、と、ただそれだけだ。

2024年2月27日火曜日

8235 雨晴海岸 2023年11月

 

8235 雨晴海岸 2023年11月

 57歳のこの歳になっても、18の時と同じちぐはぐさを抱えて生きているわけだが、そういう物を抱え込んでいるから、こうやって多分同じ年の奴よりも割と労力をブログなんかに注ぎ込んでいるわけなんだろう。かなりのエントリーをしているというのに、未だ一銭も収益化していない、この時代においてはダメブログなんだが、そういうことが今回のテーマなどではない。
 まぁ、そんなちぐはぐさが、18歳、間もなく19歳になるところの、高校を卒業したばかり、受けた大学にはことごとく振られたオレを、氷見線に乗せて雨晴海岸に連れて行ったわけである。別に何の用があったわけでもない。夏は海水浴場として、この時代はまだ賑わいがあった頃だが、春の浅い時期は誰もいない。快活な青春というやつには、今一掠らなかったオレで、あ~、夏、1人で海に行って、それでもナンパしたわ。一個上の女の子。一回だけその後一緒に映画に行ったな、「魔界転生」かなんか。浮かれた気持ちとどっか焦燥感がごっちゃになってるなんて、大人になった今ならわかるが、それはオレだけのものじゃなかったと思うが、まぁ、19になる直前の3月に戻る。
 何を考えていたかなんて、どうか思い出さそうとしないで欲しい。だって忘れたもん。オレも大したことは考えていなかったように思う。まぁ、他の人と同じくらいには海が好きだったと。
 一緒に歩いてくれる女の子がいなかったオレは一人で海岸線を雨晴から島尾へと歩いたわけだが、何やら知らぬおっちゃんが、じっとオレを見ていた。ちょっと気持ち悪かった。

 そういえば、この頃、都市伝説的にこういうことを聞いたことがあった。カップルが海でいちゃついてると、日本語じゃない言葉をしゃべる男たちに囲まれて麻袋をかぶせられどこかに連れていかれてしまう、なんて、高校生の時に聞いたことがある。

 なんてことはない。都市伝説ではなく、言うまでもなく、北朝鮮の工作員による日本人拉致のことであり、オレが聴いたのは九州宮崎の青島海岸なんて話だったけど、それが露見したのは他でもない、この雨晴海岸で4人の工作員がカップルの拉致に失敗して、それを1978年、地元紙北日本新聞、翌年産経新聞の記者が紙面で書いたからである。

 って、実は今こうやってキーボード打っている、その二日前、つまり一昨日まで、この雨晴海岸での件を知らなかったのだから、オレも相当呑気である。我ながら呆れる。しかし、いくら1978年から1984年、まだ中学生高校生だったとはいえ、ちゃんとこのことを知らなかったというのも不思議な話だが、例えば大体同時期のグリコ・森永事件や少し後オウムの時のように、或いは昨年来のジャニーズ問題のように、大々的には報道されなかった気がする。実際、テレビは1979年当時一切報じなかったし、全国紙も報道したのは産経だけだったそうだ。
 なぜだろう? 当局の「外交的配慮」が働いた、それに報道機関が忖度したのだろうか?

 この時、ちゃんと広くこの問題が認知されなかったのは大きな問題であるように思う。しかし、それを今までちゃんと検証されたという話は聞かない。あるのは、この時頑張った産経の記者による記録だけである。

 で、だ、海辺を歩いていたオレを見ていたおっちゃん。彼はオレが連れていかれないように見守ってくれていたのだろうか? それとも彼はオレを獲物として観察していた工作員だったんだろうか? いずれにしろ、この時は1985年の3月である。北朝鮮による拉致というのは、wikipediaによれば、1991年までおこなわれたとのことだ。


2024年2月26日月曜日

2024年2月25日日曜日

8233 ゴジラゾンビ

8233 ゴジラゾンビ

 ゴジラの名前を出さずにプロンプトでゴジラをAIに描いてもらおうとしたら、なんかゾンビみたいになってしまった。

 

8232 石田ゆり子 _26

 

8232 石田ゆり子 _26

10代の頃の石田氏

8231 VF750F Freddie Spencer tribute

 

8231 VF750F  Freddie Spencer tribute

2024年2月24日土曜日

8230 GSX1100S _34

 

8230 GSX1100S _34

8229 AE92 Corolla FX-GT , 2JZ swapped _2

 

8229 AE92 Corolla FX-GT , 2JZ swapped _2

8228 万代 2024年2月

 

8228 万代 2024年2月

 大学の英語サークルの先輩が撮られた写真よりイラスト化。何気なく程々にざわざわした感じが何となく好きな写真だったので掲載許可をいただいた。

2024年2月23日金曜日

8227 プロンプト_首が三つある巨大な蝙蝠のような羽を持った金色のドラゴン。禍々しく写実的に。

 

8227 プロンプト_首が三つある巨大な蝙蝠のような羽を持った金色のドラゴン。禍々しく写実的に。

AIに名前を出さずにキングギドラを描かせようとしたら、前脚はあるものの、他にやり様がなかった、そのまんまだった。

8226 関野鼻 2000年秋 (retake _2)

 

8226 関野鼻 2000年秋 (retake _2)

 元旦の発災から何日目かはわからないし、もう一度探して観るのも面倒くさいので確認はしないが、空撮ヘリが、金沢から能登の西海岸を北上して撮影した映像が上がっていた。後で聞くには、志賀原発のあたりの所の映像、カットされたとかされてないとか。それも確認していない。その志賀原発からもう少し北上したあたり。
 あぁ、いよいよ、これで関野鼻も再起不能だな。予想はしていたので落胆もないが、寂しい気持ちにはなった。

 日本のどこでもそうかもしれない。いや、首都圏のど真ん中とか大阪のコアなあたりとかに住んでいたら、そういうわけにもいかないかもしれないが、ちょっとした気まぐれ、朝起きた時の思いつきで、休日一日フラっとドライブに行けるコースを持っているのは紛れもなく幸せである。オレは能登の傍に住んでいてラッキーだった。能登半島を海岸線、時計回りも反時計回りも、何度もした。
 地元の人には申し訳ないが、特に名産的食べ物とか店とかなく、ただ素通り。ただひたすら車の運転。ただ、割と頻繁に立ち寄る場所があった。それが関野鼻。

 バブルの時に少し金弾んで整備したのかね?土産物屋が入る建物はそれ位の年代のもの。しかし、例えばそこより能登の奥にある門前町への幹線道路からは外れており、そんなに人も来ない。いつ行っても人はまばらで、店番の、多分近所のおっちゃんおばちゃんもやる気がなさげ。土産物屋とは別に軽食スタンドがあって、そこでいつも何か買おうとは思うのだが、買いたいものがない。仕方なく自動販売機で缶コーヒーを買って、遊歩道を海に向かって降りていく。

 途中、右に曲がる分岐がある。そちらを降りて行った行き止まりには洞窟、というか、くぼみがあり、その奥には弁天様が鎮座ましましていた。由緒なんてわかったものではない。衣まとわぬ、雑な造作の弁天様は、猥雑というか猥褻というか。なんか、気まずい感じですぐに退散した。それでも、いくらか拝観料とられたような気がする。

 元の遊歩道に戻り岬の先端に行く。大パノラマ。異世界というか、世界の果てに来たような気分になれた。それほどこだわっていたわけではないが、能登反時計回りコースでドライブしていたなら、ここに来るのは夕方少し前の時間だ。水平線はかすみ、空が複雑なグラデーションを帯び始める時間である。
 何をするわけではない。何を考えるでもない。ここでタバコ2本か3本を灰にし、缶コーヒーを空にするまで、立ち尽くすのがここに来た時のルーティンだった。

 2007年の地震の時に、土産物屋が入った建物が崩壊した。観光スポットとしての機能を失った。一度、そのあと、立ち入り禁止のロープをくぐって中に入り、ルーティンをこなしたことがあった。弁天様は観に行かなかったけれど。
 管理運営者を募集しているという立て看板が立っていたが、そのままずっと放置されていたようだ。さらにその後もう一度行った時には、アスファルトのつなぎ目から雑草がのびていた。絶賛廃墟化進行中という態だった。

 昨年GoogleMapで何気もなく、関野鼻を見たら、2018年にちょっとだけ手を入れられたみたいだった。

 
 元旦の地震の後の空撮映像、弁天様の洞窟のあたりはごっそり崩れ落ちているようだった。他にも、先端に行く遊歩道も怪しい感じ。おそらくはバブルの時にそれなりに金をかけて整備した周囲の公園然とした感じも失われているようだった。

 何をするわけでもない。何かを強要してくるわけでもない。脱力系スポットという感じが好きだった。もう一度、今回の地震の事がひと段落したら行ってみようと思う。悲しむわけでもない、何を考えるわけでもない。ただ海と崩れた地形を眺めながら、タバコを何本か灰にすることだろう。

8225 Rachel Cook _15

 

8225 Rachel Cook _15

2024年2月18日日曜日

8220 プロンプト_サル顔の陸イグアナのような二足歩行の怪獣

 

8220 プロンプト_サル顔の陸イグアナのような二足歩行の怪獣

 レイ・ハリーハウゼンの「地球へ2千万マイル」に出てくる、金星竜イーマをプロンプトだけで描かせたら、何とかなったという例

8219 雨晴 2015年7月

 

8219 雨晴 2015年7月

8218 穂志もえか

 

8218 穂志もえか

2024年2月17日土曜日

2024年2月10日土曜日

8213 プロンプト_More ferocious than Ray Harryhausen's Cyclops

 

8213 プロンプト_More ferocious than Ray Harryhausen's Cyclops

8212 あの坂の向こうには海が広がる

 

8212 あの坂の向こうには海が広がる

 米島にある中越パルプの工場は子供のころから恐ろしく凶暴な悪臭を周囲にはなっていた。今はこういう時代だ。そういうことは許されない時代なので、工場の外に出てしまえば向かいに普通に食品スーパーがあったりするほど普通だが、一度など前の会社の仕事で工場の構内に入った時など、一番コアなところで仕事をしたせいもあるが、かの臭いは健在で、工場で働く人の中でリアルに鼻が曲がってる人を何人か見かけて、ひぇ~! とか思った。

 昭和40年代、50年代、高岡市内の子が親に氷見や雨晴に、夏、海水浴に連れて行ってもらう時は、まぁ、今とは違う旧道の国道160号線で国泰寺に行くように途中で曲がって、何かきちんと認定をとった「日本モーターツーリストホテル協会(?)」の看板を掲げているけど、ぶっちゃけモーテルの前を通って、というルートもあるにはあったが、伏木の国分浜を横目に、この前投稿した廃墟の前の道を通って、というルートを使うことが多く、で、上記、中越パルプの前を通る時は、当時の父のクルマ、510ブルにはカーエアコンはついていなかったけど、窓を閉め切って、何分かサウナの気分を味遭わなければならなかった。熱中症の危険があったわけだ、今思うと。

 で橋を渡り、左に曲がる。

 10間道路なんて、昔はそれは当時なりの高規格道路として敷設されたのだろう。今となっては片側1車線幅18mの道なんて、普通の田舎の道なんだけど。
 ただ不思議な道だと子供心に思っていた。坂を上って下ってを何度か繰り返す。谷筋の川に沿っての道というのはいかにも普通で意識しないが、この道はいくつかの谷筋と低いなりにも段丘地形の尾根筋を串をぶっ刺したように横断する。登って下ってが何となく楽しかった。

 昔、空荷の当時としての大型トラックが、此処から港を目指す。荷を積んでいないのだから揺れたってかまわない。伏木港で原料を積んだトラックは今度は一本東側の平坦な道を走って市内の、日本曹達や前述中越パルプなどの工場にその原料を搬入する。出荷はこの逆回りで伏木駅前を通る平坦な道で港にもっていき、軽くなったトラックがこの道を使って高岡の町に戻る、そういうことを意図してこの道は作られたのだと小学校の先生に教わった記憶がある。

 なにはともあれだ。最後の坂を上り切った時に前に広がる海がオレは好きだった。

8211 Miranda Kerr _6

 

8211 Miranda Kerr _6

2024年2月4日日曜日

8206 プロンプト_マクドナルドのキャラクターだったロナルド又はドナルドと、ITのペニーワイズの格闘シーン。背景は破壊された街並み


 

8025 プロンプト_西洋風にアレンジされた烏天狗の怪獣

 

8205 プロンプト_西洋風にアレンジされた烏天狗の怪獣

「大怪獣ガッパ」のアップデートを狙ったのだが・・・

8204 高岡 伏木国分 廃墟 2023年11月

 

8204 高岡 伏木国分 廃墟 2023年11月


 伏木から氷見に向かっていく道、伏木国分から雨晴に抜ける、今ではトンネルが通っていて皆そこを通るが、オレが子供の頃はトンネルなんてなく、海沿いの道を通っていた。ほんの少しだけ遠回りだ。今通ってみたら道幅も狭い。

 入り口にちょっとだけ値の張る銭湯があるが、他に何があるわけでもない短い区間だが、子供のころから崖に持たれかかるような廃墟が一つだけある。別にこの前の地震で廃墟になったわけではない。子供のころからある廃墟は、記憶が確かではないが一度綺麗に直されたか建て替えられたかして、人が住んでるんだか宿泊施設を営業しているんだかそういう気配があった時期もあったが、脱力するように今ではやはり廃墟なのであった。

 廃墟と言ってもおどろおどろしい感じは薄い。少し山の方にもう一つ元病院というシャレにならない廃墟もあったのだが、そこは今や建物は解体され草に覆われてしまい近づくことができない。こちらの廃墟はそんなことなく、只々無様なさまを晒している。

 昔、企画もののアダルトビデオで全国を旅して土地の女のコにお願いして、っていうかナンパして、というのがあったのだが、その当地編、この廃墟で撮影してたんじゃないかと思う。海見える廃墟だったし。安く見られたものだなぁ、富山女子! と、なんかさみしい気持ちになった。

 昨年の11月の状況。確認に行ったわけではないので分からないが、地震で倒壊の恐れがあるからと、建物前の海の道、ひょっとしたら通行止めになっているかもしれないが、それで困る人は多分いない。



The road from Fushiki to Himi runs from Fushiki Kokubu to Amaharashi.Nowadays, there is a tunnel that everyone passes through, but when I was a child, there were no tunnels and we went along the road along the coast. It's just a little detour. When I passed by now, the road was narrow.

There is a slightly expensive public bath at the entrance, but it's a short section with nothing else going on, but there is one ruin that looks like it's leaning against a cliff from my childhood. It's not like it was ruined by the recent earthquake. I don't remember the ruins that have existed since I was a child, but there was a time when they had been cleaned up or rebuilt, and there were signs that people were living there or that they were operating lodging facilities. It was now in ruins, as if it were debilitating.

Even though it's called a ruin, it doesn't seem scary at all. A little further up the mountain, there was another terrifying ruin, a former hospital, but the building had now been demolished and it was covered in grass, making it impossible to approach. The ruins here are nothing like that, just exposing themselves in a state of disrepair.

About 20 years ago, there was an adult video project in which he traveled all over the country and asked local girls, or rather, picked them up, and I think the local version was filmed in this ruin. . It was a ruin with a view of the sea. That was cheap, Toyama girls! I felt an unbearable feeling.

The situation in November of last year. I didn't go to check, so I don't know, but the beach road in front of the building may have been closed due to the risk of it collapsing in an earthquake, but I don't think anyone would be bothered by that.


8203 woman _1044

 

8203 woman _1044

8202 GXPA16

 

8202 GXPA16

GXPA16
Elfyn Evans & Scott Martin
Monte-Carlo 2024


2024年2月3日土曜日

8201 Freddie Spencer_50

 

8201 Freddie Spencer_50

Freddie Spencer
NS500
Jarama  1983


NT0044 赤いカタナと自殺した少年の事

  前にも書いた覚えがあるな。でもいいや、どこにその文章があるかもうわかんないし。


 もう10年以上前になると思うが、オレが出た高校の、まぁ言ってみれば後輩にあたる、その当時の現役の高校生の男のコ。彼の小さいころからの夢が大工になることだったそうで、でも、なまじ学校の成績が良かったものだから、このあたりでは有数のオレが出た進学校に入らされた、らしい。しかし、自分の理想とその時の状況の乖離に耐えられなくなったのだろうか? 美術教室で首を吊ったんだそうだ。まぁ、あくまで噂でしか知らないんだが。


 歳にしたら自分の息子と言っていいくらい離れているコだったそうで、痛ましいことだった。まぁ、自分の思ったように生きられないのが辛い、なんてことはいつの時代であっても変わらない。生きてるだけで儲けもん、って明石家さんま氏が言ってたことで有名だけど、あのポジションの人にそう言われたって説得力ないよな。


 かの高校に通ってはみたものの、成績が思わしくなく、尚の事自己肯定感が落下するのを深刻に感じることも、ひょっとしたらあったのかもしれない。


 ふと、オレが高校生の時の一コマ、1枚のスナップ写真のように思い出した。駅前の、今は向かいに移っていったコンビニの居ぬきの店舗に代わりに入った海鮮居酒屋のあたり、しばらくの期間、歩道に赤のカタナが止まっていたんだ。物々しい馬力を湛えているというのに、そんなの関係ねぇ、とばかりに眠りをむさぼるようにそこに止まっている様が、何とも面白かった。道行く人の何人が、コイツのヤバさ知ってるんだろ? そう思うと尚の事痛快で面白かった。


 一応このあたりでは随一の進学校であったこともあり、当然その時は単車に乗ってもいなかったし、まだバイク雑誌を買うなんてこともしていなかった。


 オレはと言えば、オレの高校時代はと言えば、まぁ、暗い時代だったわね。やったことよりやられたことの方が強烈に覚えているという法則(?)に従えば、オレの体育の時間用に教室においてある運動靴の中に墨汁がぶちまけられていたり、同じく教室においてある体操服が焼却炉に入れられていたりした。辛いというより、まぁ、これからえらくなる人たちがこんなんで、こういう人たちが仕切るようになるこの社会の未来も、なんか、大したことねぇんだな、と見切った気持ちというか。まぁ、現行犯で抑えたわけじゃないから出来なかったが、次なんかやられたときにはぶん殴ってやろう、くらいには怒りに駆られてた。

 結構、周りから言わせたらオレはそういうキャラではないらしいが、10年に一回ぐらいずつ人殴ってるんですよ。寧ろ、だから、落ち込んでいくというより、変なアドレナリンが出ちゃっていたわけだ、高校の時は。ホント今だから言うけど。でも、ま、やはり辛いってったら辛かったかもな。


 赤のカタナは、オレを慰めるわけでもなく、夥しい熱を湛えながらもそいつはそこで眠りをむさぼっていた、大したことのないこの社会の未来とは別の未来を垣間見るような気分にもなった。


 彼の自殺した少年にはそういう物がなかったのだろうか? オレはカタナに救われた。



I remember writing about it before. But no, I don't know where that sentence is anymore.


I think it was more than 10 years ago, but there was a boy who was a current high school student at the high school I went to, who was actually my junior, to put it bluntly. It seems that his dream since childhood was to become a carpenter, but because he had good grades at his junior high school, he was admitted to one of the best preparatory schools in the area. However, did he become unable to bear the discrepancy between his ideals and the situation at the time? Apparently he hanged himself in an art class. Well, I only know from rumors.


At his age, he was so far away from me that I could almost call him my own son, and it was painful. Well, it doesn't matter what era he is in, it's painful not being able to live the way he wanted. Mr. Sanma Akashiya is famous for saying that you can make money just by being alive, but it's not very convincing when someone in that position says that.


Even though he attended that high school, his grades were not what he expected, and even more so, he may have felt a serious decline in his self-confidence.


Suddenly, I remembered a frame from when I was in high school, like a snapshot. For a while, a red katana was parked on the sidewalk in front of the station, near the seafood izakaya that replaced the convenience store that had moved across the street. Even though it had a tremendous amount of horsepower, it was very interesting to see it just sitting there, as if it didn't matter, as if sleeping. I wonder how many people on the street know how dangerous this guy is? When I thought about it, it was even more exciting and interesting.


It was the best preparatory school in the area, so of course I hadn't even ridden a motorcycle at that time, nor had I bought a motorcycle magazine yet.


Speaking of me, my high school days were, well, dark times. If we follow the rule (?) that we remember more vividly what we did than what we did, ink was sprinkled on my sports shoes in the classroom for my physical education class, Gym uniforms were put into the incinerator. Rather than it being painful, I feel like I've given up on the people who are going to be great from now on, and that the future of this society, which will be run by people like this, isn't that big of a deal. Well, I couldn't have stopped him red-handed, but I was so angry that I thought I'd punch him the next time he tried.

Well, people around me say I'm not that kind of person, but I hit someone about once every 10 years. In fact, rather than feeling depressed, I had a strange adrenaline rush when I was in high school. I'm really saying this now. But, well, if it was painful, it might have been painful.


The red katana didn't comfort me, and I felt like I was getting a glimpse of a future different from the future of this insignificant society where I was sleeping there, filled with tremendous heat. .


Didn't the boy who committed suicide have something like that? I was saved by Katana.

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