外国人参政権というのを、かつての民主党の系統の一部などが時々持ち出しては、その度に右派が過剰に反応して叩きまくる。Xで周期的に視ることがある光景だ。まぁ、確かに、在日、訪日外国人に関する今の制度そのものと運用をきっちりしない現状で、行うべき議論ではないと思う。
それとは別に、個人的な考えとして、その外国人参政権、くれてやってもいいのだが、オレたちにも、影響力が強い諸外国の参政権よこせ、という主張もあっていいと思うのだ。
アメリカ大統領や中国国家主席、ロシア大統領、その他もろもろ、彼らの一挙手一投足が、大いに我々の生活に影響する、この理不尽、非対称性。 まぁ、実現するとしても最低100年はかかるんだろうが、基礎理論位立ててみてもいいのではないか思う。
言い換えれば、「外国人参政権」の議論を、単なる国内の権利問題としてではなく、「対称性(symmetry)」や「相互性(reciprocity)」という観点から捉え返す提案、つまり 「我々にも諸外国の参政権を寄越せ」 というのは、国際政治の構造的不均衡を炙り出す問題提起のつもりでいる。
外国人参政権の議論は、確かに周期的にXで炎上し、ともすれば感情的な対立に陥り、右派の過剰反応も含め、感情的な対立が先行しがちだ。しかし、その背景にある「我々の生活が、我々がコントロールできない外部の力によって大きく左右される」という感覚は、多くの人々が共有するものだと思う。
これは政治哲学・法哲学・主権論の交差点にあるようなテーマになり得ると考えている。
以下、基礎理論を考える上でのポイントを整理してみる。
現状の外国人参政権議論の問題点
日本の文脈では、在日外国人(特に韓国・朝鮮籍)の歴史的背景や、永住者の権利問題が絡む。地方参政権を認めるべきかという議論が中心だが、感情的な反発(「国籍に基づく権利の不可侵性」vs「人権としての参政権」)で停滞している。
特に右派には、最近ではかつてのように標的が在日朝鮮人だけではない。クルド人、フィリピン人、何より中国人へのヘイトが強く、その背景に、当日本人から徴収した税金を不当な形で彼らのために使われているという印象が強い、と言うことがある。これは、日本にいる短期、長期に滞在する外国人についての諸制度の不備が理由にある。現在の在留資格制度や外国人登録の運用が曖昧であるとか、そこから派生し、様々な規則、法律の網を、そう言った外国人は容易にかいくぐることが出来、結果日本人に不利益なことが生じる事例が、結構バカにできないくらいに伝えられる。
そういった現状では、外国人に参政権などというのは、とんでもない、と言う主張にはうなづかざるを得ない。参政権の問題云々がなくても、その辺の規定そのものや運用を見直すべきことではある。
その上で、参政権付与の前提となる「誰が対象か」の定義が不明確であるため、これをクリアにしないと議論が進まない。
右派の反応は、「国家主権の侵害」や「外国人による日本支配」といった極端なシナリオを想定し、議論を封殺する傾向がある。Xでは特にこのパターンが顕著だ。
しかしながら、一応オレはここではより大きい問題を扱うつもりでいる。
まず、何より非対称的な影響力構造を問題にしたい。
国際社会では「他国の政治」が自国の国民生活に甚大な影響を与える一方で、その国に対する政治的関与は皆無だ。
「超大国」による「選挙結果」「政策転換」が経済・軍事・気候変動・通商・為替などあらゆる形で波及する。それなのに、我々、そういったスーパーパワーの蚊帳の外の国の市民には発言権がゼロだ。アメリカの金融政策が日本の株価や為替を動かし、中国の環境政策が日本の大気汚染に影響し、ロシアの地政学的判断が世界のエネルギー価格を左右するという現実があるにもかかわらず、トランプに対してもプーチンに対しても習近平に対しても、我々は何もできないではないか。
ウェストファリア主権体制(1648年以降)は国民国家を基礎とするが、現実にはグローバル化・超国家的経済連携・SNS時代により、主権の内実が拡散・浸食されている。
「主権は国家の内側で完結する」という前提はすでに破綻している。グローバル経済・地政学的構造は既に国境を越えて影響を及ぼしており、「国内にいる者のみが関与できる」という従来モデルは機能不全に陥っている。影響のあるところに権利があるべき、という「機能的主権論」へとシフトするべきじゃないだろうか? 日本人はその意思決定に一切関与できない。それは民主主義の原理(「影響を受けるならば、発言権を持つべき」)との矛盾を孕んではいないだろうか?
そのために「影響力の非対称性」を是正する発想に基づいている。