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2022年4月10日日曜日

7452 Yamaha YZ350 engine + Aprillia RS250 frame & 元女優にボーリング調査について教える件

 

7452 Yamaha YZ350 engine + Aprillia RS250 frame


 画像と文章、全く関係ありません。

 漫画「少年アシベ」に出てくるキャラクター、王さんの造形は押井守氏にそっくりなんだが、ひょっとしたら、押井氏をモデルにしているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。知らないし。押井守氏と言えば、高校の時「うる星やつら ビューティフルドリーマー」に、現在したい写真家の看板あげてやってる同級生、釣埼清隆君がえらい感化されていたが、押井守氏と言えば何といっても「攻殻機動隊」だろう、と思う。なんというか、個人の内面の淀みを突いてくるような作品が多い印象がある。
 ウチの会社の営業に、押井氏の実写版「パトレイバー」に出演した経験を持つ女のコ、と、オレぐらいの年齢からすればそんな感じだが立派な女性である、がいる。決して彼女の人格を貶めるような深刻な意味ではなく、イジりのネタにされそうな的な意味で、どうやら半ば黒歴史なんだが、一方で、彼女にとっては輝かしい思いでの一コマでもあるらしく、何やら複雑そうだが、まぁ、そんな感じで。
 で、敢えてそんな彼女をここでは元女優と呼ぶ。その元女優から、ボーリング調査について教えて欲しいと。最近彼女の立ち回り先のハウスメーカーからボーリング調査についての問い合わせをちらほら聞くようになって、考えてみれば、彼女自身、ボーリング調査についてよく知らないので、この際、知っておこうというわけだ。

 さて元女優、ってか、弊社、土木工事全般、機材のレンタルの他に、住宅など「地盤改良工事」が営業品目となっているわけであるが、彼女は主に地盤改良の営業をやっている。が、地盤改良と言っても、セメントっぽい何かで地面を固めるのではなく、穴開けて砕石ぎゅぎゅおしこんだり、足場単管のような鋼管を杭のように使う工法を、彼女は主にハウスメーカーを回って売り込んでいる。前の会社でオレもその辺とか構造設計士とか回ったことがあったので、設計士は?と尋ねたら、そっちは行っていないそうだ。
 上物つまり建物のデザイン的なことや使い勝手てきなことの専門家であっても、ハウスメーカーの人、地盤についてはほぼ素人で、ボーリングについてよく知らない。彼女も、それを取り繕う場面はあっただろうが、よく知らない。それじゃ不味いだろう、という元女優の問題意識により。しかし、ハウスメーカーの人も元女優も今後地質調査師として現場に出ることは多分ないので、それほど詳しい知識が必要なわけでもない。いくつかの項目についてインデックス的なことを申し上げればよいのかな、と考えているが、そういうものがいればの話、自分の娘ぐらいの年齢の女性に、あんまりチョロいことを言ってバカにされた目で見られるのも辛く、結構プレッシャーだ。

 まず、ボーリング調査の作業、一般的にはどのようなことが行われているか?
 作業風景については、素人と言っても、全くの門外漢というわけでもないだろうから、省略。そこで、多くの場合はコアチューブと呼ばれるΦ66㎜から86㎜、長さは1mの鋼管の先にビットを付けたもので穴をあけていく。鋼管の中に入ってくる、その深さ深さごとの土をコアというが、コアを採ったり採らなかったり。つまりは鋼管に泥水(でいすい)と呼ばれるほとんどの場合水にベンドナイトとかポリマーとか混ぜ込んだものを通しながら、オーダーによって、土質さえ確認できれば流してしまって構わなかったり、土を採取したりしながら掘り進めていく。で、多くの場合1mに1回、これもオーダーによっては50㎝に一回標準貫入試験を行って、地面の硬さを測る。

 標準貫入試験というのが、ボーリング孔を使っていろいろやる試験(原位置試験)の内のもっともポピュラーなもの。STP(standard penetration test) という言い方があって、なんか今風な感じもするし、流行るかな?と思ってたが、案外皆さん保守的なのか、意識高い系みたいなことはせずに、そのまま標準貫入試験と言っているようだ。63.5kgのおもり(モンケンと現場で言っている。これもドライブハンマーと言い換えさせようという動きがあったようだが定着したのかどうか?)をストローク76㎝で、SPTサンプラー又はレイモンド・サンプラーを垂直に打ち付け30㎝打ち抜く回数が、経験的に1㎡が沈まずに耐えられるトン数、所謂N値と呼ばれる数字となる。サウンディングの報告書に書かれている、qa則ち地耐力というものと限りなく同じであるけれど、決定的に違う、という説明も、元女優に対してした方がいいのだろうな。まぁ、皆さん、「換算」という言葉もつけずN値、N値とおっしゃっておられるが、その辺は、いいか。

 標準貫入試験、意識高い系ではないが、キーボード打つのが面倒なので以下SPT、ではそんなわけでN値がわかるが、他に、その間の土を試料として採取してくることもできる。「乱した試料」「乱さない試料」なんて言うのがございまして、普通に、コアチューブをグリグリまわして採ってくる試料は「乱した試料」といいます。ほら、ビットが土をほぐしぃの、かきまぜぇのコアチューブの中に入ってくることは想像できるでしょ? それとは別に、地面の中にあったそのままの状態で採ってくる技術もあるわけです。それで、N値とは違う形で硬さとかを実験室みたいなところに持ち込んで試験したりするんですが、さて、SPTの飼料は、まぁ、コアチューブの試料ほど乱してはいないものの、「乱さない」とも言えないぐらいのもので、とりあえず、それを使って、土、砂の粒の大きさはどのようなものがあるのか、とか、密度とかを測ったりします。前いた会社では、場合によっては、試験が終わって上にサンプラーを上げてすぐ、サンプラーの中がそもそも真鍮製の内管があり、それをすぐにラップで包んで持って帰って含水比を測ったりもした。

 フツーのボーリングにSPTは付き物で、それをまとめて「ボーリング調査」と言っているわけだが、ウチの営業さんとかにもなじみが深い、SWSサウンディングで得られる結果など、比較してどちらが良いのか、という話になるが、何よりもサウンディングでは基本的に土質がはっきりわからないため、換算式から出てきたqaというのは推定でしかない。それだけのことが致命的だったりする。これが砂か粘土かというだけならまだしも、木くずなどのゴミが混じっていたら、地盤にとっては非常に憂慮すべきことなのだが、それは一切サウンディングではわからない。水位もわからない。サウンディング跡の穴に水位計を突っ込んでも、まぁ、たいていは水があるところにはいけない。建築工事中の作業性の話なんてちょっとしたことで、それより、地下水位の変動で、簡単地盤が沈むこともあるし、地震時液状化の危険もある。それも、サウンディングではよくわからない。
 一方で、SPTはピッチが、上記の通り、通常1mごと、最小でも50㎝。で、叩かずとも、モンケン乗せただけで自沈、ということもあるが、その辺小さな数字が拾えない。SWSではそれが可能。今の機械本当よくできています。細かくその辺の数字拾ってくれます。そういうのが必要な時もあるのです。


 というようなところで、ここまで話をすれば5分?10分? 元女優には1時間ほど、ボーリング調査で何ができるか? ボーリング孔を使ってする様々な原位置試験について教えて欲しいということだったので、今、前の会社でやってたこといろいろ思い出しているところ。

2022年3月23日水曜日

7413 片山敬済_44

 

7413 片山敬済_44

Takazumi Katayama
TZ350 spl.
Paul Ricard 1977


 オレは1983年、高校生の時からのGPのファンで、1977年というと、スーパーカーブームからの流れで四輪のF1を田舎の小学生なりに、何か月か遅れでおっかけてた感じだった。
 このころのGPや四輪のF1もそうだ、なんか、今のとは雰囲気が違うように思えてならない。そしてこのころのその雰囲気に何かすごく惹かれるものがあった。それは何かについて時々考えたりする。勿論暇た時だよ、と、言い訳がましく言ってみる。

 1988年、いや、89年か? 四輪のF1で中島悟氏がレギュラードライバーで走っていたけれど、他のホンダエンジンユーザー、マンセル、ピケ、セナだったかな、ピケ、プロスト、セナだったかな? に比べて見劣りするリザルトを重ねているときで、日本国内のファンからは若干の失望の声が聞こえていた時期の事だ。
 雑誌で、片山敬済氏は、それまでレギュラードライバーとしてF1を走った日本人がいない中で、それがどんなにすごいことなのかと中島氏を擁護する文章を読んだことがある。

 GPにしろ四輪のF1にしろ、国内でトップを獲って満を持して世界に挑戦するというのが一つのパターンで、中島氏はそのパターンだったが、一番脂が乗ってる時期を逃すぐらい、待たされた、のだそうだ、いろんな話によると。
 対して片山氏、GPの出走資格を得た1974年、マシンの貸与以外何のサポートもないまま、強引に日本を飛び出しGPの挑戦を始めた、とある。メカニックすらおらず、整備やチューニングも一人でやっていたそうだ。GPを走った日本人はそれ以前もいないわけではなかったが、フルシーズン、ワークスでもないのに走るなんて、そんなロールモデルはそれまでなかった中での話。
 サーキットの中の話だけではない。EUができたのが1993年、それ以前はECなんてあったけど、国をまたぐ移動は通関手続きとかなんとか、面倒ごと、すべて一人でやって、なんて、ちょっと現在では考えられないことをやっている。
 よくは知らないで書くが、今のコ達、サーキットに行って、マシンは用意されていて、それに乗って、その日のタスクが終われば、ホテルに戻って、特にコロナのこのご時世、部屋にこもってゲームやってるようなイメージがある。もし本当にそうなら走ることに集中する、という意味では非常に合理的ではあるが、今から40年前のGPではそうだった、それができたのは、一重に熱、走る意志、戦う意志が強かったからなんだろう。
 
 1980年代後半の中島悟氏はその点ではまだ恵まれていたんだろうが、一番肝心なシーズン通して客地で一人モチベーションを維持していくというのは、確かに大変なことだったのだろう。

 だろうだろう、で、文章進めちゃってるが、田舎の元小学生、今おっさんは、こういうことは、ちょっと聞いただけの事を想像力で膨らませるしかない。

 ITと言えばいいのかどうかわからないが、四輪のF1など、マシン、夜は一か所に集められ管理されているそうな。夜間の整備は禁止ってな。MotoGPでも多分同じシステムなんだろう。
 いろんな記述で見るが、かつてのGP、昼間のプラクティスでこけた修復を徹夜で行うことも、いつも一つ前を走ってるライダーを食うために一工夫チューニングを施すことも、ライダーが納得いくチューニングするなんてことも、夜、パドックでは普通にあったことなんだろう。そのすぐ横には、金持ちのチームは立派なモーターホーム。それほど金持ちでは無ければ中古のキャンピングカー、爪に火を点すようなチームならおんぼろのワンボックスカーが並び、ライダーもそこで明日に備えて寝てりゃいいのに、マシンが気になって、いや、切実に整備の手が足りなくて、のこのこ寝床を這い出してマシンをいじってたりして。
 時にはチューニングの方針についてメカニックと激しい口論もあっただろう。

 夜というのに、それこそサーカスのバックヤードのような静かな喧噪が普通にあった、と想像する。

 田舎の子供はそういう熱にあこがれていたんだと思う。


2021年12月31日金曜日

7279 Wayne Rainey_7

 

7279 Wayne Rainey_7

Wayne Rainey
OWA8
Bugatti Circuit 1989

「男はつらいよ」に関し 3

 満男の愛車として劇中登場したのは、スパーダとGPz400Rの2台では、このウェイン・レイニーのYZRは何かというと、第46作目、「寅次郎の縁談」中、就職活動中、なかなか内定が取れなくてヤサグレてた満男の部屋に貼ってあったのが、ラッキーストライクカラーのYZRに乗って、この画像はコーナーの立ち上がりだが、右コーナーのコーナーアペックス付近、今のコみたいに肘擦りこそしていないものの、フルバンクの姿勢のウェイン・レイニーのポスターだった、というわけだ。
 単に、無造作な舞台背景ではなく、満男のある面へのキャラ付けの意味合いがあることが決定的なんだと思った。
 白時に黒のヘルメットでラッキーストライクというと1989年のことだが、この映画の撮影は早くても1991年、公開が1992年なのだから、こういう映画の性格上公開に割と近い時期まで撮影していた可能性もある。
 無造作に選ぶとすれば、GPでもドゥーハンとか、同じレイニーでもマルボロカラーであるとか、シュワンツでもいい。いや、GPにこだわらなくても、セナ様のポスターの方が調達しやすかったのではないか? わざわざ、でなければ、貼ってあったのが89年のレイニーであることはないようにも思う。あと「HRC」とか「TERRA」っていうステッカーも貼ってあったりする。

 あ、でも、89年頃撮影した時のセットがそのまま残ってるという可能性もあるな、確認はしていないけれど。どうでもいいか。


 2019年の「おかえり寅さん」、あ、ネタバレ注意、なんて、今の今までよりによってこのオレが書くとは思っていなかった言葉を書いてみる。まぁ、大したことは書かないんだけど。満男クンはオレよりはほんの少しだけ若いんだけど、シリーズを通じて、善人たちが幸せ等なのが辛い、というのとは別に、オレと同じ種類のバカで観ているのが辛かったりする。だから、誰もいない、娘も視ていないところで伯父さん思い出してめそめそするの、オレもおなじことやっちゃったりするんだろうか? と思ったりもするが、同じ音のミツオがいっているとおり、「いいじゃない、人間だもの」なのかもしれず。

 山田洋次氏ではなく、庵野秀明氏を連れてきて「シン・男はつらいよ」でも作らない限り、いよいよ、シリーズこれが最後なんだろう。山田洋次氏の作風でこれから映画を作るのも難しいし、敢えて作風を変えてまでそれをすることを、ファンが許さないかもしれない。
 底に流れる精神はそのままに、それでも、「男はつらいよ」のリメイクなり続編なりを作っていくとしたらどうなるだろうと、妄想してみた。

 まず、満男クン、単車乗りに復帰しろ、と。娘の高校受験もあるだろうが、次作がおそらく露天商、即ちテキ屋に関することらしいので、つまりは伯父寅次郎氏がモデルなのは明白で、となれば寅さんがした通り、日本中を放浪するように旅しながらノマド小説家となるしかない。まぁ、次作の時には娘の高校受験もひと段落してそうだが、しかしむすめをひとりにするわけにもいかず、というところで、池脇千鶴氏が演ずるところの担当編集者が名乗りを上げて、住み込みで娘の世話をするようになる。「おかえり寅さん」劇中、ほのかに、満男クンとの仲が進展するかもしれない、という描写があるのだが、
「君の事は信頼しているし、君もボクの事をよく理解してくれてると思ってる。ある意味きみがいるから、小説家としてやっていけるんだけど、でも、だからと言って、結婚とは結び付かないんだ。結婚って何だろう?」
的な若い子が言いそうなセリフを、50を過ぎても満男クンは平気で言いそうではある。まぁ、かの編集氏、さくらおばあちゃん、博おじいちゃんをはじめ周りの人には、そのように認知されていく中で、
 満男クンの日本準で体験したエピソードが映画として綴られていくわけである。寅さんがそうであったように、ちょくちょく葛飾柴又には帰ってきたりするんだけど。あと、寅さんのような艶話とはちょっと違うエピソードな。
 さあ、富山県、そうなったら積極的にロケ、誘致し給え。


 「う~ん、なんて言うかな、ほら、”ああ、生まれてきてよかったな”って思うことが、何遍かあるじゃない、ね? そのために人間生きてんじゃないのか?」

 どのエピソードで寅さんが満男クンに言ったセリフか、ちょっとわからないが、回想として「おかえり寅さん」に出てくる場面である。オレなんかね、生きる意味に結構拘泥しすぎてしくじったと思ったりしているクチだが、若い奴にそんなこと質問されたら、オレならどう答えるだろう? 

2021年10月9日土曜日

7130 Freddie Spencer_47  フレディ・スペンサーとアイルトン・セナ

 

7130 Freddie Spencer_47

Freddie Spencer
0WA8 1989

 フレディ・スペンサーとアイルトン・セナは時折並べて書かれることがあった。信仰の事で、モハメド・アリやカール・ルイスなんかも一緒に言及されていたこともあったし、二輪と四輪の違いはあれど、キャリアのピークにいるときホンダに乗っていて、しかもめちゃくちゃ速く走りが鮮烈だったから。

 しかし、フレディ・スペンサーは、まだ若くその後も彼の時代は続くと目されていながら、500㏄と250㏄の2クラスのチャンピオンとなった’85年の翌年、急激にしぼんでしまった。なんでも、オフシーズン、次の課題を克服するべく、筋トレを励みすぎて、筋肉が神経を圧迫する障害に襲われてしまう。
 clubhouseで知り合いになった、元柔道少女がまさにそれに罹ってしまったそうで、とにかく競技ができないくらいに強烈に痛いらしい。または、競技が続けられなくなるくらいに。そしてそれは何年も続くものらしい。
 何度もここに期するものを持って、再スタートを切ろうとしたみたいだ。ホンダのエースの座はワイン・ガードナーが持って行った。画像の’89年は、フレディと入れ替わりにホンダで走ったエディ・ローソンがチャンピオンを獲っている。しかし、フレディはそれでもバイクにしがみつくも、かつての走りは取り戻せず、そして柔道少女の言によるならば、ずっと痛みを抱えて走り、GPを離れ、米国内のシリーズを走り、やがて消えていった。

 モータースポーツと言わず、スポーツ全般と信仰だ。最近では、大坂ナオミもそれっぽい発言をしていたと思うが、多分、だ、競技の道を突き進むのが神の意志であり、いろいろな迷いがさいなむことがあっても、神の名のもと、時には強烈な使命感をもってわが身を競技に捧げることもある。
 アイルトン・セナは前日のローランド・ラッツェンバーガーの事故で、自身にその時が来ているのだと予感していたのではないか、という記事を見たことがある。しかし、走るのが神に与えられた彼の使命であるとし、悲壮な面持ちでウィリアムズに乗り込んだのだという。(とはいえ、まさか本当にタンブレロに突っ込むとは思ってはいなかったとは思うが)
 筋肉は裏切らないというが、フレディ・スペンサーは、筋肉に裏切られたのだ。しかし、それでも走ろうとしたのは、それが神の意志と信じていたから、なのかもしれない。

 それは、実はまったく別種の自分との戦いだったのかもしれない。レーサーとしてフェイドアウトしてからの彼の事は知らない。2010年代も半ばを過ぎてから、しかし、彼はファンイベントなんかに顔を見せるようになった。多分は一時はバイクなんて見たくもない心境だったと想像できるが、全盛の時のNSR500を駆り、GPの時は走る事のなかった、マン島のジャンプスポットを飛んだりもして見せた。そして、白髪が混じりかつては細面の甘いハンサム君だった老境に足を突っ込んだ男はファンに囲まれ、柔和な笑顔を浮かべながら写真に納まっていた。

 片や、神を信じピーク近くのところで突然天に召された男と、片やひょっとしたら神は裏切ったのではないかという疑念を抱いてしまうような試練を与えられ、今笑顔を浮かべる男。